江戸川乱歩が選んだミステリ十傑のひとつであるA.A.ミルン(1882-1956,『クマのプーさん』の作者として有名)の『赤い館の秘密』(創元推理文庫, 2017年の山田順子による新訳版)を読んだ報告から始める。今からちょうど100年前の1921年の作品で、アガサ・クリスティやF.W.クロフツがデビューした翌年に書かれた。
www.tsogen.co.jp
この作品は、トリックを見破れるかどうかにかかっているが、私には見破れなかった。ネットを見ると、ミステリを読み込んでいる読者には「読み始めてすぐに気づいた」という人が少なからずいたようだから、模倣例もあるポピュラーなトリックなのかもしれない。ただ、「すぐに気づいた」と書いている人たちが同様のトリックの先行作品を挙げた例にはまだお目にかかっていない。旧訳版のアマゾンカスタマーレビュー見ていると、予想通り、
本書のメイン・トリックは今でこそ姿を変えてあちこちで使われているが、私の記憶ではこのアイデアを使ったミステリ作品の嚆矢だと思う。
などと書かれている*1。ならば、それだけでも海外ミステリ十傑に挙げる理由になると私は思う。
その他にも、作中の探偵役・ギリンガムの推理の過程をオープンにして彼がなかなか真相にたどり着けない様子を描くあたりが乱歩の好みだったのだろうか。それでも本作のギリンガムは最後には真相にたどりつくだけまだ良い。乱歩が他に挙げたベントリーの『トレント最後の事件』は探偵役が敗北する作品だったし、フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』は最初に出てきた探偵役が後半ではクリスティ作品に出てくるヘイスティングズみたいな愚鈍な相棒と化した上、後半に出てくる真相を見抜いた真の探偵役も、愚鈍な相棒をうかつに信頼しすぎて依頼人を死なせてしまう失態を演じた。後者の「依頼人を死なせてしまう」作品は、私は少年時代から大嫌いだったのでフィルポッツ作品に対する評価が非常に辛くなるのだが、乱歩自らが創造した明智小五郎とは正反対の設定の探偵が出てくる作品を乱歩が好んでいたらしいことは興味深い。
なお『赤い館の秘密』も『トレント最後の事件』もレイモンド・チャンドラーが酷評したことで知られるらしい。「パズラー嫌い」であったらしいチャンドラーや、彼が属するハードボイルド系の作品には、少年時代から近づきたいと思ったことが一度もなく、読んだこともないのだが、それ相応の面白さがあるのだろうか。気が変わったら一度読んでみても良いかとも思うが、今はまだそのタイミングではない。
私の評価では『赤い館の秘密』は『トレント最後の事件』(10点満点で8〜9点)とフィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(4点)の中間の6点だ*2。童話作品で有名な作者の作品らしく肩が凝らないし、読後感も良い佳作だと思った。
続いてミステリ評論家としての乱歩の話に移る。先日、弊ブログの下記エントリにコメントをいただいた。
kj-books-and-music.hatenablog.com
コメントどうもありがとうございます。
クリスティの『予告殺人』は確かに乱歩が挙げた2点を満たしていると思います。
以後文章を常体に戻す。『予告殺人』はクリスティ自身も自作の十傑に数え入れた自信作だが、日本の読書サイトを見ると評価が割れている。以前のエントリに書いた通り、犯人当てが比較的容易であることが低評価の主な理由になっている。狙われたものの死なずに済む登場人物が真犯人だというのはクリスティ以前からよく用いられた手法で、クリスティ自身の先行作品にもその例があり、その作品は文庫本の裏表紙に書かれた短い作品紹介と目次を見ればどのようなストーリー展開になるかが予測でき、読んでみるとその通りだったという他愛のなさだった。しかしその作品を気に入って高く評価する人もいるらしいから人さまざまというか人生いろいろ*3というか。
