今回はグダグダと書き散らすのはやめて、簡単にまとめて公開しておこう*1。表題の小説を未読の方はこの記事は読まない方が良い。
村上春樹の『騎士団長殺し』を読み、『ねじまき鳥クロニクル』を7年ぶりに再読したあと、同じ作者の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮文庫)を読んだ。これは良かった。
これまでに読んだ村上の7つの長篇では『ねじまき鳥クロニクル』に次ぐ2位に当たるとともに、『ねじまき鳥』と同系列に当たる。さらに両作の間には『海辺のカフカ』という、『世界の終りと〜』の続編ともいわれているらしい作品があるそうだから、次は(いつになるかわからないが、そう遠くない先に)これを読むことになるだろう。これらと『騎士団長殺し』(これが私の中では第3位に当たる)はいずれも新潮社から出ており、さらに同社からは10年前に馬鹿売れした『1Q84』が出ている。どうやら私は村上作品のうち、新潮社から出た作品との相性が良く、講談社から出た作品との相性が悪いらしい。『風の音を聴く』と『1973年のピンボール』で躓き、さらに『ノルウェイの森』を読んでから数年間、村上の小説から遠ざかった(エッセイ集はよく読んでいた)。これらはいずれも講談社から出ており、講談社からはさらに5つの長篇が出ている。村上の長篇は全部で14作あるが、講談社から8作、新潮社から5作、文藝春秋から1作が出ている。連載媒体や出版社によって作風が違い、新潮社や武芸春秋から出す作品により力が入っているのは松本清張でおなじみのパターンだ。両社はともに保守反動もいいところの出版社なのだが、なぜか不思議な懐の深さみたいなところがあるから厄介だ。少し前に取り上げた吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』も、今でこそ岩波文庫のイメージが強いが、単行本初出は新潮社だった。
『世界の終りと〜』は有名作品なのでめんどくさい作品紹介はしないが、1つの長篇の中に、奇数番の章の「ハードボイルド・ワンダーランド」と偶数番の章の「世界の終り」が交互に現れる。前者は冒険活劇的で、後者は静謐さを湛えている。その両者が互いに絡まり合い……ということが通常語られるが、読み進めるにつれ、前者の続きが後者なのではないかとの予感が高まり、後半のある部分で「やはりそうだったか」と思わされる。この作品で良いのは文庫本下巻の終わりに近い3分の1、しかも「世界の終り」に当たる偶数番の章(第34章以降)が良い。特に一角獣の頭骨たちが淡く光る第36章は圧倒的に良い。音楽(『ダニー・ボーイ』*2)で心を取り戻すなんてもう最高だ。そしてそれらに対応する第35章、第37章の「ハードボイルド・ワンダーランド」も良くなる。こちらでも偶数番の章に対応して一角獣の頭骨が淡く光る。
しかし奇数番目の章では主人公である「私」にも胃拡張の図書館の女性司書にも、なぜ頭骨が光るのかは理解できない。「世界の終り」の第38章では、主人公である「僕」が考えていることを「どうやって実現するんだ」と読者の私は訝った。「ハードボイルド・ワンダーランド」の第39章で「私」はついに意識を失う。
ここまで読んだところで、私は読書をいったん中断して風呂に入りながらしばらく考えた。そして気づいたのは、そうか、これはメビウスの輪なんだ、ということだ。
昔、小学生時代に、学習雑誌(おそらく学研から出ていた「科学と学習」)を読んで新聞紙を縦に長く切って帯にして、180度反転させて輪にしてメビウスの輪を作り、帯の幅方向の真ん中に沿って長手方向に鋏を入れると輪の径が2倍になることを確かめて感動したことを思い出した。あれと同じだ。読者に提供された小説は、奇数章と偶数章が交互に並べられているが、実は奇数章がずっと続いたあと、「ハードボイルド・ワンダーランド」で「私」が意識が消えた第39章は「世界の終り」の始まりである第2章につながるのだ。多分この程度のことには多くの読者が気づいただろうなと思うとともに、物語の終盤でなぜ心を打つ場面が偶数番の章の「世界の終り」に集中しているのかも理解できた。問題は、第40章の続きが第1章につながるのかということだ。つながってしまったら幻滅するだろうなと思いつつ、その夜は読まずに寝て、翌朝第40章のたった7頁だけを読んだ。
物語はつながらなかった。しかし、この結末を予想することは私にはできなかった。読んでみると簡単な話で、あっそうか、そりゃそうだよなと思った。
著者の村上春樹はこの結末をなかなか決められずに何度も書き直し、夫人の助言を受け入れてようやく今の形にできたという。さらに、偶数章の「世界の終り」には原形となる作品があり、そこでは小説は全く異なる結末を迎えていたという。「文學界」1980年9月号に発表された「街と、その不確かな壁」という中篇小説で、著者自身が「書くべきでない失敗作だった」と考えたため、単行本化はされていないという。この中篇は、多くの登場人物が「世界の終り」と重なり、一角獣の頭骨も出てくるが、核心部分である一角獣の頭骨が光って「君」と呼ばれる図書館の司書の少女が心を取り戻す場面はなく、「僕」は「影」と一緒にたまりに飛び込んで終わるとのことだ。特に言及した最後の部分がもし『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の結末だったとしたら、物語の第40章は第1章の初めにつながり、物語は無限ループを描く。そうなれば本当の「メビウスの輪」なのだが、著者はあえてその円環を切断した。
