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古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張『小説東京帝国大学』(ちくま文庫)を読む

 今月は松本清張の長編を2作続けて読んだ。『神々の乱心』(文春文庫,2000)と『小説東京帝国大学』(ちくま文庫,2008)だ。前者は1990年から没年の1992年まで『週刊文春』に連載された未完の作品(単行本初出は文藝春秋,1997)で、後者は1965年から翌66年にかけて『サンデー毎日』に連載された(単行本初出は新潮社,1969)。

 

神々の乱心〈上〉 (文春文庫)

神々の乱心〈上〉 (文春文庫)

 
神々の乱心〈下〉 (文春文庫)

神々の乱心〈下〉 (文春文庫)

 
小説東京帝国大学〈上〉 (ちくま文庫)

小説東京帝国大学〈上〉 (ちくま文庫)

 
小説東京帝国大学〈下〉 (ちくま文庫)
 

  2作のうち、より強く引きつけられたのは『神々の乱心』の方だが、『神々の乱心』を読み終えた直後に、この作品について書かれた原武史氏の論考を読んで、その解釈に大いに感心したので、この記事では原氏の本にリンクを張るに留めておく。『神々の乱心』を読んだあと続けて原氏の本を読むのがおすすめだ。逆順だと要らぬ先入観を持ってしまって『神々の乱心』を読む楽しさが大きく毀損されてしまうと思う。

  この記事では、『小説東京帝国大学』から気づいた点をメモしておく。備忘録的な記事だ。

 まずこの「小説」について書かれたブログ記事にリンクを2件張る。

blog.goo.ne.jp

 以下上記リンクを張った記事から引用する。

(前略)この作品の叙述スタイルは、明治後半あたりに日本に起きたいくつかの事件―「南北朝正閏論争」や「大逆事件」など―を通して、それに対して東京帝国大学はどういった態度をとってきたのか、というところから東京大学像を描き出すものである。そこには特定の「主人公」は実は存在しない。この書を読みにくくしている一因ともなっているのだが、ある意味では「東京大学」という法人が主人公であるとも取れるのである。なお、この著作はあくまでも松本氏の「小説」であるからして、これに記述された事項が全て真であるというような盲信的な態度は危うさを孕む。とはいえ、かなりの資料集めと実証をされているようであり、なかなか歴史的読み物としても歯ごたえのあるものであった。

物語は冒頭、私立哲学館(現在の東洋大学の前身)講師中島徳蔵の視点から、「哲学館事件」の経過を通して東京帝国大学を見る構図になっている。ムイアヘッドの「動機善にして悪なる行為ありや」という倫理学の教科書の内容を巡って、文部省VS哲学館などの私学の論争が起こる。文部省側の言い分としては、動機が善であるならばその行為も善として許されるとすれば、例えばクロムウェルのような帝王を弑逆した者も許されるということで、これは国体上危険な考えであるということらしい。この事件が元で、哲学館は中等教員無試験検定資格という特典を取り上げられている。
物語では、実はその背後に、山県有朋の影を見る。帝国大学令第一条には「帝国大学ハ国家の須要【注:しゅよう。ぜひ必要なこと。】ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥【注:うんのう。学問・技芸の最も深いところ。】ヲ攷究【注:考究】スルヲ以テ目的トス」とある。当時の帝国大学の教授は貴族院議員など官職を兼ねる者が多く、また官からも多くの講師が兼任で来ていて、政府と密接につながっていた。さらに帝国大学教授が高等文官の試験委員を独占していたため、行政官でも司法官でも、否、弁護でも、東京帝国大学卒業生にあらずんば合格しないとも言われていたようである。明治26年までは大学卒業者は無条件で官吏に採用されてすらもいたのである。要するに帝国大学はその設立目的からして官僚と技術者の養育を目指しており、山県らからすればそれ以外の私学の学問などはいらないというのである。
また、そのムイアヘッドの説はともすれば皇室の問題と大きく絡んでくるために、帝国大学の教授たちは沈黙を保つ。時の東京帝国大学総長山川健次郎教科書検定委員長も兼ねていた。その教授らの態度を東京帝大文科の学生有志は非難し、また新聞には、文部省による学問への圧迫であると書きたてられる。が、久米邦武が「神道は祭天の古俗」によって大学を追われた先例があるため、その本質には立ち入らないで、教育行政上の問題として片付けようとするのである。(後略)

(ブログ『ながいきんのひそやかな呟き』2004年7月25日付記事「『小説東京帝国大学』 松本清張著」より)

