KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

船戸与一『砂のクロニクル』(小学館文庫)を読む

 今週の超多忙期に入る直前の先週、もうすぐしたらネットもできなくなるし本も読めなくなるとわかっていたら、却って読書欲が増して半藤一利の『ノモンハンの夏』(文春文庫, 2001)と船戸与一の『砂のクロニクル』(小学館文庫上下巻, 2014)を相次いで読んだ。前者は著者が没した一昨年に買い込みながら読まずにいた本で、後者は字の大きな小学館文庫版が図書館に置いてあったのを見て読んだ。今回取り上げるのは後者。私は同じ作者が晩年に書いた超大作『満州国演義』全9冊(2007-2015)を過去に読んだことがある。

 

www.shogakukan.co.jp

 

 この小説は『サンデー毎日』1989年6月10日号から1991年1月13日号までに連載された1200枚に400枚弱の加筆修正を行なって1991年秋に毎日新聞社から発行されたが、三段組で600頁ほどになるごつい本だったらしい。

 小説の概要をWikipediaから引用する。

 

中東の少数民族クルド人。その独立のための武装蜂起を話の中心にして、クルドゲリラのハッサン、革命防衛隊員のサミル、複雑な過去を持つ女シーリーン、そして日本人の武器商人「ハジ」、同じ名前を持つもう一人の「ハジ」の思惑と戦いを描いた、1980年代末期のイランを舞台にした作品である。主人公と目される複数の人物が、それぞれの「正義」のために戦うという内容。

クルド・ゲリラの青年ハッサンはクルド人の国家「マハバード共和国設立という正義」のため。

サミル・セイフは革命防衛隊の小隊主任として、ホメイニ師が唱える「イラン革命という正義」を守るため。

武器商人ハジは、「金という正義」のため。

おのれの信じる正義を貫くため行動する姿を、同時進行で叙述している。皆自分の信じた正義のために戦っているので、いわゆる善悪二元論という敵か味方かという話ではなく、誰がこの小説の主人公か答えにくい作品である。各章(この作品では第○の奏と示している)で登場人物の誰をメインにしているかを表すために、西暦(グレゴリオ暦)の他にペルシア暦(ジャラリ暦)とイスラム暦ヒジュラ暦)も使用している。

 

出典:砂のクロニクル - Wikipedia

 

 上記の少し付け加えると、本作はプロローグに当たる「序の奏」とエピローグに当たる「終の奏」が「もう一人のハジ」の一人称で書かれ、それを除く13の「奏」は三人称で書かれている。この「もう一人のハジ」は本作の主人公の一人であるサミル・セイフの姉である「複雑な過去をもつ女」シーリーンとともに、1979年のイラン革命当時に左派(イスラムではなくマルクス主義系)のフェダイン・ハルクにかかわっていた。だから、のちにホメイニを崇拝して革命防衛隊で働いたサミルとは相容れない立場にあったのだが、サミルはそのことを知らない。ハジとシーリーンは恋人同士だったが、ハジはある人間の裏切りにあって左脚を失ってしまう。

 「終の奏」もハジとシーリーンの物語となって本作は閉じられる。他に、グルジア・マフィアのゴラガシビリ、主人公の一人であるイラン・クルドのハッサン・ヘルムートとしばしば激しい緊張関係になるイラククルドの指導者サラディン、その妹ハリーダ・ロディンが重要な登場人物だ。『満州国演義』でもそうだったが、登場人物の大半は死に、前記の登場人物たちのうち最後まで生き残るのも2人だけである。

 上記のうち、フェダイン・ハルクについては今ではほとんど知られていないだろう。ネット検索をかけてもヒットするのはごくわずかで、その中には軍畑先輩の下記ツイートがある。

 

 

 左翼の動向には詳しいと思われる軍畑先輩でさえ上記のツイートを発信するほどだから、私などフェダイン・ハルクについては何も知らなかった。ムジャヒディン・ハルクの名前には私も見覚えがあり、これはイスラム左派だったがホメイニ一派に粛清された。フェダイン・ハルクはツデー党系で世俗的なマルクス主義系の左派だったらしく、ホメイニ一派による粛清の時期も早かったようだ。下記「中東の歴史年表」によると、1979年2月10日の項に

空軍の武器庫が開かれ、多くの市民が武装.街路にバリケードを造る.ホメイニ師は、防衛の用意をせよと市民に布告.戦いの先頭に立ったのはツデー党系のフェダイーン・ハルク(OIPEG)とイスラム左派のムジャヒディン・ハルク(OMPI).

