初めにおことわりしておきますが、この記事には村上春樹の長篇小説『騎士団長殺し』のネタバレが多数含まれています。この小説を未読で、かつ読みたいと思われる方は、この記事を読まない方が良いと思います。
私は村上春樹の小説の良い読み手では全くないが、村上と私には妙な共通点が多い。それは育った地域と応援するプロ野球球団が同じだということだ。村上は京都府、私は大阪府の生まれだが、ともに育ちは阪神間だ。そしてともに大学進学時に上京して、上京後にヤクルトスワローズを応援するようになった。私は阪神大震災の翌年の1996年に(当時は横浜市民だったが長期出張で岡山県に住んでいた)、阪神間を歩いてその途中に阪神甲子園球場に立ち寄って阪神−ヤクルトのデーゲームを観戦したことがあるが、翌年、村上春樹が同じような行動をとっていたことをずっと後に知って驚いたことがある(『辺境・近境』)。
阪神タイガースには熱心なファンが多いので、阪神戦であれば過去の試合はすぐにネット検索で確認できる。私が観戦したのは1996年5月26日(土曜日)の試合で、ヤクルトが7対5 で勝った。一方、村上春樹が観戦したのは1997年5月18日(日曜日)の試合で、ヤクルトは0対1で負けた(先発投手名とスコアを村上が明記しているので簡単に特定できる)。なお私が見た1996年はヤクルトが読売を助けまくった痛恨のシーズンだったが、村上が見た1997年は野村克也監督が目指した野球が完成形に達したと思わせる会心のシーズンだった。当時のヤクルトは、1年おきに優勝する年と読売の優勝を助ける年を繰り返していた。
私は村上春樹のエッセイはよく読むし面白いと思うが、最初に書いた通り小説の良い読み手では全くない。そもそも私には文学的才覚が全くといえるほど欠落していることを自覚しているから仕方ない。
だが音楽、特にクラシック音楽ならある程度論じられる。しかし、この分野でも村上春樹には全く歯が立たない。このことは、特に村上と小澤征爾との対談本で思い知らされた。この対談本については、このブログを開設する前に『kojitakenの日記』で取り上げたことがある。
上記リンクのタイトルにした「奇跡」は、対談本の文庫版に付録として挿入された章に掲載されているから文庫版でしか読めない。出版社はよくこういうことをやらかすから困ったものだ。しかしそこに描かれた「奇跡」は本当に感動的だった。
村上春樹がもっとも得意とするのはジャズで、次いでロックだが、クラシックの造詣も半端でない。失礼ながら、村上は小説を書く才能よりも音楽について語る(音楽を言語で表現する)才能の方にずっと恵まれており、それには他者の追随を許さないのではないか。少なくとも、凡百のクラシック音楽評論家が束になってかかっても、村上春樹には歯が立たないように私には思われる。
村上春樹の小説に関しては、1986年頃だったか、『風の音を聴け』と『1973年のピンボール』を講談社文庫版で読んであまりピンとこず、それ以来長く村上春樹を敬遠していたのが、2012年に紀行文集『辺境・近境』を読んだのをきっかけに、長年敬遠していた村上の長篇小説でも読もうかと思って選んだのが『ねじまき鳥クロニクル』だった。「第1部 泥棒かささぎ編」の冒頭に出てくるロッシーニの歌劇の序曲には特に心惹かれなかったが、「第2部 予言する鳥編」にはシューマンの「予言の鳥」(ピアノのための小品集『森の情景』作品82の第7曲)でも出てくるのかな、と思ったのが、この長篇を選んだ理由だ(果たしてこの曲は小説に出てきた)。「第3部 鳥刺し男編」からモーツァルトの『魔笛』を思い浮かべないクラシックファンはいないだろう。
村上春樹がノーベル賞を獲るのではないかとの「ハルキスト」たちの騒ぎが特に大きく報じられるようになったのは、2000年代後半からではなかったかと思う(近年はこの騒ぎはかなり沈静化したように思われる)。2012年には既に年中行事になっていて、ノーベル賞騒ぎが起きる前に買って読んでおこうと思った。だから読んだのは9月であって、読書記録を参照すると2012年9月7日から同17日までかけて読んでいた。前述のように私には文学的才覚がないので、内容はかなり忘れてしまっている。ただ、期待通り「予言の鳥」(村上春樹は「予言する鳥」と表記していた。新潮文庫版236頁)が出てきた時には「やった」と思った。私はこの第2部を、シューマンの第1ピアノソナタ(嬰ヘ短調作品11)と『森の情景』を収めたアシュケナージのCD盤をBGMにしながら読んでいたのだった。ただ、CDが「予言の鳥」にさしかかった時に小説に「シューマンの『予言する鳥』」が出てくるという奇跡は起きなかった(その時の音楽は第1ピアノソナタだったと思う)。
