KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫)は、本文もさることながら山口周の解説文が非常に示唆的

 かつての朝日新聞のスター記者にして、1992年以降は『週刊金曜日』の創設者として知られる本多勝一が1980年代に書いた『アムンセンとスコット』(単行本初出は教育社,1986)が昨年末に朝日文庫入りした。それを買い込んで積ん読にしていたが、読み始めたら面白く、引き込まれていった。

 

publications.asahi.com

 

 著者の本多勝一自身の名前がクレジットされた記事がネットでも読める。下記はプレジデント・オンラインという、かつての本多からは結びつきが考えられないサイトへのリンク。

 

president.jp

 

 本多は『アムンセンとスコット』では、1980〜90年代の彼が愛用した「ノルヱー」(ノルウェー)や、片仮名の「ワ」「ヰ」に濁点を振って英語などの "va", "vi " の発音を表そうとした独特の片仮名表記を用いているが、上記プレジデント・オンラインの記事では「ノルウェー」という普通の表記を用いている。また本書では「ワ」に濁点の文字で表記されて然るべきと思われる人名 "Evans" が「エバンズ」と表記されているなど、不徹底な箇所がある。しかしこれらは余談だ。

 本書を取り上げようと思ったのは、巻末の山口周氏の解説が興味深かったからだ。

 山口氏は1970年生まれの52歳で、Wikipediaによると「著作家・パブリックスピーカー・経営コンサルタント」とのこと。2019年には前記ダイヤモンド・オンラインでアムンセンとスコットの南極点到達一番乗り争いを取り上げている。

 

diamond.jp

 

 本書と関連する部分のみ以下に引用する。

 

エリートがアントレプレナーに敗れる理由

 

 イノベーションの歴史を振り返ると、この「命令を受けたエリート」VS「好奇心に突き動かされた起業家」という戦いの構図がたびたび現れます。そして、多くの場合、本来であればより人的資源、物的資源、経済的資源に恵まれていたはずの前者が敗れています。

 これはなぜなのでしょうか? もちろんさまざまな要因が作用しています。筆者が所属するコーン・フェリーのこれまでの研究から、一つ確実に指摘できると考えられるのは、「モチベーションが違う」ということです。

 モチベーションの問題を考えるにあたって、非常に象徴的な示唆を与えてくれるのがアムンセンとスコットによって競われた南極点到達レースです。

 

 20世紀の初頭において、どの国が極点に一番乗りするかは領土拡張を志向する多くの帝国主義国家にとって非常な関心事でした。そのような時代において、ノルウェイの探検家、ロアール・アムンセンは、幼少時より極点への一番乗りを夢見て、人生のすべての活動をその夢の実現のためにプログラムしていました。

 たとえば、次のようなエピソードを読めばその徹底ぶりがうかがえるでしょう。自分の周りにいたらほとんど狂人です。

  • 子どもの頃、極点での寒さに耐えられる体に鍛えようと、寒い冬に部屋の窓を全開にして薄着で寝ていた
  • 過去の探検の事例分析を行い、船長と探検隊長の不和が最大の失敗要因であると把握。同一人物が船長と隊長を兼ねれば失敗の最大要因を回避できると考え、探検家になる前にわざわざ船長の資格をとった
  • 犬ゾリ、スキー、キャンプなどの「極地で付帯的に必要になる技術や知識」についても、子どものときから積極的に「実地」での経験をつみ、学習していった

 一方、このレースをアムンセンと争うことになるイギリスのロバート・スコットは、軍人エリートの家系に生まれたイギリス海軍の少佐であり、自分もまた軍隊で出世することを夢見ていました。

 当然ながらスコットには、アムンセンが抱いていたような極点に対する憧れはありません。彼はいわば、帝国主義にとって最後に残された大陸である南極への尖兵として、軍から命令を受けて南極へ赴いたに過ぎないのです。

 したがって、極地での過去の探検隊の経験や、求められる訓練、知識についてもまったくの素人といっていいものでした。

 さてこのレースの結果は、皆さんもご存知の通り、「圧倒的大差」でアムンセンの勝利に終わります。

 アムンセン隊は、犬ゾリを使って1日に50キロを進むような猛スピードであっという間に極点に到達し、スムーズに帰還しています。当然ながら一人の犠牲者を出すこともなく、隊員の健康状態はすこぶる良好でした。

