KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

大岡昇平と吉田秀和と音楽と

 今年(2019年)、河出文庫から吉田秀和(1913-2012)の音楽評論の本がずいぶん文庫化された。98歳まで生きた吉田が遺した膨大な評論から、作曲家や指揮者、ピアニスト別にテーマを絞って新たに編集したものが6タイトルと、2011年に発行されていた『マーラー』に、新たな5篇を追補した『決定版 マーラー』の、計7タイトルだ。

 私はそれらのうち、『バッハ』、『グレン・グールド』、『ホロヴィッツと巨匠たち』、それに前記の『決定版 マーラー』の計4冊を読んだ。吉田の著作は、昨年岩波新書から復刊された『二十世紀の音楽』(1957)も読んだから、この2年で計5冊を読んだことになる。この中でもっとも印象に残ったのは、『決定版 マーラー』に収録された「マーラー」(初出「ステレオ芸術」1973年10月号〜1974年2月号)だが、これについては次回に取り上げる。

 今年はまた、中公文庫から大岡昇平のエッセイ集『成城だより』、『成城だより II』、『成城だより III』も出た。私は最初の2冊を読み、『III』はこれから大晦日までの間のどこかのタイミングで読む予定にしている。これらは順に1979〜80年、1982年、1985年に書かれた作家晩年の日記が収録されているが、それらにも吉田秀和の名前が出てくる。未読の『III』には、映画『アマデウス』に感激し、それをきっかけに出歩いて映画を見まくった大岡昇平の日記が読めるらしいから楽しみにしている。

 

成城だよりⅢ|文庫|中央公論新社

 

 さらに、近所の図書館で『大岡昇平 音楽評論集』(深夜叢書社,1989)という珍品を見つけて読んだ。これにはなんと、大岡昇平吉田秀和が作曲した歌の楽譜が載っている。大岡は中原中也の「夕照」と「雪の宵」の2篇、吉田は富永太郎の「恥の歌」にそれぞれ曲をつけた。巻末には大岡昇平吉田秀和の対談も収録されている(他に大岡と武満徹の対談も収録)。スタンダールの評論家として出発したという大岡は、同時代人としてモーツァルトの音楽に接したスタンダールに影響されてモーツァルティアンになった。一方でワーグナーに強く反発し、吉田に反撃を食らったりしている。

 その一例を以下に引く。下記は「芸術新潮」1955年2月号に掲載された大岡の「ワグナーを聞かざるの弁」からの引用。

 

 こんどの外国旅行で、僕の音楽指南番は吉田秀和君だった。昨年三月までニューヨークで一緒だったし、五月にはパリで会った。

(中略)オペラや音楽会に一緒に行っての帰り、ビールなぞやりながら、今聞いたばかりの曲について、質問したり、感想を聞いたりすることが、どれだけ役に立ったかわからない。

 しかし吉田君が目下本紙に連載している音楽紀行を読むと、彼が僕のおしゃべりを随分我慢して聞いてくれていたことがわかって来た。例えば先月号―「大岡昇平氏はワグナーを性交音楽だといってけなすけど、それがどうしていけないのだろう。そんなことは馬鹿げた非難だ。性交だって退屈なものだ。退屈だと思えば、或いは退屈な人には。しかしワグナーのこの音楽は退屈じゃない。よく書かれた立派な音楽だ。それだけで十分ではないか」云々。

 ワグナー性交音楽論は珍しいことではなく、現在では常識の部類に属すると思っているが、これはまあどうでもいいことだ。浪漫派が感情の陰影をなぞったのと、本質的にはなんの違いもありはしない。だから僕はシューマンも嫌いだが、彼等の芸術のかんじんな部分はそういうところにはないだろう。模倣は芸術の数ある手段の一つにすぎない。

 ワグナーのねばりっこい音色、無限旋律は一種の音楽的快感を与えるのだが、これはコンサートで聞く時に限られている。オペラとなると、どうも化かされているような気がして、反発を感じる。(以下略)

 

(『大岡昇平 音楽評論集』(深夜叢書社,1989)45-46頁)

 

 いやはや、ここまで書きたい放題に書ければさぞかしいい気分だろう。

 この文章の続きでは、バイロイト(Bayreuth)を「ヴイロイト」などというわけのわからない表記がされているが、それがそのまま単行本に収録されている。モーツァルトも初めのうち「モツァルト」と表記されているが、これはまだしも昔はそういう表記が普通だったのかもしれないと思わせる。しかし「ヴイロイト」はない(笑)

 大岡昇平で感心するのは好奇心の旺盛さであって、『音楽評論集』では50歳を過ぎてピアノと作曲の学習に、晩年の1982年の日記を収めた『成城だより II』には数学の学習に奮闘するさまが描かれている。中原中也の2篇の詩に曲をつけたのもその成果の表れだ。

 晩年の大岡は1977年に心臓病を患った時に耳も悪くなったと『成城だより II』に書いているが、『音楽評論集』にも80年代の文章は一つもない。ただ、吉田秀和との対談だけは『成城だより II』と同じ1982年に行われた。

 ここで大岡は、中島みゆき*1「あみん」にはまっていると語り、吉田と爆笑もののやりとりをする。以下引用する。

 

 大岡 いや、ぼくの音楽遍歴はデタラメで、ドーナツ盤の『待つわ』なんてやつも買ってきて聴くんだから。シーナ・イーストンオリビア・ニュートン=ジョンも聴いてますから。中島みゆきも聴くし。あなたは全然聴かないの?

吉田 聴かないですね。

大岡 「待つわ、いつまでも待つわ、あなたがあの人にふられるまーで」、とかなんとか言ってね(笑)。女子学生が二人で歌うんだよ。待つは*2待つわ、ってデュエットで重なるの。女が二人でデュエットで待つってのは、なんだか変なんだけどね。

吉田 それはモーツァルトの『フィガロの結婚』のなかにもあるけどね。手紙のデュエットのとこなんかね。

大岡 ああ、あそこにあるのか。

吉田 あれはきれいですよね。伯爵夫人が後述をするとスザンナがこう書いて、それで復唱するわけです。

大岡 あれは共謀のデュエットですね。ダブルところがあったっけ。「待つわ」では、一人が「わ」を長く引っぱってる間に、もう一人が「待つわ」と合の手を入れる。

吉田 いや、そうではない。

大岡 それがポピュラーか(笑)

吉田 モーツァルトはイタリア語だから、「待つわ」ではないけど、しかしテキストはそうですよ。夕方。庭で風が松の木をそよかに動かすようなとき、そのときその下で待っています、と言って。

大岡 あれはいい歌ですね。

吉田 だから、その中島なんとかっていう人の悪口を気はないけれども、でも十八世紀にだって女の人二人でもって「待つわ」ってこっちが言うと「待つわ」って、こう言う。それであとはもう「言わなくてもわかるでしょう」っていうと、「言わなくてもわかるでしょう」って、こう言う。それから今度スザンナが、それじゃこう手紙を書きました、夕方になって松に風がそよかに吹くときに松の木の下におります、あとは言わなくてもわかるでしょうっていうと伯爵夫人がそれをそのとおりやって、ああそのとおりって。

 

(『大岡昇平 音楽評論集』(深夜叢書社,1989)204-205頁)

 

 『待つわ』は中島みゆきではないのだが、それはともかく、上記の対話を書き写しているうち、『フィガロの結婚』のDVDを買って見てみたい気が起きてきた。かつてはNHK-BSなどでオペラを見たことはあったが、もう10年以上、いや下手したら20年近くもご無沙汰しているかもしれない。

 そんなわけで、今年8月末に大岡昇平の『事件』を読んで以来、大岡昇平がちょっとしたマイブームだったのだが、そんな私にとって迷惑千万だったのは大澤昇平とかいう、東大を追い出された馬鹿なネトウヨ学者の件だった。あんなのを一時は「特任准教授」にしていたとは、東大の堕落も深刻の度を増してきたようだ。

 なお、吉田秀和絡みの音楽論では村上春樹の『意味がなければスイングはない』も読んだ。本当はこの日記に3週間前に公開した下記記事(前々回の記事)を書く前に読んでおくべきだったのだが、順番が前後した。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 吉田秀和との絡みについては、上記記事中に引用したブログ記事に言及されているので、この本については、出版元の文藝春秋の下記サイトにリンクを張っておくにとどめる。

 

books.bunshun.jp

 

 当然ながら、大岡昇平村上春樹では音楽評論も全然異なる。より本気で音楽と関わったのが、ジャズ喫茶を営んでいた経歴をもつ村上春樹の方であることは言うまでもない。

 大岡昇平の『成城だより』には未読の『III』に索引があるので、『II』と『III』に村上春樹への言及があることがわかる。『II』は既に読んだが、下記の記述がある。

 

 村上春樹は前作『羊をめぐる冒険』を読み損なったが、「納屋を焼く」(「新潮」)はカフカ風の不条理小説にして、変にレアリテあり。「クリスタル」系統にも漸く文学的主張、技法共に安定の徴候あり。

 

大岡昇平『成城だより II』(中公文庫, 2019)291頁)

 

 『羊をめぐる冒険』は最近読んだが、初期3部作の前2作とは違ってストーリーがあった!*3

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 大昔、3部作の初めの2作で村上春樹に挫折した私は、それにめげずに3作目も読むべきだったのかもしれない。この小説はちょっとしたミステリ仕立てになっていて、最後に謎解きもされる。明らかに児玉誉士夫をモデルとしたと思われる登場人物が出てくるが、そのことから私は直ちに松本清張の『けものみち』を思い出した。Wikipedia「児玉誉士夫」にも下記の記載がある。

 

逸話

 

 『けものみち』は1964年、『羊をめぐる冒険』は1982年、ともに児玉誉士夫の生前に書かれた。今年は中曽根康弘の死によって児玉誉士夫が思い起こされた年でもあった。児玉が口を開かなかったからこそ中曽根は逮捕を免れて5年もの長期政権を握り、日本の没落への道を開いた人間でありながら生前から「大勲位」などと呼ばれ、訃報の報道ではさもものすごい偉人であるかのような伝え方をされた。とんでもないことだ。

 話が不愉快な方へと逸れた。大岡昇平は『成城だより III』でも村上春樹に4度言及し、4度目は1985年の「試案ベスト5」の5番目に村上の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を挙げている。大岡の3冊の『成城だより』の最後に書かれた名前が村上春樹なのだった。

 今年は私もようやく長年の村上春樹の小説への苦手意識*4が払拭されて、村上作品を何作か読んだが、もっとも印象に残ったのはこのブログでも以前に取り上げた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の第36章で、「僕」が手風琴で『ダニー・ボーイ』を弾くと、街が揺れ、図書館の少女が涙を流し、一角獣の頭骨が淡い光を発する場面だ。『羊をめぐる冒険』では主人公は失ってばかりで、最後に兵庫県芦屋市をモデルにしたと思われる街の、埋め立てられずに残ったわずかばかりの砂浜で大泣きするが、『終りの世界』で「僕」は失われてしまったはずの彼女の心をみつけた。つまり、初めて「取り戻した」といえるのだが、それにも音楽が重要な役割を果たしたのだった。

 

 次回は小説家を絡めずに、もう一度吉田秀和を取り上げる。

*1:中島みゆきについては、大岡は『成城だより』でも言及している。中公文庫版31頁に「中島みゆき悪くなし」とあり、埴谷雄高は「わかれうた」の題名まで知っていたと書くが、これは1977年の大ヒット曲。もっともその頃、大岡昇平は大病に臥せっていたのだった。

*2:原文ママ

*3:村上春樹村上龍の『コインロッカーズ・ベイビーズ』に影響されたとのこと。

*4:同じ「阪神間育ちなのにヤクルトファン」の私は、村上のエッセイは以前からよく読んでいたのだが、小説は初期3部作の初めの2作や『ノルウェイの森』などを苦手としたために敬遠気味だった。

1997年に日本の「階級」を描いた桐野夏生『OUT』

 今年(2019年)は松本清張を5冊しか読まなかった。昨年は41タイトル50冊を読んだが、図書館に置いてある、最近発行された文字の大きい清張作品の文庫本はあらかた読み尽くしてしまったためだ。もっとも、未読の清張の長篇はまだ3割くらい残っているのだが。

