KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

吉行淳之介の短篇「あしたの夕刊」とつのだじろうの漫画『恐怖新聞』、それに石川淳、ムソルグスキー

 下記のアンソロジーを読み終えた。

 

名短篇、ここにあり (ちくま文庫)

名短篇、ここにあり (ちくま文庫)

 

 

 これは11年前に出た文庫本だが、松本清張の「誤訳」が選ばれているので図書館で借りて読んだ。もっとも、「誤訳」は既に読んだことがあった。短篇集『隠花の飾り』に収録されており、この本は3年前、2016年2月に読んでいた。

 

隠花の飾り (新潮文庫)

隠花の飾り (新潮文庫)

 

 

 この短篇集については、清張がトーマス・マンの小説からの盗用を疑われた経験に基づいた「再春」についてのみ、下記記事で取り上げた。まだこの読書ブログを開設する前に『kojitakenの日記』に公開した記事。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 今回読んだ短篇集の話に戻ると、今回は清張作品についてはパスして、吉行淳之介の「あしたの夕刊」を取り上げる。翌日の夕刊、つまり未来の出来事が書かれた新聞が配られてきたという、昔どっかの漫画で読んだような話で、それを思い出したからだ。その漫画とは、つのだじろうの『恐怖新聞』だ。以下、Wikipediaから引用する。

 

恐怖新聞 - Wikipedia より

概要

つのだじろうによる恐怖漫画作品。『週刊少年チャンピオン』誌(秋田書店)において、1973年から1975年まで連載(全29話)された[1]。1日読むごとに100日ずつ寿命が縮まる「恐怖新聞」によってもたらされる、不幸な未来の恐怖を描く。主人公・鬼形礼にまつわる長期的なストーリーと、鬼形が狂言回しとして登場する独立した短編作品からなる。(以下略)

 

あらすじ

石堂中学校に通う少年、鬼形礼(きがた れい)。彼は幽霊などの超常現象を全く信じていなかった。そんなある晩、午前零時に彼のもとに突然「恐怖新聞」と書かれた新聞が届けられる。その新聞には、霊魂の存在を実証する記事、または未来の出来事などが書かれていた。翌日、その記事は現実となってしまう。そして、級友から「恐怖新聞」にまつわる恐ろしい噂を耳にしてしまう。それは、「恐怖新聞」は1日読むごとに100日ずつ寿命が縮まるというもの。その日から鬼形礼の恐怖の日々が始まった。(以下略)

 

 吉行淳之介の「あしたの夕刊」の方はどうかといえば、これは1966年1月号の『小説新潮』に掲載された短篇だが、なんと1935年に書かれた牧逸馬*1の絶筆「都会の怪異 七時〇三分」の紹介が長々と書かれている。この小説こそ、『恐怖新聞』の先輩格なのだ。以下「あしたの夕刊」から引用する。

 

 その小説の骨子は、主人公の男の家に、明日の夕刊が配達される、というところにある。

 その男のところにだけ、ある夕方、翌日の夕方に発行される筈の夕刊が配達される、という不気味な設定である。

 たとえば、十月二十五日の火曜日の今日、十月二十六日水曜日の夕方でなくては手に入らない筈の夕刊が配達されてくる。したがって、その新聞には、明日起る筈の出来事が既に印刷されている。明日の午後起る交通事故も、地震も、強盗も、人殺しも、あるいは遺失物を交番に届けた正直な運転手のことも、みんな既に今日の午後に分ってしまっているのである。

北村薫宮部みゆき編『名短篇、ここにあり』(ちくま文庫2008)180-181頁)

 

 ところが、主人公は奇妙なことに気づいてしまう。以下引用を続ける。

 

 小学生だった彼にとって、その設定は不気味な魅力に溢れているようにおもえ、たちまちその作品世界に引入れられたのであるが、一つ奇妙なことに気付いた。

 作者牧逸馬は、明日の夕刊の日付について、誤りを犯している。たとえば、その夕刊が十月二十五日火曜日に配達されたとして、その日付を、

「十月二十六日、水曜日」

 と、書き記しているのである。

 当時では十月二十五日に、万一翌日の新聞が配達されたとしたら、その印刷された日付は、

「十月二十七日、木曜日」

 でなくてはならない。

(前掲書181頁)

 

 これは確かにその通りだ。現在でも三大紙の最終版は朝刊が14版で夕刊が4版になっていると思うが、半世紀近く前に確か『少年朝日年鑑』で知った記憶によれば、その日付の新聞の最初の版が夕刊の1版で、以下3版までが夕刊、4版から13版までが朝刊だった。そして1版から3版までは最初は翌日の日付が印刷されていた。その後、おそらく戦後に夕刊が復活した時のことだろうが、当日の日付が印刷されるように変わったが、版数は昔のまま朝刊の方が夕刊より大きな数字になっている。考えてみたら、14版のあとに4版を読むなんて変な話だ。

 「都会の怪異 七時〇三分」が書かれた1935年には、夕刊には翌日の日付が印刷されていたから、牧逸馬は誤りを犯していたのだ。それはその通りだが、吉行淳之介はそんな小説執筆時点から30年前の小説の誤りを指摘して、そこまでで小説の半分を費やしている。

 なお編者の北村薫宮部みゆきの昔の夕刊の日付については知らなかったらしい。文庫本巻末に収められた対談で語られているが、ネットでも当該部分を参照できるので、以下にリンクを張って引用する。

 

www.bookbang.jp

宮部 それと、吉行さんの「あしたのタ刊」は私、好きですねえ。

北村 これも面白かった。最初は女性のことも出てこないし、吉行さんらしくない作品かなと思ったんです。しかし、読んでみると、非常にすぐれたエッセイストであり、座談の名手であった作者の一面が覗(のぞ)ける作品のような気がして、これもいいなと。勉強になったのは、この頃の夕刊のシステム。

宮部 あれは私も知りませんでした。日付が今と違っていたという。

北村 十月二十五日の夕刊には、翌二十六日の日付が入るものだったんですね。そういうシステムだったとは、ちょっと調べもつかないし、ここで読まなければ知りようもなかった。作品のアイディア自体はよくある発想なんだけれど、エッセイ的な書き方をしていて非常に面白い。

宮部 確かに、海外のショートSFなんかでは珍しくない素材ですが、それをどういうふうに落とすのかなと思ってると、「あ、この手があったか。ここへ案内するのか」というラストに導かれる。私、昔から吉行さんの『恐怖対談』が大好きで、吉行さんの怖い話好きが、こういう作品に結びついたんだなと感じながら読んでました。

北村 私にとっても意外な発見となる短篇でした。「あしたの夕刊」も決まりですね。

 

 ここで北村薫が「作品のアイディア自体はよくある発想なんだけれど」と言っているけれども、実際私も、同様の例として石川淳の「鷹」を知っている。以下ネットで見つけた記事にリンクを張って引用する。「鷹」は1953年の作品だ。

 

honcierge.jp

万人の幸福のために!石川淳の革命的小説『鷹』

 

たばこの専売公社に勤めていた国助は「万人の幸福のためにもっとも上等のたばこをつくり出したい」と思ったためにクビにされてしまいます。仕事を失った国助は古ぼけた食堂で出会ったKに紹介され、運河のほとりにあるたばこ工場で働き始めます。そこでEという人物や、キュロットに長靴をはいた少女と出会い話は進んでいきます。

 

働き始めた工場では「明日語」という言語が使われていて、「明日語」によって明日起こる出来事を予告した新聞がすられているのです。国助もまたその「明日語」の入門書を渡されます。

 

未来がわかってしまう「明日語」や、ラストの終わり方などはファンタジーを読んでいるような気分になります。しかし幻想的な表現と反して、現実の秩序に対して戦う人間の姿をテーマに戦後の平和運動に絡めて書かれた石川淳の作品でもあります。

 

当時、発禁処分や文学会からの弾劾を受けた石川淳は「小説とはなんなのか」と存在意義を問いかけ、物語の中では万人の幸福を願う個人の思想を、秩序によって弾圧してしまう社会に対する革命へ向かう主人公の姿を力強い文体で、美しく描き出しています。

  

 石川淳が発禁を食った小説とは、辺見庸がよく言及する「マルスの歌」のことだろう。そもそも私が石川淳を読むようになったきっかけは、2008年に大阪で行われた辺見庸の講演会を聴いたことだ。亡父が持っていた岩波書店版の『石川淳選集』全17巻のうち、小説と戯曲を収めた第1巻から第10巻まではすべて読んだ。「マルスの歌」は第1巻に、「鷹」は第4巻にそれぞれ収録されている。石川淳は明らかに左翼志向の作家だったが、中国の文化大革命にはあとになってではなくリアルタイムで批判していたことも良い。亡父は晩年には極右だったのにそんな石川淳を愛好していたのも個人的には感慨深いものがある。なお、岩波の石川淳選集は旧字旧仮名遣いによるが、これは生前の作家の強いこだわりによる。現在の文庫本で読める石川淳はことごとく新字新仮名遣いであるのが私には大いに不満だ。

 話を吉行淳之介作品に戻すと、牧逸馬作品の誤りを指摘した後の後半が吉行の創作になるが、そこでなんと「2週間後のプロ野球日本シリーズの結果」が印刷された新聞が登場し、許すべからざることにそこでは「パシフィック・リーグの優勝チームであるブルーソックスとのあいだで行われた日本シリーズで、ジャイアンツが四勝二敗で優勝を掴んだ」(前掲書187頁)などと書かれている。私が気色ばんだことはいうまでもないが、ただ「ジャイアンツ」(読売球団を指すのかどうかは知らない)が優勝を決めた第6戦で、同球団の山田外野手が怪我をすると2週間後の新聞記事に書かれていた。

 ここでまたまた思い出したのがつのだじろうの漫画『恐怖新聞』だったのだ。実はこの漫画にもプロ野球の話が出てくる。しかも、吉行淳之介の小説に書かれているような外野手の怪我どころではない、「東京ギャランツ」のエースと四番打者(その名も「王島」という)が死ぬという物騒な話になっている。以下Wikiepediaから引用する。

 

恐怖新聞 - Wikipedia より

 