 一方のスコット隊はしかし、主力移動手段として期待して用意した動力ソリ、馬がまったく役に立たず、最終的には犬を乗せた重さ240キロのソリを人が引いて歩く、という意味不明な状況に陥り、ついに食料も燃料も尽きて全滅してしまいます。

 一体何がマズかったのか。スコットの敗因についてはさまざまな分析が行われていますが、ここで筆者が取り上げて考察したいと思うのは、「探検そのものの準備と実行の巧拙」ではなく、もっと根源的な「人選の問題」という論点です。

 先述した通り、このレースは軍人エリートの家系に生まれ、自らもそうありたいと願うスコットと、幼少時より極地探検への憧れを抱き続け、人生そのものを一流の極地探検家になるためにプログラムしたアムンセンのあいだで争われ、そしてアムンセンの圧倒的な勝利に終わりました。

 ここで着目したいのが、この2人を駆り立てていた「モチベーション」です。

 同じ「南極点到達」という目標に向かって活動しながら、彼ら2人は大きく異なるモチベーションに駆動されていました。スコットのモチベーションは、おそらく海軍から与えられたミッションを完遂し、高い評価を得て出世するという点にあったでしょう。

 一方で、アムンセンのモチベーションは、おそらく南極点に最初に到達し、探検家として名を成したい、というただそれだけのものだったでしょう。

 つまり、スコットが「上司から与えられた命令を完遂して評価されたい」という承認欲求に突き動かされていたのに対して、アムンセンは極めて内発的なモチベーションによって突き動かされていた、ということです。

 この「上司からの命令で動くエリート」と「内発的動機に駆動されるアマチュア」という構図は、インターネット黎明期の頃から、たびたび見られた戦いの構図であり、多くの場合は「内発的動機に駆動されるアマチュア」に「上司からの命令で動くエリート」が完敗するという結果になっています。

 

出典:https://diamond.jp/articles/-/211296?page=2

 

 結果をすでに知っている人に対して、アムンセンとスコットの立場を比較して、「どちらかを選べ」と言えば、スコットの立場を選ぶ人はいないでしょう。

 前者が元から大好きだった探検を心底楽しみながら遂行し、無事に生還して探検家としての盛名を得たのに対して、後者はまったく興味のなかった探検を上司の命令だからということで仕方なく受け入れ、拷問のような苦労を積み重ねた末に、部下全員と自分の生命まで失っているのです。

 探検隊の最後の一人となったスコットの日記には「残念だがこれ以上書くことができない」と記され絶筆となっています……何ともはや。

 しかし、では今日、どれだけの人が自分の内発的動機とフィットする「場」に身を置けているかとあらためて考えてみれば、多くの人はスコットと同じように「上司の命令だから」ということで、モチベーションの湧かない仕事に身をやつしながら、内発的動機に駆動されて自由自在に高いモビリティを発揮しているニュータイプたちに翻弄され、きりきり舞いさせられているのではないでしょうか。

 そのような場所に身を置いていれば、いずれ自身もまたスコットと同じような社会的結末へと至ることになる可能性があります。

(本原稿は『ニュータイプの時代――新時代を生き抜く24の思考・行動様式』山口周著、ダイヤモンド社からの抜粋です)

 

出典:https://diamond.jp/articles/-/211296?page=3

 

 アムンセンとスコットに関する上記の対比と同様の記載は本書の解説文にも出てくる。

 しかし、山口は本書の解説文で上記に当たる「パーソナリティーの側面=内発的動機の有無」に加えて、「マネジメントの側面=権力格差の大小」をも分析している。というより、こちらの分析の方が先に書かれている。以下に本書から引用する。

 

 まず「マネジメントの側面=権力格差の大小」という点について述べたいと思います。アムンセンとスコットのリーダーシップの違いがもっとも顕著に現れていると思われるのが、彼らのチームにおける「権力の格差」です。「権力の格差」とは、リーダーとメンバーとのあいだにおける権力の差で、もともとはオランダの組織心理学者、へールト・ホフステードが提唱した概念です。ホフステードはIBMからの依頼に基づいて、全世界のIBMオフィスにおける上司と部下の権力の格差を調査し、それを「権力指標 = Power Distance Index」として数値化しました。

