KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

「世界三大悪妻」って? - 小宮正安『コンスタンツェ・モーツァルト』を読む

 大作曲家・モーツァルト(1756-1791)の妻・コンスタンツェがいわゆる「悪妻」で、ハイドンともう一人の誰か*1と合わせて「大作曲家三大悪妻」などと言われていることは昔から知っていた。しかし、そのコンスタンツェがどうやら日本でだけ「世界三大悪妻」に数え入れられているらしいことは、下記の本を読んで初めて知った。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 本書によると、コンスタンツェ以外の「悪妻」の2人は、ソクラテスの妻・クサンティッペトルストイの妻・ソフィアとされるが、場合によってはソフィアの代わりにナポレオン・ボナパルトの最初の妻・ジョゼフィーヌでも良いとのことだ。ほんまかいなと思って検索語「世界三大悪妻」でネット検索をかけたら、もののみごとにソクラテスモーツァルトトルストイの名前が挙がっていたのでびっくり仰天した。私は70年代に武川寛海(1914-1992, 音楽評論家にしてゴダイゴタケカワユキヒデの父)が書いた音楽史のエピソードを集めた類の本をよく読んだが、コンスタンツェの良い評判は確かに記憶にないけれども、そこまで極端にこき下ろされていた記憶もない。また、映画『アマデウス』でもコンスタンツェはそんな滅茶苦茶な人物造形はされてなかったように思うのだ。

 ところが、モーツァルトの研究家の間では昔から結構コンスタンツェは滅茶苦茶に叩かれていたらしい。それは何故か、というのが本書の主題なのだが、「モーツァルト信者」がモーツァルトを崇拝する勢い余って、というと、私が普段ヲチしている政治家の例がすぐに連想される。

 たとえば小沢一郎という政治家がいる。ここで小沢の名前を挙げると、あんな奴を引き合いに出すなんてモーツァルトに失礼だとのお叱りを受けそうだし、崇拝される対象(モーツァルトと小沢)が月とスッポンだとは私も強く思う*2。しかし、崇拝する側の「信者」の心理は実によく似ているのだ。小沢一郎には熱狂的な「信者」が多数いて、贔屓の引き倒しは日常茶飯事だ。その小沢は数年前に離婚したらしく、それを週刊誌に書かれたことがあるのだが、それを指摘した人間が現れるや「信者」たちはいきり立ち、デマを流す人でなしとして、激しい罵詈雑言が浴びせられたものだ。しかし、小沢の離婚が事実だったことがわかると、今度は小沢の元妻が「信者」に非難された。つまり、小沢一郎はその「信者」にとっては神聖不可侵なのだ。

 モーツァルト研究家たちのコンスタンツェに対する憎悪は、「小沢信者」の狂信性とそっくりだ。少なくとも私は本書を読みながらしばしば「小沢信者」たちの狂態を思い出していた。

 では、コンスタンツェはどのように罵られていたのか。一昨年に本書が刊行された直後に首藤淳哉氏が書いた書評から、以下に引用する。

 

honz.jp

 

(前略)『コンスタンツェ・モーツァルト 「悪妻伝説の虚実」』は、世界三大悪妻とまで称されるモーツァルトの妻の実像に迫った一冊。伝説というものがいかに形成されていくか、そのプロセスが明らかにされていてきわめて面白い。

コンスタンツェがいかにボロクソに言われているか、ちょっと見てみよう。たとえば、モーツァルトを崇拝する音楽学者アルフレート・アインシュタインは、コンスタンツェをなんと「蠅」呼ばわりしている。ハエですよ、ハエ!

このアインシュタインなる音楽学者はこう言いたかったらしい。コンスタンツェのような凡庸な女性の名前がいまでも歴史に残るのは、モーツァルトが彼女を愛したからだ。モーツァルトが人類史に永遠に名を残すような天才だったからこそ、彼女もモーツァルトとともにその名が残ることになったのだ……。それを評して「琥珀の中に蠅が閉じ込められたようすと同じ」と述べたのである。

淑女をつかまえて蠅呼ばわりとは。立派な名誉毀損だろう。だがこのコンスタンツェについては、専門家たちは治外法権かよというくらいに言いたい放題なのだ。気の毒に彼女はそんな連中から悪罵のかぎりを投げつけられてきた。それも200年もの長きにわたって、である。(後略)

 

出典:https://honz.jp/articles/-/43950

 

