KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

アンナ・ネトレプコのヴェルディ『椿姫』を視聴する/『ラ・ボエーム』と『カルメン』の原作を読む/『大いなる遺産』補遺など

 3連休だが、3月の仕事予定が厳しくて、明日(2/24)はその準備に充てなければならないので、やりたいことをやるのは昨日(2/22)が勝負だった。そこで、怖いもの見たさで買った「プーチン人脈の名歌手」アンナ・ネトレプコ主演のヴェルディ『椿姫』のDVDを視聴した。

 

www.universal-music.co.jp

 

 上記リンクを見ると2009年発売当時に税込4169円だったようだが、私は渋谷のタワーレコードで2019年か20年発売の限定盤UCBG-9285(税抜き1800円)を買った。税込こうねで1980円。最近は渋谷のタワレコではロックまで古いジャンルとしてそれまでクラシックがジャズなどと同居していた7階に押し込められ、クラシックは8階の狭い売り場に移って品揃えが悪くなったが、クラシックは(ジャズなども同じだろうが)新しい録音や録画が良いとは全くいえないジャンルなので、新譜にはほとんど関心がない。

 昨年、アーノンクール指揮の『フィガロの結婚』のスザンナでは違和感ありまくりながらどうしても注目してしまうネトレプコだったが、予想通り『椿姫』のヴィオレッタの方がよく嵌まっていた。娼婦役がこの人には似合っていると言ったら偏見だろうか。実社会では敬遠したいタイプの人だが、なんといっても歌唱力は抜群で、演技力もある。2005年のザルツブルク音楽祭で大評判をとった舞台らしいから、いつかは試聴しないわけにはいかないだろうと思っていた。

 ところで『椿姫』のヴィオレッタも『ボエーム』のミミと同じく肺病病み(結核患者)で、最後に死ぬ。ヴェルディプッチーニもラストに嬰ハ短調を選んだようだが、この2人のイタリア人作曲家はシャープ4つのこの調性にそういうイメージを持っていたのだろうか。しかし舞台では2人の死に方はずいぶん違う。ネトレプコはミミも演じたことがあるそうだが。

 『ボエーム』の原作であるミュルジェールの『ボヘミアン生活の情景』はメリメの『カルメン』と一緒に図書館で光文社古典新訳文庫で借りて読んだが、金を出して本を買ってまで読む価値はないと思った。前者はオペラの題名に合わせて『ラ・ボエーム』と題されている。昨年末にNHK井上道義の最後のオペラとして放送された直後に区内の別の図書館に行ったらなんと借り出されていたので、南砂の江東図書館で借りて読んだ(既に先週返却した)。東京23区は図書館が豊富にあるので便利だ。

 

www.kotensinyaku.jp

 

www.kotensinyaku.jp

 

 ミミとヴィオレッタの結核については下記ブログ記事が興味深かった。2006年の記事。

 

plaza.rakuten.co.jp

 

 以下引用する。

 

 フランス文学者の、鹿島茂さんにお会いした。
 この7月に、愛知県芸術劇場で、講演会にご一緒させていただくことになったのだ。
 講演会といっても、メインはもちろん鹿島先生で、私は聞き役。面白いお話を、引き出す役目である。
 テーマは、10月に同劇場で上演される、プッチーニの「ラ・ボエーム」。オペラの背景になっている19世紀半ばのパリの様子について、お話をうかがう、というもの。
 いくつか質問してみたが、思わず膝を打つような答えが聞けて面白かった。

 私が「ボエーム」で一番知りたかったことは、「お針子」という存在なのだが、これは鹿島先生の著書にくわしい。「お針子」は、貧困層出身の女性労働者、日本でいえばさしずめ女工さん。ただパリのお針子が日本の女工と違うのは、何と行っても花の都パリなので、アヴァンチュールがそこらじゅうに転がっていたということ。学生の気軽な恋の相手や、ちょっとした小金持ちの愛人になるのは「お針子」と決まっていたらしい。なかで飛びぬけていると、「椿姫」のヒロインのモデルになった高級娼婦にもなれたそう。
 で、一番疑問に思っていることをきいてみた。
 「ミミは結核なのに、なぜパトロンを見つけたりできるんでしょうか?」
 前から疑問でした。伝染病の結核にかかっているのに、なぜミミやヴィオレッタはパトロンと付き合うことができるのか?ミミなんて新規開拓?までしている。病気持ちだから薬代のためにパトロンとつきあうって、なんか変じゃないか?
 鹿島先生の答えは明快だった。
 「結核が伝染病だなんて、当時は誰も知らない。第一、病気が感染するなんてこともわかっていなかった」
 病気が細菌によるものだなんて分かったのは、パスツール以降だそう。なるほど、ナットクしました。


 もうひとつ、「日本のムゼッタ」は誰か?
 答え:林芙美子
 なんだそうです。カフェの女給をしながらたくましく生きていった、ということで。うーん、ムゼッタとはちと違うように思うが・・・

 

