KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

岡田暁生『音楽の危機 - 《第九》が歌えなくなった日』を読む 〜 ベートーヴェン「第9」が孕む「排除」と「疎外」を克服できる日は来るか

 3月はあと3日を残しているが、今日まで本を10冊読んだ(但し、数はミステリー小説の飛ばし読みによって水増しされている)。その中でもっとも強い印象を受けたのは、下記『kojitakenの日記』の記事で言及した吉田徹の『アフター・リベラル』(講談社現代新書)だった。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 2番目に印象に残り、ブログ記事に公開しておきたいと思ったのは岡田暁生の『音楽の危機 - 《第九》が歌えなくなった日』(中公新書,2020)だ。

 

 上記中公のサイトから、本書の概要を以下に引用する。

 

二〇二〇年、世界的なコロナ禍でライブやコンサートが次々と中止になり、「音楽が消える」事態に陥った。集うことすらできない――。交響曲からオペラ、ジャズ、ロックに至るまで、近代市民社会と共に発展してきた文化がかつてない窮地を迎えている。一方で、利便性を極めたストリーミングや録音メディアが「音楽の不在」を覆い隠し、私たちの危機感は麻痺している。文化の終焉か、それとも変化の契機か。音楽のゆくえを探る。

 

 とはいえ、上記の概要は本書の核心部を十分に表現しているとはいえない。本書のアブストラクトを的確に書くためには相当の力量が必要であり、素人ブロガーの手に負えるものではない。そこで、いつものようにネット検索をかけたところ、『週刊ポスト』2021年1月1・8日合併号に掲載された井上章一氏の書評を発見した。以下に引用する。少し脱線しておくと、井上氏は私にとっては『阪神タイガースの正体』(太田出版2001, のち朝日文庫2017)及び『京都ぎらい』(朝日新書2015)の両書を大いに楽しませてくれた人で、建築史家、風俗史研究家にして国際日本文化研究センター所長・教授である。今年のプロ野球の開幕3連戦でヤクルトが阪神に3連敗して気分が悪いので、意趣返しに井上氏が2016年に書いた下記記事にリンクを張っておく。

 

www.sankei.com

 

 しかしながら、「反読売」元祖は長嶋茂雄のデビュー戦で4打席4三振に切って取った金田正一が属していた国鉄スワローズではなく、南海ホークスだという。スワローズは2015年の日本シリーズでその南海の後身であるソフトバンクに1勝4敗でボロ負けした(2年間で1勝もできずに8連敗した読売よりはマシだが)。そして金田正一はのちに読売入りして、現役引退後も読売びいきの野球解説者としてにっくき人物だった。何より井上章一氏は京都と阪神タイガースを熱烈に愛する人なのであった。

 脱線はここまでにして、井上氏による『音楽の危機』の書評を以下に示す。

 

pdmagazine.jp

 

芸術もパチンコもひとしなみになる衝撃

 

 いつのころからか、年末には「合唱」をたのしむ集いが、もたれるようになった。音楽愛好家があつまり、ベートーベンの交響曲第九番で、声をあわせる。そんな催しが、日本各地でおこなわれるようになっている。
 しかし、新型コロナとよばれる感染症のはびこる今年は、それがかなわない。作曲家の生誕二百五十周年をいわってよい年だが、実現は困難である。コーラスにさいしては、おおぜいの人びとが大きく息をはき、またすいこむ。そんなことが、今できるはずもない。
 三密をさけろ。たがいに、むらがるな。そうあおられ、しばしば夜の街が槍玉にあげられた。ホストクラブをはじめとする風俗店が、白い眼で見られる対象になっている。あるいは、パチンコも。
 クラシックのコンサートも、今はおおっぴらにひらけない。「合唱」付の「第九」などは論外である。もちろん、それらが、おもてだって指弾されることはない。しかし、活動の自粛を要請される点は、つうじあう。社会は高雅な芸術も風俗営業も、ひとしなみにあつかった。公衆衛生という立場から見れば、どちらも同じようにめいわくな存在なのである。
 このことに、音楽研究者の著者は衝撃をうける。あるいは、うけてみせる。そのうえで、ベートーベンの「第九」、あるいは「第九」的な価値観を問いなおした。
 友よ、いだきあおうだって? 今は無理だ。それに、この歌詞は仲間はずれになるかもしれない人びとを、おきざりにしている。友とみなせない者は、排除してしまうつもりなのか。「第九」だけではない。近代市民社会のポップミュージックは、大なり小なり連帯と絆を強調する。みな、同じ弊におちいっているのである。
 いわゆるコロナ禍に、社会は対面をさけてきた。リモートとよばれる画像でのやりとりを、普及させている。いっぽう、音楽は録音というリモート鑑賞の仕組を、はやくからみのらせてきた。その文明論的な意味合いも考えさせてくれる好著である。

週刊ポスト 20211.18号より)

 

出典:https://pdmagazine.jp/today-book/book-review-769/

 

 そう、本書の論点は二段構えあるいは二層構造なのだ。

 最初の「表向きの論点」は上記青字ボールドで引用した部分だ。しかし、二層目の論点を導くための序奏でしかない。本書の真の論点は赤字ボールドの引用部分に示された二層目にある。「音楽研究者の著者は衝撃をうける。あるいは、うけてみせる」と書いた井上章一氏の表現はじつにみごとである。とてもでないが真似できない。

 「友とみなせない者は、排除してしまうつもりなのか」。これは、実ははるか以前から、テオドール・アドルノ(1903-1969)が提起した課題だ*1。以下本書から引用する。

 

(前略)アドルノが問題にしたがっているのはおそらく、ごくふつうの極めて立派な市民たちがナチスを容認し支えていたということだ。伝説の女性映画監督レニ・リーフェンシュタールによるナチス党大会の記録映画『意志の勝利』(一九三五年)は、悪魔的なまでの見事さでもって、立派なドイツ市民たちの融和を演出している。しかしアドルノアフォリズムは、彼らの友愛が排除によってこそ維持されていると示唆する。何かのバランスが崩れると幾百万の「きちんとした市民」が簡単に互いを包囲し憎み合う。

 

《第九》についてアドルノはもう一つ、やや長めのメモを残していて、こちらを読むと彼の意図がさらによくわかる。ベートーヴェンが《第九》フィナーレで作曲したシラーの頌歌には思わずぎょっとするような一節があって、そこをアドルノは見逃さない。

「市民的ユートピアは、完全な喜びというイメージを考える場合、かならずやそこから排除されるもののイメージのことも、考えざるをえなくなる。[中略]《第九》のテキストとなっているシラーの頌歌『歓びによせて』においては、「地球の上におけるたった一つの心でも、自分のものとよべるものは」、つまり幸福に愛し合うものは誰でも、輪のなかへと引き入れられるとしている。「しかしそうした心をを持たないものは、涙しながらわれらの集まりから、こっそりと立ち去るがいい。」[中略] シラーによって罰せられている孤独は、彼が言う歓びの人々たちからなる共同体自体から、生み出されたものにほかならない。こうした共同体においては、年老いた独身女性やさらには死者たちの心は、一体全体どうなるのであろうか」(前掲書*2五〇ページ)

(中略)市民社会歓喜は「仲間外れ」を作ることで維持されてきた。ヒトラーといわずすでに《第九》の中に、はっきりこの市民社会の原記憶は刻まれていたと、アドルノはいっている。衛生的に保たれたコンサートホールという文化の殿堂に不特定多数の「巷の人」は入ってきてはいけない――これが近代市民社会の隠れた本音だったと、彼は示唆しているのである。

 

岡田暁生『音楽の危機』(中公新書2020)18-19頁)

 

 上記引用文中でアドルノが指摘した「第9」の歴史的限界が、今回のコロナ禍で浮き彫りになった。著者が言いたいのはそういうことだろうし、私も基本的にはそれに同意する。というのは、のちほど述べる通り、私もまたベートーヴェンの第5交響曲や第9交響曲終結部に全面的に浸れる人間ではないからだ。

 「第9」が作曲されたのは1824年で、3年後に作曲後200年を迎える。何より昨年はベートーヴェン没後250年のメモリアルイヤーだった。本書は昨年9月の刊行であり、「第9」の公演のほとんどは中止に追い込まれるだろうと予想されているが、実際にはいくつかの公演が行われたことを、本書の「アマゾンカスタマーレビュー」で知った。レビュー主は

本書はいわば「音楽の聞き方」の令和版続篇で、左派的で受け入れ難い箇所も少なくない

と仰る保守派の方であり、弊ブログがNGワードにしている現元号*3を用いて著者(及び私)との立場の違いを明確にしておられる。以下、昨年末の「第9」の公演に言及した部分を引用する。但し、申し訳ないけれども文章が長いし私とは立場が違うので、レビューの前半部分を割愛した上で引用文の文字を小さくさせていただく。

 

日本は雇用喪失が自殺に繋がりやすい。

仕方ないが半年前に本書が書かれた時、これ程の惨状を想定し得ない。

新たな音楽の革命的誕生は私も楽しみだ。

著者の様な進歩史観ではないが、戦争の断絶の後、全く新しい藝術の誕生はしばしば見られた。戦後の現代曲の全てを受け入れる事は無理だが、それでも何かが残るだろう。

だが、まだそれを言う時期ではない。本書出版後の半年は、それを確認させられた苦しい時間だった。

 

束の間の喜びはあった。

1227日、タケミツ・メモリアル・ホール、バッハ・コレギウム・ジャパンの第九は、本書に一貫する懐疑的第九論を吹き飛ばすパワーに満ちていた

しかもこの公演は12回公演で、演奏者のリスクも高い筈だが、驚くべきはオーケストラも合唱もソーシャルディスタンスを取らない通常配置だった。

指揮者とソリストの目の前の席が数列空けられただけ、第4楽章がはじまる直前までマスク着用以外、満員の聴衆も含め通常通りで押し通した。

総監督の鈴木雅明は全責任を負う覚悟なのだ。まだ誰も14日間経ておらず凄い賭けだ。これらは皆電話チケット予約時点で全部教えてくれた。私は鈴木雅明の侠気をチケットと共に買った。

これから来る第4波の前の、暫しの別れになるかも知れない。そう感じる多くの人々がホールを満員に埋めた。当日券は出ていたが、見渡しても数える程だった。

中には同日のN響のサントリーホール第九と梯子した強者もいた事をTwitterで知った。彼等も想いは同じなのだこんな絆は音楽とは本質的に異なる謂わば戦友の感覚だが、それで了とする。自己責任で片付けて貰って構わない。批判を甘んじて受ける覚悟は出来ている。

10年前のメータN響の第九を思い出す。

あの時、中川右介はメータの侠気に感じてコンサートに駆けつけたと幻冬舎新書「第九」に書いた。

ダニエル・ハーティングはオケより少ない聴衆を相手にに大震災当夜、マーラー5番の演奏を完遂しただけでなく、メータと同じく原発事故から程ない時期に再来日し、満員の聴衆にマーラー5番を演奏した。

やはり、本当に苦しかった時に見捨てず逃げなかった人の事は一生忘れない。

10年前の大震災は日本だけの事だが、今回は殆んど全世界が日本より酷い凄絶な状況下に苦しんでいる。我々も本当に苦しいが、去年の後半は少しはLIVEを聴けた。これでも遥かに台湾以外他国よりマシと認識すべきなのだ。

今年後半か再び年を越しても、国際線旅客機の往来が叶う時、今度は日本人が10年前の恩義に報いるのだ。

 

著者、アドルノ、就中トーマス・マン「ドクトル・ファウストゥス」主人公アドリアン・レーヴェルキューンの第九否定は私も読んだが、初台のBCJ第九で、私はそれらはどうも違うと初めて感じた。

シュトックハウゼン擬きの初音ミク版第九も平時の発想だとは思うがあながち無いとも言えない。やり様に依っては面白いと思う。

が、、BCJの第九のバリトン独唱が始まる時のあのなんとも言えない、名状し難い高揚感はなんなのだろう?

