KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

ベートーヴェンの「大公トリオ」と星新一・村上春樹・吉田秀和、それにシューベルトの変ロ長調トリオ

 村上春樹の『海辺のカフカ』(新潮文庫)を読んだが、今回は小説そのものには時折触れる程度にして*1、小説で取り上げられた2曲の音楽である、ベートーヴェンの「大公トリオ」とシューベルトピアノソナタ第17番(ニ長調 D850)の2曲を前後編で取り上げる。今回は下巻で大きな役割を果たすベートーヴェンの大公トリオ。正式名称 (?) は、ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調作品97という。

 この曲を初めて聴いたのは中学2年生の2月だった。だが曲名はその前から知っていた。当時新潮社から出ていた「星新一作品集」(全18冊)の付録に載っていた「星くずのかご」というエッセイで言及されていたのだ。それを中学生の私は本屋で立ち読みしていたのだった。『海辺のカフカ』に大公トリオの名前が出てきてまず思い出したのは、ああ、星新一(1926-1997)が好きだった曲だな、ということだった。

 「大公トリオ 星新一」を検索語にしてネット検索をかけて、2010年に書かれた下記のブログ記事を見つけた。

 

nekodayo.livedoor.biz

 

 上記ブログ記事に抜粋された星新一のエッセイを、さらに抜粋して以下に紹介する。

 

星新一「星くずのかご No.7 音楽について」

 

音楽について書くのは、たぶんこれがはじめてである。中学の時(昭和14-18)、醍醐忠和という友人がいた。いまでもつきあっている。私に名曲鑑賞なることを教えてくれたのが彼である。あと二人ほど仲間をこしらえ、日曜日に学校の音楽教室のプレイヤーを使わせてもらい、彼の持ってきたレコードを聞いた。そのころはプレイヤーなどとは言わず、電気蓄音機と呼んでいた。

ほかにたいした娯楽のなかった時代である。何回か続けているうちに、音楽とはいいものだなと思うようになった。最初に聞かされたのは、チャイコフスキーだったようだ。醍醐はそのファンで、とくに「悲愴」交響曲を絶賛していた。

そんなことがきっかけで、私も父母にねだってプレイヤーを買ってもらい、こづかいをためてレコードを買うようになった。友人達とレコードの貸し借りをするようになり、いろいろな名曲に接し始めた。シューベルトの登場する映画「未完成交響楽」も醍醐と一緒に見に行った。音楽会にも時たま行った。貸し借りをするレコードは交響曲が多かった。だれでもはじめは、そのへんからであろう。また、中学生の思考として、同じ値段なら大勢で演奏している盤を買った方が得だ、ということもあったようである。

ベートーベンの「田園」は明るくて楽しいし、「英雄」はいわずもがな、「第七」には躍動美があり、第八は小品である点が面白い。いささか疲れさせられるが、「第九」は名作である。しかし、「運命」だけは全曲を通して聞いたことがないのである。もちろん、あの発端の部分は知っているが、その先は知らないのである。友人が貸してやると言っても、断った。あまりに有名すぎることへの抵抗である。あまのじゃく的性格が、そのころからあったようである。今日にいたるまで、いまだに運命を聞かないでいる。こんな人間は珍しいのではないだろうか。

モーツァルトブラームス、「新世界」のドヴォルザーク。こういった名に接すると、反射的に中学時代を思い出す。レコード屋にすすめられ、ラロの「スペイン交響曲」を買ったこともあった。どんな作曲家かよく知らないが、いやに新鮮な印象を受けた。真紅のジャケットも美しく、友人達に課して好評だった。もっとも、これは正確にはバイオリン協奏曲である。

バイオリンやピアノの協奏曲も、かなり聞いた。毎日のようにレコードをかけていた。あとは読書ぐらいしかすることがなかったのだ。昭和16年に日米開戦。いい時代だったとはお義理にもいえないが、おかげで私は名曲に親しむことができたのである。

高校(旧制)に入ってから、好みに変化が起こった。「運命」を除いて、シンフォニーを聞きつくしたのである。友人にすすめられ、シューベルトの「鱒」のレコードを買った。ピアノと四つの弦楽器による室内楽である。わかりやすく親しみやすく、ずいぶんくりかえして聞いた。それからしばらく、モーツァルトやベートーベンの弦楽四重奏のたぐいに熱中し、つぎにベートーベン、シューマンショパンなどのピアノ曲に興味を持った。

そのうち、どういうわけかドビュッシーピアノ曲が面白くなった。それまでのと変わった傾向のものだったからだろう。

こう思い出してみると、名曲とともにすごした時間は、結構多かったわけである。シューベルトの「冬の旅」もなつかしい。しかし、歌劇はあまり好きになれなかった。序曲はいいのだが、あの声は私の肌にあわない。

