KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

2021年12月に読んだ本;斎藤幸平『人新世の「資本論」』、東野圭吾『むかし僕が死んだ家』とアガサ・クリスティ『カーテン』と浦沢直樹『MONSTER』のトライアングル、そして佐藤優の駄本『生き抜くためのドストエフスキー入門』など

 今年(2021年)も昨年に続いて思うような読書はできなかった。昨年は66冊*1しか読めなかった。ちょうど100冊を読みはしたものの、半分以上が10年前には見向きもしなかったミステリだった。うちアガサ・クリスティ作品が42冊(冒険ものなどを含む)だった。昨年来のコロナ禍の影響で仕事の手数が増え、自由時間が圧迫されたのが最大の理由だ。

 今月(12月)はことのほか時間がとれなかったのでブログの更新回数も激減したが、ミステリ以外の4冊を含む8冊を読んだ。しかしわれながらつまらない帳尻合わせだったな、とも思う。

 まず、月の初め頃に懸案にしていた斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書,2020)をようやく読んだ。最近の本に多い二重カバーに私の大嫌いな佐藤優白井聡の名前が大々的に出ており、ネット検索をかけると著者と白井の対談が引っかかりもする。

 

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 本書はマルクスや経済の本というよりは「気候変動に本気で立ち向かえ」と檄を飛ばす本だ。気候変動対策はもう待ったなしであり、そんな時に富裕層の欲望を満足させるための経済成長など論外だと言っている。但し、貧困に苦しむ人たちなどにとっての経済成長は必要だとも書かれている。

 そこでなぜマルクスか。マルクスと脱成長とは食い合わせが非常に悪いのではないかとは本書を読む前に私が思ったことでもあった。時間とスペースをあまりとれないので前記白井聡との対談から著者・斎藤幸平の言葉を引用する。

 

斎藤 これまでマルクス主義者は、どうしても生産力至上主義という発想にとらわれていたので、非常に優秀な研究者でも、なかなか脱成長という考え方を受け入れることができませんでした。

 正直なところ、私自身も、経済成長や技術発展の可能性に関して楽観視していたところがありました。実際、去年の夏に海外の出版社に提出した出版企画書にも、脱成長を批判しつつ、マルクスは持続可能な発展を擁護していたと書いていたくらいでしたから。

 しかし、気候変動が急速に深刻化していくなかで、認識を改めざるを得なくなった。特に、グレタ・トゥーンベリたち「未来のための金曜日」や、イギリスの「絶滅への反逆」という社会運動から衝撃的な影響を受けました。そういった運動に理論が応答するためにも、『未来への大分岐』(集英社新書)の内容を発展させていったわけですが、そうするなかで、「経済成長パラダイム」そのものを乗り越えることを真剣に検討することを強(し)いられたのです。

 そして、そうした目で、マルクスが残した膨大な手書きの研究ノートを検討するなかで、最晩年のマルクスが、脱成長を機軸にしたコミュニズムに転換していることに気がついてしまった。

(中略)『資本論』第一巻を刊行したあと、マルクスはまとまった著作は出していませんが、晩年の彼の遺したノートには、現代の問題を解決する大きな鉱脈が眠っています。人々が持続可能な社会で、豊かに暮らすために、資本主義社会を乗り越えないといけないということを、最もはっきりと示した思想家がマルクスなのです。繰り返せば、資本主義を前提とする限りでは、解決策はない。これは、グリーン・ニューディールで「緑の成長」をめざすケインズ主義とは完全に異なるマルクス独自の発想です。

 

出典:https://www.bookbang.jp/review/article/670677

 

 「SDG's (sustainable development goals = 持続可能な開発目標)ではもはや気候変動への対処は不能」との斎藤の主張には賛否両論があろう。ただ私の直感をいえば、斎藤の主張は否定しきれないと思った。2004年に中国が1950〜60年代の日本のような一大土建国家に化しつつあると思われる光景を目撃した時、こういうのが世界各地でずっと続いたら地球は持たなくなるんじゃないかと思った時の印象が強いからだ。そしてここ数年、気候変動が大きくなったことを体感できるようになったと思っている。そんな時代なのに麻生太郎が「平均気温気温が2度上がったおかげで、北海道のお米はおいしくなった」などという暴言を発した。いうまでもなく麻生の暴言は下記「BuzzFeed」のファクトチェックを参照するまでもなく「誤り」だが、麻生のように気候変動に全く問題意識を持たない政治家に、ついこの間まで財務大臣を長年にわたって担当させてきた政党を秋の衆院選に勝利させたこの国に絶望感を抱かずにはいられない。

 

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 ところで斎藤幸平の本を絶賛していた一人が佐藤優だ。私はこの佐藤が大嫌いで、近年はことにマルクスを悪用して人々の牙を抜いてしまおうとしているかのような一連の講演録を読んでは腹を立てていた(それらをブログで取り上げたことがないと記憶するが)。先日本屋に行ったら相変わらず池上彰とつるんで講談社現代新書から駄本を出していたが買わなかった。しかしドストエフスキーの「五大長篇」を解説した講演会を活字化した下記新潮文庫は薄かったので買って読み、またしても激怒したのだった。

 

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 何に腹を立てたかというと、佐藤が『カラマーゾフの兄弟』に出てくる「大審問官」の論理を大々的に肯定していたことだ。佐藤は、カラマーゾフ家の三男・アリョーシャが心酔したゾシマ長老の遺体が腐敗したのは「ゾシマが間違えた信仰をしていた」*2からだという。ロシア正教では「聖人は腐らない」*3はずだというのだ。そして「大審問官」を、佐藤の講演当時総理大臣だった菅義偉や、プーチン、そして習近平らも同じ考え方をしている、と言いつつ*4、「ドストエフスキーが、大審問官を肯定的に評価しているのは明らかではないでしょうか」*5と言い放っている。つまり佐藤は菅(義)やプーチン習近平を肯定しているともとれる。私はこれを読んで、佐藤は自らを大審問官になぞらえているのではないかと疑った。またこのような佐藤のあり方は、佐藤が創価学会を強く擁護していることとも関係があるかもしれないとも思った。

 私は佐藤に強く反発したので、またドストエフスキーを読み直してみようかとも思った。『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』はこれまで二度ずつ読んだが(もしかしたら『罪と罰』は3度読んだかもしれない)、他の3長篇は一度ずつしか読んだことがなく、ことに1989年に『悪霊』を読んだ時には集中して読めなかった。「五大長篇」の中では最後に、岩波文庫から米川正夫訳の久し振りの重版がされた時に読んだ『未成年』を読んだのは確か「3」のつく年だったはずだが、それがスワローズが日本一になった1993年だったか、タイガースが星野仙一監督下でリーグ優勝した2003年だったかは思い出せなかった。この記事を書くために引っ張り出してみたら1993年だった。現在は工藤精一郎訳の新潮文庫も(おそらく文字が大きくなって)再版されているはずだから、30年前後読み返していない3長篇と、『カラマーゾフの兄弟』の三度目は是非読もうと思った。なお、過去二度読んだ時には、ゾシマ長老の遺体が腐敗したのはドストエフスキーの皮肉なリアリズムゆえだとしか思えなかった。

 非ミステリの3冊目は山本圭『現代民主主義』(中公新書, 2021)。これは春先に買った本だったと思うが、途中まで読んだところで止めていて、そのことさえ忘れていた。今月に入ってようやくそのことに気づいて残りを読んだ。こんなありさまなので論評はできない。中公のサイトへのリンクのみ示す。

 

 コロナ禍に入る前は頑張ってかつて苦手意識を持っていた村上春樹を呼んでいたが、コロナ禍以降この人の本から再び遠ざかっていた。ただ、小説としては最後に*6、記録を調べてみると2019年12月に読んだ『羊をめぐる冒険』(1982)が、苦手意識を持つに至ったその前の2冊から受けた印象とずいぶん違っていたので、いずれその2冊を読み返してみようとはその時から思っていたのだったが、かつての苦手意識が災いしてなかなか手が出なかった。しかしスワローズが日本一になった今年のプロ野球日本シリーズをきっかけに、2作のうち、1978年4月1日のプロ野球開幕日に当時スワローズの選手だった故デーブ・ヒルトン(2017年に67歳で死去)の二塁打を見て書こうと思い立ったという『風の歌を聴け』(講談社文庫新版2004, 単行本初出1979)をおそらく三十数年ぶりに読み返した。

 

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 つまり今年のスワローズがトリガーとなった読書だった。ちなみに1978年の日本シリーズ西宮球場での第3戦に5対0で完敗したスワローズが続く第4戦でも5回を終えて5対0とリードされ、6回表に4点を返したものの9回表も盗塁失敗で二死無走者になったところから一人走者が出て、そこで先発の今井雄太郎山田久志に代え損ねた阪急・上田利治監督の隙を突いて、ヒルトンが左翼席に逆転2ランをかっ飛ばした。高校の中間試験のために学校に午前中しかいなかったためかどうか、私はこのヒルトンの逆転2ランを白黒テレビで見て、当時はまだ「にわかスワローズファン」でしかなかったとはいえ、鳥肌が立った*7。翌日の第5戦では、初回からスワローズ打線が前日セーブを挙げ損ねた山田久志を打ち込んで快勝し、敵地で連勝して王手をかけた。ヒルトンの一発が文字通り流れを変えたのだった。

 今年はスワローズが日本一になったので、ついつい野球の話にそれてしまったが、当時苦手意識を持った村上作品を再読して意外に思ったことは、細部が奇妙に記憶に残っていたことだ。読んだ時には熱狂したのに、後年になったら何も覚えていない本が少なからずあることと鋭い対照をなす。

