先月末に読んだ大岡昇平の『事件』に続いて、月初に坂口安吾の『不連続殺人事件』(新潮文庫)を読んだ。今回は基本的にネタバレはごく一部の例外を除いてやらない。
作品名は以前から知っていたが、昨年(2018年)秋に新潮文庫入りして本屋で平積みになっていたので買った。帯の裏表紙側に「乱歩も清張も驚いた。」とある。松本清張は本作を
わたしはこれを初めて読んだとき驚嘆した。ただ意外性を狙っただけではなく、伏線が充分であり、「人間」が存在している。
と評したそうだ。この清張の言葉にひかれて買ったのだが、長く「積ん読」になっていた。それが、大岡昇平『事件』の解説で本作が言及されていたので、それがトリガーになって読む気を起こしたのだった。私の場合、買った本はこういう読み方になることが多い。図書館で借りる本は2週間という返却期限があるので、いつもそちらを優先するのだ。
本作は、実はかなりの数があるらしい坂口安吾の「探偵小説」*1の中でも最高傑作とされている。作風な純粋な謎解きスタイルで、エラリー・クイーンばりの「読者への挑戦」もあるが、これは新潮文庫版刊行以前に長く本書の定番だったという角川文庫版では省略されているらしい。新潮文庫版には登場人物一覧も載っているが角川文庫版にはそれもないらしく、この小説は登場人物の数が異様に多いので(作中で殺される登場人物の数も半端ない*2)、登場人物の一覧表は助かる*3。
これらはこの新潮文庫版が、かつて創元推理文庫として刊行された『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』を底本としているためだ。新潮文庫版巻末の解説には、長く創元推理文庫の編集に携わった戸川安宣氏と、推理作家の北村薫氏との対談が掲載されている。これがなかなか興味深い。
安吾が作家仲間らと探偵小説の犯人当てごっこに熱中したものの、安吾は犯人当てが大の大の苦手で、当てたのは一度だけだったと大井広介が言っていたというのは、私は知らなかったけれどもネットで調べてみたところ結構有名な話だそうだ。
それよりも、前記の推理作家・北村薫氏が語った下記のエピソードには爆笑した。以下新潮文庫版の解説から引用する。
北村 (前略)話を安吾の推理小説観に戻しますと、安吾の考えが分かりやすく書かれている「推理小説論*4」という文章があります。この中では安吾は横溝の「蝶々殺人事件」が傑作だと書いています。なるほど「蝶々」はそんなにすごいのかと読んでいくと、あろうことか「一つ難を云えば、犯人の○○が……」と書いてあるんです。
戸川 犯人を書いちゃった(笑)
北村 愕然としました。「おい、待ってくれよ」と。「本陣」よりも傑作だという作品の犯人を書いてしまっている。これは自分の記憶を改変しなければならないと思って、買ってあった「蝶々」に、登場人物表から適当な名前を見つけて、「犯人は誰々」と別の名前を書いておいたんです。さらに数年経って、記憶が薄らいだころに読んでみたら、なんと安吾が書いていたのと犯人が違うんですよ。
今回読んだ新潮文庫版でもっとも強い印象を残したのはこの箇所だった。腹の皮がよじれるほど笑ってしまった。
ところで私は6年前の晩秋に突然松本清張にはまって以来、国内、海外を問わず小説を読む機会が増えたが、それはいろんな時代にいろんな国や地方で書かれた小説を読むことによって、その時代のその国やその地方の空気が読み取れるからだ。それは教科書的あるいは歴史学的なアプローチとは違った視点から書かれているので、その時代のその国(地方)の像を立体的にとらえることができる。これが(年をとって)小説を読む楽しみであることに気づいた。
その観点からいえば、純粋なパズル的な興味で書かれた安吾の『不連続殺人事件』にはそのような楽しみはないのではないか。読み終えて最初はそうも思った。
しかし、それはとんでもない誤りであることに程なく気づいた。
この小説を読んで誰もが感じるであろう不思議な開放感。それこそが「時代の空気」の反映なのだ。
70年以上前の有閑階級の人たちが、殺人事件が繰り広げられている邸から逃げ出そうともせずに馬鹿騒ぎを繰り広げるのはリアリティがない、などとする感想も多く見掛けたが、なぜそんな小説を安吾は書いたのか。
それはその直前には「探偵小説」が弾圧された*5長く暗い戦争の時代があり、それから解放された喜びがあったからだ。「崩壊の時代」から脱した開放感こそ『不連続殺人事件』の最大の魅力なのだ。遠くない将来、そのような時代が再びこの国に訪れるかもしれない。その前にとんでもない苦難が待ち構えているかもしれないが……。
表題作に併録された「アンゴウ」(1948)、これはもろに戦争の傷跡が反映された短篇だ。表題はいうまでもなく作者のペンネーム(本名は坂口炳五)と「暗号」を引っかけたもので、暗号もののミステリー仕立てだが、意外な結末が胸を打つ。
今回は公開が予定より遅れた。9月に入ってその他に読んだ本を列挙する。
まず、森山至貴『LGBTを読み解く - クィア・スタディーズ入門』(ちくま新書)。
次いで、『kojitakenの日記』の下記記事でも一度言及した、星野智幸『未来の記憶は蘭のなかで作られる』(岩波書店)。
セクシュアル・マイノリティを含むマイノリティの排除に関しては、著者は早くから覚醒的だった。と同時に、同じ『kojitakenの日記』の記事で言及した同じ著者の短編小説集『焰』(新潮社)には著者自身の体験が深く反映されていることがわかる。たとえば著者は2008年1月に右耳の突発性難聴を患い(ちょうど浜崎あゆみが同じ病気を患った*6ことが報じられた直後だ)、著者は2013年秋から右耳に補聴器を着用するようになったそうだが、その難聴に起因する耳鳴りは2016年の時点でも続いており、ホワイトノイズのような耳鳴りに悩まされているようだ。さらに「中学生に入ったかどうか」の少年時代に父を失った著者が
