KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張の山岳ミステリー「遭難」と筆を折った山岳作家・加藤薫(追記あり)

 このブログはずっと更新してなかったので、広告が表示されていた。年末年始の休みに入ったので久々に更新することにする。

 と言っても、4年前からはまっている松本清張のミステリーについて書くのだが、最近、清張の比較的初期の短篇・中篇集である『黒い画集』を読んだ。1958年から59年にかけて主に「週刊朝日」(「天城越え」のみ「サンデー毎日」)に連載されたものだ。

黒い画集 (新潮文庫)

黒い画集 (新潮文庫)

 

  以下、ネタバレ満載なので、未読かつ読みたいと思われる方はここで読むのを止めて下さい。

 この作品集はなにぶん古いので、1950年代後半というか安倍晋三の好きそうな「昭和30年代」の製品の名称などにわからないところがあったりする面白さがある。たとえば「テンピ」(「紐」に登場する。2003年改版の新潮文庫では444頁)なんて書かれても何のことかわからなかった。ちなみのこの言葉から私が直ちに連想したのはプロ野球阪神がキャンプで使ったことがあるアメリカの地名ということだった。調べてみるとこれはアリゾナ州の地名で、阪神タイガースは1980年と81年のキャンプ地として使った。私はヤクルトファンだが関西の育ちなので、かつて日常的に関西のメディアに接していた頃には阪神の情報にはある程度詳しかったのだ。

 もちろん清張作品に出てきた「テンピ」はそれとは何の関係もなく、「テンピオーブン」の略称だった。詳細は下記リンク先をご覧いただきたい。

latte.la

 リンク先から少し引用すると、

 ルックス自体はかなりキュートでスペーシーで、近未来的雰囲気が漂いますが、当時実際に使われていた調理器具で、「テンピオーブン」と言うものです。

 

「テンピオーブン」の豪快な使い方

電子レンジ普及前に使われていたようなのですが、コンセントに挿す電源コードも、ガス管を挿す場所もありません。

台所にあるガスコンロのゴトクに、このオーブンをそのまま乗せ、オーブン自体を加熱し調理するという、なかなか豪快な使い方をします。

 などと書いてある。うへえ、全然知らなかった。「テンピ」は「天火」のカタカナ表記らしい。

 他にも「魔法櫃」(444頁)というのがあり、これには「(小型冷蔵機の代用)」とある。おそらく文庫化された1971年には既に廃れていたのでこのような註が新潮文庫の編集者によってつけられたのだろう。

 これは字面から想像される通り、魔法瓶のお櫃版だった。こちらはネット検索をかけても、同名のゲームのアイテムがあるらしくその情報ばかりが引っかかってしまう。しかし、単なる断熱容器に過ぎないことは明らかであって、そんなものに「小型冷蔵機の代用」との注釈をつけた1971年の新潮文庫編集部の感覚も、今となってはあまりにも古めかしい。

 まあそんな1950年代後半の「文化製品」を知る面白さなどもあるのだが、それはもちろん本筋ではない。ここで取り上げようと思ったのは、冒頭の「遭難」という題を持つ山岳ミステリーをめぐる話題だ。

 これは、北アルプス鹿島槍ヶ岳で行われた殺人を描いた中篇で、「松本清張 山岳ミステリー」でググるとこの作品くらいしか出てこないから、清張唯一かもしれない山岳ミステリーだ。

 読んでから初めて気づいたが、3年前に文庫版を図書館で借りて読んだ折原一の長編ミステリー『遭難者』(1997)は間違いなく清張の「遭難」を下敷きにしている。 

遭難者 (角川文庫)

遭難者 (角川文庫)

 

  何よりタイトルが酷似している。しかし類似はそれだけではない。清張作品には「八峰キレット」という北アルプスの一般登山道屈指の難所が出てくるが、折原一の『遭難者』はその八峰キレットと同じ後立山連峰のより北方にある白馬岳と唐松岳との縦走路にあって、八峰キレット及び槍ヶ岳穂高岳を結ぶ縦走路にある「大キレット」と合わせて「三大キレット」(キレットとは「切戸」のカタカナ表記)と併称される「不帰キレット」がある不帰嶮(かえらずのけん)が舞台になっている。しかもともに作中作として追悼文(清張作品では山岳雑誌に掲載された追悼文、折原作品では追悼文集)が出てくるし、被害者を死に追い込む手口も似ている。折原一はおそらく意識的に清張作品を下敷きにしたのだろうと想像する。

