KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(第3回)新田次郎「錆びたピッケル」、森村誠一「垂直の陥穽」など

 前回からだいぶ間が空いてしまった。馳星周選の『闇冥 - 山岳ミステリ・アンソロジー』に収められた新田次郎の「錆びたピッケル」のヒントになった遭難事故に関する情報がなかなか発見できなかったためだが、ようやくわかった。

 

 

  「錆びたピッケル」(1962)が現在上記ヤマケイ文庫以外の文庫本で読めるかどうかは知らない。またこの小説が『闇冥』の冒頭に置かれた松本清張の「遭難」(1958)に影響されたかどうかもわからない。だが、山で事故を起こさせて登山者を死なせようとした動機や、死亡事故が必ず起きるかどうかわからない「可能性の殺人」である点は清張作品を思わせる。但し、江戸川乱歩が清張作品に先立つ1954年に、

日本では谷崎潤一郎氏が、私の所謂「プロバビリティーの犯罪」に先鞭をつけている。同氏の「途上」という初期の短編がそれだ。

と書いている*1。乱歩は谷崎の「途上」(1920)に触発されて短篇「赤い部屋」(1925)を書いたとのことだから、清張や新田はそれを山岳ミステリーに適用したという位置づけになる。「途上」も「赤い部屋」も「青空文庫」でアクセスできる(下記リンク)。

 

www.aozora.gr.jp

www.aozora.gr.jp

 

 『闇冥』収録作品に戻ると、新田次郎の「錆びたピッケル」は犯人の意外性に特徴があり、私はいわゆる本格推理小説をほとんど読まないから(清張小説はこの範疇には属さない)真犯人に気づかなかったが、本格者の愛読者なら気づいたんだろうなと思う。「錆びたピッケル」の「可能性の殺人」で被害者を死に至らしめるのはピッケルの破損だが、モデルとなった事故があることは作者・新田次郎のエッセイ「“世界一”のピッケル」で作者自身が書いている。このエッセイはやはりヤマケイ文庫から出ている『新田次郎 山の歳時記』(2012)で読める。初出は朝日新聞科学面に1963年から翌年まで連載された「白い野帳」で、1965年に朝日新聞社から単行本化されたが現在はもちろん絶版だ。

 

新田次郎 山の歳時記 (ヤマケイ文庫)
 

 

 以下新田のエッセイから引用する。

 

(前略)二、三年前に溶接ピッケルを持っていたがために、命を落した事件があってかなり騒がれたことがあった。溶接ピッケルなら激しい打撃を受けると、折れる可能性は十分ある。

新田次郎「“世界一”のピッケル」より - 『新田次郎 山の歳時記』ヤマケイ文庫 2012, 37頁)

 

 新田の書く「事件」などネット検索で簡単にみつかるだろうと思ったのだが予想に反してなかなかみつからなかった。ようやく下記の文章を発見した。

 

http://www.nirayama.com/~suwabe/Pickel/Sendai/S6.htm

 

 1960(昭和35)年11月末、東北大学山岳部パーティの一人が北穂高岳の稜線から滝谷側に滑落した。この遭難者が持っていたピッケルは、いわゆる溶接ピッケル(ヘッド上半分とフィンガを含む下半分とを別々に作って溶接した物)であった。遭難者は数度滑落停止を試みたようだが滑落を止めることはできず帰らぬ人となってしまった。後日出動した捜索隊によって、ヘッドの上半分がなくなってしまったシャフト部分が発見され、ピッケルの破損が遭難死の2次原因と推定された。

 この遺品のピッケル東北大学金属材料研究所(以下金研)に持ち込まれ、金研教授の今井勇之進、広根徳太郎らによって分析が行われた。その結果このピッケルは溶接個所が少なく、溶接の仕方も不良であったことが判明した。さらに当時市販されていた他のピッケルも調べた結果、一流品と評価されているものでも金属学的には全く不満足な処理しかされていないという悲観的な調査結果が出された。

 東北大学の地元仙台市には山内東一郎という優れたピッケル鍛冶がいたが山内はこの時既に70才を迎え、ピッケル作りは年に10数本程度になってしまっていた。山内を輩出した金研では、登山者に安心して託すことができ、山内と同等以上の性能でなおかつ近代的なピッケルを作り出すことが急務であると考えた。そしてその話を引き取ったのは同じ仙台市にある東洋刃物株式会社であった。(後略)

 

