今年2番目に読み終えた本は、図書館で借りた宮部みゆきの『平成お徒歩日記』(新潮文庫2001, 単行本初出1998)。現元号に改元後、一篇の書き下ろしを加えて『ほのぼのお徒歩日記』と改題されたらしい(2019年刊)。
改題された新装版の表紙は、なんだか深川出身の著者のイメージとそぐわないような気もするが(失礼)、予想に反して著者たち(著者と新潮社の編集者たち)は東京東部以外にも足を伸ばしている。表紙はおそらく「其ノ三」に書かれた箱根旧街道歩きをイメージしているのだろう。この遠出は著者34歳の1995年7月に行われたが、著者はそれまで箱根に行ったことがなかったらしい。私も関東在住期間が通算するとかなり長くなったけれども箱根には未だに一度も行ったことがないので、最近の運動不足解消のためにも箱根旧街道歩きをやってみても良いかなと思った。全部歩けば32kmもあるらしいが、その一部を歩く3、4時間のコースがよく歩かれているらしい。もちろん著者たちも全部歩いたわけではないらしく、下記のように書かれている。
また、箱根から三島へと続く旧街道は、あることはあるし標識も立っていますが、さらに難儀で危険な道です。ハイキング気分の行程には組み入れない方が無難でしょう。
「怖いよ!」
と泣きつつ歩いてみたお徒歩隊が申し上げるのですから、間違いありません。
どうやら、著者たちのために下調べした新潮社の社員だか関係者だかが歩いたものの、著者たちは歩かなかったと推測される。事実、上記引用文の直前に「わたしたちが歩いた旧街道の一部は、地元の子供たちの通学路になってるそうなんですよ」と書かれている。
ところで、以上はおよそ30年前の文章であって、現在では前記箱根・三島間も結構整備されているのではないか。ネット検索をかけたら、昨年(2024年)9月22日に行われた「三島・箱根東海道ウォーク2024」のサイトがヒットした(下記リンク)。
『平成お徒歩日記』の本篇は7つある。私は元号が嫌いなので西暦で表記するが*1、歩かれたのは1994年7月から1997年9月までで、「其ノ一」から「其ノ伍」までは「猛暑と寒波」の厳しい季節にばかり挙行された。しかし著者が1996年10月にマイコプラズマ肺炎にかかったために、「其ノ六」は夏冬ではなく1997年5月に、著者の出身地(江東区深川地区)に近い「本所七不思議」ゆかりの地を訪ね歩いている。そして最終回の「其ノ七 神仏混淆で大団円」では善光寺と伊勢神宮を訪れているが、ろくに歩きもしないで交通機関を使いまくり、終着点はなんと志摩観光ホテル!
山崎豊子さんの『華麗なる一族』の冒頭のシーンの舞台として使われたという、広々として美しいディナールームに、全然華麗じゃないお徒歩隊が乗り込みました
なんて書いてある。それって、私が今年最初に読み終えた本じゃないか。なんでそうなるんだよ、とぼやきつつ、巻末に掲載された「お徒歩日記」の原型ともいうべき「剣客商売『浮沈』の深川を歩く」を読んだ。1993年3月に著者が地元を歩いたこのエッセイが、一連の「お徒歩日記」の企画を始めるきっかけとなった。
『浮沈』は池波正太郎(1923-1990)の「剣客商売」シリーズの最終巻。残念ながら読んだことはない。深川を舞台としたその小説のゆかりの場所を著者たちは訪ね歩いた。
中でも、作品冒頭の敵討ちの舞台となった「千田稲荷」を探したくだりが面白かった。
著者が生まれ育ったのは千田(せんだ)の近くの千石。私の現住所からも非常に近い。千田のバス停は、著者が会社勤めをしていた時に毎日使っていたが、著者は「千田稲荷なんて聞いたことない」という。地元のタクシーの運転手も知らないという。しかし、その運転手の聞き込みによって「千田稲荷」が発見された。
それは、現在では「宇迦(うか)八幡宮」と名を変えて、確かに千田にあった。宇迦八幡なら著者が子どもの頃によく遊んだ場所だった。当時は境内にブランコや滑り台があり、近くに「稲荷湯」という名の銭湯があったらしい。私は本を読んで現地に見に行ったが、滑り台もブランコも銭湯も既になかった。