 作品の舞台の「人口7万と少し」の街が兵庫県の芦屋市をモデルにしているに違いないことは、村上と同様に阪神間に育った人間*8として読んだ当時から印象に残っていたが、それ以外にも、14歳になるまで全然しゃべらなかった「僕」が突如として三ヶ月間しゃべりまくり、そのあとおしゃべりでも無口でもない普通の少年になったこととか、指が4本しかない女の子のこととか、レコード屋の店員をしていたその女の子から、ベートーベンのピアノ協奏曲第3番のレコードをバックハウスとグールドのどちらかを選ぶかと聞かれてグールドを選んだことなど。今回は、真ん中の方に出てくる6回表に投手陣が崩壊したプロ野球のチームは、きっと神宮球場で読売を相手にした時のスワローズ、いやアトムズなんだろうなと思った。村上が本作を書いた1978年にスワローズは優勝したが、1970年に「アトムズ」と言っていた頃には本当に弱くて、確か読売戦と阪神戦の対戦成績がともに5勝21敗で、勝率2割にも満たなかったはずだからだ。調べてみるとこの年のアトムズは33勝92敗5引き分けで、優勝した読売には45.5ゲーム差、5位中日には22ゲーム差をそれぞれつけられた。アトムズは読売と阪神以外の3球団との対戦成績も23勝50敗5引き分けで、3回に1回も勝てなかったのだ。なんというおそるべき弱さ。12月24日生まれの本書の主人公とは違って、1949年1月12日生まれの村上春樹は、1970年には既に東京に住んで早稲田大学に通っており、これも本書の内容とは違って京都生まれで生粋の「芦屋っ子」ではない村上(西宮市在住歴もある)*9は、当時両親の家があった芦屋に帰省する生活を送っていた。当時の阪神間アトムズファンなどほとんどいなかったに違いない。いしいひさいちが住んでいた岡山も同様だが。なおジャイアンツを相手に新人投手がノーヒットノーランを記録する話も出てくるが、まるで1987年の中日・近藤真一を予告しているかのようだ。

 残り4冊がミステリ。まず嫌って止まないはずの東野圭吾をまた読んでしまった。クリスティさえ読む時間がない時、腹立ち紛れに手を出してしまう。今回は1994年に書かれた『むかし僕が死んだ家』(講談社文庫, 1997)だった。

 

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 ヒロインの沙也加という名の少女には幼い頃の記憶が全然ない。一度も名前が表記されない沙也加のかつての恋人である主人公が、沙也加とともに長野県の山の中にある「幻の家」に行き、彼女の記憶を取り戻そうとする話。

 ヒロインの名前は先日「自殺」が報じられた芸能人と同じだが、松田聖子に代表される「80年代の文化」やそれを承けた「90年代の文化」が嫌いな私は、ヒロインの名前からこの芸能人を連想することは全くなかった。当該の芸能人は私が本書を読み終えた翌日(12/18)に自殺し、そのニュースを知ったのはさらにその翌日だった。ネタバレを避けるために曖昧な書き方をするが、本書では沙也加は「死んだが、死ななかった」。

 読んでいる最中に思ったのは、東野は1994年にこんな小説を書いていたのかということだ。この本は東野には珍しく内発性を感じさせた。東野にはあざといまでの職人芸を感じさせる本が多く、技巧は大したものだと感心しながらもどうしても好きにはなれなかった。だが本書は違った。ただ、内発的にこんな話が出てくる東野圭吾という人が持つ「虚無性」にはちょっとぎょっとさせられた。そしてこの人なら、私が批判し続けて止まない『容疑者Xの献身』(2005)のタイトルにある「献身」という言葉をダブルミーニングとして用いていることもあり得るのではないかと初めて思った。つまり、東野自身は自らが描いた「容疑者X」の行為が本当に「献身」であるなどとは全く考えていない可能性だ。俺の読者たちはあれを読んで本当に「感動」してるんだぜ、あんなのは「献身」でもなんでもないのに、と東野自身が思っている可能性がある。これまではさすがにそれはあり得ないだろうと思っていたが、本書を読んで、そうではないかもしれないと初めて思った。

 なお本作の主人公はその『容疑者Xの献身』が含まれる「ガリレオシリーズ」を思わせるものだが、その第1作である『探偵ガリレオ』(1998)より前に本作は書かれている。もしかしたら「ガリレオシリーズ第0作」なのではないかと思ったが、読了後ネット検索をかけると、今年(2021年)刊行されたシリーズ最新作に本書の主人公との関係が示唆されているらしい。まあそんなのを読む日がいつになるか、あるいは本当に来るかどうかはわからないが。

 もう一つ強く思ったのは、このヒロイン・沙也加は、まるで浦沢直樹の長篇漫画『MONSTER』(1994〜2002)のヒロインのニナ・フォルトナーみたいだなということだ。本の最初からそう思ったが、最後にニナ(アンナ)が漫画の初めの方で発したさる印象的な言葉を沙也加が発したことを「思い出した」場面を読んで、さらに強く思った。それで、漫画家の浦沢直樹というより編集者の長崎尚志が、1994年当時にはまだ売れっ子ではなかった東野圭吾の『むかし僕が死んだ家』を読んでいた可能性はないだろうかと思ったのだった。本書は今では講談社文庫から出ているが、単行本初出は双葉社で、同社が出している月刊誌『小説推理』に連載されていたという。双葉社は『漫画アクション』を出している出版社だから、漫画雑誌の編集者が本作を参考にした可能性はなきにしもあらずではなかろうか。少なくとも、一部から漫画連載時に似ていると言われていたアゴタ・クリストフの『悪童日記』(1986)などよりよほど類似性は高いだろう。

 なお、チャーミーという猫が出てきた時点で、文庫本の解説文を書いている推理作家の黒川博行氏がそのからくりに「ピンときた」そうだが、私も同じだった。私の場合その理由は、昔、『水もれ甲介』という石立鉄男主演(弟役を演じた原田大二郎の印象も強かった)のドラマの再放送を見ていたからだ。あのドラマには村地弘美が「チャミー」(朝美)という愛称の妹の役で出ていた。ところがそのあとに本物の「さやか」が出てきたからかえって面食らった次第。小説の最後がどうなるかは、東野自身のガリレオシリーズ第6作『真夏の方程式』(2011)からほぼ見当がついたし、概ね予想通りの結末だった。その結末はまたしても漫画『MONSTER』を強く連想させるものだったが、本作の方が早く、しかも『MONSTER』の連載開始の半年前に刊行されている。

 残る3冊がアガサ・クリスティだが、まず戯曲『検察側の証人』(1953)を読んだ。

 

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 これは、1925年に発表された同名の短篇小説*10を1953年に戯曲に書き改めたもので、結末が変えられている。私は短篇を既に読んでいた。短篇の結末と戯曲の結末のどちらが良いとも私にはいえない。ただ、加藤恭平(1936-1985)訳のヒロインの名前を「ローマイン」とする表記はいただけない。彼女の名前は "Romaine" であり、「ローマイン」ではドイツ読みでも英語読みでもないからだ。短篇集の小倉多加志(1911-1991)訳も古いが、こちらの「ロメイン」の方が良いと思う。発音記号は [rouméin] らしいので、「ロウメイン」または「ローメイン」がより近いかもしれないが、「マイ」はいただけない。「ローマイネ」ならまだ良いかもしれないが。私が言いたいのは「イギリス風かドイツ風かどちらかであってほしい」ということだ。「ローマイネ」だとどちら風かわからない。もっとも、かつて "Irene" をアメリカ英語では「アイリーン」、イギリス英語では「アイリーネ」と発音するという話があったから、「ローメイネ」なのかもしれないが、いずれにせよ「ローマイン」はないだろうと勝手に思っている。ドイツ人なら "Romeine" と綴りそうな気もするが、このあたりになると英語も決して得意ではなく、ましてやドイツ語にはさっぱりの私があまり変なことは書かない方が良いかもしれない。

 クリスティの2冊目はクリスティファンの間で高く評価されているらしい『五匹の子豚』(1942)。ポワロものの長篇第21作とのことだが、第19作『愛国殺人』と第20作『白昼の悪魔』が図書館で借り出し中だったために先に読んだ。

 

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 なるほどこれは名作だ。クリスティが技巧の限りを尽くしている。真犯人はいかにもクリスティが犯人に設定しそうな人物で、私は最初の頃からこの人物を疑っていたが、クリスティが繰り出すミスリーディングに引っ掛かって意見を変えてしまって失敗した。ただ、印象に残る度合いでは先月読んだポワロもの長篇第18作『杉の柩』の方が上かもしれない。あの作品には犯人の意外性が欠けており、読者が犯人を外しようがないのが欠点といえば欠点かもしれないが。解説者は『五匹の子豚』が「名犯人」だと書いていたが、私がより強くそう思うのは、マープルもの第4作の『予告殺人』の犯人の方だった。これは1950年にクリスティが60歳に達して後期に差しかかった頃の作品だから、余計にそう思うのかもしれないが。

 ところで本作はクリスティが中期から後期にかけて多く書いた「回想の殺人」つまり殺人が犯されてから長い年月を経たあとに蒸し返される殺人事件を書いたもののうち最初に発表された作品だが、実際には本作の前にクリスティの死後(1976年10月)に発表されたマープルものの最終作『スリーピング・マーダー』の方が先に書かれていたことを本書の解説を読んで知った。

 それなら、クリスティを41冊読んできた今年最後にその『スリーピング・マーダー』か、またはそれと同じ頃に書かれたポワロものの最終作『カーテン』を読んでみようかと思った。区の図書館に行ったら前者は置いてなくて後者だけ置いてあったので、今年最後に読み終える本はクリスティの『カーテン』になった。クリスティの死の前年、1975年に刊行されたが、書かれたのは1940年代初頭だという。

 

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 以下、露骨なネタバレだけは避けるが、内容を強くほのめかすことは避けられないので、未読かつそれを知りたくない読者はこの続きを読まないでいただきたい。

 

