KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

2020年4月に読んだ本:武田百合子『富士日記』など

 緊急事態宣言が発令された4月は、2011年5月以来の読書量の少ない月になってしまった。武田百合子(1925-1993)の『富士日記』(中公文庫の全3冊, 2019年新版)の中巻下巻、その関連書籍である中央公論新社『富士日記を読む』(中公文庫, 2019)、それに西東三鬼(1900-1962)という俳人が書いた『神戸・続神戸』新潮文庫, 2019)の3タイトル4冊。大半の日々は『富士日記』をちょっとずつ読みながら、新型コロナウイルスのニュースが入ってないかとネットを見る繰り返しだった。在宅勤務の日が増えたが、この在宅勤務というのも私の場合は出社して仕事をする以上に気疲れした。そして数少ない出勤日にはこなさなければならない仕事量が多いのでへとへとに疲れた。出勤日には本を読む気力など全く起きず、下手したら夜のテレビのニュースもまともに見ない日もあった。

 東京の神田・神保町の喫茶店「らんぼお」(現ミロンガ・ヌオーバ)のウェイトレスを務めていた鈴木百合子が13歳年上の作家・武田泰淳(1912-1976)と知り合い結ばれたのは戦後すぐのことだそうだ。神保町にはよく行くが(現在は三省堂書店が緊急事態宣言発令以来ずっと閉店中で、東京堂書店も土日と祝日は店を閉めているから行かないが)、あのあたりの昔の文士たちのたまり場だった喫茶店(というより「らんぼお」などは実質的に飲み屋だったそうだが)には入ったことがない。なんとなく近寄り難い。

 『富士日記』というのは不思議な書物で、全編が「食」と「死」に満ち溢れている。日記が書かれているのは、武田泰淳・百合子夫妻と、場合によっては娘の花、それにペット(最初は犬のポコ、終わりの方では猫のタマ)が富士山北麓の山荘を訪れた日に限られていて飛び飛びなのだが、まず東京の自宅と山荘との間の高速道路で、これでもかこれでもかというほど交通事故が起き、人が死にまくる。愛犬のポコも中巻で死ぬ。泰淳の文士仲間だった梅崎春生(1915-1965)は上巻で死に、最後には泰淳自身が死の床につく。

 また大岡昇平(1909-1988)夫妻との交流も描かれているが、泰淳が死の床についた1976年に大岡昇平にも心臓弁膜症が発見され、日記が終わった翌年の1977年には病状が悪化する。しかし大岡は1988年12月、昭和天皇が翌年1月に死ぬ直前まで生き延びた。

 日記の上巻は梅崎春生の死、中巻は愛犬・ポコの死、そして下巻は徐々に死の影が忍び寄る泰淳の衰えが特に印象に残る。

 上巻の口絵で武田夫妻に猫のペットがいる写真があったので、これは日記の途中でポコが死ぬんだろうなとは想像がついた。しかも、ポコという犬は、びっこを引いてなかなか治らなかったり、がんの治療のために山荘に連れて行ってもらえないことがあったりと病弱そうだったので、老犬なのかなと想像していた。

 ポコが死ぬという予想は当たったが、ポコの年齢と死に方の想像は大外れだった。梅崎春生の三回忌を翌日に控えた1967年7月18日*1にポコが死んだ時にはまだ6歳だった。死因は病死ではなく不慮の事故死で、それも相当に悲惨な死に方だった。著者は大声で泣き続けた。「工事の男女が〈三、四日前石の仕事で外にいたとき、風の具合で女の泣き声がずい分と永い間聞えてきて怖かった〉と話し合っているそばを急いで通りすぎる。」*2と著者自身が書いているが、悪いけれど笑ってしまった。こういう自虐的なユーモアもこの日記にはある。

 隣人の大岡昇平が慰めに来る。生前のポコは大岡が来るたびに吠えまくった。大岡夫妻の愛犬・デデがすぐに武田夫妻になついたのとは対照的で、大岡が来るとポコは風呂場に閉じ込められたりしていたのだった。大岡家ではずっと犬を飼っていたので「いろいろな死に目に遭ったのだ」*3。その中には、やはりずいぶん悲惨な形で不慮の死を遂げた犬がいた。というより、日記では先にその大岡の愛犬の死に方が書かれ、あとからポコの死に方が書かれている。どちらがよりむごいともいいかねる死に方だ。

 ポコの死のショックが冷めやらない武田夫妻は、大岡に愛犬の死の数々を語ってくれとねだる。以下『富士日記』から引用する。

 