乱歩は『ゼロ時間へ』(1944)で作風が変わったと書いたそうだが、私は未読だ。ただクリスティには作風が変わる土台があった。クリスティは少女時代にはオペラ歌手を目指したものの声の質がオペラとは不適合で音楽の道を断念した。オペラには感情表現が必要だが、それには人間心理に対する理解が欠かせない。ことに、クリスティが最初の夫にプロポーズされた直前に聴いていたというワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』はそういう作品だ。
blog.livedoor.jp
上記ブログによると、デヴォン州のトーキーにある「ザ・パビリオン」というコンサートホールが、
クリスティの最初の夫アーチボルド・クリスティが、 1913年1月4日ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の上演後、アガサにプロポーズした場所
とのこと。
クリスティは、早くからフロイトやユングの精神分析に関心を持っていた。フロイトの名前は1930年代に書かれたポワロもののミステリにも出てくる。
ポワロものの長篇第11作が派手なトリックで有名な『ABC殺人事件』だが、第13作『ひらいたトランプ』(1936)以降、トリックよりも心理劇に重点を置く作品が増える。さらに第14作『もの言えぬ証人』(1937)になると、それまでの作品では類型的と見られがちだったクリスティの作中人物が奥行きを持ち始める。再婚した夫とともに中近東の旅をしたことが、クリスティの世界観や人間観を徐々に変えていったのではないかとの仮説を私は持っている。
クリスティはオペラ歌手を目指していただけのことはあって、芸術観にも特徴があった。それは初期の短篇集『謎のクィン氏』(1930)に反映されているが、1930年代に多産したポワロものにはそうした要素はほとんど持ち込まなかった。むしろ意識的に類型的な性格を持つ人物を登場させたミステリを書いたのではないかと想像されるが、ポワロものより肩の力を抜いて書けるミス・マープルものに執筆の中心を移し始めた1950年に『予告殺人』を書き、それを江戸川乱歩が激賞したあたりが興味深い。
以後は後半かつ今回の記事の本論で、またしても東野圭吾の悪口を繰り広げる。しかし同じパターンの悪口ばかり書いていても仕方ないので、今回はネット検索で見つけた『容疑者Xの献身』に対する興味深い批評が掲載されたブログ『批評界』の記事を紹介したい。下記にリンクを示す。
criticalworld.seesaa.net
上記記事に、『容疑者Xの献身』が詳細に分析されている。
この作品は、真犯人が愛する女性への「献身」と称して、罪のないホームレスの1人を虫けらのように殺すことによって殺人を犯してしまった女性のアリバイを偽造してやったが、犯人の学生時代の親友だった「ガリレオ」こと湯川教授が真相を暴くというストーリーだ。
そして本作最大の特徴は、最初に女性による殺人事件を描写し、つまり最初から犯人がわかった倒叙形式のミステリと見せかけておいて、実はこの殺人を犯した女性の罪を隠すために、真犯人*4が第二の殺人を犯して女性のアリバイをつくってやるという構造だ。この第二の殺人の犠牲になったのが「技師」と呼ばれる罪なきホームレスだった。
これまで私が本作にケチをつけ続けていたのは、隅田川に住むホームレスを虫けらのように殺しておきながらそれを「献身」にでっちあげた東野の倫理観だけであって、ミステリとしての本作の構造等については何も書かなかった。それ以前のことで頭にきていたからだが、以前にも書いた通り私は本作にはもののみごとに騙された。ミステリとしての構造については作者の東野圭吾に脱帽するしかないと漠然と思っていた。
私が本作以前に読んだミステリの大部分がコナン・ドイルのホームズものと松本清張の社会派ミステリであり、両方ともたいしたトリックは用いられていないから、「倒叙推理と見せかけて実は他人のアリバイ作りのための殺人だった」という構造には全く気づかなかった。それどころか、「顔のない死体が出てきたら替え玉を疑え」という鉄則すら知らなかったほどだ。今でも、クリスティ作品なら慣れてきたこともあって犯人の見当がつくことが多くなったものの、模倣作が多数あるらしいミルンの『赤い館の秘密』のトリックにも気づかなかった。私のレベルはその程度だ。
