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古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張『昭和史発掘』(3)(4)(文春文庫新装版)を読む

  先月、松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫新装版=2005)の第3,4巻を読んだ。

 

昭和史発掘〈3〉 (文春文庫)[新装版]

昭和史発掘〈3〉 (文春文庫)[新装版]

 
昭和史発掘 (4) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (4) [新装版] (文春文庫)

 

 

 実は、連休に入って第5巻以降も読んでいるが(第6巻まで読了)、全9巻からなるこの『昭和史発掘』の第5〜9巻は5冊かけて(単行本や文庫本の初版では第7〜13巻の7冊をかけて)「2.26事件」を扱っている。この後半部になると、清張の筆も俄然乗ってきて、読者としても引き込まれてしまうのだが、全巻を読み終えてから書くことにする。

 

 第3巻は4月7日から18日まで12日間かけて、第4巻は4月19日から26日まで8日間かけて読んだ。第1,2巻を読むのにもそれぞれ10日間かけていて、さすがに昭和史ものともなると推理小説のようには引き込まれての一気読みはできないなあと思っていたが、「2.26事件」に入って、一転して清張の推理小説並みに引き込まれて読んでいる(第5巻は3日、500頁以上ある第6巻は2日で読んだ。もっとも黄金週間中にまとまった時間がとれたためではある)。

 

 第3巻と第4巻の内容は下記の通り。

 第3,4巻を読んでいて思い出したのは4年前に読んだ立花隆の『天皇と東大』だった。特に第4巻の「京都大学の墓碑銘」(「滝川事件」を扱っている)と「天皇機関説」にその感が強かったので、押し入れにあった『天皇と東大』を引っ張り出してみると、たとえば第II巻「激突する右翼と左翼」収録の第35章「日本中を右傾させた五・一五事件と神兵隊事件」に「五・一五事件」が、第III巻「特攻と玉砕」収録の第36〜38章に「滝川事件」が、同第40,41章に「天皇機関説」がそれぞれ取り上げられていた。しかし、第II巻第27章に「河上肇とスパイM」という一章が設けられ、「スパイM(松村)」こと飯塚盈延(いいづか・みつのぶ)について取り上げられていたことはすっかり失念していた。

 

天皇と東大〈3〉特攻と玉砕 (文春文庫)

天皇と東大〈3〉特攻と玉砕 (文春文庫)

 

 

 第3巻でもっとも印象に残ったのは、この「スパイM」こと飯塚盈延を扱った一章だったが、清張の飯塚に関する記述は下記Wikipediaのそれと、出生地に関する情報が異なっている。

飯塚盈延 - Wikipedia

 以下、Wikipediaより引用する。

 

飯塚盈延

 

飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1965年9月4日)は、日本共産党党員で特別高等警察スパイ。「スパイM」とも呼ばれる。変名は松村昇、峰原暁助。愛媛県出身。

略歴

1902年に愛媛県周桑郡小松町に生まれ、1909年尋常小学校に入学。成績が良く天才と呼ばれた。米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、渡辺政之輔が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、若手の労働運動活動家として日本共産党(第二次)の派遣により、モスクワ東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した(留学中の変名は「フョードロフ」)。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。そして松村(飯塚)はスパイとして党に潜入、非常時共産党時代の共産党で家屋資金局の責任者となり、「赤色ギャング」に代表されるさまざまな権力挑発的方針を指示した。その後熱海事件共産党の代表者達を一斉検挙に追いやった。

松村がスパイであることは、同じクートヴェ帰りであった風間丈吉委員長を始めとする党の幹部から全く感づかれることはなく、一般党員も彼の過激な活動方針にほとんど疑いを抱くことなく従っていた。しかし熱海事件前後の一斉検挙後、取り調べや公判などで松村の名が出てこないことに不審をもった党員たちは、彼が警察のスパイではないかと考えるようになった。

その後の足取りは、満州でしばらく兄と建築業を行っていたが、078回国会懲罰委員会第3号(昭和五十一年十月二十八日)会議録の記録にある紺野与次郎議員の発言によると、「特高首脳部は、スパイ飯塚盈延に大金を与えて姿をくらませ、その後、飯塚は終生、社会からの逃亡者としての生活を行い、待合に隠れ、北海道満州を往復し、終戦後偽名で帰国して以来本籍を隠し、偽名を使い続け、元特高らに消されることを恐れ、一室に閉じこもり、昭和四十年酒におぼれて逃亡者としての悲惨な生涯を終えています。しかし、生地の本籍上の飯塚盈延はいまでも生きていることになっています」となっている。

参考文献

 

 清張が「スパイ"M"の謀略」を『週刊文春』に連載していたのは1966年で、当時飯塚の消息は知られていなかったが、上記Wikipediaによると1965年に死んでいた。また、飯塚の出生地を清張は知らず、新潟県出身ではないかと推測していたが、事実は愛媛県出身だったようだ。