こうして切断された「メビウスの輪」は一本の長い帯になる。これが村上春樹の世界観なのであり、それは「輪廻転生」的な世界観ではなく、人間世界の進歩を目指し、人間が本来あるべき姿を取り戻そうと格闘することが肯定されていることがわかる*3。「世界の終わり」で心を取り戻したのは、図書館で「夢読み」の助手を務めた「彼女」だけではなく「僕」も同じだった。そして「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」も「組織」だの「老博士」だのに翻弄され、若くして意識を失うことになったけれども、その反面で「組織」に組み込まれて多くの人々を踏みつけにして生きてきた。つまり「世界の終り」の街の人々が、森に追放された人たちや一角獣たちの犠牲の上で「安らかな」生活をしているのといくらも違わない生き方をしていた。だから読者の私は、「世界の終り」の「僕」が「影」と一緒に「世界の終わり」の街を脱出しても、元の「心のない」生き方に戻るだけじゃないかと思い、第1章につながるようななんの進歩もないエンディングで幻滅させるのだけは止めてくれ、と最後の7頁を読む前に読書を一晩中断して思ったのだった。幸い、村上春樹が私を幻滅させることはなかった。
だが、『世界の終り〜』には欠けているものがある。それは「人々から心を失わせてしまったものは何か」という問題意識だ。それを追求して「歴史」に行き当たったのが、本作の10年後に書かれた『ねじまき鳥クロニクル』だったのではないか。
この小説をもう一度読む機会があるなら、今度は奇数章だけ通して読み、次いで偶数章だけ通して読んでみようかと思う。いや、分量の少ない偶数章なら今から通して読んでもそんなに時間はかからないかもしれない。パラパラとページをめくってみると、「世界の終り」で「僕」が初めて図書館の女の子と出会うのは第4章で、「僕」は「どこかで以前君にあったことはなかったかな?」と言っている。「ハードボイルド・ワンダーランド」で「私」が図書館の司書の女の子に初めて会うのは第7章だ。このあたりからも、偶数章が奇数章の続きであることがわかってにやりとさせられる。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、かつて新潮社からシリーズで出ていた「純文学書下ろし特別作品」として1985年に刊行された。書き下ろしだから雑誌に連載された作品よりも緻密な構成にできたのかもしれない。このシリーズのこの時期のラインアップとしては、安部公房の『方舟さくら丸』(1984)や筒井康隆の『虚構船団』(1984)があったことを覚えている(前者は未読だが後者は文庫化された時に読んだ)。大江健三郎の『同時代ゲーム』もあったなあ。また、亡父の遺品として膨大な蔵書(多くは海外もののミステリだったが)の中にこのシリーズから出ていた遠藤周作の『侍』(1980)があったので、他の数冊の本とともに、処分せずに形見として頂いて読んだ。2005年の話。このシリーズで箱入りハードカバーで読んだことがあるのはこの作品だけだ。このシリーズは1961年から2000年まで発行された。シリーズの作品一覧表を載せたブログ記事を下記にリンクしておく。
以上、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の感想を書き連ねた。今回もまた、アマゾンカスタマーレビューや読書メーターも参照したが、予想に反して『ダニー・ボーイ』の歌で心を取り戻すくだりに感激している読者などほとんどおらず、「世界の終り」の「僕」の選択は意外だった、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」の意識がこの世界に戻れなくて悲しいという感想が多数だった。私はこの小説にはこの結末しかないと思ったのだが。
世の熱狂的な「ハルキスト」たちの間ではどのような評価になっているのだろうか。
とりあえず、遠くない将来に村上春樹の新潮文庫から出ている長篇の未読の2作、『海辺のカフカ』と『1Q84』は読んでみようと思った。後者は、1984年の元旦にジョージ・オーウェルの『1984』を読んだ私としては、いつかは読みたいけれども村上春樹の小説は苦手だからなあ、と思って長年手を出さずにきた作品だ。幸い苦手意識はかなり解消された。
1984年といえば、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は1984年6月に書き始められたし、『ねじまき鳥クロニクル』は1984年6月から1985年12月までが描かれている。『騎士団長殺し』は2007年から翌年にかけて、さらに末尾近くでは2011年が描かれているが、作中にオーウェルの『1984』への言及があったはずだ。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では電脳社会がディストピアとして描かれているが、それは著者が本作を執筆した当時、オーウェルの『1984』がリバイバルのブームになっていたことと関係があるのではないかとも思った。
簡単にまとめるはずが結局長くなってしまった。最後に参照したサイトを示す。
- https://blog.goo.ne.jp/d1309e/e/476ebc71002d6502fea0736a6015882b:「めびうすのわ!」(原文ママ)に言及したブログ記事。2015年。
- https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/21803/p135.pdf:九州大学言語文化研究院・岡野進教授の論文。2012年。『街と、その不確かな壁』の情報はこの論文から得た。
- http://www.sarvajnana.com/archive/books/murakami.html:ホームページ「アルキメデスの館」より。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』及び『街と、その不確かな壁』に関する村上春樹自身のコメントが紹介されている。