今までなら師走の風物詩や一万人の第九には戸惑い、嫌悪感すらあったが、これ程絶望的状況だったから、私は初めて第九のメッセージを痛感したのだ。そして初めてバリトン独唱で哭いた。

 

著者も本書中で中間報告と延べている。

いつかは判らないが、終わりの終わりが来た時、ウィルスには勝てないかも知れないが、去るときは来る。その時、新たな著者の想いを一度読んでみたい。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R65WRU0XFPCWS

 

 レビュー主とは違って、私は不勉強なことにまだトーマス・マンの長篇小説『ファウストゥス博士』(1947)を読んだことはない。これまで読んだ現代(というか20世紀以降の)音楽に関する本に何度も登場するにもかかわらず。言及されているレーヴァーキューンは12音音楽を創設したことになっているシェーンベルク*4がモデルだという。本書からレーヴァーキューンの言葉に言及した部分を以下に引用する。

 

「善なるもの。高貴なるもの、つまり善かつ高貴であるにもかかわらず人間的などと言われているもの、そんなものはあってはならない。それを求めて人間たちが闘い、城壁を作り、理想の現実に満たされた者たちが熱狂的に告げ知らせたもの、そんなものはあってはならないんだ。そんなものは撤回するんだ」。友人ツァイトブロームの「何を撤回しろというんだね?」という問いに、レーヴァーキューンはにべもなく「第九交響曲さ」と応じる。(本書135頁)

 

 引用文中赤字ボールドにした「城壁を作り」を含む部分について、著者は下記のように解題する。

 

(前略)人間のため、正義のためと称して、人間は戦争をし。城壁を作って他者を排除してきた。そして善の理想が現実にどんな過酷な結末を生み出すか実際に見聞きしているにもかかわらず、欺瞞に満ちた理想をなおたたえる輩が必ずいる。あろうことか彼らは善について熱狂的に支持する。であるならば、そんな「よき市民」のアイコンである第九交響曲など撤回すべきだというのが、レーヴァーキューンの意見である。

 極論とはいえ傾聴すべき事柄は含まれている。「撤回」はいいすぎであるとしても、《第九》的な世界観と時間モデルを一度カッコに入れて、ほかの可能性を考える必要性は喫緊だ。「音楽的な見事さがそれ以外の思想的な可能性を見えなくしてしまう」ということがあってはならないからである。(本書135-136頁)

 

 「音楽的な見事さ」というのは、「第9」に対する批判的な立場をもって構えて聴いた、フルトヴェングラーが指揮する同曲の演奏に著者が説得され、「音楽的な見事さ」を改めて痛感したというくだりを受けている。

 「第9」ではないが、「フルトヴェングラーなんて本当にすごいのか」と構えて聴いたら本当に「すごく」て説得された経験が私にもあるので(例のナポレオンにまつわるエピソードで有名な第3「エロイカ交響曲)、共感できるものがあった。

 このあとの章で、ベートーヴェンの第5交響曲(俗称「運命」)や「第9」にみられる「苦悩から歓喜へ」という音楽の「右肩上がり」の終わり方が音楽史において例外であることを著者は論証している。

 実は私が少年時代から違和感を抱いていたのはこの構造だった。私はベートーヴェンは初期も後期も良いのに、中期の一部の作品と「第9」の終楽章にはずっと違和感を持っていたのだった。その「中期の一部の作品」には第5交響曲、特にその終楽章が含まれていた。

 私の違和感はごく単純なもので、「そんなこと言ったって、人生は死で終わってしまうじゃないか」というものだった。

 実際、あのような終わり方をする音楽は、ベートーヴェン自身の作品にだって第5と第9の両交響曲以外にはないのではないか。著者はエロイカもその例に加えているが、私は違うと思う。ベートーヴェンピアノソナタ短調の曲のほとんどは短調で終わる。作品2-1(ヘ短調)、作品10-1(ハ短調)、作品13(ハ短調「悲愴」)、作品27-2(嬰ハ短調「月光」)、作品31-2(ニ短調テンペスト」)、作品57(ヘ短調「熱情」)は全部そうだ。違うのはソナチネアルバムに入っている作品49-1(ト短調)と中期と後期の境目にある作品90(ホ短調)、それに最後のピアノソナタである作品111(ハ短調)の3曲だが、いずれも2楽章構成の曲で、最初の2曲はロンド、本書でも言及されている作品111はテンポの遅い変奏曲で、静かに曲が閉じられる。

 弦楽四重奏曲でも、作品18-4(ハ短調)、作品59-2(ホ短調)、作品95(ヘ短調「セリオーソ」)、作品131(嬰ハ短調)、作品132(イ短調)の5曲のフィナーレはいずれも短調であり、作品131のように終結和音が長三和音であったり、作品95や132のように長調のコーダがついている曲もあるが「苦悩から勝利」というコンセプトの曲は、やはり1つもない。余談だが、作品131は、私見ではバッハの平均律曲集第1巻第4曲の嬰ハ短調のフーガとベートーヴェン自身の同じく嬰ハ短調の月光ソナタの2曲を祖型とする音楽だと考えている。冒頭のフーガの4音動機と、下属調嬰ヘ短調)の属和音としての嬰ハ長調の3和音で曲を閉じる*5点がバッハと共通する一方、緩徐楽章で始まってスケルツォを経て激しい終楽章に至る点が月光ソナタと同じだからだ。またイ短調弦楽四重奏曲作品132の終楽章の主題は、当初第9交響曲の終楽章用として着想されたことが知られている。つまりベートーヴェン自身も最初は「第9」の終楽章を器楽のみによる短調の楽章にするつもりだったということだ。もちろんその場合でも、作品132がそうであるように、終結部(コーダ)は長調にしたに違いないが。

 終楽章のコーダだけ長調にするやり方は、モーツァルトの有名なニ短調ピアノ協奏曲(K.466)という先例があるが、あれを「苦悩から勝利へ」とは言わないだろう*6。もっと古くはハイドンの告別交響曲嬰ヘ短調)の終わりで楽団員が1人、また1人と去って行く時の音楽が長調だが、こちらは勝利どころか別れの音楽である。ベートーヴェンの第5交響曲や「第9」の終わり方は確かに前例のないものだった。

 そして「第9」ほど多くのシンフォニー作曲家を呪縛した曲はなかった。ブラームスの第1はその典型例だが、これはブラームスの数多い音楽の中でも、私がもっとも苦手とする曲だ。そのブラームスは第4交響曲短調で始めて短調で閉じた。

 チャイコフスキーベートーヴェンよりもモーツァルトを愛好した作曲家だったが、第4と第5は冒頭に「運命の動機」で始まって、最後に勝利の凱歌で終わる「苦悩から勝利」型の交響曲を2曲も書いた。しかし、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」と同じ音型で始まる第6番の「悲愴交響曲」は、第3楽章で勝利の凱歌を挙げた直後の終楽章に暗くテンポの遅い短調の楽章を持ってきて、最後に弔鐘を鳴らして全曲を閉じるという、まるで直後の自身の死を暗示するかのような終わり方だ。

 同じパターンがマーラーの第9交響曲だが、このマーラーは、それより少し早い時期に音楽を書いていたブルックナーともども、生涯にわたって「第9」に呪縛され続けた作曲家だった。第1交響曲*7の冒頭からしベートーヴェンの「第9」を思わせるし、全曲の構造がそうだとはいえないが、第4楽章は「苦悩から勝利へ」の構造になっている。故頼近(鹿内)美津子(1955-2009)が好んでいたことがいつも思い出される第2交響曲「復活」は終楽章に合唱が出てくるもろに「第9」型の音楽だし、嬰ハ短調で始まりニ長調で終わる第5交響曲も「第9」型だ。しかし第6番以降になると徐々に変わってくる。第6番は第2楽章と第3楽章の順番について作曲者はずいぶん悩んだらしいが、第2楽章にスケルツォを置く、現在普通に演奏される順番だと第1楽章から第3楽章までは「第9」型だ。特に第2楽章が第1楽章をなぞる構造になっていることが「第9」に酷似している。しかし終楽章では勝利の凱歌をあげるどころか逆に運命に打倒されてしまう。第7番は短調で始まり長調で終わるが、終楽章は能天気な音楽であり、あれから「勝利」を感じる聴き手はほとんどいないだろう。第8番は合唱が最初から炸裂する巨大な編成で演奏され、「第9」の終楽章的なものに特化した音楽といえるかもしれない。そして第9番に至るが、この曲はゆっくりしたニ長調の楽章で始まり、レントラーの第2楽章を経て、第5番の第2楽章や第6番の両端楽章と同じイ短調によって悲劇的なクライマックスに至る第3楽章を経て、その第3楽章のニ長調の中間部から派生した主題を使用しながら、なぜか半音低い変ニ長調による長くてゆっくりした終楽章が、消え入るように終わる。これを「ニ長調からの別れ」と呼んだ、作曲家だったか指揮者だったかがいたはずだが、ネット検索でも引っかからなかった*8マーラーはこのあと、嬰ヘ長調による第10番の交響曲を構想し、これは緩徐楽章で始まって緩徐楽章で終わる点では第9番と似た曲だが、作曲者自身は曲を完成させることができないまま死んでしまった。なお先輩のブルックナーは「第9」と同じニ短調による第9番の交響曲自体を完成させることができず、長大なホ長調の緩徐楽章である第3楽章を書き終えた時点で亡くなっている。ホ長調の緩徐楽章で残された未完成の交響曲というのは、シューベルトの「未完成交響曲」と同じだが、シューベルトの「未完成」は何も作曲家の死によって未完成に終わったわけではなく、シューベルトはそのあとに長大なハ長調交響曲「グレイト」を書いている。

 著者はこのシューベルトに着目し、「未完成」にように緩徐楽章で終わるのを「諦念型」、狂躁が延々と続くうちにとってつけたようなファンファーレで突然狂躁が打ち切られる「グレイト」の終わり方を「サドンデス型」と名づけている。この終わり方を偏愛した作曲家として著者が挙げるのはラヴェルだが、「ボレロ」や「ラ・ヴァルス」の終わり方など確かにその通りだ。そして、ラヴェルの作曲活動の終わり方も、まさにこの「サドンデス」型だった。Wikipediaを参照すると、ラヴェルは52歳だった1927年から軽度の記憶障害や言語障害に悩まされていたが、1932年にパリで交通事故に遭って以来それが一気に悪化して作曲ができなくなってしまったという。

 それらに対し、ベートーヴェン以前の作曲家たちは、そんな終わり方はしなかった。著者はバッハの平均律曲集第1巻第1曲のプレリュードを例に挙げて、弱音で曲を閉じるけれどもシューベルトの未完成やマーラーの第9番のように未練がましくいつまでも音を引き延ばすのではなくきっぱりと終わらせる。これを著者は「帰依型」と命名している。これに対して、ハイドンモーツァルトは喜ばしく賑やかに曲を締めるけれども、定型的にシャンシャンと曲を終わらせる。これを著者は「定型型」と呼ぶ。ジャズの多くもこの終わり方だという。

 それに対してベートーヴェンの第5交響曲は、いつ果てるともない長三和音の強奏が、これでもかこれでもかと延々と続く。この箇所には、私は少年時代から今に至るまでずっと辟易してきた。「第9」の方が終結部でも曲に変化がつけられているのでいくぶん抵抗は少ないが、こちらの方はあの「歓喜の歌」に全面的に没入できない。音楽の専門家たちの間にも、著者をはじめとして同様のことを言う人たちは少なくない。一方、私はやはり少年時代から今に至るまで嫌って止まない故宇野功芳(1930-2016)などは「第9」に没入できるタイプの人で、彼は1960年代半ば頃に「第9」の「歓喜の歌」に没入できないとこぼす学友の感想に対して「こんな素晴らしい音楽はないじゃないか」と思ったという意味のことを書いていたはずだ。その宇野功芳が極右人士だったことは、氏が亡くなる数年前に知った。