しかし前記ブログ記事では作品の構造が詳細に分析されていて面白かった。ことに、作中で真犯人が作品の構造(作者の出題)に気づかない読者を作者の東野圭吾が徴発していると指摘しているくだりが興味深い。以下に引用する。
8 p.139-167(本編前半の結)
草薙刑事は湯川に捜査の進展を話す。湯川は単独で石神を誘い弁当屋に連れて行き、彼に幾つかの質問をして犯行を確かめる。
肝となる章。推理小説はここでやっと読者への出題がされている、っぽい。というのは、犯行推定日時(3月10日)に容疑者の花岡靖子のアリバイが崩れない、と言う草薙からのヒントがあるからで、「さて石神はどうやって彼女のアリバイを作ったのでしょう?」という読者への正々堂々とした出題はされないからだ。そもそも読者には犯行の日時が明かされていないため、この小説がアリバイの工作トリックを解くためのパズルであるということを、ここでは断定できない。出題がはっきりされないのは、そこに注目されると複雑な小説のわりに単純なトリックが簡単に解けてしまい、これ以降が盛り上がらないからであろう。
この曖昧な出題は悪い方へと転ぶ。読者はイントロで犯行の一部始終を知っているので、草薙刑事が物証よりもアリバイに拘って手を焼いているのは彼に手抜かりがあるからだと、すなわち推理小説の刑事役お決まりの(間抜けな)仕事としてわざと難航しているのだとも読めてしまう。これが「この小説は本格ミステリーか論争」の直接の問題点となる。湯川探偵の方は難航どころか確信まで得ているようなので、読者には何が問題なのかが分かり難い。
一般的な立場でこの事件を見ると、アリバイ工作よりも、被害者富樫の死体をどうやって処分するかの方が問題である。そちらの方は石神の部屋で解体して川に撒いたらしく、警察が発見した頃には死亡日時を特定できる状況ではないので、そもそもアリバイ工作をする必要はない。小説の中では犯行日時を警察に誤認させて、その時刻に花岡母子のアリバイを作ることで、より安全に隠蔽できるという旨が書かれているが、石神という無関係の第三者が死体遺棄にボランティアとして関わるのであれば、そんなに危ない橋を渡らずとも処理方法は幾らでも計画できる。また、読者がアリバイ工作を解くにしても、犯行日時が確定していない現段階では正確な答えが出せない。
ところが作者は、石神が教鞭を取る高校で出題の意図さえ分らない馬鹿な生徒にうんざりする姿勢を描いて、小説の出題が分からない読者らを挑発する。こういう煽りも論争を起こす原因の一つとなっただろう。「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか。ただし、解答は必ず存在する。」と言う湯川の台詞で重ねて読者に宣戦布告する。「出題はちゃんとしてあるぞ、さあ解いてみろ」というわけだが、出題はあまり上手くいっていないのだ。
もう一つ小説の後半で「湯川はいつ石神の関与を見抜いたか」という小問題が出されて、その正解はこの章だとされるが、彼は6章で既に狙いを付けた行動を取っているので怪しい。
(ブログ『批評界』より)
出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html
なるほど、石神(真犯人の名前)のセリフを借りて私も東野圭吾に挑発され、嘲笑されていたのかと思うと、改めて腹が立ってくる。しかも読んでいる最中にはそれが挑発であることにすら気づかなかった*5。一方、東野の挑発に対する「出題はあまり上手くいっていない」との切り返しは痛快だ。
