KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

岡田暁生と片山杜秀の対談本『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書, 2023)を読む/ブルックナーはナチスが最後に持ち上げた作曲家だった。佐倉統が片山杜秀のブルックナー論に一矢を報いていた (朝日新聞コメントプラス=24/9/19、有料記事プレゼント)

 一昨日(4/5)、前回の記事で取り上げた石井宏の『ベートーヴェンベートホーフェン』(七つ森書館, 2013)「を返しに行った図書館の書棚に、岡田暁生片山杜秀の対談本『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書,2023)が置いてあったので借りて読んだ。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 バッハを取り上げた第一章と、ハイドンモーツァルトベートーヴェンを取り上げた第二章はあまり面白くなく、特に第二章第三節のベートーヴェンの項には退屈さえしたが、ロマン派を取り上げた第三章と「クラシック音楽の終焉?」を取り上げた最後の第四章の後半は、私と同年代の二人の学者の興が乗ってきたのか言いたい放題だったので面白く、一気に読み切った。でもまあ金を出して買うほどでもなく、図書館本くらいで妥当かなとも思った。

 クラシック音楽については、岡田の「つくづくクラシック音楽とは帝国主義的だ(笑)」という感慨に同感で、まったく因果なものを愛好してしまったものだと思わずにはいられないが、こればかりはどうしようもない。

 岡田は対談の最後に

「クラシックを聴く」とは「近代世界の欺瞞と矛盾を理解する」ことにほかならないのかもしれないですね。(本書338頁)

と書いているが、これにも同感だ。

 本書はきわめてマニアックなので、クラシック音楽を聴き込んだ人以外には基本的におすすめできないが、松本清張の『砂の器』に絡めて、モーツァルトをまるで同作に出てくる前衛音楽作曲家にして犯人の「和賀英良(わが・えいりょう)みたい」と岡田が評したり*1、同じ『砂の器』には共産党と繋がりの深かった清張による前衛音楽批判を、反政府的な論調の朝日新聞ではなく「保守志向の強い読売新聞に連載された」と片山が指摘したりする*2など、クラシックファンのみならず、部分的には楽しめるかもしれない。以下に片山の言葉を本書からもう少し引用する。

 

この小説が一九七〇年代に野村芳太郎によって映画化されたときには、犯人の音楽家ラフマニノフにジャズを足したようなピアノ協奏曲、あれはもう私は大好きなのですけれども、そういう曲を得意とするコンポーザー・ピアニストにされてましたけれども、原作はまったくちがう。前衛派の電子音楽作曲家が、超音波の「音響」で殺人を犯すことになっている。明らかに黛敏郎とか諸井誠とかを思わせるのが犯人で、日本共産党と繋がる松本清張の西側ブルジョワ前衛音楽批判のモティーフがあって、それが大衆新聞の読売新聞に載っていた。味ではないですか。(本書296頁)

 

 当時は「社会主義リアリズム」なるイデオロギーがまだ健在だった。有名な「ジダーノフ批判」はスターリン時代の1948年に出されたが、1953年のスターリン死亡後も1958年まで有効だったし、「社会主義リアリズム」のイデオロギー自体はその後の1980年代になってもまだ権威主義的な音楽評論家たちに信奉されていた。私もチェコびいきの藁科雅美(1915-1993)が解説者を務めていたNHK-FMのクラシックリクエスト番組で、ショスタコーヴィチのその手の代表的な音楽である『森の歌』を聴いたことがある。

 ただ、ショスタコーヴィチ(塩酢蛸?)については偽書ともいわれるヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』(1979)については、1980年に日本語訳が出る前、おそらく刊行年である1979年の遅い時期からその存在を知っていた。この本にはショスタコオーウェルの『1984』ばりの「二重言語」を使っている、つまり表向きは「社会主義リアリズム」の音楽に見せかけながら本音は違うとの説を知っていた。

 しかし最近では、ショスタコの音楽にそんな二重の意味などないのではないかと言う人もいる。そして対談でその説を片山にぶつけたのが岡田だ。以下引用する。

 

