下記ツイートを見てふと「中河原理」の名前を思い出したのだった。
岡田克也、枝野幸男、安住淳氏が「世界日報」に登場したことがあったとは知らなかった。立憲民主党が統一教会問題にすぐに反応できなかったのは、こうした背景があったからなのか。与党と対峙しなければいけないのに、スネに傷があって身動きがとれなくなるのは、旧民主党勢力にありがちなパターンだ。
— 神子島慶洋⊿ (@kgssazen) 2022年7月24日
岡田克也、枝野幸男、安住淳の3人が『世界日報』に登場したことは、当の『世界日報』側が立憲民主党の石垣のりこ議員に対する「脅迫」めいた「抗議文」の文中で明らかにしたことだ。下記リンクに示す。
世界日報より抗議文が届きました。
— 石垣のりこ (@norinotes) 2022年7月22日
世界日報を「統一教会の機関紙」とする私の発言の撤回を求める内容です。
結論から申し上げますと、このような脅しに屈し、私が発言を撤回することは決してありません。
なお後述するとおり、世界日報を統一教会の機関紙と扱う学術書や辞書類は複数存在します。 pic.twitter.com/pY78Kvsx3w
なお抗議文の末尾の日付が「平成4年」になっているのは誤記であり、本文中には「2022年」と書かれている。弊ブログのように現元号を忌避しているのなら統一教会は思わぬ「お仲間」になるのだが、まさかそんなことはあるまい。
『世界日報』の編集方針は、おそらく彼らにとっての宿敵『赤旗』をモデルにして、一般紙に準じた紙面の体裁をとっている。だから「改憲」の共通項で民主系の政治家が多数登場するわけだ。彼らは藤倉善郎氏や鈴木エイト氏も「統一教会関連議員」には含めていない。もちろん岡田、枝野、安住各議員が早めにコメントすべきであることはいうまでもないが。
そう考えているうちに思い出したのが中河原理(1931-1998)の名前だった。1970年代の中学生時代に、初心者向けのクラシック音楽解説本でずいぶんお世話になったし、1977年から6年ぶりに読むようになった朝日新聞の夕刊文化面でも演奏会評だかでしばしば名前を見たように記憶する。以下Wikipediaから引用する。
中河 原理(なかがわ げんり、1931年11月4日 - 1998年4月3日)は、朝日新聞記者、音楽評論家。
来歴[編集]
旧制成蹊高等学校卒業。
東京大学英文科卒業、同修士課程修了、朝日新聞社に入社、音楽評論家として活動した。
1998年4月3日、心筋梗塞のため66歳で亡くなった[1]。
しかしある時期から中河氏に対する印象が大きく悪化した。それは氏が『世界日報』に音楽時評を書いていることを知った方からだ。そのことは上記Wikipediaには出てこないし、氏は24年前に亡くなっているので検索語「中河原理 世界日報」でググっても、下記URLが引っ掛かったのみだ。しかし、そこにはっきり中河氏が『世界日報』に音楽評論を書いていたことが示されていた。下記にリンクを示すが、作家の河野多惠子(1926-2015)の追悼文に中河氏の名前が出てくる。
以下に関連箇所のみ引用する。
河野さんは人間を霊的なものと認識していて、その世界を言葉で探ろうとしていた。作者と想像力についてこう説明する。「タコと糸との関係ね。糸をこう引いたからといって、タコがどこへ行くか計算ができない」。
手にある糸と、偶然と必然で動くタコが、タイアップしているという。「言葉や文章で表現できないものは無い」と思ってはいるが、「他の芸術を言葉で伝達することだけは不可能」とも語る。
そんな話を聞いたので、小紙に連載された音楽評論家・故中河原理さんの「音楽時評」が初めて本になった時、書評をお願いすると引き受けてくれた。その文章に深い感銘を受けたようで賛辞を惜しまず、「いい人を見つけたわね」と称えてくれた。
どうやら河野多惠子も『世界日報』に中河氏の著書の書評を書いたことがあるらしい。『世界日報』に登場したというわけだ。しかしどの程度の頻度で同志に登場していたかのはわからないし、河野氏の名前と「世界日報」あるいは「統一教会」を検索語にしてググっても、少なくともトップページにめぼしいサイトは引っ掛からない。
中河氏が『世界日報』に音楽時評を書いていたのを知ったのはおそらく前世紀のことで、もしかしたら1980年代だったかもしれない。当時は「それで『原理』という名前なのかな」と思った。大学の「原理研究会」を連想したのだ。しかし、もし氏が朝日新聞を辞めて音楽評論家として生計を立てようとしていた等の事情があったとしたら、単に収入を得るためだけの理由で世界日報に音楽時評を連載したものかもしれない。朝日新聞にはあの大御所・吉田秀和(1913-2012)が「音楽展望」だったかを書いていたので、中河氏の入りこむ余地など全くなかった。
果たして故中河氏を「統一教会関連人士」といえるかどうかも微妙なのではないかと今の私は思う。
統一教会を批判する側(私もその一人である)は、あまり攻撃範囲を広げ過ぎない方が良いのではないかと思う。攻撃目標が曖昧になり、敵の本丸を逃がしてしまったら元も子もないからである。