私もそうだったが、多くの読者は「えっ、倒叙推理と見せかけた『殺人を隠すための殺人』だったのか」と驚いたに違いない。「殺人を隠すための殺人」といえば、古くは前述のクリスティ『ABC殺人事件』(1936)があった。しかしあの事件では、ポワロは殺人を隠すための殺人を犯した真犯人を許さず、自殺のチャンスさえ奪って真犯人を死刑台に送り込んだ*6。一方の東野作品での真犯人はといえば、自ら手を下した殺人は一件だけだったから、イギリスとは違って今なお死刑制度が残っている日本でも死刑にはならない可能性が高いとはいえ、真犯人が犯した第二の殺人は、正当防衛が主張できた可能性が高い第一の殺人(こちらは女性が犯した)よりもはるかに悪質かつ重罪が相当だ。この点については以前も弊ブログで指摘したし、上記ブログ記事も下記のように指摘している。
靖子を援助する石神の暗躍はラストでさらりと語られるが、小説の主犯罪より重いというのも多くの読者に疑問を残す。倫理的にももちろん問題だが、問題を更に大きな問題で上塗りしている時点で「実は助けになっていないのでは?」という疑問が生まれる。仮に誰にも気づかれなかったとして犯罪の質量は確実に増えているわけで、理論数学に誠実な石神が「隠せば何をやってもよい」と考えるのは筋が通らない。
(ブログ『批評界』より)
出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html
ブログ主は、東野は別に本作を「純愛万歳」みたいに(あるいは百田某の『殉愛』みたいに)描こうとしたわけではなく、本作は読者に「こんなのが本当の献身といえるのか」と疑問を抱かせる作品であり、それが東野の意図なのだと主張している。以下三たび引用する。
「小説のテーマは・・・」
とはいえ、小説のテーマはしっかりと描かれている。読者の中には結論に疑問を持つ人もいるだろうが、それは作者の狙い通りのものであり、ミステリー小説が確かなミステリーを後味に残してくれる優良な作品である。苦味に感じても、ぜひ噛み締めてほしい。
それについては多分にネタバレを含むので、既読者のために最後に記す。
(中略)
既読者のための解説。(解説もたまには延長戦)
ラストの石神の慟哭は、自分に振り向くはずがないと思っていた靖子が寄り添って来て、嬉しく泣いている。または、靖子が幸せになるために計算した犯行が崩れてしまい、悲しく泣いている。様々な読み方が可能で解釈が難しい。
実はこの小説、昨今流行のAKB等、アイドル産業と解く。靖子がアイドル、工藤は芸能運営会社、石神は追っかけオタク、と見立てるのだ。そうすると、落ち目アイドルに貢ぎ続けて人生を棒に振るオタクの姿を哀れに思ったアイドルが、アイドル業を辞めてオタクと一緒に暮らす決心をするお話に見えてくる。靖子にはその気がないのに異性からやけにモテるところや、工藤が情愛もなしに指輪を渡して契約を迫ったり、石神が見返りの期待できない献身に身を投じて喜びを感じたり、彼がカメラを持って遠くから監視していたりと、まさに日本アイドル産業の状態である。
(中略)
しかし作者も酷い事をする。アイドル業を諦めた靖子と石神に待っているこれから共同生活の新居が別居牢獄とは。石神には自首をして牢獄生活を選ばなくとも自白遺書を残して自殺する方法だってあったのに、惨めに生き恥を曝す結末にして「せめて、泣かせてやれ……」と最後に声を掛けるのだから、ラストの湯川の台詞は作者の悪意だ。湯川は嘲笑を隠しているのかもしれない。つまり、石神を天才だと言ったのは最初から湯川だけであり、それは数学の天才という意味ではなく、この作品一番のミスリードということになる。石神を禿のデブに描いている時点から尊敬など無かったのだ。
ちなみに映画版の石神の「どうしてぇ」と泣き崩れるラストは、小説では「どうして、こんなところに……」とはっきりしている。オタクたちの「献身(という名の貢ぎ)」の場(客席)にアイドルが下りて来るはずがないという意味で捉えると良いだろう。
ただし、この作品の事件は結局のところ成り立たないのではないかと思う。なぜなら生粋のアイドルオタクという者は見返りどころか、そもそも具体的な恋愛を求めない生物であろう。彼らはアイドルを追いかけているわけではなく、アイドルに見られる夢を追いかけているのだ。オタクだってアイドルの笑顔に愛があるとは思っていないし、そこにはドルしかないのを重々承知で煌びやかなステージに今日も通う。ましてや面倒くさい恋愛の責任など取ろうとするはずがない。そんな泥臭いものを見せる者は彼らのアイドルには成れないのだ。
