今週の月曜日から火曜日にかけて、来月7日限りでサービスが終了する「はてなカウンター」のアクセス解析で、6年前に書いた下記記事へのアクセスが妙に多いことを知り、なぜだろうと訝っていた。
下記ブログ記事を読んで、その理由がわかった。
以下引用。
そういえば、平尾さんは映画『嵐を呼ぶ男』に出演していたのだった。また、フジテレビの鹿内春雄とも妙な縁で繋がっていたのだった。
そうか、平尾昌晃の訃報に絡んで発掘されたのか。
以下、6年前に私が書いた記事より。
(前略)鹿内春雄は、1981年4月に堀佳代子との離婚が成立した翌月の同5月、平尾昌晃の元妻だった服部暁子と「バツイチ」同士の再婚をしたが、暁子はその翌年、なんと28歳の若さでくも膜下出血で亡くなっている。くも膜下出血は、日本人の約5%が持っているという脳動脈瘤を起こしやすい体質の人がかかる病気であり、若年者でも発症するのだが、若年者がこの病気にかかる場合、強いストレスに晒されたことが原因になる場合が大半だ。普通に生活していれば大きくならない動脈瘤が、強いストレスに晒されることによって大きくなり、破裂に至るのだ。その例は特に芸能界で目立ち、2004年には双子の女性によるデュオ「DOUBLE」のSACHIKOが25歳の若さでこの病気を発症して急死した例がある。服部暁子も、鹿内春雄との結婚生活で極めて強いストレスに晒されたに違いない。頼近美津子は3番目の妻で、結婚は1984年だった。(後略)
同じ記事で、鹿内春雄についての佐野眞一の下記の寸評を引用した(出典は佐野の著書『あぶく銭師たちよ!』224頁)。
「新聞の生命はグロチックとエロテスクとセセーションだ」というステキな文句を残し、日本で最初の民放テレビを開局した正力松太郎は、メディアの世界の確信犯であり、「魅力ある俗物」だったが、フジ・サンケイグループの鹿内信隆・春雄親子は「軽チャー」などという言葉で煙幕を張りながら、結局、企業の私物化に走った小物でしかなかった。
創業者の鹿内信隆はともかく、鹿内春雄は「世襲人士による企業の私物化」を行っていたのだった。
これで直ちに思い出したのは、日曜日に読み終えたばかりの松本清張の『空(くう)の城』のモデルとなった安宅産業を破綻に追い込んだ、創業者二世の安宅英一による企業の私物化だった。小説では、安宅産業は江坂産業、安宅英一は江坂要造とそれぞれ名前が変えられている。
破綻へ
詳細は「安宅産業破綻」を参照1966年には住友商事との合併話があった。戦後にスタートした住友商事は当時まだ規模が小さく、メインバンクが安宅と同じ住友銀行であったことから、住友銀行主導で話が進んだ。猪崎社長は乗り気で話を進め、合併比率1:1、社名は「住友安宅商事」、社長は住友の津田久、会長は猪崎久太郎と合併覚書調印寸前まで漕ぎつけたが、最終的に「相談役社賓」英一の反対で流れることになった。英一の反対の理由は、「君は、『安宅』を潰す気か」というもので、要するに住友商事と合併したのでは息子の昭弥を社長にできないということであった。それまで英一の支持をバックに社内では絶対的なワンマンとして君臨していた猪崎社長は、この件がきっかけとなって同年末に会長に祭り上げられた。
猪崎の後を継いだ越田左多男社長も、ことあるごとに人事権を振りかざす英一と衝突して任期半ばで更迭され、1969年には市川政夫が社長に就任した。市川が社長に就任してからも英一を中心とした「安宅ファミリー」の力は強く、人事もままならない状態は続いた。さらに、引き続き会長にとどまった猪崎と市川は折り合いが悪く、「安宅ファミリー」=英一、会長の猪崎のどちらも後ろ盾に持っていなかった市川は、一方でしがらみなく安宅産業を近代的株式会社として脱皮させるべく努力を続けることができたが、その努力も度々重要人事に関する英一社賓の介入で進まない状況となり、他方では引き続き社長の座に座り続けるためには売上競争に身をやつさざるを得ない状況に置かれていた。当時、総合商社の規模は利益よりも売上高で測られており、売上ベースで総合祖父社下位グループから抜け出させることが、市川の社長としての地位を安泰にするために課せられた至上命令であった。
