KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

ディケンズ『二都物語』(1859)を加賀山卓朗訳の新潮文庫新訳版(2014)で読む/ネタバレを嫌うなら中野好夫訳新潮文庫旧版(1967)は絶対に選んではいけない

 黄金週間最後の日曜日から金曜日までかけて、チャールズ・ディケンズの『二都物語』(加賀山卓朗訳, 新潮文庫版2014)を読んだ。

 

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 最初に大事なことを書いておくと、今回の読書では非常な幸運に恵まれた。というのは、本作の末尾に非常に有名な場面があるのだが、それを知らないまま読むことができたからだ。本作は演劇やミュージカルなどの舞台化が頻繁に行われたり、高校などの授業で教えられるなどしているため、本を読まないうちから結末をご存知の方も多いと思われるが、私はこの歳までそれを知らなかった。知っていたのは、「二都」がロンドンとパリを指し、フランス革命期を舞台とした小説であることくらいだった。

 もし私と同様本作についてほとんど知らず、かつ読みたいと思われる方がおられるなら、絶対に避けていただきたいのは2014年まで売られていた新潮文庫中野好夫訳の上下巻本だ。あれは下巻の裏表紙の作品紹介にクライマックスの部分のネタバレが盛大に書かれている。しかも、本記事ののちほどで批判するが、訳者・中野好夫(1903-1985)自身が書いた解説文にも非常に問題がある。本屋に売られているのは新潮文庫本なら2014年に刊行された新訳版である加賀山卓朗(1962-)訳の一巻本であり、この本の裏表紙には中野訳旧版の上巻の裏表紙と同じようなことが書かれているだけで、結末部分のネタバレは含まれていない。

 本作には他に池央耿(1940-)訳の光文社古典新訳文庫版(2016年刊)がある。私が住む東京都の某区には多くの図書館があり、光文社文庫版を置いてある図書館もあるようだったので、古い左翼人士である中野好夫が訳した新潮文庫旧版は最初から選択肢から外して、新潮文庫新版と光文社文庫版のどちらにしようかと思って少し調べてみたところ、訳者がほぼ私と同世代の人である加賀山卓朗訳の方が良さそうだと思ったのでこれを借りた。借りた図書館にはこの新訳版が2冊と中野訳の旧訳版上下巻の1セットが置いてあったが、この中野訳を最初に読むことだけは止めておけというのが私の強いリコメンドである。

 なお加賀山卓朗には同じディケンズの『オリヴァー・ツイスト』の新潮文庫新訳版(2017年刊)もあるが、私はこの作品の場合は加賀山訳ではなく光文社古典新訳文庫の唐戸信嘉(1980-)訳を選んで昨年5月後半に読んだ。

 いったいなぜこの歳になって、若い頃に中野好夫訳の『デイヴィッド・コパフィールド』新潮文庫版全4冊を読んだだけだった私がディケンズを読むようになったかという理由は、ちょうど去年の今頃に公開した下記記事に書いた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 アガサ・クリスティディケンズの『荒涼館』を絶賛していたらしいことを、図書館に置いてあった『荒涼館』最終巻の解説に書いてあったのを見て、それが運良く昨年の黄金週間が始まる直前だったので、これは黄金週間中に読むしかないと思って読み始めたところ、岩波文庫版全4冊の1巻目には大いに難渋したものの、読み進むにつれてどんどん引き込まれていくという得難い読書経験ができたのだった。だから昨年はその少しあとに『オリバー・ツイスト』を読み、久々にまとまった時間がとれた今年の黄金週間には『二都物語』を読もうと前々から決めていたのだった。しかし実際には図書館に小松左京の『日本沈没』上下巻が置いてあったのを見て衝動的に借りて読んでしまったので『二都物語』は後回しになり、黄金週間後最初の週までかかってしまった次第。

 本作も『荒涼館』同様最初は難渋したが最後は引き込まれた。長さは『荒涼館』の3分の1程度で、ディケンズの長編としては短い部類らしい。

 本記事の前半部分ではネタバレはやらないが(ネタバレ部分に入る前に、その旨をお知らせする)、少なからぬ読者が「ミエミエの展開」と評していた結末を私は予想できなかったことだけ書いておく。それはどうやら私がああいう行動をとろうとは夢にも思わない人間だからであろう。最後の最後でそれをやるらしいと知った時には、えっ、そんなことやるなよと強く思ったがどうしようもなかった。