(ブログ『批評界』より)
出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html
しかしこれはいささか深読みし過ぎであって、東野は深く考えずに本作を「献身」の物語に仕立て上げたのではないかと私は疑っている。現に各種読書サイトは本作を読んで本気で「感動」した人たちの感想文で埋め尽くされているのに、その現実に対して作者の東野圭吾が「いや、あれは本当の『献身』じゃないんですよ」と語った例を私は寡聞にして知らない。「東野信者」が大部分を占める「読書メーター」は論外だが、ミステリ好きが集まる「ミステリの祭典」にさえ、下記No.97の「猫サーカス」氏(採点:9点)のような投稿があった。
この物語において、その中心にあるのは「愛」であり「献身」。こんなに犯人側に感情移入できる作品は、今まで出会っていません。彼の行動には疑問を挟む余地が何もありません。ただただ愛ゆえの行動であり、誰も否定することのできない犯罪。その犯罪に至る過程と、全てを織り込み済みの計画、この物語の構成するすべてが美しい。そしてなんと言っても一番美しいのは結末。本当に美しいとしか言いようがありません。100%完璧なトリック、絶対に綻ぶことのない完全な計画。それが、たった一つの計算違いによって崩れてしまった。その計算違いは紛れもなく、「愛」が招いてしまったもの。報われなくていいと本気で思っていたからこそ、計算違いが生じてしまった。この物語の読了感は本当に独特であり、また人によって感じ方が違うのだと思います。メリーバッドエンドであり、また誰に感情移入するかも読み手によって全く違ってくる。この本の感想を友人と語り合った時、お互い全く異なる解釈で驚いたのを覚えている。しかし、それほどまでにこの物語は深い。深くてどんな解釈するにせよ、何かを私たちの心に残してくれるのです。
出典:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=815&page=1
このサイトで本作に1点をつけたレビューは以前紹介したが、それ以外に、なぜか10点をつけていながら本作に鋭い批判を投げかけたのがNo.64「いいちこ」氏の投稿だ。以下に引用するが、一箇所不適切と思われる部分を伏せ字にした。
(以下ネタバレを含みます)
メイントリック自体は古典的でありふれたものだ。
しかも、●●の記載の不在、犯行直後のXの発言、死体の状況、Xの勤怠表と弁当購入の事実、技師の存在、娘の友人の証言等、決定的な伏線がごまんとある。
とりわけ「幾何の問題に見せかけて実は関数の問題」は極めて秀逸な含蓄のある伏線である。
にも関わらず見事に騙されてしまったのはひとえに倒叙形式によるところが大きい。
何と言っても我々読者にとって犯行経緯はすべて明らかになっているはずだから。
その先入観と、崩れそうで崩れない映画館のアリバイ、平々凡々とした下町の描写、そしてタイトル自体が強烈なミスディレクションとなり真実を隠蔽してしまった。
これほど倒叙形式が遺憾なく効果を発揮しているケースは寡聞にして知らない。
ただこれだけでは古典的なトリックに新たな光を当てたテクニックは賞賛できるとしても、スケール感はそれほど感じない。
衝撃を受けたのは本作の主題である。
どう考えてもXは通常の倫理観から逸脱した□□□□□であり、歪み肥大化したエゴの持ち主である。
彼の行為は自己中心的な卑劣極まるおぞましい犯罪行為であり、献身や自己犠牲などでは断じてない。
最大の犠牲者は無論技師である。
それを探偵には「とてつもない犠牲」と呼ばせ、ヒロインには「底知れぬほどの愛情」と呼ばせ、作中のどの人物もXの異常性を弾劾しない。
そしてタイトルには「献身」の2文字。
これは一体どういうことだろうか?