 清張作品では夏山(8月末)で鹿島槍ヶ岳から北にある五竜岳への縦走を目指して悪天に遭遇する設定だが、私自身は逆コースにあたる五竜岳から鹿島槍へ向かう、前記の八峰キレットを含む縦走を秋(9月)に歩いたことがある。縦走路は長野県と富山県の県境につけられているが、五竜岳鹿島槍ヶ岳も、ともに山頂から、県境を外れて富山県側(黒部側)に迷い込みやすい道があり、そちらに迷い込まないように、との赤字の注意書きが登山地図に書かれている。五竜からは東谷山尾根、鹿島槍からは牛首尾根というのが迷い道にあたる尾根の名前だ。鹿島槍から南に降りる正規の下山道の途中には布引岳という小ピークがあるが、西に向かう迷い道の牛首尾根にも牛首山というピークがあり*1、悪天で方向がわからない時には迷いやすいとのことだ。私が鹿島槍の山頂を踏んだ日は快晴だったし、迷い道の方向には進むなとの標識もあったはずだから迷いようがなかったが、深田久弥の『日本百名山』(1964)が書かれる前の鹿島槍*2にはそんな親切な標識はなかったに違いない。ここまで書いたら本作中の殺人の手口を解説してしまったようなものだ。なお折原作品にはこのトリックは出てこないが、犯人が被害者の行動を制御する方法が似ていると指摘しておこう。私は折原作品を読んだ時、山男がそんな無茶な行動をとるんだろうかと思ったのだったが、若者が中心だったかつての山行ではよくあったのかもしれない。

 話が逸れるが、ネットで本作の感想文をいろいろ見ていると、登場人物が煙草の吸い殻をポイ捨てしていることに違和感を表明するものがあった。しかしこれは50年代の登山では当たり前だったようで、串田孫一の『山のパンセ』を読むと何度も喫煙の話が出てくるので、串田氏は吸い殻をどうしていたのだろうかと思ったものだ。その串田氏が1957年に南アルプスにある日本第二の高峰・北岳(3193m)に登った時には山頂はゴミだらけだったと書いている。つまり昔の登山者は今と違ってマナーが悪く、平気で自然破壊をしていたのだ。私は北岳にも比較的最近登ったが、山頂にゴミなど見あたらなかった。

山のパンセ (ヤマケイ文庫)

山のパンセ (ヤマケイ文庫)

 

  それはともかく、清張は山登りをする人ではなかった。その清張が「遭難」を書いた背景にはおそらく1956年のマナスル登頂以来の山岳ブームがあった。Wikipediaを参照すると下記のように書かれている。

  • 本作執筆の契機に関して著者の松本は、ある山登りの人が雑誌の座談会で「山に登る人には悪人が居ない」などと云うのを読み、「あるいはそうかもしれないが、そういう決定的な言い方に少しばかり反撥を感じた」ことを挙げている
  • プロットを考えた松本が、登山家(のちに作家)の加藤薫に相談したところ、そのプロットには鹿島槍の頂上がちょうどいいとの説明を受け、加えて加藤は松本(と『週刊朝日』で『黒い画集』シリーズ担当の永井萌二の)を鹿島槍ヶ岳に連れて登山し、「現地講義」を行ったが、山の中腹まで現地を踏み、実景を見た点で、書くのに自信がついた、と松本は回想している

  同じ動機で山岳ミステリーの短篇を書いた人に森村誠一がいる。「堕ちた山脈」がその作品だ。私は下記作品集で読んだ。

  森村誠一松本清張とは違って本当に山登りをした人で、山岳ミステリーは森村の十八番とのこと。表題作の「北ア山荘失踪事件」は北アルプスにあって富山、岐阜、長野の3県を分ける三俣蓮華岳の山小屋が舞台になっている。森村は2016年に亡くなった小屋の元主人・伊藤正一氏の追悼文を書いている。