URL: https://plaza.rakuten.co.jp/casahiroko/diary/200605170000/

 

 結核といえばともに1996年に亡くなった武満徹(1930-1996)と遠藤周作(1923-1996)もそうだった。武満徹など夫婦揃って結核だったが、浅香夫人は2019年まで生きた。享年は不明だが90歳前後だろう。

 ところで上記2冊の本を返す時、先月読んで大いにはまり、ついには河出文庫版の上巻*1まで買ってしまったディケンズの『大いなる遺産』の岩波文庫版(石塚裕子訳)の上下本が置いてあった。訳者解説文と翻訳の一部を少し読んだが、石塚氏は小池滋(1931-2023)の弟子にあたる英文学者で、現在は神戸大学教授をされているようだ。

 この小説には「加害/被害」のツリーが大きくみて2本ある。メインのストーリーにおいては、ミドル以上の階級の出自と思われる極悪人コンピーソン(人名の表記は加賀山卓朗訳の新潮文庫版による。以下同様)を連鎖の頂点として、コンピーソンに結婚詐欺をやられたアッパーミドル階級のミス・ハヴィシャムは養子として迎えた本小説のヒロイン・エステラを「復讐の道具」たる「モンスター」(Logophile氏のnoteによる)に仕立て上げ、そのエステラから主人公にして労働者階級出身のピップに冷たく接し、ピップは同じ階級にいたジョー及びビディを裏切った。また別のツリーとして、極悪人コンピーソンと遺産の贈与人になるはずだった犯罪者・マグウィッチ、前記2人による犯罪の被害者という「加害/被害」のツリーがある。このうち、メインの悪しき連鎖が大きく崩れるところがこの小説の核心部だ。

 この「加害/被害」のツリーにおいて、ミス・ハヴィシャムに感情移入したのが石塚氏だった。しかしそういう視点だと、エステラがミス・ハヴィシャムから受けた被害が過小評価されるのではないか。そうなると自動的にピップにも感情移入しにくくなるので(現に初読時の私がそういう状態だった)、ことさらに「絶対善」であるジョーとビディが称揚される。しかしその読解だと「階級の固定化」に悪用される恐れがありはしないか、というのが私が思ったことだ。現代人の生き方はどうしてもピップ的あるいはエステラ的な様相を呈してしまうのではないだろうか。

 石塚訳は会話における人名の表記にも問題がある。たとえばピップは同年齢に設定されたエステラや1,2歳年上に設定されたビディを「さん」付けで呼び、ですます調で話す。ピップがエステラにですます調で話す翻訳は加賀山卓朗訳でも佐々木徹訳でも同じではあるが、エステラを「さん」付けで呼ぶ石塚訳だとピップが最後まで心理的エステラに対して劣位にあるように読めてしまう。しかしエンディングの部分ではもはや陽プとエステラは心理的に対等なのではないかと私は思う。あの時点でもエステラはなお強がってはいるけれども、ピップがエステラとの再びの別離を見なかった、という最後の文章はそういう意味だろう。そう考えると、石塚裕子岩波文庫版は、私が甲乙付け難いと思っている新潮文庫版の加賀山卓朗訳や河出文庫版の佐々木徹訳よりは少し落ちるのではないかと思った。解説を読んでも、当初案と決定版の二通りある結末について、後者はハッピーエンドだけれどもピップとエステラは結ばれても前途多難だろうなどという意味のことが書かれているだけだ。

 前にも書いたかもしれないが、紙の本なら河出文庫版を、電子版なら新潮文庫版というのが私の選択だ。特に、前記3人の訳者の中では唯一学者ではなく、英米のエンタメ小説の翻訳が中心の訳業だった加賀山氏が、ディケンズ作品において先人の訳業や研究者や一般者の作品解説を読み込んだ上、自らは黒衣に徹する翻訳をしていると思われることに感銘を受けた。『大いなる遺産』は3人とも50代での仕事と思われるから、それまでどういう生き方や考え方をしてきたかが翻訳に反映されているのではないかと思った。私は前述の通り、書店に置いてあった本の状態がたまたま良かった(2024年発行の第6刷だった)河出文庫版の上巻を買った。なお江東区の東陽図書館に置いてあったのも同じ第6刷だった。

 ところで「加害/被害」の連鎖関係で重大な被害を受けた誰かを「モンスター」と認定するとは、つい最近どこかで聞いたような話だ。フィクションでは浦沢直樹の漫画という出典があるから良いが、現在の日本での話となると全くの言語道断である。その件があったから、ブログでの連載を終えたはずの『大いなる遺産』の話を蒸し返した次第。

 現在は、肩の凝らない下記の本を読んでいる。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 私ももともとは大阪人なもので。作者も大阪出身である。しかし作中に出てくる江戸っ子言葉の「すっとこどっこい」を江東区で生で聞いたことはいまだに一度もない。

*1:下巻は書店に置かれていた本の状態があまり良くなかったので買わなかった。どうせ上巻もすぐに読み返すつもりはない。