原田徹治(はらだてつじ)プロ野球チーム、東京ギャランツの投手。「恐怖新聞」上で予言された通り、試合中に怪死する。

王島(おうじま)プロ野球チーム、東京ギャランツの四番打者。原田と同じく試合中に怪死する。

柴木勝彦(しばきかつひこ)東京ギャランツの選手。丑の刻参りをしていた女が残した呪符に名前が記載されていたため、次のターゲットではないかと疑心暗鬼になる。 しかし、鬼形と中神洋介が寺の住職に「呪い返し」を依頼したため、一命を取り留めた。

牧光則(まきみつのり)東京ギャランツの二軍投手。入団した時は将来の大投手と期待されていたが、練習中に原田の投げた球が当たり右手指を骨折、以降投手としては務まらなくなり打撃手に転じるも、今度は王島の打った打球が顔面を直撃した事で視力が減退し野球が出来なくなってしまう。また、そんな牧を見た柴木が「労務者でもやるしかない」と発言したのを聞いてしまい、ショックのあまり自殺してしまう。

牧信子(まきのぶこ)牧光則の妻。夫が自殺した事を受け、東京ギャランツの原田、王島、柴木を呪い殺すために丑の刻参りを行う。球場で柴木が呪いによって死亡するのを見届けに来るも、「呪い返し」を受けたため柴木の打球が顔面に直撃し、原田、王島と同じく怪死する。

 

 また、『恐怖新聞』を取り上げたブログ記事から引用する。

 

blog.goo.ne.jp

新聞の言う通り、新しい担任の綾子と、転校生・中神という女子生徒が来た
兄・洋介は新聞記者で、有名な野球選手の原田が死ぬ予告を聞いて一緒にナイターに行こうと言う

予言通り、原田は打球が顔面に直撃して即死するが、
死因はボールが当たる前に額に釘を刺したような傷のせいで、
連続写真で確かめると、凶器が他から飛んできた形跡は写っていない

兄妹が礼の部屋で話していると、新聞が届き、霊感の強い妹にはその文字が読めるという
そこには、また同じチームの4番・王島選手も同様の謎の死を遂げると予告

(その下の記事には、九州で起きた事件をつのださんのせいにした記事を載せた新聞や雑誌があり
 取材もせずに談話を捏造したり、発言内容を捻じ曲げて載せたりするほうが
 よほど恐怖で悪質では?と書かれている

前回より万全の準備をして試合を見に行くと、王島はやはりボールが当たる前に死ぬ事件が起きる
その夜の新聞には、事件の鍵を握る人物に礼が会うと書いてある

言われた神社に行くと、女が木に釘を打ち込んでいて、
ロウソク、一本歯のゲタ、五徳、次の標的の柴木選手の名前の書かれた呪文の紙が見つかる

新聞社で調べると、これらは「丑の刻参り」に使う道具だと分かる
真夜中の午前2時に、呪符に呪い殺したい名前を書き、藁人形に貼り付け、神社で相手を呪う術

(これは「八つ墓村の祟りじゃあ!」の横溝系かっ!?

 

呪いをかけている姿を他人に見られると術は破れるから、次の試合は大丈夫だと分かったが
新聞にはまた呪いがかけられたとあり、行くと、礼は女に捕まる

女は礼に夫・牧はギャランツのチームメイト3人に殺されたと話す
牧は将来を期待される名選手だったが、それを妬んだ原田の球が指の骨を砕き
ピッチャーからバッターになった時には、王島が妬んで打球が顔面に当たって視力が落ち
野球が出来なくなってしまった

柴木は「学生時代から野球しかやらない二軍選手なんて潰しがきかないから労務者でもやるしかない」
と言ったのを聞いて、夫は自殺した

女は再び術を始め、礼は防ごうとして手に釘を打たれる
犯人が牧選手の妻と知り、柴木は「運命に従うよ グラウンドで死ねたら本望だ」と試合に出る

礼らは術の解き方を教わる
和紙を折って人型を作り、呪文を唱えて、
大吉の方角にある海か河に流し、振り向かずに立ち去る

なんとか間に合って、試合に行くと、牧の妻はバックスクリーンの塀の上に立ち高笑いしていた
超常現象を認めない社会では、証拠不十分で無罪になるため

だが、柴木の打った球が急に角度を変えて額に直撃 額に穴が開いて死んだ

その夜の新聞には真言のろいがえし」で女が死んだと書かれている

 

 要するに、犯人の夫だったプロ野球選手の「牧」を自殺に追い込んだ一番悪い奴である「柴木」*2だけ生き残るという外道なストーリーだった。なお、ブログ記事には言及されていないが、ギャランツの対戦相手は中部ドリアンズという設定で、これは明らかに中日ドラゴンズをもじった球団名だろう*3

 上記ブログ記事には、その直後に「ムソルグスキーの『展覧会の絵』を弾くと鍵盤から血が溢れ出す」話に言及があるが、中学1年生でまだクラシック音楽を聴く習慣のなかった頃に『週刊少年チャンピオン』を立ち読みした私は、この『展覧会の絵』に怖気をふるったものだ。ところが、のちに実際に『展覧会の絵』を聴いてみると、本当にグロテスクな箇所が結構ある音楽だった。ことに第4曲の「ビドロ」は、従来「牛車」を意味するとされていたが、初めて聴いた時から「ずいぶん恐ろしげな音楽だなあ」と思ったものだ。シャープが5個もある嬰ト短調で書かれたこの曲は、譜面からして(実際に見たことはないが)ダブルシャープが頻出するとげとげしいものであるに違いない。また、「ビドロ」が終わったあとに演奏される「プロムナード」は、それまで3度出てきた時の長調ではなく、打ちひしがれたようなニ短調で演奏される。

 このような「ビドロ」に私はずっと禍々しいものを感じていたのだが、その想像が正しかったことを証明したのが1991年に放送された『NHKスペシャル』だった。以下、Wikipedia及びピアニストの方が書いた文章から引用する。

 

展覧会の絵 - Wikipedia より

またハルトマンの絵についても、1991年に日本のNHK團伊玖磨の進行でスペシャル番組「革命に消えた絵画・追跡・ムソルグスキー展覧会の絵”」を放送した。ハルトマンの絵のうち『展覧会の絵』のモチーフとなったとされる10枚の絵をすべて明らかにする、という『展覧会の絵』の謎解きの核心にせまった番組であった。こちらについては絵柄と楽想の乖離や、学問的な手続きが不十分であるという批判もあり、曲と絵との関連性がすべて明らかになったとは言えないが、それまで曲に比べてハルトマンの絵の研究はほとんどされていなかったので先駆的な仕事であったと言って良い。また「ビドロ」という言葉の意味(ポーランド語の"bydło"には「牛車」の他に「(牛のように)虐げられた人」の意味がある。ガルトマンがポーランドで描いたスケッチのタイトルは『ポーランドの反乱』)や音楽的な印象などから絵を推理していく「面白さ」は画期的であった。

 

http://www.takashi-sato.jp/pnote/mussorgsky_paae.html より

 第4曲「ビドロ」 ビドロとはポーランド語で「牛車」の意味だが、そのような題名の作品は遺作展のカタログに掲載されていない。 前述のNHK取材班はビドロに「家畜、虐げられた人々」という意味があることから、ポーランドでの処刑の場面を描いた絵画を題材として挙げ、 当時の悲劇的な社会状況を密かに告発しようとしたのではないか、と推測している。低音を多用し、重々しい足取りで進んでいく一種の行進曲である。
 プロムナード 全曲の重苦しい雰囲気を引きずりながら慰めるように始まり、軽やかな次の曲を予感させる。

 

 「プロムナード」に「全曲」と書かれているのは「前曲」のtypoだろう。

 私は当該『NHKスペシャル』を見ていたが、NHK取材陣の推測は正鵠を射ていたと思う。

 つのだじろうが惨劇を引き起こす音楽に『展覧会の絵』を選んだのはいくらなんでも偶然だろうが、背筋が寒くなる話だ。

 以上、吉行淳之介の「あしたの夕刊」に込められた作者本来の意図には何も言及しないままこの長ったらしい記事を終えるが、「あしたの夕刊」自体に言及した記事として下記ブログ記事にリンクを張っておく。

 

ballpenman.jugem.jp

*1:他に林不忘谷譲次ペンネームを持つ。本名・長谷川海太郎(1900-35)

*2:柴田勲を連想させる名前だが、「しばき隊」の「しばき」でもあり。関西弁の使い手にとってはきわめて語感の悪い姓でもある。

*3:リアルの世界では、この漫画が連載されていた1974年に中日が読売の10連覇を阻んだが、同じ年に漫画の世界では読売の馬場蛮がマウンド上でライバルの中日・大砲万作を打ち取ると同時にマウンド上で死ぬという出来事も起きた。のちリアルの中日ドラゴンズ大豊泰昭が入団した時(1988年)には『侍ジャイアンツかよ』と思ったものだ。この時期に読売のライバルとして中日が頻出したのはもちろん中日がそれだけ強かったからで、のちヤクルトスワローズが初優勝した1978年には『新・巨人の星』で花形満がこの年最下位だった阪神タイガースにではなく、ヤクルトに所属していた。

小松左京「眠りと旅と夢」(1978)に「携帯電話」が出てきた

 まず現在読んでいる本から引く。

村上さんのところ (新潮文庫)

村上さんのところ (新潮文庫)

 

 

 この本は473件の質問に村上春樹が答えるという趣向で、その後プロ野球セ・リーグヤクルトスワローズが優勝することになる2015年の1月から4月まで質問が受け付けられた。93番目の質問「カープは大盛り上がりですけど」に対して村上はヤクルトの順位予想を5位としているが、これを見て「勝った」と思った。なぜなら私は2015年には強気の順位予想をして優勝もあり得ると確かこの日記に書いたはずだからだ。その根拠は、2年連続最下位になった前年の2014年、ヤクルト打線の破壊力はすさまじかったからだ。それをぶち壊しにした投手陣の崩壊もまた半端でなかったわけだけれども、これは投手陣が整備されれば行ける!と思ったのだった。すると、秋吉、ロマン、オンドルセク、バーネットが1イニングずつ投げる「勝利の方程式」が見事にはまるという奇跡が起きて本当に優勝してしまったのだった。その前後の2年ずつが最下位、最下位、5位、最下位だったからいかに奇跡的な優勝だったかがわかる(昨年は2位だったけど今年はどうかな)。セ・リーグでは1960年の大洋ホエールズ以来だろう(ホエールズは6年連続最下位のあと突如優勝し、翌年また最下位に落ちた)。

