KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

アガサ・クリスティ『ゴルフ場殺人事件』と東野圭吾『容疑者Xの献身』の感心しない「共通点」

 初めにおことわりしますが、このエントリにはアガサ・クリスティ(1890-1976)及び東野圭吾推理小説に関するネタバレが思いっ切り含まれているので、それを知りたくない方は読まないで下さい。

 

 今年(2021年)に入ってクリスティ作品を4冊読んだ。

 実は私の少年時代、クリスティのミステリに関する嫌な思い出がいくつかあって、昨年までクリスティ作品を一つも読み切らずにきた。その最たる苦い思い出が、中学1年生の時に『アクロイド殺人事件(ロジャー・アクロイド殺し)』を半分くらいまで読んだ時に、旧友にネタバレをされてしまったことだ。

 あれは、探偵のエルキュール・ポアロが暴く前に真犯人を知ってしまったら、読む気が起きなくなる小説だ。それをやられてしまったのだからたまったものではない。

 しかも、信じてもらえないかもしれないが、私は読みながら「この語り手、なんだか怪しいなあ。もしかしたらこいつ自身が犯人なんじゃないか」と思っていたのだった。そしてそれはズバリその通りだったのだが、読み切る前に真犯人がわかったら読む気が一気に失せた。結局結末の部分だけ読んでそれ以外の後半部分は読まずに今に至っている。

 その『アクロイド殺し』を再読しようと思うようになったのは最近のことだ。

 まず、2013年以降松本清張にはまり、2014年には河出文庫から刊行されたコナン・ドイルシャーロック・ホームズ全集を読むなど、中学生時代以来40年ぶりにミステリを読む習慣が復活したことだ。

 次いで、一昨年にカズオ・イシグロの『日の名残り』を土屋政雄訳のハヤカワ文庫版で読み、文芸評論の理論に「信頼できない語り手」というのがあるのを知ったことだ。『日の名残り』の「執事道」に生きた(と自らを偽っていた)語り手と、自らの犯行を隠して語る「アクロイド殺し」の語り手とは意図が全く異なるが、「信頼できない語り手」という点では共通する。

 最後に、ネタバレの被害を受けてしまった小説を読むんだったら、中学生時代になぜ語り手が怪しいと思ったのかくらいは注意して読もう、せめてその程度のインセンティブがなければ犯人がわかっているミステリなんかは読めないけれども、昔を思い出すよすがになるのではないかと思ったのだった。

 こうして、半世紀近い昔からの「鬼門」に再度挑むことにした。

 だが、図書館の書棚にはなかなか『アクロイド殺し』は置いていない。クリスティの代表作とされる人気作品だから借り出されていることが多いためだろう。そこで、悪友によってではなく、よくあるミステリ論のせいで読んでもいないのに犯人を知らされていた『オリエント急行殺人事件』の光文社古典新訳全集版(安原和見訳)を手始めに読んでみた。この小説はは犯人がわかって読んでも面白かったし訳文も読みやすかった。ただ、勧善懲悪の復讐譚であることにちょっと引っかかりを感じたが。

 

www.kotensinyaku.jp

 

 次いで、どうせならポアロものを最初から読もうと、クリスティの処女長篇である『スタイルズ荘の怪事件』とポアロもの2作目の『ゴルフ場殺人事件』の2冊をいずれもハヤカワ文庫で読んだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

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 この2作を読んだ感想は、クリスティとは本質的に「フーダニット」(誰がやったか)を興味の中心とするミステリ作家だったんだなあということだ。トリックは、『スタイルズ荘』の方は薬学の知識がなければ想到不可能なものだし、『ゴルフ場』の方はせっかく「替え玉殺人」というトリックを使っていながら物語の中盤で早々にネタを明かしてしまい、物語後半では「替え玉殺人」に便乗してこの陰謀を企んだ当人を殺したのは誰かという点に興味が絞られる。この小説には殺人が2件あって、替え玉殺人で犠牲になった被害者があとから発見され(第2の殺人)、その前に替え玉殺人を企んだ悪人が殺される第1の殺人事件が露見している。そして、時間的にはあとから起きたこの第1の殺人事件の犯人が誰かをめぐってどんでん返しが三度起きるという仕掛けだ。しかし、第1の殺人にはトリックも何もない。単に替え玉殺人を企んだ悪人を刺殺しただけなのだ。

