先々週の記事に取り上げたハンガリー出身の名ピアニスト、アンドラーシュ・シフ(1953-)は、昔から祖国ハンガリーのオルバーン政権を批判して、祖国では演奏をしないと宣言するなどの「政治的な発言をする」イメージがあったが、シフより2歳年下の中国系アメリカ人チェリストのヨーヨー・マ(中国名・馬友友, 1955-)には政治的な印象は全くなかった。検索語「ヨーヨーマ 政治」で下記ブログ記事(2013年公開)がヒットした。
以下引用する。
ひさしぶりのヨーヨー・マ。ヨーヨー・マはあまり政治的なことに発言したりしない人ですが、めずらしく芸術・文化の社会における重要性を説く講演に登壇。もちろんチェロを持って。今週4月8日、アメリカ・ワシントンDCのJ.F.ケネディセンターで行われた芸術文化振興団体Americans for the Arts主催の講演会で[NPR経由]。
ビデオの37分くらいのところからサン=サーンス「白鳥」で前にもあったリル・バックというダンサーとのコラボレーション。2つの異なる生態系が接するところに新しいものが生まれる「エッジ効果(edge effect)」、というエコロジー分野の考え方を引き合いにだしながら。途中、他にも演奏していますが最後のほう、1時間13分くらいのところからバッハ無伴奏チェロ組曲6番サラバンド。
私はヨーヨー・マのバッハにあまり感心したことがなかったが、それは1980年代のことで、全部で6曲ある無伴奏チェロ組曲の第1,3,5番のCDをあまり良いとは思わなかった。
そのヨーヨー・マが最近政治的な件で話題になった。
トランプが館長になったケネディ・センターで演奏する気はないと公言しちゃったヨーヨー・マ。DEIとか否定しちまって、知的でも芸術的でも全エリートたちの所業を否定する方向で行ったら、アメリカ、みんな中西部の農村部のあのトウモロコシ色の黄茶けた風景になっちゃって、グレートってそれかい? https://t.co/d5WqZ2d6Ns
— 北丸雄二💙💛❤️🖤🤍💚 (@quitamarco) 2025年5月24日
下記Xにリンクが張られている。
BREAKING: MAGA world erupts in rage at legendary cellist Yo-Yo Ma after it's announced that he will be avoiding the Trump-controlled Kennedy Center in favor of other venues.
— Occupy Democrats (@OccupyDemocrats) 2025年5月23日
It turns out that our nation's best artists want nothing to do with this fascist president...
According… pic.twitter.com/a3zxC4sGhc
"OccupyDemocrats" のアカウントから発信された長文のXのGoogle翻訳を下記に示す。
速報:伝説のチェリスト、ヨーヨー・マがトランプ大統領が支配するケネディ・センターを避け、他の会場で公演を行うと発表したことを受け、MAGA(国際舞台芸術協会)界は激怒している。
我が国の最高のアーティストたちは、このファシスト大統領とは一切関わりたくないようだ…
ワシントン紙によると、ワシントン・パフォーミング・アーツのブッキング組織は、当面の間、ジョン・F・ケネディ記念センターへのアーティストの出演を避けているという。
ケネディ・センターはここ数ヶ月、一流アーティストの流出に見舞われている。ドナルド・トランプ大統領が約24名の理事を解任し、リチャード・グレネル氏を会長に据えたMAGA支持者をセンターに据えたためだ。
ワシントン・パフォーミング・アーツの広報担当者は、「アーティストとその作品を、芸術、観客、そしてその瞬間に最も適した会場と慎重にマッチングさせる」ことを目指しているため、「ケネディ・センターは利用しない」と述べた。
彼らはさらに、「今シーズンのアーティストや公演の多様性を評価し、新たな可能性を秘めた新しい空間を模索するのが最善だと判断しました」と付け加えました。
ワシントン・パフォーミング・アーツの撤退により、ケネディ・センターは他のエキサイティングな公演も失うことになります。同センターは「WPAの年次ルース・ベイダー・ギンズバーグ記念コンサートでシガニー・ウィーバーとパシフィカ・カルテットがシックスス・アンド・アイで、シカゴ交響楽団がストラスモアで、ヨーヨー・マがストラスモアで、ミドリがシックスス・アンド・アイで」と発表しました。
このニュースは、トランプ氏が初めて汚職に手を染めて以来、資金の流出と人気低下が続いてきたケネディ・センターにとって、新たな痛手となるに過ぎません。