 ここまでが小説の最初の3分の1だ。清張は東京帝国大学と銘打ちながら、現在の東洋大学で起きた「哲学館事件」から稿を起こしている。この後に続く、日露戦争を煽った「七博士の開戦論」は立花隆の『東大と天皇』でも詳しく取り上げられたのを読んだことがあるので知っていたが、「哲学館事件」は知らなかったし、立花の『東大と天皇』第4巻(文春新書,2013)巻末の索引で哲学館事件や中島徳蔵を調べてみたが、載っていなかった。

 哲学菅事件については、東洋大学編『井上円了の教育理念 - 歴史はそのつど現在がつくる』(2014年改訂17版、初版は1987年)のpdfファイル(下記URL)で事件の概要を知ることができる。

https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/14179.pdf

 

 上記ファイルから、答案を書いた学生の名前が加藤三雄であることがわかるが、清張の小説では「工藤雄三」という仮名に変えられている。この小説においては登場人物は基本的に実名で登場するのだが、工藤雄三だけは仮名だ。しかもネット検索をかけても加藤三雄の人物像は出身地を含めてよくわからない。

 小説では工藤雄三が下記のように描写されている。

  工藤は福岡県朝倉郡の生れだった。小学校は土地だったが、中学校は福岡の中学を出ている。一年生からずっと首席をつづけていた。それで言葉に九州訛がある。言葉だけではなく、その顔つきも、いかにも九州系らしい、色の黒い、唇の厚い若者だった。

松本清張『小説東京帝国大学』(ちくま文庫2008, 上巻44頁)

 前回の記事でも触れた、清張作品に頻出する「唇の厚い男」の登場だ。清張はこの学生の造形を創作し、そのために加藤三雄という実名ではなく 工藤雄三という仮名を使ったものだろう。もちろん清張の分身というべきキャラクターだ。

 この工藤雄三は、小説の上巻には舞台回しの役柄でずいぶん登場するが、下巻に入ったとたんに登場しなくなり、最終章「田舎教員の手紙」に唐突に再登場して小説を締めくくる。これはずいぶん強引な物語の幕引きだと思った。つまりこの小説は上巻と下巻でスタイルがだいぶ違うのだ。上巻は史実をベースとしながらかなりの度合いで創作を織り交ぜているのに対し、下巻はその作業の困難さに清張が面倒臭くなったのか、「明治史発掘」と言いたくなるほどのセミ・ノンフィクション的な作りになっている。それだけ下巻は取っつきが悪くなっているが、それでも下巻の後半、南北朝正閏問題で藤沢元造という大阪府郡部選出の衆議院議員の妄動が描かれるあたりでは、藤沢の俗物性が面白くて再び読書に興が乗ってくる。この藤沢元造もWikipediaにも出てこないマイナーな男だ(元造の父・藤沢南岳は載っている)。

 南北朝正閏問題はさすがに立花隆天皇と東大』文春文庫版第1巻(2012)に載っているし、藤沢の名前も出てくる。

天皇と東大〈1〉大日本帝国の誕生 (文春文庫)

天皇と東大〈1〉大日本帝国の誕生 (文春文庫)

 

  しかし、なんと立花は藤沢元造の名前を(恐らく)間違えて「藤沢幾造」と記載している(文春文庫版第1巻305-306頁)。そのことに立花も文春の編集部も気づかなかったくらいマイナーな男、それが藤沢元造だった。だから、元造が桂太郎に丸め込まれて南北朝正閏問題に関する極右的な質問を取り下げたばかりか議員辞職するに至った経緯に関する清張の記述はかなり「盛った」ものではないかと想像したが、『天皇と東大』を参照すると、元造が極右仲間を裏切って金を握らされたことを糊塗するために発狂を装ったという清張の記述には、当時の東京朝日新聞記事というソースがあったことが確認できる。なお『天皇と東大』には『小説東京帝国大学』からの引用はなく、清張作品からは『昭和史発掘』に収められた2.26事件に関する記述の引用があるのみだ。その引用において立花は、

 実際問題として、二・二六事件ではそのようなこと(反乱軍が秩父宮を擁して昭和天皇廃位に追い込むこと=引用者註)は何も起らなかったが、秩父宮が革命派にかつがれて、昭和天皇皇位を争うことになるということは、考えられないことではなかった。実は元老の西園寺も、その可能性を心配していた。

立花隆天皇と東大』文春文庫版第3巻347頁)