 私自身は回避しがたいネタバレによって、「ポワロが○○」のと「ポワロが××」ということは知っていた。ただ「××」は表現が微妙になる。

 少年時代の1974年か75年に『アクロイド殺し』を「もしかしたらこいつ自身が犯人ではないか」と疑いながら読んでいたところ、級友にその通りであることをネタバレされるという被害を受けて、以後昨年末までクリスティ作品をどうしても読めなかったことを弊ブログに何度も書いた。その反動で今年だけで一気に42冊も読んでしまったが、本作がこの42冊目という縁起の悪い数字にふさわしい作品であることは、発表当時の世評などから知っていた。それに、クリスティが死後に発表するつもりだった本作を死の前年に発表した頃には、エラリー・クイーンの某作とその結末をネタバレによって不幸にも知っていた(おかげで当該作品は今に至るまで読んだことがない)ので、クリスティが同じことをやった可能性が高いのではないかと、刊行が発表された報道を知った時から思っていた。そしてそれは想像通りだった。その後45年間クリスティは読まなかったので記憶が曖昧になってはいたが、つい最近ダメ押しのネタバレを食って、やはりそうだったかと改めて思った。

 そして、もしそういう小説なら、その中身は先ほど東野圭吾作品の時にも引き合いに出した浦沢直樹の『MONSTER』みたいなものなのではないかとひそかに想像していた。とはいっても、ニナ・フォルトナーが記憶を取り戻す件ではなく、漫画のタイトルになっているモンスターみたいな人物とポワロが対峙するのではないかとの想像だ。

 その想像は当たっていた。本作の犯人と読者に思わせた「X」こそ、『MONSTER』に出てくるヨハンのような人間だった。話の展開はその通りとなったが、ことにポワロの相棒のヘイスティングズまでもが○○○○○とした時には少なからずぎょっとした。だが、それほどの事情でもなければポワロが○○を実行できないというエクスキューズなんだろうなと容易に想像がついた。同時に「X」の正体はこいつで間違いないとの見当もついた。「読書メーター」の感想文を見ると「X」が誰かは早い段階でわかったという方が多かったが、そういう方はおそらく「ポワロが××」との情報を読む前から知っていたのではないか。それを知っていれば「X」が誰かであるかの推定はきわめて容易だ。

 ただ、『MONSTER』と本作とでは解決が大いに異なる。漫画の方では主人公のテンマとヒロインのニナがずっととろうとしていた手段が最後に否定される。というより、ニナがテンマを止めた。この漫画には第9巻と第18巻の2箇所に大きなクライマックスがあるが、後者が前者を否定するところにこの漫画の強いメッセージ性がある。これは浦沢直樹というより編集者の長崎尚志の思想によるものではないかと私は想像するし、私は『カーテン』よりも『MONSTER』に軍配を上げるものだ。

 その観点からいえば、例の東野圭吾の『容疑者Xの献身』はどうなるか。「X」に虐殺された「技師」なるホームレスは『カーテン』の「X」でもなく『MONSTER』のヨハンでもない。殺される理由など全くなかった人間だ。その人を虫けらのように殺した「容疑者X」の行為が「献身」や「純愛」に当たるとは、作者の東野圭吾自身も全く考えていないのではないか。今月の一連の読書で強く思ったのはこのことだ。

 このように、エンタメ小説や漫画であっても考える材料はいくらでもある。

 なお、『カーテン』のハヤカワ文庫版に解説を書いた推理作家の山田正紀によると、『カーテン』はドイツ軍によるロンドン大空襲が行われた日に書き始められたという。その日は1940年9月7日だ。そして山田は、

この『カーテン』で描かれる「究極の悪」こそは、なにより「戦争」の象徴たるべきものではないか。この恐るべき犯人の、犯行の動機ともいえない動機こそは、「戦争」の純粋悪そのものではないだろうか。(本書374頁)

と書く。山田は「究極の悪」「純粋悪」と表現しているが、ここでも『MONSTER』でニナ・フォルトナーがヨハンを「絶対悪」と形容したことを思い出させる。しかし、ニナ(とテンマ)はエルキュール・ポワロとは異なる結論を出したのだった。

 なおこの問題については、ヒトラー暗殺計画に加担して処刑されたディートリヒ・ボンヘッファー(1906-1945)を持ち出すまでもなく、簡単に結論が出せないことはいうまでもない。

 ただ、東野圭吾の『容疑者Xの献身』に描かれた犯人を「献身」「純愛」などの美辞麗句で持ち上げるのが論外であることだけは絶対に間違いない。いくらエンタメ小説であってもそのような受け取り方は言語道断であろう。

 以上で2021年の読書ブログ記事を終わる。クリスティ作品では、年初くらいはノーテンキなものを読もうと思って、1920年代の小説の中では唯一未読だった『おしどり探偵』(1929)を正月に読もうと思っているが、作者の全盛期だった1930年代の小説は、恋愛小説や一部の短篇を除いてほぼ読み尽くしたので、来年は今年のように「クリスティばかり読む」状態から脱却するつもりだ。仕事にもう少し余裕ができれば良いのだが。

 それでは皆様、良いお年をお迎えください。

*1:上下巻あるいは上中下巻は1冊とカウントする。

*2:本書214頁

*3:同213頁

*4:同203頁

*5:同208頁

*6:2019年12月に『羊をめぐる冒険』を読んだ直後に、ジャズ・ロック・クラシックの音楽評論集『意味がなければスイングはない

*7:テレビで見た野球中継で同様の記憶があるのは、他に2001年のMLBワールドシリーズ第5戦で、ヤンキースの打者が9回二死無走者から同点ホームランを打った時だけだ。この時には私はヤンキースの相手だったダイヤモンドバックスを応援していた。

*8:あの地域には前述の西宮球場も存在していたにもかかわらず、阪神ファンと読売ファンしかいないも同然だった。

*9:そのために芦屋(や神戸)に多く残っている被差別部落問題を村上がよく知らずに級友に教えてもらったエピソードがエッセイ集に収録されている。同様の件で村上はのちに中上健次に叱責されてもいる。なお私も大阪府出身なので(神戸市東部を含む)阪神間には少年時代に住んではいたものの。同地域の被差別部落については知らないことが多い。

*10:短篇集『死の猟犬』(1933) 収録

アガサ・クリスティ『杉の柩』を読む 〜 個の時代へと拡散していく流れにクリスティ作品の「類型の人物像」が対応しきれなくなったとの山野辺若氏の指摘が興味深い

 1940年にアガサ・クリスティの『杉の柩』に、当時13歳か14歳だったプリンセス・エリザベスの未来の良人(おっと)選びの話が出てくることを『kojitakenの日記』に書いた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 上記記事を書いた時点では半分くらいしか読んでいないが、昨日(11/27)の日本シリーズ中継が始まる前、というよりテレビ観戦に備えて早い風呂に入る前に読み終えた。

 

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 本作はクリスティの名探偵ポワロもの長篇の33作中18番目に当たる。第14作『もの言えぬ証人』(1937)あたりから作風が変わりつつあると以前書いたが、第16作『死との約束』(1938)でそれはさらに顕著になり、今回読んだ『杉の柩』で決定的になった。

 作風の変化を特徴づけるものは、人間の心理描写が初期の作品のように類型的ではなく、深みというか立体性や多様性が出てきたことだ。『杉の柩』の主人公・エリノア・カーライル Elinor Carlisle は、物語の最初と最後とでは別人のような印象を受ける。

 本作に先立つ前述の『死との約束』及びそれに続く第17作『ポアロのクリスマス』(1938)の両作は、犯人の意外性に大きな特徴があるが、本作は打って変わってクリスティ作品の中では犯人当てがもっとも容易な作品であろう。犯人が使ったトリックも、具体的な物質名まではわからなかったが容易に想像がついた。被害者の素姓も推定は容易だし、そこまでわかればもう少し突っ込んで考えれば犯人の素姓にたどり着いてもおかしくはなかった。私はそこまで気合いを入れては読まなかったために犯人の素姓に気づくには至らなかったが、『読書メーター』の感想文を見ていたら「犯人の正体がわかった」と書いていた人がいた。このサイトは文字数が限られているので詳細には書かれていないが、犯人の正体(素姓)がわかったからにはレビューは被害者の素姓も読み取れていたはずだ。確かに本作第三部で真相が明かされてみれば、いつものクリスティの手口だから犯人の設定はそうでしかあり得ないのだった。私はまだまだミステリー、というかクリスティ作品の読みのレベルが低いようだ。とはいえクリスティのミステリはもう半分くらい読んでしまった。

 しかし、本書の特徴は謎の難易度ではなく、心理劇と恋愛劇をミステリと組み合わせたところにある。前々作『死との約束』はタイトルと開始部のおどろおどろしさからは想像もつかないエンディングに驚かされたが、本作もタイトル"Sad Cypress" の由来だというシェイクスピアの戯曲『十二夜』中の詩(もちろん私は知らなかった)の暗い印象とエンディングとが鮮やかな対照をなしている。シェイクスピアの詩は下記ブログ記事で参照できる。

 

parfum-satori.hatenablog.com

 

 正直言って、ちょっとポワロものとは信じられないようなエンディングだが、これについて杉江松恋氏が面白いことを言っている。

 

www.hayakawabooks.com

 

クリスティーが自作を語った中で、「『杉の棺』はいい本になるはずだったのに、ポアロが出てきてだめにしたわ」と言ってるんです(アガサ・クリスティー読本所収、フランシス・ウィンダム「クリスティー語る」)。僕はポアロ贔屓だけど、その気持ちはよくわかる(笑)。ノンシリーズでやったほうが良かったと思ったんでしょうね。

 

出典:https://www.hayakawabooks.com/n/nd88fb710fbdd

 

 そう、最後の場面でのポワロが発した言葉は「ポワロ離れ」しているのだ。

 本書はハヤカワのクリスティー文庫で読んだが、山野辺若(イラストレーター・文筆家)の解説が興味深かった。いくつか引く。

 まず、イラストレーターの山野辺氏は、クリスティ作品を読んでいるうちに19世紀の写実主義の画家オノレ・ドーミエ(1808-1879)の諷刺画が頭をかすめたと書く。以下引用する(なお、引用に際して原文の漢数字をアラビア数字に書き改めた。以下同様)。

 

 (前略)彼*1は守衛や商店主から政治家、弁護士、銀行家、資本家など、中産階級の人々を痛烈な皮肉と笑いを込めて描き続けた。彼の描くデフォルメされた人物の表情には社会的地位からくる特有の性格が見事に描き出されており、21世紀に生きる私たちが見ても彼が言わんとしたことが一目で伝わってくる素晴らしいものが多い。

