KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

原武史『皇后考』と『平成の終焉』を読む

 新元号が明日(4/1)に発表されるらしいので、その前に公開した方が良いと思って急いで記事を書くことにした。

 

 今月下旬に岩波新書から原武史の『平成の終焉』が出ると知って、長い間積ん読にしてあった同じ原武史の『皇后考』(講談社学術文庫)を読むことにした。読み始めたのが3月15日で、11日間かけて読んだ。

 

皇后考 (講談社学術文庫)

皇后考 (講談社学術文庫)

 

 

 そのあと、3月29日から今日(3月31日)まで、出たばかりの『平成の終焉』(岩波新書)を読んだ。

 

 

 ありがたいことに、2冊とも巻末に全巻のエッセンスというべき文章が置かれている。

 まず、『皇后考』から引用する。

 

 行幸啓が繰り返されるたびに、包摂と排除の政治力学が見えないところで作用する。たとえ皇后自身の本意ではなくても、皇后は天皇制の権力強化に加担している。いや、加担しているどころではない。象徴天皇制の正統性は、天皇ではなく、光明皇后をモデルとする皇后によって担われていると言っても過言ではあるまい。(中略)皇后美智子こそは最高のカリスマ的権威をもった〈政治家〉であることを忘れてはなるまい。

 だが同時にそれは、もし皇后が皇后として十分な役割を果たせなければ、皇后に匹敵する有力な皇族妃が出てこない限り、象徴天皇制の正統性そのものが揺らぐことを意味するのである。この仮定が決して荒唐無稽でないことは、近い将来に照明されるであろう。

 生まれながらの皇后はいない。天皇とは異なり、血脈によって正統性が保たれていない皇后は、人生の途中で皇室に嫁ぎ、さまざまな葛藤を克服して皇后になることが求められる。しかし、誰もが皇太后節子(さだこ=引用者註。大正天皇妃だった貞明皇后のこと)や皇后美智子のように、その過酷な条件をクリアしてナカツスメラミコトになれるわけではないのである。

 

原武史『皇后考』講談社学術文庫2017, 623-624頁。引用文中の太字は原文では傍点。)

 

 「ナカツスメラミコト」とは、「神と人間である天皇の中間」、つまり天皇の上位に位置づけられる存在として著者は論じている。それになろうとしたのが貞明皇后であって、昭和天皇は実母でもあるそんな貞明皇后に頭が上がらなかったのだというのが著者の説だ。本書に美智子妃(や雅子妃)への言及はほとんどない上、先代の天皇妃である昭憲皇太后への言及部分も少なく(全23章のうちの第4章と第5章)、実質的に貞明皇后を論じた本であるといえる。ただ、現時点ではそれよりも次期皇后になる雅子妃が関心の焦点になる。

 続いて、『平成の終焉』の巻末より引用する。

 

 (前略)(天皇明仁の=引用者註)「おことば」に反して、ポスト平成の皇室が平成と全く同じということはあり得ません。それがどうなるかは、天皇徳仁と皇后雅子が、「おことば」で示されたような平成における天皇と国民の関係を改め、明治以来天皇とともに強まってきた国民国家という枠組みを超えた天皇と皇后になるのか、それとも昭和以前のように皇后の存在感が相対的に小さくなり、右派が目指すような天皇の権威化が進むのか、そのどちらかに向かうかによって大きく変わってくるでしょう。

 ただどちらに向かうにせよ、「おことば」で定義された象徴としての務めが完全に消えるわけではありません。その務めは天皇と皇后以上に皇位を意識する皇嗣皇嗣妃に受け継がれ、大正を経たあとに明治が理想としてよみがえったように、ポスト平成を経たあとに平成が理想としてよみがえることはあり得ると思います。(後略)

 

原武史『平成の終焉』岩波新書2019, 217頁)

 