 本書で非常に印象に残った箇所の一つは、本書142頁以降に論じられた「勝利宣言型の終わりは沈黙恐怖症か」という節だ。以下引用する。

 

(前略)執拗に凱歌をあげ続けるベートーヴェン作品の終わりは、何かの不安の裏返しであるようにわたしには聞こえる。

 いうまでもなく「音楽の終わり」とは、音がしなくなることだ。それまで音を立てていたものが動かなくなる。静まり返る。右*9に示唆したように、これは死の象徴である。だが十八世紀までの作曲家たちは、沈黙に場を明け渡すことに恐れを抱いてはいなかった。バッハの『マタイ受難曲(一七二七年)はキリストの磔(はりつけ)の物語を三時間以上にわたって描く死と弔いの音楽である。全篇が嘆きにあふれている。闇に閉ざされている。しかしよりによって最後の場面、亡くなったキリストを悼む場面で、ふと音楽の調子が明るくなる。これは不思議な感覚だ。夜明けが近づいてくる。「あなたの墓に呼びかける。静かに休みたまえ、と」の歌詞が穏やかな調子で繰り返される。淡々としている。曲を閉じることをバッハは恐れない。心安らかに大いなるものへと場を譲る。もちろんモーツァルト交響曲などはもっと世俗的な喜びにあふれているものの、彼もまた時が来れば恬淡と幕引きする。しかるに交響曲第五番「運命」のベートーヴェンは、場をなかなか沈黙に譲ろうとしない。(本書143-144頁)

 

 モーツァルト交響曲というと、以前にも弊ブログで取り上げたかもしれないが、ト短調K.550の交響曲の終楽章には結構強迫神経症的なところがあると私は考えている。5度上への転調に対して、普通なら主調に戻る力が働くのに、この曲のフィナーレの展開部ではその制御を失ってしまって延々と上へ上へと引っ張られる力が働き続けて*10、ついに音楽理論からいえば主調のト短調から見てもっとも遠い調に当たる嬰ハ短調でデモーニッシュなクライマックスを築いてしまう。それを導くのは展開部の初めに現れる1オクターブの12の音のうち主音であるG(ト音)を除く11の音が含まれる音型であり、私はこのあたりにモーツァルトの音楽の革命性を感じる。しかし、その展開部が終わるとソナタ形式の再現部になり、曲の閉じ方はごく普通だ。ベートーヴェンの第5交響曲のように、延々と主調の3和音を鳴らし続けるようなモーツァルトなどあり得ない。

 ましてや、バッハから見るとベートーヴェンはずいぶん遠いところに到達したと確かにいえるだろう。

 だが、ベートーヴェンの第5交響曲終結部や「第9」の「歓喜の歌」などは、同時にその世界に入れない者に対する「排除」あるいは「疎外」が確かに含まれている。

 音楽に限らず、このところ「排除」あるいは「疎外」について考えることが多い。

 たとえば、弊ブログでこのところ執拗に批判している東野圭吾のミステリー『容疑者Xの献身』は2005年下半期の直木賞を獲ったが、作中の「容疑者X」は、殺人を犯してしまった愛する女性のアリバイを偽造する目的で、何の罪もないホームレスを虐殺した極悪人だ。しかし出版元の文藝春秋はそんなストーリーの小説を「純愛」の物語として売り込み、ネットを見ても「感動した」との感想文を書く読者の方が、作品を批判する読者に比べて圧倒的に多い。また著者・東野圭吾自身もマジョリティ目線の人に違いないと私はみている。

 とはいえ政治に関心を持つ人たちの間ではマイノリティの権利等に対する意識が強まっており、それが反動的な安倍晋三政権が終わったあと、課題として表面化しつつある。そのことは多くの「リベラル」論に反映されている。現在の問題は、前記『アフター・リベラル』の著者・吉田徹が「寛容リベラリズム」と呼ぶその潮流が、格差を拡大して新たな「排除」や「疎外」を生み出す経済的自由主義に対抗して再分配や経済的平等性を重視する「社会リベラリズム」(『アフター・リベラル』の著者・吉田徹による用語)とうまく結びついていないことだ。「社会リベラリズム」を指向する人たちの間には「『右』も『左』もない」と称して公然と「排除」や「疎外」を行う右派と手を組もうとする傾向が強いし、その一方で「寛容リベラリズム」を指向する人たちは、新自由主義者を含む「経済リベラリズム」の勢力と手を組みたがる傾向を克服できていない。もはや「『右』も『左』もない」などという物言いは時代遅れだ。「社会リベラリズム」と「寛容リベラリズム」の両立は必須だと私は考える。

 「社会リベラリズム」と「寛容リベラリズム」が結びついた時、「第9」に含まれる疎外を克服できていない音楽の世界でも、200年ぶりに新たな時代へと歩を進めることができるのかもしれない。

 もちろん、歴史的限界によってベートーヴェンの価値が損なわれるものではない。相対性理論量子力学によってニュートンの価値が損なわれるわけではないのと同じことである。

*1:本書17-19頁

*2:テオドール・W.アドルノ(大久保健治訳『ベートーヴェン 音楽の哲学』(作品社2010)=引用者註

*3:この理由により、私は山本太郎が代表を務める某政党を絶対に支持できない人間だ。なお本例のように、引用部分においてはNGワードであってもそのまま掲載することにしている。ついでに書くと、現在の弊ブログのNGワードは、他に安倍前政権の経済政策を表す片仮名6文字と、プロ野球球団・読売ジャイアンツの日本語の愛称である漢字2文字(但しこちらは一般名詞としてなら許容する)の合計3つである。

*4:実はシェーンベルクよりも早い12音技法の発明者がいたことを今年1月に読んだ沼野雄司『現代音楽史』(中公新書2021)に教えてもらったが。

*5:但しベートーヴェンは彼らしく長三和音の強奏で曲を閉じている。

*6:ベートーヴェン自身の第3ピアノ協奏曲ハ短調(作品37)も同様。

*7:マーラーの第1交響曲は、何やら変なニックネームで呼ばれることがあるが、あれはのちにマーラー自身が撤回しているし、その撤回されたニックネームにしてもあくまで「タイタン」であって「ジャイアント」ではないことに留意されたい。間違っても「闘魂込めて」の親戚などではない。

*8:もしかしたらバーンスタインだったかもしれないがはっきりしない。

*9:縦書きの新書本なので「右」になる。弊ブログを含む横書きでは「上」に当たる=引用者註。

*10:同様の転調はト長調のピアノ協奏曲K.453の第2楽章でも聴くことができる。

東野圭吾『真夏の方程式』には松本清張『砂の器』との共通点もあるが、本質は『容疑者Xの献身』を焼き直した反倫理的小説

 初めにお断りしておくが、本エントリもいつものようにネタバレ満載なので、(私はお薦めしないが)表題作を読みたいと思われる方がもしおられるなら、この記事は読まないでいただきたい。

 

 やはり周庭氏は東野圭吾を読まない方が良いのではないか。また本邦の中学校や高校の図書室に東野の小説を置いてはならないのではないか。東野が2010年に連載し、2011年に刊行された長篇推理小説真夏の方程式』(文春文庫)を読んで、改めてそう思った。この本はお薦めしないので文春のサイトへのリンクは張らない。

 何よりいけないのは、本作があの反倫理的長篇小説『容疑者Xの献身』(2005) の焼き直しであることだ。つまり、害作品、もとい該作品と同じく「献身」をモチーフにしている。

 しつこいかもしれないが、本作を読んで改めて『容疑者Xの献身』に対する怒りを新たにした私は、またしても同作及びそれに基づいた映画に対するネガティブな批評を見出すべくネット検索をかけてしまったのだった。

 まず、「ミステリの祭典」というサイトに、非常に共感できる同作へのレビューがあったので以下に引用する。本論の『真夏の方程式』ではなく『容疑者Xの献身』への批判である。このサイトでは作品を10点満点で採点するが、最低は0点ではなく1点。つまりレビュワー氏は最低点をつけた。

 

No.78 1点 アイス・コーヒー 2013/12/16 14:08

 

あまりに有名な作品だけにこの点数をつけるのにはずっと躊躇していた。それゆえ、本作の書評は今まで避けてきたのだった。

もともと、私は東野圭吾氏の作品と相性が悪い。その作品の面白さが良く理解できないのだ。そんな私が氏の代表作にケチをつけるのはおかしいかもしれないが、一度私の意見も読んでいただきたい。

 

本作は天才数学者の石神が自分の愛する花岡靖子の為に、鉄壁のアリバイで完全犯罪を成し遂げようとするストーリーだ。見事な伏線や、二転三転する展開に驚かされた読者は多いだろう。私もそうだった。

しかし、まず気にいらなのはトリックに大きく関係するある部分だ。ネタバレにならないように書くが、人の命を虫けら同然に考えるあるまじき内容があるのだ。さらにそこまではいいとしても、それを作中で最も論理的思考ができるはずの湯川がほぼ黙認している。恋愛小説とか、ミステリとかそれ以前に人間としてあってはならない事ではないだろうか。なぜ湯川はそれを…。

またトリックの必然性に乏しいことも本作の欠点の一つである。これは偶然に頼りすぎだし、例え必然的な流れとしてこのトリックが現れたとしても、やはり東野氏自身の道徳的人格を疑ってしまう。もう少しこの点を丁寧に書いても良かったのではないだろうか。恐らくキリスト教圏に翻訳されても日本ほどの賞賛は受けられないだろう。

 

思うに東野氏は恋愛部分と推理部分を別々に思い付いたのではなかろうか。それを強引に縫い合わせてしまったがために思いもよらぬ亀裂が入っていまったのではないだろうか。だから、私は本作が本格かそうでないかという議論には不毛さを感じる。恋愛として若しくは推理小説として別々にとらえるならある程度の評価ができるのに、二つ合わせてよく見ると完成度が低いのだ。実際には恋愛部分もさほど偉大な内容ではないと思うのだが、本書評では特に触れないこととする。

 

あとは、些細なことだが石神や湯川の描き方に違和感を感じる。理系としての立場から言わせてもらえば、彼らは明らかに文系である。湯川の妙に論理から逆らった行動や、石神の再試での奇妙な行動。理系だったら「数学に関する意見を書いてほしい」なんて言わないでしょう。理系を主人公に置く文学において、ここまで粗雑な表現をした東野氏がまた理系であるという事実に驚きを感じる。何故本作が直木賞に輝いたのだろう。

 

ここまでグダグダと書いてきたが、私は本作のすべてを否定したいわけじゃない。本作のトリックや描写にはなかなか優れた部分もある。しかし、本作にある道徳的問題は社会問題も巻き起こしかねないし、それを論理的思考者であるガリレオに美化させるやり方は間違っていると思う。その意味での点数だ。

 

出典:http://mystery.dip.jp/content/book_select?id=815&page=2

 

 東野の「探偵ガリレオ」シリーズは、もともと「理系トリック」を用いた「ハウダニット」に興味の焦点を当てた作品群だったが、東野には「理系トリック」の引き出しの持ち合わせがあまりないらしく、弊ブログでも一度取り上げた第1短篇集の『探偵ガリレオ』(1998)はまあまあの出来だった(というか、ガリレオシリーズの中ではこの第1作が一番マシだと思う)が、第2短篇集の『予知夢』(2000)で早くもネタ切れを感じさせた。しばらくこのシリーズが中断したが、東野が改めて挑んだのが長篇『容疑者Xの献身』だった。この長篇になると、探偵が物理学者・湯川学(間違いなく1949年にノーベル物理学賞に輝いた湯川秀樹にちなんだ命名だ)である必要などもはや何もない。東野は確かに理系学部の卒業だが、彼がもっとも才能を発揮するのは前々回のエントリで取り上げたシリーズの第2長篇『聖女の救済』(2008)で私も見破れなかった叙述トリックであって、「理系トリック」の多くは月並みだ。『聖女の救済』も、本論の対象である『真夏の方程式』もともに湯川は必要ない。『真夏の方程式』には小学校か中学程度の理科(化学)の話しか出てこない。