 いや、プロ野球の話をするつもりなどなかったがついつい。本論はここからで、369番目の質問を以下引用する。

 村上さん、こんにちは。出版社で校正の仕事をしています。

 私の担当している文芸誌では、単純な誤字脱字や事実誤認を指摘する以外にも、「この人物は右利きのはずですが、左手でサインをしています」とか、「携帯電話が出てきますが、この地代にはまだ発売されていないはずです」とか、内容についての細かい「つっこみ」を入れることも校正の仕事のひとつとされています。(後略)

村上春樹村上さんのところ新潮文庫 2018, 467-468頁)

  なんと、この校正者自身が「時代」を「地代」と誤記してしまい、村上春樹

校正者の間違いを指摘するのは作家にとっての無情の……じゃなくて無上の喜びです。

村上春樹村上さんのところ新潮文庫 2018, 468頁)

と突っ込まれてしまったのだが、それはともかく、読んだばかりの昔のSF小説に携帯電話が出てきたことを思い出したのだった。その小説は、今日図書館に返しに行く予定だが、小松左京の「眠りと旅と夢」(1978)であって、文春文庫から2017年に新装版が出た短篇集『アメリカの壁』に収録されている。表題作のタイトルから連想される通り、アメリカ大統領・トランプの出現を40年前(1977年)に予言した小説だと小松左京ファンが言い出したのをきっかけに話題となって復刊された本だ。

 

アメリカの壁 (文春文庫)

アメリカの壁 (文春文庫)

 

  どのあたりに携帯電話が出てたっけ、と思って開いた頁にたまたま出ていた。120頁だった。なんたる偶然(まあ他の頁にも出てきたのかもしれないが)。以下引用する。

 僕のポケットで、携帯電話の呼び出し音がピーッと鳴ったのはその時だった。小松左京「眠りと旅と夢」=文春文庫新装版『アメリカの壁』2017, 120頁)

 そりゃSFだから携帯電話が出てきても不思議はないといえばそれまでだが、本当に昔のSFに携帯電話が頻出だったのか、「SF 携帯電話」を検索語にしてネット検索をかけてみた。すると、正反対のことが書かれたサイトが2つみつかった。

 

aesthetica.hatenablog.com

 

 以下上記「はてなブログ」の記事(もちろん元は「はてなダイアリー」の記事だったはずだ。2005年の記事だからね)から引用する。

 

以前、田崎英明さんと話していて興味を持った話題に「どうしてSFに携帯電話のイメージが欠落していたのか?」というものがある。80〜90年代のSFやアニメではテレビ電話に類するイメージは盛んに出てくるが、携帯電話はまったくと言って良いほど出てこない。それはどうしてか、という問題だ。
もちろんテクノロジー的には携帯電話はトランシーバーの延長であり、それはSFにつきものである(腕時計に向かって喋るとか)。だが、街や駅で多くの人が歩きながら携帯で話をしている、という現代日本の日常生活の情景は、どんなSFにもアニメにも出てこない。つまり、今日のような携帯電話文化は、SF的には予測不可能だったということになる。なぜか?(後略)

(『aesthetica's blog』2005年12月28日「どうしてSFは携帯電話を予想できなかったのか?」より)

  ところがどっこい、反証がみつかってしまったわけだ。校正者の間違いを指摘した村上春樹の気分になれたかも。いささか悪趣味かもしれないが(笑)。

 

 一方、こんなサイトもみつかった。

 

logmi.jp

 

 上記サイトによると、「携帯電話は『スタートレック』から生まれた」とのこと。以下引用する。

 

AT&T社といった電話会社が技術改善に取り組んでいましたが、遥かに自由に動かすことのできる新たな通信方法を編み出したのはMotorola社の技術者であり役員だったマーティン・クーパーでした。

1970年代のある日、クーパーは考えてばかりで煮詰まっていたため、休憩を取ることにしました。ソファーでくつろいで、ジーン・ロッデンベリー作のテレビドラマ『スタートレック』を見ることにしたのです。

そのエピソードではカーク船長がもちろん窮地に立たされており、携帯型のポケット通信機を取り出し、ブリッジ(指令センター)に連絡していました。

クーパーの頭の中でアイディアがひらめきました。カーク船長は交換台に電話の取次ぎをしてもらう必要もなければ、小さく粋な通信機は輸送シャトルにつながれてもいない。ただ手中にすっぽりと収まって、機能しているのです!

未来の電話通信は、巨大な通信網に支えられた、1対1のやり取りができる小型携帯機器によって行なわれる必要があるとクーパーは確信していました。他の人にとってはスタートレックに登場する技術など夢物語に過ぎませんでしたが、移動通信技術界の第一線に立つクーパーにとっては具体的な目標でした。そして、彼はそれを実現させたのです。

初めての携帯電話からの通話は、1973年にクーパー自身によって行なわれました。ニューヨークの歩道で、「Dynatech(ダイナテック)」と名付けられた巨大な長方形の通信機から電話した先は、競合相手であるベル研究所でした。ライバルに勝ち誇るように。

1980年代半ば、ダイナテックは市場で売り出されました。通話可能時間はわずか30分。80年代の映画にしばしば登場した、ウォール街の重役やパステルカラーの服を身にまとった麻薬密売人が使っていた巨大なモノ、覚えていますか? あれからずいぶんと進歩しましたよね。私の携帯は今やプロンプター(原稿表示装置)のリモコンとして機能していますから。スタートレックに感謝です。

(『ログミー』より)

 

 「初めての携帯電話からの通話は、1973年にクーパー自身によって行なわれ」たというのなら、1977年末か78年初めに小松左京が書いた小説に携帯電話が出てきても不思議はない。

 

 また、下記Togetterも挙げておく。

togetter.com

 

 上記サイトからSF作家・笹本祐一のツイートを拾う。

 

 

 そういや大阪万博には私も昔行ったが、そうか万博か。小松左京が万博に深く関わったことはよく知られている。それで携帯電話が小説の中に自然に出てきたわけか。

 

 一方、下記の人のツイート(元ツイートのURLはたぐれなかった)は的外れ。  

しめすへん@ネ人造人間 @shimesuhen 2015年10月11日

携帯電話の普及ってのは大規模なインフラ整備があって初めて成り立つもので、需要がないところに金をかけても普及しないというのが一般的な考え方。実際には供給によってはじめて需要が発生する場合もあるがそういうのは社会学の領域。SF作家は科学にはこだわっても社会学には拘らないので携帯電話の普及は予測できなかったということ

 

 なお、『アメリカの壁』には表題作と「眠りと旅と夢」の他に、「鳩啼時計」「幽霊屋敷」「おれの死体を返せ」「ハイネックの女」の計6本を収める。この中で、評判になったという表題作「アメリカの壁」は、そりゃトランプを予言したといえばそうかもしれないが、そんな大した作品とは思えず、むしろ「眠りと旅と夢」の方がずっと良いと思った。また「鳩啼時計」で特殊相対性理論に基づく時間の遅れをモチーフにするなど、小松左京は京大文学部卒業ながら同じ御三家の星新一(東大農学部卒)や筒井康隆同志社大学文学部卒)と比較してもっともSFらしい小説を書いた人だったのではないか。筒井康隆の後期作品などは、いかにも文学部的な実験作だよなあと思う。それはそれで面白いのだけれど。このあたりは、前出の『村上さんのところ』の380番の質問への答えで村上春樹が言っている、ハイドンモーツァルトの関係に似ているかもしれないとふと思った。以下、『村上さんのところ』から引用する。
 

(前略)ハイドンって、古典音楽の典型みたいに言われることが多いですが、よく聴くと意外にラディカルなところがあります。理系っぽいというか、モーツァルトの同種の音楽と聴き比べると、その「理系の魂」みたいなのが、わりにくっきりと見えてきます。モーツァルトのような神がかり的な深みはないんだけど、構築性への執拗なまでのこだわりが、しばしば僕らにポストモダン的な快感をぐいぐいと与えてくれます。もちろん演奏にもよるんですけどね。

 グレン・グールドが1958年に録音したハイドンのピアノ・ソナタ変ホ長調(Hob.XVI:49)をお聴きになったことはありますか? とても面白い、鮮やかなハイドンです。

村上春樹村上さんのところ新潮文庫 2018, 483頁)

 

  これを読んで、そういや30代の頃にハイドンの実験的な交響曲を収めたブリュッヘン指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の5枚組「ハイドン・疾風怒濤期の交響曲」を輸入盤で買って聴き、はまりまくったことを懐かしく思い出した。疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)期といっても、ハイドンの場合はどこまでも理知的で、上記CDに収録された19曲の交響曲のほとんどに、何かしら実験的なところがある。ハイドンはこの疾風怒濤期というか中期と、村上春樹が「構築性への執拗なまでのこだわり」があると指摘した晩年の作品(交響曲のロンドン・セットまたはザロモン・セット、作品76, 77の弦楽四重奏曲、Hob.XVI:48 以降のピアノソナタなど)が良く、その中間にやや中だるみ気味の期間があるというのが私の印象だ。村上春樹が挙げた変ホ長調ピアノソナタ(Hob.XVI:49)についていえば、一般には同じ変ホ長調の最後のソナタ(Hob.XVI:52)の方がハイドンソナタ中の最高傑作とされているようだけれども、大ピアニストたちに好む人が多いのはこの Hob.XVI:49 の方で、私も大好きな曲だ。グールドの58年盤、これにはモーツァルトハ長調ソナタ(K.330)と同じハ長調の「幻想曲とフーガ」(K.394)が収められていて、私も持っている。昔はモノラル録音のバージョンが発売されていたのが後年にステレオ録音のテイクが発売されたものだったか、それともモノラル録音のものだったかは長年聴いていないので覚えていない。一度物置きから引っ張り出して聴いてみよう。私がこの曲で主に聴いていたのはルドルフ・ゼルキンの演奏だった。