 ホフステードによると、権力格差の大きいチームでは、リーダーの命令は絶対であり、メンバーがリーダーの指示に反論することはあり得ない、という空気が支配することになります。一方で、権力格差の小さいチームでは、組織はよりフラットになり、リーダーとメンバーが意見をぶつけ合いながら集合的に意思決定されることが歓迎されるようになります。ホフステードのスコアリングによると、アムンセンの出身国であるノルウェイは権力格差の非常に小さい国となっていますが(原註あり)、それは本書に登場するさまざまなエピソードからも感じることができます。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)333-334頁)

 

 引用文中、「(原註あり)」と記した箇所の原註は下記の通り。

 

 ノルウェイの権力格差指標は18。スコットの出身国であるイギリスは35となっている。ちなみに日本のスコアは54。儒教の影響圏にある国は全般に格差が大きい。(同335頁)

 

 上記がいつごろ行われた調査なのか記載されていないが、ネット検索をかけると山口自身が書いた記事(下記リンク)がヒットし、それによると1967〜73年に行われた調査とのことだ。およそ半世紀前の研究結果ではある。

 

toyokeizai.net

 

 ノルウェイ(におけるIBM)が比較的フラットな組織であるのに対して、現在も階級制度が強く残存しているであろうイギリス(のIBM)では権力格差が大きい。しかし日本(のIBM)における権力格差はもっと大きいということなのだろう。2005年に亡くなった亡父がかつて「日本IBM? あれは日本の会社だ」とその体質を一言で切り捨てていたことを思い出す。日本の企業における業務命令が絶対の体質は私もよく知っており、会社内で下からの意見を汲み上げることなどほとんどない、というのが持論だ。

 山口は、アムンセン隊について「隊員一人ひとりの意見を尊重し、結果としてチームの参画意識、自主性、モチベーションを高く保とうとしたアムンセンのチーム運営に関する姿勢が窺えます」と高く評価する。スコット隊に対する下記の論評とは対照的だ。

 

 一方のスコット隊は、チーム運営に厳格な海軍の階級制度を取り入れていました。考えるのは隊長であるスコットで、メンバーは忠実に従順にスコットの命令に従うことを求められたのです。結果、自主性も参画意識も持てないメンバーはモチベーションを低下させ、ケアレスミスを連発することになります。スコット隊の隊員はありとあらゆる状況で小さなケアレスミスを積み重ね、結局はそれらのミスが全滅に至る決定的な状況を招いてしまいます。

 隊員が死亡していく順番にそれがよく現れています。記録を見返してみると、隊員が死んでいった順は、エバンス、オーツ、バワーズ、ウィルソン、そしてスコットとなっており、つまりは階級の低いものから順に死んでいます。隊長はその責任感から、最後まで頑張ったという能天気な見方もあるかもしれませんが、私は、スコット隊の厳格な身分制度が、階級の低いメンバーに心理的・肉体的なストレスを与え、死を早めたのだろうと考えています。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)335-336頁)

 

 本多勝一が書いた本文でもスコット隊の階級由来の問題点をいくつもの箇所で指摘し、たとえば下記のような印象的なくだりがある。

 

 現在にいたるまで、オーツの死は高く称賛され、エバンズの死は語られることが少ない傾向がある。スコットはオーツの最期を語る日記のなかで「(オーツの行動は)勇敢な男の、そしてイギリス紳士(傍点*1は本多)のものであった」と書いた。これはエバンズが決して並べない階級社会での言い方である。その結果、エバンズの真に英雄的な行為が小さく見られてしまっていることに対して、エバンズの立場を顕彰しておきたい。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)261頁)

 

 しかし、解説文での山口周の論評は、明らかに本多をも凌ぐ痛烈さである。

 山口はさらに、過去50年分、56か国のエヴェレスト登山隊における死亡者の発生率と権力指数の相関に関する南カリフォルニア大学の組織心理学研究者、エリック・アニシックの研究によると、権力格差の大きい文化圏の登山隊の方が、他方の登山隊と比較して死者が出る確率が著しく高いことが明らかになったと書いている(本書336頁)。こちらには下記リンクが示されている。

https://www.pnas.org/content/112/5/1338

 