 上記の引用文にある「明治以来天皇とともに強まってきた国民国家という枠組みを超えた天皇と皇后」というのは『皇后考』からの引用文にある「包摂と排除の政治力学」とつながる。つまり、平成の天皇・皇后のあり方からは「国民国家という枠組み」の中にいる者は包摂されるが、枠組み外にある者(たとえば外国籍の人たち)は排除されているが、登山を好む次期天皇にはそれを超え得るポテンシャルがあると著者は考えている。また皇后美智子の「天皇の後ろを歩き、天皇の傍らで祈る」(『平成の終焉』190頁)あり方は、「若い女性の専業主婦願望が高まっている理由の一つ」(同)になっているという負の側面があるとも指摘している。外務省のキャリア・ウーマンだった雅子妃にはそれを打破するポテンシャルを持っているが、懸念もある。以下、『平成の終焉』から引用する。

 

 けれども新皇后が、キャリア・ウーマンとしての体験を生かすためには、体調を回復させるだけでは十分でありません。皇后美智子に匹敵する言語能力を駆使して、自らの皇后像を積極的に語ることが求められるからです。一〇年以上にわたる「沈黙」を保ってきた新皇后にとって、そのハードルは決して低くないはずです。

 

原武史『平成の終焉』岩波新書2019, 211頁)

 

 雅子が皇后になっても「引きこもり」を続けるようであれば、「昭和以前のように皇后の存在感が相対的に小さくなり、右派が目指すような天皇の権威化が進む」恐れもあるというわけだ。

 なお私は、著者が指摘する2つの方向を向いたベクトルがせめぎ合い、事態は複雑な様相を呈するに違いないと予想している。ある局面では新天皇夫妻が進歩的で上皇夫妻(及び秋篠宮夫妻)が反動的な役割を担うが、別の局面では両者がそれとは正反対の役割を担うこともあり得る、というかそうなる可能性の方が高いと思っている。

 それとともに、彼ら(新旧天皇夫妻や皇嗣夫妻)の個人的資質や言動に大きく左右されるあり方は、どう考えても民主主義にとって好ましくない、つまり天皇制は廃止すべきだと私は考える。著者が天皇制の存廃についてどちらを望ましいと考えているかは明らかではないが、『平成の終焉』のあとがきにある下記の文章には共感した。

 

(前略)望ましい天皇制のあり方について、制度そのものを存続すべきか否かを含めて真剣に議論することが求められるでしょう。

 

原武史『平成の終焉』岩波新書2019, 222頁)

 

 以上で本論は終わり。以下は長い蛇足。

 

 『皇后考』は講談社「学術」文庫に収録されてやたら分厚いし、最近の新潮文庫光文社文庫みたいに活字も大きくない(というか小さい)ので取っつきは悪いが、読み始めたら最初はスイスイと読める。だが、貞明皇后が存在感を増してくるあたりから重苦しくなり、頁を繰るのがどんどん遅くなっていった。

 本の後半は小倉から東京まで青春18きっぷで乗った鈍行列車(途中大阪で一泊した)の車内で読んだが、並行して林芙美子の『放浪記』も読んだ。それは大部分が東京を舞台とするこの小説に一部で舞台となる尾道を列車が通過するからであり、昔2002年に倉敷から宮島まで鈍行列車で紅葉狩りに行った時に尾道駅の手前で車掌が突如読み上げた小説中の下記の文章をちょうど尾道駅を通過した時に読めるように時間調整をしたのだった。

 

 海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。記者が尾道の海にさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。

 

林芙美子『放浪記』岩波文庫2014, 256頁)

 

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

 

  

 だがこの目論見は失敗した。尾道駅に着いた頃、読んでいたのはそれより少し前の第二部の初めの方だった。少し『皇后考』にのめり込みすぎて読むのを中断するタイミングが遅れたのだった。ただ、その箇所も尾道からかつての恋人の実家があった因島を訪ねる場面だったからまあよしとするかと思った。なお因島尾道もかつて2004年に二度今治からサイクリングで訪ねたことがあるし、尾道には1991年に泊まりで行ったこともある。

 ところが『放浪記』もあとになるほど読むペースが落ちた。特に第三部は戦後に書かれているのだが、『放浪記』が当たって金回りが良くなり、それまでアナーキズムを信奉していたはずの林芙美子が一転して戦争に協力しまくったあとの戦後に、貧しかった頃を回想して書かれた文章なので、説明調だし作者の押しの強さが文体にどんどん反映されてくるので、第一部の半分くらいのペースまで落ちてしまったのだった。