 『スタイルズ荘』でも二段階のどんでん返しがあり*1推理小説的にはもっとも怪しくないけれども、普通に考えればもっとも怪しい人間が真犯人だ。それはある意味で「意外な犯人」といえるのだが、ハヤカワ文庫版につけられたクリスティの孫だというマシュー・プリチャード氏による序文を覚えていれば、犯人の見当がつくようになっている。だから二度のどんでん返しのを経てこの人物が真犯人としてポアロに指し示されても「やっぱりそうだったか」としか思えなかった。

 また、『ゴルフ場』の方は、推理小説的にはもっとも怪しいし、普通に考えても(嫌な言い方だが)この出自なら怪しいと思われる人物が三度のどんでん返しの末に真犯人として示される。この人物については作中でポアロが語り手のヘイスティングズに何度も警告していたりもするし、あまりにも怪しすぎるのだが、やっぱり真犯人かよ、と思ってしまった。しかし、この作品に示された「極悪人の子はやはり極悪人」という思想は、どうしても私には受け入れがたい。そういう結末にはなって欲しくないなあと思いながら読んでいたが、恐れていた通りの結末だったので大いにがっかりした。さらに、それよりももっと嫌だったのは、第2の殺人で浮浪者が身代わり殺人の犠牲になってしまったことだ。この殺人は第1の殺人の被害者とその妻による共謀だったのだが、ポアロは無実の罪に問われそうになった夫妻の息子に対して、「あなたの父親は悪人だったが母親は立派な人だ」みたいな言い方で励ました。しかし、その妻は罪もない浮浪者を身代わり殺人の犠牲者とした悪人の夫の共犯者だったのだ。いくら夫を愛していたからといってもそんな犯罪行為が許されるはずないじゃないかと思った。結局、クリスティは浮浪者を人間扱いしない倫理観の持ち主だったのではないかと批判せずにはいられないのである。

 しかし思うのだが、2005年下期の直木賞を受賞した東野圭吾の『容疑者Xの献身」(2005)はこのクリスティの『ゴルフ場殺人事件』にヒントを得た小説なのではなかろうか。この2作には共通点が多い。

 まず、ともに殺人事件が2件ある。ただ東野作品で巧妙なのは、第2の殺人事件そのものを隠していることだ。つまり、トリックに無頓着なクリスティがせっかくのトリックをもったいない使い方をしたのに対し、東野は替え玉殺人のトリックを最大限に活かしたといえる。私も第2の殺人が隠されていたとは全く予想できなかった。

 しかも、東野作品でも第2の殺人事件で罪のないホームレスが犠牲になっている。クリスティ作品とは異なり、第1の殺人事件の犯人は生きていて、その犯人を熱愛した第2の殺人事件の犯人を第1の殺人事件の犯人への嫌疑から逃れさせるために第2の殺人事件を引き起こしたというのがトリックだ。つまり殺人が起きた順番はクリスティ作品の逆。この第2の殺人事件の犯人は、共犯者に過ぎなかった『ゴルフ場殺人事件』第1の殺人事件の被害者にして第2の殺人事件における犯人の妻よりも、ずっと悪質な犯罪者だといえる。以前にも書いた通り、こんな小説を書いた東野圭吾の倫理観もどうかしていると思うが、それを読んで「感動した」とか言う人とは友達になれないというのが私の率直な意見だ。東野圭吾も『容疑者X』に感動した人もともにホームレスを人間扱いしない倫理観の持ち主と言わざるを得ないのではないか。1923年に書かれたクリスティ作品にはまだ「時代的な制約」があったとの言い訳が成り立つかもしれないが、2005年に書かれた東野作品やその読者にはそのようなエクスキューズは通用しない。ミステリとしての意外性が抜群なのは認めるが、仮に私が直木賞の選考委員だったなら、その倫理観の欠陥ゆえにこの作品は直木賞に値しないと強く主張したに違いない。

 本当は上記の3冊に続いて読んだクリスティの短篇集『ミス・マープルと13の謎』(深町眞理子訳・創元推理文庫2019)を中心に据えたエントリにするつもりだったが、次回に回すことにする。一言だけ書いておくと、この短篇集は『アクロイド殺し』と密接な関係がある。一つは主人公のミス・マープルその人であり、もう一つは13篇からなる短篇集のうちのある一篇だ。詳しくは次回に。

*1:この「多段のどんでん返し」は松本清張の多作期(1950年代終わり頃から60年代初め頃)の作品によく出てくるが、どうやらルーツはこれらクリスティの初期作品ではないだろうかと思い当たった。