と書かれているが、同年8月20日の項にはもう

武器携行禁止令.出版社22社に閉鎖命令.クルド民主党、ツーデ党、フェダイン・ハルクにつながる分子を逮捕.

と書かれている。イラン革命が成立するや、ホメイニは早速左翼を切り捨てたわけだ。

 

 本作は1994年秋に新潮文庫入りしたが、下巻に辺見庸が解説文を書いた。それは辺見の『もう戦争がはじまっている』(河出書房新社, 2015)に収録されている。

 

www.kawade.co.jp

 

 私は上記辺見の本の実物を持っており、この記事を書く前にそれを参照もしたが、さすがは辺見庸だとしか言いようのない文章だった。しかし今はまだ仕事疲れが全然とれていないので、辺見の解説文の一部を参照した下記サイトの記事を参照するにとどめる。

 

《追悼》船戸与一には何度も思いっきり殴られた

2015年4月23日 カテゴリー 書評・出版田所敏夫

 

「本文からではなく、解説から読む癖のある読者諸兄姉のために、ひとこと申し上げる。あなたの身は間違いなく本書の放つ劫火(ごうか)に焼かれ、その力に薙ぎ倒されるであろう。勝利者たちのこしらえる『正史』に激しく抗う者たちの瞋恚(しんに)の炎が、頁という頁にめらめらと燃えているからだ。真実の『外史』が、虚偽の正史を力ずくで覆しているからである。しっかりと心の準備をしておいたほうがいい。備えが済んだら、ひとつ深呼吸をして『飾り棚のうえの暦に関する舌足らずな注釈』から、目を凝らして、ゆっくりと読み進むがいい。熱くたぎる中東の坩堝に(るつぼ)に足もとから徐々に呑みこまれてゆくだろう。そして、読破した時、あなたの見る世界はそら恐ろしいほどに色合いを変えているはずだ。以上のみを言いたい。以下は蛇足である」

船戸与一代表作『砂のクロニクル』の解説に辺見庸が寄せた文章の書き出しである。

辺見のこの絶賛に誇張はない。大方の船戸作品の解説にも援用できそうな比類ない名解説だと思う。

とうとう船戸与一が鬼籍に入ってしまった。いつかこの日が来ることは覚悟はしていたけれども、ニュースサイトで船戸の訃報に接したとき、「え!」と声を上げてしまった。

 

◆船戸の内部に横たわっていた絶対的な物差し

 

私は船戸に何度も思いっきり殴られた。喧嘩の仕方も教わったし、語学習得のコツも教わった。気が付けば銃器の扱いの基礎も船戸から教わっていたので初めて自動小銃に触れた時も思いのほか違和感がなかった。

船戸は私にとって歴史、政治学、地理学、人類学の教師でもあった。意外かもしれないが「倫理学」も時々示唆してくれた。どちらかと言えば「左巻き」の私の思考傾向をいつもハンマーでぶち壊してくれた。船戸の内部には「正義」などなかった。もちろん「革命」への幻想など持ち合わせていなかった。でも船戸は「正義」を信じ行動する人間や「革命」に命を懸ける人間を決して軽蔑しなかった。

船戸の内部に横たわっていた絶対的な物差しがある。それは船戸が(自身がそうであるように)「硬派」を一貫して支持つづけた姿勢だ。「硬派」は右にも左にも国家の中にも国家の滅亡を目指すものの中にもいる。船戸の着眼は常にそういった「硬派」へ向けられていた。

 

◆「彼らを日和らせたくないから、そのためには殺すしかない」

 

船戸作品にあっては主たる登場人物は必ず死ぬ。私自身勝手に「船戸ファイナル」と名付けていた極端も過ぎるダダイスティックな結末が必ず準備されている。不謹慎ながら読者としては愛すべき「硬派」達が最後には破局に向かうのが必定と解りながらもそわそわしながらページをめくる。

そしていざ導火線に火が付けば、それこそ書籍の中から戦場が立ち上がって来る。ありもしないヘモグロビンの血生臭さや、硝煙が生のように感じられるから不思議であることこの上ない。