そして、境内に建てられたばかりの真新しい石碑に、昭和に入って千田稲荷が宇迦八幡になった来歴が彫りつけられているという。これも現地で確認したが、すぐには見つからなかった。しかし「平成四年」(1992年)と彫られた、もはやかなり古くなった石碑の裏側、これは狭い隙間に入り込まなければ読めないが、それに彫りつけられているらしいことがわかった。少なくとも「千田稲荷」の4文字が確認できたのだった。
宇迦八幡がかつて千田稲荷だったことは、ネットでも確認できる。
宇迦八幡宮は、江東区千田にある神社です。宇迦八幡宮は、享保年間(1716-36)近江商人の千田庄兵衛が千田新田村を開拓、千田稲荷神社として創建したといいます。飢饉の際には穀物に代わって片栗を栽培するようお告げがあったといい、片栗八幡宮とも称されていました。
それにしても、「千田」も近畿の人の姓だったのか。
「深川」も「砂村」(現在の砂町)もともに摂津国の人が拓いた。
江戸川・墨田・江東区は葛飾区ともども旧葛飾国だから千葉県固有の領土だという冗談を聞いたことがあるが、旧摂津国出身の私が「江東区は大阪の(以下略)」などといったら区民にしばかれてしまうかもしれない。
帰り道に著者が卒業したという深川第四中学校(深川四中)の前も散歩した。今の深川は、広い通りでは都会風だが、路地に入ると景色が一変する。江戸時代からの埋立地なので、近くには「海辺町」などという町名がある。この点では、今世紀初頭に3年ほど住んでいた岡山の倉敷市を思い出させるところもある。「高橋」とかいて「たかばし」と読ませる地名があることも、倉敷と深川の共通点だ。しかし埋立地と「高橋」の地名以外の共通点はあまり思い浮かばない。いやもう少しあるか。店舗を多く持つスーパーと昔からある地元のスーパーの混在などがそうだ。
千石には、昔から住む地元の人が主に行くのは昔からある「フジマート」というスーパーがあるのようだ。古くからの住民が利用していると思われる。千石から南を見ると、1992年に開設された「東京イースト21」のタワーが見える。その隣にあるスーパーの「サミット」は、ホテルイースト21に宿泊する外国人などがよく利用する。四つ目通りにはイーストのタワーなどが目立つが、路地に入ると様相が一変して古層が現れるのが深川の特徴だ。こういうところが、戦前には何もなかったから新しいものばかりが目立つ東京西部の中央線沿線などとの大きな違いだ*2。
ネット検索でヒットした下記PDFが興味深かった。
上記PDFに書かれているが、宮部みゆきは『平成お徒歩日記』で皇居一周するまで皇居の周りには行ったことがなかったとか。本所深川の地元民にはそういう人が結構いるのかもしれない。それこそ「お徒歩」をやったら深川から皇居なんかすぐに行けてしまう。今の自宅から皇居までの距離なんて、倉敷で工業地帯から自宅まで歩く距離よりも近いことを思うと、東京とは不思議なところだなあと思わずにはいられない。
*1:「平成」はNGワードにまではしていないが、現元号は私が運営するブログのNGワードにしている。
*2:政治の話はあまりこちらのブログではしないようにしているが、千石には共産党の江東区委員会があり、地元の共産党区議の事務所もある。私が歩いた1月11日にもその事務所の中には数人の人がいて何やら話し合っていたようだ。町にはその共産党のポスターが目立ったほか、参政党、立民、それに無所属の金澤結衣や須藤元気のポスターが貼られていた。そういえば大空幸星のポスターはあまり目立たなくなった。路地に入ると、永代通りなどではあまり見かけない立民(酒井菜摘衆院議員や高野勇斗区議)のポスターが貼られている一方、永代通りや四つ目通りなどの広い道ではよく見かける須藤元気のポスターは路地に入るとあまり目立たない。そして衆院選直後にはポスターの剥がし残しが多かった大空幸星のポスターはもうすっかり目立たなくなった。そういえば柿沢未途が議員辞職する前は、江東区の政治家のポスターでもっとも目立ったのは柿沢だったが、その柿沢のような政治家は今はいない(柿沢は公民権停止中)。江東区における権力の空白の状態はまだまだ続くかもしれないと思った。