  モーツァルトにもそれこそ革命的な音楽は結構あり、有名なト短調交響曲(K.550)のフィナーレなどその最たるものだと思うが、この楽章の展開部などまさしく「鬼気迫る」音楽であり、それはデーモンに突き動かされて書いた、という表現がぴったりくる。それと比較すると、ハイドンはあくまで理知的なのだ。その実験精神は、わかる者にはわかる。

 そして、昔筒井康隆にはまったことがある一方、小松左京は没後になってようやくいくつかの作品を読んだだけの私は、これから小松左京を再発見しても良いかもしれないと思った。

 ところで、『アメリカの壁』の巻末に小松左京の息子さんである小松実盛氏の解説文が載っている。そこで紹介された1978年頃の小松左京の心境がまことに興味深い。以下引用する。

 

 小松左京は、空想の世界だけでなく、漠然とではありますが、実際に宇宙に行けると思っていたようです。いずれ、人類は本格的に宇宙に本格的に進出するだろう、けれど、その乗船名簿に自分の名前はない。(中略)

 人として生まれたことによる制約、老いてやがて寿命が尽きるという制約が、長年いだいてきた夢を無にしようとしている。

 その焦り、虚しさは、これ以降の小松左京の物語の端々から感じられます。

 そのアプローチの一つの道が、「眠りと旅と夢」に込められています。

 人としての限界を悟りながら、それでも、どうしても宇宙とその真実に触れたい。

 眠り、虚空を旅し、壮大な夢のなかで生きるミイラは、小松左京自身の願望の投影であるともいえます。

小松左京アメリカの壁』文春文庫新装版 2017, 358頁=小松実盛氏の解説文)

 

 小説を書いた当時46歳だった小松左京はそんなことを思っていたのか。私は当時高校生だった。70年代後半といえば、高度成長期の負の側面だった公害もやや収まり、世界における日本の地位も、歴史上もっとも高かった頃だ。今の40代、50代以上の人間の多くは、後退を続ける一方の「崩壊の時代」のこの国を、自分たちの世代の責任を思いながらも呆然と見ているのではないか。焦りや虚しさよりも後ろめたさが感じられてならない今日この頃だ。

『エトロフ発緊急電』の著者・佐々木譲氏の一族は択捉島出身だった

 「北方領土の日」であったらしい一昨日(2/7)に公開した記事*1に「四国遍路」さんからコメントをいただいた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

四国遍路

 

 コメントありがとうございます。私は2002年末から7年間高松市に住んでいたことがあって、その終わり近い2008年から「週末遍路」をたまにやっていて、八十八箇所中の六十六箇所にお参りしましたが、高松市からもっとも遠い高知県西部と愛媛県南西部の二十二箇所を残して東京に移住してきました。

 さて、佐々木譲さんと北方四島とのかかわりについて、ネット検索したところ、佐々木さんご自身のブログ記事がみつかりました。以下、今からちょうど10年前に書かれた2009年2月19日のエントリから引用します。時の総理大臣は麻生太郎でした。

 

sasakijo.exblog.jp

(前略)天の邪鬼なので、いまさら麻生太郎総理を叩いてもな、と思う。むしろ昨日のサハリン訪問「二島でも四島でもない」「独創的なアプローチ」の北方領土問題解決に、わたしは期待する。

北方領土問題とはつまり、日本が無条件降伏した戦争のその後処理問題だ。戦後処理は、日露戦争の例を持ち出すまでもなく、世論は過激になりがち。国民の多数意志を尊重していたら、もう一回戦争をやるしかなくなる。国益を見据えて、政治家がたとえ大幅譲歩と見えようとも現実的に決着をつけないことには、解決しない。

佐藤優北海道新聞で「麻生は原則を売った」と批判している。しかし、鈴木宗男の二島先行返還論は、実質的に国後・択捉両島の放棄に等しい。その先に二島が返還される展望はゼロだ。

四年前、わたしの四回目の択捉渡航の際、北方領土返還国民会議の幹部が根室で発言した。
「五百年かかっても、四島を取り戻す」
この先五百年、主権回復なしを受け入れるという態度も、同様に実質的な放棄ということである。

ロシア側の立場でも、考えてみるといい。いま択捉島を日本に返還できるか。オホーツクから千島列島を抜けて原子力潜水艦が通過する場合、使えるのは択捉海峡である。国後水道は、原潜は通過できない。地政学的には択捉島は戦争直後よりもはるかに戦略的重要性が増した土地である。また、択捉島では、核開発に欠かせないレアメタルの採掘・精錬がおこなわれている(イスラエル資本が入っているはず)。つまり、択捉島が日本に返還される日は、地球上に国家がある限り、来ないと読んでいい。ならば、プラグマチックな解決しかない。

国後島は、北海道と地理的一体感があり、地域の住民感情としても、経済的にも、返還が切望される島だ。しかし、択捉島はべつである。わたしの一族は択捉島出身だけれど、わたしは島民二世としても、国後島までの主権回復、という線での戦後処理は受け入れてよいと考える。択捉島には自由に往来できて、墓参りが可能になればよい。

日本全体にとっても、日本人が事実上四島に渡航できない現状よりは、ロシアと平和条約を締結し、択捉島を含めた四島で経済活動ができる道を選択したほうがよいのではないか。

ただ、麻生総理の言う線での解決は、政権が国民に圧倒的に支持されていることが条件。もし麻生がやれば、日比谷で焼き討ち事件が起こる。

 

 佐々木譲さんの親族は択捉島出身だったんですね。

 現在の総理大臣である安倍晋三は、決して日本国民から「圧倒的に支持されている」わけではありませんが、3割ほどの「岩盤支持層」とNHK(宣伝役・岩田明子)や読売新聞といった国民の多数への影響力のあるメディアを押さえているのを背景に、かつ鈴木宗男佐藤優らの助言も取り入れて、強引に「二島返還」の可能性を追求しているといったところでしょう。佐藤優には一定の「リベラル・左派」からの支持もあるようですが、私は佐藤はとんでもない詐欺師であって、「現代の蓑田胸喜」と言っても過言ではないと考えています*2

 佐々木さんの言う「プラグマチックな解決」は、本来なら1990年代の、日本経済にまだ力が残っていて、かつロシアがソ連崩壊後の混乱期にあった時期までに行わなければいけなかったことなんじゃないかと思います。遅くとも、佐々木さんが上記ブログ記事を書かれた2000年代後半でしょうか。当時、北方四島の面積を半分で等分した、択捉島南端近くを国境とする案が言われていたと記憶しますが、今やそんなことは誰も言い出さなくなりました。現在は、日本経済が力を失った一方、世界的な独裁権力の一つと評するべきプーチン択捉島などに軍事施設を建設する暴挙に出ており、それを追認するかのような二島返還論は絶対に認めてはならないと思います。現在の日本はロシアと緊張関係があるわけでもなく、平和条約を結ぶ必要に迫られているわけでも何でもないので、千島列島全体を日露の緩衝地域にする*3ことを最終目標にして粘り強く交渉を続けるしかないというのが私の意見です。

 なお、全千島を領有していた頃の日本も、民間人の居住を認めるのは択捉島までで、それより北のウルップ島からシュムシュ島までへの民間人の居住を禁止していたことを今回『エトロフ島発緊急電』を読んで知りました。それは良いのですが、一方でシュムシュ島などに住んでロシア化が進んでいた千島アイヌの住民を色丹島強制移住させたのは暴挙以外の何物でもなく(その悲劇から小説に登場する宣造が造形されたんですよね)、それは厳しく批判されるべきですし、同様にプーチンによる北方四島への軍事施設建設やロシア人移住奨励などの政策も(これはもともとソ連時代からやっていたものの遅々として進まなかったようですが)、戦前の軍国主義日本やスターリンソ連にも匹敵する恐るべき強権主義的な妄動として厳しく批判されなければなりません。そういえば日本の「リベラル・左派」にはプーチンに対して甘過ぎる悪弊もあるように思います。

 やはりソ連時代の終わり頃から新生ロシアの初め頃にかけて、むしろソ連・ロシア側から提案があったという、知床の世界以前遺産を北方四島及びウルップ島にまで拡張する案がベストだったのではないか。歴史的にもウルップ島が北海道アイヌと千島アイヌの共同漁場として両者の緩衝地域だったらしいこと、さらにこれらの地域が世界自然遺産に登録されてロシアの軍事施設なども撤去されれば、択捉島への墓参にも障害がなくなるだろうに。そう思えてなりません。

 今はむしろチャンスが遠のいてしまった状態ですが、そんな時に日本側から変な動きをするのは愚の骨頂であって、前回の記事にも書きましたが、安倍晋三だの鈴木宗男だの佐藤優だのといった俗物が己の虚栄心を満たそうとしているだけの妄動に対しては徹底的な批判あるのみ。私はそのように確信します。

*1:記事の公開が「北方領土の日」当日だったのは、それを狙ったわけではなく偶然。

*2:古くは2008年に金光翔氏が<佐藤優現象>として佐藤批判を行っていますが、氏の視点とは別に、佐藤はマルクスを利用して「リベラル・左派」の牙を抜こうという詐術を行っていると私は考えています。佐藤が書いたマルクス本を何冊か読んでそのような結論に達しました。

*3:本来、千島列島はロシアでも日本でもなく、アイヌの人たちに変換すべき地域だと思います。

乱歩と清張:江戸川乱歩『D坂の殺人事件』(角川文庫)を読む

 最初に、このエントリにはネタバレが含まれていることをお断りしておきます。

 前エントリの佐々木譲『エトロフ発緊急電』の前、2月最初に読んだのが江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』(角川文庫)。どういうわけか、最近岩波を含めたあちこちの文庫本から乱歩の傑作選が出ているが、この角川のものが図書館で目についたので借りた。表題作のほか、「二銭銅貨」「何者」「心理試験」「地獄の道化師」を収録。

 

D坂の殺人事件 (角川文庫)

D坂の殺人事件 (角川文庫)