 だが『容疑者X』にしても『真夏の方程式』にしても、それ以上に道徳的・倫理的な面が大問題だ。

 『容疑者Xの献身』の映画版に対しても、下記の批判があった。

 

172.《ネタバレ》 これは原作が駄目です。

好意の対象としての女性で、DV被害者を助けるために、出来る事いっぱいあるのに・・

この天才?は、無関係のホームレスに嘘のアリバイ工作を指示した挙句、殺して身代わりにするという暴挙に出ました。

どこに、こんなアホな事する天才が居るかって、爆笑しました。

単に死体を完璧に処理すれば、事件が無かったことに出来るのに、もう一人殺すという選択。

原作がアホだと、どんなにいい映画を造ろうとしても結果は同じです。

 

原作はミステリーの何かを受賞してますが、その時の審査員がこう言ってます。

「指摘はあるが、推理小説は、道徳的である必要は無い」

ミステリー読むのが恥ずかしくなるエピソードでしたね

 

グルコサミンSさん [DVD(邦画)] 3点(2016-04-04 21:59:28)(良:6票)(笑:1票)

 

出典:https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=16044

 

 引用文の最後にあるコメントをしたのは、推理作家の北村薫らしい。

 

 ようやく『真夏の方程式』の話に移ると、本作は『容疑者Xの献身』をなぞったような小説だ。2つの殺人事件があるが、最初に提示されるのは時間的には第2の殺人事件であり、その16年前に第1の殺人事件が起きている。

 『容疑者X』では第1の殺人事件の犯人は母娘で、娘は中学生だが、『真夏』では16年前に中学生だった娘による単独殺人だ。この娘は不倫から生まれたが、実の父親が真犯人である実の娘を庇って自らが犯人であるかのような演技をして逮捕され、有罪判決を受けて服役後出所したものの、職が得られずに一時ホームレスになっていた。現在は脳腫瘍に冒されて余命幾ばくもないが、この男を逮捕した元刑事が、この件は実は冤罪事件であって、自分は冤罪の片棒を担いでいたのではないかと疑って退職後もこの事件を追っていた。この元刑事がホームレスになっていた元受刑者を発見し、彼が重病であることに気づいてホスピスに入れていた。

 ある日、この元刑事が、真犯人の両親が営む旅館に泊まりに来た。宿で元刑事が冤罪で投獄された元受刑者の名前を出したところ、16年前の娘の犯罪が暴かれるのを恐れた父親(彼は娘と血のつながりはない)に殺害された。しかも卑劣なことに、この父親は夏休みで遊びに来ていた親戚の少年に犯罪の片棒を担がせた。

 以上、キーボードを打つだけでむかつく話だ。「容疑者X」は罪のないホームレスを虐殺したが、この父親も過剰防衛によって罪のない、それどころか自らが関与した冤罪事件をよって冤罪を被せてしまった元受刑者に償いをしようとしていた、およそ刑事とは思えない高潔な人間を、16年前に殺人を犯した娘を守るためという口実で殺してしまった。これでは元刑事も元受刑者も浮かばれない。とりわけ元受刑者にとっては、ホームレスだった時に「容疑者X」に虐殺されずに済んだことが唯一の救いだったくらいのもので、他に良いことなど一つもなかった。彼が16年前に「献身」さえしなければそんなことにはならなかったのに、と私などは思う。

 ところが、こんな殺人を探偵役の湯川は許して隠蔽に加担してしまう。この点に関しては『容疑者Xの献身』よりももっとひどい。殺人一家の父親は、元刑事の死について警察に自首したが、殺人ではなく事故だったと嘘をつき、無能な県警は彼の嘘にまんまと騙されてしまう。また作中で、16年前の殺人者である30歳の女性は「善玉」扱いされている。この女性は二度までも「献身」の対象になっているが、そのことを思い煩っている様子が全然うかがわれない。彼女が心配しているのは、16年前に自らが犯した殺人が露見することだけのように見える。

 しかし、各種感想文を見ると、こんな小説にも「感動」しているらしい人たちが少なくないのだ。中には、『容疑者Xの献身』では露見したのに、と疑問を呈する人たちもいるが、そういう人たちも『容疑者Xの献身』の方が良かった、などと言っている。頭が痛くなる。

 どう考えても、殺人を犯してしまった愛する者を庇うために別の殺人を犯すことを「美談」仕立てにするのはおかしい。そんなことをしたら、多少は情状酌量の余地がある最初の殺人より「殺人事件を隠蔽するための」第二の殺人の方がより悪質になるに決まっている。しかし、そんな常識は東野の作品世界とその読者たちには通用しないらしい。

 やはり東野圭吾には倫理的に大きな欠陥があるとしか思えない。『容疑者Xの献身』、『真夏の方程式』の他にも、弊ブログで「超駄作」と評した『同級生』、それに加賀恭一郎シリーズ第1作の『卒業』など、大きな倫理的問題を感じた小説がいくつもある。

 ところで、『真夏の方程式』を読んで松本清張の『砂の器』を思い出したという読者を複数ネットで発見した(私は特に連想しなかった)。また、『砂の器』を引き合いに出さずとも感想文中に清張の名を挙げた人が他にもいた。『容疑者Xの献身』や(私が清張の短篇「捜査圏外の条件」を連想した)『聖女の救済』の感想文ではそのような例にはお目にかかっていないのになぜだろうと思ったが、すぐに気づいた。確かに『砂の器』と共通点がある。

 以下に、「読書メーター」および「アマゾンカスタマーレビュー」から拾った、『砂の器』を連想したという感想文の例を紹介する。『真夏の方程式』に対しては賛否両論だ。まず「読書メーター」から3件。

 

カムリン

ガリレオ版「ぼくの夏休み」。この作者は、あれか、「殺人を犯してしまった女を身を挺してかばう男」っていう図式が好きなのか? それが永遠のテーマなのかね。べつにいいけど。人の好き好きだし。個人的には殺人という凶悪犯罪を隠蔽するのは好かん。トリックはそこそこ秀逸。動機は「砂の器」の焼き直しか。犯罪自体は醜く冷酷、殺す必要の無い人を殺してる。少年と科学者が海辺でほのぼのしてるので、それなりに心休まり、面白く読める。二つの殺人、一つは真犯人が隠され、一つは殺人であることが隠されて、そこに正義はないけどね。

2014/08/13

 

出典:https://bookmeter.com/reviews/40292548

 

luny

良かれと思って真実を知ろうとする、元刑事。秘密を知られたくない家族。犠牲愛を貫こうとする真の父。清張の名作「砂の器」を彷彿させる。ところがどっこい、少年にも大きな荷物を背負わせる羽目に。ガリレオ博士の論理的な説得が少年に未来を期待させる。読み応え充分でした。

2013/11/11

 

出典:https://bookmeter.com/reviews/33306340

 

morimama

良質のミステリーには人間が深く描かれている。登場人物である役者が出揃ったところで過去の謎は予想できてしまいますが、現在の事件の謎はやはり解けませんでした。そこは物理の天才湯川博士にお任せです。途中、余命いくばくもない老人の姿に松本清張の「砂の器」が重なりました。和賀英了のことを聞かれた老父が必死の形相で「おら、知らねえ!」と慟哭するところです。そして「容疑者X・・・」に続きここにも現れた「献身」。「白夜行」「幻夜」など献身路線は東野さんの一つのテーマなのでしょうか。果たして人は愛する者の為に罪を被れるのか

 

2012/04/29

 

出典:https://bookmeter.com/reviews/18549215

 

 上記3件目のレビューにはコメントがいくつかついているが、それらを参照すると東野の本作は清張の原作よりも有名な映画版『砂の器』を強く連想させるようだ。なお私は原作は読んだが、映画版は見たことがない。

 続いて「アマゾンカスタマーレビュー」より。

 

トビー

★★★☆☆ ある意味平成の砂の器もどき

Reviewed in Japan on September 7, 2014

 

真実を口にしない病院の父親をいう登場人物が、なぜか映画「砂の器交響曲を思い出させた。

 

砂の器では、もと巡査の三木謙一が音楽家和賀英良に実父の見舞いを強く嘆願したことにより殺人が起きたが、本作品ではそのような記述はない。そのところが、殺人動機として弱すぎるという皆さんの指摘になっている。つまり人一人をそれだけの理由で殺め、そしてガリレオは隠蔽してしまう。

もう一つの殺人とはまったく違って同情の余地はない。

砂の器と比べても、同様である。

 

病院の医療費は誰が負担するのだろう。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RYY5U0WLDLKVN

 

 『砂の器』では前衛作曲家(映画版は見ていないけれどもピアニストだっけ)の和賀英良が、自らの過去(少年時代)を知る人物を殺した。『真夏の方程式』では、娘が中学生時代に犯した殺人を知ることになるかもしれない人物を娘の父親が殺した。両作の犯人はともに「過去を隠し続けるために殺人を犯した」。

 しかし、これも弊ブログで繰り返し指摘してきたことだが、作家としてのあり方において清張と東野圭吾は全く違う。当たり前だが、清張は和賀英良を無罪放免したりはしなかった。清張は来年(2022年)に没後30年を迎えるが、今なお読み継がれている。しかし、東野の没後四半世紀経って彼の作品を読む人など誰もいないだろう。

 東野の「ガリレオシリーズ」が清張を思わせるとのレビューの中には、下記のような辛辣な批評もあった。

 

K Tailor

★★☆☆☆ 面白いには面白いのだが、ミステリとしては?

Reviewed in Japan on September 8, 2013

 

東野のガリレオシリーズ長編。

とある海辺の町で見つかった事故死と思われる遺体。たまたま同じ宿に居合わせたガリレオ先生は案外積極的に事件にかかわっていくのだが、やがて判明する意外な事実、警視庁の捜査で掘り起こされる過去の事件、そして・・・というややサスペンスタッチの作品だ。

 

なかなかサスペンスフルで面白い小説なのだが、冷静に思い返してみると・・・さて。とんでもないトリック?快刀乱麻を断つ推理?読者から見てあぁーやられた感?どれもなんともパッとしなくて。ミステリとしてはどうなのか。確かに人物描写は面白い。ガリレオ先生の発言の変人ぶりやら、小学5年理科算数へのオーバーテクノロジーな教え方、科学調査と自然保護の軋轢やらと、突っ込みながら読むには事欠かない面白さがある。まぁその一部が伏線にもなってはいるのだが。。。

 

もともとガリレオシリーズは、あまりトリックトリックしていなくていわゆる松本清張の流儀も取り入れているようなので、そこを指摘してもという話もあるのだが、「聖女の救済」でどかんとやられた後だけに、ちょっとがっかり感あり。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R3N0HVXLGA5ZJ8

 

 最初の短篇集では「理系トリック」がウリだったのに、「あまりトリックトリックしていなくていわゆる松本清張の流儀も取り入れている」などと言われては東野圭吾も形無しだろう。

 東野は、清張よりもはるかに(長篇に清張をモデルにした人物を登場させてこき下ろした)筒井康隆に近い資質があるのではないか。東野作品の比較的初期には、自らが「本格推理小説」のキャラクターであることを自覚している作品をはじめとして、メタ的な視点から書かれた作品が何冊もある。私がもっとも楽しめたのはそれらの作品だった。理系ミステリの短篇集『探偵ガリレオ』も悪くはなかったが、メタミステリの作品群ほどには面白くなかった。最初に引用した『容疑者Xの献身』のレビュワー氏が指摘する通り、東野は理系的というより(たとえ氏の専攻や職歴が技術系であるにせよ)文系的な人であるように思われる。

 私見では、そんな東野に一番合わないのは今世紀に入って多用するようになった「お涙頂戴」の路線だ。また社会派風の味付けも感心しない。氏の考え方には倫理的な問題があるため、変に社会派風や「お涙頂戴」のストーリーにすると、とんでもない方向に読者を誘導してしまう。長篇に隅田川のホームレスを登場させて、社会派推理風の話にするのかと思いきや、そのホームレスを虫けらのように殺すのがメイントリックだったと知った時の驚きと怒りは強烈だった。

