読み終えてから少し時間が経ってしまったが、休日が多かった今年の黄金週間に、チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の『荒涼館』全4冊(岩波文庫,2017)を読んだ。訳者は佐々木徹(1956-)で、図書館で借りて読んだ。
上記第4巻へのリンクから明らかなように、ミステリの要素も含まれる長篇だ。書かれたのはヴィクトリア朝時代の1852〜53年で、170年前の「英国社会全体」が描かれているという。
読む気になったのは、図書館で第4巻の解説文(訳者による)を見た時だった。下記のように書かれている。
アガサ・クリスティーは1966年*1「サンデイ・タイムズ」紙上で、次のように述べている――「一番好きなディケンズの小説は『荒涼館』です。プロットが本当によくできていますね。実は、前に一度依頼されてこの映画のシナリオを書いたことがあるのですが、まあ、何と豊かな登場人物たち! すばらしいキャラクターをたくさん切り捨てなければならないのがとても残念だったのをよく覚えています」。このシナリオは結局日の目を見なかったものの、クリスティーに話を持って行ったプロデューサーは慧眼の持ち主だったに違いない。『荒涼館』はミステリの一面を持っており、このジャンルの歴史の上でも重要な意義を持っている作品なのだから。
解説文の冒頭からも引用する。
『グレート・ギャツビー』の作者F・スコット・フィッツジェラルド*2は、1939年3月、当時大学生だった愛娘にあてた手紙の中で、『荒涼館』はディケンズの最高傑作であり、「反対刺激薬(カウンター・イリタント)」が欲しくなったら是非この小説を読むように薦めている。反対刺激薬とは、たとえばメントールのようにヒリヒリする刺激を与えることで別の箇所の痛みから気をそらせる薬を指す。苦い現実に接した時は、甘いものではなく、強い刺激のある本を読みなさい――フィッツジェラルドは娘への助言にそんな意味を込めているように思われる。なるほど、『荒涼館』は苦く厳しい真実を読者に突きつける。そして、辛口の社会批評に加えて、独特のユーモア、卓抜なストーリー・テリングを兼ね備えた本作は、確かにディケンズ芸術の一つの頂点を示しており、フィッツジェラルドの評価はまことに正当なものと言える。
そこまで書かれたら読まないわけにはいかない。しかし読み始めには苦戦した。ことに全4巻のうち第1巻のハードルが高く、その中でも最初の2章のハードルは特に高い。しかし読み進めるにつれてペースはぐんぐん上がり、最後の第4巻はまる1日も要さずに一気読みした。
以後、小説の内容に言及する。そもそも本作の具体的な中身について何も知りたくない方はここで読むのを止めていただきたい。
また、本記事の後半部にはミステリ部分のネタバレが含まれる。ネタバレ部分の直前に再度お知らせするので、それまでの部分では殺人事件の犯人には言及しない。
『荒涼館』は私が読んだ岩波文庫版の他に、1989年に刊行されたちくま文庫の4巻本があり、私が住む東京都の区内には、こちらだけ置いてある図書館もあった。ちくま文庫版は青木雄造(1917-1982)と小池滋(1931-)の共訳で、筑摩書店の「世界文学全集」第29巻として1969年に刊行された。図書館に多く(私の住む区内では5箇所に)置いてあるのは「筑摩世界文学大系」第34巻であって、こちらは1975年に刊行されている。なお、小池滋は東大文学部教授だった青木雄造の教え子らしく、ちくま文庫を見ると全部で69章からなる『荒涼館』の第1〜34章(筑摩文庫本では第1巻から第3巻の初めの2章まで)を青木、第35〜69章を小池が訳したことになっているが、Wikipediaの「青木雄造」の項にはとんでもないことが書かれている。以下引用する。
弟子(恐らく小池滋)と共訳(恐らく『荒涼館』)出版をすることになり、青木自身は前半を受け持ったが、青木がまるで仕事をしないので、小池が前へさかのぼって訳し、遂に第二章まで達してしまったという。
『資本論』といえば、やはりちくま文庫版の解説文をチラ見しただけなのだが、ディケンズ後期の『大いなる遺産』(1861)が『資本論』に匹敵する破壊力を持つとも評されていたらしい。
後年の作家であるアガサ・クリスティが主にアッパー・ミドルの階級を描いたのとは対照的に、ディケンズが属していた階級はローワー・ミドルであって、その階級意識が作品世界に強く反映されていると指摘されているようだ。中流階級には属するもののアッパー・ミドルには属さないと思われる『荒涼館』のヒロイン、エスター・サマソンが労働者階級を見る目線にも階級意識が反映されていると、岩波文庫版訳者の佐々木徹は指摘する。以下、三たび岩波文庫版最終巻の解説文を引用する。