 清張の本は図書館に返してしまって手元にないが、ネット検索にて下記ブログ記事かをみつけた。

blogs.yahoo.co.jp

 以下、上記ブログ記事から引用する。

(前略) 連作『昭和史発掘』中の一篇である「スパイ〝M〟の謀略」が週刊文春に発表されたのは、1966年の4月~8月号であった。
 スパイ〝M〟とは、昭和七年当時の共産党内で活動費の管理や党員間の連絡網を一手に掌握していた松村を名乗る幹部、実は特高警察と通じ合ったスパイのことである。当時、すでに共産党は、昭和三年と四年の治安維持法による党中枢メンバーの一斉検挙により低迷の時期にあったが、それでも残されたシンパ党員によって徐々に再生の様相を見せていた。ところが昭和七年十月六日に起きた党員による銀行ギャング事件は、世間の共産党に対する同情・共感を一挙に反感・離反へと傾けさせ、同時に事件に関わった党員三名の検挙へと繋がり、次いで十月三十日、党全国代表者会議に出席するために熱海の旅館に集合していた地方代表者および都内に潜伏していた幹部連中が一斉に逮捕され、共産主義運動はほぼ壊滅状態となる。 
 これら昭和七年の重大事件のすべてに、松村の巧妙な「謀略」が関わっており、しかもこの事件以降、彼の存在は煙のように消えてしまうのである。

 清張の「スパイ〝M〟の謀略」は、この「松村」なるスパイについて詳細に調査したドキュメントであって、世評高い『昭和史発掘』の中でも異色の生彩を放つ力篇である。その末尾に清張はこう記す。
 【松村の本名が飯塚盈延というのはほとんど疑いないようである。また彼が新潟県中蒲原郡の出身だということも間違いなさそうである。松村の本名と、その履歴を確実に知っているのは毛利特高課長と戸沢検事だろうが、毛利警視はすでに死亡し、その口からは永遠に真相を聞くことはできない。戸沢検事もまた黙して語らぬ。
 私は、この稿を書くに当り、松村の現在の追跡に相当努力してみたが、やはり分らなかった。ある線までゆくと肝心な部分が消えてしまうのである。】[『昭和史発掘・3』(文春文庫新装版・455頁)]

 清張がこの「あとがき」めいた文章を発表したのが1966(昭和四十一)年の八月(執筆は六月頃か)だから、それから実に二十四年後に、いわば「スパイ〝M〟のその後」を小説として──つまり純然たるフィクションとしてということだが──書かれたのが、本篇「『隠り人』日記抄」だということになる。
 この作品は全編「松村」こと「矢部治郎」の日記体で書かれているが、その日記が昭和三十三年から始められていることには、作者の意図がありそうである。何故なら、この年の第七回全国大会で日本共産党は、それまでの党内分派闘争に終止符を打ち、党の団結と統一を宣言して新たな一歩を踏み出したからである。先に引用した【今や彼らは覇者となっている。】とは、そうした状況を踏まえた「隠り人・M」の述懐とされているのに違いない。
 
 清張が平成二年になってこの作品を発表したのは、その後の調査によって「スパイ〝M〟」に関する新しい情報を得たからであろうか、それとも以前に取材した事件に対する作家としての関心が再び沸き起こってきたからであるのか、おそらく後者ではあろうが、筆者にとって一つだけ気になることがある。
 それは、「スパイ〝M〟」の身元調査に関することである。前記の「あとがき」風の文章で清張は、〝M〟の出身が新潟県中蒲原郡だということは間違いなさそうだと述べているが、この「『隠り人』日記抄」では「おれ」の郷里は四国の小さな城下町だとある。旧藩主の邸址には「丸に中陰菱」の家紋が見られたこと、また町を流れる川の水が瀬戸内海に注ぐとある。これは伊予の小松のことではないかと思われるが、「おれ」はその町の小学校高等科を卒業し、家が小さな旧藩の貧乏士族であったためにに中学(旧制)にも進めなかったとあり、「おれ」の履歴についてかなり詳しく述べている。
 
 〝M〟の活動家としての偽名「峰原」 「松村」、また本名である「飯塚」等の名がこの小説でもそのまま使われているのに、その出身地に関してのみこのように変えられているのは、その後清張の独自の調査で、〝M〟の出身地が四国の小さな城下町であったことを突き止めたのであろうか。それについて思い起こされるのは、前記の「あとがき」風の文章の中で清張が、「飯塚盈延」という戸籍名が実在するかどうかを新潟県内の全市町村について調査したが確証が得られなかった、と記していることである。
 そのために、「『隠り人』日記抄」を書くに当たり、フィクションとして「おれ」の出身地を四国にしたのか? この件に関しては、清張がどこかに記しているのを筆者が知らないだけかもしれぬが、興味ある問題ではある。

 

 上記ブログ記事によると、清張最晩年の1990年に発表された「『隠り人』日記抄」には、スパイ"M"の出身地が愛媛県伊予小松であることを示す記述があったようだ。つまり、1990年には飯塚の出身地に関する正確な情報は判明していたようだ。

 この一編から私が感じたのは、松本清張とはとことん「人間」に対して尽きせぬ興味(好奇心)を持っていた人だったんだなあ、ということだ。なぜ「スパイ"M"」はあんなことをやったんだろうか、という好奇心が全編を貫いているように思われる。清張は左翼につきものの「連帯」やなんかにはあまり惹かれるところはなかったのかもしれない。生前から共産党シンパとして知られた清張だが、その点で「普通の左翼」、私の偏見によれば「同調圧力」に屈しやすい人たちとは一線を画して異色を放っているように思われる。そして、人間に対する尽きせぬ興味(好奇心)が迸り出たのが、文庫新装版第5巻以降の「2.26事件」のシリーズであり、だからこそこの連作は、第5巻以降に清張らしさが全開している。この連作を第1巻から読むとへこたれる恐れがあるから、第5巻から読み始めた方から良いかもしれない。

 この続き(第5〜9巻の読書メモ)は全巻を読み終えてから書くつもり。