KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』とナポレオンとベートーヴェンと

 今年もまた5月頃からこのブログの更新が難しくなってきた。どういうわけか例年5月に忙しくなって余裕がなくなるのだが、今年は新しい元号の呪いでもあるのか、それが6月も7月も続いて現在は体調もあまりよろしくない。病気というわけではないが疲労はずいぶん蓄積している。

 それでこのブログの記事も1件、途中まで書いたものの文章が止まってしまって公開できずにいる記事があるのだが、今回はそれを完成させるのをいったん諦めて、先の参院選の頃に読んだ吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)を取り上げる。

 

www.iwanami.co.jp

 

 この本は戦前の「崩壊の時代」が始まった直後の1937年8月に初版が刊行された。それから80年後の2017年に漫画化されてベストセラーになるとともに原作も注目され、宮崎駿が新作アニメ映画のタイトルを本書の書名と同じ「君たちはどう生きるか」とすると発表したことからも注目された。

 私は読んだことがなかったし、タイトルからも想像される通り少年少女向きに書かれた本だしなあなどと思っていたのだが、数か月前にあるきっかけがあって読もうと思い立った。

 本稿で取り上げる論点は2つあって、1つは貧困と格差の問題、もう1つはナポレオンに対する評価の問題だ。

 最初の貧困の問題については、第4章「貧しき友」のテーマになっている。漫画本が話題になっていた頃に書かれた下記「はてなブログ」の記事のタイトルから推し量って、漫画では貧困問題はさほど大きく取り上げられていないようだ。

 

www.kanyou45.com

 

 本書で取り上げられた「階級」の問題について、岩波文庫版の巻末に収められた丸山眞男の著者への追悼文(1981年6月に書かれた)が触れているので、以下に引用する。

 

(前略)おじさんがコペルくんにさとしているように、実際には、グループのなかで一番貧しい浦川君よりはまた一段と貧しくみじめな「階級」が東京市内にも厳然と存在しましたし、農村地方ともなればなおさらです。こういう日常的な見聞に属するような形での貧富の差がいまの日本にはほとんど視界から失せたことは事実です。岩波文庫版328-329頁)

 

 しかし丸山眞男が上記の文章を書いてから40年近くが経ち、日本社会の格差は再び拡大し、橋本健二は『新・日本の階級社会』(講談社現代新書,2018)を書いた。

 もちろん、1981年の日本にも格差や階級はあったと思うが、その頃から世界を席巻した新自由主義によって、格差は拡大し、「新・階級社会化」が進んだ。それらへの対処が現在の政治には求められるはずだ。

 なお、「おじさん」の意見、すなわち著者の意見にも限界があることを指摘する下記記事にもリンクを張っておく。下記は、本書ではなく本書を批判した本の書評。

 

webronza.asahi.com

 

 しかし本書を読んで私が一番ショックを受けたのは、ナポレオンに対する著者の意外な高評価だった。

 第5章「ナポレオンと四人の少年」で、主人公・コペル君の友人・水谷君のお姉さんである「かつ子さん」がナポレオンを絶賛するくだりがあるのだ。さすがに著者は「おじさん」は晩年のナポレオンを批判させているが、皇帝に即位してからしばらくの間のナポレオンに対する高評価は改めていない。

 これには、中学生時代から世界史は苦手だったがベートーヴェン(やモーツァルト)の音楽には親しんできた私は大きなショックを受けた。

 というのは、ベートーヴェンは第3交響曲エロイカ(英雄)」を当初ナポレオンに献呈しようと考えていたが、ナポレオンの皇帝即位を聞いて激怒し、献呈の文字をスコアから消した上にその頁を破り捨てたというエピソードに長年慣れ親しんできたからだ。つまり、私にとっては「皇帝即位後のナポレオン=絶対悪」という固定観念があったので、「かつ子さん」の意見に強い違和感を覚えた次第だ。