 そういえば「ツェツェバエ」という蠅がいたな、という駄洒落はともかく、アルフレート・アインシュタインが書いたモーツァルトの評伝の邦訳(ハードカバーの分厚い本だった)は、高校の図書館に置いてあったので、全部読んだわけではないが、かなりの部分を読んだ。だが、この音楽学者がコンスタンツェを「蠅」呼ばわりしたくだりは全然覚えていない。

 本書によると、アインシュタインはコンスタンツェの母・チェチーリアについても、

「嘘をつくしか能がないヒステリー女」であるとか「十字蜘蛛」(その蜘蛛の糸モーツァルトが引っかかったというわけである)と表現している(本書212頁)

と酷評しているという。有名なモーツァルトの評伝を書いた学者、つまり斯界の権威がここまでウェーバー母娘をこき下ろしていることに「お墨付き」を得てというわけなのかどうか、モーツァルト伝の世界では、コンスタンツェ(やその母)をこき下ろすことが「デフォ」(デフォルト)になっているようなのだ。なお、本書によれば、コンスタンツェをこき下ろすのは何もアインシュタインが始めたわけではなく、それ以前から連綿と続いていたのだが、私でさえ高校生の頃から名前を知っていた学者が与えた影響は小さくないだろう。

 このようなコンスタンツェ批判について、本書発刊当時に著者は下記のように論評している。

 

gendai.ismedia.jp

 

叩くほどに満たされる優越感

それにしても、この問いに迫るべく数あるさまざまなモーツァルトに関する、とくに評伝を読み進めてゆくと、出てくるわ出てくるわ。罵詈雑言といってよい評価が、しかもふだんは上品かつ知的なふるまいを旨としているかのような学者や評論家といったインテリも巻きこんで……といおうかインテリを中心として多数発せられているのである。

ちなみにモーツァルトの評伝が次々と出版されてゆくようになるのは19世紀後半から20世紀にかけてのこと。いわゆる進歩・進化の思想がヨーロッパ中に定着してゆくなかでのできごとであって、そうなると前人の描いたモーツァルト像を後に続く人間が乗り越えようとするなか、ことコンスタンツェに関しては先行する著作の上をゆくような悪妻ぶりが喧伝され、現在に至るまでますます収拾のつかない状況が生まれることとなった。

さらに明治時代以降、西洋音楽を熱心に取り入れていった日本においても、「本家本元」のヨーロッパにおけるコンスタンツェ像が無批判に流入し、ついに世界三大悪妻――この表現もどうやら日本独特のものらしいが――のひとりと言われるまでになった。

だが、モーツァルトの評伝を書いた著者のほとんどは、当然のことながらコンスタンツェを直接には知らない。では、なぜ彼女にたいする否定的評価が生まれたのかという理由については本書を読んでからのお楽しみとさせていただきたいが、ひとつだけネタばらしをさせていただくならば、どのような人間のなかにも必ず潜んでいるにちがいない、他者を貶めることによって得られる優越感を挙げられる。

モーツァルトの音楽はすばらしい、だから彼のことをもっとよく知りたい……、これは純粋な愛情や好奇心の為せる業だ。だがそれが一歩まちがうと、モーツァルトの音楽を愛でることのできる、あるいは彼について知識を持っている自分こそが優れている=自分以外はモーツァルトの音楽も人となりもわかっていない劣った人間である、という図式ができあがる。

昨今の偏狭なナショナリズムにも通じるナルシスティックな思いこみであって、本来であればそのような感情を理性によってコントロールする術を心得ているはずのインテリですら、この誘惑から逃れられない。

そんな人間の隠された本性を映し出す鏡こそ、コンスタンツェなのではないか? ひとが彼女を評価するとき、その評価のなかに当の本人の人格のすべてが浮き彫りになってしまうという恐るべき鏡。

本書では、そんな存在としてのコンスタンツェのありかた、あるいは彼女を評してきた人びとの姿を能うかぎり描いたつもりである。コンスタンツェを語るとき、人はふだん見せることのない陰の部分をも含めた己をきっと語っている。

 

出典:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51281

 

 著者は、コンスタンツェ批判に走る人たちの動機を「他者を貶めることによって得られる優越感」だと書いているが、私にはそれには異論がある。

 優越感というより、コンスタンツェに対する嫉妬ではなかったかと思うのだ。「モーツァルトを独り占めしやがって」という嫉妬。優越感より嫉妬の方が人間を動かすパワーとしてはずっと強力だと私は思う。