 それで、昨年後半あたりから大衆小説・純文学を問わず清張作品以外にも手を出し始めたのだが、読書記録を見ると昨年12月中旬に宮部みゆきの『火車』(1992)を読んでいて、12月20日に読み終えていた。『火車』は清張の『砂の器』の直系というべき作品だ。

 そして今年の同じ日に読み終えたのが、桐野夏生の代表作の一つとされる『OUT』(1997)だった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 この小説も、松本清張を強く思い起こさせた。

 まず第一に気づいたのは、この小説が「階級」を描いていることだ。1997年にこの観点を持ってミステリ*1を書くとは、たいしたものだと感心した。

 そこで、読み始めて数十頁経ったところで、ネタバレがないかを注意しながら下巻末尾に収められた解説文の初めの方を見てみると、果たして小説家の松浦理英子が下記のように書いていた。なお下記の解説文は講談社文庫版が刊行された2002年に書かれている。また引用に当たって漢数字をアラビア数字に書き換えた。

 

 記憶をたどれば、5年前初めて読んだ時まず目を瞠ったのは、本作には現代日本における〈階級〉が描かれているということだった。ここ数年で「日本もまた階級社会である」という意見も目新しいものではなくなったけれども、1997年当時はそうではなく、〈一億総中流〉という決まり文句に囚われている人がまだ多かったと思う。『OUT』で描かれた弁当工場の夜勤についた女たちこそ、〈一億総中流〉というイメージが流布して以降初めて小説に登場した、そんなずさんなイメージを打ち崩すに足る具体性を備えた人物だったのではないだろうか。

 

桐野夏生『OUT』(講談社文庫, 2002)下巻336頁=松浦理英子による解説文より)

 

 「一億総中流」と言われたのは1970年代から80年代にかけてであって、それ以前には松本清張が階級的視点を有するミステリを多く書いていた。清張には時代ものでも『無宿人別帳』など最下層の人々に焦点を当てた作品群がある。しかし、そんな清張であっても70年代以降には『空の城』(1978)のような企業小説を書くようになっていた。そう考えれば、「『OUT』で描かれた弁当工場の夜勤についた女たちこそ、〈一億総中流〉というイメージが流布して以降初めて小説に登場した」という論評もあるいは当たっているかもしれない(正直言って、少し引っかかるものがあるが)。

 また、清張には登場人物がすべて悪人という系列の作品があるが、それをも思い起こさせた。

 前述の松浦理英子は解説文を下記のように結んでいる。

 

〈階級〉についての暗澹たる認識から出発しているにもかかわらず、本作品が古めかしいプロレタリア文学にも読者を意気阻喪させる悲惨な話にもなっていないのは、驚嘆すべきである。下層階級の女たちに作者とともに深い共感を寄せる読者は、(中略)ほかではめったに味わうことのできないカタルシスを得るに違いない。『OUT』はそういう小説である。

 

桐野夏生『OUT』(講談社文庫, 2002)下巻340頁=松浦理英子による解説文より)

 

 これは確かにそうかもしれない。少なくとも清張作品の終わり方とは違う。

 ただ、あまりにも凄惨な作品なので、この人の小説を続けざまに読もうという気にはならない。

 1992年の宮部みゆき作品『火車』とその5年後に書かれた本作さとでは凄惨さが全然違うのだが、その間に日本社会が大きな曲がり角を曲がったのだった。転換点となった出来事は、特に1995年に集中した。阪神大震災地下鉄サリン事件、それに日経連による「新時代の日本的経営」の発表などである。

 労働者派遣法も1996年に改定されて対象となる業種が拡大された。私が勤めていた職場に派遣労働者が入ってきたのは1997年の春だった。しかし、『OUT』が書かれた時点ではまだ派遣労働の原則自由化は行われていなかったし(1999年改定により施行)、製造業に派遣労働が解禁されたのは2004年からだった。

 それを思えば、桐野夏生の先見の明は大したものだった。

 

*1:ミステリとはいっても小説の前半に活躍した刑事は後半に入るとほとんど出てこなくなるなど、いわゆる「推理小説」のカテゴリには入れにくい。文庫本の裏表紙では本作は「クライム・ノベルの金字塔」とうたわれている。

「ハルキスト」たちが「ピアノソナタ第17番 ニ長調 D850」でシューベルトに挫折してしまわないために

 前回に続き、村上春樹の『海辺のカフカ』(2002)で言及されて注目されたクラシック曲を取り上げる。今回はシューベルトニ長調ピアノソナタで、Dで表される「ドイチュ番号」では850番に当たる。

 初めに、この曲を含むシューベルトピアノソナタ村上春樹のエッセイ及び小説との絡みについては、ネット検索で下記のブログ記事を見つけたことを報告しておく。

 

hypertree.blog.ss-blog.jp

 

 これは凄い記事だ。『海辺のカフカ』からの引用部分は記事の終わりの方に記載されているが、そこに至るまでの文章が既に圧倒的だ。そこで、上記ブログ記事をベースに、私の個人的な思い出などを差し挟んで文章を書くことにする。

 上記引用のブログ記事は、2005年に刊行された村上の音楽エッセイ集『意味がなければスイングはない』(未読)に収録された村上によるニ長調ソナタ論(2004年執筆)から論を起こす。以下、村上の文章を上記ブログから孫引きする。

 

意味がなければスイングはない」に収められたシューベルト論は、

    シューベルトピアノソナタ 第17番 二長調」D850
ソフトな混沌の今日性


と題されたものです。村上さんは ピアノソナタ 第17番 二長調の話に入る前にまず、シューベルトピアノソナタ全体の話から始めます。


いったいフランツ・シューベルトはどのような目的を胸に秘めて、かなり長大な、ものによってはいくぶん意味の汲み取りにくい、そしてあまり努力が報われそうにない一群のピアノ・ソナタを書いたのだろう? どうしてそんな面倒なものを作曲することに、短い人生の貴重な時間を費やさなくてはならなかったのか? 僕はシューベルトソナタのレコードをターンテーブルに載せながら、ときどき考え込んだものだった。そんな厄介なものを書く代わりに、もっとあっさりとした、口当たりのよいピアノ・ソナタを書いていたら、シューベルトは ─── 当時でも今でも ─── 世間により広く受け入れられたのではないか。事実、彼の書いた「楽興の時」や「即興曲」といったピアノ小品集は、長い歳月にわたって人々に愛好されてきたではないか。それに比べると、彼の残したピアノ・ソナタの大半は、雨天用運動靴並みの冷ややかな扱いしか受けてこなかった。


この出だしの "問題提起" に引き込まれます。少々意外な角度からの指摘ですが、言われてみれば全くその通りです。それはモーツァルトベートーヴェンと比較するとわかります。村上さんによると、モーツァルトがピアノ・ソナタを書いたのは生活費を稼ぐためであり、だから口当たりのいい(しかし同時に実に美しく、深い内容をもった)曲を、注文に応じてスラスラと書いた。ベートーヴェンの場合は、もちろんお金を稼ぐためでもあったが、同時に彼には近代芸術家としての野心があり、ウィーンのブルジョアに対する「階級闘争的な挑発性」を秘めていた、となります。


しかしシューベルトソナタはそれとは異質で、いわば謎めいています。村上さんはその理由がわからなかった、しかしあるときその謎が解けたと続けています。


しかしシューベルトのピアノ・ソナタときたら、他人に聴かせても長すぎて退屈されるだけだし、家庭内で気楽に演奏するには音楽的に難しすぎるし、したがって楽譜として売れるとも思えないし(事実売れなかったし)、人々の精神を挑発喚起するような積極性にも欠ける。社会性なんてものはほとんど皆無である。じゃあシューベルトは、いったいどのような場所を、どのような音楽的所在地を頭に設定して、数多くのピアノ・ソナタを書いたのか? そのあたりが、僕としては長いあいだうまく理解できなかったのだ。

でもあるときシューベルトの伝記を読んでみて、ようやく謎が解けた。実に簡単な話で、シューベルトはピアノ・ソナタを書くとき、頭の中にどのような場所も設定していなかったのだ。彼はただ単純に「そういうものが書きたかったから」書いたのだ。お金のためでもないし、名誉のためでもない。頭に浮かんでくる楽想を、彼はただそのまま楽譜に写していっただけのことなのだ。もし自分の書いた音楽にみんなが退屈したとしても、とくにその価値を認めてもらえなかったとしても、その結果生活に困窮したとしても、それはシューベルトにとって二義的な問題に過ぎなかった。彼は心に溜まってくるものを、ただ自然に、個人的な柄杓ひしゃくで汲み出していただけなのだ。

そして音楽を書きたいように書きまくって31歳で彼は消え入るように死んでしまった。決して金持ちにはなれなかったし、ベートーヴェンのように世間的な尊敬も受けなかったけれど、歌曲はある程度売れていたし、彼を尊敬する少数の仲間はまわりにいたから、その日の食べ物に不足したというほどでもない。夭折ようせつしたせいで、才能が枯れ楽想が尽きて、「困ったな、どうしよう」と呻吟しんぎんするような目にもあわずにすんだ。メロディーや和音は、アルプス山系の小川の雪解け水のように、さらさらと彼の頭に浮かんできた。ある観点から見れば、それは悪くない人生であったかもしれない。ただ好きなことを好きなようにやって、「ああ忙しい。これも書かなくちゃ。あれも書かなくちゃ」と思いつつ、熱に浮かされたみたいに生きて、よくわけのわからないうちに生涯を終えちゃったわけだから。もちろんきついこともあっただろうが、何かを生みだす喜びというのは、それ自体がひとつの報いなのである。

いずれにせよ、フランツ・シューベルトの22曲のピアノ・ソナタが、こうして我々の前にある。生前に発表されたのはそのうちのたった3曲で、残りはすべて死後に発表された。

「同上」


生前に発表されたのはピアノ・ソナタは22曲のうちのたった3曲、というところが「書きたかったから書いた」という説明を裏付けています。

 

出典:https://hypertree.blog.ss-blog.jp/2018-07-06

 

 こういう文章を読むと、世の「ハルキスト」たちには誠に申し訳ないが、村上春樹とは文学よりも音楽の才能の方が突出しているのではないかと思えてしまう。

 私がシューベルトソナタに初めて接したのは中学生の頃で、妹が習っていたピアノの教材であるソナチネアルバムに、D664の「小さなイ長調ソナタの第2楽章が収録されていたのを引いてみた時だ(私はまともにピアノを習っていないので、つっかえつっかえでたらめに音を出してみただけだった)。その後クラシック音楽を聴くようになってNHK-FMで最初に聴いたシューベルトソナタは、3曲あるイ短調ソナタのうちのD784だった。それまでにいくつか知っていたモーツァルトベートーヴェンのいくつかのソナタとは全く異質の、暗く重い音楽だった。この曲を聴いたのはたぶん1975年だったが、その頃には没後150年の1978年を3年後に控えて、それまで不当に低く見られていたシューベルトピアノソナタが正当に評価されるようになってきていた。

 それ以前の1960年代には、シューベルトピアノソナタに対する評価はまだまだ低かった。村上春樹が「彼の残したピアノ・ソナタの大半は、雨天用運動靴並みの冷ややかな扱いしか受けてこなかった。」と書いた通りだ。現に、前回も引用した吉田秀和の『LP300選』(初出は『わたしの音楽室』1961)には、シューベルトの『楽興の時』と『即興曲』は選ばれているが、ピアノソナタは選から漏れている。70年代以降の吉田秀和なら、D960の最後のピアノソナタ変ロ長調)は必ず選に入れていただろう。

 私が早くからなじんでいたD664やD784のソナタは、シューベルトソナタの中では例外的に早くから弾かれていた曲だったようだ。D784に対するピアニストの嗜好について皮肉っぽく書かれた下記ブログ記事を見つけたので、以下に引用する。

 

shubert.exblog.jp

 

この作品、25分程度で短く、
あまり、シューベルトが好きではないピアニストなども、
プログラムに変化をつけるためだけのように、
利用することがよくあり、
そうした人々が手垢にまみれさせた感じがなくもない。

 