ニューヨーカー誌のケイティ・ウォルドマンは最近、「トランプ氏が就任する前のセンターの業績が好調であろうとなかろうと、トランプ氏の反ミダス的な影響力がここには作用しており、今やすべてが悪化している」と述べています。
「チケットの売り上げが落ちているだけでなく、寄付も停止され、アーティストも公演を中止しています。資金の流入経路はすべて縮小、あるいは閉鎖されています」と彼女は付け加えた。
今まで政治色の強くなかったヨーヨー・マは過去にはそのケネディセンターでブッシュJr大統領時代のアメリカ国務長官だったコンドリーザ・ライスと共演していた。
Wikipediaによると、「コンドリーザ」の名前には下記の由来があるそうだ。
生い立ち
[編集]1954年11月14日にアメリカのアラバマ州バーミングハムで、ジョン・ウェズレー・ライスJr.とアンジェレーナ・ライス夫妻の一人娘として生まれた。父親は長老派教会の牧師で、母親は音楽教師であった。名前はイタリア語の音楽用語「コン・ドルチェッツア con dolcezza」(甘美に柔らかく演奏する)に由来する。
しかしながら、プロの演奏でないから仕方ないとはいえ、チェロとピアノのための音楽とはいえ初期にはピアノ曲ばかり書いていてピアノが大の得意だったシューマンの音楽に「コン・ドルチェッツァ」の発想記号とはいささかかけ離れた演奏だなあと思った。そしたらYouTubeの画面の右側の欄に、同じ曲の下記の動画が表示されていたのでそちらも視聴した。
チェロを弾くソル・ガベッタは1981年生まれのアルゼンチンの人で、比較的最近知った。そのガベットの名前をネット検索したことがあったから表示されたのだろうが、注目したのはまだ少女とおぼしきピアノストの方で、なんと2007年7月1日生まれの当時15歳(演奏会当日が誕生日だったようだ)ながらヨーロッパで天才少女ピアニストとして注目されているというロシア生まれのアレクサンドラ・ドヴガンという人だった。アマチュアと(少女ながら)プロを比較するのもどうかとは思うが、ライスとマの演奏よりはこちらの方がずっと良いと思った。
ロシアといえばプーチンだのウクライナ戦争との絡みだのが直ちに思い浮かぶが、最初に気づいたのは「ドヴガン」という姓だ。ロシア流の女性の姓なら「ドヴガナ」になるんじゃないかと思った(たとえば男性なら「ザギトフ」となる姓が女性なら「ザギトワ」になるように)。しかし彼女は「ドヴガン」だ。たぶん正統ロシア系の人ではないのではないかと思った。
さらに調べると下記のブログがヒットした。
アレクサンドラ・セルゲイェウナ・ドヴガン(Александра Сергеевна Довгань) は、2007 年 7 月 1 日にモスクワ生まれ、ロシアの ピアニストです。
教育
ドヴガンの両親は音楽家である。彼女は4歳からピアノのレッスンを始めた。5歳でモスクワ音楽院に入学し、ミラ・マルチェンコを教師に迎えた。
彼女の教育は、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ財団、ウラジーミル・スピヴァコフ財団などから支援を受けた。
ロシアのウクライナ侵攻後、彼女はスペインのマラガに移住した。
キャリア
若い頃から、ドヴガンはヨーロッパの多くの主要なコンサートホールで演奏してきた。
2018年にはデニス・マツーエフやワレリー・ゲルギエフとともにサンクトペテルブルクのマリインスキー国際ピアノフェスティバルのオープニングを務めた。
2019年には、当時11歳だったドヴガンはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とともに「ロシアの季節 ドイツ」のオープニングに参加した。
その後、ミュンヘン・プリンツレーゲンテン劇場、アムステルダム・コンセルトヘボウ、シャンゼリゼ劇場、ウィーン・コンツェルトハウス、ベルリン・ピエール・ブーレーズ・ザール、チューリッヒ・トーンハレなどに出演した。
彼女はザルツブルク音楽祭、ルール・クラヴィーア音楽祭、ラインガウ音楽祭で演奏した。
ドヴガンが協力した著名な国際オーケストラには、スヴィツェラ・イタリアーナ管弦楽団、スロベニア・フィルハーモニー管弦楽団、クングリーガ・フィルハーモニカ・オルケシュテルン、バルセロナ・カタルーニャ国立管弦楽団、オーケストラなどがある。
スペイン国立、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、リスボンのグルベンキアン管弦楽団。
ルドルフ・ブッフビンダーは、彼女が2024年のセルダン賞を受賞した際に次のように書いている。「彼女は信じられないほどの才能と努力により、同世代の傑出したピアニストに成長しました...