『ねじまき鳥クロニクル』は小説としても面白かったし、その中に出てくるノモンハン事件については全然知らなかったので、小説の第3部を読む合間に、ネット仲間の方に教えていただいた田中克彦の『ノモンハン戦争』(岩波新書)を併読したりもした(2012年9月15〜16日)。田中はノモンハン戦争を、日本からでもソ連からでも中国からでもなく、モンゴル民族の立場から描いている。村上春樹の小説にはそのような視点など求めようもないが、これはまあ致し方ない。私は、田中の本を読んだことをきっかけに、2014年頃から先の戦争に関する本をずいぶん読むようになった。
このような思い出深い読書だったし、『ねじまき鳥クロニクル』は小説としても面白いと思ったが、『ねじまき鳥』を読んだ翌年の2013年に手を出した村上春樹の長篇『ノルウェイの森』との相性があまり良くなかったために、その後は2016年に『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が文春文庫入りした時に読んだだけで、これはまあ良くもなく悪くもなく程度の感想だったが、今回『騎士団長殺し』を読むまでにさらに3年の年月を要した。『騎士団長殺し』も新潮文庫入りして3か月くらい経って買ったがしばらく「積ん読」になっていて、ようやく7月下旬に読んだ(7月27日〜31日)。
この記事のテーマは、音楽から見た『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』の関係だ。『ねじまき鳥』と『騎士団長』との間には強い類似があり、後者は前者の焼き直しではないかとの声さえ聞かれるようだが、それももっともだ。たとえば下記記事を例示しておく。
1. どんな作品か――参照作品は『ねじまき鳥クロニクル』
村上春樹の『騎士団長殺し』を読み終えた。
読み始めてまもなく気がつくことは(多くの人がそうではないかと推測されるが)、『ねじまき鳥クロニクル』の舞台や人物の設定に、かなりの部分で重なっているということだった。
主人公は、妻に理由もわからないままに別れ話を持ち出された30代の男性。『ねじまき鳥』でも、突然、妻が失踪した、という導入になっている。そして両作ともに、妻を探し求めるというモチーフが、全編を貫いている。さらに今回は「絵描き」という職業設定がされているが、基本的に村上作品の主人公は、自由業であり、自由に使える時間をたっぷりともつ、というのがお決まりの設定になっている。
そして家のそばに掘られた「穴」。『ねじまき鳥クロニクル』における「井戸」よりは大きめで、「室・むろ」のような穴で、なぜ掘られたかは不明。著者の一貫したテーマである「存在と非存在」の、「有と無」の世界を行き来する通路、つなぎ目という役回りも同様である。
『騎士団長殺し』に即していうならば、この室(=井戸)は、それが登場するときには物語のギアチェンジが行われる、1速目から2速目へ、2速目から3速目へ、そして4速目へ、というように、物語の階層を1段ずつ上げていく装置となっており、これもまた両作に共通する。
さらには人物たち。少女(ここでは、秋川まりえ)の存在。悪を深く内在させ体現している男(「スバル・フォレスターの男」)。そして「騎士団」はじめ、絵から登場する様々な「メタファー」たち。
重要な影を落とす「昭和の戦争」も、同様である(この、戦争のモチーフは、『ねじまき鳥クロニクル』よりもさらに深められていると感じた)。などなど。
物語(ストーリー展開)の骨格も、ほぼ『ねじまき鳥クロニクル』を踏襲している。
とは言っても、著者の物語の基本構造は『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』以来、彼岸(冥界)と此岸(現世)、実在と非在の往還という物語構造を、パラレル・ワールドとして描き出すことを一貫させてきた。
しかしそれでもやはり、『ねじまき鳥クロニクル』を参照項として取り出しておきたいのである。そんなふうに、わたしの読みは要請している。