このような状況の中で、売上向上のために社運を賭けたカナダにおける精油所プロジェクトが1973年のオイルショックを機に1975年に破綻し、1000億円以上にのぼる貸付金・売上債権が焦げ付く事となった。その結果、住友銀行の主導の下での解体・再編を経て、安宅産業株式会社は1977年10月に伊藤忠商事株式会社に吸収合され、70年以上にわたる歴史に幕を閉じた(本項に関する詳細については安宅産業破綻参照)。
破綻にあたっては、損を出してでも売上を取りに行くような無理な取引、創業家による個人的コレクション(陶磁やクラシックカー)への社費の支出をはじめとする企業の私物化、各事業部門が独自に進めたゴルフ場開発をはじめとする本部統制・リスク管理体制の欠如など、数々の問題点が公にさらされる事となった。
安宅産業の破綻に伴い、日本の総合商社は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿實業、兼松江商の9大商社に再編されていく事になった。
清張の『空の城』は、上記カナダのニューファンドランド島のカンバイチャンスという名の寒村に建設された精油所プロジェクトの破綻を、徹底的に事実に立脚しながら登場人物の造形のみ清張が創作した小説で、1978年に『文藝春秋』に連載された当時、「ドキュメント・ノベル」と銘打たれていた。安宅産業が伊藤忠商事に合併されたのが1977年10月だが、同じ年の年末(文藝春秋だから12月10日頃だろう)に発売された1978年1月号から連載開始という早業である。しかも、完結から2年後の1980年12月には、NHKでドラマ化(『ザ・商社』)されている。なおドラマに出てくる故夏目雅子扮するあばずれピアニストは原作にはなく、故和田勉が創作したキャラクターだが、一説によると故中村紘子がモデルとのことだ。こうして書いてみると、松本清張(1992年没)、夏目雅子(1985年没)、和田勉(2011年没)、中村紘子(2016年没)と、みんな故人になってしまっている。私は『ザ・商社』は通しては見なかったが、夏目雅子のあばずれピアニスト姿だけは見覚えがある。しかし、このドラマが松本清張の原作で安宅産業の破綻劇を描いたものだったことは完全に失念していたし、そもそも安宅産業破綻劇自体、これが起きた頃には興味を持つ年齢ではなかったので全然覚えていなかった。
中村紘子が安宅英一をパトロンとしたことは、いつだったかsumita-m氏に教わってびっくり仰天したあの「ぶっ飛んだ」中村曜子が絡んでいる。
1958年には東京都港区西新橋に資本金500万円で泰東印刷株式会社を設立。同じ頃、安宅産業2代目の安宅英一と知り合い、安宅の庇護下に紘子を慶應義塾幼稚舎に通わせ、レオニード・コハンスキーや井口愛子のもとでピアノを習わせた。
下記記事も興味深い。
岩 崎 建 築 研 究 室 ・ 日 誌 : 安宅英一と音楽(2007年7月2日)より
安宅英一は、陶磁器のコレクションのみならず、クラシック音楽のパトロンとしても有名です。東京芸大に設立された安宅賞は、プロとしての道を進む上での輝かしいステイタスとなっていて、後に世界的な活躍をする多くの音楽家が受賞しています。その他にも多くの音楽家に海外留学や滞在などの財政面での援助も行っていたようです。展覧会では中村紘子のエピソードが紹介されていました。
例えばある日、来日中のボリショイサーカスに招待される。なぜサーカスなのか分からないけれど、子供だから胸をわくわくさせて見入っていると、安宅さんがふとつぶやく。「シューマンの謝肉祭には道化がたくさん出て来ますよね。」そのころ私が練習していたこの組曲にはピエロ、アルルカン、パンタロンとコンビーヌなどそれぞれキャラクターの異なった道化たちが登場する。でも本場のサーカスなど見たことのなかった私は、絵や写真などで想像するほかなかった。そんな私に安宅さんは「本物」を見せてくれようとしたのである。
単にお金を出すだけでなく、教養豊かな人生の先輩として若い芸術家を導く、こうした「本物」のパトロンは現在にもいるのでしょうか。ちょっと長くなりますが、せっかくなので中村紘子のエピソードの引用を続けます。
