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古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張『神と野獣の日』は、極右宰相・安倍晋三と北朝鮮のミサイル発射を半世紀前に予言していた!?

 今月は松本清張作品を下記の中篇一作しか読んでいない。

 

神と野獣の日 (角川文庫)

神と野獣の日 (角川文庫)

 

 

 裏表紙に、下記のように書かれている。

「重大事態発生です」―ある早春の午後、官邸の総理大臣にかかってきた、防衛省統幕議長からの緊急電話が伝えた。Z国から東京に向かって誤射された、5メガトンの核弾頭ミサイル5基。1発で、東京から半径12キロ以内が全滅するという。空中爆破も迎撃も不可能。ミサイルの到着は、あと…43分。ラジオ・テレビの臨時ニュースによって、真相が全日本国民に知らされた!SF的小説に初めて挑戦した松本清張の隠れた名作。

  解説の権田萬治氏によると、「数多くの松本清張の作品の中でもSF的な発想に立っている点でもっとも異色のものの一つ」とのことだ。ネット検索をかけると、「松本清張唯一のSF作品」とも書かれている。

 ただ、その狭量さにいつも辟易させられるSFファンたちの間ではこの作品の評判はすこぶる悪いようだ。曰く、「SFなんて俺だって書けると思って書き出したのかもしれないが*1」、「この一作でこの分野を撤退したのは本人にとっても良かったはずだ。(初期の)筒井康隆小松左京に任せておけばよいのである。*2」等々。

 しかし、この作品が書かれたのは筒井康隆の処女長篇『48億の妄想』(1965年)や小松左京の処女長篇『日本アパッチ族』(1964年)が書かれる前の1963年だった。ましてや小松の代表作『日本沈没』(1973年)より10年も前に書かれている。
 しかも、この作品は『女性自身』に連載されたが(1963年2月18日号〜同6月24日号)、発表媒体によって露骨に執筆姿勢を変える悪癖のあった清張にとって、女性週刊誌は「書き飛ばす」作品を書く媒体だった。既読の作品の中にはメロドラマがあったが、これも掲載誌は女性週刊誌だった。周知のように、1950年代末から60年代初頭にかけて、松本清張は「どれだけ多くの小説を書くことができるか」に挑戦した時期があって、作品の数も多かったが分野も多岐に亘った。例えば『高校殺人事件』は「ジュブナイル探偵小説」だったが、実にシュールな作品だった(笑)。
 そんなわけで、松本清張が書き飛ばした作品であるに違いない『神と野獣の日』に難癖をつけるとは何と無粋な、と清張ファンである私は思うのだが、実は、普段の時期に読んでもたいした出来とは思えないこの小説には、現時点限定で、読む大きな楽しみがあるのだ。
 
 以下ネタバレ満載なので、この小説を未読かつこれから読みたいと思われる読者の方は読まない方が良いと思う。
 
 「今、この小説を読む楽しみ」、それはキャラクターの設定にある。小説に登場する首相の年齢が「六十二歳」*3とあるのにまずぶっ飛んだ。まんま安倍晋三じゃん。安倍晋三の誕生日は1954年9月21歳で、今まさに62歳なのだ。読むのがあと1か月ちょっと遅れたらこの僥倖を逃すところだった(笑)。
 しかも、この「首相」の造形が、まさに安倍晋三とクリソツなのだ。そして、核弾頭ミサイル発射といえば、現在連日のテレビニュースを騒がせているのが北朝鮮のミサイルであることはいうまでもない。
 驚くべきことに、1963年に書かれた小説であるにもかかわらず、防衛庁ではなく「防衛省」が登場する。史実では、第1次安倍内閣時代の2007年に防衛庁防衛省に「昇格」したのだが、清張はそれを44年前に先取りしていた。
 小説の最初のうちこそ、核弾頭ミサイルの東京への着弾を公表するなと国際電話で要求してきた米大統領に抵抗するなど、「安倍晋三よりマシじゃん」と思わせる箇所もあるが、「首相」は徐々に極右政治家としての本領を発揮し始める。
 「この首相は、昔の官僚時代からの手下をそれぞれ内閣の要職に就けていた」*4。官僚出身の総理大臣であることは安倍晋三とは異なるが、「手下を内閣の要職に就けていた」といえば、ほかならぬ元防衛大臣稲田朋美、あの大恥を晒し続けた馬鹿女が直ちに思い出される。
 そして、この首相は東京都民を見殺しにして自らは主要閣僚とともに米軍のヘリで大阪に脱出してしまい、大阪に設けられた臨時政府から好き勝手なメッセージを発して国民の猛反発を買う。国民といっても首都圏の住民はパニックに陥っているのだが、臨時政府が設けられた大阪などの地方で、首相に対する猛反発が起きるのだ。
 さらに、各種団体や世界各国、果てはローマ法王庁から東京の囚人を全員解放せよとの要求を受けてしぶしぶこれを受け入れた「首相」は、解放された受刑者たちが「刑務所長の精神訓話の感化を受けて、全員静かに行動している」という戒厳司令官の嘘の報告を受けて、「えらいものだな。とても想像ができぬ。そんなに精神訓話が有効だったのか。やっぱり文部省は道徳教育を施行する必要がある」*5と狂喜乱舞する。このあたり、安倍晋三カリカチュアライズした造形としか思えないのだが、1963年の作品なのだ。
 さらに爆笑したのはミサイルの着弾点だ。「東京都心に広大な野球場がある。付近はその他の娯楽施設で有名だったが、そのグラウンドに」*6着弾したのだ。
 東京の野球場としては神宮球場もあるが、都心ではないし「付近はその他の娯楽施設で有名」でもない。だとしたら「あそこ」しかない。さすがの清張も後年この球場が屋根を被ることまでは予想できなかったようだ。そう、あの××の本拠地球場だ。
 リアルの「首相」が「改憲構想」を発表し、国会で「××新聞を熟読せよ」と言い放ったあの××。「首相」に楯突く元事務次官謀略報道を平然と行ったあの××。その××の子会社であるプロ野球球団の本拠地球場にミサイルが着弾したというのだから、どうして爆笑せずにいられようか。
 ところでなぜ着弾点が正確にわかったのか。その点を含め、この小説には2つのどんでん返しがあるのだが、あとの方のどんでん返しは言ってみれば「お約束」であって、この小説を読んでこれに気がつかなかった読者はほとんどいないだろう。この点だけはもったいぶって伏せておく。
 
