KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

星野智幸『呪文』を読む

 しばらく前に、私が購読しているブログで下記の文章にお目にかかった。

 

sumita-m.hatenadiary.com

鴻巣さんは「若い彼らは「顔が青いよ」とおなじように、「その答え、ちがいよ」と言ったりするのだろうか?(たぶんそれはない)」という。でも、それはある(少なくとも、あった)と思う。
20年くらい前の1990年代後半、(リンボウ先生風に言えば)「二十五歳以下の、いくらか教養程度の低い(あえて言えば育ちのあまり芳しくない)人たち」*5が何時も、本来なら

 

 

違うよ

 

と言うべきところを、

 

ちげーよ

 

というのを聞いて、その度にうざいぜと思っていたのだけど、リンボウ先生を援用した鴻巣さんのエッセイを読み返して、その謎が解けた感じがした。当時、「違う」がどう訛って「ちげー」に変化したのかが疑問だったのだけど、「違う」じゃなくて「違い」が「ちげー」に変化したと考えれば、話はすっきりする。aiがeeに変化するのは江戸を中心としたべらんめえの基本的な特徴だ。くすぐってえ(くすぐったい)、てめえ(手前)、ねえ(無い)。(後略)

 

(『Living, Loving, Thinking, Again』2019年3月11日)

 

 「aiがeeに変化するのは江戸を中心としたべらんめえの基本的な特徴」というのはその通りなのだけれど*1、岡山弁なんかにも同じ特徴がある。それどころか岡山弁ではoiまでもがeeに変化したりもするのだが、それでもauがeeに変化することは、私の知る限りない*2。でも、「違えよ」という言い方は、確か今年に入ってから3冊読んだ星野智幸(1965年のアメリカ生まれだが、横浜・東京の育ち)の小説に出てきたよなあと思ってたら、4冊目でまた出くわした。

 

呪文 (河出文庫)

呪文 (河出文庫)

 

 

 2015年に書かれ、昨年河出文庫入りした星野智幸の『呪文』の107頁に「違えよ」が出てくる。著者は90年代の終わりには20代前半の首都圏の人(神奈川・東京の人だが『俺俺』など埼玉が舞台になっている小説が複数ある)であり、かつ「違えよ」という言葉を発したのは、「二十五歳以下の、いくらか教養程度の低い(あえて言えば育ちのあまり芳しくない)人たち」にまさに該当しそうな登場人物。なにしろ地域のカリスマに入れ揚げている「信者」なのだ。

 『呪文』の作品紹介を、出版元の河出書房新社のサイトから引用する。

 

www.kawade.co.jp

  • 寂れゆく商店街に現れた若きリーダー図領は旧態依然とした商店街の改革に着手した。実行力のある彼の言葉に人々は熱狂し、街は活気を帯びる。希望に溢れた未来に誰もが喜ばずにはいられなかったが……。


    さびれゆく商店街の生き残りと再生を画策する男、図領。
    彼が語る「希望」という名の毒は、静かに街を侵しはじめる。

    「この本に書かれているのは、現代日本の悪夢である。」――桐野夏生

    【あらすじ】
    さびれゆく松保商店街に現れた若きカリスマ図領。悪意に満ちたクレーマーの撃退を手始めに、彼は商店街の生き残りと再生を賭けた改革に着手した。廃業店舗には若い働き手を斡旋し、独自の融資制度を立ち上げ、自警団「未来系」が組織される。人々は、希望あふれる彼の言葉に熱狂したのだが、ある時「未来系」が暴走を始めて……。揺らぐ「正義」と、過激化する暴力。この街を支配しているのは誰なのか? いま、壮絶な闘いが幕を開ける! ◎解説=窪美澄

 