 理系もお涙頂戴も社会派も、東野圭吾には似合わない。

添田孝史『東電原発事故 10年で明らかになったこと』(平凡社新書)が告発する事故前の東電の悪行

 今日(3/11)で東日本大震災と東電原発事故からちょうど10年になる。

 先月下旬に下記の本を読んだ。

 

www.heibonsha.co.jp

 

 何よりもタイトルが良い。あの原発事故の略称を「福島原発事故」ではなく「東電原発事故」としている*1。弊ブログでは2011年のある時期以来、略称は「東電原発事故」で通している。

 内容的にも、近年になってようやく明らかになった東電の悪行が書かれている。それに触れた「アマゾンカスタマーレビュー」があったので、手抜きで申し訳ないが以下に2件引用する。

 

レビューン

★★★★☆ 事故ではなく、公害事件。

Reviewed in Japan on March 3, 2021

 

2020930日、仙台高等裁判所は、福島原発事故を国は防ぐことができたという判決を下しました。この本は、その判決に至るまでの経緯が述べられてます。

 

著者は科学ジャーナリスト(工学修士取得者)で、この著者が見つけた文書が裁判に採用されてもいるようです。

 

読んで衝撃を受けっぱなしでした。たとえば、裁判によって以下のことが明らかになったと。

 

2007年時点で、福島第1は国内で最も津波に余裕のない脆弱な原発だとわかっていた。2008年に東電の技術者は津波対策が必要だという見解で一致していたが、東電の経営者が先送りを決めた。東海第2の経営者は津波対策をすぐに始めた。東北電力がまとめた女川原発の最新津波想定を、東電は自社に都合が悪いからと圧力をかけて書き換えさせた。

 

ひと通り読んで、いわゆる学歴エリートの人たちが何をしているのか、その一端を垣間見れました。自分たちに不都合な事実があると、それを否定する論理を構築してごまかす。間違っていることでも論理的に正しくさせて自己正当化。失敗に対して嘘と隠蔽で対処してます。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R39FLOGYJEUQDE

 

無気力

★★★★★ 東京電力津波対策の遅れを明らかにする

Reviewed in Japan on February 21, 2021

 

東日本大震災から10年が経過しようとする中で、各種の出版が相次いでいる。本書は、なかでも福島第一原子力発電所の事故に焦点を当てて、東京電力が適切な対策を講じていたのか否かを論じるものである。

 

大規模な地震の発生とそれに伴う津波の被害をどの程度想定し、対策を講じていたのか。主に数々の裁判で明らかになった事柄や各種の調査報告書を根拠に、大規模な地震が発生する可能性があり、特に福島第一原子力発電所津波対策が十分ではないことを知っていながら東京電力が対応を先送りにしていた事実を本書は詳細に明らかにする。これについては本書第2章で詳しく論じられるが、少なくとも2008年段階で、大規模な地震の可能性を認知した日本原電は東海第二発電所について津波対策を追加で行い、東北電力女川原子力発電所にかかわり大規模な地震津波への対策を報告書で言及しようとしていた。その東北電力に対して、自らが対策しないことが不自然になることから記述を変えるように東京電力が迫っていたというあたり、完全に「アウト」だろう。

 

各種の裁判では東京電力の責任を認める場合と認めない場合で結果は分かれている。社内の誰かの責任ということでは確かに明確にならないところはありそうだが、さすがに会社としての責任は免れそうにないことを本書は明確にしているように思う。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R34G1L9V2Y1O0V

 

 またネイチャーの社説は、原発はもはや脱炭素の切り札にはなり得ず、再生可能エネルギーが中心になると論じているとのこと。

 

 

 しかし、世界のエネルギー供給の流れを変えた東電原発事故を引き起こした日本政府は今なお原発にこだわっている。菅義偉が昨年の総理大臣就任時に打ち出した「2050年までに脱炭素社会を実現」とする目標でも前提とされているのは原発の活用だ。

 だが、自民党内、それも菅義偉の側近からさえも「脱炭素社会に原発は不要」とする意見が出てきているらしい。これを言っているのは秋本真利衆院議員。以下にブルームバーグの記事へのリンクのみ示す。

 

www.bloomberg.co.jp

 

 そうはいっても自民党政権ではすぐには変わらないとは思うけれども。

*1:但し、本文では「福島原発事故」との呼称も少なくないのが少し残念だ。

東野圭吾の長篇『聖女の救済』を読んで、松本清張の短篇「捜査圏外の条件」を思い出した

 私が不思議でたまらないのは、東野圭吾が日本のみならず中国や韓国で人気があるらしいことだ。その中国の息のかかった香港当局に逮捕され、有罪判決を受けて収監された周庭氏も、村上春樹とともに東野圭吾の小説を読むという。

 

 

 私も2010年代に頑張って村上春樹を読み、作品によっては面白いと思ったものが結構あったのでこのブログにも取り上げたが、どうにも相性が悪くてダメだったのが『ノルウェイの森』だった。

 純文学の村上春樹とエンターテインメントの東野圭吾では全然違うと思うのだが、東野作品にもどうしようもなく相性の悪い作品がいくつかあり、しかもその割合は村上春樹よりずっと多い。その最たる小説が『容疑者Xの献身』であることは、前回を含め何度か書いた。愛する女性のためと称して罪のないホームレスを虐殺した男の物語のどこが「純愛」なのか私にはさっぱり理解できない。

 東野圭吾は、推理小説の世界では大先輩に当たる松本清張とも、前記の村上春樹とも違って、小中学生の頃には本などほとんど読まなかった人らしい。それがミステリにはまり、高校時代には清張を読み耽ったとのことだ。

 だが、清張の読者と東野の読者とはほとんど重ならないのではないだろうか。清張は一時期直木賞の選考委員を務め、筒井康隆を選ばなかったために筒井の『大いなる助走』のモデルとして辛辣に描かれた。清張は多忙で候補作をほとんど読んでいなかったとの話もあるが、清張が選考委員を務めていた頃のコメントを見ると、1969年上半期に佐藤愛子が受賞した時に「私も一、二篇を読んだだけだったら推薦をためらったかもしれないが、作品集の全部をよみ、大丈夫と思ったのである。直木賞にはそういう意味がある」とコメントしているから*1、世評がどれくらい正しいかはわからない。なお筒井が『大いなる助走』を書く前に、清張と筒井は一度だけ対談している。本当に清張を激しく嫌っていたのは、筒井よりも彼の先輩SF作家だった星新一だとの説もある。星は思想心情的には保守反動の人だった。

 清張といえば政治に深入りした人だったが、東野圭吾ノンポリだろう。そのノンポリの人間が何も考えずにホームレスの命を犠牲にして「純愛」をうたった小説を書き、それが日中韓の人々や周庭氏に愛読されていることに不条理を感じずにはいられない。私は2006年に清張が健在で直木賞の選考委員だったなら、果たして東野の『容疑者Xの献身』の受賞に異を唱えなかっただろうか、異を唱えたに違いないのではないかと思うのだ。

 とはいえ、東野圭吾の小説を飛ばし読みすることは、その作品のインモラルさを批判できることも含めてある種のストレス解消になることも事実だ。多くの東野ファンとは全く違うだろうが、私はそういう読み方をしている。

 ここからが本題だが、私は清張作品には本当にのめり込んだ。そんな私が東野圭吾ガリレオ・シリーズ長篇第2作である『聖女の救済』(文春文庫)*2を読んで直ちに連想したのが清張の短篇「捜査圏外の条件」だった。

 このエントリはこのあとがネタバレ満載なので、未読の方はこれ以上読まれないことをおすすめする。下記に両作(清張の方は当該作品を収録した短篇集のうち入手の容易な新潮文庫版)へのリンクを示すが、そのあとからネタバレの文章が始まる。

 

www.bunshun.co.jp

 

www.shinchosha.co.jp

 

 東野作品の感想文を読んでも、私と同じ感想を持った人はまだ一人も見つかっていないが、両作には多くの共通点がある。

 まず、ともに倒叙形式をとっていること。犯人は最初から読者に示されている。ただし、清張作品では殺人の手口も示され、「犯行がいかに露呈したか」を興味の的とする、「刑事コロンボ」などにも見られる普通の倒叙形式をとるが、東野作品ではトリックも動機も隠されている。東野作品では「ハウダニット」が興味の焦点だ。

 もっとも東野は『容疑者Xの献身』で、倒叙推理小説と見せかけて替え玉殺人を隠すという大トリックを使っているから、『聖女の救済』でもその手の仕掛けがないかと疑いながら読んだが、さすがにそれはなかった。

 トリックはわからなかった。というか、読者の感想文をネットで多く閲覧したけれども、わかったという人には未だにお目にかかっていない。ただ、非現実的なトリックではある。しかし、トリックの非現実性をいうなら、清張の『砂の器』や、古くはコナン・ドイルの「まだらの紐」なども実にひどいものだから、それをもってミステリ作家を非難することはさすがにできない。

 作中、犯人が何度も花に水をやろうとするが、この行為が毒を洗い流して証拠を湮滅するためであることは、最初に水をやろうとした時からすぐにわかった。また、水をやるために犯人が用いた、底に穴を開けた如雨露(じょうろ)代わりの空き缶が物証になり得ることにも直ちに気づいた。だから、女性の犯人と、彼女に恋心を抱いた草薙刑事との会話で、草薙が空き缶を処分したらしいことを知って、何やってるんだこの間抜けな刑事は、と思った。しかし、草薙は自らの言葉とは裏腹に、どういうわけか空き缶を処分せずにとっておいていたのだった。

 そこまではわかったが、トリックには行き着かなかった。非現実的ではあるが、ここは作者の勝ちだと認めておいて良いだろう。

 犯行の動機は、長篇の終盤でようやく明らかにされる。それは、被害者である男性の外道な振る舞いによって自ら命を絶った友人の女性に代わって、犯人が復讐を遂げることだった。そしてトリックが明かされ、犯人が犯行のトリックを仕掛けてから1年間何もしないことによってアリバイ工作を行い、「完全犯罪」を実行しようとしたのだった。

 このアイデアが清張の「捜査圏外の条件」に酷似している。清張作品も復讐の物語だった。犯人の妹は病気持ちだったが、被害者と不倫旅行をしている時に発作を起こして死んでしまった。被害者は犯人の同僚だったが、不倫の発覚を恐れて現場から逃げ出したため、妹は身元不明の変死体になってしまった。犯人はその真相に気づき、身元不明の死体にされてしまった妹の復讐を遂げるために被害者を殺す「完全犯罪」をたくらんだ。彼は会社を辞め、7年間何もしなかった。殺人を実行した時に、被害者の関係者として捜査線上に浮かばないようにするためだ。東野作品とは違って、特段の不自然なトリックはない。ただ、「年単位で何もしない」ことが大きな共通点だ。そして殺害手段が毒殺であることも同じ。清張作品では、妹が好きだった流行歌「上海帰りのリル」から足がついてしまった。東野作品では草薙刑事が持ち帰っていた空き缶が物証になった。完全犯罪の破られ方もどことなく似ているように思われる。ただ、東野作品の方がずっと凝っている。ここらへんは後発作家ならではだろうが。

 なお清張作品に使われた「上海帰りのリル」は、戦前の流行歌「上海リル」のアンサーソングであり、これらの歌に関する記事を2018年に弊ブログに公開したことがある。だからよく覚えている。

 東野作品について各種感想文を見ると、「短篇向きの題材ではないか」と書かれているものが結構みつかり、鋭いと思った。なぜなら清張作品は短篇だからだ。また、作品としての評価は概して『容疑者Xの献身』より低いが、一部に本作の方を高く買う感想文もあった。そちらに私も同意する。ただ、私の場合は『容疑者X』のインモラルさがどうしても気に食わないという理由が大きいのだが。それに私は清張マニアだから、清張の短篇を連想させる作品の方に点が甘くなってしまう。

