1月11日から16日までかけて、チャールズ・ディケンズの『大いなる遺産』(1861)をさ佐々木徹訳の河出文庫版で読んだ。
3年前のゴールデンウィークに同じディケンズの『荒涼館』(1853)を同じ佐々木徹訳の岩波文庫版で読んで大いにはまったことがある。当時このブログに下記記事を公開した。
kj-books-and-music.hatenablog.com
上記リンクの記事にも書いたかもしれないが、ディケンズは1980年代前半の学生時代に『デイヴィッド・コパフィールド』(1850)を中野好夫訳の新潮文庫で読んだが、さして嵌まらなかった。それどころか、ドストエフスキーを高く評価する人たちから「ディケンズの小説は構成が弱い」とか「登場人物が変化せず、善玉はずっと善玉で、悪人はずっと悪いままだ」などと批判されているのを読んで、他の作品を読もうとは思わなくなった。ドストエフスキーの5大長編は1987年から1993年にかけて読んだ*1。
およそ40年ぶりにディケンズを読んだのは、図書館の棚にアガサ・クリスティの「C」のすぐ近くにディケンズの「D」があったからだ。『荒涼館』など作品名も知らなかったが、それが岩波文庫から割と最近(2017年)に出ていた。それで最後の第4巻末尾の訳者・佐々木徹の解説文を読んで、クリスティが『荒涼館』を非常に高く評価していて演劇化しようとしていたことを知り、ゴールデンウィークだし読もうかと思ったのだった。
以後、同じ2022年5月に『オリバー・ツイスト』(1838)、2023年のゴールデンウィークに『二都物語』(1859)を読んだ。『大いなる遺産』は昨年(2024年)のゴールデンウィークに読むつもりだったが果たせず、年末年始に先送りしたが結局その予定も延び、ようやく先週の3連休から読み始めて一昨日(1月16日の木曜日)に読み終えた。
訳者によればディケンズの最高傑作とのことだが、読んでみると『荒涼館』のような一貫したクレッシェンドあるいはアッチェレランドではなく*2、3部構成の第2部でやや中弛みしたが、第2部の終わりから加速がつき始めた。ディケンズはいつもそうで、終わりになるほど引き込まれる。私の好みとしてはやはり『荒涼館』が一番で、それに次ぐのが『大いなる遺産』になろうか。ただ最後の第58章から第59章までの2章だけは一晩置いて翌朝にエンディングを読んだ。その間に作者がどのように幕を閉じるのかを予想したかったからだ*3。予想は途中まで見事的中したが、最後の5頁は全くの予想外だった(後述)。
『大いなる遺産』については、私が読み終えた2025年1月16日のちょうど1年前に公開された下記noteの記事がとても良い。
著者のLogophileさんのAmazonの情報は下記。
Logophile(ロゴファイル)は、「言葉(Logos)が好き(-phile)」という意味を込めたペンネームです。ニュージーランドの大学院で宗教学と図書館情報学を専攻し、音楽理論と音楽史も学びました。同大学音楽院で音楽理論と音楽史を学びました。アマチュア演奏家としてフルート、ピッコロ、リコーダー、ピアノを演奏し、クラシック音楽への情熱を追求しています。
西洋のクラシック音楽といえば、『大いなる遺産』の主人公・ピップは友人のハーバート*4に「ハンデル」と呼ばれる。佐々木徹訳や加賀山卓朗訳では「ヘンデル」となっているが*5、ヘンデルはイギリス国籍を取得して姓からウムラウトがとれてハンデルになった。もちろん上記noteにもきっちり書いてある。以下引用する。
ピップの親友は、ピップは呼び名としては軽すぎるので、彼のことを綽名で英国最大の作曲家にちなんで、ハンデル(ドイツ式ではヘンデル)と呼んだりする。
そうそう。ハンデルこそイギリス最大の作曲家なのだ。むかし、ヘンリー・パーセル(1659-1695)のあとベンジャミン・ブリテン(1913-1976)までイギリスからは大作曲家が出なかったと聞いたが、それは間違っている。ジョージ・フレデリック・ハンデル(1685-1759)はまぎれもなくイギリスの大作曲家だ。もっともピップがハンデルと呼ばれる理由になった「調子の良い鍛冶屋」は初期の1720年の作曲で、ハンデルのイギリス国籍取得は1727年だから、「ヘンデル」時代の作品ではある。
‘Would you mind Handel for a familiar name?
There’s a charming piece of music by Handel, called the Harmonious
Blacksmith.’
第22章よりハーバートの言葉
「ハンデルって名前はどうだい?
