KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

坂本龍一と父・坂本一亀と大岡昇平と

 『kojitakenの日記』に公開した島田雅彦を批判する記事を書くために大岡昇平の『成城だより』全3冊(中公文庫)を調べていたら、同じサ行の姓の坂本龍一への言及が何箇所かあった。

 大岡の日記に初めて坂本が登場するのは1980年5月8日。当時大岡71歳、坂本28歳。以下引用する。

 

 イエロー・マジックのキイボードを操作する坂本龍一とは、寺田君の元河出書房における先輩坂本一亀氏の息子だ、という。「げっ」と驚くのはこっちなり。

 坂本一亀氏は、元河出書房のまじめ一本槍の幹部社員にて、現在は構想社社長。親子の仲よくないとのことなり。寺田君帰ったあと、「はい」と例によって無愛想な声すれど、「イエロー・マジックでいま翔んでる龍一さんてのは、きみの息子さんだそうだね」といえば、

「まあ、そうですがね」と声やわらぐ。

「こないだの、リターン・リサイタルへ行った?」

「まあ、行きました」

「あれは一分半のことだったけど、実に日本的な泣きのような擬音を出すなあ、それに観客が実に早く反応するなあ」

 私は「パブリック・プレッシュア」ライブ・レコードの印象を語っているのである。

「そうですかね」

 といいながら、電話先でほころびる口許が目に見えるようである。

「とにかくお目出度う。うれしいだろう」

「えへへ」

「うれしいのか、うれしくないのか。どちらなのかね」

 あんまりからかうのも悪趣味になるから、その辺までにしといたが、さてジャケット写真のどれが龍一君か、いまは白髪頭になった一亀氏に俤(おもかげ)を、三人の中から探し出す。「アンチ・モラルへの偽装」その他ナウいキャッチフレーズは色々あれど、三人の中で、親父に似て生まじめなマスクを探せば、それが龍一君である。

 

大岡昇平『成城だより』(中公文庫2019)102-103頁)

 

 坂本一亀(1921-2002)については、sumita-m氏の下記ブログ記事に言及があった。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 坂本一亀については、下記リンクの記事が強い印象を与えてくれる。

 

web.kawade.co.jp

 

 以下引用する。

 

ファミリーヒストリーで紹介された坂本龍一の父 真実の姿を伝える「伝説の編集者 坂本一亀とその時代」

田邊園子

2018.04.23

 

坂本龍一の父・一亀は「文藝」の編集長を務め、三島由紀夫高橋和巳を世に送り出した伝説の編集者でした。

本書は坂本編集長による「文藝」復刊時に河出書房新社に入社した文藝スタッフ・田邉園子氏が、なんと子息である坂本龍一氏に直接、「父が生きているうちに父のことを書いて本にしてほしい」と依頼を受け記された一冊です。

本書よりNHKファミリーヒストリー」放映を記念し、まえがきを公開します。

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はじめに

坂本一亀は、二〇〇二年九月二十八日、八十歳と九か月でその生涯を終えた。何年も透析に通っていた自宅近くの病院で、安らかに息を引きとったという。彼は二十五歳から三十五年間、出版社で文芸編集者として果敢に生きた。
編集者としての坂本一亀は、ファナティックであり、ロマンティストであり、そしてきわめてシャイな人であった。彼は私心のない純朴な人柄であり、野放図であったが、繊細であり、几帳面であり、潔癖であった。
彼の言動は合理性にはほど遠く、矛盾があり、無駄が多いように見えたが、本質を見抜く直感の鋭く働く人であった。言葉を費やして説明することを省き、以心伝心、推して知るべし、あ、うんの呼吸、といった古武士の世界に住んでいるように見えた。坂本さんは古武士のような人ですねえ、と感嘆していたのは、昔、たびたび河出書房新社に見えていた日沼倫太郎だったような気がする。坂本一亀には日本古来の白木の木刀がよく似合いそうだ。彼は〝木刀の味〟の日本男子であった。
「ダメダ」「イヤダ」「アカン」といった否定語を発することが多く、理由を説明しないので、なぜなのか、何を言いたいのか理解できないことが多かった。ずっと後になって解ることもあったが、解らないままのこともあった。
坂本一亀を駆り立てていた、あの狂おしいまでの情熱とは何なのか。それは、戦争体験と無縁ではないように思われる。青少年期に死と向き合って日常を過ごさざるを得なかった世代の人々のなかに、時々、共通するものを感じることがあった。三島由紀夫の狂気、井上光晴の激情、などである。
坂本一亀は、三島由紀夫の回想*のなかで、