 「堕ちた山脈」は同じ森村の自選短篇集に収録されており、山の名前は北アルプスの「Y岳」と表記されているが、これは不帰嶮やその北にある白馬岳よりもさらに北に位置する雪倉岳のことだろう。この作品をタイトル作にした短篇集も別の出版社の文庫本で出ていて、その煽り文句を以下に引用する。

 未曾有の荒天に襲われた北アルプス。遭難者が続出する中、有名山岳会のベテランたちと大学山岳部の一行は奇跡の生還を果たした。食糧を分け合い、協力して難局を乗り切つたという二つのパーティーの間に、本当は何があったのか?

 もちろん有名山岳会と大学山岳部の2つのパーティーが実は醜い諍いを展開していたというストーリーだ。まあ「山に登る人には悪人が居ない」はずがないことは誰にでも了解できることだろうとは思う。

 さて、清張を鹿島槍の中腹に案内した加藤薫という人の名前を私は知らなかったのだが、ネット検索で見つけた下記ブログ記事には仰天した。このことがあったから久々に読書ブログを更新したのだが、例によって超長文になってしまった次第。

naokiaward.cocolog-nifty.com

 なんと、清張作品に多大な影響を与えた加藤薫自身も、同じ鹿島槍ヶ岳を舞台としてタイトルまで清張作品と同じ「遭難」という短編小説を書いていたというのだ。

 以下ブログ記事を、滅茶苦茶長いが全文引用する。なおブログ記事は2008年6月15日に書かれている。

山岳ミステリー作家、プロ魂を発揮して、現実の苦悩を小説に託す 第63回候補 加藤薫「遭難」

 

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  • 【歴史的重要度】…flairflair 2
  • 【一般的無名度】…flairflairflair 3
  • 【極私的推奨度】…flairflairflair 3

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第63回(昭和45年/1970年・上半期)候補作

加藤薫「遭難」(『オール讀物』昭和45年/1970年1月号)

 

 泣ける。……この作品を読んで、つい泣けてしまう理由は、作品内容に輪をかけて、その背後にある事情が強烈だからです。加藤薫さんがこの作品を書こうと筆をとった勇気、それを『オール讀物』なんちゅう中間小説誌にポツンと発表した勇気、その一世一代とも思える思い切りに、心が揺さぶられます。

 今回はけっこう重いハナシです。ガラにもなく。

 加藤薫さんは今では筆を折られているようですけど、オール讀物推理小説新人賞(昭和44年/1969年)の「アルプスに死す」で登場して以来、山岳ミステリーの書き手として数年間、活躍しました。ご自身も山登りの経験があり、大学時代は山岳部に所属されていたとか。

 と、その程度の知識しかなかったワタクシは、この「遭難」が載っている『オール讀物』昭和45年/1970年1月号の目次を目にしたとき、思わずビクリとしてしまいました。

「14年前の悲劇の記憶を生存者が描く衝撃の問題作

遭難 110枚 加藤薫

昭和31年の正月厳冬の北ア鹿島槍の雪嶺に消えた学習院大山岳部の今はなき仲間に捧げる悲痛慟哭の鎮魂賦」

 作品本文からは、一切、鹿島槍だの学習院だの、そんな固有名詞は省かれているのに、そうですか、『オール讀物』編集部はこんなにハッキリ書いちゃうんだなあ。目次って恐ろしい。

 ひょっとして、この直木賞候補作って、加藤さんの実体験をもとにしているの? そもそも加藤さんが、遭難で仲間を失った経験をお持ちだったって事実を知っただけでも、ぐっと来るのに。

 当時の基準で14年前、現在から見ればはるか52年前にさかのぼる、学習院大山岳部の実際の遭難のことを思い起こす前に、まずは加藤薫さんが苦悩を乗り越えて書き下ろした「遭難」のスジを追ってみます。

                                                                                                              