 初期のクリスティー作品のコミカルともとれる極端な人物像の設定と、その事件の舞台がほとんど中産階級層で起こることが、私にドーミエを連想させたのだろう。

 

アガサ・クリスティー(恩地三保子訳)『杉の柩』(ハヤカワ文庫,2004405頁=山野辺若氏の解説文より)

 

 続いて、山野辺氏はクリスティのポワロもの長篇第1作である『スタイルズ荘の怪事件』(1920)の旧版(ハヤカワ・ミステリ文庫版, 1982)に旧版を翻訳していた詩人の田村隆一(1923-1998)が書いた解説を引用する。田村は「2つの大戦のあいだ、つまり、1920年代から1940年代の中期までの25年間は、まさにクリスティー的殺人事件の黄金時代ではなかったか、とぼくは思うんです。退役軍人、提督、地主貴族、金利生活者、舞台俳優、外交官、牧師、医師、……そういった類型が類型として社会に生きていた時代、人間の性格が、だれの目にもはっきりと見えた*2時代」と書いた。それを承けた山野辺氏自身の文章を以下に再び引用する。

 

(前略)初期のポアロ作品にはドーミエの描いていた世界と同質のものが色濃く残っていた。

 だが、それも時代が下ると様相が変わってくる。中期から後期の作品を読むに従って、私の中にあったドーミエのイメージはクリスティーの作品から徐々に薄れていった。

 『杉の柩』が出版されたのが1940年。ドイツのポーランド侵攻が1939年の9月。再び世界が悲劇の戦乱に突入しようとしていた実に焦げ臭い時期に書かれている。

(中略)クリスティーお得意の上層中産階級を舞台にしてはいるが、個人の心理を事細かに描いているため初期の作品のように類型化された人物による事件という印象は全くない。これは、作品を重ねるにつれてクリスティーの技にいっそうの磨きが掛かったためなのはもちろんだが、その一方、混迷を深めながら加速度的に個の時代へと拡散していく流れの中で類型の人物がもはや対応しきれなくなった結果ともいえるのだろう。この作品を読み始めた時点で、私の中でドーミエのイメージはほぼその効力を失っていた。現代に生きる私も、エリノアの心の揺れは実感をもって受け止められるものだったのだ。

 『杉の柩』は良質の推理劇でありながら、同時にエリノアの心を細かに描いた恋愛劇、そして四人四様の生き様を追うことでビクトリア朝時代の残像と新たなる “個” の時代の訪れを匂わせた時代劇ともなっている。この作品は、この時代を描きながらも真っ向から普遍的な男女の心理を扱うことで、現代にも十分通用する作品となっているのだ。いつの世でも、良質なものはいともたやすく時を越える。

 

アガサ・クリスティー(恩地三保子訳)『杉の柩』(ハヤカワ文庫,2004406-408頁=山野辺若氏の解説文より)

 

 実にうまいこと書くなあと感心するとともに共感した。

 私はクリスティ1920年代の作品に、歴史観、社会観、人間観などがいかにも紋切り型だなあという印象を持つ。しかしその印象はが30年代に書かれたいくつかの作品から薄れていき、1940年に書かれた本作『杉の柩』に至って、作者が「大きく舵を切った」との印象を持った。

 その作風の変化をもたらした大きな要因の一つが第2次世界大戦だったと思われることも強調したい。

 よく、ヨーロッパでは戦争といえば第2次大戦ではなく第1次大戦を指すと言われるが、少なくともイギリスでは第2次大戦が社会に与えた影響は第1次大戦に劣らず大きかったのではないか。私はポワロものでは本作よりあとに書かれた作品はまだ読んでいないが、少し前にミス・マープルものの『予告殺人』(1950)を読んで、第2次大戦の爪痕の深さを感じた。

 日本では「個の時代へと拡散していく流れ」はイギリスやアメリカ、ヨーロッパよりも大きく遅れたと思われるが、21世紀に入って、戦争を経ていないにもかかわらず、ようやく大きな流れの変化が起き始めているように思われる。それにエスタブリッシュメント道が全力で抵抗しているために社会に大きな緊張が起き始めているのではないか。

 そんな時代に、20世紀イギリスの保守人士だったアガサ・クリスティの作品群を成立順に読むことには興趣が尽きない。

*1:ドーミエ=引用者註

*2:原文では傍点=引用者註

松本清張『馬を売る女』に収録された「山峡の湯村」の舞台のモデルは岐阜県の秋神温泉らしい/「潜る」を「かずく」と言う地域はどこか

 光文社文庫から順調に出ていた「松本清張プレミアム・ミステリー」の刊行が、このところあまり出なくなった。それも、松前譲氏が執筆している巻末の解説文で刊行予定が予告された作品が、従来のラインアップに古い文庫本を並べている出版社との交渉がうまく行かないのかどうか、刊行されない例が結構ある。

 そんなわけで、今年は清張本は2冊しか読んでいない。そのうち角川文庫から新版が出た長篇『葦の浮舟』はつまらなかった。1967年の作品だが、清張の駄作の一つだろう。

 しかし、2冊目はまずまずだった。2011年に文春文庫版が出ていた中短篇集『馬を売る女』の光文社文庫松本清張プレミアム・ミステリー」版(2021)だ。字が大きくなるとともに、文春文庫版でカットされていた「式場の微笑」が入っていたので読む気になったものだ。

https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334792091

 

 「式場の微笑」は文春文庫では『宮部みゆき責任編集 松本清張傑作コレクション 中』(2004)に入っていたのでカットされたものだが、私は宮部みゆきとは意見が異なり、さして面白いとは思わなかった。エンディングには「えっ、これで終わり?」と思った。

 今回取り上げようと思ったのは、この本の最後に収録されている「山峡の湯村」の舞台と、北陸と福岡とで共通するというある言葉が気になったためだ。

 舞台は岐阜県高山市近くの温泉地で、「樺原温泉」という仮名になっているが、私が調べたところ、モデルは作品成立時の1975年には岐阜県朝日村(現高山市)の秋神温泉であろう。作中では樺原温泉が樺原村の中心地だったというから、実際には秋神温泉が朝日村の中心地だったことになる。しかし、清張が実際に秋神温泉に逗留したかどうかは調べてみたがわからなかった。

 この温泉の西に六郎洞(ろくろうぼら)山や栃尾山があり、栃尾山の登録にダムの人造湖があるという。作中ではこのダム湖が「仙竜湖」と呼ばれていることになっているが、実際には単に「秋神貯水池」という名前で、愛称は特にないようだ。六郎洞山、栃尾山、秋神貯水池の位置は下記サイトの地図で確認できる。

 

yamap.com

 

 事件はこの温泉で起きる。しかし主人公が事件の真相に気づくきっかけになったのは「かずく」という、標準語では「潜る」を意味する方言、というより古語だった。

 「かずく(潜く)」は、万葉集に収められた大伴家持の歌にも出てくるという。作中では、能登出身の登場人物と福岡県宗像郡鐘崎出身の登場人物がともに「かずく」という言葉を用いる。

 ところが、Wikipedia「海士(あま)」の項には下記のように書かれている。

 

能登国佐渡国の海士海女は、筑紫国の宗像地域から対馬海流に乗り、移動し漁をしていたという伝承が残り(舳倉島など)、痕跡として日本海側には宗像神社が点在する。鐘崎 (宗像市)には「海女発祥の地」とする碑がある。

万葉集』では真珠などを採取するために潜ることをかずくかづくかずきなどと呼ぶ。現在これらの表現する地方は、伊豆、志摩、及び徳島の一部の海女であり、房総ではもぐる[2]、四国では、むぐる、九州ではすむと呼ぶ。

 

出典:海人 - Wikipedia

 

 能登や宗像(むなかた)ではもう「かずく」とは言わなくなったのだろうか。徳島で「かずく」という言葉を使うのは海部(かいふ)あたりの人なんだろうか。愛知県にある同じ「海部」と書いて「あま」と読む地ではどう言うのだろうか、などなど気になった次第。

 なぜ海士と「かずく」という言葉が出てくるかというと、ダム建設の際に三十戸あまりがダム湖に沈められたが、そのダム湖に死体が沈められたのではないかと海士が潜る(かずく)行為がこの作品の鍵になるからだ。

 この小説を読んで思い出したのは、高知県早明浦ダムが干上がると、ちょうどこの小説が書かれたのと同じ頃にダム湖に沈められた大川町役場が姿を現すことだ。おかげでかつて何度も閲覧した下記サイトの記事にまたアクセスすることになった。下記記事が書かれたのはもう20年以上前だが、未だにネット検索の上位に引っ掛かるのだからたいしたものだ。

 

www.soratoumi.com

 

 なお、六郎洞山は面白い名前だが、神奈川の丹沢山塊にある檜洞丸(ひのきぼらまる)という山をまず思い出し、そこからさらに五郎丸というラグビー選手、ついでに源五郎丸という元プロ野球選手を連想した。しかしその六郎洞山は「岐阜百山」に入っていて、麓からの標高差はさほどないものの、猛烈な藪こぎを強いられ、地図の読めない人は登ろうとしてはいけない山とのことだ。

 本書収録の中篇では、「駆ける男」も岡山県とおぼしき瀬戸内の宿に興味を引かれた。しかし、舞台こそ瀬戸内だけれども、宿のモデルは愛知県の蒲郡ホテルらしい。舞台だけ瀬戸内に移し替えたわけだ。すると、「山峡の湯村」に描かれた「樺原温泉」のモデルらしい秋神温泉にも、清張は実際に行ったことはないのかもしれない。

 本書収録の作品は1973〜77年に発表された。この頃の清張のミステリー執筆数は少ない。しかし清張ファンであれば見落とせない中篇集だろう。

 なお、「山峡の湯村」は清張が亡くなった翌月の1992年9月にテレビドラマ化されているが、後半が原作とかなり変えられてしまったらしく、ネット検索で見ると特にその変えられた部分の評判が悪かった。しかしそれはドラマ化した日本テレビ(読売系)のせいであって、原作の小説は十分に面白い。