きみは兵隊に行ったのかと私に訊く。行ったと答える。そうか、よかったな、うらやましいよ。ちっともよくない、と私は返す。

と記している。軍隊経験をもつ坂本一亀と、もたなかった三島由紀夫の違いがはっきり示されているし、また皇国少年から戦後、共産主義に転じた井上光晴とは、それぞれ信じる方向は相違しているが、彼らが第二次世界大戦中、死を決意して、まっしぐらに生きていたホットな若者たちであったことは共通する。彼らはその性情において、時代に背を向けたり逃げたりしなかった若者たちだ。三島由紀夫は坂本一亀や井上光晴を好きであったし、坂本一亀も三島由紀夫井上光晴を好きであった。井上光晴は、その思想上の立場から、けして三島由紀夫への好意を表に出すことはなかったが、三島邸のパーティへの招待を断らずに出かけているし、坂本一亀とは取っ組みあってじゃれあう仲であった。純粋で、直情的な、似たような気質をもつ人同士には、暗黙のうちに牽かれあうものがあるのではないかと私には思える。三島由紀夫の書き下ろし長篇小説『仮面の告白』や井上光晴の長篇小説『地の群れ』の成功は、編集者坂本一亀の真摯な情熱が相手に伝播し、彼らのなかに潜んでいた力を引き出したのだと思う。
戦時中は皇国少年であったことを、坂本一亀から打ち明けられた人がいる。それは、さもありなんと納得がいくものだ。しかし彼は軍隊体験によって軍隊を激しく憎悪し、その感情は、野間宏の書き下ろし長篇小説『真空地帯』を世に送りだすことによって幾分かが解消されたのかもしれない。ベストセラーにもなり、高い評価を得た『真空地帯』の成功のあと、目を真っ赤に泣きはらしていた坂本一亀を見た、と当時の同僚は証言する。
坂本一亀は涙もろい人であった。彼が掘り出した新人作家高橋和巳が若くして他界したとき、坂本一亀はどれほど泣いたことか。高橋和巳について彼が書いたいくつかの追悼文はどれも感傷の涙で濡れている。高橋和巳には青い炎のような古風な情念があり、それは坂本一亀のなかで絶えず燃えている小さな炎と触れあい、彼らが相対するとき、炎は大きく揺れるのだった。高橋和巳の早すぎる死は、坂本一亀のなかの燃える炎を一瞬かき消した。だから彼は、しばらくのあいだ立ち直れないほど泣くことで自分を支えなければならなかったのだ。
坂本一亀の無邪気で素朴な面が素直に発揮されたのは、小田実の書き下ろし旅行記『何でも見てやろう』の場合ではないか。ざっくばらんで、言いたいことを忌憚なくしゃべる小田実を、坂本一亀はとても愛していたのではないかと思う。いつも気むずかしい顔をしていた坂本一亀は、小田実が現れると、子供のように邪気のない、人懐っこい可愛い笑顔を見せたのが印象に残っている。
坂本一亀が「文藝」の編集長であったのは、二年たらずの短い期間であるが、彼はその間に中身の濃い凝縮した仕事を残した。半世紀以上前、まだその名が知られていない新人の丸谷才一辻邦生山崎正和黒井千次日野啓三竹西寛子などが、すでに誌上に足跡を残している。類い稀なる大努力家だった彼は、寸暇を惜しんで同人雑誌を読みふけり、作家の卵たちを集めて、毎月「文藝」新人の会を開き、意見交換を行っていた。坂本一亀はそうした交流のなかで、刺激しあい、競いあう彼らの将来を期待し、次代を担う若者たちに夢を賭けたのだろう。坂本一亀は文学への高い志を抱き、愚直に夢を追うことの出来た時代の最後の編集者だったといえよう。