こうして手にとって見せていただいたものは、ある時は国宝に指定された中国の壷や鉢、ある時は速水御舟の牡丹の花の精緻なデッサンであったりルノワールを初めとした西欧の名画であったりしたが、そこでいつも話題がいきつくところは「ピアノの音」であった。あの李王朝の白磁のように、凛として冒しがたい気品を備えた音。そんなイマジネーションに私の心を向けてくれた人など、それまでにいただろうか。私は生まれて初めて、がむしゃらにピアノを弾くことから、森羅万象に目を向けて心を開き、そして「音」に耳ばかりでなく心を傾けることを覚えた。あたかも見えない何かに目を見張るように、沈黙に耳を澄ますように、私は美術品ばかりでなく、空の雲の流れ、風の運ぶ香り、雨のリズムにも立ち止まるようになった。
「森羅万象に目を向けて心を開き、心を傾けること」は、建築にとっても同じように重要なことだと思います。出来上がる空間に「品」というものを備えさせるには、やはりこうした目と心で感性を磨いていくほかに道はないように思います。
また、別のブログ記事からも引用する。下記のブログ記事は「私物化」という検索語を使ったから引っかかったのだが、「私物化」自体は安宅英一とは関係なかった。しかし、この記事も興味深い。
日曜美術館から始まって: 青猫の月夜の散歩 (2011年5月31日)より
新年度から司会が千住明くんになった日曜美術館を楽しみにしております。
テーマ曲だけでなく、BGMにも明くんの作品が多用され、同居人は「番組の私物化」とか言うとります(笑)。
ゲストもNHKに関係した人が多く登場し(先週は田中泯に松坂慶子でっせ)、力の入れようがうかがえたり。
先々週は安宅産業総帥だった安宅英一コレクションの特集。
日本クラシック音楽界最大のパトロンであり、同時に美術界でも有望新人に与えられる「安宅賞」を設立した人物です。美大在学中、ちょうどアニメ「赤毛のアン」放送中だったため、学生はエイブリー奨学金と呼んでましたっけ。
普段は温厚なのに、いざ獲物を見つけると狂気にも似た執着で手に入れることを厭わなかったとか。
安宅産業は、根本七保子(後のデヴィ夫人)をスカルノ大統領の元に送り込むほどの商社でしたが、社長の英一が利益を湯水のように美術品購入に充てたことが倒産理由とも言われています。
英一が支援したひとりである、ピアニスト中村紘子は
「ショパンコンクールに入賞した15、6歳の頃から、感性を磨くため陶磁器に直に触れる機会をいただいた。しばらく触っていると自分の体温と相まってねっとりした感覚をおぼえ、骨董を愛するってなんていやらしいことかと思った。今で言う”セクシー”な感じなんです」
と、当時を振り返っていました。(後略)
私は中村紘子とは相性がきわめて悪く、このピアニストの演奏に感心したことは一度もない、と訃報記事に書いた記憶がある。同じ記事に、中村はあのプロ野球の極悪球団・読売の大ファンでもあったことも記したはずだ。それを棚に上げるとしても、安宅産業の社員たちに塗炭の苦しみを味わわせた「企業を私物化した二世『社賓』」が芸術のパトロンとして今も肯定的な評価を受けていることに、世の不条理を感じる。
話は中村紘子から離れる。原子力事業にのめり込んで危機に瀕している東芝を、安宅産業の破綻に重ね合わせるのは、あの「東京新聞論説委員・長谷川幸洋と昵懇な朝日新聞記者」大鹿靖明*1である。私は長谷川と仲が良いことを理由に大鹿記者を大いに嫌っているが、下記記事は興味深い。
以下引用。
歴史は繰り返すという。東芝のいまの窮地を見るにつけ、かつての安宅産業破綻が二重写しに映る。行きついた先は解体である。
―― 1973年10月、ニューヨークを出航したクイーン・エリザベス2世号はカナダのニューファンドランド島に向かった。新設された製油所「ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー」(NRC)の完成を祝い、NRCのオーナーのジョン・シャヒーン氏が見栄を張って豪華客船を借り切ったのである。招待客には、日本の十大商社の一角、安宅産業の市川政夫社長や高木重雄常務の姿もあった。NRCの金主が日本の安宅だったからである。安宅は、従来の繊維、木材や鉄鋼から新たに石油など花形のエネルギーに取扱商品を拡大し、大手商社下位から上位の背中を臨もうと思い切り背伸びしていた。