1987年の「レコード総目録」では、
ソナタ16番」のレコードを出していたのが、
クラウス、ツェヒリン、
ハスキル、フィルクスニー、
ポリーニ、ルプーといった、
渋めの布陣に対し、
「14番」は、
ツェヒリン、中村紘子
フィルクスニー、宮沢明子、
リヒテル、ワッツといった、
花のある陣容となっている。

 

この名前を見ると、
ショパンやリストの前座に、
このソナタを利用しそうな雰囲気がある。

 

この手のリサイタルでは、
シューベルトソナタなど、
聴いたことがない人たちが多数参集して、
休憩時間以外は、
寝ているイメージがある。。

 

出典:https://shubert.exblog.jp/13377828/

 

 引用文中、「第16番」とあるのはD845のイ短調ソナタで、今回記事のタイトルにしたニ長調ソナタ(D850)及びト長調(D894)とともに、シューベルトの生前に出版された3曲のソナタの1つ。シューベルトの自信作なのだが、それよりも同じイ短調の「第14番」D784の方が、ピアニストたちにとって「ショパンやリストの前座」として人気があったとのことだ。

 これは、スヴャトスラフ・リヒテル中村紘子(や宮沢明子*1)を一緒くたにするというかなり乱暴な論であって、それには強く抗議したい。リヒテルが1979年に来日した時、D664とD784のソナタを演奏し、私はそれを民放FM(当時はFM大阪で聴いたが、FM東京をキー局とした大都市圏4局だかのネットで放送された)の録音で聴いて感激していた。そして、この時のプログラムはシューベルトが中心であって、決して「ショパンやリストの前座」などではなかったことについては、ネット検索で得たエビデンスを提示することができるのである。

 ただ、これが中村紘子あたりになると「ショパンやリストの前座に利用しそうな雰囲気」は確かにある。そのように軽く見られがちな音楽であったとはいえるかもしれない。

 しかし、このD784についてはある思い出がある。2001年か2002年頃、明るいD664とめちゃくちゃに暗いD784(少しあとに書かれた同じイ短調のD845と比べてもその重苦しい暗さは際立っている)はあまりにも対照的だと書いたら、D784を書く直前に、シューベルトはある宣告を受けたのだと指摘されたのだ。

 その指摘とは、当時「不治の病」とされていた梅毒感染の宣告。1823年の初め頃のことだった。D784の完成は1823年2月。当時、その指摘を受けてなるほどと思った。これは25歳の若さにして死と向き合わされた人が書いた音楽だったのだ。

 昔から、このソナタを境にして、以後のシューベルトの曲にはある種の重苦しさが出てきたと思っていた。D810の「死と乙女」の弦楽四重奏曲はその極端な例だが、そこまでは行かずとも、D804の「ロザムンデ」四重奏曲にだって暗さや重苦しさは感じられる。それまでの小市民的な「ビーダーマイヤー様式」*2に、自分自身の精神の暗闇を覗き込もうとするかのような要素が加わってきた。そしてそのことが、シューベルト音楽史上に残る大作曲家にしたのだと私は思っている。

 とはいえ、シューベルトが罹患した梅毒には症状に波があり、1823年末には快方に向かうかと思われた時期もあったようだ。だが翌年には再び病状がひどく悪化した時期があった。それを反映しているのかどうか、シューベルトは1823年以降も、何も暗さ一辺倒の音楽ばかり書いていたわけではない。前述のように、D784と同じイ短調のD845はD784ほどには暗くないし、このエントリのメインディッシュであるニ長調ソナタD850は、基本的には力強い長調の音楽だ。

 だが、そこにはモーツァルトベートーヴェン長調の音楽とは違う「とっつきにくさ」があるのも事実なのだ。ことに、シューベルトピアノソナタではニ長調D850が突出して取っつきにくい。村上春樹の『海辺のカフカ』を読んだ「ハルキスト」たちが、普段シューベルトを聴いたこともないのに、いきなりD850を聴いて、その難解さに尻尾を巻いたのも当然なのだ。私自身も、D664*3あるいはD784以降の9曲のソナタのうち、7曲までは節(メロディー)がだいたい頭に入っているが、未完成のD840(「レリーク」と呼ばれ、全4楽章のうち最初の2楽章しか完成されていない)はごく一部の記憶しかなく、ほとんど、いや全く覚えていなかった唯一の曲がD850だった。これには、初めて聴いた時にすでにかなり年齢が行っていたせいもあるが*4、それよりも何よりも音楽自体の取っつきが悪すぎるのだ。

 ところが、そのニ長調ソナタD850が、村上春樹の一番のお気に入りだという。以下、最初にリンクしたブログ記事から、再び村上のエッセイを孫引きする。

 


ピアノソナタ 第17番 ニ長調 D850



村上春樹さんによるシューベルトの「ピアノソナタ 第17番 ニ長調」の評論です。シューベルトピアノソナタで最も愛好しているのがこの曲、というところから始まります。


シューベルトの数あるピアノ・ソナタの中で、僕が長いあいだ個人的にもっとも愛好している作品は、第17番 ニ長調 D850 である。自慢するのではないが、このソナタはとりわけ長く、けっこう退屈で、形式的にもまとまりがなく、技術的な聴かせどころもほとんど見あたらない。いくつかの構造的欠陥さえ見受けられる。早い話、ピアニストにとっては一種の嫌がらせみたいな代物になっているわけで、長いあいだ、この曲をレパートリーに入れる演奏家はほとんどいないという状況が続いた。したがって、世間で「これぞ名演・決定版」ともてはやされる演奏も輩出しなかった。クラシック音楽に詳しい何人かの知り合いに、この曲についての意見を求めると、多くの人はしばし黙り込み、眉をしかめる。「なんでわざわざ二長調なんですか? イ短調イ長調変ロ長調、ほかにいくらでも名曲があるのに、どうしてまた ?」

たしかに、シューベルトにはもっと優れたピアノ・ソナタがほかにいくつもある。それはまあ客観的な事実である。

「同上」


ちなみに、二長調ソナタは第17番 D850しかありません。上の引用の中の "イ短調" とは第16番 D845、"イ長調" とは第20番 D959(=イ長調ソナタ。第13番 D664 はイ長調ソナタ)でしょう。"変ロ長調" とは最後の第21番 D960 です。そして次なのですが、村上さんは吉田秀和氏(1913 - 2012)の文章を引用しています。


このあいだ吉田秀和氏の著書を読んでいて、たまたまニ長調ソナタについての興味深い言及を見かけた。内田光子のこの曲の録音に対する評論として書かれたものである。ちょっと引用してみる。

    この2曲では、私はイ短調ソナタは身近に感じる音楽として昔から好んできいてきたが、ニ長調の方はどうも苦手だった。第1楽章からして、威勢よく始まりはするものの、何かごたごたしていてつかみにくい。おもしろい楽想はいろいろあるのだが、いろいろと往ったり来たりして、結局どこに行きたいのか、と問いただしたくなる。もう一方のイ短調ソナタに比べて言うのは不適当かもしれないが、しかし、このソナタが見事にひきしまっていて、シューベルトもこんなに簡潔に書けるのにどうしてニ長調はこんなに長いのかと、歯がゆくなる。シューベルトの病気の一つといったらいけないかもしれないが、ニ長調ソナタは冗漫に長すぎる」(『今日の一枚』新潮社 2001)

僕が吉田秀和氏に対してこんなことを言うのはいささかおそれ多いのだけど、「ほんとにそうですよね、そのお気持ちはよくわかります」と思わずうなずいてしまうことになる。でもこの文章には続きがある。

    こんなわけで、私はこのソナタは敬遠してこちらからわざわざきく機会を求めるようなことはしないで来た。今度CDが出て、改めてきき直した時も、イ短調の方から始め、きき終わるとそのままニ長調はきかずに止めていた。

だが、今思い切って、きいてみて、はじめて気がついた。これは恐ろしいほど、心の中からほとばし出る『精神的な力』がそのまま音楽になったような曲なのである(後略)」
「同上」


このあたりを読んで一目瞭然なのは、村上さんが吉田秀和氏を尊敬しているということです。自分が最も惹きつけられる音楽であるシューベルトピアノソナタ、中でも一番愛好している「17番 ニ長調」を説明するときに吉田秀和氏の文章を引用するのだから ・・・・・・。村上さんほどの音楽愛好家でかつ小説家なのだから、いくらでも自分の言葉として書けるはずですが(事実、書いてきたのだけれど)、ここであえて吉田氏を引用したと思われます。そして、次のところがこのエッセイの根幹部分です。


これを読んで、僕としてはさらに深く頷いてしまうことになる。心の中からほとばしり出る「精神的な力」がそのまま音楽になったような曲 ─── まさにそのとおりだ。このニ長調ソナタはたしかに、一般的な意味合いでの名曲ではない。構築は甘いし、全体の意味が見えにくいし、とりとめなく長すぎる。しかしそこには、そのような瑕疵かしを補ってあまりある、奥深い精神の率直なほとばしりがある。そのほとばしりが、作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで勝手に漏水し、ソナタというシステムの統合性を崩してしまっているわけだ。しかし逆説的に言えば、二長調ソナタはまさにそのような身も世もない崩れ方●●●によって、世界の「裏を叩きまくる」ような、独自の普遍性を獲得しているような気がする。結局のところ、この作品には、僕がシューベルトのピアノ・ソナタに惹きつけられる理由が、もっとも純粋なかたちで凝縮されている ─── あるいはより正確に表現するなら拡散している●●●●●●ということになるのだろうか ─── ような気がするのだ。

「同上」


味を言葉で表現するのが難しいように、音楽を聴いて受ける感覚を文章で説明したり、また、音楽を言葉で評価するのも非常に難しいものです。得てしてありきたりの表現の羅列になることが多い。しかし上の引用のところは、"パイプの漏水" や "世界の裏を叩きまくる" といった独自の表現を駆使してニ長調ソナタの本質に迫ろうとしています。それが的を射ているかどうか以前に、音楽を表現する文章が生きていることに感心します。

 

出典:https://hypertree.blog.ss-blog.jp/2018-07-06

 

 私がニ長調ソナタに対して持つ印象も、吉田秀和内田光子の演奏を聴く前の)に近い。おそらくピアニストたちも同じではないかと思う。たとえばルーマニア出身のラドゥ・ルプーというピアニストがいて、この人は70年代半ば頃にレコード会社によって「千人に一人のリリシスト」というキャッチフレーズで売り出された。1976年の春だったと記憶するが、当時の新譜だったルプーの演奏によるシューベルトト長調ソナタ D894の馬鹿長い第1楽章をFMで聴いて感激したものだった(全曲聴いたのだが、とりわけ第1楽章の世界に耽溺していた)。同じ「天国的な長さ」(後述)でも、D894の方がD850よりよほど親しみやすい。このD894は、シューベルトソナタの中でも、D664やD784などとともに早くから弾かれてきた曲だったことはのちに知った。しかし、この曲を弾いたルプーも、ニ長調D850のソナタは74歳の今に至るも録音していないのだ。

 上記ブログ記事の著者によると、村上春樹シューベルトニ長調ソナタと出会い、聴いて一番のお気に入りになったのは1979年頃だろうとのことだ。同じ年までに私は、D840とD845を除く、D664(またはD784)以降のピアノソナタ7曲を全部聴き終えていた。前年の1978年に、NHK-FMが何度も「シューベルト没後150年特集」をやってくれたおかげだった。ただ、のちにたいへんな名曲であることを知った、最後の変ロ長調ソナタD960のすごさは、まだ当時は理解することができなかった。あれは、この世とあの世のあわいの世界を見た人が、短い人生の最後に書き残した、唯一無二の音楽だ。特に第1楽章と第2楽章がすごい。第1楽章ではソナタ形式の展開部の終わりの部分、それに第2楽章では主部が再帰して転調を重ねる部分、特にこの楽章の終結直前の部分には筆舌に尽くしがたいものがある。

 ニ長調ソナタは、いくら「天国的な長さ」とはいっても、D960のようなこの世とあの世との境界の音楽とは全然違う。

 今回、この記事を書くに当たって、手元にあるD850の演奏を、2週間前と昨日の二度聴いてみた。私が持っているのは、レイフ・オヴェ・アンスネスが2002年に入れた録音で、偶然ながら村上春樹が推薦している演奏の一つだ。10年ほど前、2枚組に最後の三大ソナタ(D958, 959, 960)とD845が収録されていたので、聴いたことのなかったD845が聴けるなと思って買ったのだった。しかしD845は全く理解できず、数回聴いただけで投げ出していた。だから前述のように節も全然頭に入っていなかったわけだ。