彼女の技術的な輝き、音楽的な感受性、表現力により、彼女は何度も聴衆を感動させています。
彼女の解釈は深く感情的な強さが特徴で、聴衆の心に触れます。」
受賞歴
- 2014年: 国際音楽インターネットコンクール第1位(メキシコ、ビジャエルモサ)
- 2016年:モスクワ国際若手音楽家コンクール第1位
- 2017年:モスクワ国際ウラジーミル・クライネフ若手ピアニストコンクール第1位
- 2017年: 若手音楽家のための国際テレビコンテスト「くるみ割り人形」第1位
- 2017年:モスクワグランドピアノコンクールグランプリ
- 2017年:アスタナ・ピアノ・パッション国際ピアニストコンクール第2位(カザフスタン)
- 2018年: 若いピアニストのための国際グランドピアノコンクール第2回グランプリ
- 2024年:セルダン賞(スイス)
ロシアのウクライナ侵攻後にスペインのマラガに移住したとある。ドヴガン一家は、どうやらプーチンのロシアとは「つかず離れず」の距離感を保っているのではないかと思った。
ドヴガンには動画のチャンネルがあり、その中でヒット数が6位の人気の動画で、過去1年以内に公開された動画としては最多の視聴回数を誇るのは下記のバッハのパルティータ第6番の動画だ。演奏自体は過去1年以内よりはやや古く、ドヴガン16歳の2023年12月5日にスイスのラ・ショー・ド・フォンで演奏された。
コメント欄に下記のロシア語によるコメントがあった。日本語訳とあわせて下記に示す。
C'est vrai que le Maître Sokolov l'a bénie de son âge d'ado. Une fille d'origine Ukrainienne ( son prénom Dovgan se traduit comme Longue) et sa constante professeur Ukrainienne - Mira Marchenko l'a formée. Merci à ses parents et professeurs surtout à Mira Marchenko.
ソコロフ師が彼女が十代の頃から祝福を与えていたのは事実です。 ウクライナ出身の少女(彼女の名前のドヴガンは「長い」という意味です)と、彼女の専属ウクライナ人教師であるミラ・マルチェンコが彼女を指導しました。 両親と先生方、特にミラ・マルチェンコに感謝します。
先に引用したブログ記事によればドヴガンはモスクワ出身のロシア人とのことだが、ルーツがウクライナにある可能性があるようだ。あくまで未確認情報だけれども、「ドヴガン」がウクライナ系の姓であることはほぼ間違いなさそうだ*1。
ソ連時代に国籍を剥奪されたロストロポーヴィチの財団から援護を受けたり、ロシアのウクライナ侵攻後にスペインに移住したりしたことも、ロシアとは「不即不離」の関係にあるのではないかという私の推測を補強する。
ドヴガンの演奏は非常に良いとは思うけれどもグレン・グールドより良いなどとは思わない。しかしこの第6番のパルティータはグールドが6曲からなるパルティータ集の中でももっとも好んだ曲だ。しかしグールドはこの曲のステレオ録音は残さなかった。終曲のジーグだけに関しては、変なリズムで演奏したアンドラーシュ・シフの1980年代の演奏より良いのではないか。そういえばシフの演奏はサラバンドもやや精細を欠いていた。
動画のコメント欄には、そのシフへの言及もあった。
Andras Schiff applauding.
アンドラーシュ・シフ氏が拍手している。
本当にシフが拍手していたかどうかは確認していない。だがここでシフの名前が出てきたことで、トランプに抗議してアメリカでの演奏をボイコットしたシフの名前に記事がつながった。
先日取り上げた湯茶碗こと中国系アメリカ人ピアニスト、ユジャ・ワンも、このウクライナ系かもしれないロシア人ピアニスト、アレクサンドラ・ドヴガンも、ともに私は知らなかった。後世の西洋クラシック音楽演奏史において、彼らがどのように記述されることになるかは、「前期高齢者」入りを控えた私には知りようがない。ただ、ホロヴィッツ系と思われる湯茶碗とは、ドヴガンは系列が違いそうだとは思う。グールド系やシフ系になるかはわからないが。
なお一般向けにとでもいうか、ショパンの嬰ハ短調のワルツの動画も以下にリンクしておく。正直言って特に私が好む曲でも好む演奏でもないが、3分半ほどの短い曲だし、昨年12月の比較的新しい演奏だ。
また、本記事はヨーヨー・マの話題で始めたので、(邪魔な)コンドリーザ・ライスが出てこないマの演奏へのリンクも以下に張っておく。
*1:たとえば、https://kumanichi.com/articles/855537(有料記事だが無料部分の終わりの方)、https://note.com/jibundekangaeru/n/ncc4b7a9d0e39(「ウクライナの歴史家ウラジーミル・ドヴガン」との記述)など。