 前記丸山眞男の追悼文でも「かつ子さん」のナポレオン賛美に対する違和感が表明されている。丸山は、「何をいうかこのなまいきな小娘が」と思ったと書いているが(岩波文庫版326頁)、私も同感だった。しかしこの「かつ子さん」は本書では最後まで「善玉」として描かれているし、ネット検索で調べても、ナポレオンの伝記を読んでみたくなったという反応が結構あるから、著者のナポレオンに対する意外な高評価には困ったものだと思う。

 著者は「おじさん」がコペル君に宛てたメッセージとして、ゲーテもナポレオンには感嘆していたなどと書いているので(本書182頁)、ベートーヴェンがナポレオンへの献呈の文章を破棄したというのは本当だったのかと不安になって調べてみた。日本で著名なベートーヴェン研究家だった小松雄一郎(1907-1996)が戦前からの日本共産党の人だった(但し1954年に離党)ことなどから、日本で流布しているベートーヴェン像が実像よりも美化されているのではないかと思ったからだ。その結果はベートーヴェン研究家の間でも意見が分かれていて、たとえば武川寛海(1914-1992, ゴダイゴタケカワユキヒデの父)はベートーヴェンは終生ナポレオンを尊敬していたとしていたらしいが、手元にある青木やよひ(1927-2009)の『ベートーヴェンの生涯』(平凡社ライブラリー)では従来の定説である「ナポレオンの皇帝即位に激怒した」説を採っている。

 

www.heibonsha.co.jp

 

 青木は、ベートーヴェンがナポレオンへの献呈を破棄した場面は、リースとリヒノフスキー伯爵が目撃したと書き(前掲書124頁)、続いて下記のように論評している。

 

 このエピソードが語る意味は重い。ナポレオンはベートーヴェンにとって、単なる戦略の天才でも豪胆な司令官でもなかった。身命を投げ打って革命の精神を人類にもたらすプロメテウス、それが彼のナポレオン像だった。けっして皇帝(シーザー)になってはならなかったのだ。だが、裏切られたと一時激怒したものの、この曲を、革命の大義のために勇敢に戦って死んだ多くの人々の追悼のために、そして英雄的な一時代の記念碑とするために、表題を「シンフォニアエロイカ」(英雄的交響曲)としたに違いない。

(青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』(平凡社ライブラリー,2018)125頁)

 

 ところで、この記事を書くためにネット検索して知ったのだが、「エロイカ」に表題音楽的な解釈がさまざまになされているようだ。中でも下記は面白かった。

 

http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3.htm

 

 以下引用する。

 

 「バルヴ機構のない金管では自然倍音列しか出せないため、ベートーヴェン金管楽器のメロディを中断せざるを得なかった」という問題がある。「第9」第4楽章冒頭のトランペットなどはその例だろう(→「版以前の問題」のページへ)。
 しかしこの「英雄」第1楽章コーダは、それに似て非なるものである。なぜなら、譜例の赤い矢印の音は、ナチュラルトランペットでもちゃんと出せる -つまり凱旋のファンファーレを1回はちゃんと鳴らすことができる - からである。ベートーヴェンはそれをあえて尻切れにして、別の効果を狙っているのだ。

 有名な逸話によれば、ベートーヴェンは、ナポレオンがセントヘレナ島で死んだというニュースを聞いて、「私は彼の行く末を、すでに音楽で予言していた」と言ったらしい。で、これは普通、第2楽章の葬送行進曲のことだ、と考えられている。しかし、アーノンクールブリュッヘンガーディナーなどの演奏を聴けば、そうでないことは明らかだ。

 第1楽章コーダで「英雄ナポレオン」は突撃の最中に射たれて落馬・戦死する(=Tpの中断)。だが、その屍を乗り越えて「フランス国民軍」は進撃するのである。つまり、「英雄の出現は歴史的事件のきっかけにはなるが、英雄だけで歴史を語ることはできない」という真理をベートーヴェンは見事に描いたのである。(ここで「戦死」を描き、それを承けての第2楽章・葬送行進曲となるわけである。「凱旋」に続く「葬送」では筋がつながらない。)