 著者は「昨今の偏狭なナショナリズムにも通じるナルシスティックな思いこみ」とも書いている。昨今はやりの「日本スゴイ」的な言説を指すのだろうが、あれだって本当に日本の経済力が強かった頃には声高には語られなかった。それが最近になって盛んになったのは、日本が斜陽国になって、代わって中国などが台頭してきたからだろう。つまり中国に対する優越心というよりは嫉妬。もっとも最近では中国には敵いそうもなくなってきたから韓国叩きに専念する傾向が、安倍晋三を筆頭に多くの右翼人士の間に見られるようになったが、あれなら「優越感」の歪んだ表れといえるかもしれない。でもそれだって中国には勝てないからせめて韓国を苛めようというスネ夫的な根性の表れだろう。

 そのほかに、本書で面白いと思ったのはナチス時代の話だ。この時代にはコンスタンツェに代わってフリーメーソンが悪玉として槍玉に挙げられていたという。それを流布したのはマティルデ・ルーデンドルフ(1877-1966)という「ドイツ参謀本部次長を務め、総力戦理論を構築した軍人・政治家のエーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルムルーデンドルフ(1865-1937)の妻」*3で、

フリーメーソンユダヤ人、イエズス会マルクス主義などの陰謀を排除し、ドイツ民族の自立を謳う「タンネンベルク団」を夫が結成するにあたり、その理念に大きな影響を与えた

という。なんともすさまじいトンデモ夫婦がいたものだが、このくだりを読んだ時にも私はリチャード・コシミズだの今は亡きヘンリー・オーツ(大津久郎)だのを思い出したのだった。ネット検索をかけて、「独立党」が今も存在することを確かめたくらいだったが、いわゆる「小沢信者」集団にはこの流れもあることを忘れてはならない。もっとも、ここらへんの話はごく一部の人にしかわからないかもしれない。それこそこちらの私怨も残っているので、読み飛ばしていただければ幸いである。

 話は逸れたが、マティルデ・ルーデンドルフが展開したのはフリーメーソンモーツァルトを謀殺したという陰謀論であり、この陰謀論を採った場合にはコンスタンツェを悪玉にする必要がなくなるので、コンスタンツェは一転して被害者として描かれているという。しかしこれを著者は下記のように評している。

 ただし、一見するとコンスタンツェ擁護論のように思えるこの著作には、従来多くのモーツァルト伝でおこなわれてきた手法、つまり書き手が裁き手となり、スケープゴートを作ることでモーツァルトの謎めいた人生を説明するという手法があいもかわらず取り入れられている。あくまでその対象が、コンスタンツェからフリーメーソンに変わったというだけの話に過ぎない。(本書198頁)

 

 これは説得力のある説明だが、裏を返せばアインシュタインを筆頭とする音楽学者たちの「コンスタンツェ悪玉論」で描かれるコンスタンツェとは、ナチスの理論を構築する陰謀論者が悪玉に仕立てるフリーメーソンユダヤ人やイエズス会マルクス主義者たちと同じ位置づけの「冤罪」の被害者といえると思う。現在も「小沢信者」たちは「野党共闘」への忠実さで味方の人間的価値を測り、悪玉を仕立て上げようと内輪の活動にばかり熱中して肝心の選挙で惨敗を重ねる愚を犯しているが、同じ誤りをナチスのイデオローグのみならず平和な時代の「真面目」なはずの研究者や音楽評論家、いやそれにとどまらず演奏家たちも犯してきた*4

 結局結論は、本書284頁の見出しになっている「人びとは敵役を欲する」ということに尽きようか。この一言で、モーツァルト・ファンや音楽学者やナチスのイデオローグや「小沢信者」どもの生態などなど、すべてが説明できる。

 最後に、モーツァルトが妻・コンスタンツェにソプラノ独唱のパートを歌わせる意図で書かれた「ミサ曲 ハ短調(K.427)」の「精霊によりて(Et incarnatus est)」の動画を貼っておく。この音楽こそ、コンスタンツェ論の結論ではないかと私は思う。

 


Wolfgang Amadeus Mozart - Mass in C minor (1783) - "Et incarnatus est" (Sylvia McNair)

*1:ネットで調べたらチャイコフスキーであることがわかった。

*2:私は中学生の頃からのモーツァルティアンである一方、小沢一郎は『日本改造計画』の頃から大嫌いだ。

*3:本書196頁

*4:本書ではそのような演奏家の具体的人名として、数年前に亡くなったニコラウス・アーノンクール(1929-2016)が挙げられている(本書239-241頁)。