 

 

 私の興味は2点で、一つは、ここ5年あまりの間にさんざん読み尽くしてきた松本清張の先人としての乱歩、もう一つが日本における推理小説の草分けとしての乱歩。

 「D坂の殺人事件」(1924)は名探偵・明智小五郎が初めて登場した作品。「二銭銅貨」(1922)は日本における最初の本格推理小説とされる作品。「何者」(1929)は明智探偵ものの中篇で、探偵(明智ではない)と被害者と犯人の一人三役と二段落ちがミソ。二段落ちというのは、被害者兼犯人の「名推理」が「赤井さん」という登場人物によってひっくり返されること。その「赤井さん」が実は明智だった。この二段落ちは清張の常套手段で、清張は二段落ちどころか三段落ちなんかも平気でやっていた。読みながらいつも「またかよ」と思う。私は清張のこういう小細工はあまり好んでいない。清張の本領は何といっても登場人物の心理描写にあると思っている。だから、清張の悪しき先人は乱歩だったのかと思ってしまった(笑)。

 「心理試験」(1925)も明智探偵ものだが、その清張を夢中にさせた作品として知られる。それもそのはず、題名からも明らかなように、この作品は犯人の心理描写に特徴がある。そういえば清張の短篇にもこの「心理試験」の影響を受けたような作品があったような気がするが、題名が思い出せない。

 一方、清張と引き比べて全く見劣りし、こんな作品は読むだけ時間のムダだと思ったのが最後の「地獄の道化師」(1934)だ。この作品は収録作中一番最後に書かれているが、明智探偵の助手・小林少年が出てくるなど、小学生の頃に読んだポプラ社の子ども向けシリーズを思い出した。しかし、犯人が殺人を犯した動機となった「自らの容貌に対するコンプレックス」は、自身が同じコンプレックスを持っていたとされる清張がいくつもの傑作を書いているのに対して、「地獄の道化師」ではそういった犯人側からの描写がほとんどなく、むしろ犯人に対する乱歩の差別的な眼差しさえ感じられて不愉快だった。二度と読みたくない愚作だ。もしかしたら、この作品が書かれた1934年には既に乱歩の作家としての才能は枯渇していたのではないかとさえ思った。そんなわけで、この「地獄の道化師」の代わりに他の作品が収録されていれば、なかなか良いセレクションだったのになあ、と惜しまれた。

 下記は乱歩と清張について、ネット検索をかけて拾ったもの。

 

 松本清張も乱歩の作品を読んだ頃をふり返って懐しんでいるが、「彼の初期の一連の作品群は、彼の後半期の諸作品がいかようにあれ、燦然として不滅の栄光を放っている。彼のような天才は、これからも当分は現われないであろう。少くとも、今後四半世紀は絶望のように私には思える」と讚辞を惜しまない。

出典:http://www.e-net.or.jp/user/stako/ED2/E10-01.html

 

松本清張は乱歩の『D坂の殺人事件』、『心理試験』といった初期作品は褒めているのですが、後年のけれん味の強い作品については「出版社の通俗趣味に迎合した作品」と、やや批判的でした。

社会派の清張からすれば、ひとつ間違えれば単なる猟奇趣味にしか思えない設定の奇抜さが通俗に見えたのでしょう。『一寸法師』だったか、等身大の石膏像から血がしたたり落ちる、というような導入の作品もありました。

出典:https://ncode.syosetu.com/n1202cx/

 

 やはり清張もそう思っていたのか、さもありなんと思った。

 あとの方の引用文に、「等身大の石膏像から血がしたたり落ちる、というような導入の作品」と書かれているが、それこそ「地獄の道化師」ではないかと思った。だが、「一寸法師」(1927)も被害者の体をバラバラにして小包で送る作品らしいし、他にも死体を石膏像に塗り込めるパターンを乱歩は何度か使っていたらしい。

 ところで、先ほどはしょった「二銭銅貨」だが、エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」及びそれを下敷きにしたコナン・ドイルの「踊る人形」をもとにした作品であることはよく知られている。ところがそれだけではなく、二銭銅貨のからくりにも下敷きがあって、それはヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』だった。詳しくは下記2件のリンクを参照されたい。

 

www2.hp-ez.com

 

www.squibbon.net

 

 ここまで書いたところで時間になったのでこの記事はこれでおしまい。

佐々木譲『エトロフ発緊急電』を読む

 佐々木譲が1989年に書いた小説『エトロフ発緊急電』(新潮文庫)を読んだ。太平洋戦争の直前、真珠湾攻撃を前にしたアメリカの対日諜報活動に、日系2世のスパイである主人公がかかわるエンターテインメント系冒険・歴史小説真珠湾攻撃をかけた日本海軍の機動部隊は択捉島の単冠(ヒトカップ)湾に集結したあと出撃したが、主人公は択捉島に潜入して機動部隊の出撃をアメリカ本国に知らせたものの、情報は信用されなかったために真珠湾攻撃を受けてしまったという設定になっている。

 

エトロフ発緊急電 (新潮文庫)

エトロフ発緊急電 (新潮文庫)

 

 

 現在、安倍晋三政権が北方四島の返還を諦めて、歯舞、色丹の二島返還でロシアと手を打ち、同国と平和条約を結ぶつもりだろう、などと言われている。それで「エトロフ」の固有名詞につられて図書館で借りたのだが、1994年に新潮文庫入りしたこの本がたまたま2017年発行の第23刷で改版されて文字が大きくなっていたことも、借りようと思った動機の一つだ。

 この新潮文庫版はもともと分厚かったが文字が大きくなってさらに分厚くなり、目次と長谷部史親氏の解説を合わせて741頁もある。エンタメ作品でもあり、文章は読みやすかったが、それでも読むのに4日かかった。

 30年前の発売当時には評判をとった小説らしく、1993年にNHKで『エトロフ遥かなり』のタイトルで全4回のドラマ化がされた。また、この小説は同じ作者の3部作の第2作に当たり、第1作の作中人物が本作にも登場する趣向になっているとのことだ。さらに本作は、発表当時からケン・フォレットの『針の眼』との類似が指摘されてきたと長谷部氏の解説にある。

 あらすじは、たとえば下記ブログ記事に詳しい。

 

cedar.exblog.jp

 

 上記リンクのブログ主さんは『針の眼』もお読みになったことがあるらしく、本作との比較について下記のように書いておられる。

 

最後に解説に、長谷部史親氏(翻訳とかやっている作家らしい)が
この作品が”ケン・フォレット”の”針の眼(Eye Of The Needle)”との
類似点を指摘する点がしきりに聞かれ、それは正鵠を射ていると
指摘しているが、”針の眼”は”イギリス人の愛国心を臆面もなく謳歌する
ことにより成り立っている小説”である反面、本書は”既成に価値観による
正邪の概念に疑問を投げかけるものである”と斬っている。
確かに、そのとおりだと思う。
斉藤賢一郎と憲兵隊の磯田茂平軍曹の追いかけっこは
”針の眼”で、主人公のドイツのスパイ、フェイバーと
英国情報部のゴドリマンの追いかけっこを彷彿させるが、
東京から東北を通って、北海道、そして択捉島までの行程を逃げている
ハラハラ感は、日本人として、知っている地名が出てくる分、
米治郎は、こちらに軍配が上がると思う。

これは、NHKでドラマになった、主人公の”斉藤賢一郎”は”永沢俊矢”、
”岡谷ゆき”に”沢口靖子”、このドラマ、原作にほぼ忠実で、
非常に見ごたえがあった。最初に読んだときはドラマを見る前だったが、
今回読んで、このドラマの場面が重複した。
これも、「ベルリン飛行指令」同様、ぜひオススメの作品である。

 

 上記引用文に「既成の*1価値観による盛者の概念に疑問を投げかける」と書かれているが、こう指摘した長谷部史親氏の解説文からさらに引用すると、主人公の斉藤賢一郎は「日系二世」(括弧内は長谷部氏の解説文からの引用を表す。以下同様)で、「アメリカ国籍を持ちながら疎外された生活を余儀なくされ」、「スペイン内戦に義勇兵として活躍した」が、「ついに国家の一員たる意義を見出せないまま」、「金で請け負った殺人の現場を目撃されたがために、スパイに仕立てられて日本に行くことになった」人物だ。また択捉島生まれのヒロインの岡谷ゆきは「母親がゆきずりのロシア船員との間にもうけた私生児」、ゆきが管理人を亡くなった伯父から継いだ駅逓(「馬を替えたり宿や食事を提供する国営の施設」)で働く宣造は、「日露観の協約によって北千島の占守(シュムシュ)島から(色丹島に=引用者註)強制移住させられてきたクリル人の子孫で、いずれは脱出してカムチャツカ方面のクリル人に合流する望みを抱いている」。また、「聖職者でありながらスパイ行為に加担する」スレンセンには、「南京事件で最愛の女性を殺された経験があった」。さらに、日本に潜入した賢一郎を手引きした金森は朝鮮人で、これは小説から直接引用するが、「祖国を滅ぼされ、家族を引き裂かれ、名前も言葉も奪われ」(新潮文庫23刷改版341頁)、「この国を滅ぼすためなら、どんなことだってやりますね」(同)と賢一郎に語る。

 長谷部氏は「本書の主要な登場人物には、帰属意識の喪失という共通項が見られるように思う」(同739頁)として、さらに「帰属意識は、支配と被支配の関係に置き換えて考えることも可能であろう。支配と被支配の関係は、差別と被差別の関係にも直結する」(同740頁)と書く。

 この解説文は1993年11月に書かれているが、これが1990年前後のエンターテインメントの小説とその解説文の水準であって、それと引き比べて百田尚樹がもてはやされる現在の「右傾エンタメ」を思うと、こういう分野でもこの国の「崩壊」はどうしようもない段階に進みつつあるのではないかと思わされる。実際、本作の感想文をアマゾンカスタマーレビューで眺めると、星4つをつけながら「南京事件についても読む人によっては『南京大虐殺』を事実と思う人もいるでしょう。それだけが残念」と書いていたり、極端なものになると「最低のパヨクの反日を煽る馬鹿本」などとして星1つにしているレビューなどがあった。アマゾンカスタマーレビュー以外でも南京事件のくだりに拒絶反応を示す読者は多く、しかもそれは比較的最近本書を読んだ読者に多いことから、歴史修正主義の浸透が近年急速に進んでいることが窺われる。たとえば下記のお馬鹿なツイートも見つけた。

