KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

1997年に日本の「階級」を描いた桐野夏生『OUT』

 今年(2019年)は松本清張を5冊しか読まなかった。昨年は41タイトル50冊を読んだが、図書館に置いてある、最近発行された文字の大きい清張作品の文庫本はあらかた読み尽くしてしまったためだ。もっとも、未読の清張の長篇はまだ3割くらい残っているのだが。

 それで、昨年後半あたりから大衆小説・純文学を問わず清張作品以外にも手を出し始めたのだが、読書記録を見ると昨年12月中旬に宮部みゆきの『火車』(1992)を読んでいて、12月20日に読み終えていた。『火車』は清張の『砂の器』の直系というべき作品だ。

 そして今年の同じ日に読み終えたのが、桐野夏生の代表作の一つとされる『OUT』(1997)だった。

 

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 この小説も、松本清張を強く思い起こさせた。

 まず第一に気づいたのは、この小説が「階級」を描いていることだ。1997年にこの観点を持ってミステリ*1を書くとは、たいしたものだと感心した。

 そこで、読み始めて数十頁経ったところで、ネタバレがないかを注意しながら下巻末尾に収められた解説文の初めの方を見てみると、果たして小説家の松浦理英子が下記のように書いていた。なお下記の解説文は講談社文庫版が刊行された2002年に書かれている。また引用に当たって漢数字をアラビア数字に書き換えた。

 

 記憶をたどれば、5年前初めて読んだ時まず目を瞠ったのは、本作には現代日本における〈階級〉が描かれているということだった。ここ数年で「日本もまた階級社会である」という意見も目新しいものではなくなったけれども、1997年当時はそうではなく、〈一億総中流〉という決まり文句に囚われている人がまだ多かったと思う。『OUT』で描かれた弁当工場の夜勤についた女たちこそ、〈一億総中流〉というイメージが流布して以降初めて小説に登場した、そんなずさんなイメージを打ち崩すに足る具体性を備えた人物だったのではないだろうか。

 

桐野夏生『OUT』(講談社文庫, 2002)下巻336頁=松浦理英子による解説文より)

 

 「一億総中流」と言われたのは1970年代から80年代にかけてであって、それ以前には松本清張が階級的視点を有するミステリを多く書いていた。清張には時代ものでも『無宿人別帳』など最下層の人々に焦点を当てた作品群がある。しかし、そんな清張であっても70年代以降には『空の城』(1978)のような企業小説を書くようになっていた。そう考えれば、「『OUT』で描かれた弁当工場の夜勤についた女たちこそ、〈一億総中流〉というイメージが流布して以降初めて小説に登場した」という論評もあるいは当たっているかもしれない(正直言って、少し引っかかるものがあるが)。

 また、清張には登場人物がすべて悪人という系列の作品があるが、それをも思い起こさせた。

 前述の松浦理英子は解説文を下記のように結んでいる。

 

〈階級〉についての暗澹たる認識から出発しているにもかかわらず、本作品が古めかしいプロレタリア文学にも読者を意気阻喪させる悲惨な話にもなっていないのは、驚嘆すべきである。下層階級の女たちに作者とともに深い共感を寄せる読者は、(中略)ほかではめったに味わうことのできないカタルシスを得るに違いない。『OUT』はそういう小説である。

 

桐野夏生『OUT』(講談社文庫, 2002)下巻340頁=松浦理英子による解説文より)

 

 これは確かにそうかもしれない。少なくとも清張作品の終わり方とは違う。

 ただ、あまりにも凄惨な作品なので、この人の小説を続けざまに読もうという気にはならない。

 1992年の宮部みゆき作品『火車』とその5年後に書かれた本作さとでは凄惨さが全然違うのだが、その間に日本社会が大きな曲がり角を曲がったのだった。転換点となった出来事は、特に1995年に集中した。阪神大震災地下鉄サリン事件、それに日経連による「新時代の日本的経営」の発表などである。

 労働者派遣法も1996年に改定されて対象となる業種が拡大された。私が勤めていた職場に派遣労働者が入ってきたのは1997年の春だった。しかし、『OUT』が書かれた時点ではまだ派遣労働の原則自由化は行われていなかったし(1999年改定により施行)、製造業に派遣労働が解禁されたのは2004年からだった。

 それを思えば、桐野夏生の先見の明は大したものだった。

 

*1:ミステリとはいっても小説の前半に活躍した刑事は後半に入るとほとんど出てこなくなるなど、いわゆる「推理小説」のカテゴリには入れにくい。文庫本の裏表紙では本作は「クライム・ノベルの金字塔」とうたわれている。