 以上、本作はあくまで松本清張が書き飛ばした「唯一のSF小説」で、まあ普段の時期であればなんということもない作品だが、62歳の安倍晋三政権下で北朝鮮のミサイル実験が話題になっている今ならではの「読む楽しみ」が満載の、それこそ今読んでおかなければ損と思える「娯楽小説」だ。私は読みながら筒井康隆の小説群(1981年の『虚人たち*7』を思い出していたが、小松左京の『日本沈没』は未読なのでこれとの比較はできなかった。しかしネット検索で知った下記の感想文は興味深い。

 元版は63年カッパノベルです。63年といえば眉村卓『燃える傾斜』の出た年。カッパでいえば小松左京『日本アパッチ族(64)よりも一年早い。というわけで、日本SF創成期と軌を一にするようにして発表された清張のSF作品です。

(中略)

 事実が判明してからの2時間を、シチュエーションノベルというのでしょうか、主人公らしい主人公を設けずいろんな場面を点描するという手法が採用された結果、あたかも「ドキュメンタリー」風に話は進んで、巻を措かせません。ただし「ドラマ」として見た場合は、心理に深く切り込まないので、非常に淡々とした印象になります。その意味ではシナリオに毛が生えたような感じ。

 もっとも、たった2時間ですから、政府のできることは限られている。東京の被爆地に関しては手をこまぬいていることしかできません。せいぜい大阪臨時政府(首相以下閣僚はさっさと米軍ヘリで大阪へ退避している。首都全壊後の日本の舵取りこそ彼らの使命であるからですっ!)として、被爆/被曝後の復興計画の策定があるくらいか。

 その意味で、何年かの猶予があった日本沈没のようなわけにはいかないのは確かなんですが、それ以上に清張と左京ではその「人間観」が正反対であるように感じました。本篇では、都民は公共交通手段で郊外へ逃がれるしか術がないのだが、電車は、避難民で鈴なりの沿線の各駅を、小石のように黙殺して(いや、満員すぎてプラットフォームからポロリポロリと落ちる客を跳ね飛ばして)通りすぎていく。運転手が、自分が逃げ延びたいが為に勝手に急行列車にしてしまったのです! 大体、治安活動にあたる警察官や自衛隊員からしてさっさと逃亡してしまう。小松左京の描く自衛隊員とは明らかに違います。事実はどっちなんでしょう? 消防庁の隊員が躊躇するのを、所管の大臣が恫喝したというのは、ちょうどこの中間でしょうか(違)。

 そういう次第で、本篇は頁数にして200頁強なのですが、もっと深く、書き込んでほしかった。最低でも倍の400頁は必要だったのでは。そうだったならば、本書、日本沈没のアンチテーゼ的作品として、SFジャンル的にも意義のある位置づけを確保し得たように思うのですが。もっとも日本沈没がPFの嚆矢だったのだとすれば、それはないものねだりというべきかもしれません。