 新田作品のヒントになったのは穂高で起きた滑落事故だった。新田は舞台をマッターホルンに置き換え、「山内(やまのうち)のピッケル」は「門内(もんない)のピッケル」に名を変えた。山内のピッケルは「ヘッド上半分とフィンガを含む下半分とを」一体に作った「鍛造ピッケル」と呼ばれる製品で、これなら折れるはずはなかったのだが、殺人者によって「溶接ピッケル」にすり替えられたために登山者が死に至ったという筋立てだ。但し、作品の面白さはそこにではなく犯人の意外性とそれがもたらした人間関係の皮肉な結末にある。

 

 『闇冥』の最後に置かれた森村誠一の「垂直の陥穽」(1971)の後半部で描かれた壮絶な遺体収容作業の下敷きとなった事件は、

作者自身が短篇の最後に「作者付記」として、この小説は、群馬県警本部編「この山にねがいをこめて - 谷川岳警備隊員の手記」を参照しましたが、物語や登場人物はすべてフィクションです。

と明記しているおかげもあって、特定は容易だ。事故は下記のWikipediaにまとめられている。

 

ja.wikipedia.org

 

 以下上記Wikipediaより引用する。

 

谷川岳宙吊り遺体収容(たにがわだけちゅうづりいたいしゅうよう)は、群馬県利根郡水上町(現:みなかみ町)にある谷川岳の一ノ倉沢で発生した遭難死亡事故における遺体収容である。遺体がクライミングロープ(ザイル、以下ロープと記述する)で宙吊りになって回収困難となったため、ロープを銃撃切断し、遺体を落下させて収容した。

遭難

1960年昭和35年)9月19日群馬県警察谷川岳警備隊に一ノ倉沢の通称「衝立岩(ついたていわ)」と呼ばれる部分で、救助を求める声が聞こえたとの通報があり、警備隊が現場に急行したところ、衝立岩正面岩壁上部からおよそ200m付近でロープで宙吊りになっている2名の登山者を発見した。

2名は、前日に入山した神奈川県横浜にある蝸牛山岳会の会員で、20歳と23歳の男性だった。発見時、遠方からの双眼鏡による観測で2名がすでに死亡していることが確認された。両名死亡のため遭難原因は不明だが、行動中だった方がなんらかの理由でスリップし、確保側も支えきれず転落したものと推測されている。

遺体収容

現場となった衝立岩正面岩壁は、当時登頂に成功したのは前年8月の1例が初という超級の難所で、そこに接近して遺体を収容するのは二次遭難危険が高く、不可能と思われた。

当初は所属山岳会の会員らから、に浸したボロを巻いた長いでロープを焼き切る案が出されたが、岩壁からロープまでの距離も長く、検討の末に不可能と判断された。当初は所属山岳会で収容を予定していたが、9月21日、新聞記者の早のみこみで「自衛隊出動か」との新聞記事が出てしまった。

実際9月21日所属山岳会は収容作業を行ったが、収容作業を行うには二重遭難承知でやらざるを得ないということが判明し、所属山岳会で同日夜の対策会合で紛糾の上、自衛隊の銃撃による収容を決定し、9月22日9時、山岳会代表者と遺族代表の連名による群馬県沼田警察署長への「自衛隊出動要請書」による要請で遺体を宙吊りにしているロープを銃撃により切断し、遺体を収容することになった。

要請書に基づき、9月22日、群馬県警本部は県知事の了承を得た上で、外勤課長より10時30分自衛隊に出動要請を行い、自衛隊側は上局の承認を得た上で、同日19時、条件付きで出動を受ける旨の回答を群馬県警本部へ連絡した。

9月23日陸上自衛隊相馬原駐屯地から第1偵察中隊狙撃部隊が召致され軽機関銃2,ライフル銃5、カービン銃5の計12丁、弾丸2000発を持ち込み、17時頃より土合駅前広場で待機、9月24日3時頃より警察署員により想定危険区域への一般人立入を禁止した上で、銃撃を試みた。銃撃場所(中央稜第二草付付近)からロープまでの距離は約140メートルもあり、射撃特級の資格所持者が揃っていてもロープの切断は難航を極め、朝9時15分からの2時間で射撃要員15名により1,000発以上の小銃軽機関銃弾丸を消費したものの成功しなかった。その後、午後12時51分から狙撃銃でロープと岩石の接地部分を銃撃することで13時30分までに切断に成功し、蝸牛山岳会の会員により遺体を衝立スラブにフィックスの上、25日に土合の慰霊塔前に収容した。最終的に消費した弾丸は1,300発に上る。この場面は自衛隊関係者、山岳会関係者のほか、100名を超える報道関係者が見守った。