として、続く文章で『西園寺公と政局』から引用文を書いている。

 ところで立花隆松本清張とでもっとも違うのは、「戸水事件」に対する評価だろう。『小説東京帝国大学』では哲学館事件のあとに、戸水寛人を最過激派とする「七博士の開戦論」、次いで戸水の帝国大学教授職を解こうとした政府と東京帝大とが争った「戸水事件」が取り上げられるが、この時の東大教授たちへの評価が立花と清張とでは大きく違うのだ。その点に触れたブログ記事がある。

blog.goo.ne.jp

 以下、上記リンクを張ったブログ記事から引用する。

  私が東大の歴史に興味を持ち、有名な事件をひととおり知ったのは、2005年に刊行された立花隆氏の大著『天皇と東大』を読んでからである。本書は、明治35年(1902)の哲学館事件から始まるが、続いて、翌年の戸水事件に筆が及ぶと、ああ、あの一件か、とすぐに合点がいった。日露戦争の講和条件をめぐって、法科大学教授の戸水寛人らが、政府の弱腰を批判し、対ロシア強硬策を訴えた事件である。戸水は休職、山川健次郎総長は免官を命じられた。東大・京大の教授たちは、これを大学の自治と学問の自由への侵害と捉え、総辞職を宣言した。その結果、戸水は復職。山川は東大には戻らなかったが、のち京大・九州大の総長になっている。

 戸水事件の評価は難しいが、その後の滝川事件などに比べれば、なんとか「学問の自由」が守られたように見える。立花隆氏も、当時の『時事新報』の社説を引いて、日本では政府と大学が一体化しているところに根本的な問題があると指摘しながらも、「大学の団結力の前に政府が敗北したのはこのときだけで、あとは大学側が敗北に次ぐ敗北を重ねていく」と書いているので、この一件だけは「大学の勝利」と認めているようだ(立花氏の『天皇と東大』には、本書への言及はなし)。

 ところが、松本清張の評価は、もっと辛い。明治39年に発表された鳥谷部春汀の意見を引いて言う。教授たちの唱える大学の独立、学問の自由は単なる口実であると。当時の文部大臣・久保田譲は学制改革の急先鋒だった。学制改革とは、近代日本の教育制度の「ねじれ」を背景にしている。最高学府である帝国大学は、文部省とは無関係の起源を持ち、教育程度が高すぎて、小中学校の普通教育と上手くつながらない。この弊害を是正することが茗渓派(師範学校閥)の官僚たちの念願で、帝国大学の権威を守ろうとする大学派(帝大閥)は猛反対だった。この戸水事件は、要するに大学人たちによる「久保田文相追い落とし」が真相だったというのである。

 さらに著者は、教授たちが戸水を擁護できたのは、この問題が「皇室の尊厳と衝突することではなかった」からだ、と鋭く本質をつく。明治25年、文科大学教授の久米邦武が「神道は祭天の古俗」という論文によって辞職に追い込まれたときは、誰ひとり「学問の自由」を主張しなかった。「帝国大学教授の本質がここに露骨なまでに現れている」と手厳しい。

 本書は、続いて明治41年9月から本格的に着手された国定教科書の改訂と、南北朝正閏問題に触れる。そもそも教科用図書調査委員総会で、南北朝併立を書き入れるよう主張したのが、山川健次郎加藤弘之だったとは! このシーン、あまりにも小説的だと思ったけれど、当然、何かの典拠があるのだろう。

 渦中の人となる喜田貞吉の人物像もよく書けている。史実に対する学者らしい誠実さと、いくぶん倣岸不遜で無愛想なところも。明治44年、喜田は休職を命じられるが、このとき、文部省や政府に楯ついた帝国大学教授は誰もいなかった。なお、この南北朝正閏問題も、実は国定教科書から締め出された私立大学(早稲田)教授連の、文部省と帝国大学に対する反感から発しているという説もある。どこまでも生臭い話だ。その後の喜田は不遇に見られているが、広い分野で数々の著作を残したという。著者が「こういう幅の広い学者は現在ではいない」と評価しているのが、なんとなく嬉しい結末だった。(後略)

(ブログ『見もの・読みもの日記』2008年3月31日付記事「1960年代の『天皇と東大』/小説東京帝国大学松本清張)」より

  私は5年前に『天皇と東大』を読んだ時、戸水事件における東大教授たちに対する立花隆の評価に釈然としない思いを持ったので、清張の指摘に5年越しの溜飲を下げた思いだ。皇室のタブーに抵触しないばかりか、政府よりさらに「右」というか好戦的な立場から日露戦争開戦論を煽り、一貫して極端な拡張主義を声高に唱えた戸水寛人に対してだけ「学問の自由」を守ったという東大とその教授たちを肯定的に評価して良いものだろうかと思ったのだった。たとえば清張が名前を挙げた久米邦彦や喜田貞吉らを守ったのであればともかく、極右教授のみ「学問の自由」を守った東大とその教授とは、明治時代からどうしようもなかったといえるのではないか。

