KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

新田次郎『八甲田山死の彷徨』(1971)と伊藤薫『八甲田山 消された真実』(2018)を読む

 偶然の機会によって、新田次郎(1912-1980)の長篇小説『八甲田山死の彷徨』(新潮社,1971)のハードカバー本を入手した。1977年3月の第41刷で、本に「6月全国東宝系一斉公開!」と銘打った帯が掛かっている。たいへんな評判をとった映画だったことは覚えているし、高校の教師も「見てきました」と授業を始める前に話題にしたものだった。高校は関西だったがその教師は東北出身(但し青森出身ではなかった)だったため、興味をそそられて見に行ったのだろう。ただ。私は映画を見たこともなく原作を読んだこともなかった。

 40年以上前に出たので字が小さい本で、最初は読み進む気が続くかどうか不安だったが、いざ読み始めると冒頭から引き込まれて一気に読んだ。たまたま病院に行く日で待ち時間が結構長かったこともあって、読み始めから読み終わりまで丸1日もかからなかった。著者は富士山気象レーダー建設でも知られる気象庁の元幹部職員(1966年まで奉職)で、自らも富士山頂で長年観測をしていたから、冬の雪山の気象については第一人者だ。下記は新潮社のサイトへのリンク(但し1978年に出た文庫版。あまりにも有名な小説なので、現在は改版されて字が大きくなっているはず)。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 上記サイトから作品の紹介文を引用する。

 

日露戦争前夜、厳寒の八甲田山中で過酷な人体実験が強いられた。神田大尉が率いる青森5聯隊は雪中で進退を協議しているとき、大隊長が突然“前進”の命令を下し、指揮系統の混乱から、ついには199名の死者を出す。少数精鋭の徳島大尉が率いる弘前31聯隊は210余キロ、11日間にわたる全行程を完全に踏破する。両隊を対比して、自然と人間の闘いを迫真の筆で描く長編小説。

 

 この小説は史実と受け取られることが多いようだが、著者は登場人物をすべて仮名としている。仮名といっても、上記「神田大尉」のモデルが神成(かんなり)文吉大尉、「徳島大尉」のモデルが福島泰蔵大尉であるなど、誰をモデルにしたかは名前だけでもすぐにわかる。しかしあくまでも仮名であって、いわゆる「事実に基づいたフィクション」であることを著者が明示しているといえる。

 では、史実はどうだったのか。この手の小説を読む度にそれを調べるのが癖になっているので今回もそれをやったら、タイミング良く昨年初めに山と渓谷社から伊藤薫著『八甲田山 消された真実』という本が出ていることを知った。この本は出てからまだ2年も経っていないせいか、区内の図書館の多くに置いてあることがわかったので、早速借りて読んだ。こちらは2日かけて先刻読み終えた。下記は山と渓谷社のサイトへのリンク。

 

www.yamakei.co.jp

 

 以下、上記サイトより作品紹介を引用する。

 

「天は我を見放したか」という映画の著名なフレーズとは大違い、新発見の事実を丹念に積み重ね、
青森第5連隊の悲惨な雪行行軍実態の真相に初めて迫った渾身の書、352頁にもわたる圧巻の読み応え。

1902(明治35)年1月、雪中訓練のため、青森の屯営を出発した歩兵第5連隊は、
八甲田山中で遭難、将兵199名を失うという、歴史上未曾有の山岳遭難事故を引き起こした。

当時の日本陸軍は、この遭難を、大臣報告、顛末書などで猛烈な寒波と猛吹雪による不慮の事故として葬り去ろうとした。1964年、最後の生き証人だった小原元伍長が62年間の沈黙を破り、当時の様子を語ったが、その内容は5連隊の事故報告書を疑わせるものだった。地元記者が「吹雪の惨劇」として発表、真実の一端が明らかにされたものの、この遭難を題材にした新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』(1971年、新潮社)と、映画『八甲田山』(1977年、東宝シナノ企画)がともに大ヒット、フィクションでありながら、それが史実として定着した感さえある。

著者は、その小原元伍長の録音を入手、新田次郎の小説とのあまりの乖離に驚き、調査を始めた。

神成大尉の準備不足と指導力の欠如、山口少佐の独断専行と拳銃自殺の真相、福島大尉のたかりの構造、そして遭難事故を矮小化しようとした津川中佐の報告など疑問点はふくらむばかりだった。