 大岡さんは、そのほかにも、犬の死に方のいろいろを話された。そして急に「おいおい。もうこの位話せばいいだろ。少しは気が休まったか」と帰り出しそうにされた。「まだまだ。もう少し」。主人と私は頼んだ。大岡さんは仕方なく、また腰かけて、思い出すようにして、もう一つ、犬の死ぬ話をして帰られた。門まで送ってゆくと、しとしととした雨。夜は、釜あげうどんを食べた。(1967年7月19日*4

 

 引用文の最後に夕食への言及があるが、献立が必ず出てくるのがこの日記の特徴だ。

 ポコの死んだ時の様子が書かれるのは、ようやく翌20日の日記である。この部分は『富士日記を読む』でも複数の論者が引用している、全巻でも特に印象に残る箇所だが、引用は省略する。読者から読書の楽しみを取り上げたくないからである。直接本を読んで味わうのが一番だ。

 なお、この頃の大岡昇平夫妻の愛犬はデデではなくその前の飼い犬で、ポコの後を追うかのように同年8月13日に「ヒラリヤ」(フィラリア)で死んだ。ポコが死んだあと3年間ペットを飼わなかった武田夫妻とは対照的に、大岡夫妻は翌年には次の犬を飼っている。1968年6月1日の日記に、「コッカースパニエルの六カ月の子供が来ている。私に喜んでとびつく。よその人が大好きな犬なのだそうである」*5とある。この犬がデデだが、日記の終わり頃の1976年には耳の手術を受けた老犬になっていて、「今年の夏でデデも終りだよ」*6と飼い主の大岡昇平に言われてしまう。その大岡は、「『俺もあと五年だな。五年だということが判った』と元気よく言われる」*7。しかし前述のように大岡はこの言葉を発してから12年生きた。デデは「この夏で終り」ではなかったようだが、翌年あたりに死んでしまった。10歳になるかならないかであって、ネット検索をかけると犬の寿命は10-13歳とあるから、長命の部類ではなかった。一方、大岡昇平の79歳というのは、文士にしては長命だったかもしれない。武田泰淳は64歳で死んだし、梅崎春生は50歳で死んだ。武田も梅崎も大酒飲みだったが、大岡もそうだったはずだ。そういえば大江健三郎も大酒飲みで、現在はアル中が進んでもう新作は発表できないだろうと言われているそうだが、生きている。1935年1月生まれだったはずだから現在85歳だ。

 武田泰淳は、ポコの死も作中に取り入れたという大作『富士』を書き始めた1969年から酒量が増え、71年末には脳血栓に倒れた。再び『富士日記』から引用する。下記は1977年に雑誌に掲載される前に追記されたものだ。

 

[附記] このあと(昭和*8)五十一年夏になるまで、日記はつけていない。

 四十四年の夏の月終りから、武田は「富士」を書きはじめた。酒量があがった。それまでは酒屋へ缶ビール、瓶ビールを買いに行くことが多かったのが、ウイスキー、ブランデー、焼酎、ぶどう酒、様々な種類の酒を買いに行くようになった。若いときとはちがうのだから、いい酒を選んで、それだけを飲む方が体にいいと人からいわれても、うなずくだけで聞き流していた。胸の中では頑に首を振っていたのかもしれない。「いい酒のあと、安酒を飲む。がくんと酔い方がまるでちがう。その落差がいいんだ」と言った。四十六年に患ったあと、武田は原稿を書く仕事をしばらく休んだ。時たま対談に出るだけだった。この病気に山の寒さはよくないので、晩春から秋のはじめまでを山で暮すようになった。面倒くさがりで、私で済む仕事は私にさせていた人だったが、「富士」を書きはじめたころから病後は、ことさら、雑事を私に任せきった。このころから日記は短くて、大きな字だ。とびとびにつけたりしている。忙しくくたびれて、日記をつけるのが面倒くさくなったのだ。(1974年7月14日の日記への付記*9

 

 かくして、1974年7月から約2年間の日記は空白で、そこから泰淳最後の年である1976年まで日記は飛んでいる。大岡昇平が「今年の夏でデデも終わりだな」とか「俺もあと五年だな」などの言葉を発したのも泰淳終焉の2か月前の1976年8月だ。泰淳は「どうして大岡はそう次から次へと病気が見つかるのかなあ。群がり起るという感じだなあ。俺みたいに脳血栓一本槍にきめとけばいいのに」*10と言ったが、既にこの頃、自らが胃がんから転移した肝臓がんに侵されていたのだった。