ショパンコンクール、「日本人最高位受賞」には関心がないが受賞者の髪型を「サムライヘア」と呼ぶのは止めてほしい/「2番を弾いた優勝者」になり損ねたマルタ・アルゲリッチ

 5年に1度開かれるショパン国際ピアノコンクールは日本でなぜか人気がある。すぐに頭に浮かぶのはスタニスラフ・ブーニンで、彼が優勝した1985年のショパンコンクールの様子がNHK特集で放送されたことが大きく影響し、日本で大人気になった。コンクール開催当時19歳で若くて格好良く、演奏も豪快だったので大いにウケた。私もこのNHK特集は視聴していた。

 ブーニンは本場のヨーロッパではあまり評判が高くないが日本での人気は未だに高く、妻は日本人で自宅も日本にあるという。1年のうちどれくらいの期間を日本で過ごしているかは知らない。さすがに日本でのコンサートだけで生計を立てられるとは思えない。

 そのショパンコンクールが行われ、日本人演奏家が2位と4位に入ったという。あれ、5の倍数の年じゃないのにと思ったが、五輪と同じでコロナのために1年延期されたのだろうとはすぐに気づいた。調べてみたらその通りだった。次回は、これも五輪と同じで1年先送りするのではなく2025年に行われるらしい。

 私は2位の反田恭平の演奏も4位の小林愛実の演奏も聴いていないし、そもそもショパンコンクール自体、他のあまたあるコンクールと比較して特別なものだとも思っておらず、ましてや「日本人最高位」とか「日本人入賞者」などには全く関心がない。しかし今回ちょっと興味を持ったのは、下記のツイートを見たからだった。

 

 

 何が「サムライヘア」だよ。私が片仮名の「サムライ」で思い出すのは、沢田研二が腕章につけていたハーケンクロイツだ。その件は過去何回も『kojitakenの日記』で取り上げた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 証拠の画像も残っている。但し、下記ツイートから張られたリンクの動画は再生できない。

 

 

 本論に戻る。ショパンの音楽にはそれなりに馴染みがあるが、私がショパンで一番良いと思うのがポーランドの民族舞曲であるマズルカであり、その他では作品40番台以降の後期(といっても30代)の内省的な作品が好きだ。一方、ショパンコンクールで候補者が必ず弾かなければならない協奏曲や、優勝者や入賞者がよく弾きたがるワルツのうち初期の作品などは大した音楽だとは思わない。だから、1965年の4位入賞者・中村紘子の演奏が良いと思ったことは一度もなく、2016年に彼女が亡くなった時にテレビの訃報報道がよく流していたのが「華麗なる(大)円舞曲、つまりワルツの1番(作品18)または2番(作品34-1)という、私がショパンの作品のうちもっとも評価しない音楽ばかりだった時には、ああ、私とは縁のない演奏家だったんだなあと思っただけだ。なおどうでも良いが、中村紘子プロ野球・読売の熱心なファンだった。

 しかしショパンのワルツは中村紘子が愛奏したと思われる1番や2番のようなつまらない音楽ばかりではないし、コンクールで指定されている2曲のピアノ協奏曲にもそれぞれ良いところがある。というより、この2曲はベートーヴェンの同じジャンルの1番及び2番と似た関係にあって、ともに初期の作品だがあとに作られた1番の方が2番よりずっと構えが大きくて演奏効果もある。だから2人の大作曲家はあとから完成させた曲を第1番にした。私も2人のピアノ協奏曲の1番か2番かを選べと言われたら、ベートーヴェンでもショパンでも迷わず1番をとる。

 しかし、ベートーヴェンでもショパンでも「2番の方が好き」という人が少数ながら存在する。ショパンコンクールでも2番を選ぶ候補者がいる。しかし、2番を弾いて優勝した人がいたんだろうか。それが気になった。そこでネット検索をかけたところ、やはりいた。

 

note.com

 

 以下、「2番を選んだ優勝者」に関する部分を引用する。

 

「なぜ1番が多いのか」については、筆者などが説明するより、ピアニスト・文筆家でショパンコンクールの視察もなさっている、青柳いづみこ先生が、詳細に、かつ明快にまとめてくださっていますので、興味深い記事をご紹介します。

 

ondine-i.net


もちろん文章中、青柳先生のお考えの部分もありますが、事実としてご記憶いただきたいポイントは、

 

  • 1番と第2番では、実は「第2番」が先に作曲されている
  • 1番のほうが少し長く(事実)、内容も充実している(といわれる)
    ※第1番は40分強に対し、第2番は32分前後
  • 2番で優勝したのは、3回のヤコブ・ザークと第10回のダン・タイ・ソンのみ

 

という3点です。

ヤコブ・ザークはロシアのピアニストで、リヒテルやギレリスを教えたロシアの伝説的な名教師ゲンリヒ・ネイガウスが、この2人と並んで「私の最も優れた4人の弟子」(あと1人はヴェデルニコフ)の一人に挙げた名手です。演奏活動の傍ら指導も活発に行い、後年にはヴァレリー・アファナシエフエリソ・ヴィルサラーゼ、ニコライ・ペトロフ、ユーリ・エゴロフら、ピアノファンにはたまらない名手たちを育成しています。

ダン・タイ・ソンは、今回の審査員にも入っており、近年は演奏家としてだけでなく指導者としても高い実績を出し続けていることは、当連載でも何度も触れてきたとおりです。そのダン・タイ・ソンショパンコンクールで第2番を演奏しています。貴重な録音が、ショパン研究所のYouTubeにあがっています。

 

www.youtube.com

 

前述の青柳先生のコラムにもあるとおり、1番ほど多くはないものの、第2番を選択するピアニストは毎回現れますが、優勝することはなかなかありませんでした。コンテスタントたちももちろんそのことを知っているでしょう(誰が弾いたかまでは知らなくても、「第2番を弾いて上位に入賞するのは稀なこと」とは知っています)。

今回、第2番を選んだのは、アレクサンダー・ガジェヴ、マルティン・ガルシア・ガルシア、そしてイ・ヒョクの3。いずれも、すでに国際舞台で活躍し大きな国際コンクールでも優勝している名手たちです。つまり、この3人は「分かっていて2番を選んだ」可能性が極めて高いのです(本人に聞いてませんので分かりませんが・・笑)。この3人には、「第2番を弾いて描きたい世界」が明確にあるのだと思われます。

2番のことを調べていて、2018年にショパン研究所がはじめて行った「第1ピリオド楽器のためのショパン国際ピアノコンクールに行き当たりました。日本の川口成彦さんが第2位に入賞したことでも話題になった、新しい試みでした。(後略)

 

出典:https://note.com/ptna_chopin/n/nf81ae5a9afb9

 

 最後の「ピリオド楽器のための」というのは多少興味がある。というのは私自身、古典派の音楽の演奏ではピリオド楽器の方が現在の楽器より良いと考えているからだ。たとえばモーツァルトの「ピアノとヴァイオリンのためのソナタイ長調K.526は、現代楽器で聴くとピアノがうるさすぎるが、ピリオド楽器で聴くとピアノとヴァイオリンのバランスが絶妙で、ああ、これこそこのジャンルでモーツァルトが書いた最高傑作だと思わせてくれる。故吉田秀和ベートーヴェンのクロイツェルソナタ(前述のモーツァルトと同じイ長調のヴァイオリンとピアノのためのソナタ)でもピアノがうるさ過ぎると不平を鳴らしたが、これもピリオド楽器で聴くと両楽器のバランスが良くなる。

 ショパンの協奏曲ではどうなのだろうか。引用しなかった部分を読むと、6人のファイナリストのうち5人が2番を選択したとあるが、それなりの良さがあるのだろうか。残念ながら私は1番を差し置いてまで2番に惹かれる部分はないので何とも言えない。

 なお引用文からさらにリンクを張られている青柳いずみこ氏の文章も非常に興味深い。以下引用する。前回(2015年)のショパンコンクールに関する文章だ。

 

選曲の時点で勝負あり!?

 

第17回ショパン・コンクール、チョ・ソンジンとシャルル・リシャール=アムランの順位を分けたのは、協奏曲の選曲だったと言えよう。ショパンの協奏曲はいずれもワルシャワ時代、20歳前後の作品だが、1番の方が後に書かれ、より完成度が高い。2番は初恋の人への思いがあふれ、繊細な美しさが魅力だが、演奏時間が短く、難しいわりに効果が上がらない。

おまけに2番は縁起が悪い。過去のコンクールで2番を弾いて優勝したのは、第1回*1ヤコフ・ザーク(第2、第3楽章)と1980年のダン・タイ・ソンだけ。1990年の第3位(1位無し)の横山幸雄も、1995年の第2位(1位無し)のアレクセイ・スルタノフも2番のジンクスに阻まれた。とりわけスルタノフは、1989年クライバーン・コンクール優勝の大本命で、切々と訴えかけるような2番で聴衆を魅了したが、蓋を開けてみたら対照的に端正な1番を弾いたフィリップ・ジュジアーノと同率の2位だった。

1965年の覇者アルゲリッチも2番を用意していたが、周囲のすすめで直前に1番に変更したと伝えられる(それであのみごとな演奏というのは本当に驚かされる)。

いきおい、消極的な意味で2番を選択する人が多い。ダン・タイ・ソンはオーケストラとの共演経験がまったく無く、短いほうが楽だろうと2番を選んだ。横山も第17回のリシャール=アムランも、コンクールの時点では2番しかレパートリーに入っていなかった。

第17回の場合、81名の本大会出場者のうち2番を申告していたのは21人だから、ほぼ4分の1。「イタリアの抒情詩人」ルイジ・カロッチア、「フランスのグールド」オロフ・ハンセン、「中国の哲学者」チェン・ザンなど個性派ぞろいだったが、枕を並べて討ち死にしてしまい、10人のファイナリストのうち、アムラン一人が2番を弾くことになった。

次点のディナーラ・クリントンも2番の予定だったので、彼女が進出していれば事情は変わったと思うが、明らかにオーケストラが準備不足。リハーサルに立ち会った関係者の情報によれば、第1楽章を通したところでオケの部分練習が始まってしまい、アムランはずっと待っていたという。