そこで生存者の証言、当時の新聞、関連書籍や大量の資料をもとに、現場検証をも行なって事実の解明に努めた。

埋もれていた小原元伍長証言から事実の掘り起こし、さらに、実際の八甲田山の行軍演習、軍隊の編成方法、装備の問題点など、
軍隊内部の慣例や習性にも通じているの元自衛官(青森県出身)としての体験を生かしながら執筆に厚みを加えた。

新発見の事実を一つ一つ積み上げながら、「八甲田山雪中行軍」とは何だったのかその真相に迫った渾身の書、352頁にもわたる圧巻の読み応え。

 

 著者の伊藤薫氏は、自らも青森市陸上自衛隊第5普通科連隊で冬季の八甲田山雪中訓練を10回も経験した元自衛官(2012年3等陸佐で退官)。厳冬期の現地を知る著者による記述も説得力満点だ。

  ただ、上記の煽り文句はやや羊頭狗肉の感がある。上記の文章を読むと、小説(や映画)では八甲田山での惨劇は「天は我を見放したか」というフレーズ(これは生き残った小原元伍長が証言した神成大尉の言葉に基づいている)から想起される「天災」ではなく「人災」だったと言いたいのだろうが、映画はいざ知らず、新田次郎の小説では、新潮社のサイトの作品紹介文にも書かれている通り、雪中行軍は日露戦争を控えた日本軍による「人体実験」だったと結論づけられている。以下、小説から直接引用する。

 

 とまれ、この遭難事件は日露戦争を前提として考えれば解決しがたいものであった。装備不良、指揮系統の混乱、未曾有の悪天候*1などの原因は必ずしも真相を衝くものではなく、やはり、日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した、寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。

 第八師団長を初めとして、この事件の関係者は一人として責任を問われる者もなく、転任させられる者もなかった。すべては、そのままの体制で日露戦争へと進軍して行ったのである。

 新田次郎八甲田山死の彷徨』(新潮社 1971)240頁)

 

 『八甲田山 消された真実』の著者・伊藤薫新田次郎のこの結語に反発した。それと同時に、青森の陸上自衛隊第5普通科連隊に入隊したばかりの頃に映画『八甲田山』を見て、

初めて知る遭難事故の悲惨さに驚き、山田少佐(リアルでは山口少佐)の無謀さに怒った。そして五連隊の隊員として五聯隊*2の惨状や三十一聯隊の成功はおもしろくなかった。

伊藤薫八甲田山 消された真実』(山と渓谷社 2018)26頁)

と、率直に書いている。その感情が、『消された真実』*3にやや過剰に反映されているきらいがある。つまり著者には、第31聯隊で「成功」したとされる福島大尉(『死の彷徨』*4では「徳島大尉」)を可能な限り貶めようという意図が強く表れすぎているのだ。

 実際には、映画『八甲田山』で英雄として描かれたらしい高倉健演じる徳島大尉はともかく、新田次郎が『死の彷徨』で描いた徳島大尉には、日本軍や天皇といった「権威」を振りかざして現地で徴用した嚮導(きょうどう=道案内人)の人たちを恫喝するという、権力を笠に着た人間に典型的な嫌らしさも描かれていた。その前には、滝口さわ(実在のモデルがいたかどうかは不明)という女性の嚮導を、用が済むと小銭を与えて行軍の後尾に回れと追いやった場面もあったが、最大の難所である田代越えで、徳島大尉の本性がはっきり表れたと思った。小説の冒頭では冷静沈着な人物として描かれていた徳島大尉も、結局この程度の人物だったかとわかって、私はこの登場人物に好感を持つことは全くできなかったから、伊藤薫がどんなに力み返って福島泰蔵大尉を批判しても、もういいよ、それはわかっているから、と思ってしまったのだった。

 しかし、小説(『死の彷徨』)の特に第三章「奇蹟の生還」ではかなり辛辣に描かれているとはいえ、映画(『八甲田山』)では高倉健の演技によって徳島大尉はヒーローとして描かれているらしいから、映画だけで徳島大尉の印象を持っている人たちの中には「徳島大尉が好きだったのにがっかりだ」という感想を持つ人も少なくないかもしれない(実際、ネットでそのような感想文を確認することができる)。