 

https://twitter.com/ham_7n4nra/status/845643292402368512(注:リンク切れ)

 

 何が「あらすじの大半」なものか。ほんの数パーセントしか南京事件の記載はないではないかと思うのだが、いまどきのネトウヨ(「安倍信者」)には、そういう部分を探してはそればかりをあげつらう習性があるようだ。

 私の意見を言えば、日本軍は兵站を軽視し、それは南方の戦場では多くの日本軍兵士の餓死を引き起こしたが、中国においては食糧の「現地調達」を強いられた兵士たちが虐殺と略奪を繰り返したことは紛れもない事実であって、それらと1937年12月の南京事件の犠牲者の数を足し合わせれば、中国のいう数字に多少の誇張が含まれるにせよ、想像に絶する数、たとえばオーダーとしては6桁に達するかもしれない犠牲者が出た蓋然性が高いと思う。

 ところで、本作に出てくる宣造がクリル人(千島アイヌ)という設定になっているが、占守島に住んでいた千島アイヌ色丹島への強制移住については全然知らなかったのでネット検索で調べた。引っかかったのが下記「釧路ハリストス正教会」のサイトにある「釧路正教会百年の歩み」の「第一章 ロシアの東方進出と千島アイヌ」だ。

http://www.orthodox-jp.com/kushiro/bef/1_1.htm

 

 まず、上記リンクの「第1節 クリル列島とクリル人」の冒頭部分を引用する。

 

 露領時代の千島列島はクリル列島と呼ばれ、カムチャツカの南端から蝦夷(北海道)の北岬に延長約1200㎞、小島を除いて弓状に22の島からなっている。クリルの語源は露語のクーリイチ(燻る)からなまったもので、これは露人が初めてカムチャツカの南端から遙かに千島最北のアライト島を望んだとき、その山頂から火焔が上がるのを見て名付けたためと言われている。しかし、クリルの名称はアイヌ語のクル(人間)に由来する説が今日有力である。日本でも古くは千島のことを「くるみせ」と呼んでいたと言うが、名称については、その地に住んでいた先住民をクリル人、または千島アイヌと呼ぶことにする。

 

 「第3節 露人の千島進出」を参照すると、

古くから得撫島が千島・蝦夷アイヌの自然の境界地であり、共通の狩猟場であったようである。

とある。歴史的には、千島アイヌはロシアから、北海道(蝦夷アイヌは日本からそれぞれ侵略を受けたが、千島アイヌと北海道アイヌの境界が得撫(ウルップ)島にあったということらしい。

 以下は「第5節 千島アイヌ色丹島移住」より。

 

 1875年(明治8年)日本とロシア間に樺太・千島交換条約が締結された。この条約によって日本が樺太の領有権をロシアに譲る代わりに、ロシアは占守島から得撫島に至る18の島を日本に引き渡すことが明記され、日露の国境をカムチャツカのロバトカ岬と占守島間の海峡に画定された。この条約の附属公文には、この地域に住む先住民は、三カ年以内に日露何れかの“臣民”になることを選定しなければならぬと規定されている。そこで、条約の結ばれた年の8月、明治政府は五等出仕時任為基を北千島へ派遣し、この旨を先住民に伝えた。
 当時、北千島には100人を越す先住民が住んでいたが、彼らは既に一世紀以上にわたってロシアの支配下にあり、言語・衣服・宗教などの面でもかなりロシア化されており、その去就とともに数奇な運命に弄ばれることになる。
 ロシア人並びに得撫・新知島に居住していたアレウト人は、条約に定められた期間、即ち3年後の11月までには悉くロシアに引き揚げた。千島アイヌも風俗・宗教等から、ロシアにと願いながらも、丁度、明治9年に出猟した半数の者が帰島しないためその態度を決することが出来ず、やむなく我が国に属することになった。
 占守島にいた首長キプリアンは、条約成立の年、島司インノケンティ・カララウィッチと12人の同族と共に9月15日、当時、他島への出猟中であったアレキサンドル以下22人の同族を置き去りにしてカムチャツカに向かった。日本国籍に入ったのは、このアレキサンドル組と副首長ヤコフ組のラサワ島の千島アイヌである。

(中略)

 我が国では明治9年、更に官吏を派遣してその状態を調査し、救育費として三カ年に一回、5000円の政府別途交付金を給付、食料品等の生活必需品の購入に充て、汽船に搭載、彼らにこれを提供し、生活を保障するとともに捕獲した毛皮を集めた。
 しかし、毛皮は年とともに少なくなり、したがって著しい失費を伴い、その上、根室から1200㎞も離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれもあった。また、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、同化が困難であるばかりでなく、国境を正すことにならないばかりか、むしろ危険にさえ感じられ、日本政府としてもクリル人に対して早急な処置を講じる必要があった。
 彼らをより交通の便利な箇所に移そうとする計画は、既に明治9年以来の計画であり、その度ごとに移住を勧誘してきたが、彼らは永年住み慣れた地を離れ難く、口実を作っては日本政府の勧誘に応じようともしなかった。
 明治15年に開拓使が廃止され、函館・札幌・根室に三県が置かれる。千島は根室県に属し、湯地定基が根室県令に任ぜられた。明治17年、三年ごとの撫育船を派遣する年にあたり、湯地県令は千島アイヌ色丹島に移す計画のもとに、要路の大官と共に占守島に向かい島状を調査した。丁度、その年に出稼に行っていた仲間も悉く同島に集まっていたので一同を諭し、男女97人をその船に乗せ、ただちに色丹島に移住させた。(後略)

 

 さらに、「第6節 色丹島移住後のクリル人」より。

 

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。
 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

   強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。
 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす-云々」
故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。
 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。

 

 引用したような千島アイヌの悲劇を知ると、「全千島が日本の領土」という日本共産党のような主張は成り立たないのではないのかと思うし、その一方で国後島択捉島に軍事施設を造るロシアの暴挙もまた許せないと思う。かつてのソ連が日本に提案したという、世界自然遺産である知床を、生態系の共通する国後島択捉島、さらにロシア側のウルップ島に拡張する案(もちろん、国後・択捉のロシアの軍事施設は撤去し、そのような施設はウルップ島にも造らせない)を落としどころにして、長期的に交渉するのが一番なのではないか。安倍晋三だの鈴木宗男だの佐藤優だのといった俗物たちが「歴史に名を残す」ために進めているようにしか見えない「二島返還」を落としどころとする日露交渉など愚の骨頂だとしか思えない。

 最後は本からだいぶ脱線したが、択捉島にも関係する話だからまあいいか、ということで、これで終わりにする。

*1:「既成に」とあるのは誤記。

「下請けいじめ」を描いた松本清張『湖底の光芒』とカルロス・ゴーン

 2012年に刊行が始まった光文社文庫の「松本清張プレミアム・ミステリー」のシリーズは、2017年の第4期まではかつて同社の「カッパ・ブックス」から出ていた本を文庫化したものだったが、昨年から来月2月8日発売の『中央流沙』までの第5期8作品は、光文社からは一度も出されたことのない作品が集められている。8作品のうち6番目に発行された『湖底の光芒』は、講談社の月刊誌『小説現代』の1963年に創刊号から『石路』のタイトルで連載され、翌1964年に完結した作品だが、長らく単行本化されず、1983年になって「講談社ノベルス」の1冊として刊行された。その際、「貨幣価値が刊行時の経済状況に合わせて改められていた」(光文社文庫版の山前讓氏の解説=474頁)とのこと。その後1986年に講談社文庫入りした。それは私が歳をとって苦手とするようになった字の小さな本に違いないから、こうして大きな字の本としてリニューアルされるのは大変助かる。このシリーズの続刊を期待する次第。

 

 

  清張本に限らず、推理作家が書いた小説の文庫本を読む時には、カバーの裏面にある作品紹介の文章を絶対に読んではならない。これが作品を楽しむコツの一つであって、この光文社文庫本などはその例の一つであって、うっかりそんなものを読んでしまうとネタバレの犠牲になるところだった。しかも、「ミステリーの醍醐味を凝縮した長編推理小説」などと書かれているが、この作品はミステリーというより経済小説だろう。講談社文庫には佐高信の解説文がつけられているらしい。余談だが、最近読んだ本には佐高信の解説がついていることが多く、城山三郎高杉良のほか、宮部みゆきの『火車』(新潮文庫)もそうだった。『火車』は宮部みゆき作品の中でも特に清張(特に『砂の器』)からの影響の強い社会派的な作品だ。

 なお、本書『湖底の光芒』の講談社文庫本にも感心しない要約文がついていたことをネット検索で知った。良いと思うのは、前記光文社文庫版に山前讓氏が書いた解説文にも引用されている、清張自身が講談社ノベルス版に寄せた「著者のことば」だ。以下引用する。

 だいぶ前のことだが、諏訪に行ったことがある。私はカメラに興味をもっていたので、レンズ製造工場を訪れた。そして、日本のスイスと呼ばれた風光明媚なこの土地で、カメラレンズの下請業者が、親会社の横暴に泣かされているという事実を知った。この美しい土地で相も変わらず、そしてどこの業界にもある下請の悲哀が生み出されている——その対照を出してみたかった。

松本清張『湖底の光芒』(光文社文庫,2018)474頁)

  この「著者のことば」から推測される通り、「湖底」の湖とは諏訪湖のことだ。以下ややネタバレ気味になるのでそれを避けたい方はここで読むのを止めていただきたい。

 清張が諏訪を訪れたのは、山前氏の解説によれば1953年末から翌1954年の正月だったらしいが、カメラレンズの下請業者がカメラメーカーとの契約を突然解除されることもしばしばだったようだ。以下『湖底の光芒』の小説本文から引用する。

 契約がこわされると、造った品物は山にでも捨てるほかはない。カメラのレンズは特殊なので、溶解してガラスに還元することができない。

 そういう例が今までもたびたびあった。昔は廃品を諏訪湖に捨てたものだが、今は湖水保護のために厳しく止められている。親会社としても、あんまり体裁のいい話でもない。しかし、下請けの側は、どこに持っていきようもない憤りで、湖底に「廃品」になったレンズを投げ棄てたくなる。

 松本清張『湖底の光芒』(光文社文庫,2018)249-250頁)

  それで『湖の光芒』ではなく『湖底の光芒』なのだ。湖底まで光はほとんど届かないはずだが、と考えると、『石路』から『湖底の光芒』に変えられたタイトルが、そのまま小説のエンディングを暗示しているともいえる。引用箇所の頁数はあえてぼかすが、「何千、何百人という下請業者の泪と恨みとがその可愛いガラス玉の山にこもっている」ということばも出てくる。このくだりからはバルトークのオペラ『青ひげ公の城』に出てくる「涙の湖」を連想した。

 

www31.atwiki.jp

 青ひげ公の城には7つの扉がある。その第6の扉を開けると現れるのが「涙の湖」だ。以下上記「オペラ対訳プロジェクト」から引用する。

 

ユディット
波静かな白い湖が見えるわ。
とても大きな白い湖が。
なんの水なの、青ひげ!?