ハンデルの作曲した『愉快な鍛冶屋=
調子のよい鍛冶屋』
っていうチャーミングな曲がある」
バッハと並び称される
ドイツ人大作曲家ヘンデル Händel は
英国に帰化して、
ドイツ語ウムラウトAがただの英語のAになって
ハンデル Handelと呼ばれるようになりました
ピップは鍛冶屋見習いだったからです
ヘンデルの代表曲チェンバロ組曲第5番中の変奏曲はわたしの愛奏曲です
そういえば私が初めてこの曲を知った、父に貸してもらった「ピアノ名曲集」だったかの古いレコードに書かれていた日本語の呼称は「ゆかいな鍛冶屋」だった。でもその頃(1970年代半ばから後半)には既に、NHK-FMなどでは「調子の良い鍛冶屋」という呼称でほぼ統一されていた。だから「愉快な鍛冶屋」という呼称は懐かしい。
Logophileさんのnoteには、ヴィルヘルム・ケンプが1955年に弾いた「調子の良い鍛冶屋」の動画がリンクされている。
ここでは、1979年にスヴャトスラフ・リヒテルがピアノを弾いたチェンバロ組曲第5番の全曲の動画をリンクする。「調子の良い鍛冶屋」に先立つプレリュード、アルマンド、クーラントの3曲もとても美しい曲だからだ。「調子の良い鍛冶屋」は8分41秒あたりから始まる。
リヒテルはアンドレイ・ガブリーロフと2人でハンデルのチェンバロ組曲の全曲盤を出した。この第5番ホ長調のほか、第3番ニ短調などのおいしい曲をリヒテルが弾いているのは両者の力関係のなせるわざなんだろうなと思ったものだ。第3番にはあのグレン・グールドがチェンバロを弾いた演奏もあるが、彼は第5番は録音していない(第1〜4番のみ)。
話をハンデル(ヘンデル)からディケンズに戻す。Logophileさんのnoteより。
ミステリー仕立てのこの物語の後半、前半に張られていた伏線は驚くほどに見事に回収されて、何も知らないで読んだわたしはその物語展開の巧みさに舌を巻きました(ネタバレしません。是非ご自身で読んでみて、驚愕の展開を楽しまれてください。ウィキペディアであらすじを学んでから読んだりすると、もったいないですよ)。
まだこんな面白い物語をいままで知らないでいたわたしは幸福でした。
これは本当にそうだ。私も『大いなる遺産』を予備知識なしで読めて非常に運が良かった。だからブログでも、今回はネタバレをしないことにした。
なお日本語版のWikipediaは結構親切というかそっけないというか、現時点(2025年1月18日現在)の版は大きなネタバレを回避している。それでも見に行かない方が良い。英語版Wikipediaは絶対にダメで、ネタバレ満載だ。
私が危なかったのは、以前ディケンズの長篇の訳者を選ぶ時にある登場人物の名前を目にしてしまったことだ。しかしそれは2022年春のことだったので、それから3年近くも経って読んでもいない小説の登場人物の名前を覚えているはずもなく助かった。今回は、ミステリを読む時のような先の展開を読もうとする心を意識的に抑え、話の流れに身を任せて読んだ。本作はディケンズの作品としては登場人物が少ないから、要らぬ推理を働かせたりしたらからくりがわかってしまったかもしれない。実際、読書メーターの感想文などを見ていると、気づいたという人が結構いる。
ディケンズの名作「大いなる遺産」は、恋愛小説、社会小説、犯罪小説、そして、現代においても最高級とみなされるであろうサスペンス・ミステリー小説です(だからネタバレはだめです)。
こんな小説、聞いたこともないと言われる方はあらすじを読まないで、何も知らないまま、この小説をぜひ手に取ってみてください。
19世紀半ばの矛盾だらけのヴィクトリア英国社会へとタイムスリップしてエキサイティングな読書の時間を過ごすことができることは請け合いです!
ところで、本記事の初めの方で結末の最後の5頁が意外だったと書いたが、この小説にはディケンズが当初予定していたエンディング(以下第1稿とする)と、他者の助言を容れて大きく変更したエンディング(以下第2稿とする)があり、刊行された時には既に第2稿だった。さらにディケンズ晩年の1868年に(といってもまだ56歳)第2稿のエンディングの表現が少し変えられた。
それに関して当時から議論百出だった。かつては第2稿は改悪だったとするネガティブな意見が多かった。代表的な論者がバーナード・ショーだった。『大いなる遺産』の後半部をディケンズ最良の心理劇だとして高く評価したジョージ・オーウェルも、エンディングに関しては第2稿は一貫さを欠くとの意見だったようだ。しかし近年は第2稿を評価する論者が増えているらしい。
また第2稿をどう解釈するかで意見が分かれる。私が読んだ河出文庫版の訳者・佐々木徹は、第2稿における片方の解釈(第1稿寄りの解釈)を批判した上で*6、第1稿の方が良かったとしている*7。
私は第1稿のような終わり方をするだろうと思って読んでいたら、予想もしなかったエンディングだったので大いに驚いた。それまで、第1稿のようなエンディングを予期させる文章がいくつもあったからだ。だから一貫性からいえば第1稿の方が断然良いと思った。
しかしその意見は早くも変わりつつある。ことにエステラ Estella に関するLogophileさんのnoteの文章を読んだあとでは。
ところで私が読んだのは前述の通り佐々木徹訳の河出文庫版だが、その解説文にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のある場面が『大いなる遺産』に似ているとの指摘があった。これには、なるほど言われてみればそうかもしれないと思わされた。
しかしそれには問題もあって、それはこの指摘が『カラマーゾフの兄弟』に含まれる大きなミステリ要素のネタバレを含んでいることだ。解説には「犯人」という言葉が使われている。
だから、『カラマーゾフの兄弟』を未読で、かつ読みたいと思っている方は、『大いなる遺産』の河出文庫版は選択しない方が良い。
Logophileさんが読まれたのは、note中のリンクを見る限り、加賀山卓朗訳の新潮文庫版と思われる。私は『二都物語』をこの人の訳で読んだ。『大いなる遺産』も佐々木徹訳がなければ2020年の新訳である新潮文庫の加賀山訳を選んだだろう。
なおドストエフスキーは本当にディケンズに傾倒していた。ひところのドストエフスキー好きのディケンズdisの方が間違っていたとしかいいようがない。
あと特に強く思ったのは、ディケンズがいなければアガサ・クリスティも出てこなかったということかな。ご都合主義的な展開を好むところといい。そして、クリスティなら『大いなる遺産』のエンディングの第1稿と第2稿のどちらに軍配を上げただろうかと思う。クリスティはああいうことには特にうるさい人だったはずだから(笑)。