 特に噴飯ものだと思うのは、「なぜ第五聯隊は雪中行軍に失敗し、第三十一聯隊は成功したのか」などとする課題が、しばしば企業のリーダーシップの研修で課題に出されているらしいことだ。いや、企業どころか自衛隊でもそのような課題が出されたことを『消された真実』で伊藤薫が書いている。私に言わせれば、福島泰蔵のような「リーダー」は、たとえてみれば「業務命令」を錦の御旗にして直属の部下を過労で健康を損ねさせるばかりか、派遣労働者を使い潰して、要らなくなったらとっかえひっかえする悪徳管理職そのものであって、こんなトンデモな「リーダー」など部下によって排斥されるべきなのだ。

 話が逸れたが、伊藤薫は雪中行軍は「日本軍による『人体実験』」などではなく、功名心の強い福島泰蔵の「雪中の『田代越え』」の発案を聞き知ったであろう第五聯隊の津川謙光(やすてる)聯隊長が「青森の第五聯隊のお膝元である八甲田山の山域で、弘前の第三十一聯隊に『快挙』を先に達成させてなるものか。そんなことをされたら俺の出世に響く」とばかりに対抗心を燃やして、冬山も知らず準備も全くできない配下の第五中隊(中隊長・神成文吉大尉)に急遽命じ、それに第二大隊の山口鋠少佐を随行させたと推定した。しかし、この雪中行軍が神成大尉や山口少佐の経験不足や山口少佐が必要以上に出しゃばったことに起因する指揮系統の乱れが原因となって大惨事を招くや、津川聯隊長がもみ消しや捏造工作を行って真実を隠してしまった。こんな無能な指揮官によって命を落とした兵士たちはたまったものではない。これが伊藤薫が『消された真実』でもっとも強く訴えたかったことだろう。

 ここが『消された真実』の核心部だといえる。それとともに、上記の伊藤薫の推定は説得力がきわめて強い。これぞ、無能なマネージャーの常套手段だと思われるからだ。

 結局、津川謙光は「軽謹慎七日」というきわめて軽い処分に終わり、津川はのち少将に昇進した。この津川の責任については、新田次郎は小説の末尾で「この事件の関係者は一人として責任を問われる者もなく」と書いているだけで、具体的には何も書いていないから、津川の悪行を認識する意味でも、『消された真実』は読む価値がある。

 ただ、「八甲田山の雪中行軍は、弘前の福島泰蔵泰蔵が勝手に発案し、それに煽られた青森の津川謙光が、知識も経験も装備もない(もちろんそれには津川の責任が大きい)部下に無茶な命令をして大量の部下を殺した」のであって、日本軍による「人体実験」などではない、という伊藤薫の言い分には、私は全く説得力を感じない。むしろ、福島泰蔵や津川謙光の勝手な動きを統制できなかった日本軍の体質に、後年(後世から「絶対悪」と評された)辻政信らの「下剋上」を許した日本軍、特に陸軍の宿痾を感じる。宿泊予定地の人々に饗応を強い、嚮導(案内人)が用済みになると冷酷非情に使い捨てる福島泰蔵のあり方は、「食糧は現地調達」として事実上戦地の一般人からの略奪を命じた中国での日本軍(私はこのやり方が南京事件を招いたと考えている)を連想させるし、苛酷な環境下で戦闘もしないのに多くの兵士が死に追い込まれた惨状は、ガダルカナルインパールを思い起こさせる。伊藤薫は冬山での遭難ということで近年起きたトムラウシ山遭難事故との類似を例に挙げているが、何も類似は冬山登山での事故に限らない。

 従って、「悪いのは福島大尉や津川聯隊長であって、日本軍そのものではない」と言わんばかりの伊藤薫の書き方には、正直言って強い反発を感じた。伊藤薫は、山口少佐(この人は、『死の彷徨』、映画、『消された真実』のすべてで強く批判されている)も「人にやさしい面があった」、だから小原元伍長の入水を思いとどまらせ(この場面は『死の彷徨』にも出てくる)、そのおかげで八甲田山の惨劇が後世に伝えられたのだ、と書いている。しかし、その山口少佐が犯した罪は「絶対悪」そのものだろう。辻政信の場合ですらそうだと思うが、「絶対悪」は何も根っからの悪人がなす所業ではなく、場合によっては「根は優しい人間」が軍隊(や政府)という暴力装置を恣(ほしいまま)にふるうことによって生じるのだ。その認識が、元自衛官である伊藤薫には欠けている。そう私は思った。