 

青ひげ
涙だ、ユディット、涙だ、涙なのだ。

 

ユディット
なんと静かで動かないんでしょう。

 

青ひげ
涙だ、ユディット、涙だ、涙なのだ。

 

ユディット
真っ平らで白い、清く白い。

 

青ひげ
涙だ、ユディット、涙だ、涙なのだ。
おいで ユディット、おいで ユディット、
口づけしておくれ。
さあ、まだか、ユディット、待っているのだ。
最後の扉は開けてはならぬ。
開けてはならぬ。
 それは、青ひげ公の犠牲になった女性たちの涙でできた湖だった。
 
 清張作品に戻ると、この作品と似たエンディングの長篇がある。そのタイトルは挙げないでおく。
 
 ところで私が連想したのはバルトークのオペラだけではない。「下請けいじめ」から直ちに連想されるのは、なんといっても昨年末以来話題になっているカルロス・ゴーンだ。
 どういうわけか、「リベラル・左派」界隈では、ゴーン逮捕をめぐる「人質司法」の問題ばかりが云々される傾向が非常に強い。もちろんそれはそれで大問題であって、日本の検察庁は厳しく批判されなければならないが、一方でゴーンの苛烈なリストラに何も触れないばかりか、ゴーンに同情する「リベラル・左派」があまりにも多いことには暗澹とした気分にさせられる。ひどいのになると、「自分の会社で儲けた金を使って何が悪い」と言い放つ「リベラル」人士まで現れた。
 そんなことを言う人たちには、橋本愛喜氏が書いた、下記リンク先の記事を読んでほしい。

hbol.jp

 以下記事の一部を引用する。

(前略)事件発覚以降、ゴーン氏に関する有識者の見解や分析が、連日各メディアから溢れ出る中、当時、日産や関連企業の下請け工場の2代目経営者として現場に立ち、結果的にその工場をこの手で閉じてしまった筆者にとっては、正直なところ、何を読んでも何を聞いても「虚無感」しか湧いてこない。

 あの頃、関連企業から強要されていた異常なまでの値引きは、一体何だったのか。

 ゴーン氏にとって、我々下請けは、どんな存在だったのか。

 彼に対するやり場のない怒りと、当時、過酷な状況にしがみ付いてくれていた従業員への申し訳ない思いが、今回の事件を通して今、再び込み上げてくるのである。

(中略)

 ようやくもらえた小さな仕事も、やればやるだけ赤字を出すほど安工賃。今後の仕事に繋げるために断ることすらできない「蟻地獄」のような日々を送る工場もあった。

 筆者の父親が経営していた工場も、そんな下請けのうちの1社だった。

 日本の各大手自動車メーカーや系列企業から金型を預かり、研磨して納品していたその工場は、職人が最大でも35人。大手のくしゃみでどこまでも飛んでいくような極小零細企業だった。

 工場には、手持ち無沙汰な職人が「草むしり用」の軍手をして、新しい雑草が生えてくるのを待っている。忙しいのは営業だけだ。

 無論、当時はゴーン氏の不正など知る由もなく、閑古鳥の鳴く日産系列の取引先工場にも足しげく通っては、「仕事をください」と何度も頭を下げ、相手の言い値で作業をする日々。

 小さな工場内は、回転工具の機械音で会話もままならなかった最盛期からは想像もできないほど静かで、金型を砥石でこする「シャーシャー」という往復音だけが、やたらと大きく響いていた。

 業界全体の仕事量が薄くなっていることは重々承知していたが、抵抗せねばどんどん安くなる工賃をなんとかやっていけるギリギリで維持させるべく、毎度のように担当者のもとへと出向く。突如告げられた「1時間300円分の工賃カット」を考え直してもらおうと1か月願い倒しても、聞き入れられなかったこともあった。

 こうした中、企業体力のない下請けは、順に潰れていった。当時、筆者の工場の元請けや、古くから付き合いのあった工場の一部からも、月末になると不渡りの噂や「廃業のお知らせ」と書かれた手紙が届くようになる。その中には、潰れるにはもったいない独自の技術や設備を持った工場も多くあった。

 来月はどこだろうか。あの会社は大丈夫だろうか。ウチはいつだろう。当時の下請け工場には、異様な雰囲気が漂っていた。

 筆者の工場では、先述の通り、国内の各自動車メーカーの系列企業と取引していたのだが、メーカーの工場はもちろん、その系列企業にも、母体の社風がそのまま反映されており、仕事の厳しさや金額などにはそれぞれの特徴があった。

 当時の日産工場や同社系列工場の印象は、真面目で工場マンとしてのプライドをしっかり持った社員が多かったのと、仕事の指示内容が大変細かかったこと、そして、とにかく「安かった」ことだ。

 同じ仕事を、ゴーン氏が日産の社長に就任する前と後とで比べると、半値近くにまで落ちたものも多い。

 一方、下請けに冷たい態度を取る元請け社員も多い中、日産工場で働く社員たちは、皆紳士的だった。

 筆者の工場では、同時期に4人の日産工場の社員と付き合いがあったが、当時の業界の体質に対して、誰一人感情的な意見を言う人はいなかった。が、そんな彼らでも、雑談でゴーン氏の話になると苦笑いになり、「人の話を聞く人じゃないですからね」、「無茶なコストカットも多いですよ」と愚痴をこぼしていたのを覚えている。

 工場閉鎖1か月前、“先輩工場”と同じように「廃業のお知らせ」を得意先へ一斉に流した後、真っ先に連絡をくれたのは、工場最盛期から長年世話になっていた日産のある社員だった。

「長い間、お疲れ様でした」

 FAXで送られてきた最後の発注書。いつもの「よろしくお願いします」の代わりに、昔から変わらない太字でひと言、そう書かれていた。

 こうして工場閉鎖から数か月後、当時から物書きとして活動していた筆者は、皮肉にも東京モーターショーでゴーン氏本人を取材する機会に遭遇する。

 目の前で「コスト削減」「V字回復」「世界のNISSAN」を、人差し指突き上げ声高に唱える彼に、今と同じような、言葉にし難い深い虚無感に襲われたことを思い出す。

 自動車という乗り物は一般的に、約4,000種類、3万点もの部品からできている。その1つひとつは、製造ラインという運命共同「帯」に乗った、エンジニアや現場職人らの技術と努力が造り上げた結晶だ。

 ゴーン氏が50億円以上もの不正を働いている最中、廃業や倒産に追い込まれた多くの関連企業や、大勢の解雇者の存在がある。あの頃、「帯」から消え落ちていった日本の技術力に、ゴーンは今何を思うのか。いや、せめて何か思ってくれるだろうか。

 トップにいた自らの不祥事が今、3,658社の将来に暗い影を落としていることを、少しでも考えてくれているのだろうか。

 

橋本愛喜】 フリーライター。大学卒業間際に父親の経営する零細町工場へ入社。大型自動車免許を取得し、トラックで200社以上のモノづくりの現場へ足を運ぶ。日本語教育セミナーを通じて得た60か国4,000人以上の外国人駐在員や留学生と交流をもつ。滞在していたニューヨークや韓国との文化的差異を元に執筆中。

(ハーバービジネスオンラインより)

  松本清張が半世紀前に書いた小説で抉り出された問題は、今もそのままなのだ。しかし、いまどきの「リベラル」たちは55年前の松本清張にさえ追いつけていない。それを示すのが、上記橋本氏の記事についたネガティブな「はてなブックマーク」コメントの多さだ。それを批判した「はてブコメント」を最後に引用しておく。

ゴーン逮捕に元下請け工場経営者が激白 。「異常な値切りで皆潰れていった」 | ハーバービジネスオンライン

端からみてなんでここまではてなのひとが下請けに冷たいのかよくわからないな / 追記。おいプロパー、てめーの会社で全部賄ってから文句言え、自社生産する能力がないくせに偉そうにするなよ

2018/11/23 19:46

b.hatena.ne.jp

 やはり、松本清張の精神を現代に甦らせる必要がある。

高橋敏夫『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』に欠落している視点

 光文社文庫から出ている「松本清張プレミアム・ミステリー」第5期全8タイトルのうち、今日から読み始めようと思っている『湖底の光芒』を読んだら、あとは2月8日発売予定の『中央流沙』を残すのみになる。これまでの4期21タイトルは全部読んだから、しばらくは清張を読む機会もないかもしれない。新潮文庫や文春文庫の清張本も選集や古い本、それに一部の時代小説などを除いてあらかた読み尽くしたから、そろそろ清張論を読んでもネタバレの被害に遭うことは少なかろうと思って、昨年1月に刊行された高橋敏夫著『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』(集英社新書)を読んだ。

松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 (集英社新書)

松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 (集英社新書)

 