クラシックと呼ばれるものは、いずれも名作である。

しかし、欲にはきりがない。まだ聞いてないなかに、これこそ名作中の名作と呼べる音楽があるのではないか。そう思いながら鑑賞をくりかえしているうちに、ついにそれにめぐりあった。

ベートーベンの「大公三重奏曲」である。こんな名曲があったのかと感嘆させられた。神韻縹渺とはこのようなものへの形容だなと知らされた。当時は漢字制限などなかったのだ。なんともいいようのない、すぐれたおもむき、という意味だが、これだけは漢字で書かないとムードがでない。

難解なところは、まったくない。ベートーベン特有のあの力強さが抑えられ、限りない深みを作り出している。高貴にして明瞭、美の林の中をさまよっているような気分になる。聞くたびに、ため息がでた。

ピアノがコルトー、バイオリンがティボー、チェロがカザルス。いずれもたぐいまれな名手である。そのせいでもあろうが、人類の作り出した芸術のなかで、この曲にまさるものはないのではなかろうかとさえ思った。

戦争の末期である。東京への空襲も多くなった。そんななかで、私は毎日のようにこのレコードをかけ、聞いていた。いつ死ぬかわからぬ状勢。しかし、生きている間に、このような名曲に出会えたのだと思うと、ひとつのなぐさめにもなった。(後略)

 

出典:http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1369494.html

 

 「神韻縹渺」(しんいんひょうびょう)という四文字熟語にはたぶんこのエッセイで初めて接したに違いないが、それは記憶にない。しかし星新一がここまで絶賛するこの「大公三重奏曲」とはどんなにすごい音楽なのだろうかとわくわくしたことはよく覚えているし、他に言及された音楽に対する寸評にも、どれも見覚えがある。

 

 ブログ記事には、村上春樹の『海辺のカフカ』からも大公トリオに絡むくだりが引用されているので、以下に再び引用する。

 

今、この「大公」を聞きながらこの文章を書いているのですが、この曲は大仰なところや技巧走ったところのない、綺麗に美しく小ぢんまりと纏まった軽やかな小品です。星新一さんは、机の上に置く可愛らしい小物を集めるのが趣味の一つであるいうことを、このエッセイ「星くずのかご」に書いていますが、ショートショートという、小さい美しく纏まった小説形式と、こういった美しい小品の音楽の愛好や、小さな小物が好きという趣味は、星さんの人間らしい心の繋がりを感じさせてくれて、嬉しくなりますね…。

ちなみに「大公」は、村上春樹海辺のカフカ」で、重要な役割の曲だったので、IQ84でヤナーチェクシンフォニエッタが売れたように、海辺のカフカの影響によって、日本では結構売れた曲ですね。星さんはご自分でも書いておられるとおり、有名なものよりもマイナーなもの、大きいものより小さいものを愛好されておられたので、たぶん、「大公」のこういう売れ方は、もし生きてらっしゃったら、あまり好まなかっただろうなとは思いますが…。まあ、いい曲が大勢の人々に聞かれるのは、良いことだと僕は思いますね…。

 

彼は眼を閉じ、静かに息をしながら、弦とピアノの歴史的な絡み合いに耳を澄ませた。クラシック音楽を聴いたことはほとんどなかったが、その音楽は何故か心を落ちつかせてくれた。内省的にした、と言ってもいいかもしれない。(中略)

「音楽はお耳ざわりではありませんか?」
「音楽?」と星野さんは言った。
「ああ、とてもいいお音楽だ。耳ざわりなんかじゃないよ。ぜんぜん。誰が演奏しているの?」
ルービンシュタインハイフェッツ*2=フォイアマンのトリオです。当時は、『百万ドル・トリオ』と呼ばれました。まさに名人芸です。1941年という古い録音ですが、輝きが褪せません」
「そういう感じはするよ。良いものは古びない」(中略)

ベートーヴェンの『大公トリオ』です」
「なかなかいい曲だね」
「素晴らしい曲です。聴き飽きるということがありません。ベートーヴェンの書いたピアノ・トリオの中ではもっとも偉大な、気品のある作品です」
村上春樹海辺のカフカ」)

 

出典:http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1369494.html

 

 『海辺のカフカ』に出てくる「星野さん」は中日ドラゴンズの野球帽を被っており、キャラクターの名前はあの故星野仙一にちなんでいる。私としては非常に気に入らないが、作者の村上春樹はいわずとしれたスワローズファンなので、追及はしないでおく(笑)。

  で、「星野さん」は仙一よりも星新一のほうにはるかに近い感性の持ち主だったようで、彼が大公トリオを聴く場面はこのあとも何度も出てくる。村上春樹の大公トリオのとらえ方は星新一と近いように思われる。