断っておくが私は倫理観をもってXの行為を断罪しているのではない。
そんなことを問題にしていたらミステリは読めない。
問題はXではなく筆者だ。
Xの行為を賛美していると理解されかねない作品を描いた筆者の真意に思いを馳せるのである。
本作のラストは様々な解釈と感慨を許容する柔軟構造になっている。
Xの行為への感動、Xの行為自体への非難、Xの行為が結果としてヒロインをより苦しめたことに対する非難、Xの人間・女性理解の乏しさへの指摘・・・
どれもが正解になり得る。
この問題作を様々な批判を覚悟のうえで敢えて描ききった著者の凄みを感じざるを得ない。
本作の素晴らしいストーリーテリング、巧緻極まるテクニック以上の衝撃がそこにある。
出典:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=815&page=2
書評子は問題はXではなく筆者(=著者・東野圭吾)だと書く。そんなことは当たり前だろう。
ミステリ中に出てくる極悪犯人を描くことなら、前述のクリスティはもちろん、稀代の犯罪者・モリアーティ教授を作中に登場させたコナン・ドイルも弾劾されなければならない。東野圭吾がやったのは、ドイルがモリアーティを英雄視したり、クリスティが『ABC殺人事件』の犯人に賛辞を呈したりするようなことなのであって、このことこそ問題なのだ。
『容疑者Xの献身』が直木賞を獲ったのは2005年だった。小泉純一郎が郵政総選挙で自民党を圧勝させた年だ。私見だが、当時(現在も変わらないが)格差や貧困の問題が意識され始め、それに対してこの選挙結果で良かったのかどうかという疑問が人々の心に生じ始めた。翌年から翌々年にかけてはNHKスペシャルが「ワーキングプア」の特集を3回に分けて放送するなどして、新自由主義に対する批判が強まっていった。それが同年秋以降に2009年の政権交代までの間に広がったことが民主党*7への政権交代につながった。ホームレス問題は新自由主義の弊害の象徴ともいえた。
そんな時代に作中に隅田川畔で暮らすホームレスを登場させ、真犯人がそのホームレスを虫けらのように虐殺する小説を「献身」と銘打った。そのことに対する疑問を誰も作者に投げかけなかったのだろうか。
それが私の抱く最大の疑問だが、その点はクリアしている上記レビューのように、せっかく作品の問題点を鋭く問う文章を書きながら、批判をそこで寸止めにして満点を与え、「この問題作を様々な批判を覚悟のうえで敢えて描ききった著者の凄みを感じざるを得ない」と書いてしまうのは、評者に妙な「同調圧力」が働いているためではないかと疑わずにはいられない。No.78の「アイス・コーヒー」氏のように、本作に1点をつけて酷評した書評子でさえ、書き出しの部分に「あまりに有名な作品だけにこの点数をつけるのにはずっと躊躇していた。それゆえ、本作の書評は今まで避けてきたのだった」と書いている。物言えば唇寒しの不健全な傾向だ。
これでは、仮に東野圭吾が文字通りの意味での「献身」や「純愛」を意図して書いたのではなかったとしても、「弱者に対しては何をやってもかまわない」という、もう30年くらい前からこの国にはびこっている悪しき風潮を助長するだけだ。
東野作品を30冊近く読んだ私の意見は、東野は何も考えていないに違いないというものだ。悪ガキがそのまま大人になり、還暦を過ぎても考え方が全然変わらない人。それが私の「東野圭吾観」だ。最初に東野を読み始めた頃は、さすがにそんなことはあるまい、東野には読者に考えさせる意図があるのだろうと思っていた。しかしその後、そうした意図を感じさせるものが東野作品からは一切伝わってこず、その逆に、たとえば『手紙』で加害者家族にも加害責任があるとする家電量販店の平野社長の言葉が東野の意見を代弁したものであることがわかってくるなどして、東野という人は読者に受けさえすればそれで良いと思っているに違いないと確信するに至った。