          ○

 とある年の12月、とある大学の山岳部に所属する江田は、北アルプスK峰の登頂隊に参加します。参加者は江田をリーダーとして、同級生のサブリーダー大杉、同じく同期の理学部生・宮本、新入生の青木と桑原、そして新入生ながら本人たっての希望で同行を許された女子部員の小浜道子、通称〈タゴサク〉の6名です。

 彼らは二班に分かれます。江田をリーダーとする北尾根隊には宮本、青木。大杉をリーダーとする東尾根隊には桑原と小浜。

 この大杉って青年が、とにかく口が悪く、また同期のリーダー格・江田や、理屈っぽい宮本に対抗心を持っていて、二人の提案や予定などにはほとんど耳を貸そうとしません。

 江田と宮本はしきりに安全優先の態度を示します。それに対して大杉は、ともかく江田たちより先に頂上にたどりついてやろう、という野心満々です。

 途中、トランシーバーでの連絡からも、大杉のかなり無謀な様子がうかがえます。天候が急変し、大雪がせまりくるというのに、江田「すぐベースキャンプへ引揚げろ、テントを取り替えて、あらためて登るんだ」、大杉「いや、ベースへは降りたくない。せっかく高度を稼いだんだ。」といった調子です。

 江田が体調を崩して、隊員2人を送り出してひとりベースキャンプで寝込んでいる日、ついに低気圧が山を襲います。テントは倒れ、雪崩が起き、山はただならぬ模様。そこにトランシーバーから通信が。

 東尾根隊の小浜からでした。彼女もひとりベースキャンプにとどまっていたんですが、いつまで待っても大杉と桑原が帰ってこないと訴えます。

 ともかく江田は、重いからだに鞭打って、小浜のいるテントまで救出に向かいました。

 たどりつくと、小浜はテントのなかで寝袋にくるまっていました。声をかけた江田に対して、まなじりの上がった無表情な顔を返します。そして、いきなりこう言うのでした。

「あなたよ、殺したのは……」「大杉さんを殺したのは、あなた」

 大杉は、人から反対されれば逆に我武者羅になる性格であって、そのことを江田が知らぬはずはない、その大杉にくどいほど自重せよ、出発を延期せよと言い募った江田こそ、大杉たちを遭難させた犯人だ、と。

 さらに、北尾根隊の宮本と青木の二人もまた行方不明となり、江田は尊い友4人を、山で失ってしまいます。

          ○

 さて、昭和31年/1956年1月、つまりこの作品が発表される14年前、学習院大学の山岳部員4名が北アルプス鹿島鎗で遭難する事故が起きました。

 『朝日新聞』昭和31年/1956年1月3日、社会面より。

「二日朝八時半ごろ学習院大学山岳部小谷明君(二三)=(引用者中略)=が、大町市登山案内人組合に「北ア鹿島鎗(標高二、八九〇メートル)天狗の尾根付近(二、四〇〇メートル)で、同大学山岳部員藤原荘一(一九)=(引用者中略)、同清水善之(一九)=(引用者中略)、同鈴木迪明(二三)政治科三年=(引用者中略)、同鈴木弘二(二三)物理科三年=(引用者中略)=の四君が、頂上から三キロ手前の前進キャンプから荷揚げ地点に荷物をとりに下ったまま消息を絶った」と救いを求めて来た。

 小谷君の話によると一行八人は二十五日に大町口を出発、丸山奥地のB・Hで二パーティに分れ、小峰顕一(二二)江間俊一(二二)石滝英明(二二)の三君は東尾根伝いに、鈴木迪明君ら五人は天狗の尾根伝いに前進、元日朝に鹿島鎗頂上で一緒になる予定で出発したもの。(引用者以下略)

 江間俊一(二二)……まさしく、のちの山岳ミステリー作家・加藤薫さんの本名が、ここに登場します。

 現実には江間、小説では江田、しかも二パーティに分かれて、大勢が犠牲になり、わずかな人数のみ生還するというストーリー。そりゃ知っている人から見たら、現実の事故と小説とを結びつけて、小説の内容を深読みし、相当危険な邪推を引き起こしかねません。ここが、加藤薫一世一代の勇気、と思わされるポイントです。