エスターは19世紀の階層社会において、中流階級におさまっている人物である。だから、自分は下層の労働者とは身分が違う、と当然のように思っていた。これが社会の常識だったのである。ディケンズ自身は中流階級の底辺に近い家庭に生まれ、12歳の頃、経済感覚のない父親のせいで働きに出され、労働者の子供と交わらざるを得なかったことを非常な屈辱と感じた(父親は債務者監獄に入れられたため、彼はしばらく家族と離れて一人で暮らさねばならなかった――ディケンズ小説の孤児たちの原型がここにある)。イギリスの小説はどれを読んでも階級意識が窺えるが、その特徴がディケンズの作品には特に明瞭に現れている。
マルクスの生前に刊行された『資本論』第1巻には、イギリスの苛酷な児童労働の実例を多く挙げた箇所があるが、『大いなる遺産』(私は未読)には具体的な児童労働が描かれているのではないかと思われる。だから、ディケンズより上の階級に属する人間が『大いなる遺産』が『資本論』に匹敵する破壊力を持っているとして脅威を感じたのではないかと推測される。なお、マルクス自身も「プロレタリアと一緒にされてたまるか」という階級意識を持っていたことを、労農派系の学者は指摘している。かつての社会党の社会主義研究会は労農派系であり、彼らは等身大のマルクス像を描くことをタブーとはしなかった。そのあたりが、マルクスを神聖不可侵として祭り上げる傾向の強い講座派系(共産党系)と強い対照をなしているようだ。労農派、講座派の話は棚に上げたとしても、マルクスが「ルンペンプロレタリアート」を革命の担い手から除外していたのは誰も否定できない事実であって、それを捉えてのマルクス批判もなされている。
『荒涼館』の周辺部ばかり述べてきたが、ここらから核心部に入ることにする。
本作は、およそ半分が三人称、残り半分がエスターの一人称で書かれているという文体上の大きな特徴がある。クリスティが『ABC殺人事件』の主要部分をヘイスティングズの一人称で書き、ところどころに三人称の文章を挿入しているが、その先駆をなしている。
読みやすいのはエスターの一人称の部分だが、英語の原文では最終章を除いて過去形の時制が用いられているのに対し、三人称の部分では現在形の時制が用いられているようだ。それは日本語の訳文に反映されてはいるが、なにぶん日本語には時制がないので対照の鮮やかさにやや欠ける。エスターの語りに平仮名が多用されているのはそれを補うための工夫だろうか。エスタ*3の語りに平仮名が多いのはちくま文庫版でも採用されている手法だが、岩波文庫版ではそれがかなり極端だ。それを読みにくいと感じる読者も少なくないようだが、私はそのような抵抗は持たなかった。
初登場する第3章の最初で「りこうではない」と謙遜しながら自信なさそうに語り始めるエスターの語り口を印象づけるために平仮名を多用しているとも推測されるが、さほど読み進めないうちに、この謙遜はエスターの内心の自負心とはかなりかけ離れていることがわかってくる。読み進めるほどに他の登場人物の大多数と比較してエスターが聡明であることがはっきりするし、後述のエスターの出生の秘密からいっても、エスターが大変な美人である可能性が高いことがわかる。従って、エスターは「信頼できない語り手」の範疇に入るのではないかと思った。少なくとも語り手のエスターは自分の感情を真っ直ぐに表出してはいない。
このあたりから、未読の方は知らない方が良いと思われる部分への言及を始める。まだ殺人事件のネタバレまでには若干の間があるが、私が「未読だが本作を読みたい読者」であれば知りたくないと思うに違いない内容が、このすぐあとの文章以降に含まれている。
本作のミステリの部分は、実は(ある程度予想はしていたが)大したことはない。それよりもエスターの出生の秘密の方が興味深いのだが、実は本作の時系列以前に起きた出来事の全貌は明らかにされておらず、読者の想像に任されている。
たとえば、エスターの実母であるレディー・デッドロックは、上流階級に属するサー・レスター・デッドロック准男爵と結婚する前はいかなる階級に属していたのかというのが不明だ。サー・レスターと同じ上流階級ではなく、中流階級ではないかと推測されるが明記されていない。
また、浮浪児のジョーが罹患し、エスターが移されて顔に痕が残った病気は天然痘であると一般に解釈されており、その場合エスターの顔の痕は一生残るが、実は本作には病名は明記されていない。しかも、第64章で弁護士になったガッピーから再度求婚されたり、物語の最後で夫のアランに「きみはまえよりもきれいだよ」と言われたりしている。これを、人間として成長したエスターの内面の美しさを表現したとも解釈できるが、曲者はガッピーの再求婚だ。本作ではガッピーは俗物として馬鹿にした描き方がされていて、過去に美しかったに違いないエスター(本人の謙遜は「信頼できない語り手」なので全くあてにならない)の顔に病気による痕ができたのを見て目を丸くし、求婚を取り下げてしまったいきさつがある。そんなガッピーの再求婚については、最初読んだ時には「あんな奴にもいいところがあったのか」と思ったが、ネット検索をかけて、エスターの顔面の痕が薄れていったとの解釈があると知って、そちらの解釈に軍配を上げたくなった。その方が救いがあるのに加え、ガッピーのキャラクターによく合っていると思うからだ。この場合、エスターが罹患したのは「天然痘ではない正体不明の病気」だったことになる。丹毒(チフスの合併症)という病気だったとする説もあるようだ。
