KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(最終回)松本清張「遭難」の創作に協力した登山家は加藤薫だったか

 前回に続く連載4回目。馳星周選の『闇冥』(ヤマケイ文庫)に関する連載は、今回が最終回になる。

 

www.yamakei.co.jp

 

 今回は、第1回で触れた松本清張と加藤薫、つまり同じ「遭難」というタイトルで同じ主人公名の山岳短篇を書いた2人の小説家のかかわりについて、これまでにわかったことをまとめる。

 この件については、一昨年の暮れに書いた下記エントリの内容を一部修正せざるを得ない。本エントリ公開後、同エントリに追記を行う。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 勿体ぶって書いたが、実は加藤薫に関する情報が相変わらずほとんど得られないのだ。1974年に筆を折ってからの加藤、本名江間俊一氏の消息は不明で、第1回にも書いた通り、『闇冥』の巻末に

●加藤薫氏の著作権継承者のご消息をご存知の方は、編集部までご連絡いただきたくお願いいたします。

と書かれていることから、山と渓谷社の「ヤマケイ文庫」編集部でも消息を把握できていないようだ。

 遭難 (松本清張) - Wikipedia には相変わらず、下記の記載がある。 

  • プロットを考えた松本が、登山家(のちに作家)の加藤薫に相談したところ、そのプロットには鹿島槍の頂上がちょうどいいとの説明を受け、加えて加藤は松本(と『週刊朝日』で『黒い画集』シリーズ担当の永井萌二)を鹿島槍ヶ岳に連れて登山し、「現地講義」を行ったが、山の中腹まで現地を踏み、実景を見た点で、書くのに自信がついた、と松本は回想している[3]

 

 上記引用文からリンクされた [3] をたどると、脚注として

「灰色の皺」に加えて、扇谷正造「『黒い画集』の思い出」(『松本清張全集 第4巻』(1971年8月、文藝春秋)付属の月報に掲載)参照。

と書かれている。 しかし、私が『松本清張全集 第4巻』の月報を確認した限り、扇谷正造の「『黒い画集』の思い出」には加藤薫の名前は出てこない。一方、清張のエッセイ「灰色の皺」(初出『オール讀物』1971年5月号)は中公文庫の『実感的人生論』(2004)で読める。

 

www.chuko.co.jp

 

 第1回でも少しだけ書いたが、清張自身が加藤薫に触れた部分は1箇所だけだ。以下引用する。 

  山といえば、十年ばかり前に『遭難』というのを書いたことがある。当時は登山ブームの興隆期で、ジャーナリズムも山の遭難を男性美扱いにしていた。ある山登りの人が雑誌の座談会かで「山に登る人間には悪人が居ない」などと云っていた。あるいはそうかもしれないが、そういう決定的な言い方に少しばかり反撥を感じた。そこで、一応のプロットは考えたが、わたしは登山など一度もしたことがない。ある登山家に相談すると、そのプロットにちょうどいいのは鹿島槍の頂上だという。克明に地図で説明してくれたが、登山靴を初めて買って出かけたような男だから、山の中腹で落伍した。わたしは心臓があまり丈夫でないし、足弱の点は女なみである。けれど、たとえ中腹だけでも現地を踏み、実景を見たという点では書くのに自信がついた。

 加藤薫氏は登山の経験家だから、その点は危なげがないばかりか、エキスパートだけが知る感覚と発見がある。前にスイス側からのアルプスを背景とした氏の短編を読んだことがあるが、惹かれた。氏も「登山家の悪人」を書いているから、わたしも意を強くしている。

 

松本清張「灰色の皺」より - 『実感的人生論』中公文庫 2004, 143-144頁)

 

 さらに清張には「『黒い画集』を終わって」と題した小文を書いていて、前記清張全集の第4巻に収録されているが、こちらは1961年に刊行された『黒い画集』のカッパ・ノベルス版第3巻の巻末が初出で、加藤薫の名前は出てこない。この文章には、清張が冷池小屋(現冷池山荘、「冷池」は「つべたいけ」と読む)まで登ったことが記されている。

 おそらく、Wikipediaに「加藤薫が清張に協力した」と書いた人は、「灰色の皺」の上記引用文から、「ある登山家=加藤薫」と推定したと思われるが、それは確かではない。というのは、加藤薫が小説家としてデビューしたのは1969年の「アルプスに死す」によってであって(上記引用文中で清張が褒めたのはこの小説と思われる)、清張の「遭難」は加藤のデビューよりも11年も前の作品だからだ。しかも、清張のエッセイでは「ある登山家=加藤薫氏」だとは一言も書いていない。そればかりか、加藤薫に対しては「登山の経験家」として「登山家」とは書き分けているから、上記の文章から「ある登山家=加藤薫」と断定するには無理がある。