『ねじまき鳥クロニクル』ではノモンハン事件が取り上げられたが、『騎士団長殺し』では1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)とその前年の1937年12月に日本軍が中国で引き起こした南京事件(南京大虐殺)が取り上げられている。
脱線するが、毎年秋に繰り広げられる村上春樹の「ノーベル賞」騒ぎがやや下火になっている一因として、村上が小説で南京事件を取り上げたことがあるのではないかと私は勘繰っている。事実、馬鹿馬鹿しいのでリンクを張ったり引用したりはしないが、百田尚樹や産経新聞などが村上に噛みついている。
そういえばここ数年に南京事件が描かれた小説をいくつか読んだ。船戸与一の『満州国演義』(新潮文庫, 全9巻=南京事件は確か第5巻に出てきた)、佐々木譲の『エトロフ発緊急電』(新潮文庫, 単行本初出1989年)、それに今回読んだ『騎士団長殺し』だ。ネトウヨたちは船戸の『満州国演義』には最初から近寄らないようだが、『エトロフ発緊急電』には、「南京事件の描写だけはいただけない」などといちゃもんをつけていた。本当に愚劣な奴らだ。豆腐に頭をぶつけて氏ねばいい。
『ねじまき鳥クロニクル』ではノモンハン事件と小説の本筋との関係がややはっきりしなかったような記憶があるが、『騎士団長殺し』ではアンシュルス(や南京事件)と本筋との関連性は明確だ。その意味で、「戦争のモチーフは、『ねじまき鳥クロニクル』よりもさらに深められている」という佐藤幹夫氏の指摘には、私も同感だ。
『騎士団長殺し』に出てくる画家・雨田具彦のモデルとして、一昨年の朝日新聞夕刊が井上三綱(1899-1981)の名前を挙げている。有料記事なので途中までしか引用できない。
村上春樹の新作小説「騎士団長殺し」(2巻、新潮社)は、神奈川県小田原市を主な舞台に物語が展開する。市近郊の山中にアトリエを構えた日本画家の秘密をめぐる大作で、市内の風物も描かれている。世界各地で愛読される作家だけに、地元の文化人や観光関係者は作品がもたらす効果を期待する。
小田原駅西口の三省堂書店では、店頭に「小田原のご当地小説」と掲示し、100冊以上の「騎士団長殺し」が山積みだ。2月24日の発売日に約50冊を売り、今月上旬も同店でトップの販売数という。
小田原に関する歴史や文学の本が豊富な市内の平井書店の平井義人店長(54)は「小田原には歴史や文学が地層のように積み重なってきた。春樹を読むハルキストも街を歩いてほしい」と望む。
「騎士団長殺し」では、主人公の肖像画家「私」が、洋画家から転じた著名な日本画家・雨田具彦(あまだともひこ)のアトリエのある家に住む。家は小田原厚木道路から山中に入った所にあり、雑木林の先に相模湾を展望できるとされる。小田原市を象徴する梅林の描写もあり、周辺に多くの政治家の別荘もあったと説明。小田原市西部の入生田(いりうだ)に実在した「近衛文麿(このえふみまろ)の別荘」も紹介する。
その入生田に住んだ画家井上三…
(朝日新聞デジタルより)
ご丁寧にも、画家のフルネームがあと1文字で明らかになるところで無料部分が終わっているが、井上三綱という画家だ。ただ、生没年は雨田具彦とはズレている。また小説の作中、オーストリアで画策されたことになっているナチス高官暗殺事件や、それに日本人がかかわっていたか等については今回のネット検索ではわからなかった。
やっと『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』の両作で使われた音楽に言及するところにたどり着いた。この点でも両作には密接な関係がある。
これについて述べる前に、クラシック音楽や日本の歌謡曲を題材にした本をよく書いている中川右介が『騎士団長殺し』発売直後に発表した文章にリンクを張る。
クラシック音楽業界の「春樹神話」
村上春樹の新作が出ると、レコード会社、CD販売店のクラシック音楽担当者は忙しい。
ページをめくっていき、クラシック音楽のどの曲が出てくるかを調べなければならない。
その作業は、しかし、そう難しくはない。クラシックの作曲家は外国人なので、カタカナの人名を探していけばいい。
もともと村上春樹作品は小説の中で主人公が音楽を聞くシーンが多い。それも「静かなクラシック音楽が聞こえてきた」というような曖昧な書き方ではなく、誰の何という曲で誰が演奏しているのか具体的に書かれてるのが特徴だ。
村上春樹の小説に出てきたことで、クラシックのCDが売れるようになったのは、『海辺のカフカ』からだ。