 ただ、トリックの非現実性はあまり気にならないとはいえ、犯行に用いた浄水器のタイプや配置状況などの説明が全然ないのはアンフェアの誹りを免れないだろう。私は浄水器といわれても蛇口に取りつけるタイプしかしばらく思い浮かばなかった。だが、当然ながら浄水器には蛇口直結型、据置型などいろんなタイプがある*3。作者は浄水器の構造をあまり詳しく説明するとトリックに気づかれてしまう恐れがあると考えて、わざと説明しなかったのだろうが、それが本作最大の欠点になっている*4

 とはいえ、最初の章の会話が1年前だったという大仕掛けにはうならされた。これはあまりにも大胆だ。確かに「あれこれ思い悩むのはやめて、新しい生活のことを考えろよ」という言い方に引っかかりはした。離婚後の生活を指すにしては変な言い方だなあと。これを結婚前の会話だと見破った人が「作者に勝った」といえると思うが*5、そんな読者はどのくらいいたのだろうか。東野圭吾は、推理小説叙述トリックの使い手としては優秀だと認めざるを得ない。

 また、犯人は「だからあなたも死んでください」と心の中で言っていたから、最後に自殺するものだとばかり思い込んでいたが、犯行を自供したものの自殺はしなかった。あなた「も」の「も」が指し示すもう一人は、自殺した友人なのだった。このあたりも凝っている。清張作品にも、犯人一味の女性に惚れてしまい、小説の終わりの方で、その女性が刑期を終えたら云々と考えている探偵役がいる小説があったはずだ。確か私が「駄作」と酷評したあの長篇だったと思うが、記憶が定かではないのでそのタイトルはここには書かない。また、そういう含みを込めて東野圭吾が犯人を死なせなかったのかどうかも知らない。ただ、清張の「捜査圏外の条件」では犯人は最後に自殺したはずだし、こういう作品ではたいてい犯人が自殺するものなので、異例だなとの感想を持った。

 なお、「読書メーター」などの感想文で、「1年間も何もしないとは、女の執念は恐ろしい」というのが多数あったが、何を言うかと思った。一つには、清張作品の犯人は男だが、1年どころか7年も待ったではないか、それに『聖女の救済』の作者は男だぞ、と思ったからだが、小説とは別に、リアルの世界で12年も前に言われたことを根に持ち続けて、12年後にやっと仕返しした男がいたことが頭から離れなかったからだ。さすがに殺人まではしていないけれども。

 その男の名は安倍晋三という。12年前の参院選に負けた時に安倍を批判した溝手顕正を追い落とすために、2019年の参院選広島選挙区に、溝手の対立候補として同じ自民党から河井案里を擁立して、安倍は溝手を落選させたのだった。その後の顛末については説明を省略するが(笑)。

 ことほどさように、男の執念の方がずっと恐ろしいのである。

*1:https://prizesworld.com/naoki/sengun/sengun45MS.htm

*2:シリーズの長篇第1作が『容疑者Xの献身』で、短篇集を含めると第3作になる。『聖女の救済』は第5作。

*3:たとえば、https://www.cleansui.com/shop/product/product.aspx などを参照。

*4:あと一つ、『聖女の救済』のタイトルもいただけない。さすがにあれを「聖女」と呼んではいけないと思う。

*5:さすがにあの非現実的なトリックには気がつかなくても仕方ないと思う。

直木賞受賞当時「本格推理」や「純愛」をめぐる激論を巻き起こした東野圭吾『容疑者Xの献身』を改めて批判する

 東野圭吾の『容疑者Xの献身』に対する批判はこれまでにも何度も書いたが、一度まとめておいた方が良いだろうと思ってネット検索をかけたところ、同書のハードカバー版が刊行されて直木賞を受賞し、評判をとった頃に書かれた、強く共感できる批判を2件みつけたので紹介する。

 1つめは、2006年2月5日に公開されたブログ記事。当時はライブドア事件が話題になっていて、前年の「郵政総選挙」で圧勝した小泉純一郎政権の強烈な新自由主義政治に対する批判がようやく強まっていた頃だった。当時ライブドア投資事業組合に深く関与していたのではないかと疑われた政治家が西村康稔だった。また安倍晋三の非公式後援会だという「安晋会*1の名前が耐震偽装問題の証人喚問で飛び出し、『週刊ポスト』が書き立てるなどして(私を含む)一部から注目されていたのを思い出す。そんな思い出深い頃に書かれた下記ブログ記事に、私は文章の最初から最後まで、全面的に共感した。以下全文を引用する。なお著者は先日78歳の誕生日を迎えられたそうで、現在もブログ『梟通信〜ホンの戯言』の更新を続けておられる。

 

pinhukuro.exblog.jp

 

「容疑者Xの献身」再論 納得できない人権無視

2006年 02月 05日

 

以下に書くことはこの小説のネタそのものに触れるので、これからこの小説を読むつもりの方は、そのことをご承知ください。

 

先の直木賞を受賞して今ベストセラー街道を突っ走るこの小説。作品・ミステリとしての出来はともかくその内容に問題があると思う。

 

「純愛」とか「無私の愛を描いた」ということが売りのように言われるその「無私・命懸けの献身」とは、一目ぼれの女性とその娘が犯した殺人を隠蔽する為に自分がもうひとつ別の殺人を犯し、その死体を隠ぺい工作につかう、ということなのだ。トリック設定のよしあしもここではおくことにする。

 

彼が用意した死体とは誰からもあまり注意されていないホームレス。まだホームレスになり立てで、髪も短く保たれ、髭も剃られている。工業系の雑誌を読んでいる。まだ再就職の道を諦めていない。青いビニールシートの生活とは一線を画したいとおもっている(文中の主人公の観察)。主人公は彼を「技師」と心中密かに名づける。

突然行方をくらましても、誰にも探してもらえず誰からも心配してもらえない人間、として生け贄になるのだ。もちろん主人公にも誰にも何か悪いことをしてはいない(少なくとも小説の中では)。

 

純愛・無私の貢献の主人公が「技師」を殺そうと決めるのは一瞬だ、逡巡や懊悩なぞ皆無だ。富樫(女が殺した男)の死体を目にした時、すでにひとつのプログラムが出来上がっていて・・いつ見つかるかと怯えながら暮らすような苦しみを味あわせることは耐えられない・・そこで「技師」を使おうと、決める。絞め殺したあと顔を潰し指を焼いて偽装工作をする。そのことについて主人公は「思い出すたびに気持ちが暗くなる」としか描写されていない。もともとクライ男なのだ。名探偵が登場しなければオミヤ入りだったかも知れない。何が無私だ!ムシがよすぎる!

 

罪と罰」もある。極悪非道な主人公が残虐な殺人を連続して犯す小説も山ほどある。しかしそのような小説はそのこと自体がテーマになっていたり唾棄すべき事柄として書かれている。または犯した罪に対する良心の呵責や悩みを描く小説もおおい。

 

この小説のように”感動、泣ける””純愛・無私”の主人公の行為として肯定的に描かれることはあまりないのではなかろうか。ヒューマニズムというか健気な母子に同情して自らを犠牲にするというテーマの中でホームレスの扱いは”違和感”そのものだ。

 

人格などないように小道具のように殺される。”死体提供の役以上の何物も持たない”存在として圧殺される。ほとんど”背景”扱い。二つの矛盾に満ちた行為をなさねばならなかった弱き人間としての苦悩と悲哀を描いているとも思えない。要するに作家はホームレスを道具としてしか見ていないのだ。ギリギリのやむを得ざる選択としてのホームレス殺しではない。都合よくそこにいたホームレス殺しで間に合わせたのだ。

 

自家撞着している主人公をシニカルに描いたわけでもなく糾弾するわけでもない。戯画化しているのでもない。そこが問題だ。

 

社会性などと関係のない純粋謎解きミステリならともかく、小説の冒頭に隅田川を歩く主人公を登場させそこでホームレスたちを紹介する鮮やかな手並みの中で事件の環境に現実性を付与している。そのような小説だから多くのフアンたちがわが身に引き寄せて興奮し感動したのだろう。そのような作品を表彰する審査員が問題だ。わずかな発言・失言でも見逃さず”問題視”するさまざまな人権団体や人権屋さんが問題にしないのだろうか。

 

そういう世の中になってしまったのか!子供たちがホームレスに集団暴行してももう記事にもならないかも。

 

(『ブログ『梟通信〜ホンの戯言』2006年2月5日付記事)

 

出典:https://pinhukuro.exblog.jp/2673403/

 

 本当にその通りだ。私も同じことを感じた。以前の記事にも書いたが、私も『罪と罰』を思い出した。私に言わせれば、この真犯人は「自ら犯した罪に対する苦悩や懊悩を一切しない」ラスコーリニコフであって、もちろんラスコーリニコフとさえ比較にならないくらい悪質だ。

 著者の東野圭吾は作家になる前の若い頃(高校生だか大学生だかの頃)に松本清張をずいぶん読み込んだらしい。だから一件「社会派」風に「小説の冒頭に隅田川を歩く主人公を登場させそこでホームレスたちを紹介する鮮やかな手並みの中で事件の環境に現実性を付与し」たのだろう。私もそういう期待を持って本作を読み進めていった。ところが、「刑事コロンボ」のような倒叙推理小説だと思い込んで読んでいた本作の核心部が、実は「ホームレスを犠牲にした替え玉殺人」だったと知って、びっくり仰天するとともに激怒したのだった。

 逆に本格推理小説を熟知した人たちにとっては、この「替え玉殺人」を見破るのは容易で、「難易度が低い」のだという。確かに手がかりは作中に示されているし、本格推理を読む人にとっては「顔のない死体は替え玉を疑え」という鉄則があるのだそうだ。また、そもそも本作が本格推理としてフェアかどうかについての激しい論争もあったようだ。しかし本格推理小説など高校1年生の時を最後にを何十年も読んだことがなかった私には、そんな議論には全く関心がない。

 上記のような批判を含む本作に関する議論が下記サイトにまとめられている。

 

 この中に、早川書房の『ミステリマガジン』2006年6月号の特集「現代本格の行方」に掲載された我孫子武丸氏の論考「容疑者Xは『献身的』だったか?」が引用されているが、これが本作の反倫理性に対する批判になっており、私はこれに共感した。以下引用する。

 

 彼らの両方が、石神の行為を「自己犠牲」「献身」と捉えていることがはっきりと分かる場面である。ここには、何の関係もなく殺された人間に対する一片の同情も、そんなことをやった石神という人物に対する嫌悪、恐怖のどちらもまったく感じられない。靖子はやや恐れを感じているようにも見えるが、それは自分にはもったいないほどの大きな愛情に対する畏怖でしかない。ネタは見えつつも、楽しく読み進めてきたぼくはこのあたりですっかり「ひいて」しまった。フィクションにおいて、一方的に思いを寄せる女性のために何の関係もない人間を殺す人物(明らかに異常者だ)を、感情移入させるような形で描くことについては、ぼくは何の疑問も不満も感じない。たとえ一人称一視点であったとしても、主人公の考えイコール作者の考えと限らないことは当然だ。しかし、そういう人物の行動を、他の、モラルの側に立つはずの人物たちまでもが「大きな犠牲」などと捉えるとなると、ぼくには到底受け入れがたい。一歩譲って、登場人物全員がインモラルな人物として描かれているのだとしてもいい。しかし、別れた妻をつけまわす陰湿な男・富樫とその富樫殺しの隠蔽のために殺されたまったく無関係な人物、「技師」。読者は一体どちらの罪を重いと考えるだろう。「技師」殺しを石神の「自己犠牲」と捉える湯川は一体どんな正義の元に真相を暴こうというのか。真相を墓場まで持っていこうとした石神の気持ちを知りながら、それを靖子に告げることで自白を引き出そうとした湯川の行為は誰かを救っただろうか。正当防衛に近い偶発的な殺人をしてしまっただけの親娘に、石神の分の罪も背負わせただけではなかったか。

 