 ただ、偶然だが貞明皇后林芙美子は同じ1951年に1か月あまりの時を隔てて相次いで心臓病で急死した。二人とも容姿より体力が自慢の人だったが、貞明皇后は66歳、林芙美子は47歳で死んだ。二人とも比類のないパワーの持ち主で、常人にはとても太刀打ちできないと思わされたが、二人ともに戦争にのめり込んだ。貞明皇后の方は定説にはなっていないかもしれないが、原武史の説によれば筧克彦の神ながらの道にのめり込んで「勝ちいくさ」を祈り続け、その逆鱗に触れることを恐れた昭和天皇が戦争を終わらせる決断をするのを遅らせたという。林芙美子内閣情報局の「ペン部隊」として南京(!)や漢口に送り込まれ、朝日新聞毎日新聞に従軍記を書いた。『放浪記』では大杉栄への共感を表明するなどしていたのに、あっという間に「転向」したのだった。

 そして戦後6年、サンフランシスコ条約調印を前にして、2人は相次いで心臓病で世を去った。特に貞明皇后は便所で倒れた(林芙美子は就寝中に発作が起きた)。その貞明皇后の死に言及した原武史の『皇后考』の文章は猛烈に辛辣だ。以下引用する。

 

  皇太后が御東所(便所=引用者註)で倒れたことは公表されなかった。(中略)それは宮中で、御東所が不浄を意味する「次」のなかでも「大次」と呼ばれる最も不浄な場所とされているからであり、皇太后が本来御東所を出てするべき二度の手水もせずに死去したしたことを公表したくなかったからではないか。

 皇太后にとって、大次のまま死去するというのは決してあってはならないことだったに違いない。

 

原武史『皇太后講談社学術文庫2017, 586頁)

  

 これにはさすがの私も「ここまで書くか」一瞬と思ったが、「皇后になる」とはこういう書かれ方をされることも受け入れることなのだろう。かつてサッチャーが死んだ時、イギリスのサッチャー批判派が「さあ地獄が民営化*1されるぞ」と皮肉ったことがあったが、公人の論評はそれでいいんだ、と思い直した。あと、貞明皇后が養蚕業に力を入れた記述を、でも生糸はナイロンなどの合成繊維に駆逐されたんだけどなあ、と思いながら読んでいたら、案の定というべきか原はそれをきっちり指摘していた(前掲書570頁)。ただ著者は、1949年にGHQが押しつけた緊縮財政政策であるドッジ・ラインによる不況を蚕糸業が乗り越えられるとの貞明皇后の予想は「短期的に見れば正し」かった(1950年に「生糸の輸出数量はピークに達した」)とも評価している(同580頁)。このあたりの貞明皇后の能力は、昭和天皇をはるかに凌駕していたように私には思われたが、2人の能力差は、既に引用した文章に書かれた「天皇とは異なり、血脈によって正統性が保たれていない皇后は、人生の途中で皇室に嫁ぎ、さまざまな葛藤を克服して皇后になることが求められる」ことによるのかもしれない。

 それだけに、昭和天皇に戦争継続への強い(無言の)圧力をかけたと原武史が認定する貞明皇后の戦争責任は決して無視できないのではないか。そう思った。

 

 最後に蛇足の蛇足。昨日、城山三郎の下記短篇集を読了した。

 

硫黄島に死す (新潮文庫)

硫黄島に死す (新潮文庫)

 

 

 表題作は硫黄島で戦死した1932年のロサンジェルス五輪馬術大障碍の優勝者・西竹一を描いた短篇で、発表当時たいへんな評判をとったらしいが、私などはこの作品には作者のマッチョ性を感じてあまり共感できなかった。むしろ解説文を書いた元読売新聞記者の高野昭が「少年の目で戦争を見ている」と評した、表題作に続く4篇の方が良く、特に「基地はるかなり」がちょっと松本清張を思わせるシニックな味わいがあって一番印象に残った。今回の旅行では、小倉にある松本清張記念館を訪れたのだった。

*1:民営化は英語ではprivatization(動詞形はprivatize)なのだから、本来は「私営化」と訳すべきであろう。