皮肉にもそこに第4次中東戦争が襲う。原油価格が4倍に高騰し、安価な中東原油を精製し、米加両国の先進国市場に供給するというNRCの計画は挫折する。仕入れ価格が急騰して製品価格に転嫁できなくなり、開業と同時に赤字を垂れ流す惨状に陥ったのである。
オーナーのシャヒーン氏は、レバノン系米国人で、CIA前身のOSSの情報担当大佐だったといわれる政商的な人物。三井住友銀行の西川善文元頭取の回顧録『ザ・ラストバンカー』によれば、シャヒーン氏はニクソン大統領と親しく、国際石油資本メジャーに対抗した自前の独立企業集団を作ろうと考えた野心的な人物だった。一方、NRCに入れ込んだ安宅の高木常務はハワイ出身の日系二世で、安宅の社内で自身が「英語屋」と軽んじられがちなのを一蹴しようと、とかく大きなヤマを張りたがったとされる。
さらに安宅の社内は、創業家出身の安宅英一氏が「社賓」という肩書を持ち、経営の一線には立たないが、人事権は行使してきた。東洋陶磁の収集家としても知られ、重要文化財などが含まれる「安宅コレクション」は有名だ。
結局、安宅はシャヒーン氏の手玉に取られるように追加融資を継続し、泥沼にはまり込んでいく。「日本企業の場合(中略)個人経営者は別として一気にウミを出すことはまずできない。自分が担当している間に最悪な事態になるのをなんとか避け後任者にバトンタッチするからますます泥沼にはまり込む結果になります」(日本経済新聞特別取材班『崩壊 ドキュメント・安宅産業』69ページ)という当時のニューヨーク在住弁護士の言葉は、その後の日本の不良債権問題を始め多くの企業不祥事にあてはまり、強烈な既視感を覚える ―― 。
安宅英一、シャヒーン、高木重雄。史実ではこの3人が安宅産業破綻の最重要人物だった。安宅英一は「相談役社賓」であり、高木重雄は社長の承認は得ていたもののほぼ独断でシャヒーンとの商談を進めた「暴走役員」だったから、史実は「社賓とシャヒーンと暴走役員が安宅産業を破綻させた」という、冗談のような語呂合わせで表現できる。文字通り、「事実は小説よりも奇なり」だ。 というのは、清張の小説では、社賓・安宅英一は前述のように江坂要造、ジョン・シャヒーンはアルバート・サッシン、高木重雄は上杉二郎という名前にそれぞれ変えられているからだ。
なお、大鹿靖明記者が安宅産業の破綻になぞらえているのは、安宅産業がカナダの精油所のプロジェクトにのめり込んだあげくに、詐欺師と清張が評しているシャヒーンに引っかかって巨額の損失を出して破綻したのに対して、東芝は「2006年に米ウェスチングハウスを54億ドルで買収したが、それは99年に12億ドルで英核燃料会社(BNFL)に売却されたもの」(前記の大鹿氏の記事より引用)であり、その原子力事業へののめり込みが原因となって現在東芝が大きな危機に瀕しているからだ。原子力事業にのめり込んで暴走したのは東芝の前会長・西田厚聰だった。
ところで安宅英一をモデルにした江坂要造による「江坂産業」の私物化は、それこそ「事実は小説よりも奇なり」を地で行く、とんでもないものだったようだ。以下、水木楊氏執筆の文庫本の解説文を引用する(文春文庫新装版565-566頁より)。
要するに、彼(江坂要造=引用者註)は会社を私物化していたのだが、個人的な趣味を巨額の社費でまかなうことに、社員が遠慮がちに苦情を言うと、要造は答える。
「あんたらはそないなことを言いはるけど、いまのあいだにいまの値段で買うておかへんと、もうすぐこの値では買えまへんで。なにも浪費やおまへん。品物はちゃんと残ります。三倍も五倍も十倍もの値になって社に残ります……品物は……社の財産だす。江坂が世界一の古美術品を揃えて持ってるいうたら、江坂産業の信用にもなり宣伝にもなりますがな」
この理屈は、実業家ではなくのちの時代の土地ころがしにも似た虚業家のそれなのだが、社長は社主の前でただ沈黙する。
江坂要造が安宅産業の会長を退任後、「相談役社賓」という奇妙な肩書きを持つにいたった安宅英一であることは確かである。「安宅ファミリー」と呼ばれる、安宅家ゆかりの社員集団が会社の表向きの指揮系統とは異なる陰の力を揮い、その中の若手社員が上司の異動を拒み、「そんなものはファミリーの力で撤回させてやる」と言い放ったことは有名だった。