 『荒涼館』をクリスティが絶賛したと書いたが、本作『二都物語』のストーリーテリングにも、ああ、ディケンズを生み出したイギリスからクリスティが出てきたんだなあと思わせるものがあった。それは終盤の二転三転する展開であって、終わりにできそうな展開になったのにまだこんなにページ数が残っていると二度も思った。第3部第6章(新潮文庫新訳版500頁)と第10章の終わりの部分(同583頁)がその部分に該当する。クリスティ作品のエルキュール・ポワロもの第一作長篇の『スタイルズ荘の怪事件』(1920)と同第二作『ゴルフ場殺人事件』(1923)に「多段階どんでん返し」と私が勝手に名づけている手法が用いられているが、本作を読みながら私が思い出したのはこれらのクリスティ作品だった。クリスティが初期のみならず後年の諸作品でも好んで用いた、この「多段階どんでん返し」の手法は松本清張をはじめとして日本国内の多くのミステリにも使われている。『ゴルフ場殺人事件』は私には結末が読めたが、本作ではディケンズのたくらみに気づかなかったことは前述の通り。

 訳者の加賀山卓朗は本書に解説に下記のように書いている。

 

 本書は彼の長篇にしては短めで、週刊掲載だったこともあって話の展開が速く、ディケンズの小説は長いからと敬遠していたかたにこそお薦めしたい。法廷劇、殺人、復讐、暴動、スパイの暗躍、秘められた過去など、ミステリーファンを愉しませる趣向にも富んでいる。ディケンズと聞いてまず頭に浮かぶのは、数々の魅力的な登場人物である。とくに市井の人々を生き生きと自在に描き出す巧(うま)さは、百五十年以上を経たいまでも他の追随を許さない(さらにそれを子供の視点で書かせれば無敵である)。しかし、本書については、作者自身があらかじめ、“事件からなる物語”を書くという方針を定め、事件に沿って人物を動かす手法をとったようだ。

 

(チャールズ・ディケンズ(加賀山卓朗訳)『二都物語』(新潮文庫, 2014)662頁)

 

 訳者は「おもにミステリーや犯罪小説の翻訳にたずさわってき」*1た人だそうだが、その分野で翻訳した作家のうちもっとも難解な英語を書いた人はジョン・ル・カレ(1931-2020)だったという。この人はフランスかどこかの人みたいな姓だけれどもこれは筆名で、本名はデイヴィッド・ジョン・ムーア・コーンウェルというイギリス人で、晩年にはイギリスの欧州連合からの離脱を批判してアイルランド国籍をとったとのこと(以上Wikipediaより)。

 訳者によるとこのカレの文章は「ほかの作家の二、三倍はむずかしく、時間もそれだけかかる。が、今回のディケンズのむずかしさは、ル・カレのさらに二、三倍だった」*2という。

 ディケンズの文章は本国のイギリスなどの英語圏の人たちにとっても難解らしく、現代語訳が出ているが「いずれも比喩表現などをばっさりと簡略化していることが多く、日本人の先達のほうがずっと丁寧な仕事をしていると感じた」とのこと。ここで訳者がいう「先達」とは、前述の中野好夫に加えて、1936-37年に刊行された岩波文庫版の訳者・佐々木直次郎(1901-1943)と1966年刊行角川文庫版の訳者・本多顕彰*3(1898-1978)のことで、訳者は彼らの「既訳から多くを学ばせてもらった」*4と書いている。

 上記のように、訳業には功績があったらしい中野好夫だが、新潮文庫旧版の文末に置かれた訳者自身の解説文は、いろいろな理由によって全くいただけない。その理由を以下に書く。

 古い左翼人士だった中野好夫は、下層中産階級の視点から書かれたディケンズの諸作品自体に強い批判を持っていたと思われる。

 ディケンズの作品に階級性が強いことは、昨年公開した前記『荒涼館』の記事に書いた通りだ。上記記事にも書いた通り、ディケンズの小説は、彼が属する(下層)中産階級より上の支配階級からはディケンズの小説はマルクスの『資本論』と同一視されるなどして批判されたが、中野は1967年に書いた『二都物語』の解説文に、ディケンズには社会史的視眼がない、フランス革命について貴族の暴力と平民の暴力のどちらも悪いなどという(1967年の時点での)現在の日本の保守政治家みたいなことを言っていると悪口を書いている。要するに出自ゆえにマルクス主義史観を持たないディケンズはけしからんと言いたかったのかもしれないが、そもそも『二都物語』の刊行は1859年であり、1867年に刊行された『資本論』第1巻より8年前の作品だ。

 そもそも中野は解説文の書き始めに、前の世代の学者はディケンズを高く評価していたが自分たちの世代はそうではないという意味のことを書いており、具体的にはディケンズには構成力がない、などの批判をしているが、実はイギリス本国でもディケンズを否定する時代がかなり長くあったことが、下記「ディケンズ・フェロウシップ日本支部」の「ディケンズ評価の変遷」を参照すればわかる。

 

 上記サイトによれば「ディケンズ否定の時代」はディケンズ没年の1870年から1940年頃まで続いたとされる。主な批判のうち、ディケンズ

思想に貧しく「人間を善玉悪玉に二分しがち」で、「構成上の統一が不完全」であり、

などとする批評には私も若い頃に接した。もっとも印象に残っているのは、ディケンズの小説ではドストエフスキーとは違ってキャラクターが成長しないという批判だった。私は愚かにもその批判を真に受けて、20代後半からドストエフスキーを読むようになるとディケンズを読もうとは思わなくなったのだった。