現在は、あまりにも東野が大嫌いになってしまったので、『容疑者Xの献身』を再読したいとは全く思わないが、気が変わったら再読してミステリとしての同作の構造を調べ直す気が起きるかもしれない。しかしそういう機会は近い将来にはなさそうだ。そんな暇な読書をするくらいなら、他の本を読みたいと思うからである。
東野圭吾の悪口で記事を締めるのは後味が悪いので、前記『容疑者X』の構造を分析したブログ『批評界』からもう一つ、クリスティの『そして誰もいなくなった』の書評に軽く触れておきたい。
criticalworld.seesaa.net
私は全く知らなかったが、本作にはクリスティ自身による戯曲版があり、その結末は小説とは大きく異なるのだそうだ。以下引用する。
正しい社会と人間の存続は両立しない、というこの問題に一つの答えを提示してあげたいと思うのだが、なんと作者アガサ自身が答えを用意してくれていたのでそれを紹介しようと思う。アガサは小説の完成の後にこれを舞台劇の脚本に書き直して結末を変更している。それは最後に残った男女が恋愛に目覚めるというもので、愛により疑心の連鎖から解放されて、二人の力で一人の犯人に打ち勝つというものである。
例えば男が「僕は君を殺さないし、君に殺されても構わない」と主張した場合に女は安定を得る事ができる。同時に女の方も「あなたを殺す気はないし、もしあなたが悪で私を殺しても私はそれを受け入れる」と愛情に目覚めれば、互いを疑い合う理由を払拭できる。この二人のどちらかが犯人の場合はやはり滅亡するが、どちらも犯人ではなかった場合に二人は信頼を築く事ができるのだ。ひいては家族という最小の社会を構築する事に成功する。この社会は二人の適度な悪を許してくれるし、二人を存続させるための正義で守ってくれる。ここに犯人が現れて、二人がその犯人を暴力で殺してしまっても、残った二人が互いの殺人罪を許し合う事で罪悪感から解放される。絶対正義の前ではいかなる殺人も罪だが、私を守るために仕方なく犯人を殺してくれたと思えば、二人の罪は二人の中で軽減される。
つまり、自分を犠牲にする覚悟で相手の罪悪を許す事から、社会は生まれる。もちろん相手が「犯人」であれば社会はすぐに滅亡するが、そもそも犯人かも知れないと疑う事を止めなければ社会は形成されないのだ。だから自分を守る社会を作りたければ相手を信じるしか道はない。信じた相手が犯人ではなかった場合に社会は成立し、その社会は自分たちの悪を許して、自分たちを脅迫する悪は許さない、という捻れ倫理を構築してくれるのだ。こう考えると最小限まで衰退した社会は必ずしも滅亡するとは言えず、諦めるまで追い詰められた時に再生の道が開ける可能性を見つける事ができる。
アガサ論理で社会を語るならば、現行の社会は必ず滅亡するが、その時に愛が芽生えて新しい社会が生まれるという事になる。またその新しい社会も段々と人々を苦しめて滅亡へ向かうが、その時の若い人たちの愛でまた新生する。これにより、そして誰もいなくはならない。
(ブログ『批評界』より)
出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/459911060.html
この記事を読んで少し調べてみたが、童謡には2種類の終わり方があり、そのそれぞれのエンディングに合わせて小説と戯曲が書き分けられたもののようだ*8。
www.cinematoday.jp
以下引用する。
原作では、童謡の通り全員が死に絶えてしまうが、これはあまりにも陰鬱なラストだとして戯曲では2名が生き残る。この2名は罪を犯しておらず、何ら罰せられる理由はない。だから童謡に「首をくくった」と「結婚した」の2バージョンあるラストでは、後者のニュアンスをくんで最後の2人がハッピーエンドとなっている。厳密に言えば、戯曲と映画はこの2人の設定などが多少違うが、全員が法では裁かれなかった重罪を犯している一方で、人を裁くことに異常な執着を持つ元判事の計画によって制裁される原作に比べると、重苦しさはかなり減少する。ここが原作と戯曲・映画の好き嫌い、評価が分かれるところだろうか。クリスティが作品に込めた正義感、社会的制裁が下されることのない犯罪を許すことができないという思い。同時に人が人を裁くことに対する懐疑、絶対的な正義といったものを肯定することへの危惧といった、原作の根底にあるテーマ性が薄れてしまうからだ。