あるインタビューで船戸は最後に登場人物を何故殺してしまうのか、と問われて答えていた。

「生きていると人間は日和るんです。彼らを日和らせたくない。その為には語らせないように、つまり殺すしかないわけです」

随分と恐ろしことを平気で言ってのける。さすが船戸だと感じいった。

船戸の中にはよって立つべき「主義」や「主張」など一切なかった。ただ船戸自身の皮膚感覚と常人を逸した取材力の賜物が奇跡を可能にせしめたのだろう。

「私は船戸に何度も思いっきり殴られた」と書いたが、勿論実際に殴られたわけではない。書物を通しての一方的受信しかなかった。

ただ一度だけ船戸と短い時間電話で言葉を交わしたことがある。講演を依頼しようと思い自宅に電話をかけたのだ。講演の趣旨とに日程を伝えると船戸は、

「その時は日本にいません」

とだけ語り電話を切った。

船戸に語らせるなど、無粋に過ぎる。断られてよかったと思っている。前出の辺見庸が『屈せざる者』(角川文庫)で船戸に人生論を語らせようとして、見事に失敗している。読んでいて心地よい失敗は珍しい。

 

(デジタル鹿砦社通信より)

 

URL: https://www.rokusaisha.com/wp/?p=7219

 

 辺見庸も同じようなことを書いている。以下に辺見が書いた新潮文庫の解説文を河出書房新社の本から孫引きする。辺見は船戸が若き日の1975年に豊浦志朗名義で書いた『硬派と宿命』に言及して下記のように書いている。なお「船戸」も「豊浦」も出身地である山口県の地名からとられているとのことで、本名は原田建司という。

 

(前略)船戸は冷戦時代におけるいわゆる進歩主義者たちの思想に身を寄せず、右にせよ左にせよ理想を掲げるいかなる組織もやがて変質し腐敗するものであり、偽善と底なしの非情があるという実相を、驚くほど醒めた目で見抜いていたこと。換言すれば、米ソ冷戦時代の自称革命家たちに特徴的な善悪二分法に、私から見れば奇跡的に、染まらなかったということである。同じ文脈で、革命する側にも、反革命を行う側にも、仔細かつ公正に描かれなければならない人物がいるということを、船戸は若くして意識していたのである。

 政治と人間に対する、この絶望の深さこそが、後日、船戸に小説という無限容量の器を必要とさせることになり、そしてその作品群に重量と奥行きを与え、まがいでない思想的命を吹き込むこととなった源なのである。

 

辺見庸『もう戦争がはじまっている』(河出書房新社,2015)222-223頁)

 

 辺見庸がここまで絶賛した船戸与一の『砂のクロニクル』を一度は読んでみたいと思っていたが、なかなか図書館でも見当たらなかったのでこれまで機会がなかった。しかし先月末にみつけたので、まず上巻を借りて読み、例によって最初はスローペースだったが上巻の3分の2くらいに差し掛かった頃からどんどんペースが上がり、下巻は先週土曜日午後に借りて日曜日の午後には読み終えていた。本作は文句なしに面白かった。普段はこういうハードボイルド系の小説に接する機会はほとんどないにもかかわらず。

 ところで、本作は1992年に『このミステリーがすごい! '93年版』(JICC出版局)の国内部門第1位に選ばれている。船戸作品は本作の他にも「このミス」のベスト3に入った作品が2作あるとのことだ。

 本作については1位も納得できる。その点に触れているのが下記FC2ブログの記事で、これは今年5月4日に公開されている。内容にはネタバレが含まれているので、ここではリンクを張るにとどめておく。未読かつ読みたいと思われる方は、下記リンクのブログ記事は読まない方が良い。

 

 ブログ主と同様、私も「ヒントは確かにあったなあ」とは思ったものの、読んでいる最中には全然気づかなかったので「やられた」と思った。小学館文庫下巻の410ページが該当箇所だ。

 本作にはこういう楽しみもある。後半ほど物語に引き込まれたことで思い出したのは、やはりミステリ仕立てを含むディケンズの『荒涼館』だった。こちらは昨年春に読んだ。

 本作を読んで、船戸与一の他の未読作品も読みたくなった。

 そうそう、本作には日本の古い演歌『カスバの女』が出てくる。隻脚のもう一人の「ハジ」がシーリーンに教え込んだ歌だ。最後に、デビュー2年目の1967年にカバーしてこの歌を有名にした緑川アコの歌唱へのリンクを張っておく。

 

www.youtube.com

 

 他に青江三奈ちあきなおみ藤圭子、それに1955年の初出時に歌ったエト邦枝の歌も聴いてみたが、1967年当時20歳だったという緑川アコの歌が一番良かった。この人が歌手になったのは、プロ野球・読売軍のスター選手だった王貞治に見出されたことがきっかけだったらしい。

 

plaza.rakuten.co.jp