この作品ではベートーヴェンの「大公トリオ」の、往年の名盤であるルービンシュタイン、ハイフェツ、フォイアマンの三人による演奏が何度も出てきて、聞いたことのない人は、どうしても聞きたくなった。
それで、実際にCDが売れ出したのだ。
以後も、村上春樹が作中に登場させる作品・演奏は、どちらかというと、あまり知られていないもの、忘れられているものなので、クラシック音楽CD業界に思わぬ特需もたらしてきた。
『1Q84』ではヤナーチェクのシンフォニエッタという、よほどのクラシックマニアでなければ知らないような曲が出てきて、そのため「売れるはずがなかった」CDが売れて、クラシック業界での春樹神話が確立された。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の時は、そのタイトルが先に公表されると、リストのピアノ曲《巡礼の年》が出て来るのではないかと業界は期待し、誰の演奏なのかと固唾を呑んで本の発売を待っていた。
そうしたら、ロシアのベルマンの演奏だった。このピアニストは「名ピアニストではあるが人気がなく忘れられていた人」だったので、とっくに国内盤は廃盤になっていて、輸入盤しかないという状況だった。そう簡単には儲けさせてくれない。
『騎士団長殺し』にも音楽は出てきたが…
さて、『騎士団長殺し』である。
これもタイトルが先に発表されると、何の曲が登場するのだろうと、クラシック音楽業界は期待をこめて発売日を待った。
「騎士団長」というタイトルのクラシックの曲はない(と思う)が、騎士団長が出てくるオペラならある。モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》である。
はたして、モーツァルトが関係してくるのか。期待は否が応でも高まった。
そして発売日。私もさっそく手に入れた。
『騎士団長殺し』で最初に具体的に出てくるクラシック音楽は、「イ・ムジチ合奏団の演奏するメンデルスゾーンの八重奏曲」だった。主人公の妻がそれを聞きながらドライブをするのが好きだったと紹介される。この曲は、しかし、その場だけで終わる。
やがて、この小説に出てくる「騎士団長」が、期待通り、《ドン・ジョヴァンニ》の騎士団長だと分かる。
だが、残念ながら、小説のなかで登場人物がこのオペラを聞くシーンは最初だけで、しかも誰の演奏なのかは書かれていない。
《ドン・ジョヴァンニ》はあまり出番がなかったが、全篇にわたり、何度も出てくるのは、リヒヤルト・シュトラウス(一般には「リヒャルト」と表記するが、この本では「リヒヤルト」と表記され*2、そこに深い意味があるのかどうかは分からない)のオペラ《薔薇の騎士》だ。
主人公が聞くのは、ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニーの演奏のLPと、演奏者とレコードもはっきりと分かる(いまはCDも出ているが、この小説で主人公はLPを聞く)。
しかし、これまた残念ながら、『騎士団長殺し』を読んだからと、このショルティ指揮の《薔薇の騎士》を買いたくなるとは思えないのだ。
《薔薇の騎士》をこれまで聞いたことのない人なら、どんな曲か聞いてみたいと思うかもしれないが、なにしろ長いオペラで3枚組(小説のなかではLPなので4枚組)だし、4000円以上するから、YouTubeで検索してちょっと聞いてみる程度のような気がする。『海辺のカフカ』の《大公トリオ》ほどは、物語にからんでこないのだ。
ともあれ、世の中には村上春樹の新作が出るたびに、ビジネスとして、そこにどんな音楽が出て来るかをいち早くチェックしている一定数の人がいるのである。
タワーレコードのサイトでは、たしか発売日のうちから、出て来るCDを紹介するコーナーができていた(http://tower.jp/article/campaign/2017/02/24/04)。
私はそこまでクラシック音楽業界に浸かっているわけではないので、曲探しのために最初にパラパラと全てのページを見るようなことはせず、2巻合わせて1000ページ以上を、普通に、一週間かけて読んだ。
そしてその間、《薔薇の騎士》を聞きたいとは思わなかった。
たしかに、いつもの村上春樹作品と同じように、作中では、クラシックにかぎらず、さまざまな音楽が流れている。
しかし『騎士団長殺し』は、音楽が聞こえてくる小説ではなく、絵画が脳裡に浮かぶ小説なのだ。(以下略)
正直言って、なんてつまらない文章なんだろうと思った。