 加藤薫の「遭難」は、清張作品と同じ鹿島槍を舞台として(加藤作品では「海抜三千メートルの北アルプスK峰」と書かれているが、これが鹿島槍を指すことは雑誌初出時=『オール讀物』1970年1月号=に雑誌の目次でバラされている*1)同じ主人公名で書かれているが、これは加藤薫が実際に冬の鹿島槍で死亡事故を起こしたパーティーのメンバーだったことと、自作を評価してくれた清張へのオマージュへの意味合いがあったのではないかとも推測される*2。同様に清張の「遭難」へのオマージュをこめた作品として私が思い出すのは、折原一の長篇『遭難者』だ。

 

www.kadokawa.co.jp

 

  折原の『遭難者』は、単行本初出時及び角川文庫版では遭難事故の追悼文集と解決編の2冊組という凝った作りになっているが、最初に追悼文が置かれる構成はまんま清張の「遭難」であり、舞台も同じ北アルプスの、しかし鹿島槍ではなく不帰ノ嶮(かえらずのけん)になっている。不帰ノ嶮近くにある不帰キレット鹿島槍の近くにあって小説中でパーティーが目指した八峰キレットは、槍ヶ岳穂高岳を結ぶ縦走路にある大キレットと並んで「三大キレット(切戸)」と呼ばれる難所だから、折原が舞台設定でも清張作品を意識していたことはあまりにも明らかだ。

 作家の阿刀田高も、普段登山をしない清張が「遭難」を書いたことに舌を巻いた一人だ。以下、阿刀田の『松本清張を推理する』(朝日新書 2009)から引用する。

 

publications.asahi.com

 

 阿刀田はまず清張の「『黒い画集』を終わって」を引用し、そのあとに次のように書いている。

(前略)旅行好きの人ではあったが、本格的な登山の経験は乏しい。しかし〈遭難〉は、その知識なしでは創れるしろものではない。

 ――ずいぶんと勉強したんだろうなあ――

 と舌を巻いてしまう。

 まったくの話、ミステリーが求めるにふさわしい状況を現実の中に見つけだすのは、ほとんどの場合すこぶるむつかしい。とりわけ〈遭難〉の場合、それなりのキャリアを持つ登山家が、そこで、どう道をまちがえるか……まちがいやすいものか、さらにまちがえた結果がミステリーのプロットが求めるような状況になるかどうか。熟慮を経なければ書きにくい。熟慮しても見つからないかもしれない。

 逆ならば、ありうる。多くの登山を経験し、そのあとで、

 ――あそこならミステリーの舞台になるかなあ――

 と筆を執るのが通例だ。わかりやすい。

 が、それではなく、未経験者が登山関係の資料をあさり、登山家の話を数多く聞き、鹿島槍の一コースを見つけたのは、まさに松本清張という作家の情報収集の凄さであり、嗅覚の鋭さであり、一つの好運でもあったろう。よい舞台がみつからなければ、この作品は最初(はな)から生まれなかったろう。よい協力者も実在したにちがいない。

 そして執筆を決めたあとで、四十八歳の年齢にもかかわらずそのコースを瞥見しようとしたようだ。これは、まあ、小説家ならたいてい実行する。実行しないと書きにくい。清張さんなら当然試みただろう。

 さらに発表するまでに登山家の入念なチェックも受けたにちがいない。結果として登山家から見て作品内容は、登山の常識からほとんど逸脱することのない記述となった。

 みごとである。名作である。努力賞は文句なしだ。

 が、推理小説としては、どうなのだろうか。まったく瑕瑾がないだろうか。

(中略)

 古典的な……江戸川乱歩のころの探偵小説を思い出してしまう。(後略)

 

阿刀田高松本清張を推理する』朝日新書 2009, 122-125頁)

 

 引用文の最後の方で「(中略)」とした部分で阿刀田高がつけたいちゃもんは、動機を重視する社会派のはずの清張作品にしては動機が月並みで、まるで江戸川乱歩の頃の探偵小説みたいじゃないかということだが、清張は「遭難」を掲載した『週刊朝日』向けの小説では、肩の力を抜いた作品を書くことが多かった。清張が力んで書くのはたいてい文春か新潮の媒体に載せる作品だったと私は認識している。だから阿刀田の批判は当たってはいるけれども仕方がないというのが私の意見だ。清張の晩年には『週刊朝日』に短篇を書くつもりがあっちこっちに寄り道したとりとめのない長篇になったりもしたが、40代後半の1950年代後半がもっとも脂の乗り切った時期で、その頃に書かれた『黒い画集』は清張の代表的な短篇集に仕上がっている。

 それはともかく「遭難」を入念にチェックした登山家の協力者がいたことは事実だろう。清張を鹿島槍に案内したのもその登山家だ。

 しかし、その登山家が加藤薫だったという確証はつかめなかった。というより、清張の「遭難」に協力したのは、加藤薫以外の登山家だった蓋然性が高いというのが、私の到達した結論だ。

 

 以上でこの連載を終わります。まとまりのない長文を4回もお読みいただいた読者の方々には厚くお礼申し上げます。

*1:http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/63_975b.html

*2:清張のエッセイ「灰色の皺」は加藤の「遭難」よりあとに書かれているが、加藤の「アルプスに死す」の発表後すぐに、この作品が清張から評価されたのではないかと想像される。