 その実、登った人数は違います。具体的な地名や年月も敢えて隠されています。さらには小説のなかで重要な役割を果たす紅一点の新人女性部員、小浜道子なんて人物は実際には存在しなくて、遭難した隊のなかでベースキャンプに留まり一人助かったのは、「冬の鹿島鎗の映画撮影をしたい」と希望して同行した大学4年生の小谷明さんだった、と来れば、これはノンフィクションじゃないんだよ、ガチガチのフィクションなんだよ、という加藤薫さんの思いが、物語に強烈に反映していると考えたいところです。

          ○

 加藤さんの思いを推し量るといえば、この事故から約十年後、昭和40年/1965年ごろに刊行された追悼文集があります。『山木魂―鹿島鑓に逝った若きいのちに―』という230頁におよぶ冊子で、生還した4名のうち、小谷明さんと小峯顕一さんは追悼の文章を寄せているんですが、江間俊一さん、石滝英明さんのお名前は見出せません。

 たとえば、小浜道子のようにテントに残って、仲間4名の帰りを不安な心持ちで一人待ち続けた小谷明さんの、文章。

「山で友を亡なった。それがあまりに身近かの出来事だったからか、あるいは全く異常な体験であったからか、自分自身が掌握出来なくなりそうな不安と恐怖、払い除ける事の出来ない重苦しさ、」(「歴程」昭和32年/1957年11月記 より)

 江間=加藤薫さんと共に行動していた小峯顕一さんの、文章。

「元来山仲間というものは共通目的による仲間意識というものが強いが、私は兄弟が殆どない為か単なる仲間意識だけではなく、現役時代の山仲間に対し一層の兄弟に対する様な情を持って居た。だから死んだ連中と一緒に登った山々や共に過した日々の事や、そして最後となったあの鹿島鎗での出来事を十年経った今でもビビットリイに覚えて居る。そしてそれ等の事を何かのはずみに、ふと想い出す時胸を締めつけられる様なリリックな感情に襲われる。」(「想い出すままに」昭和40年/1965年5月15日記 より)

 そうでしょう。一緒に山に登った友人たちが、自分の目の前で遭難してこの世を去ったとき、いつまでもそのことが頭の隅から離れない思いは、苦しかろうし辛かろうし、もし自分がその身に置かれたらと想像すると、それだけで心が折れます。

 江間=加藤薫さんは、この文集が編まれた頃は、まだ作家デビューしていません。果たしてそこに追悼の文を寄せなかったのは、なぜだったのでしょうか。その心のわだかまりを、さらに5年後、物語の下敷きとして使おうと決心した裏には、きっと小谷さんや小峯さんが語ったような「不安と恐怖」や、「ビビッドリイ」な記憶と「胸を締めつけられる様なリリックな感情」みたいなものが溜まりに溜まっていたんだろうな、とつい想像したくなります。

 「遭難」の後半部に出てくる主人公・江田の、こんな思いを読むにつけ。

「遭難から十五年たち、そのあいだ逆境にたつと死んだ仲間をおもいだした。

〈彼らは、いいときに死んだ〉

 逆境のなかで、恥を晒して生きてゆかなければならない江田は、四人の壮烈な死を羨んだ。」

「十五年のあいだ折りにつけて死んだ四人が顔をのぞかせた。」

          ○

 ちなみに、これを直木賞の選考のために読んだ司馬遼太郎の選評は、こんなふうです。

「技術のわりには、主題が小さすぎるであろう。」『オール讀物』昭和45年/1970年10月号選評「二作を推す」より)

 ははあ、小さすぎますか。まあ、直木賞を取れたとか取れないとか、そういう視点は、直木賞オタクにとっては大事です。しかし、それはこの際おいといて、少なくとも、江間俊一さんが加藤薫として、山岳小説を書いていくために、絶対にこの作品だけは書かずにいられなかった渾身の作だということは、おそらく確かです。

 そんな個人的な胸の痛みを、興味本位の先行しがちなワタクシのような読者たちの前に、小説の枠組みをこしらえてさらしてみせた加藤薫さんのプロ魂が、「遭難」には籠もっています。