1番を選択したチョ・ソンジンも、リハの時とはうって変わってテンポが遅く、重くなったオーケストラに悩まされたが、「肝心なのはソロ・パートだから」とマイペースを貫いたのが功を奏した。1960年の優勝者ポリーニの例を引くまでもなく、1番ならピアノがイニシアティヴを取っても何とか形になるが、2番はアンサンブルの要素が多く、よりコミュニケーション能力が求められる。

室内楽が得意なアムランはオーケストラが出やすいように拍をマークしたり、指揮者とアイコンタクトを取ったり、彼の長所を存分に発揮していたが、ただでさえ重圧のかかる本選で余計な神経を使ったぶん、やや消耗してしまったような気がしてならない。

 

出典:https://ondine-i.net/column/3561

 

 ベトナム人初の優勝者として話題になったダン・タイ・ソンは「オーケストラとの共演経験がまったく無く、短いほうが楽だろうと2番を選んだ」のだという。これにはびっくりだ。

 しかしマルタ・アルゲリッチの場合は違う。私は「アルゲリッチといえば2番」というイメージを持っていた。というのは、1980年前後に彼女が小沢征爾指揮のバックで2番を演奏したFM放送をエアチェックしたことがあって、それによって2番にもそれなりの良さがあることを初めて認識した思い出があるからだ。だから「アルゲリッチも2番を用意していたが、周囲のすすめで直前に1番に変更したと伝えられる」という話には、さもありなんと思わされた。

 そういえばアルゲリッチベートーヴェンでも2番の協奏曲を偏愛していた人ではなかったか。そういう特別な感性があの人にはある。私はアルゲリッチとの相性は必ずしも良くなく、これは素晴らしいと思う演奏(ラヴェルの「夜のガスパール」やハイドンのピアノ協奏曲ニ長調、バッハのパルティータとイギリス組曲のそれぞれ第2番など)と全然合わないやと思わせる演奏の両極端があるが、個性的であることにかけては特別なピアニストだ。

 なお「アルゲリッチ」という日本語表記を世に広めた一人が前記の吉田秀和で、彼はアルゲリッチに直接聞いたのだという。Wikipediaを参照すると、日本では最初「アルゲリッヒ」というドイツ風の読みをしていたが、NHKは(今もそうだと思うが)「アルヘリチ」というスペイン語読みを採用していた。しかし、アルゲリッチのルーツはスペインであってもカタルーニャ地方であり、当地の読みでは「アルジェリック」になる。しかし本人はそのいずれでもない「アルゲリッチ」という発音を気に入っているのだという。吉田秀和は上記の最後の結論部分だけをわれわれに伝えてくれていたのだった。それにしても、自分の姓の読み方まで自分の好きなように決めるとは、なんという自由奔放さだろうか。

 そのアルゲリッチも今年80歳の誕生日を迎えた。私が知った頃は彼女は30代で見事な黒髪の持ち主だったが。もうだいぶ前からすっかり白髪になっている。

*1:第3回(1937年)の誤記。なお第4回の開催は1949年で、12年も間が空いたのは第虹世界大戦の影響だろうと思われる=引用者註。

クリスティ『ポアロのクリスマス』にまたも完敗。前作『死との約束』に続いて「連続完封」を喫した

 アガサ・クリスティの『ポアロのクリスマス』(1938)。また犯人を当てられなかった。一頃クリスティものは連戦連勝だったが、前作『死との約束』(1938)に続く連敗。それも全く同じようなパターンでやられた。プロ野球中日ドラゴンズの柳裕也と大野雄大に連続完封された(幸い今季はそのような例はなかったが)ような読後感だった。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 前述の通り、本作は前作『死との約束』と双子のような関係にある。思い出したのはポワロもの第6作の『エンドハウスの怪事件(邪悪の家)』(1932)と第7作の『エッジウェア卿の死』(1933)がやはり双子のような作品だったことで、こちらは2作とも犯人は簡単にわかり、後者はトリックまでわかった。この2作を読んだ時には交流戦ソフトバンクを3タテした時*1みたいな読後感だったといえるかもしれない。

 『ポアロのクリスマス』の「意外な犯人」には偉大な先例があり、そこは『アクロイド殺し』と異なる。前作『死との約束』自体が大きなヒントになっているし、作中に「えっ、これってあの人の特徴じゃないか」と思わせるヒントが大胆に書かれていたのに、それを気に掛けながらも犯人ではないかと疑うことをしなかった。つまり犯人候補から外してしまったのは不覚だった。偉大な先例の存在は知っているにもかかわらず、というよりあまりにも有名なその先例があったからまさか同じことはやってこないだろうという思い込みがあった。そういう読者の心理を作者は巧妙に突いてきた。完敗だ。だから柳か大野の投球術にやられたみたいな読後感だったのだ。

 この第16作『死との約束』と第17作『ポアロのクリスマス』とのペアは、前記第6作『エンドハウスの怪事件』と第7作『エッジウェア卿の死』とのペアよりも人気が落ちるくらいではないかと思うが、私はこの間の6〜7年に、クリスティはずいぶん経験値を上げたと評価したい。

 前作と大きな共通点を持つ作品を連ねていくという山脈を思わせるようなクリスティ作品の特徴は、本作にも典型的に見られた。

 惜しむらくは、村上啓夫(ひろお, 1899-1969)の訳文が古くていささか読みづらいこと。田村隆一(1923-1998)だとまだそれほど気にならないが、本作の村上訳はかなり気になった。新訳版が出たらまた読み直してみたいと思う。

 下記「アマゾンカスタマーレビュー」の評者には敬意を表する。翻訳に関する意見は同じだが、私はクリスティのパターンがわかってきたと思っていたのにやられた。

 

★★★★☆ ポアロ初心者にもお勧め。犯人を当てられてうれしかったです。

Reviewed in Japan on February 20, 2021

 

コロナの自粛期間中にすっかりアガサクリスティ―にはまり、特にポアロシリーズが好きでコツコツと読んでいます。

この作品も、ポアロらしくあっという間に読み終わってしまいました。

ここ最近ポアロシリーズを読んでいるので後半部分で犯人がわかりました。

全くトリックなどはわからなかったので、ただの勘ですが。

 

アガサクリスティーの作品は登場人物が多く、海外の名前なのでなかなか覚えられず誰が誰だが途中でわからなくなるのですが、こちらの作品は比較的登場人物が夫婦が多くシンプルなのでわかりやすかったです。

初心者にもお勧めできると思います。

 

ただ個人的に翻訳があまり良くない気がします。今まで何冊かシリーズを読んできましたが一番しっくりきませんでした。新訳が出てくることを望みます。

その為星を四つにしました。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R10LR8E3RYRARM

 

 前作『死との約束』と共通点が多く、若干の「二番煎じ」感があるため、私はその分だけ前作より評価を低くするが、それでもポワロシリーズ屈指の佳作に数え入れて良いのではないか。

*1:セ・リーグの某在京球団は存在自体が不愉快なので引き合いには出さない。

すぎやまこういち死去/すぎやま作曲のキャンディーズ「ハート泥棒」は「年下の男の子」以後では売り上げが最少だった

 すぎやまこういちが死んだ。

 ドラクエは一度もやったことがないので彼の「音楽」はよく知らない。キャンディーズは私自身はそんなに思い入れはないが、ヤクルトが優勝した1978年に日本シリーズをやった(やらされた)後楽園球場で、キャンディーズは4月4日に解散コンサートを行った。関西からわざわざ見に行った熱心なファンがいたので、キャンディーズの全シングルは私も知っている(1枚も持ってなかったけど)。キャンディーズは1975年に「年下の男の子」で人気がブレイクしたが、これが5枚目のシングルだった。

 その5枚目から引退した当時のシングルである「微笑がえし」までの13作で、一番売れ行きが悪かったのがすぎやまが作った「ハート泥棒」だった。

 この歌の悪口を以前「kojitakenの日記」に書いたことがあるが、1976年春の「春一番」から1977年春の「やさしい悪魔」までのシングル5作の売り上げを、下記リンクから引用しておく。おそらくオリコンの調査によるデータだろう。

 

nendai-ryuukou.com

 

  • 春一番(1976.3.1) 36.2万枚
  • 夏が来た!(1976.5.31) 17.6万枚
  • ハート泥棒(1976.9.1) 9.0万枚
  • 哀愁のシンフォニー(1976.11.21) 22.8万枚
  • やさしい悪魔(1977.3.1) 39.0万枚

 

 ご覧の通り、「ハート泥棒」の売り上げが飛び抜けて悪い。キャンディーズの5枚目以降で「ハート泥棒」に次いで悪いのが1975年6月の「内気なあいつ」の9.8万枚だが、その他はすべて10万枚以上である。「年下の男の子」でいったんブレイクした人気が、その後一時低迷したものの、メロディーが覚えやすく親しみやすい「春一番」で底上げされた。しかし、「ハート泥棒」は「春一番」や翌年春*1の「やさしい悪魔」の4分の1しか売れなかった。

 「ハート泥棒」はいかにも冴えない歌だよなあ、と私も思っていた。キャンディーズメンバーからも馬鹿にされていたという記事を、田中好子が亡くなった10年前に「kojitakenの日記」で公開したことがあって、その記事に対する怒りのコメントを今頃もらったのだが、古いコメントは承認しないという私の方針に従って承認していない。

 しかしそのコメントには、嘘ばかり書くな、「ハート泥棒」は24万枚も売れたぞ、などと書いてあったので、改めて調べた次第。レコード会社(CBSソニー)は19万枚と発表していたが、レコード会社は水増しするのが通例なので、実際には10万枚に満たなかったと思われる。なおオリコンの調査にも多少の水増しがあるとの説もある。

 すぎやまの「音楽」は、松原仁城内実といった、野党または一時自民党から離れていた極右政治家の応援歌以外にはほとんど思い浮かばなかったが、ガロの「学生街の喫茶店」(1972)を作曲している。これはよく売れたし、1972年当時としては斬新さがあったかもしれない。それより古いところでは、ザ・タイガース阪神とは関係ない)の歌の大部分をすぎやまが作曲したとのことで、もしかしたらこれがすぎやま最大の業績かもしれない。

