KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

沢田真佐子「単独の北岳」を読む(今福龍太編『むかしの山旅』より)

 梅雨末期の豪雨はしばしば多数の死者が出る大災害をもたらす。今年も九州北部(福岡、大分)の豪雨で、この記事を書いている時点で18人の死者が出ているが、1953年の梅雨末期の豪雨はとりわけひどかったようだ。

typhoon.yahoo.co.jp

 以下引用する。

1953年(昭和28年)7月、活発な梅雨前線の影響で紀伊半島で10日間雨量700mm超の大雨となる南紀豪雨が発生した。

 有田川や日高川などが決壊した和歌山県を中心に、死者・行方不明者1124人、損壊・浸水家屋約100,000棟という甚大な被害が発生した。

 

 同じ頃、山梨県赤石山脈(通称南アルプス)の北岳・相ノ岳・農鳥岳の白根三山を単独で縦走した沢田真佐子も、連日の集中豪雨に見舞われた。その登山記録を昨日読んだ。今福龍太編『むかしの山旅』(河出文庫,2012)に収録されている。

むかしの山旅 (河出文庫)

むかしの山旅 (河出文庫)

 

  この本には、半世紀から一世紀前の登山記録が24本収録されており、それぞれ著者が異なる。 沢田真佐子の登山記録(実質的には遭難記録)は「単独の北岳」と題されている。

 ネット検索によって、この登山記録を批評した文章が載った本からの引用文が掲載されたブログ記事を見つけた。

noyama002.seesaa.net

 上記ブログ記事に、河野寿夫著『山登りって何だろう』(白山書房,2002)に書かれた沢田真佐子「単独の北岳」の批評文が掲載されている。以下ブログ記事から孫引きする。

 P190~
 ・山に魅入られるということ

 山に魅入られて遭難した、などと俗にいう。比喩的な表現ながら、そう思いたくなることも確かにある。山に憑かれる、といっても大差ない。
雑誌「山と渓谷」 一九五七年(昭和三十二年)七月号に、沢田真佐子さんの遭難手記「単独の北岳」が載っている。当初、東京上野山岳会会報に掲載されたもので、遭難が起こったのは一九五三年(昭和二十八年)七月に遡る。そのころの南ア、白峰北岳といえば、アプローチが今よりはるかに長く、山小屋はほとんど無人で、だれもが登れるというような山ではなかった。

沢田さんはその北岳に単独で入山した。前夜発五日の計画、七月十二日の夜行で新宿を出発し、十七日には帰京する予定となっていた。それが運悪く、途中暴風雨に見舞われて山中十一日間を要し、二十三日になってやっと下山するという、大変な危難に遭遇することになった。いったいどんなことが起こったのか、その大要を眺めてみよう。なお、文中括弧内は著者の注である。

 はじめの三日間は、文句ない晴天だった。初日の十三日は韮埼から牧ノ原を経て赤薙沢へ入り尾無の岩小屋でビバーク、二日目の十四日は尾無尾根を広河原峠へと登り、早川尾根を南へ越えて昼ごろ広河原小屋に着く。(当時広河原へ入るのは容易なことではなかった。)その日はここに泊まる。小屋番だけで、同宿者はいなかったようだ。

 翌十五日に待望の北岳に登る。頂上で三六〇度の展望を一人楽しみ、その日は北岳小屋に泊まる。ほかにはだれもいない。(当時の北岳小屋は、鞍部から東へ下ったところにあった。)

 十六日になって天候が激変する。朝から雨雲がどんどん下がり、間ノ岳と豊島岳の最低鞍部に近づいたころには風雨ともに激しく、半壊の農鳥石室に飛び込んでビバークを決める。夜半からは暴風雨となる。十七日、十八日の両日とも、暴風雨は休みなしに荒れ狂い、外に出ることは瞬時もままならない。翌十九日には風がややおさまるが、明け方から雨は一段と強くなってシユラフまでぬらしてしまう。夜明になって、やっとのことで農鳥小屋の方に移る。(当時の農鳥小屋は、稜線から束へ少し下ったところにあった。)かなりしっかりした小屋で、三日ぶりに伸び伸びしか気分になってご馳走を作る。明日は大丈夫晴れ、待ちに待った奈良田の吊橋を渡れるだろうと楽しみにして眠りにつく……とある。(当時、奈良田の橋は長い吊橋だった。)しかし、願い空しく、翌二十日もまた雨、停滞を余儀なくされる。

