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古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

宇野重規『保守主義とは何か』(中公新書)のメモ

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 以下、上記ブログ記事から引用。

 宇野重規保守主義とは何か』の見解によれば、近代日本の「保守主義」の本流を巡っては、伊藤博文大久保利通、大久保の実子である牧野伸顕、戦後においては、牧野の娘婿である吉田茂、さらには宏池会という系譜を描く。それに対立する異端として、岸信介鳩山一郎といった旧民主党系があり、その系譜を現在において継承するのは(安倍晋三も属する)清和会であって、経世会というか田中角栄竹下登系譜はこの2つの中間に立っていた。ところで、孫崎享の謎も解けた感じがする。要するに、旧自由党系を叩いて旧民主党系をよいしょしていたわけだ

  引用されている宇野重規保守主義とは何か』(中公新書)は私も昨年(2016年)読んだ。

  以下、上掲書から関連箇所をメモ。

(前略)若き日の津田梅子に「アメリカを知る最良の書」としてアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を薦めたというエピソードからも推し量れるように、伊藤の欧米理解はけっして蔑(あなど)れないものであった)。

 また後年、伊藤は好んでバークの「代議士は国民全体の利益の奉仕者」という言葉に言及したという。議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない。元老の筆頭でありながら自ら政党の創設に乗り出し、立憲政友会の初代総裁になった伊藤は、間違いなくバークの思想のよき理解者であった。

宇野重規保守主義とは何か』(中公新書,2016) 172頁)

 「議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない」という伊藤博文の思想に真っ向から反しているのが、森友学園加計学園の例に見られるように、自らの「お友達」に利益供与すべく口利きに奔走する安倍晋三・昭恵夫妻といえるかもしれない。

 伊藤博文への積極的評価で私がすぐに思い出すのは、憲法学者樋口陽一立憲主義の観点から伊藤を高く評価していたことだ。伊藤に対する著者の総評は下記。

(前略)伊藤は近代日本における一つの正統的な政治体制を確立し、そこに明確な制度的基盤と、精神的機軸を与えようと努力したといえるだろう。伊藤がつくり出した明治憲法体制のその後の評価は措くとしても、明治憲法体制を前提に、その漸進的な発展を目指したという点では、伊藤は近代日本における「保守主義」を担ったといえる。(前掲書174-175頁)

  次に牧野伸顕に対する著者の総評。牧野は戦前の日本において、日本軍のテロリストたちによって暗殺のターゲットにされ続けたこともあって、昭和史を扱った本にはうんざりするほどその名前が出てくるが、牧野伸顕大久保利通次男だったことはすっかり失念していた。

(前略)大久保利通次男である牧野は、父大久保とともに伊藤を高く評価し、英国流の立憲政治を目指すと同時に、外交的にも親英米主義を志向した。このような牧野の政治的価値観は、ある意味で、女婿である吉田茂を通じて戦後保守主義につながることになる。彼らは民主化に対して慎重な態度をとり続けたものの、高まる民衆の声に対して、漸進的な体制の改革を目指したという点で、まさに保守主義の正統であった。(前掲書177-178頁)

  さらに吉田茂に対する著者の総評。

 (前略)吉田は一定の現実的判断に基づき、戦後日本の課題を軍事力の拡大にではなく、経済的発展に見出した。国家の役割を限定的に捉え、むしろ自由な経済活動を重視するという意味で、より自由主義的な路線であった。また、どこまで価値的なコミットメントがあったかはともかく、自らがつくり出した戦後体制というあり方を基本的前提としているという点で、より漸進主義的な改革主義の立場をとったといえるだろう。(前掲書183-184頁)

  やっと鳩山一郎岸信介にたどり着いた。下記は上記吉田茂に関する引用文のすぐ後に続く鳩山と岸、特に岸への著者の言及。なお引用に際して漢数字をアラビア数字に書き換えた。