  いかな清張といえど、1973年の『日本沈没』のアンチテーゼを1963年に作ることができなかったというのは、評者自身も認める通りの「ないものねだり」だろう。しかし、保守の小松左京と革新の松本清張の対比にはうなずけるものがある。もっとも、革新(事実清張は共産党支持者だった)とはいっても清張は「プロレタリア文学」に対して、小林多喜二を例外として低い評価しか与えなかった人だし、清張の「スパイX」(非常時共産党時代のスパイだった松村こと飯塚盈延)の追究には、共産党執行部が内心苦々しく思ったであろうことは想像に難くない。事実共産党は後年同じ「スパイX」を追った立花隆を「特高史観」の持ち主として強く批判した経緯があるが、清張が『昭和史発掘で』多くを依拠したのも特高の史料だった。

 清張は(70年代の)小松左京とは対照的だったが、警察官や防衛軍(作中では自衛官ではなく、防衛庁の省昇格とともに防衛軍に名称が変更されている。明記されていないが改憲も行われたのかもしれない)の兵士がさっさと逃げ出しあたりは、筒井康隆の小説には出てきそうなパターンだ。

 実はこの清張作品を読む直前に、一昨年末に買ってから1年8か月も放置していた下記の筒井康隆作品を読んだばかりだった。

聖痕 (新潮文庫)

聖痕 (新潮文庫)

 

  しかし、この「後期筒井」作品は、物語の冒頭でショッキングな設定が明らかにされるが、その後の小説の展開は、まるで北杜夫の『楡家の人びと』を読んでいるかのような錯覚に襲われるほど淡々と進む。禍々しい展開が予想された前半とは打って変わった後半を読んで、これが筒井の晩年様式なのかとちょっと拍子抜けした。「後期筒井」の頂点は、やはりあの遠藤周作を感心させた『夢の木坂分岐点』(1987年)あたりかもしれない。

 これもたまたまだが、40年以上前に妹が学校の図書室から借りてきたのを読んだ北杜夫の童話『ぼくのおじさん』の新潮文庫版(1981)が図書館にあったので借りて読んだばかりだった。今月の東京はずっと変な天気が続いているが、月の最初の頃にはひどい蒸し暑さだったので、重い本は読む気がしなくなっていたのだ。

ぼくのおじさん (新潮文庫)

ぼくのおじさん (新潮文庫)

 

  懐かしかったが、ちょっと驚いたのは、父親である斎藤茂吉が戦意昂揚の短歌を多く作ったことで戦後その責任を問われたことに強く反発していた「保守人士」の北杜夫が、表題作「ぼくのおじさん」(単行本初出は旺文社1972)でも「むすめよ…」(同小学館1977)でも強い反戦メッセージを発していたことだ。「ぼくのおじさん」は、新潮文庫版の福田清人の解説文によると、中学生向けの月刊誌『中二時代』の1962年5月号から翌63年5月号まで連載されたというが(明記されていないが63年4月号と同5月号は『中三時代』掲載だったのだろう)、まさに清張の『神と野獣の日』と同時期の作品だ。

 「革新」の小説家が日本の右傾化を危惧するSFを書き、「保守」の小説家は童話で静かに反戦メッセージを発する。これが半世紀前、まだ戦後20年を経過しない頃の日本の姿だった。

 今は、「保守」といえば安倍晋三のような好戦的にして戦前回帰志向の主義主張の、昔で言うところの「極右」を指すようになってしまっていて、「リベラル」と括られる人たちが安倍晋三と同様の極右であるとしか私には思えない小池百合子に靡く惨状を呈している。「中道」を自称するブロガーが小池百合子民進党との協力に期待して「ワクワク」したりしていたが、昔ながらの保守の論客である半藤一利保阪正康小池百合子を歯牙にもかけずに切り捨てている姿と比較すると、今の括弧付きの「リベラル」は昔ながらの保守論客よりよほど「右寄り」だと言わざるを得ない。

 とんでもない時代になってしまったものだなあ、だから松本清張が54年前にカリカチュアライズした極右の首相がリアルの政界に本当に登場して、あろうことか5年近い長期政権を担って「笑えない喜劇」を演じるどうしようもない世の中になってしまったのだなあと慨嘆せざるを得ない。松本清張北杜夫小松左京ももうこの世の人ではないが、今日取り上げた小説家で唯一生き残っている筒井康隆は、少し前にTwitter嫌韓厨に迎合するかのようなつぶやきを発した。こうしたことどもを思えば思うほどにますます鬱になってしまいそうな今日この頃なのである。

*1:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R22J834EIB821R/

*2:同前

*3:松本清張『神と野獣の日』(角川文庫新装版,2008)11頁

*4:同26頁

*5:同106頁

*6:同200頁

*7:題名は読売球団とは関係ない。なおこれを書いた頃の筒井康隆は熱狂的な読売ファンだった。