 二十一日になってもまだ雨は止まない。でも、これ以上、だれもいない小屋にいて食料を食べ尽くすことは耐えられないので、何とか下山しようと決意する。稜線に出ると風雨がものすごく、雨具の隙間から入り込む雨で、農鳥岳に着くまで全身ぐしょぬれになる。視界がきかず、大門沢の降り口がなかなか見つからない。やっとわかって降り始めるが、大門沢が増水し、雨と沢水の両方でずぶぬれになり、くたくたになったころ、新しい大門沢小屋の前にとび出す。その日はここに泊まる。だが、二十二日になってもまだ雨は止まない。高巻きとへつりの連続で、沢を下る。やがて、道が右岸から左岸へと移る地点で、橋が流されているのに気づいて愕然とする。それからは筆舌に尽くしがたい悪戦苦闘が続く。結局どうにもならなくなって、大ゴモリ沢近くの岩小屋にビバークを決める。全身はもちろん、マッチもシュラフもびしょぬれという、惨めさだった。万一の場合を考えてお母さん宛に書き置きをする。全身にガタガタふるえがきて、いくら気張っても止まらない。こんなに寒い辛い思いをするくらいなら……凍死する時は眠くなるそうだけれど、私も早く眠くなりたいと、何度も思った…… と書き記している。二十三日もまだ雨。残っていた夏ミカンを半分食べ、昨日から何回往復したかしれない道を、ふたたび橋跡まで行く。ここはどうしても左岸に移るしか方法がないので、やっとの思いで大石を投げ込んでみたが、それさえ流されてしまう始末で、徒渉は絶対不可能とあきらめる。さらに上流を調べると、丸本が一本岸の石にまたがって倒れているのが見つかる。これだ! と直感し、荷物の大半を岩小屋に残して空身となり、丸太に馬乗りになって、やっと対岸に渡ることができる。立派な道を見出しだのは、それからまもなくのことだった。

 遭難記の最後は、次のように締めくくられている。

……それから左岸通しに山の鼻をめぐり、奈良田の手前で嵐にすっかり荒らされた焼き畑を直しているお爺さんに、九日ぶりで人間に会う。

 「岳から来たのか。この荒れに……おまえさんはまあ……ようく生きて来たものじゃ」…と言われて、今までの張りつめていた気も一時にゆるんで、思わず大きな涙がボツリと落ちた。それからまもなく、待ちに待った奈良田の吊橋に着き、今こそ本当に無事にこの橋を渡れる自分をしみじみ幸せに思いながら、ゆっくり歩いて行った…… と。沢田さんの心情は察するにあまりある。右はあくまで要約にすぎない。原文の迫力はこんなものではない。涙なしにはとても読んではいられない。すさましいばかりの山での台風の猛威に、たった一人で耐え抜いた沢田さんの判断力と精神力には、今さらながら感服せざるをえない。

(河野寿夫著『山登りって何だろう』(白山書房,2002)より;ブログ『旅する凡人 山歩記』2007年11月6日付記事より孫引き)

 沢田真佐子がたどった白根三山縦走路のうち広河原以降の行程は、私も昨年の「山の日」を含む飛び石4連休を利用して歩いた。今では甲府からバスで登山口の広河原まで簡単に行けてしまうが、広河原からあとの行程は沢田とほぼ同じだったのかもしれない。沢田は、行程2日目に広河原小屋に泊まり(現在では沢田がたどった1,2日目の行程を公共交通機関で省略できてしまうわけだ)、3日目に広河原小屋を出て大樺小屋跡を経由して草スベリの急坂を登った。私は昨年の山の日に白根御池小屋(沢田の文章やネット検索の結果から、この白根御池小屋が大樺小屋の後身ではないかと推測された)に泊まって翌朝早くから草スベリにとりついたので、「急登とは聞いていたが恐れるほどのものでもなかったな」と思ったのだったが、既に歩いてきて日が高くなってからの急登は応えたのだろう。沢田は下記のように書いている。

 七月十五日(晴)