 これは「絶対音楽」的考え方からすれば邪道な解釈かもしれない。しかしベートーヴェンは、初めナポレオンに捧げるためにこの曲を書きあげ、ナポレオン戴冠の知らせを受けてそれをやめたにしろ、改めて「ある英雄の思い出に捧げるシンフォニアエロイカ」と標題をつけているのだ。よって何かしらのイデーを表現したものと考えるほうが正当であろう。

 

 譜例も引用しなかったので上記の引用文にはわかりにくいところもあるかもしれないが、「エロイカ」の第1楽章の終結部に、全オーケストラが「ドーミ ドーソ ドミ ソーー」と高らかに謳い上げる部分(最初のソは低い音で、赤字ボールドにしたは高い音)がある。この部分で、トランペットは「ドーミ ドーソ ドミ」までは弦楽器や他の管楽器と一緒についていくのだが、高い「ソ」の音は鳴らさず、その部分では低いソの音の8分音符を刻み続ける。これは当時のトランペットの音域の上限を上回る高さだったからという説明がなされていたし、私もそれを信じていたのだが、実は当時のトランペットでもこの音は出せたのに、ベートーヴェンは意識的にトランペットを脱落させたのだという。

 それを「ナポレオンの落馬と戦死を表したものだ」とするのが上記の解釈だが、いくらなんでもこれはこじつけだろう。しかし、「英雄だけで歴史を語ることはできない」という史観をベートーヴェンが持っていた可能性はかなり高いとは私も思う。

 なお、上記とは別に、葬送行進曲の形式をとる第2楽章の終結部で、葬送行進曲のメロディーが切れ切れに奏されるくだりを「息も絶え絶えになった英雄」の描写だとする説があって、これにはかなりの説得力がある。上記引用文では批判の対象となっているが、

ベートーヴェンは、ナポレオンがセントヘレナ島で死んだというニュースを聞いて、「私は彼の行く末を、すでに音楽で予言していた」と言ったらしい。で、これは普通、第2楽章の葬送行進曲のことだ

とする定説の方に、私は軍配を上げる。

 なお、ナポレオンの皇帝即位自体に対する批判とまではいえない点で(おそらく)ベートーヴェンには及ばないが、『君たちはどう生きるか』の著者・吉野源三郎も「おじさん」のメッセージの形で皇帝即位後のナポレオンの批判をしている。以下引用する。

 

(前略)ナポレオンは、封建時代につづく新しい時代のために役立ち、また、その進歩に乗じて、輝かしい成功をつぎつぎにおさめていったのだが、やがて皇帝になると共に、ようやく権力のための権力をふるうようになって来た。そして自分の権勢を際限なく強めてゆこうとして、次第に世の中の多くの人にとってありがたくない人間になっていった。

吉野源三郎君たちはどう生きるか』(岩波文庫,1982)180頁)

 

 とはいえ、そのあとにも落魄のナポレオンに当時のイギリス人が敬意を表したエピソードなどがあり、この第5章には釈然としないものが残る。

 

 上記のような難点や、この記事の中ほどで触れた限界があるとはいえ、80年以上前に書かれた本書が漫画化などのきっかけによって注目・共感されたことによって、少年時代に本書を読みそびれた私のような人間まで読むことができたのは良かったのではないか。

 こういう本が受け入れられることと、選挙への投票先というと自民党か棄権になってしまう現実は整合しないとも思うが、安倍政権が長年続いていてこの政権しか知らない世代が増えている以上止むを得ない。それは戦争中に少年・少女の多くが「軍国少年・軍国少女」と化したのと同じ現象であって、現在の傾向は安倍政権が代わればがらっと変わるのではないか、だから現在安倍晋三は10代から30代までの支持が多いと誇らしげに口にするけれども、そんな状態はいつまでも続くものかと思う今日この頃だ。