母に「うちはこれから大変になるのだからお墓を作るのはやめよう」というようなことを訴えた。生き延びねばならない、という恐怖で頭がいっぱいになったのだ。
と書いた経験も短篇「乗り換え」に出てくる(『焰』210頁)。この短篇は、著者自身によると
「以前書いた『俺俺』は大勢の他人が自分になっていきましたが、これが逆ベクトルで、自分が分岐していく。いろんな自分がありえたかもしれない、という話です」
とのことだ*7。たまたま図書館でこの2冊が隣り合わせに置いてあったから両方借りて読んだが、幸運だったと思うとともに、これで小説とエッセイを合わせて5冊読んだ星野智幸の本をさらに読んでみようと思った。
最後は、実は星野智幸の2冊を読む前に読んだのだが、笹本稜平の山岳小説『春を背負って』(文春文庫)。
これは今月読んだ中では唯一の肩の凝らない娯楽小説。映画化もされたらしい。映画では北アルプスの鋭峰・剣岳が舞台になっているが、小説は奥秩父の架空の山小屋(甲武信小屋と大弛小屋の中間に設定されている)が舞台になっている。著者がハードな山岳小説を書いていることは知っていたが(未読)、本作のような「ほのぼの系」の連作小説も書いていたとは知らなかった。
驚いたのは、ネット検索をかけて実在の金峰山小屋の主人夫妻の境遇をモデルにしているらしいことを知ったとき。
以下引用する。
実在する山に、架空の山小屋を設置し小説の舞台にした笹本氏のアイディアには驚かされました。この山域に行ってきた後だったので、その時立ち寄った金峰山小屋のオーナー夫妻の境遇にそっくりな小屋経営までの展開で思わず金峰山小屋のオーナー氏にメールしてしまいました(返信で地元川上村の図書館からも同じような問い合わせがあったとか)。地図を横に置き心温まる内容に楽しく読めました。作者笹本氏は自分をゴロさんに置き換えて小説の中に登場しているのかな?またこの山域に行ってみたくなりました。 梓小屋だれか作らないかな。
調べてみるとその通りで、違うのは交通事故した小屋主の息子ではなく娘さんがあとを継いだらしいこと。その後娘さんは結婚して夫婦で山小屋を経営していが、子どもを3人もうけて山を下りたそうだ。
上記記事からリンクされているYahoo! ブログの記事は、もうすぐ同ブログのサービスが停止されて読めなくなるようだから、今のうちに記事を引用しておく。2008年夏の記事だから、小説が間欠的に連載され始めた前年に当たる。作者は下記ブログ記事に書かれたNHKの番組「小さな旅」を見て本作を着想したものだろうか。
https://blogs.yahoo.co.jp/racoonk2mt/54521453.html(2008年8月1日)
8月9日ころから約10日の予定でNHKが金峰山小屋と山頂周辺の取材をします。
金峰山と深いかかわりもつ金峰山小屋愛好会のメンバーが、金峰山と頂上直下の山小屋になぜ愛着を持ち続けるかを取材してほしいものです。
今の小屋主は、先代林袈裟夫が交通事故で亡くなった後、長女の綾子さんと真一さん夫妻が小屋に入っています。
先代の人柄を慕って小屋通いになり、食料等の荷揚げのボッカをするなどボランティアをつづけました。
今は若夫妻を盛り上げながら金峰小屋を守りつづける会員。
先代の会員は影の形で、若夫妻の下に集まった若い会員と肩を組みながら汗を流しています。
石楠花の時期は過ぎましたが、岩陰に咲くガンコウランなどの高山植物を鑑賞してほしいものです。
小屋は夜ともなると山々に憧憬の深い会員との山談義が楽しめます。
会員には、プロの写真家から山岳作家が四季折々に来ては、小屋での楽しいひと時を過ごしてもいます。
NHKの取材予定にあわせて金峰山と金峰山小屋を訪れて来られませんか。
私もお盆のころには金峰山に入ります。
小屋でお会いできるといいですね。
長くなったが、やっと書き上がった。読書ブログの記事は毎回書くのにえらく時間がかかる。
*1:現在は「推理小説」と呼ばれ、私が最初にこの分野に興味を持った少年時代の1970年代には既にそうだったが、私の亡父などの世代では「探偵小説」との呼称が普通だった。
*2:これはネタバレだ。ご容赦願いたい。
*3:もっとも私はあまりの登場人物の多さに音を上げたのと、本作を読んだ時には特に疲労が蓄積していて犯人を当ててやろうという気も起きなかったので、それよりは無頼派・安吾の文章を楽しみながら読むスタイルに徹していた。犯人は怪しいと思っていたうちの1人だったし(そもそも次々と登場人物が殺されていくので、犯人の候補は自ずから絞られてしまう)、トリックも明かされてみれば「ああ、そういうことか」と思えるものだった。読んでいるときには気づかなかったが、推理小説を読み慣れた人なら気づくかもな、と思ったし、現に各種の読者によるレビューを見ると、トリックを見破った、あれはアガサ・クリスティの某作品と同じトリックだと指摘している例が少なからず見られた。
*5:厳密に言えば、実際に行われた弾圧に加えて、弾圧を恐れた「探偵小説」作家たちによる「忖度」や自主規制が行われた。以前江戸川乱歩について調べた時、乱歩も最初は圧力に抵抗していたが、のちには自主的に時流に迎合した小説を戦時中に書いたことを知った。