* 「仮面の告白」のころ 一九七一・二「文藝」

 

URL: https://web.kawade.co.jp/bunko/2013/

 

 大岡昇平坂本龍一の話に戻ると、最近有料契約したSpotifyYMOの『パブリック・プレッシャー』のアルバム全曲を聴いた。1980年2月21日に発売されたらしい。Spotifyは無料登録だとシャッフルされた曲順でしか聴けないが、有料登録するとアルバムの収録順に聴くことができる。

 

open.spotify.com

 

 1曲目のタイトルが「雷電」になっている。最初はこのタイトルだったのだ。最近公開した記事群に繰り返し書いている通り、私はこの曲は因襲的に聞こえるという理由によってあまり好まない。しかし、2曲目の「SOLID STATE SURVIVOR」、この曲は高橋幸宏作曲だがベースラインは坂本龍一によるのではないかともされる。一聴するとかなり坂本の寄与が大きいのではないかと思われる。ベースラインもそうだが、メロディーラインにドビュッシーが好んだ全音音階のうち隣接する4音が使われ、それが1音ずらして後追いされたりするからかなり全音音階的な響きがする。上記引用文で大岡昇平が「実に日本的な泣きのような擬音を出すなあ」と言っているのは、最後の9曲目「BACK IN TOKIO」を指すのだろう。関係ないが、沢田研二の「TOKIO」が1980年1月1日発売だった。

 大岡昇平は坂本一亀との電話について書いた前の部分で、YMOの音楽について下記のように言及している。

 

 ところで最近、イエロー・マジック・オーケストラなるグループ、東京を席捲しつつある。わが家にくる情報誌は、角川書店の「バラエティ」のみなれど、四月は二枚のLP売り上げトップと第四位、以来二ヵ月常にベストテン中にあり。第一位「パブリック・プレッシュア」は、欧米をぶって廻ったライブ録音盤、「ソリッド・ステイト・サーバイバー」は赤い中国服を着て、男女の等身大の人形をかかえている写真がジャケットになってるのがミソ、十二台のシンセサイザーをコンピュータにて連結してコンピュータにて操作し、へんな音を出す。ニューミュージックなんてもはや古い、とのことなれば買って来るとなかなかいける。ポップのごとき音の豊かさなれども、透明を目指して、ふしぎなリズムと旋律あり、寄席芸的機智あり。

「こういう新音楽があるの知ってるか」

 と新しがり屋のところを自慢すれば、寺田君は、

「知ってますとも、いまうちの高校三年の伜にせがまれてるのはシンセサイザーでして」

 という。これは防音装置を入れると百万円以上かかる。いまの親は大変だ。

 

大岡昇平『成城だより』(中公文庫2019)101-102頁)

 

 上記の文章に出てくる「寺田君」とは寺田博(1933-2010)という河出書房新社から作品社の創設に参加した編集者。1980年に創刊した文芸誌『作品』の編集長になったが、7号で休刊したらしい。私が作品社から直ちに連想するのはデイヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』の日本語訳(2007)を出していることだ。この本には、あの「こたつぬこ」こと木下ちがや氏が訳者の一人としてクレジットされている。

 大岡昇平の日記は、上記引用部分のあとに最初に引用した坂本龍一が坂本一亀の息子だという話に続く。坂本一亀は河出書房新社における寺田博の先輩編集者に当たる。

 なお寺田が発掘した新人の一人が、今日『kojitakenの日記』で批判した島田雅彦だ。

 『成城だより』には坂本龍一への言及があと2回出てくる。最初は2冊目に収録された1982年7月5日の日記で、一柳慧(いちやなぎ・とし, 1933-2022)の十七弦箏、ヴァイオリン、チェロのための四部の変奏曲「邂逅 Encounter」を聴いて、下記のように書いている。