 ソナタ形式で書かれた音楽には聴き方があって、まず第1楽章冒頭の「第1主題」をよく頭に入れることと、経過区を経て第1主題とは対照的な性格を持つことが多い「第2主題」を把握することだ。ところがこのD850は、吉田秀和が書く通り「威勢よく始まる」もののなんだかわからない経過区を経て、印象の薄い第2主題が出てきたと思ったら、その印象を打ち消すような、第2主題の二度下の調の三和音が強奏されるなど、本当に「とりとめがない」のだ。アンスネスの演奏では第1楽章は提示部の繰り返しがあって8分39秒*5だからそんなに長くない。長いのは第2楽章で、アンスネス盤では12分29秒。村上春樹はこの曲をシューマンが「天国的な長さ」と評したと『海辺のカフカ』に書いているが、実際にこの形容をシューマンが使ったのは、同じシューベルトの音楽ではあるがハ長調交響曲(D944)に対してだった。とはいえ、現在では死の年ではなく1825年にガスタインで書かれたとされる説が有力なハ長調交響曲と、今回取り上げているD850のピアノソナタとは、どうやら作曲時期が同じらしいのだ。つまりニ長調ソナタD850も、シューベルトの外遊先のガスタインで書かれている。そして両曲の第2楽章は、交響曲の方がイ短調ソナタの方がイ長調という違いはあるけれども、性格がかなり似ているように私には思われる。形式も両曲ともA-B-A'-B'-A"であって同じだ。さらに、『最新・名曲解説全集 第15巻・独奏曲II』(音楽之友社 1981)に掲載されている平野昭氏の解説文には下記のように書かれている。

 

(前略)8月に上部オーストリアで書かれたこの作品は、失われた交響曲として有名な「ガシュタイン」D849(この曲がD944の大ハ長調交響曲と同一ではないかとの説が最近は有力になっているようだ=引用者註)の完成直後に作曲されたものである。数ヵ月のうちにソナタやシンフォニーの大曲を仕上げた自信が、この曲で〈過剰への道〉へ迷い込ませることになる。「第二楽章の田園的コン・モートの中に〈天国的な長さ〉をみることができる。ここでは音楽が非現世的な高みの中に浮んでは消えてゆく。そうかと思うと、第三楽章でシューベルトは、民俗色の濃いスケルツォの中で、しっかりと大地に立っている」とゲオルギーは言っている(Georgie: Klaviermusik 1976 Atlantis)。いずれにせよ四十分近い大曲である。

 

(『最新・名曲解説全集 第15巻・独奏曲II』(音楽之友社 1981)92頁)

 

 今回、ニ長調ソナタD850を二度聴き直してみて、言い得て妙だと思った。もっとも第4楽章について平野氏は「全三楽章の充実にもかかわらず、安直な終楽章を書いてしまっている」(前述書93頁)と批判してもいる。また、最近河出文庫でリニューアルされた吉田秀和の『決定版 マーラー』(2019)に引用されていることを買う前の立ち読みで知って、無謀にも買ってしまった『シェーンベルク音楽論選』(上田昭訳, ちくま学芸文庫 2019, 邦訳初出は『音楽の様式と思考』三一書房 1973)の271頁に、ニ長調ソナタの第3楽章の譜例が載っていて、シェーンベルクは同一音型の単純な繰り返しを、「庶民感情に合致させている」、つまりシューベルトが大衆に迎合しているとして批判している。一方で私を含む一般人には取っつきにくく難解と思われるソナタを指して、十二音音楽の考案者はこのような批判をするのだから、真実は一つではない。なお脱線するが、この本でシェーンベルクが、トーマス・マンの『ファウストゥス博士』でマンがシェーンベルクをモデルにするに際してマンにシェーンベルク像を吹き込んだアドルノに対してブチ切れている箇所があり、そのあたりの事情を岡田暁生氏が巻末の解説文で教えてくれているのだが、岡田氏は「この小説で十二音技法が難解で秘教的な「マニュアル」として描かれたことに、彼(シェーンベルク=引用者註)は我慢ならなかったのである。」(前掲書339頁)と書いている。私個人としては、シューベルトに対するのと同様の批判をシューマンの「アラベスク 作品18」に対して投げつけたシェーンベルクの批評に同意することはできない。

 いずれにせよ、今回村上春樹の小説を読み、さらにシューベルトニ長調ソナタD850を二度聴き直して、これまで全く理解できず取っつくきっかけもつかめなかったこの曲を理解するきっかけを、特に第2楽章、次いで(シェーンベルクに批判された)第3楽章を中心に、多少なりとも得られたと思われたのは収穫だった。一方、第1楽章はなお難解だ。吉田秀和村上春樹がいう「心の中からほとばしり出る『精神的な力』」が全曲の中でももっとも強く表れているのはおそらく第1楽章なのだろうとは思うが、率直に言って、私はそれを感得できるところにまでは至っていない。

 やはりこの曲は「はじめてのシューベルト」として聴く人にはやはりあまりにも難解だろう。ピアノソナタであるなら、現在「第13番」と呼ばれることの多いイ長調D664や、ジャンルは違うが同じイ長調で曲想にも共通点がある「ます」のピアノ五重奏曲(D667)、それに前回の記事でも推薦したピアノ三重奏曲(ピアノトリオ)第1番変ロ長調(D898)、さらには未完成交響曲や三大歌曲集などから入るほうをおすすめする。「村上春樹一推しの第17番ニ長調D850」をどうしても聴きたい場合であっても、「ます」の五重奏曲などの有名曲を併せて聴いた方が良い。村上春樹は「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ」と『海辺のカフカ』の作中人物の「大島さん」に言わせてはいるけれども、その訓練をD850のピアノソナタ第17番でやるのは、どう考えても無謀だ。

 こうわざわざ書くのは、前記アンスネス盤のアマゾンのサイトについた唯一のカスタマーレビューがさる「ハルキスト」によって書かれているからだ。以下引用する。

 

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RD2FHDJTB6BOD

 

2011年1月20日

 
私はいわゆる「ハルキスト」を自認しておりまして、村上春樹さんの著作は、小説からエッセーに到るまでほとんど読んでいます。そんな村上さんの作品の中に、「意味がなければスイングはない」という評論集がありますが、これは、村上さんの音楽に対する強い想いや拘りが込められた、すばらしい音楽評論集だと思います。作家になる前はジャズ喫茶を経営していた人ですから、ジャズに対する造詣の深さは半端ではないわけですが、ここにはジャズに限らず、クラシックからJ-POPまで、いろいろなジャンルの音楽が取り上げられています。そのうちの一つが、このCDに収められている「シューベルトピアノソナタ第17番」です。村上さんは、この曲が収められているCDやアナログレコードを、演奏家別に15種類も自宅に持っているというのですから、驚きます。そして、それぞれの作品の評価が書かれていて、本CDはその中で最もお薦めのものになります。私はシューベルトピアノソナタを一つとして聞いたこともなく、演奏しているアンスネスというピアニストも知らなかったのですが、実際に購入して聞いてみて、確かにすばらしいと思いました。このCDのお陰で、シューベルトピアノソナタも好きになりましたし、アンスネスというピアニストも大変気に入りました。シューベルトピアノソナタはどれも大変長いのですが、第17番のみならず、全て力作で聞き応えがあります。

 

 村上春樹がエッセイや小説に取り上げたシューベルトソナタが気に入って良かったですね、とは思うが、初めて聴いたシューベルトソナタが「第17番ニ長調D850」で、かつこの曲を気に入った、というのは、それこそよほどシューベルトと相性が良いなどの要因によるよほどレアなケースだろう。

 この曲を繰り返し聞く訓練をやった結果、「シューベルトは私にはわからない」と挫折してしまうのでは、あまりにももったいない。

*1:宮沢明子(めいこ)は1960年代後半には既に故宇野功芳(1930-2016)に気に入られていたピアニストだったが、ネット検索をかけたら今年(2019年)4月にベルギーのアントワープで死去されていた。享年78。

*2:これは何もシューベルトが小市民的な人間だったことを意味しない。前回も書いたが、当時のオーストリアメッテルニヒが差配する「反動の時代」であり、シューベルトたちには重苦しい時代の束縛があったのだ。シューベルトの25歳以降の音楽に感じられるある種の重苦しさは、不治の病の苦しみに加えて、当時の西欧社会の閉塞感が反映されたのではないかと推測される。

*3:D664の作曲年は1819年という説が有力だが、自筆譜が失われているため、1825年の作曲ではないかとの異説がある。

*4:少年時代には、一度聴いた音楽は脳に深く刻み込まれたものが、成人してからその能力は急速に衰えた。

*5:時間はCDから移したiTunesに表示されているものだから、CDに記載されているものとは異なるかもしれない。

ベートーヴェンの「大公トリオ」と星新一・村上春樹・吉田秀和、それにシューベルトの変ロ長調トリオ

 村上春樹の『海辺のカフカ』(新潮文庫)を読んだが、今回は小説そのものには時折触れる程度にして*1、小説で取り上げられた2曲の音楽である、ベートーヴェンの「大公トリオ」とシューベルトピアノソナタ第17番(ニ長調 D850)の2曲を前後編で取り上げる。今回は下巻で大きな役割を果たすベートーヴェンの大公トリオ。正式名称 (?) は、ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調作品97という。

 この曲を初めて聴いたのは中学2年生の2月だった。だが曲名はその前から知っていた。当時新潮社から出ていた「星新一作品集」(全18冊)の付録に載っていた「星くずのかご」というエッセイで言及されていたのだ。それを中学生の私は本屋で立ち読みしていたのだった。『海辺のカフカ』に大公トリオの名前が出てきてまず思い出したのは、ああ、星新一(1926-1997)が好きだった曲だな、ということだった。

 「大公トリオ 星新一」を検索語にしてネット検索をかけて、2010年に書かれた下記のブログ記事を見つけた。

 

nekodayo.livedoor.biz

 

 上記ブログ記事に抜粋された星新一のエッセイを、さらに抜粋して以下に紹介する。

 

星新一「星くずのかご No.7 音楽について」

 

音楽について書くのは、たぶんこれがはじめてである。中学の時(昭和14-18)、醍醐忠和という友人がいた。いまでもつきあっている。私に名曲鑑賞なることを教えてくれたのが彼である。あと二人ほど仲間をこしらえ、日曜日に学校の音楽教室のプレイヤーを使わせてもらい、彼の持ってきたレコードを聞いた。そのころはプレイヤーなどとは言わず、電気蓄音機と呼んでいた。

ほかにたいした娯楽のなかった時代である。何回か続けているうちに、音楽とはいいものだなと思うようになった。最初に聞かされたのは、チャイコフスキーだったようだ。醍醐はそのファンで、とくに「悲愴」交響曲を絶賛していた。

そんなことがきっかけで、私も父母にねだってプレイヤーを買ってもらい、こづかいをためてレコードを買うようになった。友人達とレコードの貸し借りをするようになり、いろいろな名曲に接し始めた。シューベルトの登場する映画「未完成交響楽」も醍醐と一緒に見に行った。音楽会にも時たま行った。貸し借りをするレコードは交響曲が多かった。だれでもはじめは、そのへんからであろう。また、中学生の思考として、同じ値段なら大勢で演奏している盤を買った方が得だ、ということもあったようである。

ベートーベンの「田園」は明るくて楽しいし、「英雄」はいわずもがな、「第七」には躍動美があり、第八は小品である点が面白い。いささか疲れさせられるが、「第九」は名作である。しかし、「運命」だけは全曲を通して聞いたことがないのである。もちろん、あの発端の部分は知っているが、その先は知らないのである。友人が貸してやると言っても、断った。あまりに有名すぎることへの抵抗である。あまのじゃく的性格が、そのころからあったようである。今日にいたるまで、いまだに運命を聞かないでいる。こんな人間は珍しいのではないだろうか。