「村上作品に出てくるクラシック音楽」で、『ドン・ジョヴァンニ』と同じ作曲家・モーツァルトが書いた『魔笛』を第3部のモチーフにしている『ねじまき鳥クロニクル』に言及しない感覚からしておかしい。ましてや『ねじまき鳥』は読者の多くが『騎士団長殺し』との関連を指摘している作品なのに。
ただ、中川右介が書く通り、読者が『騎士団長殺し』を読んで『ドン・ジョヴァンニ』を聴きたくなるはずがない。あのモーツァルトの歌劇は、最後にドン・ジョヴァンニが自ら殺めた騎士団長の彫像によって地獄に落とされる話であって、『騎士団長殺し』の作品世界とは全く異なる。
しかし、モーツァルトには、『騎士団長殺し』の世界と響き合う歌劇がある。ほかならぬ『魔笛』である。そのことを指摘した一般人の方のブログを下記に示す。
(前略)これは間違いなく面白い小説でした。特に僕にとっては個人的に興味のある日本画、オペラ(しかもモーツアルトのドン・ジョバンニが題材になっているとは驚きです。読む前までは騎士団長というのがあのドン・ジョバンニの騎士団長だとは想像もしていませんでした!)などが出てくるからです。実際この本を読み終わっての第一の感想は『これって全くもって魔笛じゃないか!』というものだったのです。特に最後の主人公が試練を乗り越えてこの世界に戻ってくるところなどまさに瓜二つではないですか。(後略)
これが、『騎士団長殺し』で村上春樹が用いた技巧だ。私も上記ブログ主と同様、「読む前までは騎士団長というのがあのドン・ジョバンニの騎士団長だとは想像もしてい」なかった口だが(なにしろ『ドン・ジョヴァンニ』はもう何十年も聴いていない)、作者が『ドン・ジョヴァンニ』からの引用であることを明かした時、「今度は『ドン・ジョヴァンニ』かよ。『ねじまき鳥』では『魔笛』だったよな」と思った。ところが、物語が進んでいくにつれ、変だな、小説ではドン・ジョヴァンニが悪役ではないぞ、あのオペラを知っている人なら誰でも、嫌でも気づかされる。それどころか、これは「父殺し」の物語であって、「私」と雨田具彦がともに該当するドン・ジョヴァンニが、騎士団長という「父」(実際にはドン・ジョバンニは彼ら2人の父ではなくドンナ・アンナの父なのだが)を殺すという、善玉と悪玉がひっくり返った構図になっていそうだと感じさせる。そもそも、『騎士団長殺し』という小説の題名自体、「父殺し」を強く予感させるものだ*3。
さて物語が3分の2を過ぎ、少女(秋川まりえ)が失踪する直前に、一羽の鳥が鳴いた。以下、小説から引用する。
そのとき樹上で、鋭い声で一羽の鳥が鳴いた。仲間に何かの警告を与えるような声だった。鳥の姿はどこにも見えなかった。
私はこのくだりを読んで、ああ、「予言の鳥」が鳴いたんだな、と思った。シューマンの「予言の鳥」でも、普通のピアノ曲ではあまり用いられない高い音が用いられているから、「鋭い声で鳴く」イメージが喚起される。
「予言の鳥」の不吉な警告は現実となり、秋川まりえは失踪する。
そして秋川まりえを探す「私」が死の床についた雨田具彦を見舞った時、実体化したイデアであるところの騎士団長が現れ、「諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ。邪悪なる父を殺し、その血を大地に吸わせるのだ」と「私」を促す(新潮文庫版第2部下巻89頁)。ここで予想通り「父殺し」がこの作品のテーマだったことが明らかになる。「私」が騎士団長を殺す場面がこの小説のクライマックスだ。そのあとに「主人公が火や水の様々な試練を超え」る場面が続く。前述のブログ主は正しくも『魔笛』を想起した。この場面では、なんとドンナ・アンナが「私」、つまり騎士団長を殺したドン・ジョバンニに該当する人間を応援する。歌劇『ドン・ジョヴァンニ』ではドン・ジョヴァンニはドンナ・アンナの父の敵なのだから、完全にオペラの設定をひっくり返した形だ。だから、『騎士団長殺し』を読んで『ドン・ジョヴァンニ』を聴きたくなる気が全く起きないのはあまりにも当然なのだ。
以上見たように、『騎士団長殺し』においても、「鋭い声で鳴いた一羽の鳥」は『魔笛』に描かれた試練を予告するものだった。つまり、クラシック音楽の使い方においても、『ねじまき鳥クロニクル』をなぞっている。それでは、『ねじまき鳥クロニクル』第1部の『泥棒かささぎ』に対応する『騎士団長殺し』での音楽は何かといえば、それはプッチーニのオペラではないか。そう私は考えた。