 星新一のエッセイではコルトー、ティボー、カザルスの演奏のレコードに言及されているが、これは1928年の録音だ。一方、『海辺のカフカ』に出てくるルービンシュタインハイフェッツ、フォイアマンの録音は、引用文にもある通り1941年の録音。いずれもモノラル録音で音質は悪い。私は古いモノラル録音が苦手なので、この2種類のCDはどちらも持っていない。

 

 さて、中学2年生当時の私をわくわくさせた、まだ聴かぬ「神韻縹渺たる」名曲を聴く機会は星新一のエッセイを読んだ数か月後にめぐってきた。NHK-FMで2回に分けてピアノトリオの名曲を集めて聴かせる特集をやったのだ。初回に大公トリオとシューベルト変ロ長調トリオ(D898, 作品99)、それにメンデルスゾーンの第1番(ニ短調作品49)を聴き、翌週の2回目にチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出に」(作品50)とドヴォルザークの「ドゥムキー」(作品90)を聴いた。チャイコフスキードヴォルザークはともに異色の作品で、3楽章ないし4楽章の通常の構成をとらない。モーツァルトブラームスからは選ばれなかった。この2人には珍しく、この分野においては彼らにふさわしい水準に届く作品は残さなかったのだった。

 だが、2週に分けて放送された5曲の中で私がもっとも気に入ったのは、大公トリオと同じ変ロ長調をとるシューベルトのトリオだった。

 手元に吉田秀和(1913-2012)の『LP300選』(新潮文庫1981, 単行本初出新潮社1961)があるが、吉田は上記5曲のうちチャイコフスキードヴォルザークを除いた3曲を音楽史上の300の名曲に挙げている。その中から大公トリオとシューベルト変ロ長調トリオを評した部分を以下に引用する。

 

 また、室内楽のほかの組合わせでは、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの三重奏が六曲あるが*3、そのなかでは『大公トリオ変ロ長調(作品97)が、一番有名だし、ベートーヴェンの作品としては『クロイツァー・ソナタ』並みの出来であるが、トリオの名作は、案外少ないから、これはとりあげるべきだろう。ただし、中間の変奏曲の楽章は、私には長すぎてときどき眠くなる。

 

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫 1981)169頁)

 

室内楽では、ピアノと弦楽四部――ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス――のピアノ五重奏曲ます』も有名だ。この曲は早熟なシューベルトのうちでも、器楽曲ではもっとも初期の名作だ。しかし、私は、ピアノ三重奏曲変ロ長調(作品99)も忘れたくない。両者をすぐれた演奏家による演奏できくと、その差がわかっていただけるだろうが、こちらの方がはるかに豊かな音楽的実質をもつ。しかも、ちっとも堅苦しくなく、朗々と歌うよろこびでも前者におとらない。それから、弦と管の『八重奏曲』も、楽しい曲である。

 

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫 1981)181頁)

 

 後者の引用文に書かれたシューベルト変ロ長調トリオ評には全面的に同感だ。

 前者のベートーヴェンの部分で、吉田秀和は大公トリオが「『クロイツァー・ソナタ』並みの出来である」と書いているが、この有名なヴァイオリンとピアノのためのソナタに関する記述も以下に引用する。

 

ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタは=引用者註)どれも、私には、モーツァルトソナタはもちろん、後のブラームスや、ないしはフランクのソナタほどにはおもしろくない。まあ、妥協して、『クロイツァー・ソナタ イ長調(作品47)を、とっておこうか。もちろん、大変よくできた曲であることは、いうまでもないのだが、なんだか、ピアノが重すぎる。私個人としては、おとしても、おしくない。

 

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫 1981)163頁)

 

 つまり吉田秀和は「クロイツェル・ソナタ」も「大公トリオ」も必ずしもベートーヴェンの最高の作品とはみなしていなかった。

 大公トリオは確かに星新一村上春樹が(村上の場合は作中人物である喫茶店の経営者の口を借りて)書いている通り、気品と落ち着きのある、ある意味でベートーヴェンらしからぬ安定感のあるすぐれた音楽なのだが、逆にそこにひっかかりの原因が生じるのかもしれない。なお、「クロイツェル・ソナタ」は「大公トリオ」とは全く異なり、特にその第1楽章は焦燥と情熱に満ちた音楽であって、トルストイにこの音楽に触発された中篇小説を書かせたほどの力を持っている。作曲時期としても曲想としても両者の中間にあるのがチェロとピアノのためのイ長調ソナタであって、吉田秀和も下記のように書いている。

 

 それより、むしろ、ほかの人にもすぐれた作品が少ないせいもあるが、イ長調のチェロ・ソナタ(作品69)のほうをここで、とっておく必要がありはしまいか。

 

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫 1981)163頁)

 

 このソナタは、第5, 第6交響曲のすぐ次の番号であり、ベートーヴェンの中期の中でも頂点をなす時期の1808年に書かれた(「クロイツェル・ソナタ」は1803年完成)。