 すぎやまは他に太田裕美のアルバム「思い出を置く 君を置く」(1980)を全曲作曲していて(作詞は全曲サトウハチロー)、これは「ヒロミック弦楽合奏団」というオーケストラをバックにしたものらしい。A面最後の「少年の日の花」がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、B面最後の「思い出を置く 君を置く」がモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をそれぞれベースにした曲らしいから、すぎやまの嗜好は彼の政治思想にも似て滅茶苦茶に保守的だったのだろう。訃報とともによくニュースで流れてきたドラクエの音楽からも、このすぎやまの指向性は看て取れる。

 だが、太田裕美はもっとモダンな方向が肌に合っていたらしく、そちらに流れ去ってしまった。

 むしろ、すぎやまが好みそうな擬クラシック的な曲をキャンディーズに提供したのが三木たかし作曲の「哀愁のシンフォニー」であり、これは「ハート泥棒」の倍以上の22.8万枚も売れた。タイトルにある「シンフォニー」といいイントロといい、二度の転調といい、19世紀クラシックの趣味を借用したような曲だ。すぎやまも、キャンディーズあたりに彼の本来の好みだろうと思われる擬クラシック的な曲を提供しておけば、「売れないわー」などと馬鹿にされることもなかったのではないか。

 私は、たとえポピュラー音楽であってもすぎやまのような行き方は好まないが、音楽の好みは人それぞれだから、すぎやまの極右思想は嫌いだけど音楽は大好きだという人がいても争うつもりは全くない。

 ただ、「嘘ばかり書くな」というコメントをいただいたので、今回はキャンディーズのメンバーが「売れないわー」「売れないわー」「売れないわー」とカノン式にハモりながら「ハート泥棒」を馬鹿にしたとかしないとかいう真偽不明の話は抜きにして(と言いながら書いてしまったがw)、単に「すぎやまが作曲したキャンディーズの『ハート泥棒』は売れなかった」事実のみを明記して、すぎやまという不世出(どこが?)の作曲家の墓碑銘とする次第。

*1:キャンディーズはなぜか春によく売れた。その意味からも解散を春にしたのは大成功だった。

"Roman holiday"(ローマの休日?)の本当の意味を教えてくれたアガサ・クリスティ『死との約束』は読者を選ぶかもしれないが「隠れた名作」だ

 はじめに、今回はミステリ作品の犯人当てに関するネタバレを極力避ける努力をしてみた。だから今回は作品を未読の人は読まないでいただきたいとは書かない。但し、記事から張るリンクの中にはネタバレが含まれるかもしれない。また、ネタバレは極力避けたとは言ってもヒントは書いたので、それも知りたくない方はやはり読まない方が賢明だろう。

 アガサ・クリスティのポワロもの長篇33作のうち第16作の『死との約束』(1938)を読んだ。この作品は早川書房の日本語版版権独占作品とのことで、昔から今に至るまで高橋豊(1924-1995)の訳でしか読めないようだ。私は本作に先立つ15作は、ポワロものの中で飛び抜けて不出来として悪評の高い第4作『ビッグ4』以外すべて読んだが、第17作『ポアロのクリスマス』以降は一作も読んでいない。基本的に出版順に読んでいるが、実際には1943年に書かれた最終第33作の『カーテン』をどのタイミングで読むかは思案中だ。しかしその一方で、そろそろクリスティを読むのをしばらく中断しようかとも思っている。このところあまりにもクリスティ作品を含むミステリにばかり読書が偏っており、これはよろしくない傾向だからだ。

 しかし、今回全く期待せずに読んだ『死との約束』は思わぬ掘り出し物だった。なぜなら、クリスティは犯人を当てやすいミステリ作家だと思っていた私が、今回ばかりは作者に完全にやられてしまったからだ。野球でいえば投手が6点をとられて打線は相手投手に完全試合をやられたような、そう、1994年にカープが某球団相手に経験したような完敗だった。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記ハヤカワ・オンラインのリンクに表示される「いいかい、彼女を殺してしまわなきゃいけないんだよ」という言葉で物語が始まる。タイトルも書き出しも物騒な本作に、最初のうちは全然気乗りがしなかったが、作者が思わせぶりに出してくるヒントが全く読み取れない。犯人候補も何人か考えてみたが、いずれも決め手を欠く。そして最後の最後にあっと言わされた。

 何度も書くが『アクロイド殺し』は中学生時代に読んでいる最中、級友にネタバレを食った。とはいえ、その時点で私は真犯人を疑っていた。その『アクロイド』を今年47年ぶりに完読して、クリスティが時には無防備なくらいヒントを出していたことを確認した。中学生時代は「あのパターン」自体知らなかったが、クリスティは基本的にヒントを多く出す作家なので、注意深く読みさえすれば、アリバイ作りの手口までは読み取れなくとも真犯人の目星くらいはつくことが多い。現に、感想文のサイトを見ていたら、当時と私と同じくらいの年齢の読者が友人に本を貸した時、「ねえあれってあの人が犯人じゃない?」と正解を言い当ててきたという投稿があった。その投稿者の友人は、きっと中学生時代の私と同じような読み方をしていたのだろう。

 まず第1の疑問だが、なぜホテルから動かないはずのボイントン一家が一転してペトラに行ったのか。第2の疑問は、ボイントン夫人はなぜ息子や娘たちに一人を除いて自由行動をとらせたのか。この「一人を除いて」というのが巧妙なミスディレクションになっている。

 さらに第3の疑問だが、ボイントン夫人殺害後にポワロが証人たちを尋問した時、なぜある人物が「信頼できない証人」であることを強調したのか。

 誰を犯人と見立ててもこの3つの疑問は解けない。第1と第2は、ある登場人物を疑わせる理由になるが、それでも第3の疑問は解けない。

 結局全くノーマークの人物が犯人だった。手も足も出なかった。

 私は本作をかなり高く評価する。それなりの欠点もある作品なので、最高傑作『アクロイド殺し』やそれに次ぐ『そして誰もいなくなった』と並び称するわけにはいかないが、今まで読んだクリスティ作品中でのベスト5には入る。

 ただ、本作には『オリエント急行の殺人』への言及があるので、『オリエント』を読む前に読まれることは絶対におすすめできない。また、ポワロもの初期の諸作を読んで、クリスティのパターンに慣れてから本作を読んだ方が良い。特に、本作は第13作『ひらいたトランプ』と関連があり、第14作『もの言えぬ証人』とはさらに強い関連があるので、この2作に続いて読むのがベストだ。本作には前記の2作とは異なる大きな特徴がある。それは「被害者の心理を読み取ることがポイント」であることだ。

 本作は、ハヤカワのクリスティー文庫には珍しく、東野さやか(1959-)氏の解説文を読んでもネタバレには合わない。東野氏は、私の大嫌いな東野圭吾(1958-)と同性のうえ、年齢も出身地も近いが(幸いなことに)関係ない。英米文学翻訳家で、ハヤカワからいくつか翻訳本を出しているが、クリスティの作品の訳本はなさそうだ。さやか氏(以下、東野圭吾と区別するために「さやか氏」と表記する)は、被害者が殺されるまでを描いた第一部のとある場面を示唆しながら、下記のヒントを読者に与えている。以下引用する。

 

(前略)実はこの過程でさりげなく伏線が張られているのだが、なにしろ冒頭のあの言葉があまりに強烈で、そこに木を取られて見逃しがちだ。そういうふうに、読者の気をそらすやり方も本当にうまいなあと、今回あらためて読んで感心した。この解説から読んでいる方はぜひ、はやる気持ちをおさえ、第一部をじっくり読んでみてほしい。まあ、それで犯人を言い当てられるとは保証しないけれど。(本書388頁)

 

 私は前述の通り、今回読み始めた時にあまり気が乗らなかったので、本編を読み始めて間もない時点でさやか氏の解説を読んだが、このヒントを頭に入れて読んだものの伏線は読み取れなかった。さらに被害者が殺されたあとの第二部第四章に、当該の場面を登場人物から聞いたポアロ*1が「ボイントン夫人の心理が、この事件では重要な意味を持っているのですよ」(本書208頁)と言っている。この言葉を読んで、本書第一部第九章中の当該の場面(同108-110頁)を読み返したが、それでもわからなかった。

 いつものように、読了後アマゾンカスタマーレビューや読書メーターを見たら、後者の中に「犯人がわかった」と書いた人が2,3人いたが、わかった根拠は書いてなかったので、おそらく単なるまぐれ当たりというか、山勘が当たっただけであろう。私見では本作の犯人をきちんと根拠を示した上で言い当てることはきわめて難しい。おそらく『三幕の殺人』中の第1の殺人の動機を当てるのと同じくらい難しいのではないか。あるいは、書きたくはないが東野圭吾の邪悪な作品である『容疑者Xの献身』の仕掛けを当てるのと同じくらい難しいかもしれない。

 ただ、クリスティと東野圭吾で違うのは、さるブログ記事に「ここでやっと読者への出題がされている、っぽい」ものの、結局「読者への正々堂々とした出題はされない」と評された、いささかアンフェアな感のある東野の『容疑者Xの献身』とは大いに違って、クリスティは前述の通り「ボイントン夫人の心理が、この事件では重要な意味を持っている」とポアロに語らせることによって、読者への出題をフェアに行っていることだ。

 

 最初に書いた通り、本作を原作とした三谷幸喜脚本、野村萬斎主演のテレビドラマが今年(2021年)3月6日にフジテレビで放送された。ドラマは舞台をはじめとする設定を本作とかなり変えているものの、犯人は原作に対応する人物だったらしい。なおイギリスBBCでテレビドラマ化されたときには犯人も変えられていたとか。さらにその昔には1988年に『死海殺人事件』というタイトルで映画化されたが、これは当たらなかったらしい。本作は派手な『ナイルに死す』とは違って心理劇なので、よほどうまく作らなければ映像化は難しいだろう。今春のテレビドラマも、配役で犯人がわかってしまったという、かつて東野圭吾が2時間ドラマを皮肉った事例が当てはまっているとの指摘も目にした。