 昨日楽をしたせいか大分快適でどんどん登る。大樺沢に注ぐ支流で最後の水を補給し、間もなく大樺小屋跡に来る。樹が少なくて暑いけれど一寸感じのよい処だ。これからすぐ草辷りにかかったが背中から照りつけられ、足許は尺余(30センチ余り=引用者註)の草の密生にそよとの風もなく非常に苦しい登りだった。最後の三十分位、ほとんど四ツ這いの態でフラフラになって小太郎尾根に飛び出し残雪にありついた時は全く地獄で仏に会った思いであった。これから駒、仙丈、鳳凰と曽遊の山に送られ偃松を縫って歩一歩、北岳へ近づいてゆく。

 誰もいない北岳頂に立った時はまだ陽ざしも高く、ガスも捲かず、三六〇度遮ぎるもののない眺めを楽しんだ。まるで静寂というものが滾々と湧いてくるような静けさで山と私だけの喜びに浸りきった。

 これからしばらく凄く急なガレを降り、間もなくのびやかな尾根筋を辿る。北岳小屋分岐から小屋まで荒川源流さして三十分近く降った。今日はたった一人の小屋泊りであった。

(沢田真佐子「単独の北岳」より;今福龍太編『むかしの山旅』(河出文庫,2012)142-143頁より孫引き)

 現在ではあり得ないような夏の北岳山頂の独占。1953年といえば、1956年の日本隊マナスル初登頂をきっかけに生まれた登山ブームに先立つこと3年。広河原までバスが入るようになったのは1963年とのことだから、それよりも10年も前だ。

 草スベリでは苦しんだものの間もなく報われた。しかしそのあとが本当の地獄だった。前記の河野寿男『山登りって何だろう』からの引用文に見る通りだが、中でも大門沢の下りで橋が流されていたのを気づいた時に沢田真佐子が受けたであろうショックの大きさは察するに余りある。

 なぜなら、昨年の晴天時に大門沢小屋を経由して奈良田に下った私には、晴天時でも猛烈な流量のある大門沢の印象が強烈に残っているからだ。しかもあの道は現在でも非常に厳しい。出会った健脚の登山者が「とんでもない道ですねえ」と言っていた(もっとも彼の足取りは軽快そのものだったが。もちろん脚力の弱い私はバテバテだった)。作家の南木佳士が書いた『山行記』に収録されている「連れられて白峰三山」にも大門沢の下降に悪戦苦闘するくだりが出てくる*1

山行記 (文春文庫)

山行記 (文春文庫)

 

  ただでさえ厳しい道であり、晴れ続きの日でも水量の多い大門沢なのに、連日の大雨とあってはどれほど増水していたことか。しかも橋まで流されてしまったとあっては、沢田が死を覚悟したのも当然だった。かてて加えて単独行であり、行き会う者など誰もいない。想像を絶している。

 沢田は7月22日には大門沢左岸への渡渉を試みたが失敗して引き返した。「夏とは云え、三拍子揃って条件が悪いので万一の場合を考えて(実際、この時は朝まで持たないと思った)母宛に書き置きし」たという沢田真佐子の同日の記録から、特に印象的だった箇所を以下に引用する。前記の河野寿男『山登りって何だろう』からの引用文中、「凍死する時は眠くなるそうだけれど私も早く眠りたいと何度も思った。」というくだりの直後の部分だ。

 風雨をついてここまできりぬけて来たのにどうしてこんなことが想像できたろう。今晩こそは暖かいフトンの中で寝ていなければならなかったのに、あの橋がないばっかりに、こんな処でもうお母さんに会えなくなると思うと声をあげて泣きたい。気の弱いお母さんがどんなに悲しむ事だろう。

 死なんてことは信じられない自分だったが何もかもここであきらめなければいけないと思った。その夜、不思議なことがあった。大勢の人が何か楽しそうにガヤガヤ話し合っている声がしたのである。そして終いには唄をうたったり笑いさざめいたりする。三度ばかりそんな気がして首だけ出してみたが真の闇でそんなことがあり得る筈がないと分って何かゾッとした気持だった。それは私の錯覚だろうと思っている。

(沢田真佐子「単独の北岳」より;今福龍太編『むかしの山旅』(河出文庫,2012)149-150頁より孫引き)

 結局死なずに23日朝を迎えた沢田真佐子は、その日、「大ゴモリ沢*2出合の処で本流に丸木が一本両岸の石に亘って倒れているのを見つけ」*3て「空身になって丸太を馬のりで対岸に渡」り、なんとか生還を果たした。