 ただ、伊藤薫の『八甲田山 消された真実』が、著書の思いには反して、暴力装置において権力を恣意的にふるうことの恐ろしさを描き出しているとも思った。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』は、伊藤薫が反発したであろう反日本軍的な結語で閉じられているが、八甲田山雪中行軍がたとえ新田次郎が想像した「寒冷地における人間実験」ではなかったにせよ、暴力装置において弱い人間が権力をふるうことのできる恐ろしさには何の変わりもないのだ。『死の彷徨』では山田少佐が拳銃で自殺したことになっているが、伊藤薫が検証したところに拠れば、山口少佐の死因は単なる心臓麻痺による病死だった。一部で唱えられているらしい日本軍による暗殺という陰謀論は、伊藤薫が述べている通り論外だ。山口少佐は救出された時点で既に危篤であり、それは当時の新聞も報じていた。事実は小説より奇なりというが、それはあくまでも例外だ。

 むしろ、伊藤薫の『八甲田山 消された真実』は、Wikipediaの「八甲田山雪中遭難事件」、これは新田次郎の小説や映画は「創作」であって、日本軍の責任などそんなになかったのだと主張したいニュアンスが感じられるのだが、それに対する批判になっているように読めた。

 

ja.wikipedia.org

 

 たとえば、Wikipediaには

両連隊は、日程を含め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた[注釈 1]。ただし、弘前連隊の行軍予定については東奥日報が1月17日発行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍予定の重複に気付いた者がいた可能性がある[3]

と書かれているが、前述のように伊藤薫は、弘前の第三十一聯隊が立てた雪中行軍の計画について、1902年1月16日に行われた軍旗祭り(これには師団長や旅団長が弘前から青森にやってきて参加する)の際に聞き知ったのではないかと推測している。上記引用文に即していえば、「ただし、弘前聯隊の行軍予定について」以下の但し書きに当てはまる事情があったのではないかと推測しているわけだ。偉いさんの「鶴の一声」で無茶な命令が出ることは組織には珍しくないから、伊藤薫の推測が当たっている蓋然性が高いと思った。

 今回は、3日で2冊で小説と検証本の2冊を引き込まれるように読んだ。アマゾンカスタマーレビュー式に採点するなら、『八甲田山死の彷徨』は5点満点の5点。但し、この小説を読む時には、あくまでフィクションであることを意識することが大事で、史実だと思い込まないことが必要だ。『八甲田山 消された真実』は5点満点の4点。既に指摘した著者のスタンスにかかっているバイアスに加えて、私は小説を読んだ直後に読んだからまだ良かったが、山と渓谷社から出ている本なのに地図が乏しいために、現地の地形が理解しにくい。私は時折、『八甲田山 消された真実』を読みながら、『八甲田山死の彷徨』のハードカバー本の表裏の両表紙を開いた見返しに示されている「青森第5聯隊行軍経路」と「弘前第31聯隊行軍経路」が示された地図(表表紙の見返し)と「八甲田山<第5聯隊遭難地の図>」(裏表紙の見返し)を何度も参照した。後者については、『八甲田山 消された真実』の中にも同じ出典(1902年刊「歩兵第五聯隊・遭難始末」)からとった地図が載ってはいるけれども、ハードカバー版『八甲田山死の彷徨』の裏表紙の見返しに載っている地図の方がずっと見やすい。せっかく山と渓谷社から『八甲田山 消された真実』が出版されたのだから、読者に昔の新潮社の小説本に載っている地図を参照されてしまうというのは、少々恥ずかしいことではないかと思った。

*1:八甲田山の雪中行軍が行われていた1902年1月25日、北海道の旭川で零下41度という日本の観測史上の最低気温が記録された=引用者註。

*2:著者は、陸自の第五普通科連隊の略称を「五連隊」、旧日本軍の陸軍歩兵第五聯隊の略称を「五聯隊」と、「連(聯)」の新旧字体を書き分けて表現している=引用者註。

*3:以下、『八甲田山 消された真実』を『消された真実』と略称する

*4:以下、『八甲田山死の彷徨』を『死の彷徨』と略称する。