収容には47名の自衛隊員、40名の警察官(警備隊員7名、機動隊員16名、沼田署員17名)、約30名の地元山岳会員が動員されている。

遺体が滑落する様子はフィルムに記録されており、当時のニュース映画では「あまりに痛ましい遺体収容作業」だったことが語られている。この映像は日本産モンド映画『日本の夜 女・女・女物語』[1]の劇中に使われ、予告編でも見ることができる。

群馬県警谷川岳警備隊で当時対応にあたった警察官の手記が昭和38年に二見書房から発売された「この山にねがいをこめて ~谷川岳警備隊員の手記」に「赤いザイル」として納められており、警察側の動きを今でも知る事ができる。

 

 これも前記穂高岳で溶接ピッケルが折れたために登山者が滑落死した事故と同じ1960年の出来事だった。森村誠一は、この事故を復讐を動機とした殺人に置き換えて短編小説を書いた。清張の「遭難」では、意外にも復讐者は犯人に返り討ちに遭ってしまったが、森村誠一は返り討ちにされた槇田二郎の無念を晴らそうとしたかのようだ。

 

 ところで、新田作品にも森村作品にも、エントリのタイトルにした鹿島槍ヶ岳は出てこない。これではエントリの収まりが悪いのだが、偶然にも『闇冥』と同じ日に購入した同じヤマケイ文庫に収録された伊藤正一『定本 黒部の山賊 - アルプスの怪』に鹿島槍で起きたかもしれない不気味な殺人事件の話が載っていた。

 

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

 

 

 著者の伊藤正一氏は、2016年に93歳で亡くなった三俣山荘の経営者で、森村誠一との親交も深かった。森村のサイトには伊藤氏へのお悔やみの文章が掲載されている*2

 

 その伊藤氏の『黒部の山賊』を最初に実業之日本社から刊行されたのは1964年。絶版となった後は長らく、三俣山荘グループの山小屋だけで入手できる稀覯書だったとのことだが、半世紀後の2014年に『定本 黒部の山賊』として山と渓谷社から出版され、評判をとった。さらにその5年後の今年、『闇冥』とほぼ同じ時期に文庫化された。その本に、昭和28年(1953年)の話として、著者が松本市観光課で知り合ったF航空駐在員の「F君」に、「鹿島槍のあたりで殺人事件のようなことがなかったか」と聞かれた話が出てくる。以下前掲書から引用する。

 

 影のある山男の仲間 Y君の同僚としてMという男が新任してきて、同居するようになった。Mは最近まであるプロの山岳団体の一員だったというが、とつぜんそこをやめてF航空に就職した。

 ところがMの挙動は変だった。派手に遊んだり、二、三日帰ってこないことがしばしばだった。そしてついに二週間も帰ってこず、行方も知れなかった。仕事の都合上Y君は困惑し、また不思議にも思ったので、悪いとは思ったが彼の机の引き出しをのぞいてみると、Mの細君から来たらしい手紙の一文が目にとまった。それには「悪いことはしないよう、心を改めてくれ」という意味のことが切々と訴えてあり、「昨年の鹿島槍のような、恐ろしいことはもう決してしてくれるな」とあったという。

 

 鹿島槍の殺人事件 そのほかにもY君は、私にも話せないなにかをつかんでいたらしく、「これはぜったいにMがだれかを鹿島槍へ案内して行って、その相手を物盗りかなにかの目的で殺したのにちがいない」と言って、彼自身も気持ち悪がっていた。

 その後、まもなく私は三俣へ入ってしまったが、地元の知人に「鹿島槍の遭難についてなにか知っているか」とたずねると、「あれはポンコツ(殺人)だそうじゃないか」と言ったので、私はますます疑惑を深め、山を下ったらY君にさらにくわしく聞いて調べようと思っていた。

 ところがそのあいだに、F航空は経営難のためにつぶれ(長いあいだ給料をもらわなかったせいもあったのだろう)、Y君は甲府で無銭飲食して留置されたという噂を聞いた。

 Y君は元来、真面目な男だったので、なんとか心配してやりたい気持ちもあったが、その後、彼の行方はわからなくなってしまった。

 そこで私は鹿島槍方面の遭難記録をくわしく調べてみたが、記録上ではあやしげなものは見当たらなかった。結局この問題は、Y君とMの行方とともに私の前から消えていったのだった。

 

(伊藤正一『定本 黒部の山賊 - アルプスの怪』ヤマケイ文庫 2019, 201-202頁)

 

 そんなわけで、果たして半世紀以上前の鹿島槍ヶ岳で殺人事件があったかどうかも不明なのだが、もし本当に殺人事件があったのなら、露見せずにまんまと成功した「完全殺人」だったのかもしれない。(この項続く