モーツァルトブラームス、「新世界」のドヴォルザーク。こういった名に接すると、反射的に中学時代を思い出す。レコード屋にすすめられ、ラロの「スペイン交響曲」を買ったこともあった。どんな作曲家かよく知らないが、いやに新鮮な印象を受けた。真紅のジャケットも美しく、友人達に課して好評だった。もっとも、これは正確にはバイオリン協奏曲である。

バイオリンやピアノの協奏曲も、かなり聞いた。毎日のようにレコードをかけていた。あとは読書ぐらいしかすることがなかったのだ。昭和16年に日米開戦。いい時代だったとはお義理にもいえないが、おかげで私は名曲に親しむことができたのである。

高校(旧制)に入ってから、好みに変化が起こった。「運命」を除いて、シンフォニーを聞きつくしたのである。友人にすすめられ、シューベルトの「鱒」のレコードを買った。ピアノと四つの弦楽器による室内楽である。わかりやすく親しみやすく、ずいぶんくりかえして聞いた。それからしばらく、モーツァルトやベートーベンの弦楽四重奏のたぐいに熱中し、つぎにベートーベン、シューマンショパンなどのピアノ曲に興味を持った。

そのうち、どういうわけかドビュッシーピアノ曲が面白くなった。それまでのと変わった傾向のものだったからだろう。

こう思い出してみると、名曲とともにすごした時間は、結構多かったわけである。シューベルトの「冬の旅」もなつかしい。しかし、歌劇はあまり好きになれなかった。序曲はいいのだが、あの声は私の肌にあわない。

クラシックと呼ばれるものは、いずれも名作である。

しかし、欲にはきりがない。まだ聞いてないなかに、これこそ名作中の名作と呼べる音楽があるのではないか。そう思いながら鑑賞をくりかえしているうちに、ついにそれにめぐりあった。

ベートーベンの「大公三重奏曲」である。こんな名曲があったのかと感嘆させられた。神韻縹渺とはこのようなものへの形容だなと知らされた。当時は漢字制限などなかったのだ。なんともいいようのない、すぐれたおもむき、という意味だが、これだけは漢字で書かないとムードがでない。

難解なところは、まったくない。ベートーベン特有のあの力強さが抑えられ、限りない深みを作り出している。高貴にして明瞭、美の林の中をさまよっているような気分になる。聞くたびに、ため息がでた。

ピアノがコルトー、バイオリンがティボー、チェロがカザルス。いずれもたぐいまれな名手である。そのせいでもあろうが、人類の作り出した芸術のなかで、この曲にまさるものはないのではなかろうかとさえ思った。

戦争の末期である。東京への空襲も多くなった。そんななかで、私は毎日のようにこのレコードをかけ、聞いていた。いつ死ぬかわからぬ状勢。しかし、生きている間に、このような名曲に出会えたのだと思うと、ひとつのなぐさめにもなった。(後略)

 

出典:http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1369494.html

 

 「神韻縹渺」(しんいんひょうびょう)という四文字熟語にはたぶんこのエッセイで初めて接したに違いないが、それは記憶にない。しかし星新一がここまで絶賛するこの「大公三重奏曲」とはどんなにすごい音楽なのだろうかとわくわくしたことはよく覚えているし、他に言及された音楽に対する寸評にも、どれも見覚えがある。

 

 ブログ記事には、村上春樹の『海辺のカフカ』からも大公トリオに絡むくだりが引用されているので、以下に再び引用する。

 

今、この「大公」を聞きながらこの文章を書いているのですが、この曲は大仰なところや技巧走ったところのない、綺麗に美しく小ぢんまりと纏まった軽やかな小品です。星新一さんは、机の上に置く可愛らしい小物を集めるのが趣味の一つであるいうことを、このエッセイ「星くずのかご」に書いていますが、ショートショートという、小さい美しく纏まった小説形式と、こういった美しい小品の音楽の愛好や、小さな小物が好きという趣味は、星さんの人間らしい心の繋がりを感じさせてくれて、嬉しくなりますね…。

ちなみに「大公」は、村上春樹海辺のカフカ」で、重要な役割の曲だったので、IQ84でヤナーチェクシンフォニエッタが売れたように、海辺のカフカの影響によって、日本では結構売れた曲ですね。星さんはご自分でも書いておられるとおり、有名なものよりもマイナーなもの、大きいものより小さいものを愛好されておられたので、たぶん、「大公」のこういう売れ方は、もし生きてらっしゃったら、あまり好まなかっただろうなとは思いますが…。まあ、いい曲が大勢の人々に聞かれるのは、良いことだと僕は思いますね…。

 

彼は眼を閉じ、静かに息をしながら、弦とピアノの歴史的な絡み合いに耳を澄ませた。クラシック音楽を聴いたことはほとんどなかったが、その音楽は何故か心を落ちつかせてくれた。内省的にした、と言ってもいいかもしれない。(中略)

「音楽はお耳ざわりではありませんか?」
「音楽?」と星野さんは言った。
「ああ、とてもいいお音楽だ。耳ざわりなんかじゃないよ。ぜんぜん。誰が演奏しているの?」
ルービンシュタインハイフェッツ*2=フォイアマンのトリオです。当時は、『百万ドル・トリオ』と呼ばれました。まさに名人芸です。1941年という古い録音ですが、輝きが褪せません」
「そういう感じはするよ。良いものは古びない」(中略)

ベートーヴェンの『大公トリオ』です」
「なかなかいい曲だね」
「素晴らしい曲です。聴き飽きるということがありません。ベートーヴェンの書いたピアノ・トリオの中ではもっとも偉大な、気品のある作品です」
村上春樹海辺のカフカ」)

 

出典:http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1369494.html

 

 『海辺のカフカ』に出てくる「星野さん」は中日ドラゴンズの野球帽を被っており、キャラクターの名前はあの故星野仙一にちなんでいる。私としては非常に気に入らないが、作者の村上春樹はいわずとしれたスワローズファンなので、追及はしないでおく(笑)。

  で、「星野さん」は仙一よりも星新一のほうにはるかに近い感性の持ち主だったようで、彼が大公トリオを聴く場面はこのあとも何度も出てくる。村上春樹の大公トリオのとらえ方は星新一と近いように思われる。

 星新一のエッセイではコルトー、ティボー、カザルスの演奏のレコードに言及されているが、これは1928年の録音だ。一方、『海辺のカフカ』に出てくるルービンシュタインハイフェッツ、フォイアマンの録音は、引用文にもある通り1941年の録音。いずれもモノラル録音で音質は悪い。私は古いモノラル録音が苦手なので、この2種類のCDはどちらも持っていない。

 

 さて、中学2年生当時の私をわくわくさせた、まだ聴かぬ「神韻縹渺たる」名曲を聴く機会は星新一のエッセイを読んだ数か月後にめぐってきた。NHK-FMで2回に分けてピアノトリオの名曲を集めて聴かせる特集をやったのだ。初回に大公トリオとシューベルト変ロ長調トリオ(D898, 作品99)、それにメンデルスゾーンの第1番(ニ短調作品49)を聴き、翌週の2回目にチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出に」(作品50)とドヴォルザークの「ドゥムキー」(作品90)を聴いた。チャイコフスキードヴォルザークはともに異色の作品で、3楽章ないし4楽章の通常の構成をとらない。モーツァルトブラームスからは選ばれなかった。この2人には珍しく、この分野においては彼らにふさわしい水準に届く作品は残さなかったのだった。

 だが、2週に分けて放送された5曲の中で私がもっとも気に入ったのは、大公トリオと同じ変ロ長調をとるシューベルトのトリオだった。

 手元に吉田秀和(1913-2012)の『LP300選』(新潮文庫1981, 単行本初出新潮社1961)があるが、吉田は上記5曲のうちチャイコフスキードヴォルザークを除いた3曲を音楽史上の300の名曲に挙げている。その中から大公トリオとシューベルト変ロ長調トリオを評した部分を以下に引用する。

 

 また、室内楽のほかの組合わせでは、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの三重奏が六曲あるが*3、そのなかでは『大公トリオ変ロ長調(作品97)が、一番有名だし、ベートーヴェンの作品としては『クロイツァー・ソナタ』並みの出来であるが、トリオの名作は、案外少ないから、これはとりあげるべきだろう。ただし、中間の変奏曲の楽章は、私には長すぎてときどき眠くなる。

 

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫 1981)169頁)

 

室内楽では、ピアノと弦楽四部――ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス――のピアノ五重奏曲ます』も有名だ。この曲は早熟なシューベルトのうちでも、器楽曲ではもっとも初期の名作だ。しかし、私は、ピアノ三重奏曲変ロ長調(作品99)も忘れたくない。両者をすぐれた演奏家による演奏できくと、その差がわかっていただけるだろうが、こちらの方がはるかに豊かな音楽的実質をもつ。しかも、ちっとも堅苦しくなく、朗々と歌うよろこびでも前者におとらない。それから、弦と管の『八重奏曲』も、楽しい曲である。

 

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫 1981)181頁)

 

 後者の引用文に書かれたシューベルト変ロ長調トリオ評には全面的に同感だ。

 前者のベートーヴェンの部分で、吉田秀和は大公トリオが「『クロイツァー・ソナタ』並みの出来である」と書いているが、この有名なヴァイオリンとピアノのためのソナタに関する記述も以下に引用する。

 

ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタは=引用者註)どれも、私には、モーツァルトソナタはもちろん、後のブラームスや、ないしはフランクのソナタほどにはおもしろくない。まあ、妥協して、『クロイツァー・ソナタ イ長調(作品47)を、とっておこうか。もちろん、大変よくできた曲であることは、いうまでもないのだが、なんだか、ピアノが重すぎる。私個人としては、おとしても、おしくない。

 

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫 1981)163頁)

 

 つまり吉田秀和は「クロイツェル・ソナタ」も「大公トリオ」も必ずしもベートーヴェンの最高の作品とはみなしていなかった。

 大公トリオは確かに星新一村上春樹が(村上の場合は作中人物である喫茶店の経営者の口を借りて)書いている通り、気品と落ち着きのある、ある意味でベートーヴェンらしからぬ安定感のあるすぐれた音楽なのだが、逆にそこにひっかかりの原因が生じるのかもしれない。なお、「クロイツェル・ソナタ」は「大公トリオ」とは全く異なり、特にその第1楽章は焦燥と情熱に満ちた音楽であって、トルストイにこの音楽に触発された中篇小説を書かせたほどの力を持っている。作曲時期としても曲想としても両者の中間にあるのがチェロとピアノのためのイ長調ソナタであって、吉田秀和も下記のように書いている。

 

 それより、むしろ、ほかの人にもすぐれた作品が少ないせいもあるが、イ長調のチェロ・ソナタ(作品69)のほうをここで、とっておく必要がありはしまいか。

 

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫 1981)163頁)

 

 このソナタは、第5, 第6交響曲のすぐ次の番号であり、ベートーヴェンの中期の中でも頂点をなす時期の1808年に書かれた(「クロイツェル・ソナタ」は1803年完成)。

 「大公トリオ」は1811年に完成し、翌年に書き上げられた交響曲第7番(作品92)や同第8番(作品93)とともに、中期の最後に書かれた。

 ベートーヴェン1812年にイギリス軍がナポレオン率いるフランス軍を破ったことを祝う「ウェリントン勝利」なる管弦楽曲を書いたが、これはベートーヴェンの生涯でたった1つの駄作だったと評されることが多い。そして、自ら公邸に即位して独裁者となったナポレオンの時代が終わったことを祝ったまでは良かったが、その後のヨーロッパを待ち受けていたのは、「政権交代」で生まれた民主党政権が3年あまりで終わったあとに始まった現在の日本の「崩壊の時代」を思わせる、長くて暗くて重苦しい反動的な時代だったのだ。

 そしてこの「反動の時代」に入るや、ベートーヴェンは長い長いスランプに陥り、音楽が書けなくなった。やがてその苦難の時期を乗り越えて、後期の超越的な作品群が生み出されることになるのだが。

 晩年のベートーヴェン1827年没)やシューベルト1828年没)が生きたのは、そんな時代だった。以下、ベートーヴェンの第8交響曲を取り上げたブログ記事から引用する。

 

ludwig-b.blogspot.com

 

交響曲第8番は9曲の中ではやや演奏頻度の低い部類に入る曲かもしれませんが、個人的にはとても好きな作品です。兄弟作とも言える第7番と比較されてしまいますが、第7番のような力強さや「不滅のアレグレット」のような陰りはもたない、全楽章を通し明るい曲となっています。