  これまで5年あまりかけて111タイトル134冊の清張本を読んできた私にとっては、良いリマインダーだなと思ったが、一点だけ非常に気になるところがあった。

 それは、著書の高橋敏夫(早稲田大学文学部・大学院教授、文芸評論家)が戦後日本を「対米従属史観」で捉える立場に立ち、その観点から矢部宏治だの孫崎享だの鳩山由紀夫だのに肯定的に言及していることだ。以下、孫崎と木村朗が編集した『終わらない〈占領〉- 対米自立と日米安保見直しを提言する!』(法律文化社,2013)に言及したくだりを以下に引用する(なお、漢数字をアラビア数字に書き換えて引用した)。

 『終わらない〈占領〉- 対米自立と日米安保見直しを提言する!』(2013年)では編集の孫崎享、木村朗をはじめ、従属から一歩進めた独自の「属国」論を展開するガバン・マコーマック、戦後ずっと米軍占領がつづき新基地建設まではじまった沖縄の現状を告発し、日本政府の責任を追及する新崎盛暉、米軍占領政策の延長のために締結させられた日米地位協定の、国家主権上の不当性を難じる前泊博盛らが、対米従属の現在をあきらかにし、批判する。

 「序言」を元首相の鳩山由紀夫が書いているのも興味深い。松本清張が『深層海流』でえがいた、米国一辺倒の久我前総理(モデルは吉田茂に対抗し日ソ交渉に力をいれ、警察の尾行がついて怪文書がまかれた花山総理のモデルは、由紀夫の祖父、鳩山一郎である。由紀夫もまた首相時代、アメリカの意に沿わない沖縄の普天間基地の「国外移転、最低でも海外移転」、および東アジア共同体構想をかかげるや、たちまち失脚したことは周知のとおりである。

(高橋敏夫『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』(集英社新書,2018)187-188頁)

  正直言ってこんな文章を読まされるといっぺんに興醒めしてしまう。孫崎が稀代のトンデモ本『戦後史の正体』(創元社,2012)で岸信介を「敢然とアメリカに対峙した『自主独立派』の政治家」と持ち上げ、それを読んだ「対米従属史観」の読者たち(多くは小沢一郎を崇め奉る「小沢信者」と呼ばれる人たちだった)が「目から鱗が落ちた」と感激していたことなどが苦々しく思い出されるからだ。

 なお、本書に出てくる清張作品のうち9割以上は読んだことがあったが、『深層海流』は数少ない未読作品だったので、著者に「ネタバレ」された恰好だった。しかしこの内容ならミステリー作品ではなさそうだし、この程度のネタバレなら痛くもかゆくもない。

 清張が鳩山一郎にシンパシーを持っていたらしいことは、私も『日本の黒い霧』を読んで知っていたが、それは清張がちょうど今の安倍政権のような長くて重苦しい吉田茂独裁政権の時代に生きていた影響が強いだろう。私もあの時代に生きていたなら強烈な「反吉田」になり、あるいは鳩山一郎に期待したかもしれない。私の物心ついた時には、いつ果てるともしれない佐藤栄作政権が続いていて、子ども心に鬱陶しくてたまらなかった記憶もある。しかし、その佐藤をも孫崎は「敢然とアメリカに対峙した『自主独立派』の政治家」と称揚したのだ。ふざけるな、と言いたい。

 いったい、清張のノンフィクションで二大傑作とされるのが『日本の黒い霧』(1960)と『昭和史発掘』(1964-71)だが、私は『昭和史発掘』は不朽の名作だが、『日本の黒い霧』はそれには遠く及ばないと考えている。『昭和史発掘』には膨大な資料の裏付けがあり、それには北九州市立松本清張記念館名誉会長で、1995年まで文藝春秋社で編集者を務めていた藤井康栄による資料収集の多大な貢献があった*1。『日本の黒い霧』は藤井がまだ清張の担当になる前の作品で、粗さが認められる上、高橋敏夫が本書でも触れているように、「革命を売る男・伊藤律」と「謀略朝鮮戦争」の2章には重大な誤りがあったことが現在ではわかっている。しかも、60年安保闘争の年に書かれたこの作品には、時代の空気の影響を多分に受けている。私の見るところ、60年安保闘争にを支えたのは、民主主義の擁護、反米、ナショナリズムという3つの精神だった。このうち「民主主義の擁護」だけは戦争中にはなかったものだけれども、反米とナショナリズムは戦争中と連続していたものではなかったか。そう思うのだ。

 すると、そこにはおのずと限界が見えてくる。清張が『日本の黒い霧』で描いたのは、主に「オキュパイドジャパン」の時代にGHQが押した横車だが、現在を米軍による占領時代と同じ構図で日米関係を捉えていて良いのかという問題がある。実際、2015年に琉球新報が報じたところによれば、1973~74年には既に下記同紙記事が報じたようなことがあった。以下引用する。

ryukyushimpo.jp

 米国家安全保障会議(NSC)が1973~76年に、72年の沖縄復帰を契機とした政治的圧力で在沖米海兵隊を撤退する事態を想定し、海兵遠征軍をテニアンに移転する案を検討していたことが、機密指定を解除された米公文書などで分かった。遠征軍は米本国以外で唯一沖縄に拠点を置く海兵隊の最大編成単位。米海兵隊普天間飛行場などを運用しているが、当時米側はその「本体」である海兵遠征軍ごと沖縄から撤退し、テニアンに移転することを想定していた。文書はテニアンに滑走路や港湾などを備えた複合基地を整備する必要性に触れ、同基地は「返還に向けて沖縄の戦略部隊や活動を移転できる」とした上で、対応可能な部隊として「最大で遠征軍規模の海兵隊」と挙げている。日米両政府が沖縄を海兵隊の駐留拠点にする理由として説明する「地理的優位性」の根拠が一層乏しくなった形だ。

 米軍統合参謀本部史によると、73年に在韓米陸軍と在沖米海兵隊を撤退させる案が米政府で検討され、国務省が支持していた。同文書もテニアンの基地建設に言及しているが、計画は74年に大幅縮小された。理由の一つに「日本政府が沖縄の兵力を維持することを望んだ」と記し、日本側が海兵隊を引き留めたこともあらためて明らかになった。
 文書は野添文彬・沖国大講師が米ミシガン州のフォード大統領図書館で入手した。野添氏は統合参謀本部史でも詳細を確認した。
 フォード図書館所蔵の文書はNSCが73~76年に作成した「ミクロネシア研究」つづりに含まれている。海外の基地は「受け入れ国からの政治的圧力に対して脆弱(ぜいじゃく)だ」と分析し、米領内での基地運用を増やす利点に触れている。
 一方、米軍統合参謀本部史(73~76年)は、ニクソン政権が73年2月の通達に基づき太平洋の兵力を再検討、在沖海兵隊と在韓米陸軍の撤退を含む4案を議論したと記している。国務省は77~78年度にかけ最大の削減案を支持、軍部は最少の削減を主張した。73年8月、大統領は「現状維持」を選んだ。統合参謀本部史は「沖縄返還で当初予想された部隊移転を強いられることにはならなかった」と振り返っている。(島袋良太)

(琉球新報 2015年11月6日 05:05)

  1973~74年といえば、やはり孫崎享が「敢然とアメリカに対峙した『自主独立派』の政治家」と位置づける田中角栄の政権の時代だ。その田中政権の時代に「日本政府が沖縄の兵力を維持することを望んだ」のだった。

 つまり、日本の戦後史においても、米軍占領期には「アメリカの横暴」で単純に解釈できたものが、その後の沖縄返還前後には、アメリカよりもむしろ日本政府の側に「米軍の沖縄駐留を固定化したい」意図が強くなるとともに、時の総理大臣だった佐藤栄作は、それを日本国民に隠そうとした。「沖縄密約」、「糸と縄との交換」などに関わる問題だ。後者(日米繊維交渉)を決着させたのは田中角栄だった。それらを撃たずして「今も連綿として続く対米従属の構造」などと視点を固定化してしまっては何の意味もない。そのような態度では「松本清張を現在に活かす」ことになどならないと私は考える。

 さらに、清張ノンフィクションの最高峰である『昭和史発掘』の終わりの4割ほどを占める「2.26事件」論で詳細に紹介されている青年将校のような思想が、現在再び、こともあろうに「リベラル・左派」の人たちの間で再興しているという恐るべき事態が起きている。それを「ネオ皇道派」と名づけた人がいたが、他ならぬ鳩山由紀夫がこの「ネオ皇道派」の典型のようなツイートを今年初めに発した。

 ここで鳩山由紀夫は「リベラルな天皇陛下」が「君側の奸」安倍晋三の暴走に歯止めをかけられる、などと恐ろしいことを公言している。そんな鳩山の思考は「2.26事件」の青年将校と瓜二つではないか。

 鳩山由紀夫の祖父・一郎についても、所属する政友会が野党だった1930年に国会で「軍縮問題を内閣が云々することは統帥権干犯に当たるのではないか」として時の濱口雄幸内閣を攻撃して濱口狙撃、さらには政党政治崩壊の元凶となり、1933年の滝川事件では文部大臣として京大教授・滝川幸辰(ゆきとき)の罷免を要求し、これが拒絶されると滝川を休職処分にするなどして学問の自由を侵害した。さらに戦後にも日本国憲法「改正」を強く主張して改憲派のはしりとなるなど、総理大臣時代の「リベラル」なイメージからは一転して、右翼政治家としての否定的側面が広く知られるようになった。しかし、それらを本書から読み取ることはできない。

 現在は「松本清張が再び求められている」時代だという高橋敏夫の主張自体には私も賛成だが、現代の読者に求められているのは、『日本の黒い霧』や『深層海流』ではなく、『昭和史発掘』や『神々の乱心』を読み込むことではないか。そのためのガイド役としては、高橋敏夫よりも原武史の方が適役ではないかと思った次第だ。

  高橋敏夫の本書『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』でも『昭和史発掘』や『神々の乱心』はもちろん取り上げられているけれども、高橋本はあくまでも清張作品の総論なので、『神々の乱心』とそれに絡めて『昭和史発掘』を取り上げて独自の視点から大胆に論考を進めていく原武史の本の方が断然おすすめだ。

*1:もちろん、その膨大な史料から問題の核心部を的確に見つけ出す清張の目の確かさは、これまでにもたびたび指摘・称賛されてきた。