エスターという「信頼できない語り手」の過去形での語りは、物語の進行、特にのちちに不幸な最期を遂げる登場人物の行く末を示唆するとともに、以下は私の発見ではなくどこかで指摘されていたの受け売りだが、自分の感情を他の人物の感情にすり替えて語る癖がある。また、本当は自分の顔の変化を非常に気にしており(それはどんな人にとっても自然な感情だろう)、それがアラン・ウッドコートに対する真情を語らない理由になっているのではないかと私は思ったが、これには同感の読者が多いのではなかろうか。
また「良い人」としてしか描かれていないジョン・ジャーンダイス氏が早い時期からエスターを結婚相手に想定していたことは明らかだが、最終的にはエスターの本当の気持ちを承知しているジャーンダイス氏が自ら身を引いている。このあたりは「本当に良い人かどうか十分には信頼できなかったジャーンダイス氏は、それでもやっぱり良い人だった」という無難な結末だといえる。
そしてどうなっているのかと最初からずっと訝っていた「ジャーンダイス対ジャーンダイス」の訴訟におけるエイダ、リチャードとジャーンダイス氏との利害関係は、結末近くになって初めて明らかにされる。クリスティのミステリを多く読んできた私は、三者、特に「エイダとリチャード」と「ジャーンダイス氏」とは実は対立する利害関係にあるのではないかとずっと疑ってきたが、その想像が当たっていたことが第62章「もう一つわかったこと」で初めて明かされた。それとともに、新たに見つかった遺言書によってジャーンダイス氏の取り分は減り、エイダとリチャードの取り分が増えることが明らかになった。このことから推測されるのは、ある時期からリチャードがジャーンダイス氏を憎むようになったのは、互いの利害関係が対立していることをリチャードが知ったからではないかということだ。
そしていつ果てるかわからないかに思われた訴訟は結審を迎えるが、それはエスターが予期した通り、エイダとリチャードを金持ちにする結果ではなかった。ジャーンダイス家の遺産が訴訟によって消尽された結果だったのである。このくだりには意表を突かれた。「やられた」と思った。この結審にショックを受けたリチャードは、それまでにも進行していた病気を悪化させて死んでしまうが、リチャードの悲劇的な最期はエスターの語りにたびたび予告されていた。
そしてエスターの母の死。それに至る失踪した母の追跡劇は、アガサ・クリスティの作品のいくつかを思い出させた。彼女のアドベンチャーものには追跡劇がよく出てくるが、それらではなく、ポワロを探偵とするミステリものの『もの言えぬ証人』の追跡劇が強く連想された。悲劇性が共通している。『もの言えぬ証人』も多くの読者にとっては「意外な犯人」だったに違いない*4。
これ以降にミステリ部分のネタバレが含まれる。
本作では謎の死を遂げる人物が3人いるが、クリスティ作品を読みすぎの私は3件とも殺人事件で、犯人はあの人なのかなと思ってしまった。とはいえ1件目はあの人が殺したと考えるのはさすがに無理があるとも思ったし、肝心の3件目があの「意外な犯人」である可能性も頭に入れてはいたが、後者についてはミステリ小説の要素もあるとはいえミステリ小説そのものではないのだから「意外な犯人」でないのかもしれないと思って強引に読み進めた結果、まんまとディケンズのミスリードにはまってしまった次第。
まず何より、殺人事件は1件だけだった。1件目は本当にアヘン中毒死だったし、2件目の「酒飲みの自然発火による死」も(驚いたことに)本当にその通りの設定だった。当時信じられていた俗説をディケンズが信じていたものらしい。ちくま文庫版ではそれに関する注釈が詳しかったらしく、読書サイトを見る限り、同文庫版でこの箇所を誤読した読者はほとんどいなかったようだ。あるいは岩波文庫版にもきっちり注釈されていて、私が読み飛ばしただけなのかもしれないが、私は秘密を隠匿したいに違いにないあの人が「殺った」のではないかと疑ってしまった。
