KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

井上ひさし『十二人の手紙』、『四捨五入殺人事件』を読む

 今年は井上ひさしの没後10年とのことで、1984年に新潮文庫から出ていた『四捨五入殺人事件』が中公文庫から改めて出版された。帯に「どんでん返しの極致」、「だまされる快感!」とあるからミステリー作品らしい。

 

 

 しかし、9月にさる大書店でこの本が平積みされているのを見掛けた時、その隣に作者も出版社も同じ『十二人の手紙』が平積みされていた。こちらは1980年に文庫化され、2009年に文字を大きくして改版された。今年2月に増刷された時、やはり「どんでん返しの見本市だ!!」との帯がつけられた。

 

 

 この寸評は、啓文社西条店・三島政幸氏によるものだそうだが、帯をつけたのは出版元の中央公論新社だ。なお、西条店といわれてもどこの西条だかわからなかったし、啓文社というのがどこの書店なのかも知らなかったが、ネットで調べたところ、広島県尾道市に本店があり、西条店というのは東広島市西条のゆめタウン*1にある店舗らしい。

 

 

 また、三島政幸氏はネットでは「政宗九」と名乗っておられるらしく、氏が書いたと思われる下記noteをみつけた。

 

note.com

 

 こちらも未読だったし、40年前に文庫化されていてその後も増刷されているから、こっちの方が面白いに違いないと思って、これが面白ければ『四捨五入殺人事件』の方もあとで買って読もうと思い、9月には『十二人の手紙』の方だけ買った。

 『十二人の手紙』を読んだのは今月に入ってからだったが、非常に面白かったので今月の3連休の前日に、前記とは違う都内の大型書店で本を8冊買い込んだうちの1冊として『四捨五入殺人事件』を選んだ。予想通り、より良かったのは『十二人の手紙』の方だった。今年に入って読んだ小説では一番良かった。しかし、『四捨五入殺人事件』も悪くなかった。そこで、今回は『十二人の手紙』をメインにして、『四捨五入殺人事件』にも触れることにする。

 

 ところで、前述のような帯がついている文庫本を読む時に大事なのは、あんまり帯の煽り文句に引っ張られないことだ。『十二人の手紙』を読んだあと、例によって「読書メーター」の感想文に目を通していると、帯の煽り文句に引っ張られて失敗している読者を多数発見した。

 『十二人の手紙』は基本的に12の短篇とおまけの「エピローグ」からなる短篇集だ。最後に、12の短篇に出てきた登場人物が一堂に会して、松本清張エラリー・クイーンかと思わせるミステリ風の締めくくられ方だし、短篇の中には江戸川乱歩のある短篇を連想させるものもあるが、決してミステリ作品とはいえない短篇の方が多い。

 むしろ、手紙という文字媒体が持つ「信頼できない語り手」という特性を活かした短篇が目立つ。もちろんミステリにも「語り手が犯人」というトリックや、筒井康隆の『ロートレック莊殺人事件』のような叙述トリックの作品があるけれども、「信頼できない語り手」と言われて私が直ちに思い出すのは、以前このブログでも取り上げたカズオ・イシグロの『日の名残り』だ。日本の読書家には間抜けな人たちが多いから、『日の名残り』の「信頼できない語り手」の叙述トリックを見抜けずに「執事道とは品格と見つけたり」などというタイトルの感想文をブログに公開した人や、「信頼できない語り手」の手法を知っているにもかかわらず「主人公のスティーブンスは『信頼できない』語り手なんかじゃない」と言い張った人たちなどがいる。ああいう人たちはこの短篇集は嫌いなんじゃないかなと思ってしまった。

 この短篇集の初出は『婦人公論』1977年1月号から1978年3月号であって、2回休載があったものだろうか。女性向け月刊誌に掲載された作品なので、作者も読者層に合わせた書き方をしているが、松本清張がそうだったように、この時代の男性作家による女性読者向け小説にありがちな限界があることは止むを得ない。70年代といえば男女雇用機会均等法の施行(1986年)より前だし、世論調査で選択的夫婦別姓制度への賛成論が圧倒的多数を占めるようになった現在の目から見れば、古さは否めない。

 短篇集の第一話は「プロローグ 悪魔」だが、とにかく暗い。第三話「赤い手」は公的な届出文書24件だけで主人公の女性の薄幸な一生を浮き彫りにし、最後に主人公の手紙で占める。「読書メーター」でもっとも人気が高いのはこの短篇で、実際よくできているが、あまりに救いがない。