  何が驚いたといって、作品名と舞台が同じだけではなく、主人公の「江田」という姓まで清張の「遭難」と加藤薫の「遭難」とは同じなのだ。

 ということは、清張作品の主役(犯人)である「江田昌利」とは、加藤薫の本名である江間俊一からとられた可能性が高い。もちろんこれは清張・加藤両者合意の上でなされたことだろう。

 森村誠一が書いた「北ア山荘失踪事件」でも、小屋の主人がひどい書かれようだが、それは森村と主人が親しい仲だったからこそできたことだ。しかし、清張の[遭難」が書かれたの1958年は、1956年正月の学習院大山岳部の遭難事故からわずか2年あまりしか経っていなかった。その時期に加藤薫は清張にヒントを与え、清張は冬山を夏山に置き換えて、世俗的な動機による殺人事件のストーリーを書いたのだ。もちろん、実際の遭難とは全く異なるフィクションとして。

 それをさらに変形させ、事故と同じ山域で事故と同じ季節に起きた山岳部の遭難事故の物語にしたのが加藤薫の「遭難」だったのだろう。ただ、この作品は直木賞候補になったものの選ばれず、加藤薫も早い時期に筆を折ったようだから、文庫本等で読むことはできないようだ。もちろん国会図書館にでも行けば読めるのだろうが。

 清張の「遭難」についてネット検索をかけると、「山を知らない人が書いたとは思えない」という感想が散見されるが、加藤薫の協力があればこそだったに違いない。例えば、前述の鹿島槍から布引岳へと向かう正規の下山道と牛首山に向かう迷い道とが似ていることについては、「山と高原地図」の「鹿島槍五竜岳」に表示された等高線を見て、なるほどそうかもしれないなと思った。これなど、わざわざ好き好んで牛首山方面に行く一般登山客はいないだろうから(バリエーションルートを歩く上級者は別)、あまり知られていないことではなかろうか。

山と高原地図 鹿島槍・五竜岳 2017 (登山地図 | マップル)

山と高原地図 鹿島槍・五竜岳 2017 (登山地図 | マップル)

 

 また、布引岳から鹿島槍へと向かう稜線で、麓の信濃大町からサイレンが聞こえてきたら東風(こち)が吹いていて天気が悪くなる前兆だという話だとか、鹿島槍から五竜に向かう縦走路は5万分の1地図の《大町》に全部カバーされているが、牛首山は《大町》の範囲からはみ出していて、その隣の《立山》に載っている、などといったことは、冬山には決して行かず、5月から11月までの天気の良い日に(少しでも天気が悪いと思ったら山行の予定を直ちに中止する)「山と高原地図」に頼り切って山に行く、私のような臆病かつ軟弱な登山客(登山者とすら言えない)には知り得ないことだ。当然ながら、普段は山には登らなかった清張が知っていたはずはあるまい。だから、これらはすべて加藤薫から仕入れた知識だったに違いない。清張の「遭難」は、清張と加藤薫との事実上の合作だったとさえ思われる。

 ネット時代になって良いことと悪いことがあるが、1つの短篇についてネット検索をかけてこのような興味深いブログ記事に行き当たることができるとは、これぞネット時代ならではのメリットだ、と思った。

 なお、清張と山といえば、山岳ミステリーとは言えないけれども、晩年の長編『彩り河』(1983)も面白かった。

彩り河 (上) (文春文庫)

彩り河 (上) (文春文庫)

 
彩り河 (下) (文春文庫)

彩り河 (下) (文春文庫)

 