いま読んでみると、要造の描写は少々手ぬるいほどだが、当時、関係者全てが存命で、ストーリーに湯気が立つほど直近の題材だったことを考えるなら、暴露にも近いほどの描き方であったと言っていい。江坂要造こと、安宅英一という存在がなければ、おそらく清張は筆を執ることもなかったことだろう。
そういえば松本清張の愛読者だった亡父は1978年当時『文藝春秋』を買っていた。父の部屋で見掛けた記憶がある。今にして思えば、もしかしたら清張の『空の城』目当てに買っていたものだろうか。私は父への反発心もあって長年清張を「食わず嫌い」していたのだが、4年前に『Dの複合』を読んで以来すっかりはまってしまった。
ここまで、鹿内春雄と安宅英一による企業の私物化を見てきた。といっても鹿内によるフジ・産経グループの私物化については特に書いていないので、前述の6年前に書いたブログ記事から再び引用しておく。
佐野眞一は書きたい放題で、鹿内信隆・春雄親子を金日成・正日親子になぞらえ、「死者に鞭打つつもりはない」と書きながらビシバシと鹿内春雄を鞭打ちまくっている。以下引用する*2。
春雄の突然の訃報が流れる約二週間前の(昭和)六十三年(1988年)三月末、サンケイ新聞大阪本社幹部社員の急死が報じられた。新聞では急性心不全とされていたが、実は生駒山中での覚悟の縊死だった。
自殺の理由は不明だが、六十二年六月、系列のテレビ局から突然サンケイ新聞への出向命令を受け、それ以来悩みをかかえていたためともいわれる。春雄の死に必ずしも同情的な声が集まらないのは、こうした社員たちの悲劇が繰り返されてきたためである。
(中略)
こんな匿名の投書が舞い込んできたこともあった。
<フジテレビ鹿内親子の取材で苦労しているようですが、関係者の口の固いのは、下手をすると消されてしまう危険があるからです。昭和五十一、二年頃フジテレビの経理担当役員がある日から姿を消し消息不明で今に至る迄姿を見た者はありません。殺されたという説、海外に拉致されたという説、マスコミ会社とは名ばかり、恐怖と暴力と親子とその取り巻きの会社です。
ところで鹿内春雄だが、私がこの男について持っているイメージは「黒い正力亨」である。正力松太郎の息子で先日死去した正力亨は、基本的に善人だった*3。しかし、鹿内春雄は父・信隆と確執劇を繰り広げた。エスカレーターで慶応大学に進学できる慶応高校時代の成績が悪い「落ちこぼれ」だった点では安倍晋三をも連想させる。父・安倍晋太郎や父方の祖父・安倍寛を内心では蔑みながらも母方の祖父・岸信介を今でも崇拝している安倍晋三は、母・安倍洋子の言いなりのマザコン男と言われているが、鹿内春雄も相当なものだったようだ。鹿内春雄の母・英子には父・信隆は頭が上がらなかったらしい。
上記記事は民主党の野田佳彦政権時代に書いた。引き合いに出している安倍晋三は、記事を書いた4年前に政権を投げ出し、その2年後、つまり記事を書いた2年前の民主党への政権交代を許した(自民党にとっての)元凶と指弾され、自民党内でも冷遇されて失意の日々を送っていた。
しかし、記事を書いた翌2012年、安倍晋三は総理大臣に返り咲くや、国政の私物化を始めたのだった。今年(2017年)に入って、安倍晋三のなした悪行が次々と露見した。森友学園問題や加計学園問題における「ファミリー」ならぬ「お友達」たちによる国政の私物化のおぞましさは筆舌に尽くしがたい。
ついに防衛大臣・稲田朋美の辞任に至った陸上自衛隊の南スーダンPKO日報隠蔽の件も、元を質せば安倍による自衛隊の私物化こそ問題の本質だと私は考えている。
「心境ですか? 空(くう)ですね」
南スーダン国連平和維持活動(PKO)の派遣部隊が作成した日報をめぐる問題で、防衛相を引責辞任した稲田朋美氏。28日午後、防衛省の去り際、記者団から心境を問われ、こう答えた。
昨年8月の就任以来、通い慣れた東京・市谷本村町の防衛省を後にした稲田氏。花束贈呈などの退任セレモニーなどはなく、さみしい退場となった。
「ポスト安倍」の一人とも目されながら、その言動が物議を醸し続け、稲田氏は大臣の資質を問われ続けた。防衛相としての「激動の1年間」を終えた今、まっさらな心境を表したかったようだ。