 脚本の三谷幸喜は原作の『死との約束』を下記のように評している。

 

 三谷さんは「『死との約束』は、アガサ・クリスティーの隠れた傑作です。ポワロ物で、僕がいちばん好きな作品です。事件が起こるまでのワクワク感。真相が明らかになっていくドキドキ感。そしてラストのあまりに意外な犯人。今回も原作のテイストを損なわないように脚色しました。キャスティングも完璧です。極上のミステリーを堪能あれ!」とコメントしている。

 

出典:https://mantan-web.jp/article/20201215dog00m200040000c.html

 

 おそらく三谷幸喜も犯人を当てることができなかった口だろう。ここからは想像だが、三谷は脚本家だから人間心理を読むことが商売の仕事をしている。だから、クリスティ作品のうちかなりの割合について、犯人を言い当てることができていたのではなかろうか。しかし「あまりに意外な犯人」と言うからには、三谷自身にも想像もつかない犯人だったに違いない。

 しかしテレビドラマとなると様相は一変する。配役から犯人が見当がつくという要因以外に、そもそも視覚化するという行為そのものが犯人を当てやすくしてしまう。本作はそんな性格を持つミステリだと思う。だから、本作を原作とした映像作品を見る機会を得られた方は、是非ともそれを視聴する前に原作を読んだ方が良い。こんなことを、ドラマの放送が終わって7ヵ月も経ってから書いても無意味かもしれないが。

 ポワロものでは第13作『ひらいたトランプ』以降顕著になった心理劇系統の作品の中でも、本作は『ひらいたトランプ』や第14作『もの言えぬ証人』と比較してもすぐれているといえるだろう。特に『もの言えぬ証人』が好きな人は、本作をもっと気に入るのではないかと思う。

 私は読んでいないが、霜月蒼氏の『クリスティー完全攻略』(講談社2014)では『もの言えぬ証人』が『アクロイド殺し』と同じ4.5点(5点満点)で、本作『死との約束』は『アクロイド』をも上回る5点満点をつけている。もっとも『ひらいたトランプ』には2点しかつけておらず、私が常々「裏表紙と目次を見たら犯人とストーリーの流れがわかり、読んでみたらその通りだった」と馬鹿にしている『邪悪の家』(『エンドハウスの怪事件』)に3.5点もつけているなど(私だったら1.5点かせいぜい2点しかつけない)、霜月氏とはかなり評価が異なる作品も少なくない。マープルものでも、江戸川乱歩が激賞して私も大いに気に入った『予告殺人』に霜月氏は2点をつけている。

 しかしまあ、読者によっては本作を気に入らないであろうことも想像はできるので、そこを争うつもりはない。本作は、『アクロイド殺し』とともに、大いに読者を選ぶ作品であるに違いない。好きな人はめちゃくちゃ好きだろうが、嫌いな人は下記ブログ記事の例のように、5点満点で2点をつけて酷評している。

 

www.kakimemo.com

 

 上記ブログ記事を選んだのには理由がある。以下、記事の冒頭部分を引用する。

 

ナイルに死す』に続く、名探偵エルキュール・ポアロシリーズの十六作目です。ローマン・ホリデーのように感じる話です。

 

ローマン・ホリデーのような

 

作中にローマン・ホリデーという言葉が出てきます。意味は「他人を苦しめて得られる娯楽」です。

そう言った人物に対してポアロは、「エルキュール・ポアロがくだらない探偵ごっこをして遊ぶために、ある家族の個人生活をめちゃめちゃにひっかき回そうとしていると?」と、言うのですがそう読み取れても仕方ないような印象を受けました。

理由はいくつかあります。被害者のおばあさんはサディストで独裁者です。その権力で家族を従わせおり、端から見ても異様に感じられる様子が描かれています。そのため、亡くなった理由はどうであれ、残った家族は誰も困りません。むしろ幸せになることが容易に分かります。つまり、余計なことをポアロがしているように感じます。

 

出典:https://www.kakimemo.com/book-report-agatha-christie-appointment-with-death/

 

 引用箇所はハヤカワのクリスティー文庫版では198頁に掲載されている。

 そういう印象は私も持ったし、別の登場人物が「オリエント急行の殺人事件」を引き合いに出してポアロも責める場面もある(同251頁)。

 しかし本作をひいきにする私は、その印象は本作の結末でみごとに覆されるんじゃないのかなあと思った。結局本作の結末をどう思うかが評価の大きな分かれ目になるのだろう。

 それはともかく、上記ブログ記事に引用された「ローマン・ホリデー」の意味を、本作を読むまで私は知らなかった。重複するが、以下に本作から直接引用する。

 

ポアロさん、あなたはこれがローマン・ホリデー(他人を苦しめて得られる娯楽)にならない自信があるのですか。(本書198頁)

 

 そうか、"Roman holiday" とはそういう意味だったのか。恥ずかしながら初めて知った次第。さらに調べてみると、「ローマの休日*2」という文字通り意味であれば、"a holiday in Rome" と表記されるはずだという。確かにその通りだ。

 そうすると、あの有名な1953年のアメリカ映画の邦題は誤訳であり、『ローマ人の休日』とすべきだったのかもしれない。

 淀川長治(1909-1998)はテレビの映画番組の解説でこのことに触れていたという。

 

cinema.pia.co.jp

 

 以下引用する。

 

淀長さんの言った原題の意味

2008/10/30 20:19 by  青島等

 

淀川長治さんは“まあ!なんていやらしい題名”と嫌味を言いましたがその意味を追求すると

ローマの休日」(ローマでの休日orローマにおける休日)を英語にすると
A Holiday of Rome
又はA Holiday in Romeになる。ところが
Roman Holidayを直訳すると『ローマ人の休日』ローマ帝国時代の貴族の楽しみを意味する。
スパルタカス」で描かれた奴隷(ユダヤ人)同士を死闘させたり奴隷とライオンを闘わせたりをショウとして楽しむ…転じて『野蛮な見世物』という裏の意味がある。
脚本が同じダルトン・トランボならではの深い皮肉が込められていると思います。
プロローグのアン王女のワルツの相手は棺桶に片足を突っ込んだような動くロウ人形というか生ける屍みたいなジジイばかりで彼女は口臭や同じ自慢話を繰り返す雑音に耐えながら踊っている。
まるでライオンと死闘をやらされている奴隷剣闘士と同じ状態である。
≪隠し砦の雪姫≫は“六郎太、その忠義ヅラ見るのも嫌じゃ!”と怒鳴ったりお気に入りの馬に乗ってストレス解消しているが、アン王女は一挙一動全てを側近から命じられたままの奴隷である。
それに比べてローマ人たちの末裔たちは花屋、アイスクリーム屋、美容師と休日でなくとも楽しそうに生き生きしている。
トランボのテーマはやはり奴隷解放=自由への憧れですね。

 

出典:https://cinema.pia.co.jp/com/2791/431672/

 

 本件に関しては、引用はしないが下記記事にもリンクを張っておく。

 

 そして、本件から直ちに連想されるのは、昨日公開した『kojitakenの日記』の下記記事で論じた一件だ。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 上記記事で批判した安積明子や日本のネトウヨ、それに天皇制の支持者たちが現在やっていることこそ "Roman holiday" そのものなのではなかろうか。

 

 クリスティの『死との約束』に話を戻すと、被害者のボイントン夫人がやっていたことこそ「他人を苦しめて喜ぶ娯楽」だった。家族だろうが他人には違いない。そして、現在の日本に目を移すと、安積明子やネトウヨ天皇制支持者たちは小室氏や眞子氏を苦しめることによって「他人を苦しめて喜ぶ」娯楽を享受している。また今回の自民党総裁選を通じて、安倍晋三という人間もまた "Roman holiday" を思いっ切り享受したように、私には見える。

 『死との約束』は1938年の作品で、有名なアメリカ映画の15年前に出版された。その映画 "Roman Holiday" は製作されたアメリカでは興行成績がさっぱりだったものの、イギリスやヨーロッパで大歓迎されたとのことだ。

 『死との約束』に出てくる名探偵ポアロ(ポワロ)が "Roman holiday" を楽しんだわけではないと私は確信する。その根拠は先に触れた本書208頁に書かれたポアロの言葉だ。

 そしてそれにもかかわらず、もしかしたら本書のタイトルは、現行の『死との約束 (Appointment with Death)』よりも『ローマ人の休日 (Roman Holiday)』の方がふさわしいのではないかと思う*3

 何より、本書は(少なくとも私にとっては)読後感が抜群に良かった。ベントリーの『トレント最後の事件』にも相通じる本作のようなエンディングはクリスティ作品でも稀だろう。少なくとも私がこれまでに読んだ32冊中では、本作に近い例が辛うじて1つあるだけだ*4。エンディングは本作のタイトルや書き出しからは想像もつかないものだ。いや、だからこそタイトルはクリスティ作品よりあとに作られた名作映画を思わせる "Roman Holiday" よりも現在の『死との約束』のままの方が良いのかもしれないが。

 あるいは、そんな読後感を持つ私のような読者こそ、もしかしたら誰よりも "Roman holiday" を享受しているのかもしれない。その理由は、本作の結末をご存知の方ならおわかりになるのではなかろうか。

*1:私は「ポワロ」表記の方を好むが、ハヤカワのクリスティ文庫は「ポアロ」表記なので、同文庫から引用した箇所では「ポアロ」表記とする。

*2:カナ漢字変換で「ローマの窮日」がで変換候補として出てきたが、かつて故中川昭一(1953-2009)がローマで失態を演じた時にこの表記で揶揄されたことをブログ記事(http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-850.html)で取り上げたことがあるためだろう。

*3:そう断定する根拠は本書116頁に書かれている

*4:この2作とは対極にある極めつきの悪例として、前記東野圭吾の某作(『容疑者Xの献身』ではない)をも思い起こさせた。これ以上は書かないが。