第8番は作曲開始が第7番の後、1811年、完成が1812年となります。
この前後にどのような歴史イベントがあったかまとめてみました。

 

1809年
 オーストリア戦役(ナポレオン絶頂期)
 ハイドン死去
1810年
 ヴァイオリンソナタ第10番
 弦楽四重奏第11番<<セリオーソ>>
 『エグモント』
 シューマン生まれる
1811年
 ピアノ三重奏第7番<<大公>>
1812年
 交響曲第7番・第8番
 「不滅の恋人」の手紙
 ロシア戦役
1813年
 『ウェリントンの勝利』
 ヴァーグナーヴェルディ生まれる
1814年
 ナポレオン退位(エルバ島へ)
 ウィーン会議
1815年
 弟カール死去
 ワーテルローの戦い
 「第9」の作曲始まる(完成は1824年)。

 

ナポレオン時代の終焉を迎え、「不滅の恋人」、弟カールの死、そしてスランプとベートーヴェンには様々な変化が訪れた時代です。前期・中期・後期などの分類では中期の最後、そして後期の始まりとなります。

メッテルニヒの主導するウィーン体制(「会議は踊る」で知られる)とはナポレオン時代に広まった思想を否定しそれ以前に戻そうとする政治体制であり、ベートーヴェン自由主義思想に共感を感じていたことから危険分子とされ逮捕されたとの逸話もあります(酔っ払っていたところを逮捕されたとも・・・)。

この政治的思想の取り締まり、経済的混乱、カールの死去とが重なり第8番のあとのベートーヴェンは創作どころではないスランプへ陥り、バッハの音楽の研究と後期後半の作品群へと繋がることになります。

このような時代の直前の第8番が明るくユーモアに満ち溢れているというのは皮肉なことかもしれません。

 

出典:http://ludwig-b.blogspot.com/2014/10/lv.html

 

 ブログ主さんが第8交響曲について、「明るくユーモアに満ち溢れている」と評した部分を「落ち着いて気品をたたえた」に変えれば、「大公トリオ」の作品評となる。

 「大公トリオ」とは、「嵐の前の静けさ」というべきか、はたまた落日の前の夕景の美しさにたとえるべき音楽か。

 

 次回は『海辺のカフカ』に出てきたもう一曲のクラシック曲である、シューベルトニ長調ピアノソナタ(第17番, D850)を取り上げる。

*1:海辺のカフカ』は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ねじまき鳥クロニクル』の両作を承け、父殺しをテーマとした点で『騎士団長殺し』の先駆となる小説といえるし、舞台を高松市(架空の「甲村図書館」は琴電志度線の牟礼あたりがちょうど場所的に適合しそうだ)や高知の山間部(こちらは大豊町あたりだろう)であるなど、記事を書く題材には事欠かないが、きりがないのと時間の関係で、今回は小説に登場する音楽に焦点を絞った次第。

*2:原文ママ村上春樹の『海辺のカフカ』では一貫して「ハイフェツ」と表記されている。引用箇所は新潮文庫版では下巻210頁=引用者註。

*3:大公トリオは一般に第7番と呼ばれるが、第4番作品11はヴァイオリンの代わりにクラリネットが指定されており(但しヴァイオリンによる代用可とされている)、これを除外すると全6曲になる=引用者註。

新田次郎『強力伝・孤島』『雪の炎』を読む

 2週間前に新田次郎(1912-1980)の文庫本を2冊図書館で借りて読んだ。そろそろ返さなければならない。

 読んだのは『強力伝・孤島』(新潮文庫)と『雪の炎』(光文社文庫)。読まれるべき本だと私が思うのは前者で、後者は物好きか山好きの方にしかおすすめできない。半世紀前に谷川岳に登った一般登山者たちや当時の山小屋の様子を知るには興味深い。私はたまたま今秋に谷川岳に登るプランを考えたけれども実現させられなかったので、昭文社の「山と高原地図16・谷川岳」(2019年版)を参照しながら興味深く読んだ。以下、光文社のサイトから作品紹介を引用する。

 

雪の炎 新田次郎/著

幾百もの生命を飲み込んでいる魔の山谷川岳。男女五人のパーティで縦走中、リーダーの華村敏夫だけが疲労凍死した。兄の死に納得のいかない妹の名菜枝は、遭難現場に居合わせたメンバーに不審を抱き……。遭難事件に興味を寄せる謎の外国人や産業スパイ、恋心のぶつかり合い。真相に迫るごとに、奇異な事実が次々と明らかに! 山岳ミステリーの異色作。

 

出典:https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334773908

 

 この作品はもともと週刊誌「女性自身」1969年8月23日号で連載を開始して19回連載されたが、1973年にカッパノベルスから単行本化した時に全面的に書き改められた。作者は「結果的には書下ろし同然のものではあるが、『雪の炎』という題もそのままだし、週刊誌に載った部分もかなりの枚数取り込んである」*1と書いている。

 だが残念ながら、この作品には歴史的限界がある。女性週刊誌には女性向けにこんな小説を書いておけば良い、といった作者の偏見があって、それが小説を凡作にしてしまっているのだ。同じ誤りは松本清張も数多く犯しているので、致し方ないと思う。これは、日本国憲法で女性参政権が保障されてからまだ四半世紀前後しか経っていない頃に書かれた小説なのだ。

 一方、『強力伝・孤島』は良い。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 幸いにも、上記新潮社のサイトに「強力伝」(1951)、「凍傷」(1955)、「孤島」(1955)の3作の短い紹介がされている。他に、長篇『八甲田山死の彷徨』(1971)に16年先立って書かれた「八甲田山」(1955)、「おとし穴」(1960)、「山犬物語」(1955)の計6篇の短篇が収録されている。

 「強力伝」は著者・新田次郎直木賞を受賞した出世作。主人公・小宮正作のモデルは、著者が戦前の1932年から37年まで富士山頂観測所で技官を務めていた当時の炊事係の小見山正だが、この人について著者が書いた文章を今年4月に読んだことがあった。それはヤマケイ文庫から出ている『新田次郎 山の歳時記』に収録された「山とヘリコプター」*2だ。それが小松伸六(1914-2006)が書いた新潮文庫の解説に引用されているので以下に孫引きする。

 

(前略)私が富士山頂に行っておったころ、特にすぐれた強力が二人いた。一人は御殿場口の小宮正作君で、この人は三十貫(約一一二キロ)近いエンジン・ボデーをひとりで担ぎ上げた人である。力が強いだけでなく、話もじょうずだし、どんなに仕事につかれても、その日の日記はかかさず書いていた。観測所に勤めていたころも、その誠実な働きぶりと人柄で所員たちに深く愛されていた。この小見山君がある新聞社の仕事で白馬岳の頂上に五十貫(約一八七キロ)近い石を担ぎ上げて、その時の労苦が遠因となって死んだ。

 

新田次郎『強力伝・孤島』(新潮文庫 2011年改版 307-308頁)

 

 新聞社が「風景指示盤」と名づけたこの巨石は、今も白馬岳の山頂にあるとのこと。いつか白馬岳に登ることがあれば現物を見てみたい。

 ところで小見山正の命を縮めたこの事業を行った新聞社は、あの読売である。読売とは昔も今もろくなことをやらない社会悪そのものだ。

 なお風景指示盤の担ぎ上げは1941年に行われ、小見山正は1945年2月に死去した。氏の一人娘・小見山妙子さんは長年金時山の茶屋で「金時娘」として親しまれ、驚くべきことに80歳を過ぎた今なお現役だという。さすがに最近は茶屋に上がって来る日は減ったとのことだが。

 「凍傷」は前記新潮社のサイトを参照すると「富士山頂観測所の建設に生涯を捧げた一技師の物語」とのことだが、この作品の最後に下記の文章が付されている。

 

 この小説に登場する主要なる人物は実名を使用した。経過も、事実に齟齬しないように注意して書いた。新潮文庫 2011年改版 168頁)

 

 これは実話だったのかと驚かされた。それくらい壮絶だ。

 一方、著者が仮名を使って書いた作品は、多かれ少なかれ脚色されていると考えるべきだ。このブログで前回取り上げた『八甲田山死の彷徨』もその一つ。

 文庫本で最後に置かれた「孤島」を新潮社のサイトは「太平洋上の離島で孤独に耐えながら気象観測に励む人びとを描く」と紹介しているが、この離島とは伊豆諸島の鳥島であって、一時は絶滅されたと思われていたアホウドリ鳥島測候所員が発見したくだりには史実(1951年発見)が取り入れられている。おかげでアホウドリの再発見やその後、それに一時絶滅寸前に追い込まれた経緯をずいぶんネット検索で調べる羽目に陥ってしまった(笑)。それらは紹介しないが、興味のおありの方は調べてみられたい。アホウドリを絶命寸前に追い込んだ戦前の日本人の暴挙は、アメリカなど外国でも散々に酷評されたらしく、当時から「日本スゴイ」などという事実は存在しなかったことがよくわかる。

 この記事で紹介しなかった「おとし穴」と「山犬物語」もそれぞれ面白い。「八甲田山」だけは、のちの長篇『八甲田山死の彷徨』があるので、その萌芽が確認できることが興味深い程度にとどまる短篇だ。

*1:光文社文庫版364頁「作者付記」より。

*2:初出は朝日新聞に連載されたエッセイ「白い野帳」。

新田次郎『八甲田山死の彷徨』(1971)と伊藤薫『八甲田山 消された真実』(2018)を読む

 偶然の機会によって、新田次郎(1912-1980)の長篇小説『八甲田山死の彷徨』(新潮社,1971)のハードカバー本を入手した。1977年3月の第41刷で、本に「6月全国東宝系一斉公開!」と銘打った帯が掛かっている。たいへんな評判をとった映画だったことは覚えているし、高校の教師も「見てきました」と授業を始める前に話題にしたものだった。高校は関西だったがその教師は東北出身(但し青森出身ではなかった)だったため、興味をそそられて見に行ったのだろう。ただ。私は映画を見たこともなく原作を読んだこともなかった。

 40年以上前に出たので字が小さい本で、最初は読み進む気が続くかどうか不安だったが、いざ読み始めると冒頭から引き込まれて一気に読んだ。たまたま病院に行く日で待ち時間が結構長かったこともあって、読み始めから読み終わりまで丸1日もかからなかった。著者は富士山気象レーダー建設でも知られる気象庁の元幹部職員(1966年まで奉職)で、自らも富士山頂で長年観測をしていたから、冬の雪山の気象については第一人者だ。下記は新潮社のサイトへのリンク(但し1978年に出た文庫版。あまりにも有名な小説なので、現在は改版されて字が大きくなっているはず)。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 上記サイトから作品の紹介文を引用する。

 

日露戦争前夜、厳寒の八甲田山中で過酷な人体実験が強いられた。神田大尉が率いる青森5聯隊は雪中で進退を協議しているとき、大隊長が突然“前進”の命令を下し、指揮系統の混乱から、ついには199名の死者を出す。少数精鋭の徳島大尉が率いる弘前31聯隊は210余キロ、11日間にわたる全行程を完全に踏破する。両隊を対比して、自然と人間の闘いを迫真の筆で描く長編小説。

 

 この小説は史実と受け取られることが多いようだが、著者は登場人物をすべて仮名としている。仮名といっても、上記「神田大尉」のモデルが神成(かんなり)文吉大尉、「徳島大尉」のモデルが福島泰蔵大尉であるなど、誰をモデルにしたかは名前だけでもすぐにわかる。しかしあくまでも仮名であって、いわゆる「事実に基づいたフィクション」であることを著者が明示しているといえる。

 では、史実はどうだったのか。この手の小説を読む度にそれを調べるのが癖になっているので今回もそれをやったら、タイミング良く昨年初めに山と渓谷社から伊藤薫著『八甲田山 消された真実』という本が出ていることを知った。この本は出てからまだ2年も経っていないせいか、区内の図書館の多くに置いてあることがわかったので、早速借りて読んだ。こちらは2日かけて先刻読み終えた。下記は山と渓谷社のサイトへのリンク。

 

www.yamakei.co.jp

 

 以下、上記サイトより作品紹介を引用する。

 