『ねじまき鳥クロニクル』は、主人公の岡田トオルがFM放送に合わせてロッシーニの『泥棒かささぎ』序曲を口笛で吹く場面で始まる。この音楽はいかにもイタリアオペラの序曲らしい能天気なものだ。
一方、『騎士団長殺し』で最初に言及される音楽は、中川右介が指摘した通りメンデルスゾーンの弦楽八重奏曲だが、曲名が言及されるだけであって、実際に登場人物がこの音楽を聴く場面はない。主人公である「私」が雨田具彦邸で最初に聴いたクラシック音楽として出てくるのは「プッチーニのオペラ」であり、「私」は雨田具彦邸に住み始めた頃には「私はプッチーニばかり聴いていた」と言って、『トゥーランドット』や『ラ・ボエーム』の曲名を挙げている(新潮文庫版第1部上巻91頁)。昼間はプッチーニを聴いた「私」は、夜になるとベートーヴェンやシューベルトの弦楽四重奏を聴いていたが*4(同96頁)、昼間はオペラ(プッチーニ)だった。『ねじまき鳥』で使われたロッシーニと合わせて、村上春樹はイタリアオペラを日常生活を象徴するライトモチーフ(示導動機)として用いているのだろうかと思った*5。非日常の世界の住人である免色渉が現れて雨田邸で聴いた音楽は、中川右介が書いた通りリヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』だったから、免色の登場とともに日常の象徴であるプッチーニの音楽は、少なくとも小説では言及されなくなったといえる。
以上の考察をまとめると、『ねじまき鳥』でのロッシーニ(泥棒かささぎ)→「予言の鳥」→『魔笛』という流れが、『騎士団長殺し』ではプッチーニ→鋭く鳴く鳥→『ドン・ジョヴァンニ』をひっくり返した『魔笛』、という流れに変奏されているといえる。変奏されたもとの主題を看て取ることはさほど困難ではないと私には思われた。
以上のように書いてみたが、なにぶん読んでから7年にもなる『ねじまき鳥クロニクル』の内容をもうすっかり忘れているので、その分だけ記事があいまいになってしまったかもしれない。暇を見つけて『ねじまき鳥クロニクル』読み直そうかと思っている。読み終えた時の印象は、『ねじまき鳥クロニクル』の方が『騎士団長殺し』よりもずっと強かったから、読み直す価値はあるはずだ。私は村上春樹の長篇は14篇中この記事で言及した6篇しか読んでいないが、その6篇の中ではトップは相変わらず『ねじまき鳥クロニクル』であり、今回読んだ『騎士団長殺し』が第2位になる。
7年ぶりに村上春樹の長篇が面白いと思えたので、次は今までよりは短いインターバルで、未読の8篇の長篇から何かを選んで読むことになるだろう。また裏切られなければ良いのだが。
*1:なにしろ昨夜もヤクルトは読売に悲惨な大逆転負けを喫した。思い出したくもない。昨夜はずっとむかつき続けていた。
*2:中川右介はこう書いているが、新潮文庫版では「リヒアルト」と表記されている。単行本初出時にどうだったかは知らない。
*3:「父殺し」はドストエフスキーの最高傑作とされる『カラマーゾフの兄弟』のテーマであって、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の、実際には作られなかった第2部で「皇帝殺し」を描くはずだったとの説があることはよく知られている。
*4:特に、あとの場面で出てくるシューベルト最後の四重奏曲(ト長調D887)や「ロザムンデ」と呼ばれるイ短調の曲(D804)などへの言及が印象に残る。私の感想では前者はかなりとっつきにくさのある音楽だが(まだシューベルト最晩年の弦楽五重奏曲D.956の方が聴きやすいかもしれない)、後者は村上春樹が書く通り実に美しい、但し陰影に富んだ音楽であって、私が『騎士団長殺し』を読みながら聴きたくなったクラシックの音楽としてはこのD804の四重奏曲が挙げられる。話は逸れるが、日本の明治時代の小説には主人公たちがよくシューベルトの歌曲を歌う場面が出てくる。明治末でもシューベルトが死んでからまだ80年くらいしか経っていなかった。シューベルトは若くして死んだ作曲家だから、同じ若い芸術家として共感するところが多かったのかもしれない。
*5:この推測は完全に間違っていた。本エントリの次に書いた右記URLの記事参照。http://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2019/08/22/081349