 

 一柳氏の十七弦筝、力強くして、感動す。現代音楽は武満徹坂本龍一しか知らざる小生には驚異なり。老生近頃、コンサートに行かないのは、ピアニッシモ聞えざる無音の時間の悲しみに堪え得ざるためなりしが、展覧会場をそのまま演奏場としたる小ホールにては聞える。聴衆椅子なきは、床上に腰下ろして膝かかえて聞く。和光六階にアングラ劇場の如き光景出現す。おれもまた昔の「早稲田小劇場」みたいなものを観に行けるかも知れねえぞ、と希望生ず。

 

大岡昇平『成城だよりII』(中公文庫2019)162-163頁)

 

 大岡昇平も晩年は耳が悪かったようだが「無音の時間」と言っているから耳鳴りはなかったと思われる。

 最後は3冊目に収録された1985年5月7日の日記で、坂本龍一は「文學界」の座談会に青野總、柄谷行人中上健次とともに出席したらしい。音楽とは関係ないので内容の紹介はしない。

 先週末から今週にかけては、坂本龍一が2010年から2014年にかけてNHKEテレでやっていた「スコラ 音楽の学校」の動画がYouTubeに上がっていたのを何本か見た。2011年のシーズン2で4回放送された「ドビュッシー、サティ、ラヴェル」の全部を見て、前年の2010年のシーズン1でやはり4回放送された「バッハ」は、動画がアップされている第2回と第4回を見た。これらにはおそらく著作権法上の問題があると思われるのでリンクは張らない。ただ坂本龍一の音楽に関する思考はよくわかったし、スタンダードな内容だと思った。バッハの回では、バッハの音楽には半音程の関係にある2つの音がぶつかり合う一瞬の不協和音が随所に出てくると言っていたが、弊ブログの記事でも同様のことを力説していたので、私が書いた程度のことは、坂本龍一が自らが出演するEテレの番組でさんざん力説していたんだなあ、バッハや20世紀の音楽について調べようとネット検索をかけたらいつも坂本龍一にぶち当たるんだよなあと、またしても思わされた。ただ、ドビュッシーラヴェルの音楽には、Eテレ坂本龍一が指摘したよりももっといろんな特徴があるんだけどなあとも思ったが、それらはまだ見ていない20世紀の音楽の回などで取り上げられているのかもしれない。

 放送の半分くらいがカットされて動画がアップされている「ジャズ」の回で、ブルーノートを持ったアフリカの音階と西洋音楽の(長調の)機能和声とをくっつけたことによって、長3和音とブルーノートとが半音でぶつかり合うこととか、ジャズがメジャーセブンスを多用することは半音のぶつかり合いを多用することでもあることを認識できたことは良かった。講師陣には山下洋輔が参加していた。クラシック音楽の流れではドビュッシー、大衆音楽ではアメリカのジャズがバッハの書法を甦らせたといえるかもしれない。それを面白いと思える感性は私にもあるので、坂本の「スコラ」のシリーズは、強い共感を持って視聴することができる。

 現時点では著作権法上の問題があるに違いないYouTubeの動画等でしか視聴できないが、NHKにはオーソライズされた形で過去の番組を視聴可能にしてはもらえないものだろうか。スコラには同様の内容を収めた高価なCD等が出ているようなので、簡単に無料で視聴できるようにすることは難しいとは思うが、それなりの対価を払ってでも見たいと思える番組だ。

 そういえばバッハの4回目にはスウィングル・シンガーズの話も出ていたが(浅田彰が言及し、バックに管弦楽組曲第2番の終曲・バディヌリが一瞬流された。スウィングル・シンガーズのバッハの連載最終回を書く時間は今日は取れなかったので、それはGW開始早々の次回の週末に回す。