「天は我を見放したか」という映画の著名なフレーズとは大違い、新発見の事実を丹念に積み重ね、
青森第5連隊の悲惨な雪行行軍実態の真相に初めて迫った渾身の書、352頁にもわたる圧巻の読み応え。

1902(明治35)年1月、雪中訓練のため、青森の屯営を出発した歩兵第5連隊は、
八甲田山中で遭難、将兵199名を失うという、歴史上未曾有の山岳遭難事故を引き起こした。

当時の日本陸軍は、この遭難を、大臣報告、顛末書などで猛烈な寒波と猛吹雪による不慮の事故として葬り去ろうとした。1964年、最後の生き証人だった小原元伍長が62年間の沈黙を破り、当時の様子を語ったが、その内容は5連隊の事故報告書を疑わせるものだった。地元記者が「吹雪の惨劇」として発表、真実の一端が明らかにされたものの、この遭難を題材にした新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』(1971年、新潮社)と、映画『八甲田山』(1977年、東宝シナノ企画)がともに大ヒット、フィクションでありながら、それが史実として定着した感さえある。

著者は、その小原元伍長の録音を入手、新田次郎の小説とのあまりの乖離に驚き、調査を始めた。

神成大尉の準備不足と指導力の欠如、山口少佐の独断専行と拳銃自殺の真相、福島大尉のたかりの構造、そして遭難事故を矮小化しようとした津川中佐の報告など疑問点はふくらむばかりだった。

そこで生存者の証言、当時の新聞、関連書籍や大量の資料をもとに、現場検証をも行なって事実の解明に努めた。

埋もれていた小原元伍長証言から事実の掘り起こし、さらに、実際の八甲田山の行軍演習、軍隊の編成方法、装備の問題点など、
軍隊内部の慣例や習性にも通じているの元自衛官(青森県出身)としての体験を生かしながら執筆に厚みを加えた。

新発見の事実を一つ一つ積み上げながら、「八甲田山雪中行軍」とは何だったのかその真相に迫った渾身の書、352頁にもわたる圧巻の読み応え。

 

 著者の伊藤薫氏は、自らも青森市陸上自衛隊第5普通科連隊で冬季の八甲田山雪中訓練を10回も経験した元自衛官(2012年3等陸佐で退官)。厳冬期の現地を知る著者による記述も説得力満点だ。

  ただ、上記の煽り文句はやや羊頭狗肉の感がある。上記の文章を読むと、小説(や映画)では八甲田山での惨劇は「天は我を見放したか」というフレーズ(これは生き残った小原元伍長が証言した神成大尉の言葉に基づいている)から想起される「天災」ではなく「人災」だったと言いたいのだろうが、映画はいざ知らず、新田次郎の小説では、新潮社のサイトの作品紹介文にも書かれている通り、雪中行軍は日露戦争を控えた日本軍による「人体実験」だったと結論づけられている。以下、小説から直接引用する。

 

 とまれ、この遭難事件は日露戦争を前提として考えれば解決しがたいものであった。装備不良、指揮系統の混乱、未曾有の悪天候*1などの原因は必ずしも真相を衝くものではなく、やはり、日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した、寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。

 第八師団長を初めとして、この事件の関係者は一人として責任を問われる者もなく、転任させられる者もなかった。すべては、そのままの体制で日露戦争へと進軍して行ったのである。

 新田次郎八甲田山死の彷徨』(新潮社 1971)240頁)

 

 『八甲田山 消された真実』の著者・伊藤薫新田次郎のこの結語に反発した。それと同時に、青森の陸上自衛隊第5普通科連隊に入隊したばかりの頃に映画『八甲田山』を見て、

初めて知る遭難事故の悲惨さに驚き、山田少佐(リアルでは山口少佐)の無謀さに怒った。そして五連隊の隊員として五聯隊*2の惨状や三十一聯隊の成功はおもしろくなかった。

伊藤薫八甲田山 消された真実』(山と渓谷社 2018)26頁)

と、率直に書いている。その感情が、『消された真実』*3にやや過剰に反映されているきらいがある。つまり著者には、第31聯隊で「成功」したとされる福島大尉(『死の彷徨』*4では「徳島大尉」)を可能な限り貶めようという意図が強く表れすぎているのだ。

 実際には、映画『八甲田山』で英雄として描かれたらしい高倉健演じる徳島大尉はともかく、新田次郎が『死の彷徨』で描いた徳島大尉には、日本軍や天皇といった「権威」を振りかざして現地で徴用した嚮導(きょうどう=道案内人)の人たちを恫喝する、権力を笠に着た人間に典型的な嫌らしさもあった。その前には、滝口さわ(実在のモデルがいたかどうかは不明)という女性の嚮導を、用が済むと小銭を与えて行軍の後尾に回れと追いやった場面もあったが、最大の難所である田代越えで、徳島大尉の本性がはっきり表れたと思った。小説の冒頭では冷静沈着な人物として描かれていた徳島大尉も、結局この程度の人物だったかとわかって、私はこの登場人物に好感を持つことは全くできなかったから、伊藤薫がどんなに力み返って福島泰蔵大尉を批判しても、もういいよ、それはわかっているから、と思ってしまったのだった。

 しかし、小説(『死の彷徨』)の特に第三章「奇蹟の生還」ではかなり辛辣に描かれているとはいえ、映画(『八甲田山』)では高倉健の演技によって徳島大尉はヒーローとして描かれているらしいから、映画だけで徳島大尉の印象を持っている人たちの中には「徳島大尉が好きだったのにがっかりだ」という感想を持つ人も少なくないかもしれない(実際、ネットでそのような感想文を確認することができる)。

 特に噴飯ものだと思うのは、「なぜ第五聯隊は雪中行軍に失敗し、第三十一聯隊は成功したのか」などとする課題が、しばしば企業のリーダーシップの研修で課題に出されているらしいことだ。いや、企業どころか自衛隊でもそのような課題が出されたことを『消された真実』で伊藤薫が書いている。私に言わせれば、福島泰蔵のような「リーダー」は、たとえてみれば「業務命令」を錦の御旗にして直属の部下を過労で健康を損ねさせるばかりか、派遣労働者を使い潰して、要らなくなったらとっかえひっかえする悪徳管理職そのものであって、こんなトンデモな「リーダー」など部下によって排斥されるべきなのだ。

 話が逸れたが、伊藤薫は雪中行軍は「日本軍による『人体実験』」などではなく、功名心の強い福島泰蔵の「雪中の『田代越え』」の発案を聞き知ったであろう第五聯隊の津川謙光(やすてる)聯隊長が「青森の第五聯隊のお膝元である八甲田山の山域で、弘前の第三十一聯隊に『快挙』を先に達成させてなるものか。そんなことをされたら俺の出世に響く」とばかりに対抗心を燃やして、冬山も知らず準備も全くできない配下の第五中隊(中隊長・神成文吉大尉)に急遽命じ、それに第二大隊の山口鋠少佐を随行させたと推定した。しかし、この雪中行軍が神成大尉や山口少佐の経験不足や山口少佐が必要以上に出しゃばったことに起因する指揮系統の乱れが原因となって大惨事を招くや、津川聯隊長がもみ消しや捏造工作を行って真実を隠してしまった。こんな無能な指揮官によって命を落とした兵士たちはたまったものではない。これが伊藤薫が『消された真実』でもっとも強く訴えたかったことだろう。

 ここが『消された真実』の核心部だといえる。それとともに、上記の伊藤薫の推定は説得力がきわめて強い。これぞ、無能なマネージャーの常套手段だと思われるからだ。

 結局、津川謙光は「軽謹慎七日」というきわめて軽い処分に終わり、津川はのち少将に昇進した。この津川の責任については、新田次郎は小説の末尾で「この事件の関係者は一人として責任を問われる者もなく」と書いているだけで、具体的には何も書いていないから、津川の悪行を認識する意味でも、『消された真実』は読む価値がある。

 ただ、「八甲田山の雪中行軍は、弘前の福島泰蔵泰蔵が勝手に発案し、それに煽られた青森の津川謙光が、知識も経験も装備もない(もちろんそれには津川の責任が大きい)部下に無茶な命令をして大量の部下を殺した」のであって、日本軍による「人体実験」などではない、という伊藤薫の言い分には、私は全く説得力を感じない。むしろ、福島泰蔵や津川謙光の勝手な動きを統制できなかった日本軍の体質に、後年(後世から「絶対悪」と評された)辻政信らの「下剋上」を許した日本軍、特に陸軍の宿痾を感じる。宿泊予定地の人々に饗応を強い、嚮導(案内人)が用済みになると冷酷非情に使い捨てる福島泰蔵のあり方は、「食糧は現地調達」として事実上戦地の一般人からの略奪を命じた中国での日本軍(私はこのやり方が南京事件を招いたと考えている)を連想させるし、苛酷な環境下で戦闘もしないのに多くの兵士が死に追い込まれた惨状は、ガダルカナルインパールを思い起こさせる。伊藤薫は冬山での遭難ということで近年起きたトムラウシ山遭難事故との類似を例に挙げているが、何も類似は冬山登山での事故に限らない。

 従って、「悪いのは福島大尉や津川聯隊長であって、日本軍そのものではない」と言わんばかりの伊藤薫の書き方には、正直言って強い反発を感じた。伊藤薫は、山口少佐(この人は、『死の彷徨』、映画、『消された真実』のすべてで強く批判されている)も「人にやさしい面があった」、だから小原元伍長の入水を思いとどまらせ(この場面は『死の彷徨』にも出てくる)、そのおかげで八甲田山の惨劇が後世に伝えられたのだ、と書いている。しかし、その山口少佐が犯した罪は「絶対悪」そのものだろう。辻政信の場合ですらそうだと思うが、「絶対悪」は何も根っからの悪人がなす所業ではなく、場合によっては「根は優しい人間」が軍隊(や政府)という暴力装置を恣(ほしいまま)にふるうことによって生じるのだ。その認識が、元自衛官である伊藤薫には欠けている。そう私は思った。

 ただ、伊藤薫の『八甲田山 消された真実』が、著書の思いには反して、暴力装置において権力を恣意的にふるうことの恐ろしさを描き出しているとも思った。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』は、伊藤薫が反発したであろう反日本軍的な結語で閉じられているが、八甲田山雪中行軍がたとえ新田次郎が想像した「寒冷地における人間実験」ではなかったにせよ、暴力装置において弱い人間が権力をふるうことのできる恐ろしさには何の変わりもないのだ。『死の彷徨』では山田少佐が拳銃で自殺したことになっているが、伊藤薫が検証したところに拠れば、山口少佐の死因は単なる心臓麻痺による病死だった。一部で唱えられているらしい日本軍による暗殺という陰謀論は、伊藤薫が述べている通り論外だ。山口少佐は救出された時点で既に危篤であり、それは当時の新聞も報じていた。事実は小説より奇なりというが、それはあくまでも例外だ。

 むしろ、伊藤薫の『八甲田山 消された真実』は、Wikipediaの「八甲田山雪中遭難事件」、これは新田次郎の小説や映画は「創作」であって、日本軍の責任などそんなになかったのだと主張したいニュアンスが感じられるのだが、それに対する批判になっているように読めた。

 

ja.wikipedia.org

 

 たとえば、Wikipediaには

両連隊は、日程を含め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた[注釈 1]。ただし、弘前連隊の行軍予定については東奥日報が1月17日発行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍予定の重複に気付いた者がいた可能性がある[3]

と書かれているが、前述のように伊藤薫は、弘前の第三十一聯隊が立てた雪中行軍の計画について、1902年1月16日に行われた軍旗祭り(これには師団長や旅団長が弘前から青森にやってきて参加する)の際に聞き知ったのではないかと推測している。上記引用文に即していえば、「ただし、弘前聯隊の行軍予定について」以下の但し書きに当てはまる事情があったのではないかと推測しているわけだ。偉いさんの「鶴の一声」で無茶な命令が出ることは組織には珍しくないから、伊藤薫の推測が当たっている蓋然性が高いと思った。