(前略)要するに、片山さんの見るところ、ショスタコーヴィチの音楽は本質的に全体主義と親和性があるということじゃないですか? 彼の曲は実際、基本的に軍楽やマーチなどの「戦争音楽」であって、確かにミリオタ的です。そこに片山さんは引き寄せられる?(本書274-275頁)

 

 私は、ショスタコ交響曲第9番弦楽四重奏曲第3番において、戦争音楽の部分に葬いの音楽が続き、それが終わってフィナーレになっても両曲の第1楽章のような元気を取り戻さないことや、第5交響曲の終曲がヴォルコフ本に「強制された歓喜」と評されたことなど知る由もない1977年に初めてNHK-FMでこの曲を聴いた時から、「何か変な『歓喜』だな、あんまり明るくない」という印象を受けたことなどから、「二重言語」ではないかとの指摘を初めて知った時にも特に驚かなかった。

 従って、ヴォルコフ本が偽書であろうがなかろうが、ショスタコは自らの音楽で「面従腹背」をやっていたに違いないと確信している。

 しかし気になるのは、そのショスタコを大いに愛好しているという志位和夫はどう考えているのかということだ。それに関する志位の発言を私は知らない。そして2021年の衆院選での敗北を拒否した以降明確になり、それが共産党への支持率の低下に直結したと私が考えている同党の権威主義的体質についても思いを致さずにはいられないのである。

 その一方で、岡田の下記の発言には私は同意しない。

 

 そもそも、「ショスタコーヴィチは本当は全体主義に賛同はしていなかったが、それを表沙汰にできなかったから苦しんで、二重言語を使い自由への希求を音楽に込めた」という解釈が主流になったのは、冷戦終結後でしょう。冷戦時代のショスタコーヴィチ演奏というのは、本当に重く恐ろしげで容赦なく、氷のように冷たいイメージだった。(本書275頁)

 

 私がショスタコの5番のCDを買ったのは1987年だった。演奏はハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団で、録音は1981年。1989年の冷戦終結の8年前の演奏だが、決して「本当に重く恐ろしげで容赦なく、氷のように冷たいイメージ」ではなかった。また私には会社の同僚にそのCDを貸した時に、「強制された歓喜」との説があると言った記憶があるが、あれは間違いなくCDを買ったのと同じ1987年のことだった。「二重言語」説は、ヴォルコフ本が出てほどない頃から、主流とはいえないにしてもかなり浸透していたのではなかっただろうか。

 本記事の最初の方に紹介した岡田の「つくづくクラシック音楽とは帝国主義的だ」との発言から推して、岡田は左右の全体主義に反対する立場の人だろうとは思うが、ソ連全体主義に対する批判は冷戦終結のかなり前から当たり前になっていたのではなかろうか。当時の日本の政党の主張を思い返しても、親ソ派だったといえるのは社会党左派の社会主義協会系(向坂派)くらいのものではなかったかと私は思う。

 ところで本書で特に目を惹いたのは、ワーグナーの《ニーベルングの指環》とマルクスの『資本論』とに共通点があるという片山の指摘だ。

 

 

 しかし、私はあまり感心しなかった。

 片山は、マルクスの図式には、いくらブルジョワにいい人がいても、基本的には金にまみれて汚れている、だからプロレタリアートがある種の階級意識に目覚めると、それは特権的階級意識であって、人類愛につながりうるという世界観があるという。そしてワーグナーによるパリに対する批判、特にパリで活躍したベルリン出身のユダヤ人作曲家のジャコモ・マイアベーア(本名ヤーコプ・リープマン・ベーア)に対する批判、さらにはマイアベーアが裕福な銀行家の出であることを理由とするユダヤ金融資本に対する批判がマルクスと通底するというのである。「ワーグナーのアンチグローバリズム」との小見出しもある(本書222頁)。

 仮にそれを認めるにしても、例によってユダヤ人差別が入り込んでいることが問題だ。前の記事で、ワーグナーユダヤ人大作曲家のメンデルスゾーンが亡くなると攻撃を開始したと書いたが、ワーグナーマイアベーアに対しても、最初はすり寄りながら後には強烈な批判を行った。一方のマルクスは、片山自身も指摘する通りユダヤ人である。そしてワーグナーは片田舎のバイロイトに自らの神殿を作って信者たちに四夜続けて上演される「楽劇 Musikdrama」を拝ませた。これによって、ワーグナーが敵視したフランス人の中からもワグネリアンが続出したという。