そんな稲田氏に対し、記者団はさらに「その心は?」と質問。だが稲田氏は答えることなく、笑顔を見せながら迎えの車に乗り込んだ。31日の離任式に出席するため、また登庁するという。
一方、引責辞任した黒江哲郎・前事務次官は同日夕、職員数百人が拍手で見送る中、36年務めた防衛省を後にした。後輩たちには「皆さんの力で防衛省を立て直して下さい」と述べた。(下司佳代子)
(朝日新聞デジタルより)
松本清張の『空(くう)の城』が安宅英一による企業の私物化の顛末を描いた小説だっただけに、国政を私物化している男・安倍晋三に「ともちん」との愛称で呼ばれて寵愛を受けた稲田朋美が心境を「空(くう)ですね」と語った符合が面白いと思った。
前記水木楊氏執筆の文庫本の解説文にも、「空」への言及があるので以下再び引用する。前記引用部分の直後に置かれた文章である(文春文庫新装版566-567頁より)。
小説の最後のシーンは、要造の集めた古美術品を元に造られた美術館で終わる。古美術に詳しい美術専門家が要造を礼賛するシーンである。
「……これはもう、お金持の趣味とか道楽というものではない。古陶磁品にたいして卓越した鑑賞眼、選択眼をもったお方であります。江坂さんも、素耳斎さん同様に、心眼を持っておられるお方だと思います。心眼、これは何ものをも見透す霊力のようなものでありまして、平凡な人にはないものであります。江坂要造さんは、人間の心理をも、あらゆる事業をも見抜くことにもつながるようなおそるべき洞察力、透察力の発達した天才であります」
皮肉なことだが、優れた芸術はパトロンなしには容易に生まれにくいし、名品のコレクションはカネに糸目をつけぬ奇特な人間の手によってなされることが多い。作中の要造は、三千七千人の社員を路頭に迷わせ、日本銀行のカネに世話になり、半世紀を超える商社の暖簾を葬ったが、その代わりに比類なき名品のコレクションを遺した。
何が良かったのか分からない。作者が問う「空」とは、このことなのだろう。
安宅英一は安宅産業を潰したが「安宅コレクション」を遺し、この記事の中程に引用した2本のブログ記事にも見られる通り、(私はまったく好まないが)中村紘子の芸術上の恩人でもあり、ブログ記事の著者たちも安宅英一に対して極めて高い評価を与えているようだ。しかし同時に、安宅英一は多くの人たちの人生を狂わせた。
同じ私物化でも、国政を私物化している安倍晋三は、極右人士たちのSNSや「保守速報」に「いいね!」をつけるのが趣味の「ネトウヨの化身」のような人物であって、美術や音楽などの芸術への寄与は全く考えられない。
しかも、安宅産業の場合は最後には伊藤忠商事に吸収合併されたが、日本国の場合はそうはいかない。
安宅英一については、優れた美術や音楽への貢献の反面に多くの生身の人間に辛酸をなめさせたことによる「空」だったが、安倍晋三と稲田朋美の場合は文字通り、掛け値なしの、それこそ本当に何もないすっからかんの「空」なのだ。
仮に清張が存命であっても、安倍晋三のような人間をモデルに小説を書く気は起きなかったのではなかろうか。いや、それとも安倍夫妻(安倍晋三と昭恵)と「お友達」による国政の私物化を、これでもかこれでもかと書きまくって激しく指弾しただろうか。
やはり後者だろうな。1974〜75年に創価学会と日本共産党との協定を実現させた清張が今の世にいたなら、企業どころか国政を私物化する安倍晋三を絶対許さなかったに違いない。
なにしろ安倍晋三とはとんでもない巨悪である。大鹿靖明記者が安宅産業の破綻になぞらえた東芝の原子力事業へののめり込みも、安倍がお墨付きを与えていた。というのは、前述の西田厚聰は、東芝会長時代、2013年3月に第2次安倍内閣が発足させた日本経済再生本部において、産業競争力会議の代表幹事に就任した(Wikipedia「西田厚聰」より)という事実があるからだ。つまり、安倍晋三とは国政を私物化している点で社賓・安宅英一と共通し、原発への回帰に暴走した点で、暴走役員・高木重雄とも共通するという一人二役を演じ、日本国を大きく傾けつつあるといえる。
松本清張の『空の城』を読んで、「社賓とシャヒーンと暴走役員」が安宅産業を破綻させたことを知り、安宅英一・鹿内春雄・安倍晋三という「私物化に走った世襲人士」たちが流した害毒に思いを致したのだった。