 今回は、3日で2冊で小説と検証本の2冊を引き込まれるように読んだ。アマゾンカスタマーレビュー式に採点するなら、『八甲田山死の彷徨』は5点満点の5点。但し、この小説を読む時には、あくまでフィクションであることを意識することが大事で、史実だと思い込まないことが必要だ。『八甲田山 消された真実』は5点満点の4点。既に指摘した著者のスタンスにかかっているバイアスに加えて、私は小説を読んだ直後に読んだからまだ良かったが、山と渓谷社から出ている本なのに地図が乏しいために、現地の地形が理解しにくい。私は時折、『八甲田山 消された真実』を読みながら、『八甲田山死の彷徨』のハードカバー本の表裏の両表紙を開いた見返しに示されている「青森第5聯隊行軍経路」と「弘前第31聯隊行軍経路」が示された地図(表表紙の見返し)と「八甲田山<第5聯隊遭難地の図>」(裏表紙の見返し)を何度も参照した。後者については、『八甲田山 消された真実』の中にも同じ出典(1902年刊「歩兵第五聯隊・遭難始末」)からとった地図が載ってはいるけれども、ハードカバー版『八甲田山死の彷徨』の裏表紙の見返しに載っている地図の方がずっと見やすい。せっかく山と渓谷社から『八甲田山 消された真実』が出版されたのだから、読者に昔の新潮社の小説本に載っている地図を参照されてしまうというのは、少々恥ずかしいことではないかと思った。

*1:八甲田山の雪中行軍が行われていた1902年1月25日、北海道の旭川で零下41度という日本の観測史上の最低気温が記録された=引用者註。

*2:著者は、陸自の第五普通科連隊の略称を「五連隊」、旧日本軍の陸軍歩兵第五聯隊の略称を「五聯隊」と、「連(聯)」の新旧字体を書き分けて表現している=引用者註。

*3:以下、『八甲田山 消された真実』を『消された真実』と略称する

*4:以下、『八甲田山死の彷徨』を『死の彷徨』と略称する。

村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は「断ち切られたメビウスの輪」だ

 今回はグダグダと書き散らすのはやめて、簡単にまとめて公開しておこう*1。表題の小説を未読の方はこの記事は読まない方が良い。

 村上春樹の『騎士団長殺し』を読み、『ねじまき鳥クロニクル』を7年ぶりに再読したあと、同じ作者の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮文庫)を読んだ。これは良かった。

 

www.shinchosha.co.jp 

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 これまでに読んだ村上の7つの長篇では『ねじまき鳥クロニクル』に次ぐ2位に当たるとともに、『ねじまき鳥』と同系列に当たる。さらに両作の間には『海辺のカフカ』という、『世界の終りと〜』の続編ともいわれているらしい作品があるそうだから、次は(いつになるかわからないが、そう遠くない先に)これを読むことになるだろう。これらと『騎士団長殺し』(これが私の中では第3位に当たる)はいずれも新潮社から出ており、さらに同社からは10年前に馬鹿売れした『1Q84』が出ている。どうやら私は村上作品のうち、新潮社から出た作品との相性が良く、講談社から出た作品との相性が悪いらしい。『風の音を聴く』と『1973年のピンボール』で躓き、さらに『ノルウェイの森』を読んでから数年間、村上の小説から遠ざかった(エッセイ集はよく読んでいた)。これらはいずれも講談社から出ており、講談社からはさらに5つの長篇が出ている。村上の長篇は全部で14作あるが、講談社から8作、新潮社から5作、文藝春秋から1作が出ている。連載媒体や出版社によって作風が違い、新潮社や武芸春秋から出す作品により力が入っているのは松本清張でおなじみのパターンだ。両社はともに保守反動もいいところの出版社なのだが、なぜか不思議な懐の深さみたいなところがあるから厄介だ。少し前に取り上げた吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』も、今でこそ岩波文庫のイメージが強いが、単行本初出は新潮社だった。

 『世界の終りと〜』は有名作品なのでめんどくさい作品紹介はしないが、1つの長篇の中に、奇数番の章の「ハードボイルド・ワンダーランド」と偶数番の章の「世界の終り」が交互に現れる。前者は冒険活劇的で、後者は静謐さを湛えている。その両者が互いに絡まり合い……ということが通常語られるが、読み進めるにつれ、前者の続きが後者なのではないかとの予感が高まり、後半のある部分で「やはりそうだったか」と思わされる。この作品で良いのは文庫本下巻の終わりに近い3分の1、しかも「世界の終り」に当たる偶数番の章(第34章以降)が良い。特に一角獣の頭骨たちが淡く光る第36章は圧倒的に良い。音楽(『ダニー・ボーイ』*2)で心を取り戻すなんてもう最高だ。そしてそれらに対応する第35章、第37章の「ハードボイルド・ワンダーランド」も良くなる。こちらでも偶数番の章に対応して一角獣の頭骨が淡く光る。

 


ダニー・ボーイ【訳詞付】- ケルティック・ウーマン

 

 しかし奇数番目の章では主人公である「私」にも胃拡張の図書館の女性司書にも、なぜ頭骨が光るのかは理解できない。「世界の終り」の第38章では、主人公である「僕」が考えていることを「どうやって実現するんだ」と読者の私は訝った。「ハードボイルド・ワンダーランド」の第39章で「私」はついに意識を失う。

 ここまで読んだところで、私は読書をいったん中断して風呂に入りながらしばらく考えた。そして気づいたのは、そうか、これはメビウスの輪なんだ、ということだ。

 昔、小学生時代に、学習雑誌(おそらく学研から出ていた「科学と学習」)を読んで新聞紙を縦に長く切って帯にして、180度反転させて輪にしてメビウスの輪を作り、帯の幅方向の真ん中に沿って長手方向に鋏を入れると輪の径が2倍になることを確かめて感動したことを思い出した。あれと同じだ。読者に提供された小説は、奇数章と偶数章が交互に並べられているが、実は奇数章がずっと続いたあと、「ハードボイルド・ワンダーランド」で「私」が意識が消えた第39章は「世界の終り」の始まりである第2章につながるのだ。多分この程度のことには多くの読者が気づいただろうなと思うとともに、物語の終盤でなぜ心を打つ場面が偶数番の章の「世界の終り」に集中しているのかも理解できた。問題は、第40章の続きが第1章につながるのかということだ。つながってしまったら幻滅するだろうなと思いつつ、その夜は読まずに寝て、翌朝第40章のたった7頁だけを読んだ。

 物語はつながらなかった。しかし、この結末を予想することは私にはできなかった。読んでみると簡単な話で、あっそうか、そりゃそうだよなと思った。

 著者の村上春樹はこの結末をなかなか決められずに何度も書き直し、夫人の助言を受け入れてようやく今の形にできたという。さらに、偶数章の「世界の終り」には原形となる作品があり、そこでは小説は全く異なる結末を迎えていたという。「文學界」1980年9月号に発表された「街と、その不確かな壁」という中篇小説で、著者自身が「書くべきでない失敗作だった」と考えたため、単行本化はされていないという。この中篇は、多くの登場人物が「世界の終り」と重なり、一角獣の頭骨も出てくるが、核心部分である一角獣の頭骨が光って「君」と呼ばれる図書館の司書の少女が心を取り戻す場面はなく、「僕」は「影」と一緒にたまりに飛び込んで終わるとのことだ。特に言及した最後の部分がもし『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の結末だったとしたら、物語の第40章は第1章の初めにつながり、物語は無限ループを描く。そうなれば本当の「メビウスの輪」なのだが、著者はあえてその円環を切断した。

 こうして切断された「メビウスの輪」は一本の長い帯になる。これが村上春樹の世界観なのであり、それは「輪廻転生」的な世界観ではなく、人間世界の進歩を目指し、人間が本来あるべき姿を取り戻そうと格闘することが肯定されていることがわかる*3。「世界の終わり」で心を取り戻したのは、図書館で「夢読み」の助手を務めた「彼女」だけではなく「僕」も同じだった。そして「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」も「組織」だの「老博士」だのに翻弄され、若くして意識を失うことになったけれども、その反面で「組織」に組み込まれて多くの人々を踏みつけにして生きてきた。つまり「世界の終り」の街の人々が、森に追放された人たちや一角獣たちの犠牲の上で「安らかな」生活をしているのといくらも違わない生き方をしていた。だから読者の私は、「世界の終り」の「僕」が「影」と一緒に「世界の終わり」の街を脱出しても、元の「心のない」生き方に戻るだけじゃないかと思い、第1章につながるようななんの進歩もないエンディングで幻滅させるのだけは止めてくれ、と最後の7頁を読む前に読書を一晩中断して思ったのだった。幸い、村上春樹が私を幻滅させることはなかった。

 だが、『世界の終り〜』には欠けているものがある。それは「人々から心を失わせてしまったものは何か」という問題意識だ。それを追求して「歴史」に行き当たったのが、本作の10年後に書かれた『ねじまき鳥クロニクル』だったのではないか。

 この小説をもう一度読む機会があるなら、今度は奇数章だけ通して読み、次いで偶数章だけ通して読んでみようかと思う。いや、分量の少ない偶数章なら今から通して読んでもそんなに時間はかからないかもしれない。パラパラとページをめくってみると、「世界の終り」で「僕」が初めて図書館の女の子と出会うのは第4章で、「僕」は「どこかで以前君にあったことはなかったかな?」と言っている。「ハードボイルド・ワンダーランド」で「私」が図書館の司書の女の子に初めて会うのは第7章だ。このあたりからも、偶数章が奇数章の続きであることがわかってにやりとさせられる。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、かつて新潮社からシリーズで出ていた「純文学書下ろし特別作品」として1985年に刊行された。書き下ろしだから雑誌に連載された作品よりも緻密な構成にできたのかもしれない。このシリーズのこの時期のラインアップとしては、安部公房の『方舟さくら丸』(1984)や筒井康隆の『虚構船団』(1984)があったことを覚えている(前者は未読だが後者は文庫化された時に読んだ)。大江健三郎の『同時代ゲーム』もあったなあ。また、亡父の遺品として膨大な蔵書(多くは海外もののミステリだったが)の中にこのシリーズから出ていた遠藤周作の『侍』(1980)があったので、他の数冊の本とともに、処分せずに形見として頂いて読んだ。2005年の話。このシリーズで箱入りハードカバーで読んだことがあるのはこの作品だけだ。このシリーズは1961年から2000年まで発行された。シリーズの作品一覧表を載せたブログ記事を下記にリンクしておく。

 

jun-jun1965.hatenablog.com

 

 以上、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の感想を書き連ねた。今回もまた、アマゾンカスタマーレビューや読書メーターも参照したが、予想に反して『ダニー・ボーイ』の歌で心を取り戻すくだりに感激している読者などほとんどおらず、「世界の終り」の「僕」の選択は意外だった、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」の意識がこの世界に戻れなくて悲しいという感想が多数だった。私はこの小説にはこの結末しかないと思ったのだが。

 世の熱狂的な「ハルキスト」たちの間ではどのような評価になっているのだろうか。

 とりあえず、遠くない将来に村上春樹新潮文庫から出ている長篇の未読の2作、『海辺のカフカ』と『1Q84』は読んでみようと思った。後者は、1984年の元旦にジョージ・オーウェルの『1984』を読んだ私としては、いつかは読みたいけれども村上春樹の小説は苦手だからなあ、と思って長年手を出さずにきた作品だ。幸い苦手意識はかなり解消された。

 1984年といえば、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は1984年6月に書き始められたし、『ねじまき鳥クロニクル』は1984年6月から1985年12月までが描かれている。『騎士団長殺し』は2007年から翌年にかけて、さらに末尾近くでは2011年が描かれているが、作中にオーウェルの『1984』への言及があったはずだ。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では電脳社会がディストピアとして描かれているが、それは著者が本作を執筆した当時、オーウェルの『1984』がリバイバルのブームになっていたことと関係があるのではないかとも思った。

 簡単にまとめるはずが結局長くなってしまった。最後に参照したサイトを示す。

 

*1:と思ったが書き終えて振り返ると結局長文になってしまった。

*2:別名を『ロンドンデリーの歌』というらしい。

*3:この小説を読むと、全共闘と同じ世代の村上春樹は当時の学生運動家たちに対するアンチ・テーゼを持っていたことが強く推測されるが(だからこそ1980〜90年代に上野千鶴子らに強く批判されたのかもしれない)、体制を革めることを肯定する史観を持っていることに関しては彼らと共通していることがわかる。