 「悪魔」や「赤い手」の印象が強いせいか、この短篇集には「ハッピーエンドが一つもない」という感想文を書いた人もいるが、そうではないだろう。反例として第四話「ペンフレンド」と第七話「鍵」があるし、あっと驚く仕掛が施されている第十話「玉の輿」も、短篇が終わった後への期待を抱かせる。しかし、その後には初めの方と同じような「後味の悪い」短篇が続く。後味が悪いにもかかわらず読ませて面白いのがこの短篇集の特徴だ。このあとに、作者のサービスである「エピローグ 人質」が続く。

 著者の井上ひさしは劇作家だから「どんでん返し」のラストの短篇が多いが、私が一番気に入ったのは、「読書メーター」ではあまり人気がなかった第五話「第三十番善楽寺」だ。私は四国在住時代八十八箇所のうち六十六箇所に巡礼したことがあって、土佐の三十番札所にもお参りしたが、「読書メーター」では複数の読者に「第十三番善楽寺」と誤記されていた。短篇の舞台は、初め東京東部の本所(錦糸町)・深川(越中島)からいきなり土佐に飛ぶのだが、この三十番札所の善楽寺には「札所争い」があったのだった。それが短篇のキーになっている。善楽寺明治維新に伴う廃仏毀釈によっていったん廃寺になり、ご本尊が近くの安楽寺に移されて、この安楽寺が仮の第三十番札所になった。ところが1929年になって善楽寺が再興され、以後善楽寺安楽寺の間に「札所争い」が長年続いた。この争いはこの短篇が書かれた1977年にはまだ解決していなかったが、その後1994年に解決され、善楽寺が第三十番札所として確定したという。私がお参りしたのは確か2010年だったから、ガイドブックにもこの札所争いは書かれておらず、この短篇を読んで初めて札所争いをしていたことを知ったのだった。

 第五話「三十番善楽寺」では、この札所争いと、短篇の主人公が勤めるようになった身体障害者施設である共同作業所で作られる洗濯ばさみによる収入の分配法をめぐる、所内での争いとが重ね合わされる。従来は収入が一律分配されていたのが、障害の軽い人たちが能率給にすべきだと主張し、共同作業所でその提案を受け入れたところ、作業所内で争いが起きたという筋立てだ。これなど現在に通じる話であって、竹中平蔵流の新自由主義に基づく競争原理を職場に導入したところ、職場のモラールが下がって業績が落ちたという例など、この国にはいくらでもあるのではないか。しかも悪いことに現首相の菅義偉は竹中と昵懇であって、新型コロナ対応などそこそこにして「経済を回す」ことばかり考えているから、東京や大阪などで医療危機に瀕するようになってしまった。

 ついつい脱線したが、この争いに関して主人公が「一律分配でもなく能率給でもなく、必要に応じた分配を」と主張するのは、さすがに共産党支持だった井上ひさしだと思った。

 そういう現代性でも私の注目を惹いたのだが、この短篇にはある仕掛けが施されている。なるほど、それでお遍路さんなのかと納得させられた。しかも、作者はフェアな手がかりを残している。この短篇集で一番「やられた」と思った箇所だった。

 

 最後に『四捨五入殺人事件』に軽く触れておく。この長篇はれっきとしたミステリではあるが、文庫本の帯にあるような「だまされる快感!」を味わえる人は決して多くないのではないか。なぜなら、作者はトリックを見破って下さいとばかりに大サービスしているからだ。その意味で、本格推理小説を期待して読むと拍子抜けするに違いない。また、この長篇は『十二人の手紙』の中のある短篇と強い関連がある。読み終えた時、『十二人の手紙』よりこちらを先に読めば良かったかな、と思ったが、その後意見を変えた。こちらは1975年に『週刊小説』に連載されているから、『十二人の手紙』よりも先に書かれているのだが、それにもかかわらず『十二人の手紙』を先に読んだ方が良い。むしろ、この長篇は筑摩書店の松田哲夫氏による解説文が読ませる。この解説文を読めただけでも良かった。松田氏によると、『四捨五入殺人事件』は「ミニ『吉里吉里人』」とのこと。私は高松から東京に引っ越す前だったかに新潮文庫の上中下全3巻本を売り払ってしまったために『吉里吉里人』は手元にないが、もし改版されて文字が大きくなっているなら再読したいと思った。

 なお、松田氏の解説文は「婦人公論」のサイトで読める。

 

fujinkoron.jp

 

 私の結論は、『十二人の手紙』は5点満点の5点で文句なくおすすめ、『四捨五入殺人事件』は5点満点の4点でおすすめ、といったところ。

 なお、『十二人の手紙』は小泉今日子が2010年8月9日付読売新聞の書評で絶賛したことがあるらしい。蛇足ながら、井上ひさし国鉄スワローズ(のちヤクルトスワローズ)のファンだった。

*1:ゆめタウンはかつて住んだことのある岡山県倉敷市香川県高松市にもあったので、広島に本店があるスーパーであることは知っていた。