 なお単独登山の場合は死亡率と権力格差には何の相関もないとのこと。

 山口の下記の文章は、その前半では日本の某政党がどうしても連想されてならない一方、後半では1950〜70年代に日本経済が高度成長を遂げた理由がよく説明できると思った。

 

 権力格差の大きいチームでは、地位の低いメンバーが発言を封じられることで、彼らの発見、あるいは懸念、あるいはアイデアが共有されず、結果的に意思決定の品質が悪化するのです。これは、想定外のことが次々に起き、リーダーの認知能力・知識・経験が限界に晒されるような環境下では致命的な状況といえます。

 一方で、アニシックの研究で非常に興味深いのは、予想外のことが起きないような安定的な状況においては、権力格差の大きさは、むしろチームのパフォーマンスを高めることがわかっています。そのような状況では、リーダーの意思決定が上意下達され、一糸乱れず実施される組織の方がパフォーマンスが高いのです。これはつまり、リーダーの認知能力や知識・経験の範囲内で対処が可能な状況においては、権力格差の大きさはチームのパフォーマンスにプラスの影響を与えるということです。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)336-337頁)

 

 上記に続く部分が、山口の解説文の核心部といえるかもしれない。以下に引用する。

 

 よく「理想的なリーダーシップ」といったことが語られますが、そんなものは存在しません。リーダーシップというのは極めて文脈依存的なもので、どのような状況・環境においても有効に機能するリーダーシップなどというものはあり得ないのです。

 アムンセンとスコットの対比に関して言えば、アムンセンによる、権力格差の小さいリーダーシップは、南極点到達という、極めて不確実性の高い営みにおいては有効に機能しなかったわけですが、だからといってここから「どのような状況においても権力格差の小さいリーダーシップが有効なのだ」と断ずるのは暴論でしかありません。

 この示唆を、現在を生きる私たちに当てはめてみればどのようになるでしょうか? 当時の南極は、前人未到の大地であり、そこがどのような場所であるかはよくわかっていませんでした。それはまさに、現在の我々にとっての「これからやってくるアフターコロナの世界」のような局面です。このような不確実性・不透明性の高い環境において有効なリーダーシップとはどのようなものか? について考える題材を本書は与えてくれると思います。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)337-338頁)

 

 特に示唆的なのは上記引用文中の最後の段落だ。

 日本は既に「人口オーナス期」(人口減少による経済や社会への不利益が続く時期)に入っているが、これに対する対処法の知見などほとんどない(経験がないのだから当たり前だ)。その不確実性に加えて「これからやってくるアフターコロナの世界」の不確実性がダブルパンチで襲いかかってくる。アムンセンやスコットが直面した南極到達にも比較されるべき困難な状況といえるだろう。こういう時期に何よりも求められるのは知恵であり、多くの人が持っている知恵を可能な限り有効に吸い上げてそれらを総合し、機能させることが求められる。

 ところが日本の政治状況について言えば、10年くらい前の民主党政権時代に「決められる政治」なるスローガンが喧伝されて、それに先立つ1990年代に行われた「政治改革」の「成果」と相俟って、政党の執行が独裁し、下部は執行部に付き従うだけという傾向が強まった。それ以前から公明党共産党はそういう性質を持つ政党だったが、自民党にせよ民主党にせよ上記の流れに従って権威主義的な政党に変貌していった。

 それらの「既成政党」に対抗する形で新たに現れた日本維新の党やれいわ新選組*2は、最初から公明党共産党をも上回る執行部、あるいは新選組の場合は党首単独が独裁する政党の性格を持っている。維新や新選組においては「権力格差」は特に大きいといえるだろう。

 しかし、上記山口周の議論を維新や新選組に当てはめると、これらの政党が「アフターコロナの世界」に対処できるとはおよそ思われない。

 それどころか、両党は本書刊行後にロシアがウクライナを侵攻して起きたウクライナ戦争で早くも馬脚を現した。維新OBの橋下徹新選組代表の山本太郎がともに事実上侵略者・プーチンの肩を持ったのである。これは、橋下や山本の体質と、世界でも稀に見る残忍な権力主義者であるプーチンのそれとの親和性が高いためだろうと私は考えている。