そして第3巻の終わり近くに起きた殺人事件。ここではディケンズは露骨にあの人、つまりエスターの母であるレディー・デッドロックが犯人であるかのようなミスリードを行っている。最初に逮捕されたジョージが犯人でないのは明らかだったが、バケット警部はサー・レスターに向かって「犯人は女でした」*5と告げる。ところが、バケット警部が名指しした真犯人はレディー・デッドロックではなく、彼女のかつてのメイドだったフランス人・オルタンスだった。この登場人物がレディー・デッドロックに恨みがあることを私は気に留めてはいたのだが、クリスティ作品でもあるまいしオルタンスではなく順当にデッドロック夫人が犯人だろうと高をくくっていたらやられてしまった。
とはいえ、バケット警部の推理はザルもいいところで、読者に十分な手がかりが与えられているわけでも何でもないから、別に犯人当てできなくても問題はない。この場面に引き続いて失踪したデッドロック夫人をバケット警部とエスターが追跡する緊迫した場面が続くが、こちらの方が印象に残るしはらはらどきどきする。しかし、追跡に時間がかかりすぎることなどから、徐々にデッドロック夫人の死で終わるだろうなその想像が強まり、その場面に備えて十分な覚悟を持って読み進めざるを得なくなる。そして、夫人が倒れている挿絵に遭遇した。原著に収録され手いたと思われる「朝」と題するこの挿絵は岩波文庫版第4巻の305頁にあり、「それは死んでつめたくなった母の顔でした」とエスターが語る。この場面が本作の悲しいクライマックスだった。これが第59章で、このあとの第60〜69章は収束への過程になる。最後の第69章でエスターが初めて現在時制を用いて語っている。
なお、デッドロック夫人の遺体を発見する場面で、デッドロック夫人と煉瓦造り職人の妻・ジェニーの服装が交換されているのは、社会において階級間の移動が行われるようになることを暗示しているとみられる。この指摘は多くなされている。
また、デッドロック家の女中頭であるラウンスウェル夫人の長男が鉄工所を経営し、ホイッグ党(自由党の前身)と見られる政党から選挙に立候補して当選するが、これは1830年の選挙によってであろうと推測されるようだ。本書が書かれたのは1850年代初頭だが、鉄道網が建設中だったことから1830年代と推測され、かつトーリー党(保守党の前身)からホイッグ党への政権交代が起きたのは1830年だった。1760年の産業革命開始から70年。新興の中産階級ブルジョワがホイッグ党の代議士になる時代になった。但し、イギリスで普通選挙が始まったのはずっとのちの1918年であって、ホイッグ党も必ずしもブルジョワ政党ではなく、構成員にも上流階級の人間が多数いたらしい。
そうではあっても、選挙結果はトーリー党と思われる政党を支持するサー・レスターには痛手だった。夫人に家を出て行かれた上に死なれ、選挙結果も望みに反したサー・レスターは病気で倒れて死には到らなかったものの再起不能となり、デッドロック家は凋落していった。
文学的素養を全く欠く私が(これは決して「信頼できない語り手」の謙遜ではなく事実だ)年をとってから小説を多く読むようになったのは、いろんな時代やいろんな国の社会が活写されているフィクションから、その地域及び時代の社会を理解する手がかりが得られる楽しみがあることを知ったからだ。
本作には殺人事件の箇所に限らず、最初読んだ時にはわからない伏線があとでつながる箇所が多い。たとえばヒロインのエスターの母は第2巻の前半で、父は同じ第2巻の後半で明らかになある。ジョージがラウンスウェル夫人の次男であることも、ある箇所に固有名詞が出てくることから推測可能だとの未確認情報を得た。
つまり、本書には種明かしをされたあとの再読の楽しみがあると思われる。また、前述のように明らかにされていない部分も多いので、明らかにされた情報を元にそれを推測する楽しみもあるだろう。
しかしなにぶんにもあまりにも長い小説だ。本作を再読するよりも、まだ読んでいない本を読む方を優先せざるを得ない。
今後、ある年数を無事生き長らえることができて仕事をリタイアし、なおかつとれる時間がまだ残されているという幸運が得られるなら、本作を是非再読したいと思った。
なお、岩波文庫版には「主な登場人物」が各巻4頁にわたって紹介されているのが非常に親切だと思った。かなりマイナーな登場人物まで網羅されている。ちくま文庫版はそうではない。また岩波文庫版には挿絵があるが、ちくま文庫版にはない。以上の理由から、岩波かちくまかの選択であれば岩波文庫版が断然おすすめだ。
ネタバレの被害にほとんど遭うことなく(ごく一部、文庫本のカバーに不要な情報が書かれていたのが例外だった)大作を読み終えることができて良かった。そう言いつつネタバレ満載の記事を書いてしまったが。
ディケンズの長篇は1980年代に新潮文庫で『デイヴィッド・コパフィールド』を読んで以来。誰だったか日本の小説家が薦めたから読んだのではなかったかと記憶する。その他の長篇は全然読んでいなかったが、遅ればせながら他の作品も読んでみようかと思った。