出典:https://www.cinematoday.jp/news/N0088142
小説版で2人が犯していた殺人は、戯曲及び映画では犯していなかった設定に変えられているようだ。でも、この設定は変えなくても良かったのではないか。罪を犯さなかったから死なずに済んだというのは、いささかご都合主義の因果応報物語だろう。現実を見ても、新型コロナ対策に手を抜いて多くの死亡者を出した政治家がいるけれども、彼あるいは彼女は決してそのせいで殺されたり祟りで死んだりはしない。
クリスティは小説版でも「社会的制裁が下されることのない犯罪を許すことができない」という正義感よりも「人が人を裁くことに対する懐疑、絶対的な正義といったものを肯定することへの危惧」の方に重点を置いていた。それなら、戯曲版でも映画でも、2人が殺人を犯していたという設定は変えない方が良かったように思う。
しかしながら、そんな些細な不満は『容疑者Xの献身』の巨大な問題点と比較すれば取るに足りない。東野圭吾とアガサ・クリスティとでは、比較をするのもおこがましい話だ。
江戸川乱歩がクリスティーと「予告殺人」を高く評価したのは、評論「クリスティーに脱帽」のようです。(他の評論でも触れているかもしれませんが)
当時のクリスティの最新作である「予告殺人」(この論評の初出は雑誌「宝石」昭和26年1月号)に関して乱歩はこう絶賛しています。
「(クリスティーの)代表作としてはやはり「アクロイド殺し」を推すべきであろう。これだけは動かない所だが、では第二位に何を置くかとなると、非常に選択に迷う。〜或いは最近作「予告殺人」を第二位に持ってきてもよいとさえ考える。人によっては、この方を「アクロイド」より上位におくかもしれない」
乱歩が「予告殺人」を高評価する理由として
1:トリックと、物語を引っ張るメロドラマ(人間模様)との組み合わせの巧みさ
2:新規トリックを使わなくても、既存のトリックを巧みに組み合わせて魅せる独創的技巧
をあげています。
乱歩は以前から、探偵小説(推理小説)が構造的に内包する宿命的な問題点として、下記2点をあげていました。
1:探偵小説は「謎の解決」が物語最大の山場となるため、必然的に山場は物語の末尾に来ざるを得ない。なので末尾まで読者の気を引きページをめくらせる物語構成にしないといけない
(探偵小説で殺人や猟奇などショッキングな題材が多く使われるのも、この「末尾まで読者の気を引かなければならない」必然のため)
2:探偵小説はトリックが物語の核心となるが、トリックの数や発想には限界がある。やがて新規のトリックが尽きる時がきたら、探偵小説というジャンルは消滅するのでは
この2点の問題点を「予告殺人」と、近年のクリスティーの作品が鮮やかにクリアしている。そしてこれは探偵小説はまだまだ発展の余地があるということだ。消滅などはしない。
これが乱歩がクリスティーと「予告殺人」(1944年「ゼロ時間へ」あたりから作風がこう変化したと述べています。)を高評価した理由のようです。
乱歩の下記の論評が、作家として以前の「探偵小説ファン」としての想いと情熱が迸るような初々しさを感じます。
「一般の芸能は作者が年をとるに従って円熟し、大成し、のちの作品ほど優れたものになるのだが、本格探偵小説だけは例外で、初期の作品ほど優れ、晩年は気が抜けて来るのが普通である。〜ところが、ここにクリスティーだけは、その逆を行って、晩年ほど力の入った優れた作品を書いていたのである。彼女より十年も後から書き出したクイーンとカーの近年の作が、既にして情熱を失いつつあるのと思い合わせれば、一層このことがはっきりする。これに気づいた時、私は驚嘆を禁じ得なかった。この老婦人は実に驚くべき作家である。」