 何人かの評者は本作を二重の読みが可能なたくらみに満ちた作品と読んだようだったが、こうして見る限りそれは深読みのしすぎではないかと言わざるを得ない。愛すべき平凡な女性として描かれてきたはずの靖子と、犯罪者を断ずる役割を担った探偵役の双方が同じ価値観を持っている以上、それが作者自身の価値観と重なると考えるのが普通の読みだろう。彼らが(つまりは作者が)「ネオリベ的」であるかどうかは、そもそもぼくには「ネオリベ」の意味がよく分からないので判じかねるが、この二人のせめてどちらか一人でも石神の行動を厳しく断罪する価値観を持ってくれていれば、ぼくの本作に対するエンタテインメントとしての評価はかなりアップしただろうし、笠井が感じた違和感も大幅に減じたのではないかと推察するのだが……どうだろうか。

 

我孫子武丸「容疑者Xは『献身的』だったか?」〜『ミステリマガジン』2006年6月号「現代本格の行方」より)

 

出典:http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/710606.html(リンク切れ)

 

 上記批評から、東野圭吾に対する「ネオリベ的」との批判があったらしいことがわかる。面白い視点だし、一面で当を得ている。ただ私は、東野圭吾は「強者目線」を強く持ってはいるものの、基本的にノンポリの人だと思う。もちろん私がはまりにはまった松本清張とは全く違う。次回エントリで取り上げる予定の『聖女の救済』は、おそらく清張の短篇「捜査圏外の条件」を下敷きにした作品だと思われるが(両作には多くの共通点がある)、2006年から書き進められて2008年に発表された『聖女の救済』で被害者として殺された人物は、「女性は産む道具」との価値観を持っていたことを作者に断罪されている。この作品を読んだ人たちの多くは、2007年に当時の第1次安倍内閣厚労相柳澤伯夫が発した「女性は産む機械」という発言を思い出したに違いない。東野圭吾とは「時流に乗る」ことを得意とする作家なのではないかと思った。小泉純一郎郵政解散を仕掛けて総選挙に圧勝した2005年には「ネオリベ全盛」だったから『容疑者Xの献身』のような小説を書いただけなのではないか。また、出版元の文藝春秋がこの本に「純愛」をうたった帯をつけるなどして売り込んだとのことだ。そういえば数年前にも別の「ジュン愛」騒動があったことを思い出した。私はとことん「ジュンアイ」とは相性が悪いらしい。だがここで百田尚樹の話に脱線するのは止めておく。

 東野圭吾はあまり売れなかった時期が長いようだが、その若き日の作品には「作者の倫理観が崩壊している」としか思えない作品が多くある。当たり障りのない言い方をすると「玉石混淆」になるが、その「石」はあちこちがとんがっていたりして強烈に凶悪なのだ。私が読んだ中で最悪の例は『同級生』(1993)だ。この作品を徹底的にこき下ろしたあるサイトの感想文があまりにも痛快だったので、以下にリンクを示す。

 

blog.netabare-arasuji.net

 

 上記リンクの紹介文にも見える通り、「自分の子を身籠もって事故死してしまった彼女のために愛がなかったので罪滅ぼしのた」めに、主人公の高校生が真相を探ろうとする話だが、そもそも「本当に愛してもいなかった」彼女を「身籠もらせた」時点で論外の主人公であって、しかも「絞殺された」はずの女性教師は、明らかに作者の東野圭吾が嫌いなタイプの教師だと思われるが、実は自殺だった。滅茶苦茶かつ作者にとって都合の良いだけの筋立ての「超駄作」だ。こんな小説が売れなかったのは当たり前だとしか思えない。繰り返すが、東野圭吾とは本質的に「強者目線」の人なのだ*2。だからこそ「ネオリベ的」だと評されるのだろう。しかし長年のミステリマニアだった東野は、その後作風を「お涙頂戴」式に変え、それに長年培ったミステリの技巧と、松本清張から形だけ借りてきた「社会派風」の味付け(それは飾りに過ぎないが)を加えて「人気作家様」にのし上がった。しかし『容疑者Xの献身』では東野の「ネオリベ的地金」が出てしまったということではなかろうか。

 最近では東野を批判するために東野作品を読んでいるようなものだ。こういう読み方をさせる作家は珍しい、というかこれまでの毒書、もとい読書習慣にはなかった。

*1:安晋会」の実体はいまだによくわかっていない。

*2:『同級生』の感想文を「読書メーター」で見ていると、「同じ男性として主人公に共感した」などと平然と書いた人間がいるのを見つけてぞっとした。

アガサ・クリスティ『ミス・マープルと13の謎』(深町眞理子訳、創元推理文庫)を読む

 前回に続いてアガサ・クリスティを取り上げる。最初に書いておくと、クリスティのミス・マープルものの短篇集である創元推理文庫の『ミス・マープルと13の謎』(深町眞理子訳, 2019)とハヤカワ文庫の『火曜クラブ』(中村妙子訳, 2003)は同じ作品の翻訳だ。1932年にイギリスで "The Thirteen Ploblems" のタイトルで刊行されたが、アメリカ版では "The Tuesday Club Murders" と題された。またイギリスのペンギンブック版では "Miss Marple and the Thirteen Ploblems" と題された。おそらく中村訳はアメリカ版を、深町訳はペンギンブック版を底本としていると思われる。

 で、創元推理文庫版とハヤカワ文庫のどちらかを選ぶなら、断然創元推理文庫版にすべきだ。なぜなら、ハヤカワ文庫の解説文には、他のクリスティ作品のネタバレが満載されているらしいからだ。前回も書いた通り、私は中学生時代の昔、級友に『アクロイド殺し』のネタバレを食うという痛恨の思い出があり、それがトラウマになって半世紀近くもクリスティ作品を読まずにきた。このご時世になってもミステリの解説文で平然と他の作品のネタバレをやらかす文庫本があるとは呆れる。

 話が逸れるが、1989年にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んだ時に「犯人のネタバレ」を食わなかったのは本当に良かった。あの長篇もミステリと呼べなくはないどころか、終盤になって初めて父親殺しの犯人が明かされる部分は重要な場面なのだ。しかし昔は、平気で帯に犯人の名前が書いてある本があったらしい。

 今回、ハヤカワ文庫版でなく創元推理文庫版を選んだのは幸運だった。半世紀近く前の雪辱が果たせたというべきかもしれない。

 ところでハヤカワ文庫版の訳者・中村妙子氏は一昨日(2021年2月21日)に98歳の誕生日を迎えた。『火曜クラブ』は2003年刊行だから、当時中村氏は80歳だった(訳出の時期は知らないが)。また創元推理文庫版の訳者・深町眞理子氏は1931年11月1日生まれの89歳。『ミス・マープルと13の謎』は2019年刊行の「新訳」だから、訳者80代後半での仕事ということになる。

 この16年の違いは大きい。たとえば短篇集の8番目に置かれた "The Companion" は、中村訳では「二人の老嬢」、深町訳では「コンパニオンの女」という題になっている。ここでいうコンパニオンとは、深町訳の34頁の注釈*1によると、「自活することを余儀なくされた良家の女性が、富豪に雇われて、女主人や病人などとの付き添い兼話し相手をつとめるもの。イギリス独特の存在で、かつては良家の女性の就いて恥ずかしくない、数少ない職業のひとつと見なされていた」とのことだ。

 中村訳では日本語に訳しようがないので「二人の老嬢」としたものだろうが、二人の年齢は「四十前後」*2とのことだから、今時これを「老嬢」と訳すのは良くないだろう。またクリスティ自身もいわゆる「オールド・ミス」を思わせる書き方はしていない。なおこの短篇が書かれたのは1929年である。

 ただ、2冊を読み比べ、かつ上記の邦題から受ける印象の違いにも言及した下記リンクの記事を書かれた方によると、

「二人の老嬢」「コンパニオンの女」どちらも大きく解釈の差は無く、読後の印象も大きく変わりません。

どっちもめっちゃ楽しめた。

話の内容的には、表現の違いはもちろんあるものの、どちらの訳を読んでも、登場人物像の印象が変わる・・・というような大きな差は無かったです。

とのことだ。

 

www.365books.site

 

 ハヤカワ文庫版のメリットは、創元推理文庫版よりも文字が大きいことだが、解説文がネタバレ満載ではどうしようもない。ハヤカワ文庫からはアガサ・クリスティ作品が103冊刊行されているが、他にも同様の例がないか警戒した方が良いかもしれない。前回も書いた通り、解説文ではなくクリスティの孫が書いた「序文」から真犯人の見当がついてしまったのが『スタイルズ荘の怪事件』だった。

 ところで創元推理文庫版は、2019年に新訳版が出るまでは高見沢潤子訳だったらしい。ネット検索で知ったのだが、この方は小林秀雄(1902-1983)の2歳下の妹で、田河水泡(1899-1989)の妻だったようだ。亡くなったのは100歳の誕生日を22日後に控えた2004年5月12日だった。創元推理文庫版旧版の『ミス・マープルと十三の謎』は1960年に刊行された。

 

 小林秀雄とクリスティというと、小林が『アクロイド殺し』をアンフェアだと評したことが知られているようだ。以下Wikipediaから引用する。

 

雑誌『宝石』誌上の江戸川乱歩小林秀雄との1957年の対談[10]において、小林は次のように批判している。

「いや、トリックとはいえないね。読者にサギをはたらいているよ。自分で殺しているんだからね。勿論嘘は書かんというだろうが、秘密は書かんわけだ。これは一番たちの悪いウソつきだ。それよりも、手記を書くと言う理由が全然わからない。でたらめも極まっているな。あそこまで行っては探偵小説の堕落だな。」「あの文章は当然第三者が書いていると思って読むからね。あれで怒らなかったらよほど常識がない人だね(笑)。」

ただ、対談の相手である江戸川乱歩はフェア・プレイ派である。

 

出典:アクロイド殺し - Wikipedia

 

 小林秀雄はもしかしたら妹の高見沢潤子の訳文で『アクロイド殺し』を読んだものかもしれないとも思ったが、ネットで調べたところ、残念ながら『アクロイド殺し』に高見沢訳はなさそうだ。古くから『アクロイド』を翻訳していたのは松本恵子(1891-1976)だった。この人はアガサ・クリスティの4か月あとに生まれて10か月あとに亡くなった、まさにクリスティの「同時代人」だった。

 ミス・マープルの誕生は、その『アクロイド殺し』と深い関係があることが、創元推理文庫深町眞理子による新訳の解説文(大矢博子)に書かれている。ミス・マープルの原型は『アクロイド殺し』の語り手であるシェパード医師の姉・カロライン(キャロライン)なのだという。『アクロイド殺し』が舞台化された時、探偵のポワロ(ポアロ)が設定より二十歳若いイケメンのモテ男にしようとしたところ、クリスティの反対にあってこの案は潰れたが、その代わりにカロラインが登場せず、若い綺麗な女性が登場することになったのだそうだ。これに怒ったクリスティが短篇にカロラインを原型とするミス・マープルを登場させたといういきさつらしい。

 『アクロイド殺し』は1926年の作品で、ミス・マープル最初の短篇である「〈火曜の夜〉クラブ」の雑誌『スケッチ』誌掲載は1927年12月号、『アクロイド殺し』が舞台化された『アリバイ』の初演が1928年であり、舞台の設定が前年にきまったとすれば辻褄が合わなくもない。当時から『アクロイド殺し』は大人気作品だったようだ。

 ところでミス・マープルの雑誌初登場は、シャーロック・ホームズが最後に雑誌に登場した「ショスコム荘」(『ストランド』誌1927年4月号)のわずか8か月後にである。クリスティはフランスを舞台とした『ゴルフ場殺人事件』(1923)でシャーロック・ホームズを戯画化したと思われるパリ警視庁のジロー刑事をポアロのライバルとして登場させ、大恥をかかせているが、これはコナン・ドイルに加えてモーリス・ルブランの『ルパン対ショルメ(ホームズ)』(1908)でイギリスのホームズがフランスのルパンにしてやられたことに対する意趣返しの趣向も含まれているかもしれない。また同じフランスのガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』(1907)も意識していただろう。もちろん『ゴルフ場殺人事件』の犯人はジロー刑事ではないけれども。『ゴルフ場殺人事件』は前回の記事で少なからず批判した長篇ではあるが、男性先輩作家3人を向こうに回した若きクリスティの意欲が感じられる野心作だ。