 しかしその音楽にどれだけ「魔力」があろうが、ワーグナーユダヤ人差別は決して許されるものではない。現にワーグナーは没後ナチスドイツに利用された。これをワーグナーの死後のことだからワーグナーには責任がないなどとは思わない。

 古楽を専門とした皆川達夫(1927-2020)はヴィヴァルディの音楽には品がないなどとこき下ろしていて、中学生時代の私はそれを真に受けていたが、今にして思う。そんなことを講談社現代新書に書いた皆川は、同じ本の中で自らがワグネリアンであることを認めていたと記憶するが*3ワーグナーの方がヴィヴァルディとは比較にならないほど下品だった。私はそう断言する。

 もっともネットにはかつて反ネオリベラリズムユダヤ人差別とを平気で並べて書くブロガーがいて、結構な人気を誇っていた。「ヘンリー・オーツ」と名乗る、本名大津久郎なる人物だった。2015年に亡くなってもう10年になる。いささか悪趣味かもしれないが、改めて「追討」するとともに、こういう人士の主張をろくすっぽ批判できなかった「リベラル・左派」たちの問題点はいまなお未解決のままだと指摘したい。

 本書で対談している岡田暁生片山杜秀のうち、岡田は音楽学者だが、片山は音楽評論もやる政治学者だ。ともに吉田秀和賞の受賞歴があり、片山は昨年11月から水戸芸術館の館長を務めている。しかし、加藤周一の盟友ではあったものの、政治的にはノンポリとしかいいようがなかった吉田と片山とはかけ離れている。吉田と岡田ともかなり離れていて、そもそも岡田は吉田の著書をあまり読んでいないようにも見受けられる。

 岡田にはテオドール・アドルノの翻訳があるが、左翼かといえばそうでもなさそうだ。左翼色は片山の方が強そうだが、佐藤優とつるんだりもしている。対談で二人は、昔だったら大喧嘩になっただろうが今は仲良く対談できるという意味のことを言っているが、明らかに「クラシック音楽」という分野が斜陽である現状をどう捉えるかという問題意識を共有しているからではないかと私は思う。

 2人が意気投合したのは、アドルノの弟子であるユルゲン・ハーバーマスが音楽を全く理解していないと指摘したくだりだ。本書には人命索引がついているので、記載のある場所はすぐにたどれる。以下引用する。

 

岡田 アドルノが「凡人にはわからないすごいものを過たず見抜く目利き」という、かつてのよきエリート趣味を強く残していたのに対し、ハーバーマスは「コミュニケーション」の人だからなあ。「みんながわかるものにしましょう」の人。アドルノからスケールダウンしてポリコレになってる。

片山 ハーバーマスのコレクトネスなコミュニケーションなんて絶対無理だと思いますね。今の世界の現実、ドイツの現実が何よりの証明だ。あんなに頭の良い人なのに歴史の襞に足をすくわれないようにしたいと思いつめた結果なのか。クラシック音楽アドルノの数分の一でも理解があればああいう思考形態にはなり得ない。

岡田 ハーバーマスはまったく音楽のことがわかっていないな。それが彼の思想の浅さに深いところで露骨につながっている。それはともかくとして……? (本書172頁)

 

 この直後に片山がハイドンの音楽もハイドンの雇い主だった貴族のエステルハージ家の屋敷にいる全ての人がわかっていたわけではなかったなどと言っているが、そんなことは当たり前だろう。私だってハイドンの良さがわかるようになったのは、クラシック音楽を聴き始めて20年以上経ってからだった。

 私は相対音感なんか物心ついた頃からあったので、小学校1年生の時にヤマハ音楽教室で三和音の聴音のテストがあった時から正解を答えられたが、それはクラスで私だけだった。これは何も威張っているわけではなく、そういう人間は(残念ながら)限られているというだけのことだ。大谷翔平のような肉体の持ち主が限られているのと同じことである。私には絶対音感は小学校1年生の頃にはなかったが、その後クラシック音楽を聴き始めたら勝手に身についた。岡田と片山が同様かどうかは知らないが、二人とも、あるいはアドルノを含む三人とも、たまたま音楽の才能を持って生まれてきただけの話である。それは思想の深さ浅さとは関係ないのではないだろうか。仮にハーバーマスの思想が本当に「浅い」とすれなら、それは別の理由によるものだろう。