 『呪文』は、「信者」や「暴走」、あるいは「同調圧力」「洗脳」「総括」「自己責任」などがキーワードになる、強い社会的・政治的メッセージを打ち出した作品で、私は『俺俺』(2010)よりもっとわかりやすいな、小説家がこんなにストレートに書いてしまって良いのかと一読して思ったのだが、アマゾンカスタマーレビュー『読書メーター』を覗いてみると、作者が何を言いたいのか分からないとか、この作品は未完なんだろう、続編を待ちたいなどという感想が多く、特に「続編があるんだろ?」という反応にはびっくり仰天してしまった。

 ネット検索をかけると、単行本初出直後に文春オンラインに載った著者インタビューが2件引っかかった。これらを読んで、ああ、やっぱり著者はこういうことを考えていたんだな、想像通りだったと思った。下記にリンクを示す。

 

bunshun.jp

bunshun.jp

 上記リンクから、2本目の記事の冒頭部分を引用する。

――新作『呪文』(2015年河出書房新社刊)がたいへん話題になっています。商店街の人間模様のなかに今の日本の姿が凝縮されていて、現実味があると同時にとても怖い内容ですよね。

星野 今までの中でも一番、ダイレクトに強い反応を感じますね。「今現実に起きていることと地続きになっていて、読み終わって現実を見るとまだ怖い」というような反応をたくさんいただいています。

――これは寂れた商店街にカリスマ的なリーダーが現れる、という内容です。彼、図領は街の改革に乗り出しますが、変化についていけない人たちは排斥され、結成された自警団「未来系」は暴走していく。現実の商店街の現状を見て感じたことが発端だったとうかがっています。

星野 そうですね。商店街が急速に寂れているということと、もうひとつはヘイトスピーチで社会が壊れていくと感じたことが始まりですね。その両方を合わせました。自分の目に映る現実をできるだけそのまま書こうと思って始めたものですから、読者もそう感じてくれるのは自然な成り行きかなと思います。

 商店街に関しては、地方だけでなく都内でも地域によっては寂れていっているのが印象に残っていて。ヘイトスピーチはもう、人種や民族に関することだけでなく、いろんなところで差別的な罵倒やバッシングがあふれていますよね。その様を見て、なんだか人の心も壊れているし、社会も壊れているな、と感じたんです。壊れ始めているんじゃなくて、ちょっと修理が不可能なぐらい深く壊れている、と思うのがこの3年くらいです。震災の1年後くらいからですよね。

 震災の後はみんな「頑張ろう」だとか「こんなひどい目に遭ったんだから社会を立て直そう」と前向きだったと思うんです。僕は2012年の春に韓国に行って3か月ほど滞在したんですが、日本に戻ってきたら、生活保護者が大バッシングされていた。僕が行く前には、北海道で生活保護を受給できなくて餓死した人がいて大問題になっていたのに、帰ってきたら生活保護受給者がバッシングされているという、めまいのするような展開になっていた。以降はもう、底なしのように次々とターゲットを見つけてはバッシングをしていくのが普通になってきた感があるわけです。

 ヘイトスピーチはその前からありましたが、生活保護受給者バッシングをやったのが政治家でしたから、そこからゴーサインが出たということで異常な盛り上がりをみせていく。それが2012年でした。そしてその年末に政権が交代するわけです。

――カリスマ的リーダーというのは、これまでにも書かれていますよね。

星野 しばらくは僕の一大テーマでしたね。今までの場合には、カリスマが作られていくまでを書いていたんですが、今回はその先を書きました。実行力があって魅力的な言動をしている人にわっと支持が集まって弾みがついてしまった後、そのカリスマをみんなが追い越していく。カリスマが何かを言ったり行動したりしなくても、熱狂した一般の人々が先を争うようにどんどん突進していってしまう状況に焦点を当てて描いたと言えますね。

――ヒトラーがいて、ヒトラーの意志とは関係ないところで親衛隊が暴走していくような感じですよね。悪の権化が一人いるのではなく、集団化していくところが恐ろしい。

星野 一人が実権を握って独裁している社会ももちろん嫌ですけれども、ある意味で分かりやすいし、その人を倒せば世の中が変わるかもしれないと思えますよね。でも、実際にはそのカリスマが全権を握っているのではなく、それに乗っかった一般の人たちが、誰が指揮をとっているのか分からないような状態で一斉に同じ方向に流れていってしまう。誰か特定の一人を止めても状況は変わらないし、全体がもうあまりにも大きすぎて、個々人の手には負えない状況になってしまう。そのほうがより怖いですよね。