 肝心の『ミス・マープルと13の謎』の2番目に置かれた「アシュタルテの祠」は、ドイルの『バスカヴィルの犬』と同じダートムアを舞台とする怪奇譚だ。以下はネタバレを含む部分を白文字で表記するが*3、なんといっても秀逸なのは、短篇集12番目の「バンガローの事件」だろう。これを読んで直ちに私が思い出したのがアクロイド殺しだった。この短篇は一人称で書かれてはいないが、三人称版の「信頼できない語り手」ともいうべきトリックが用いられている。さすがはアクロイド殺し』の作者だと舌を巻いた。私は例によって物語を語るジェーン・へリアを全く疑わないでもなかったが、そもそもわけのわからない話だと思った。だから「ミス・ヘリア自身が犯人だ」という結論を出すには至らなかった。ところがミス・マープルが語り出した言葉が指し示すものは、「犯人は語り手であるミス・ヘリア自身だ」ということではないか。短篇集の7番目から登場するミス・ヘリアは、Wikipediaの表現を借りれば、この短篇集の後半において、一貫して「美しく気立ても良いが、『頭の中身は空っぽ』と表されている人気女優」として描かれてきたが、まさにそれこそがヘリアの「演技」だったのだ。ヘリアは自ら犯罪を企んでいたが、種明かしはしなかった。つまり「信頼できない語り手」だった。しかし、ミス・マープルは真相を見抜いたが、それを他のメンバーの面前では言わずにミス・ヘリアに耳打ちするにとどめた。犯行はまだ行われていない計画段階だったので、企みを見破られたヘリアは実行を思いとどまったのだった。

 マープルの下記のセリフがふるっている。

 

これだけのことをしでかすのには、ただのメイドあたりではとても持ちあわせていそうもない、それくらいの知恵が必要だという気がするんですよ。(深町訳359頁)

 

 つまり、ミス・ヘリアは「お馬鹿」に見せかけてミス・マープル以外の登場人物の全員、及び私を含む短篇集の読者たちを騙しおおせたのだった。

 しかるに、「読書メーター」などを見ると、「お馬鹿なミス・ヘリアがかわいい」などと書かれた感想文が少なくなかった。おいおい、本当に読んだのかよと思ってしまった。

 かつてカズオ・イシグロの『日の名残り』で、「信頼できない語り手」である執事・スティーブンスの本心を見抜けない日本のお馬鹿な読者たちに私は苛立ち、彼らを批判する記事をこの日記に書いたものだが、今回は大笑いしてしまった。

 この短篇はとてもよくできている。終わり方も良かった。ミス・マープルものは長篇が12篇、短篇が20篇あるそうなので、長篇12篇と短篇7篇が未読で残っている。『アクロイド殺し』は別として、それ以外はマープルものを優先して読もうかと思った次第。

*1:最初の短篇「〈火曜の夜〉クラブ」に付された註より。

*2:深町訳203頁。

*3:短篇集5番目の「動機対機会」のトリックである「消えるインク」にヒントを得た。

アガサ・クリスティ『ゴルフ場殺人事件』と東野圭吾『容疑者Xの献身』の感心しない「共通点」

 初めにおことわりしますが、このエントリにはアガサ・クリスティ(1890-1976)及び東野圭吾推理小説に関するネタバレが思いっ切り含まれているので、それを知りたくない方は読まないで下さい。

 

 今年(2021年)に入ってクリスティ作品を4冊読んだ。

 実は私の少年時代、クリスティのミステリに関する嫌な思い出がいくつかあって、昨年までクリスティ作品を一つも読み切らずにきた。その最たる苦い思い出が、中学1年生の時に『アクロイド殺人事件(ロジャー・アクロイド殺し)』を半分くらいまで読んだ時に、旧友にネタバレをされてしまったことだ。

 あれは、探偵のエルキュール・ポアロが暴く前に真犯人を知ってしまったら、読む気が起きなくなる小説だ。それをやられてしまったのだからたまったものではない。

 しかも、信じてもらえないかもしれないが、私は読みながら「この語り手、なんだか怪しいなあ。もしかしたらこいつ自身が犯人なんじゃないか」と思っていたのだった。そしてそれはズバリその通りだったのだが、読み切る前に真犯人がわかったら読む気が一気に失せた。結局結末の部分だけ読んでそれ以外の後半部分は読まずに今に至っている。

 その『アクロイド殺し』を再読しようと思うようになったのは最近のことだ。

 まず、2013年以降松本清張にはまり、2014年には河出文庫から刊行されたコナン・ドイルシャーロック・ホームズ全集を読むなど、中学生時代以来40年ぶりにミステリを読む習慣が復活したことだ。

 次いで、一昨年にカズオ・イシグロの『日の名残り』を土屋政雄訳のハヤカワ文庫版で読み、文芸評論の理論に「信頼できない語り手」というのがあるのを知ったことだ。『日の名残り』の「執事道」に生きた(と自らを偽っていた)語り手と、自らの犯行を隠して語る「アクロイド殺し」の語り手とは意図が全く異なるが、「信頼できない語り手」という点では共通する。

 最後に、ネタバレの被害を受けてしまった小説を読むんだったら、中学生時代になぜ語り手が怪しいと思ったのかくらいは注意して読もう、せめてその程度のインセンティブがなければ犯人がわかっているミステリなんかは読めないけれども、昔を思い出すよすがになるのではないかと思ったのだった。

 こうして、半世紀近い昔からの「鬼門」に再度挑むことにした。

 だが、図書館の書棚にはなかなか『アクロイド殺し』は置いていない。クリスティの代表作とされる人気作品だから借り出されていることが多いためだろう。そこで、悪友によってではなく、よくあるミステリ論のせいで読んでもいないのに犯人を知らされていた『オリエント急行殺人事件』の光文社古典新訳全集版(安原和見訳)を手始めに読んでみた。この小説はは犯人がわかって読んでも面白かったし訳文も読みやすかった。ただ、勧善懲悪の復讐譚であることにちょっと引っかかりを感じたが。

 

www.kotensinyaku.jp

 

 次いで、どうせならポアロものを最初から読もうと、クリスティの処女長篇である『スタイルズ荘の怪事件』とポアロもの2作目の『ゴルフ場殺人事件』の2冊をいずれもハヤカワ文庫で読んだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 この2作を読んだ感想は、クリスティとは本質的に「フーダニット」(誰がやったか)を興味の中心とするミステリ作家だったんだなあということだ。トリックは、『スタイルズ荘』の方は薬学の知識がなければ想到不可能なものだし、『ゴルフ場』の方はせっかく「替え玉殺人」というトリックを使っていながら物語の中盤で早々にネタを明かしてしまい、物語後半では「替え玉殺人」に便乗してこの陰謀を企んだ当人を殺したのは誰かという点に興味が絞られる。この小説には殺人が2件あって、替え玉殺人で犠牲になった被害者があとから発見され(第2の殺人)、その前に替え玉殺人を企んだ悪人が殺される第1の殺人事件が露見している。そして、時間的にはあとから起きたこの第1の殺人事件の犯人が誰かをめぐってどんでん返しが三度起きるという仕掛けだ。しかし、第1の殺人にはトリックも何もない。単に替え玉殺人を企んだ悪人を刺殺しただけなのだ。

 『スタイルズ荘』でも二段階のどんでん返しがあり*1推理小説的にはもっとも怪しくないけれども、普通に考えればもっとも怪しい人間が真犯人だ。それはある意味で「意外な犯人」といえるのだが、ハヤカワ文庫版につけられたクリスティの孫だというマシュー・プリチャード氏による序文を覚えていれば、犯人の見当がつくようになっている。だから二度のどんでん返しのを経てこの人物が真犯人としてポアロに指し示されても「やっぱりそうだったか」としか思えなかった。

 また、『ゴルフ場』の方は、推理小説的にはもっとも怪しいし、普通に考えても(嫌な言い方だが)この出自なら怪しいと思われる人物が三度のどんでん返しの末に真犯人として示される。この人物については作中でポアロが語り手のヘイスティングズに何度も警告していたりもするし、あまりにも怪しすぎるのだが、やっぱり真犯人かよ、と思ってしまった。しかし、この作品に示された「極悪人の子はやはり極悪人」という思想は、どうしても私には受け入れがたい。そういう結末にはなって欲しくないなあと思いながら読んでいたが、恐れていた通りの結末だったので大いにがっかりした。さらに、それよりももっと嫌だったのは、第2の殺人で浮浪者が身代わり殺人の犠牲になってしまったことだ。この殺人は第1の殺人の被害者とその妻による共謀だったのだが、ポアロは無実の罪に問われそうになった夫妻の息子に対して、「あなたの父親は悪人だったが母親は立派な人だ」みたいな言い方で励ました。しかし、その妻は罪もない浮浪者を身代わり殺人の犠牲者とした悪人の夫の共犯者だったのだ。いくら夫を愛していたからといってもそんな犯罪行為が許されるはずないじゃないかと思った。結局、クリスティは浮浪者を人間扱いしない倫理観の持ち主だったのではないかと批判せずにはいられないのである。

 しかし思うのだが、2005年下期の直木賞を受賞した東野圭吾の『容疑者Xの献身」(2005)はこのクリスティの『ゴルフ場殺人事件』にヒントを得た小説なのではなかろうか。この2作には共通点が多い。

 まず、ともに殺人事件が2件ある。ただ東野作品で巧妙なのは、第2の殺人事件そのものを隠していることだ。つまり、トリックに無頓着なクリスティがせっかくのトリックをもったいない使い方をしたのに対し、東野は替え玉殺人のトリックを最大限に活かしたといえる。私も第2の殺人が隠されていたとは全く予想できなかった。

 しかも、東野作品でも第2の殺人事件で罪のないホームレスが犠牲になっている。クリスティ作品とは異なり、第1の殺人事件の犯人は生きていて、その犯人を熱愛した第2の殺人事件の犯人を第1の殺人事件の犯人への嫌疑から逃れさせるために第2の殺人事件を引き起こしたというのがトリックだ。つまり殺人が起きた順番はクリスティ作品の逆。この第2の殺人事件の犯人は、共犯者に過ぎなかった『ゴルフ場殺人事件』第1の殺人事件の被害者にして第2の殺人事件における犯人の妻よりも、ずっと悪質な犯罪者だといえる。以前にも書いた通り、こんな小説を書いた東野圭吾の倫理観もどうかしていると思うが、それを読んで「感動した」とか言う人とは友達になれないというのが私の率直な意見だ。東野圭吾も『容疑者X』に感動した人もともにホームレスを人間扱いしない倫理観の持ち主と言わざるを得ないのではないか。1923年に書かれたクリスティ作品にはまだ「時代的な制約」があったとの言い訳が成り立つかもしれないが、2005年に書かれた東野作品やその読者にはそのようなエクスキューズは通用しない。ミステリとしての意外性が抜群なのは認めるが、仮に私が直木賞の選考委員だったなら、その倫理観の欠陥ゆえにこの作品は直木賞に値しないと強く主張したに違いない。

 本当は上記の3冊に続いて読んだクリスティの短篇集『ミス・マープルと13の謎』(深町眞理子訳・創元推理文庫2019)を中心に据えたエントリにするつもりだったが、次回に回すことにする。一言だけ書いておくと、この短篇集は『アクロイド殺し』と密接な関係がある。一つは主人公のミス・マープルその人であり、もう一つは13篇からなる短篇集のうちのある一篇だ。詳しくは次回に。

*1:この「多段のどんでん返し」は松本清張の多作期(1950年代終わり頃から60年代初め頃)の作品によく出てくるが、どうやらルーツはこれらクリスティの初期作品ではないだろうかと思い当たった。