 また、その東大と文部省に対して、南北朝正閏問題についてさらなる「右」の立場から攻撃を加えた早稲田大学の教授たちも全く評価できない。当時の早大教授たちは、今で言えば安倍自民党に対する「希望の党」だの日本維新の会だのと同様の「体制補完勢力」以外の何物でもなかった。そこには反骨精神の欠片も認められない。早稲田大学も昔からそういう体質の大学だったんだなと改めて思った。

 ここで安倍政権に言及したので、この記事の最後に、『小説東京帝国大学』に出てくるある「軍人のち政治家」と安倍晋三との類似についても言及しておく。

 まず安倍晋三に関するブログ記事より。

hiroseto.exblog.jp 以下、上記にリンクを張ったブログ記事から引用する。

安倍晋三というのは、ヒトラーというより、戦前の首相で言えば立憲政友会に近い。
田中義一が政友会にお友達のごろつきを大量に入党させたり幹部に取り立てたりし、劣化させたたのは、安倍政治を思い出させる。
田中が外務次官(田中が外相兼務のため実質は森外相)に取り立てた森恪という男は特にひどく、慶応幼稚舎でありながら慶大に進めず、しかし、野心は人一倍強かった。
中国侵略は実はほとんど森恪が構想したもので、森は515事件でも会心の笑みを浮かべた。直後に急死しているが、もし急死しなければ間違いなくA級戦犯で死刑だったろう。
立憲政友会の支持基盤も当時の地方の地主と旧財閥の三井。JCや重厚長大を基盤とする安倍に似ている。

田中は満州某重大事件で天皇にお叱りを受け、退陣しているが、今上天皇が安倍に不快感を持たれているとされているのに似ている。天皇のお叱りを受けての田中の退陣は、正直、政党政治に暗雲を投げ掛けたが。(後略)

(『広島瀬戸内新聞ニュース』2018年3月23日付記事「安倍=田中義一=政友会の次は小泉進次郎=立憲民政党に注意」より)

  上記記事は安倍晋三田中義一になぞらえているが、現在安倍政権は森友学園問題に絡んだ財務省文書改竄事件で批判を浴びている。

 一方、安倍晋三になぞらえられた田中義一も、軍人時代にとんでもない悪事をやらかしていた。田中義一日露戦争開戦を実現させるために、なんと参謀本部の文書を改竄したのだ。そのことが『小説東京帝国大学』に書かれているので以下に引用する。

 参謀本部の機密作戦日記によると、軍首脳を開戦に導いた資料を謀略的に作成したのはロシヤ班長田中義一少佐などということになっている。当時、軍首脳は数字的に日本の劣勢を知って開戦反対であった。田中はロシヤ駐在武官をしたことがあり、その当時、ロシヤ帝政政治の腐敗、国民の困窮、革命派の擡頭などを見てきているので、いま戦えば必ず勝てると主張していた。しかし、首脳部は容易にその意見を容れない。

 そこで田中は、部下の小柳大尉と謀って参謀本部の資料を改竄した。

 その頃、満洲におけるロシヤ軍の糧秣準備は六、五三九万ポンドに達し、シベリア鉄道を通じての動員可能兵力は約四十万であった。これに対し日本軍の輸送力はロシヤ軍の八割、動員兵力は二十万がぎりぎりといわれた。田中らは、この数字を逆にして日本優勢の資料を偽造したのだ。

 この資料改竄も手伝って、遂に軍首脳は日露開戦に踏切ったのだが、戦ってみると、やはり資料の数字は正確で、日本軍は悪戦苦闘する羽目になる。――

松本清張『小説東京帝国大学』(ちくま文庫2008, 上巻276-277頁)

  さすがは安倍晋三がなぞらえられるだけのことはあって、田中義一とは公文書の偽造など悪いとも何とも思わない人間だったようだ。田中のデータ捏造によって死ななくても良い兵士がずいぶん死んだことだろう。要するに田中義一とは実質的な大量虐殺犯であって、死刑に処されるべき人間だったと思うのだが、そんな人間が責任を問われることもなく内閣総理大臣になったあげくに昭和天皇の逆鱗に触れ、それがさらに政党政治の危機を招いて軍部独裁政治への道を開いた。

 日本は昔からそういう国だった。だから敗戦からわずか12年後、かつてのA級戦犯容疑者だった安倍晋三の母方の祖父・岸信介が総理大臣になれたのだ。

 その岸の野望を引き継ぐ安倍晋三の政権は、一刻も早くぶっ潰さなければならない。

 清張の本からだいぶ逸れてしまったが、小説としては失敗作ではないかと思われるものの、読書から得た収穫は少なくなかった。