 8月13日夜には庄司薫中村紘子夫妻が武田山荘を訪ねてくる。中村の演奏会への誘いを断った著者は書く。「また来年ね、といって車を見送る。来年、変らずに元気でここに来ているだろうか。そのことは思わないで、毎日毎日暮すのだ。富士山の灯、頂上まで続いて見える」*11。著者にはもう、夫の死の予感が兆していた。

 過剰な飲酒が泰淳の寿命を縮めたことは間違いないように思われるが、どうせ酒で死ぬんだったらジョニ黒を持って*12武田山荘に現れた大岡昇平のようにもっとマシな酒を飲めば良かったのに、泰淳ときたら飲むウイスキーは1本500円のサントリーレッドだったのだ。

 以上、愛犬・ポコの死と泰淳の死を中心に書いたが、読んだ時は、中巻の帯に「愛犬ポコの死」とあったのでその部分から読んだ。また下巻は、最後に泰淳の死が来ることはわかっていたので、武田夫妻が最後に山荘を去った1976年9月9日以降の日記と、その年間の空白が生じる直前の「附記」(前述の引用部分)から先に読んだ。だから、著者の買う酒に、それまでのビール一本槍からサントリーレッドなどの安酒が混じり始めるのがわかったし、徐々に泰淳の死が迫ってくるあたりの日記には胸を突かれた。

 そんな中で大いなる救いは、大岡昇平のおなじみのミーハーな音楽の趣味だったので、最後にその部分に触れる。

 まず、1970年7月20日の日記によると、当時の大岡は「フォーリーブスの大ファンで、テレビは欠かさず見、レコードも買い、ゴシップも沢山知っている」*13。大岡夫人によるとその前には九重佑三子のファン(?)だったそうだ。初代『コメットさん』は見ていたのだろうか(私は再放送で見た。二代目は大場久美子)。

 その一方で、呼ばれて大岡夫妻の山荘に行くと、「ワグナーのレコードと新しいステレオと新しいカラーテレビを大岡は見せたくて仕方がないんです」*14と大岡夫人に言われる。あれ、大岡昇平は「音楽はモーツァルトさえあればそれでいい」という人で、「ワグナーは性交音楽」*15というのが持論なんじゃなかったっけ、と笑ってしまった。武田泰淳大岡昇平から借りたワーグナーのレコードは「ニーベルングの指輪」だが、翌日に武田家のステレオで聴くと「蓄音器がわるいせいか、まるで音がちがう。うちの蓄音器だと下品な音がする。女の人が歌うところを台所できいていると、民謡のおばさんの声のようなけたたましい声にきこえる。昨日はこんな声ではなかったのに。タマはワグナーがかかったら外へ飛び出ていった。怒られているように思ったらしい」*16。このくだりにも笑ってしまった。

 笑いもあるけれども死の影も濃厚にある。緊急事態宣言の日々に読むには良い本だったかもしれない。

 『富士日記を読む』も良い副読本。「足が短いチビ犬」だったというポコの写真も1枚だけあって、武田泰淳がポコを抱いている。ただこちらはタイミングがあまり良くなく、さるミュージシャンにただ乗りした某現代日本の政治家であるところの唾棄すべき人間を連想してしまった。泰淳にとっては良い迷惑だろう。

 今月もう1冊読んだ西東三鬼の『神戸・続神戸』は、帯に「森見登美彦氏、賛嘆! 戦時下の神戸に、幻のように出現する『千一夜物語』の世界」とある。著者は1942年から48年まで神戸に住んだ。敗戦を挟んだ6年間。この本もこの時期に読むのに適しているかもしれない。著者の西東三鬼は新興俳句運動に力を注いだために1940年に「京大俳句事件」で検挙されたため、一時句作を止めて神戸に転居したのだった。

 来月は、もう少し本が読めるだろうか。緊急事態宣言はあと1か月程度続きそうだが、新型コロナウイルス感染症で新たに確認される陽性者はやや減少傾向に転じた。

*1:著者は年数の大部分を元号で記録しているが、この記事では引用文を除いて西暦に換算して書いた。

*2:中公文庫2019年新版・中巻148頁

*3:同144頁

*4:同144頁

*5:同304頁

*6:同下巻381頁

*7:同381頁

*8:引用者註。この日記が書かれた頃の習慣として、年数は元号で表記されるが、「昭和」は省略されることが多かった。単に「五十一年」と書かれている場合、それは昭和51年、つまり1976年を意味する。

*9:同355-356頁

*10:同381頁

*11:同386頁

*12:同204頁

*13:同187頁

*14:同271-272頁

*15:トリスタンとイゾルデ」を評した言葉だったはず。まあそれはそうだろうと思う。

*16:同273頁