 この登山記録(遭難記)は、『むかしの山旅』に掲載されている24本の登山記録の中でも特に印象に残るものだ。この本には、芥川龍之介の「槍ケ嶽紀行」(1920年)も掲載されているが、300頁の「著者プロフィール・出典一覧」には「本文は、一九二〇年に槍ヶ岳に登った時の記録だが、登頂したかどうかは定かではない。」と書かれている。龍之介の文章を紹介した下記ブログ記事のコメント欄に、ブログ主自身が沢田真佐子の遭難記に言及しているのを見つけた。

ameblo.jp

 下記は、上記ブログのブログ主自身のコメント。

『むかしの山旅』に、沢田真佐子という女性の「単独の北岳」という手記が載ってますが、よく読むと遭難記でした。
生きて帰れたのが奇跡なのに、さらりと述べています。やっぱり女性は強いですね、昔から。

  私は強さも弱さも合わせて心境を真率に吐露した沢田真佐子の文章に強く引きつけられた。

 ところで、『むかしの山旅』には沢田真佐子の生没年が記載されていない。そこでネット検索をかけてみたが、みつかった関連サイトはごく少なかった。しかし、沢田真佐子のその後は簡単にわかった。それは、前記の河野寿夫著『山登りって何だろう』に掲載された沢田の登山記録の批評文のうち、前記引用部分の直後に書かれた部分から知ることができる。以下再び引用する。

 ところが、彼女はその年の9月、三伏峠から荒川岳へと縦走し、再度の台風の来襲で増水した小渋川を下る途中、濁流にのまれ帰らぬ人となってしまった。北岳の遭難以来、山岳会からも家庭からも、単独行を固く禁じられていたにもかかわらず、である。沢田さんのご冥福を心からお祈りしたい。

(河野寿夫著『山登りって何だろう』(白山書房,2002)より;ブログ『旅する凡人 山歩記』2007年11月6日付記事より孫引き)

  え、なんてこった……。

 さらに調べて、下記ブログ記事を見いだした。

amanojakus.exblog.jp

 以下、上記ブログ記事から引用する。

川崎隆章さんは登山家で、日本登山学校を開いた方で、山と渓谷社が発行した雑誌「雪と岩」の初代編集長である。

(中略)

その川崎隆章氏が涙ながら話していたのは、そのころはまだめずらしかった女性の単独行者・沢田真佐子さんのことだった。

彼女は「単独の北岳」という文を残している。北岳の登山基地・広河原までは今のような夜叉神トンネルを抜ける林道などなく、早川尾根の広河原峠を越えて入った時代の登山記録である。後半は大雨のために橋が流され、4日の予定が11日かけて奈良田に下山している。

彼女はその後、赤石岳から下った小渋川で消息を絶ってしまった。

彼女の思い出を話すとき、川崎氏はいつも涙していたのを覚えている。

  さらに調べると、沢田真佐子が赤石岳で遭難したのは、白根三山で遭難したものの奇跡的な生還を果たした1953年ではなく、どうやらその4年後の1957年のことであるらしいことがわかった。

 この情報は、下記ブログ記事のコメント欄にて知った。

www.yamareco.com

 以下、上記ブログのコメント欄より引用。

ところで、小渋川の最後の堰堤前の林道脇だと思いますが「沢田真佐子」のレリーフをご存知でしょうか?分かれば教えて頂ければと思います。

沢田真佐子さんは大先輩で1957年7月に女流登山家で単独南アルプスに入山し台風の影響で増水した小渋川で遭難しました。現在の小渋ノ湯付近の状況は把握しておりませんが、砂防ダム建設でレリーフが埋まってしまうので1978年に本流から少し上部に付替えを行いました。現在どうなっているのか気になりました。m(--)m

 沢田真佐子のその後は、知らなかった方が良かった。

 結局沢田真佐子は「気の弱いお母さん」を悲しませてしまったのだった。沢田の「単独の北岳」の初出は、前記河野寿夫著『山登りって何だろう』によると東京上野山岳会会報(掲載年月は不明)で、『山と渓谷』の1957年7月号に掲載されたそうだが、もしかしたら赤石岳で遭難した沢田の追悼の意味で掲載されたものでもあろうか。今では雑誌の7月号は5月に編集を終えて6月に発売されると思うが、昔は違ったのだろうか。あるいは偶然にも雑誌に「単独の北岳」が掲載された直後に沢田真佐子は遭難してしまったのだろうか、などなど想像は尽きない。また、『山登りって何だろう』によると赤石岳での沢田の遭難は9月と書かれているが、ブログ記事のコメント欄情報では1957年7月だという。このあたりの記述も食い違っている。この詳細を詰めることは今回はできなかった。なにしろ『むかしの山旅』には沢田真佐子の生没年も記載されておらず、「著者プロフィール・出典一覧」の欄には「(連絡先をご存知の方、ご一報戴けると幸いです)」(302頁)と書かれている(同様の記載のある、生没年または没年のみが不明の著者は、他にも5人いる)。角川文庫の編集部とは比較にならないほどまともな仕事をしていると私が評価する河出文庫の編集部でもそうなのだから致し方ないところか。