 プーチンのロシアにせよ橋下の影響力が強く残る維新にせよ山本が独裁する新選組にせよ、集合知が有効に働かないことは明らかだ。特に悲惨なのは新選組であって、山本が持つ陰謀論に惹かれやすい弱点を組織が修正することができず、逆に国政選挙の候補者たちの多くが陰謀論者であることなど、目を覆いたくなるぶざまさだ。

 山口は「アフターコロナの世界」と書いているが、山本太郎の暴走が始まったきっかけも新型コロナ感染症だった。コロナによって得意とする街宣を封じられた山本が打開策として選んだのは2020年の東京都知事選への強行出馬だったのである。この時、山本は宇都宮健児の出馬を取り下げてもらおうと工作したが失敗した。共産党立憲民主党(立民)は宇都宮を支持したため、山本が「野党共闘」に罅を入れた形になった。

 現在、一部の新選組シンパが「野党共闘を支持していた票が参院選で行き場を失うだろう」などと言っているが、昨年の衆院選での「野党共闘」の敗北で本格化した「野党共闘の崩壊」の最初のきっかけを作ったのは山本だったと私はみている。

 山本は2021年の衆院選でも東京8区からの出馬を強行しようとして失敗した。この時はこの山本の暴挙によってかえって同区で「野党共闘」がまとまる結果となり、この選挙区から立候補した立民の候補者が、自民党石原伸晃に比例復活も許さない圧勝をもたらしたが、選挙全体としては「野党共闘」は敗れた。山本は比例東京ブロックに回って当選した。

 ところが山本はきたる7月の参院選に出馬するために、自ら獲得した議席を投げ出した(衆議院議員を辞職)。ここまでくるともう滅茶苦茶だ。こんな人が率いる独裁政党が「アフターコロナの世界」に対処できようはずもない。

 山本が独裁する新選組は、今年の参院選でか、あるいは次の国政選挙でかはわからないが、いずれ行き詰まって破綻するだろうが、橋下徹大阪府知事選初当選から既に14年が経過し、大阪を中心とした関西ではすっかり定着した維新はそう簡単には引きずり下ろせない。それどころか今年の参院選で立民を上回る議席を獲得する可能性や、その後の衆院選野党第一党にのし上がる可能性さえある。しかし維新も新選組に負けず劣らず権力指数の高い政党だといえる。この政党もまた「アフターコロナの世界」に対処できようはずがない。

 政権政党自民党でも極右の元首相・安倍晋三が長く政権を担った2012〜20年の間に、すっかり独裁政党になってしまったし、野党第一党の立民も、せっかく2017年に「希望の党騒動」を奇貨として発足し、ボトムアップや「草の根」を標榜したにも関わらず、結局前代表・枝野幸男の個人商店と化したばかりか、衆院選敗北で枝野にとって代わって代表になった泉健太がドラスティックな政策の変更を衆院選の公約として打ち出しても、党員や支持者からろくすっぽ異議も上がらない惨状を呈している。

 また発足100年を迎えた共産党は、多くの論者から「民主集中制」の限界を指摘されている。先月発売された中公新書『日本共産党』*3の著者・中北浩爾も宮本顯治の路線が限界にきているとみているようだ。「民主集中制」の限界も、山口周が指摘する「権力格差」と関連づけて論じることができるのではないか。少なくとも民主集中制が「権力格差の小さい」制度であるとは私にはとても思われない。

 『アムンセンとスコット』の解説文について、「せっかくのドラマチックな物語をビジネスにおける教訓に転化してしまっていて個人的にはちょっと鼻白んだ」との感想を書いた人も見かけたが*4、私はそのような感想は持たなかった。山口周の解説文は、単に「ビジネス」にとどまらず、今後のこの国の舵取りにも適用できるものであり、その困難さは南極点への初到達と比較できるくらい困難極まりないものだと思うからである。

*1:原文の傍点に代えて太字とした=引用者註。

*2:『kojitakenの日記』では、アベノミクス、巨人(プロ野球チームの日本語の愛称としての用法に限る)、令和(れいわ)の3つの言葉を使用禁止用語に指定している。従ってこの政党名も通常「×××新選組」と表記しているが、ここでは初読の読者も想定して本記事限定であえてNGワードをそのまま用いる。

*3:この本は未読だが、読み終えたら弊ブログで記事を公開したいと考えている。

*4:https://bookmeter.com/books/18961308