 余談だが、私は50歳くらいから難聴持ちである。腸は子どもの頃ひどく弱かったが、その後30代半ばから四半世紀くらいは問題なかった。しかし最近また子ども時代のような腸の不調に襲われるようになった。何が言いたいかというと、難聴も腸の不調もベートーヴェンと同じだということだ。もちろん「超劣化版」ではあるが。だから補聴器は今や必需品だが、その補聴器を難聴持ちの多くの人につけてもらおうと頑張っているのが日本共産党である。あの補聴器というのは実に厄介な代物で、使い慣れることは非常に難しく、かといって使わなければ「音の記憶」がどんどん失われていくためにQOLが顕著に下がる。だから、補聴器の購入に公的補助を求める声をあげ続けている共産党の活動は貴重である。そんな活動が民主・民進系の政党にできようとは私は思わない。たとえば下記リンクを参照されたい。

 

www.jcp-tokyo.net

 

 私はたまたま「中の中」くらいの階級にいるから補聴器を購入できたしその使用に奮闘することもできた。しかしそれができない人たちが多数いる。民主・民進系の政党はそんな人たちのニーズに応えることができるのだろうか。私には大いに疑問である。

 だから私はこの政党の執行部が固執している分派禁止条項をいっこうに規約から削除しようとしない共産党を強く批判して、国政選挙の比例票は共産党が分派禁止条項を削除しない限り投票しないことに強く心を決めているが、その一方で地方選では共産党を投票の対象に残している。江東区選出の畔上三和子都議はどうやら今年の都議選には出馬せず引退するようだが、補聴器購入への公的補助を求めることには特に熱心だった。だから私は都議選では毎回畔上氏に投票してきた。

 何か読書・音楽ブログらしくない話題に脱線したが、それは岡田・片山両氏が政治的なことをずいぶん語っているからだ。そもそも文学も音楽も政治と切り離して論じることなどできない。

 最後にブルックナーの話を。

 本書ではブルックナーはほとんど論じられていない。岡田はブルックナーが大の苦手だそうだ。ドイツ留学中にチェリビダッケ指揮のブルックナーを浴びるほど聴いたがそれでもなお苦手だという。片山も「そんなに得意ではないですが」という*4。私もブルックナーは苦手だ。

 しかし片山は重要な指摘をしている。それは、ナチスが最後の文化政策としてブルックナーを持ち上げたことだ*5ベートーヴェンワーグナーときて、最後がブルックナーだった。

 そこでネット検索をかけて片山のブルックナー論を調べたら、朝日新聞に3か月に1回片山が執筆している、昔の吉田秀和の「音楽展望」のような長文のコラム「蛙鳴梟聴(あめいきょうちょう)」で、ブルックナーについて書いていた。昨年(2024年)9月19日である。

 これは有料記事なので無料プレゼントの枠を使う。リンクは下記。

 

digital.asahi.com

 

 リンクの期限は8日8時39分。

 呆れたことに、岡田との対談本でブルックナーは「そんなに得意ではないですが」と言っていたはずの片山が、ここでは「ベートーヴェンワーグナーが一緒にいるかのようなその交響曲群に魅了されぬ音楽ファンはどうかしている」などと書いている。

 しかし幸いにも、「コメントプラス」で佐倉統実践女子大学教授が痛快なブルックナー批判を書いて一矢を報いている。マイナーな分野なので、「いいね」は6件しかついていなかったが、7件目を進呈した。最後の文章だけ引用すると

今の時代にブルックナーを礼賛することの政治的危険性。あえて問題提起したい。

と佐倉教授は書いている。

 佐倉教授は1960年生まれ。岡田暁生氏と同年齢で、片山杜秀氏より3つ年上。

*1:本書110頁

*2:同296頁

*3:皆川がワグネリアンであったことについては右記リンクを参照。https://ontomo-mag.com/article/column/tatsuo-minagawa/

*4:本書242-243頁

*5:本書244頁