 実は『むかしの山旅』に掲載された24本の登山記録のうち、寺田寅彦の「浅間超え」(1933年)を含む9本はまだ読んでいないが、他にもあやうく遭難を免れた記述のある俳人河東碧梧桐の「白馬山登攀記」(1916年)も印象に残った。これも昭文社の「山と高原地図・35『白馬岳』2001年版」を参照しながら読んだが、現在では一般登山道にはされていない黒部側(富山県側)の猫又谷から白馬岳に登頂した記録だ。この記録によると、一行は未踏のルートを拓いて白馬岳頂上に到達したのは良かったが、案内者の長太郎は信濃側(長野県側)の北城村(現在の白馬村)への下山ルートは「全く知らぬ」(本書124頁)と言っていたという。一行が正しい下山路を知ったのは、たまたま信州側から登ってきた学生の一行と行き会った僥倖によってだった。そして学生たちに教えてもらったその下山路は、「最初長太郎の予想していた信州に下る方向とは、全く別な渓谷を行くのであった」(同前)とのこと。一行の下山した翌日、白馬岳は暴風雨に見舞われた。碧梧桐は、下山が一日、それもその15〜16時間内外遅れていれば、「一行はその露営地さえ得るのに苦しむのみならず、行き帰るべき道をも失して、あるいは無事下山さえ出来得なかったかも知れぬ一大惨禍を含む真に寒心に堪え(ぬ*4)暴挙に参加した」(同104-105頁)、「九死に一生を得たといっても、さまで誇張の言ではないのである」(同105頁)と振り返っている。碧梧桐は山では死なず、1937年に64歳の誕生日を迎える少し前に病死した。

 沢田真佐子は、なぜ再び南アルプスで大雨に遭遇して遭難してしまったのか。60年前のこととはいえ、悔やまれてならない。

 

[他に参照したブログ記事]

 上記は1955年の北岳登山記録。やはり広河原に出るのに2日を要している。「大樺小屋は八分通り完成していた。」とあるから、沢田真佐子が登った1953年には「小屋跡」だったところに新しい小屋が建とうとしていたようだ。現在の白根御池小屋はこれとは違い、2005年に建てられた。最初に大樺小屋が建ったのは1928年だったという。

 また、「草滑りの直登は物凄く、太陽の直射を背に受けて、四つん這いになりながら必死に登る。」とも書かれている。大門沢の下りについては、「柔らかいガレ、いやな下りだ。そして長い。」、「大門沢のガレセード。」と言及している(沢田真佐子はこれを「大石渓」(「大雪渓」のもじり)と表現した)。

 

[私自身が書いた過去の記事](2016年9月18日)

d.hatena.ne.jp

*1:南木の一行は、北岳への「草すべり」の登りでも苦戦して、「もし快晴だったら、真夏の陽光に焼かれ、体力の消耗はこんな程度では済まなかっただろう」(131頁)と書いている。沢田真佐子はまさにそれを経験したわけだ。健脚の者は別だが、始終山に行くほどではない私のような人間は、草スベリを登る前日に白根御池小屋に泊まっておいて大正解だったと改めて思った。

*2:本に掲載されている、おそらく沢田真佐子自身の手になる地図(前記河出文庫版149頁に掲載)と、昭文社発行の「山と高原地図41『北岳・甲斐駒』2013年版」とを対比すると、沢田真佐子が書いた「大ゴモリ沢」が現在の小古森沢、沢田の書いた「小ゴモリ沢」が現在の「大古森沢にそれぞれ該当するようだ。前者は後者より大門沢の下流に位置する。

*3:前掲書151頁。

*4:河出文庫版には「寒心に堪え暴挙」と書かれているが、「ぬ」が欠落していると思ってこれを補った=引用者註。