 これに対し、鳩山一郎 (1883-1959) 、岸信介 (1896-1987) らの日本民主党は、吉田の自由党とはかなり異質な要素をもっていた。とくに注目すべきは、やはり岸であろう。戦前、商工省の革新官僚として活躍し、また満州経営で辣腕をふるった岸は、国家主導の統制経済や計画経済を導入しようとしたという点で、明らかに異なる政治経済秩序のイメージを抱いていた。また、1960年の安保改定では、アメリカに対する日本の対等な関係を目指したことに示されるように、岸はより明確なナショナリズムへの志向をもっていた。そのような岸にとって、日本国憲法やそれに基づく戦後体制は「押しつけられた」ものであり、岸は戦後的価値に対する、より急進的な挑戦者の立場をとったといえるだろう。(前掲書184頁

 岸が「1960年の安保改定では、アメリカに対する日本の対等な関係を目指したこと」を天まで届けんばかりに持ち上げたのが、あの世紀の愚書『戦後史の正体』を書いた孫崎享であったことは言うまでもない。私は2012年に、確か「風太」と名乗った「小沢信者」の挑発に乗ってではなかったかと記憶するが、金を払ってこの愚書を買い、具体的に引用しながらこき下ろしたことがあった。その中でも繰り返し批判したことは、孫崎がこの愚書において日本国憲法をわずか4頁の「押しつけ憲法論」で軽く片付けていたことだった。あんな本を読んで「目から鱗が落ちた」と感激していた「小沢信者」たちはなんと愚かなことかと私は当時から馬鹿にしていたが、既にその後の5年間の歴史が彼らに審判を下している。だが、彼らが手を貸した安倍晋三独裁政権誕生(復活というべきか)によって今の日本が戦後最大に危機に瀕していることを決して忘れてはならない。

 その教祖を含む田中角栄竹下登らは、上記岸信介の論評の直後に書かれた保守合同に絡めて言及されている。但し、小沢一郎の名前は出てこない(笑)*1。以下引用する。

 保守合同は、このような異質な両者の間の緊張を封印するものであった。より自由主義的で漸進主義的な吉田の立場が池田勇人宏池会によって受け継がれたとすれば、より国家主義的で急進主義的な岸の路線は福田赳夫の清和会などによって継承された。その意味でいえば、田中角栄からさらに竹下登経世会へとつながる路線は、その両者の間に立つことによって、ある時期以降の自民党政治における主導権を確立したといえるかもしれない。

 いずれにせよ、自民党内における本質的な価値観の対立は、派閥対立へと「矮小化」されることによって、潜在的なマグマとして抑え込まれた。そしてこの「封印」こそが、すべてを曖昧に包括する政党としての自民党が長く一党優位を確立する一因となったのである。(前掲書184-185頁)

 言うまでもないが、引用文の最後の段落は1955年から1993年までのいわゆる「55年体制」には当てはまるが、「政治改革」以降、すなわち1993年の政権交代から2012年の第2次安倍内閣発足直前までの19年間と、第2次安倍内閣発足とともに始まって現在も続く「崩壊の時代」には当てはまらない。現在は岸・鳩山のかつての「保守傍流」がかつての「保守本流」を完全に征圧してしまった。1993年から2012年までの19年間に及んだ過渡期の最後において、「保守本流」が生み出した「鬼っ子」ともいうべき小沢一郎一派と、2012年夏までは自民党内で不遇を託っていた安倍晋三とをくっつけようとしたのが孫崎享だったと私は位置づけている。その意味で、未だに「リベラル」人士が孫崎のTwitterなんかを嬉しそうにリツイートしているのを見る度に、私は苦々しさが込み上げてくるのを禁じ得ない。孫崎なんかをリツイートしてるからダメなんだよ、と言いたくなる。

 

*1:実際には、小沢一郎は側近の官僚に代筆させた著書『日本改造計画』や自らの政策によって、「保守本流」の政治に対して、むしろ岸信介鳩山一郎に近い立場から挑戦していたのだったが、本書では小沢の存在は完全に無視されている(笑)。