 以降の部分には、直接的な表現は避けるけれどもネタバレに近い記述が含まれることは不可避と思われるので、それらを知りたくない方はここで読むのを止めていただくことを強くおすすめする。

 私がいつもやっているように、読み終えた本の感想をネットで調べてみると、これもいつものことだけれども憂慮すべき傾向が見られた。

 それは、新潮文庫旧版の「読書メーター」に特に顕著なのだが、中野好夫の解説に引っ張られて本作を批判しているレビューが非常に多いことだ。

 また、解説文が載っていない旧版上巻のレビューでは、作中に出てくるドファルジュ夫人、中野訳の表現ではマダム・ドファルジュを「かっこいい」と感じた読者が少なからずいたことがわかる。このマダム・ドファルジュは物語の最後で非業の死を遂げてしまうのだが、中野は解説文でこの場面は不要だったと散々こき下ろしている。どうやら中野は訳しながら彼女に肩入れしていたのではないかと勘繰ってしまった。

 確かにドファルジュ夫人には大いに同情できる要素がある。本作ではチャールズ・ダーネイは元はフランスの貴族階級の人間だったが、自らの階級の横暴を嫌ってイギリスに亡命した人物、マネット医師とその娘のヒロイン・ルーシー及び弁護士のシドニー・カートンは中産階級の人間だが、それに対して下層階級出身のマダム・ドファルジュの目からこの物語を見ればどういう話になるかとは私も読みながら思った。しかしそれと同時にこのマダム・ドファルジュからは中国の文化大革命で横行したとされる密告者を連想させる要素も強い。

 中野好夫の解説文が書かれたのは1967年1月である。文革はその前年の1967年から始まった。中野は果たして文革にどのような評価を下していたのだろうか。ネット検索をかけた限りではわからなかった。

 文革といえば告発(あるいは密告)である。それをけしかけたのはほかならぬ毛沢東だったが、毛に煽動されて実際に密告を行ったのは中国の人民だった。フランス革命期のジャコバン派独裁政権の時期にも密告が横行し、多数の無辜の人々が断頭台の露と消えたが、最後には同派の主導者だったロベスピエールサン・ジュストら自身も断頭台の露と消えた。これは歴史的事実であって「貴族の暴力も平民の暴力もけしからん」としたディケンズには社会史的視眼がないと論(あげつら)った中野好夫自身の社会史的視眼こそ今日にあって問われるべきではないかと思った。だから文革に対して中野好夫自身はどういうスタンスだったのかが気になった次第。

 なお、これは中野以外の人による本作に対する批判の例だが、ディケンズが平民の密告を使嗾した権力者を描いていないとか、貴族の暴力とプロレタリアートの暴力をともに批判するだけで、武器やらギロチンを初めとする処刑道具らを供給したブルジョア階級の責任を不問に付しているなどの批判などは確かにあり得るだろうとは私も思う。しかしそれは歴史的限界あるいは階級的限界というもので、そういう留保をつける程度なら良いだろうけれども、中野のように批判ばかりが目立つ解説文を訳者自身が書いたのはいかがなものかと思った。そしてそれを新潮文庫版旧版が出てから半世紀以上が経過した現在でも嬉しそうに読書メーターの感想文に引用する読書家たちのあり方にも問題を感じる。そして何よりも新潮文庫版旧版の最大の問題点は、下巻の裏表紙にネタバレが盛大に書かれていることにある。もし私がもっと昔に『二都物語』を新潮文庫の旧版で読もうとしたなら必ずやあの文章は目に入ったに違いないから、出版社自身によるネタバレの被害に遭うところだった。今回はそれがなく、問題の部分に至るまで気づかなかったのは本当にラッキーだった。これで中学生時代に『アクロイド殺し』を読んでいる最中にクラスメートにネタバレを食らったお返しができたようなものだ。前世紀(20世紀)はネタバレに寛容なおかしな時代だったとつくづく思う。

 最後に蛇足。さすがに加賀山卓朗訳の新潮文庫版新訳版の「読書メーター」にはわざわざ旧版の中野好夫による解説文に言及するような無粋なレビューはなかったと思うが、とんでもない感想文を見て怒り浸透に発した。これはクライマックスにもろ関連する記述でもあるので、問題の箇所を白文字とした。

 

長かった、、。そして難解な表現の数々。でもストーリー自体は面白かった!古典版容疑者Xの献身みたいな、グレートギャツビーっぽい雰囲気もあるような。

 

 何だとぉ? あんな有害図書と一緒にするな!と私が激怒したことはいうまでもない。

 ディケンズの長篇の有名作ではまだ『大いなる遺産』が未読で残っているが、これは来年の黄金週間にでも読もうかと思っている。

*1:前記新潮文庫版664頁

*2:同664-665頁

*3:ほんだ・あきら(本名の読みは「けんしょう」)

*4:以上同665頁