 こちらは山梨県東部の大菩薩嶺の麓や塩山温泉、さらには塩山から北上する「雁坂みち」の途中にある温泉地が舞台になっている。この作品も「山と高原地図」の「大菩薩嶺」、「雲取山両神山」、「金峰山・甲武信」を参照しながら楽しんだ。作中に出てくる「おいらん淵」の伝説など全く知らなかったので興味深かったが、山梨県でも屈指の「心霊スポット」として知られているらしい。

ranpo.co

 残念ながらおいらん淵には行ったことがないし、おいらん淵に行く道は山梨県が廃道にしてしまって容易に行けないらしいが、塩山温泉には私も泊まり、翌日乾徳山に登ったことがある。ところがそのあたりにもおいらん淵とは全く別口のおどろおどろしい話がある。しかも、確実に後世の創作であるおいらん淵とは違って現実の犯罪行為に関する話だ。かつてこのあたりにゴルフ場建設予定地があったらしいが、これが1997年に発覚した第一勧銀(現みずほ銀行)の総会屋への利益供与事件(頭取の自殺や11人の頭取経験者の逮捕があった)に絡んでいたのだ。1997年5月20日東京新聞夕刊の記事として下記の文章を確認した。

 第一勧銀ではこのほか、九〇年当時、山梨県内の認可されていないゴルフ場の「会員資格保証金証書を担保に、大和信用と共同で三十億円を小甚ビルに融資していたことが既に判明している。

 この件が発覚したのは1997年だが、清張及び連載誌の「週刊文春」は80年代初めに既にこの件を把握していたようだ。残念ながら当時から凄腕記者が揃っていたとおぼしき「文春砲」は、せっかくつかんだ大金融機関の背任行為を松本清張の小説という形でしか世に問うことはできなかったが、元第一勧銀の作家・江上剛が文庫本下巻の解説で自らがこの作品を読んで受けた衝撃について書いている。私はあんなところにもそんなドス黒い話があったのかと驚いた。『彩り河』を読んだことをきっかけに、江上剛の文庫本を1冊「年末年始に読む本」として図書館から借りてしまった(未読)。このように、清張作品をきっかけにいろいろなことを知ることができ、興趣は尽きない。おかげで超長文のブログ記事になってしまった。幸い、未読の清張作品はまだまだたくさんある。

 今年のブログの更新は今回が最後です。次の更新はいつになるかわかりませんが、皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい。

 

[追記](2019.4.30)

 本エントリで、松本清張の「遭難」の創作に加藤薫が協力した可能性に言及しましたが、その後、その推測は誤りだったのではないかとの結論に達しました。詳細につきましては下記エントリをご覧下さい。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

*1:なお、紛らわしいことに、唐松岳から五竜岳に向かう縦走路の最初に、牛首という名前のちょっとした難所の岩場がある。私はここを二度通過したが、最初の時には「こんなところでびびるようでは八峰キレットには行けない」と思って五竜岳から遠見尾根を下りた。その十数年後に八峰キレットにチャレンジしたのだが、牛首を二度目に通過した時には全然怖くなかった。最初から難所があると知って緊張感を持っていれば怖さを感じないものなのかもしれない。あるいは単に一度通過したことがあったからかもしれないが。結局、八峰キレットを含む五竜から鹿島槍への縦走路も怖いとは思わなかった。もっとも、雨が降っていたら怖いに違いないとは思ったが。なお八峰キレットの核心部より、五竜岳キレット小屋との間にあるG5と呼ばれる岩峰の通過の方が厄介ではないかと思う。

*2:清張の「遭難」が書かれた1958年にはまだ「日本百名山」も選ばれていなかったし、現在鹿島槍ヶ岳への登山道としてもっとも多く歩かれていると思われる柏原新道(1966年開通)も開かれておらず、一般登山客は赤岩尾根を登るのが普通だったようだ。清張作品でもその設定になっている。私は鹿島槍には五竜岳からの縦走路で入って柏原新道を下りたので赤岩尾根を歩いたことはない。なお清張作品当時からキレット小屋も冷池山荘も種池山荘もあったが、冷池山荘は「冷(つべた)小屋」、種池山荘は「種池小屋」という名前だった。「小屋」が「山荘」に改称されることはよくあり、森村誠一作品のモデルになった三俣蓮華岳の三俣山荘もその例。柏原新道は冷池山荘、種池山荘と新越山荘のオーナーである柏原正泰氏が開いた登山道で、現在も種池山荘の従業員たちによって整備されているとのこと。私が泊まったのはその種池山荘だった。小屋の人たちの接客が柔らかかったことが印象深い。