 

(『文春オンライン』2015年12月19日)

 

 上記インタビューで星野智幸が指摘する日本社会や政治の病理は、2015年当時よりも現在の方がもっとひどくなっている。たとえば、河出書房新社のサイトにある「読者の声」に、2015年9月12日に寄せられた下記の感想が載っている。

 

二極化とネット社会化が進む現実社会が一つの街に集約された。振りかざされた正義は排外主義を招き、似非武士道たる「クズ道」に陥る敗者の暴走は止まらなくなる。
ネトウヨネトウヨから飛び出した「保守系市民運動をすぐ想起する。まるで日本社会の近未来を描いたようでそら恐ろしくなった。

 

 だが、上記の指摘が当てはまるのは何も「ネトウヨ」に限らない。最近は政権批判側にも同様の弊害が強く見られるようになった。集団内での相互批判がためらわれる状況だ。これは、かつての連合赤軍事件に見られる通り、いわゆる「極左」には昔からあったが、その悪弊がかつては「百花斉放百家争鳴」を地で行っていたリベラル派*3にも及んでいる。

 その悪弊が端的に表れたのは、最近ほかならぬ星野智幸Twitter*4で言及した堤未果への(間接的な)批判だ。星野氏はもちろん堤氏を批判したのだが、その批判がなかなか「リベラル・左派」界隈で広がらない。その一因として『しんぶん赤旗』のコラム*5が昨年末に、問題となった堤未果の著書を肯定的に評価したことがあるのではないか。同様の例は枚挙に暇がなく、他にも孫崎享のような反米右翼的な人士が共産党とつるんでいたりする。

 そんな今こそ、『呪文』は読まれるべき本だ。解説文で作家の窪美澄氏は

平成が終わる年にこの物語をたくさんの人に読んでほしい。心からそう思う。(248頁)

 と書いているが、私には「平成が終わる年」を過ぎても現在の「崩壊の時代」が簡単に終わるとは思えない*6から、その限定を外した上で窪さんに同意する。

 ところで、窪さんはこの小説に出てくる、ある重要な登場人物の属性についてある思い込みをされていたことを解説文に記しているが、私は同じ登場人物についてその逆の思い込みをしていた。河出書房新社の編集者が指摘したところによると、著者はその属性を限定する表現をしていないという。読者がそれぞれ勝手な思い込みをしていたわけだ。窪さんは

○○○は巧みに隠されている。やられた、と思った。(247-248頁)

と書いたが、これには全面的に同意する。というより、ああ、そうも読めるのか、と気づかされてくれただけでも、窪さんの解説文を読んで良かった。

*1:私はかつてべらんめえ調の言葉を人々の多くがしゃべっていた地域に現在住んでいる。しかし、この地でべらんめえ調をしゃべるのは、もはや年配の人しかいなくなっている。東京の下町でも方言は絶滅危惧種なのだ。

*2:あまりにもあちこちに住んだためにもはや多国籍方言しかしゃべれなくなった私の母語はいちおう関西弁で、それとはアクセントの異なる中国方言を話す岡山(倉敷)には3年半ほどしかいなかったので自信はないのだが。

*3:私見では、日本のリベラル派には経済右派が多いという重大な問題を抱えていると考えているが、反面2000年代前半くらいまではリベラル派内での相互批判は結構活発だった。

*4:https://twitter.com/hoshinot/status/1105032691974430721

*5:https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-12-11/2018121101_06_0.html

*6:「平成が終わる年」の特に改元前後にこそ読まれるべき本としては、原武史の本がまず思い浮かぶ。私は現在長大な『皇后考』(講談社学術文庫)を読んでいるが、昨日は岩波新書の新刊『平成の終焉』を買った。