 「大公トリオ」は1811年に完成し、翌年に書き上げられた交響曲第7番(作品92)や同第8番(作品93)とともに、中期の最後に書かれた。

 ベートーヴェン1812年にイギリス軍がナポレオン率いるフランス軍を破ったことを祝う「ウェリントン勝利」なる管弦楽曲を書いたが、これはベートーヴェンの生涯でたった1つの駄作だったと評されることが多い。そして、自ら公邸に即位して独裁者となったナポレオンの時代が終わったことを祝ったまでは良かったが、その後のヨーロッパを待ち受けていたのは、「政権交代」で生まれた民主党政権が3年あまりで終わったあとに始まった現在の日本の「崩壊の時代」を思わせる、長くて暗くて重苦しい反動的な時代だったのだ。

 そしてこの「反動の時代」に入るや、ベートーヴェンは長い長いスランプに陥り、音楽が書けなくなった。やがてその苦難の時期を乗り越えて、後期の超越的な作品群が生み出されることになるのだが。

 晩年のベートーヴェン1827年没)やシューベルト1828年没)が生きたのは、そんな時代だった。以下、ベートーヴェンの第8交響曲を取り上げたブログ記事から引用する。

 

ludwig-b.blogspot.com

 

交響曲第8番は9曲の中ではやや演奏頻度の低い部類に入る曲かもしれませんが、個人的にはとても好きな作品です。兄弟作とも言える第7番と比較されてしまいますが、第7番のような力強さや「不滅のアレグレット」のような陰りはもたない、全楽章を通し明るい曲となっています。

第8番は作曲開始が第7番の後、1811年、完成が1812年となります。
この前後にどのような歴史イベントがあったかまとめてみました。

 

1809年
 オーストリア戦役(ナポレオン絶頂期)
 ハイドン死去
1810年
 ヴァイオリンソナタ第10番
 弦楽四重奏第11番<<セリオーソ>>
 『エグモント』
 シューマン生まれる
1811年
 ピアノ三重奏第7番<<大公>>
1812年
 交響曲第7番・第8番
 「不滅の恋人」の手紙
 ロシア戦役
1813年
 『ウェリントンの勝利』
 ヴァーグナーヴェルディ生まれる
1814年
 ナポレオン退位(エルバ島へ)
 ウィーン会議
1815年
 弟カール死去
 ワーテルローの戦い
 「第9」の作曲始まる(完成は1824年)。

 

ナポレオン時代の終焉を迎え、「不滅の恋人」、弟カールの死、そしてスランプとベートーヴェンには様々な変化が訪れた時代です。前期・中期・後期などの分類では中期の最後、そして後期の始まりとなります。

メッテルニヒの主導するウィーン体制(「会議は踊る」で知られる)とはナポレオン時代に広まった思想を否定しそれ以前に戻そうとする政治体制であり、ベートーヴェン自由主義思想に共感を感じていたことから危険分子とされ逮捕されたとの逸話もあります(酔っ払っていたところを逮捕されたとも・・・)。

この政治的思想の取り締まり、経済的混乱、カールの死去とが重なり第8番のあとのベートーヴェンは創作どころではないスランプへ陥り、バッハの音楽の研究と後期後半の作品群へと繋がることになります。

このような時代の直前の第8番が明るくユーモアに満ち溢れているというのは皮肉なことかもしれません。

 

出典:http://ludwig-b.blogspot.com/2014/10/lv.html

 

 ブログ主さんが第8交響曲について、「明るくユーモアに満ち溢れている」と評した部分を「落ち着いて気品をたたえた」に変えれば、「大公トリオ」の作品評となる。

 「大公トリオ」とは、「嵐の前の静けさ」というべきか、はたまた落日の前の夕景の美しさにたとえるべき音楽か。

 

 次回は『海辺のカフカ』に出てきたもう一曲のクラシック曲である、シューベルトニ長調ピアノソナタ(第17番, D850)を取り上げる。

*1:海辺のカフカ』は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ねじまき鳥クロニクル』の両作を承け、父殺しをテーマとした点で『騎士団長殺し』の先駆となる小説といえるし、舞台を高松市(架空の「甲村図書館」は琴電志度線の牟礼あたりがちょうど場所的に適合しそうだ)や高知の山間部(こちらは大豊町あたりだろう)であるなど、記事を書く題材には事欠かないが、きりがないのと時間の関係で、今回は小説に登場する音楽に焦点を絞った次第。

*2:原文ママ村上春樹の『海辺のカフカ』では一貫して「ハイフェツ」と表記されている。引用箇所は新潮文庫版では下巻210頁=引用者註。

*3:大公トリオは一般に第7番と呼ばれるが、第4番作品11はヴァイオリンの代わりにクラリネットが指定されており(但しヴァイオリンによる代用可とされている)、これを除外すると全6曲になる=引用者註。