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古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

「長州がつくった憲法が日本を滅ぼすことになる」 〜 城山三郎『落日燃ゆ』を読む

 城山三郎の『落日燃ゆ』を読んだ。

 

落日燃ゆ (新潮文庫)

落日燃ゆ (新潮文庫)

 

 

 A級戦犯として文官ではただ一人死刑(絞首刑)に処せられた広田弘毅を描いた小説で、城山三郎の代表作とされる。

 まず、小説家が書いたこの手の「小説」を読む場合、作者の歴史観を無批判で受け入れる態度は禁物であって、この作品も例外ではない。このことを強調しておきたい。ああ、城山三郎はこう考えていたんだな、と常に意識して読むことだ。

 また、もう一つ指摘しておきたいことは、この小説が書かれた1970年代前半(単行本初出は1974年)は、私の嫌いな元号でいえば「昭和40年代後半」にあたり、当時は今でいうリベラル派の間にも「平和主義者だった昭和天皇」の刷り込みが強烈に行われていた。この小説にもその悪影響が随所に見られる。ちょうど「平成末期」に当たる現在、「リベラルな天皇陛下」の刷り込みがリベラル派の間に浸透しているのと似たような現象だ。『落日燃ゆ』に出てくる昭和天皇に対する敬語に接する度にさぶいぼが出た(=鳥肌が立った*1)ことは書いておかなければなるまい。

 以上書いたように、現在の目から見ればいろいろ割り引いて評価しなければならないから、たとえば私がアマゾンカスタマーレビューを書くなら星5つはつけられないが、それでも星4つはつけるであろう、興味津々の小説ではあった。

 一番良かったのは、広田弘毅が口癖のようにいっていたという下記の言葉だ。

 

 「長州がつくった憲法が日本を滅ぼすことになる」新潮文庫2009年改版191頁)

 

 「長州がつくった憲法」とはいうまでもなく大日本帝国憲法明治憲法)のことで、統帥権の独立を規定したこの憲法大日本帝国を滅ぼした。この史観は正しい。現在、日本会議に代表される極右勢力がこの史観を覆そうと躍起になっていて、彼らに支えられたあの憎んでも余りある安倍晋三が超長期政権を担っていることを思えば、この言葉をキーワードとしているだけでも『落日燃ゆ』が読まれる価値がある。長州出身にして世襲三世で「右翼趣味」紛々の「貴族政治家」ごときに日本国憲法を改変させてはならない。

 また、いくら作者が昭和天皇に敬語を使おうが、庶民階級出身の広田に昭和天皇が冷たく接した事実は覆い隠せない。ネット検索をかけたら、このあたりに佐高信城山三郎の信奉者の一人と思われる)が触れていたので以下に引用する。

 

有鄰 No.477 P3 座談会:城山三郎—気骨ある文学と人生 (3) - 隔月刊情報紙「有鄰」(2007年8月10日)より

(前略)大岡昇平さんの尽力で広田さんの遺族を取材できたことがものすごく大きいですね。 それまで一切取材には応じていなかった。 広田の長男の弘雄さんと大岡さんが幼なじみで、城山なら信頼できるからと説得してくれて、広田の秘書をやっていた三男の正雄さんも取材できた。

だからあの中ですごいエピソードというか、びっくりするような天皇の話があるんですね。 天皇は広田が首相になったときに「名門をくずすことのないように」と言った。 広田は石屋の伜なんです。 それから海軍と陸軍の今年の予算は大体このぐらいだということを天皇が言ったというのが書いてあるんです。

 

 「名門をくずすことのないように」という昭和天皇の言葉は、私が読んだ新潮文庫の2009年改版による2015年65刷では198頁に出てくる。ここからの数頁はこの小説の中でも特に興味深い。こういうところに、いくら作者が昭和天皇に対して過剰な敬語を使って「昭和天皇=平和主義者」の虚飾を書き立てても糊塗し切れない、昭和天皇差別意識が滲み出ている。

 実際、昭和天皇広田弘毅に対する評価は冷淡そのものだったようで、城山史観に対する批判も込めて書かれたと思われる服部龍二(この人も保守派の学者だが)の『広田弘毅』(中公新書)にも下記の記述があるようだ。

 

blogs.yahoo.co.jp

 「広田の無為無気力」(「宇垣一成日記」)、「あきれるほど無定見、無責任である。…一九三六年のはじめころから、広田は決断力を失ったのではないかと思う」猪木正道この記述に対し、昭和天皇は、「(広田についての記述は)非常に正確である」と中曽根首相に語ったという)、「広田は其名の如くに毅ならず、薄弱なり」(近衛文麿)。本書に引用されている広田評は、「落日燃ゆ」の主人公とはまるで別人だ。
 
(ブログ『風船子、迷想記』2008年10月14日)

 

 なお、私にとっても広田弘毅は印象の強い人ではなかった。たとえば一昨年に読んだ松本清張の『昭和史発掘』でも広田への言及は記憶に残っていない。ネット検索をかけたら下記の清張による広田評がみつかった。

 

www.c20.jp

広田は福岡出身。頭山満玄洋社の流れをくむが、それほど右翼的ではない。 はっきりしない性格だから、軍部もロボットにするつもりで賛成したのだ。 外相としての広田は、実務は次官の重光に任せきりだった。

松本清張『昭和史発掘』第12巻10頁)

 

 上記引用文中に「第12巻」とあるが、全9巻の新装版では第8巻に当たるはずだ(本が手元にないので頁数は不明)。

 『落日燃ゆ』に話を戻すと、小説の終わりの「マンザイ」のくだりが印象的なのだが、これに対しても史実ではなく城山三郎の創作だとの強い批判が作品の初出当時からあったようだ。以下、小谷野敦氏の「はてなダイアリー」の記事から引用する。
 

「漫才」論争の珍 - 猫を償うに猫をもってせよ(2008年9月28日)より

 『小説新潮』九月号に「広田弘毅は『漫才』と言ったのか」という特集記事があった。これは城山三郎『落日燃ゆ』の最後で、A級戦犯らが絞首刑に処せられる前に松井石根らが「天皇陛下万歳」を唱えていると、後から広田が板垣征四郎などと一緒に来て、教誨師花山信勝に「いま、マンザイをやっていたのですか」と訊いたという記述である。花山は始め分からずにいたが、「ああ万歳ですか、それならやりましたよ」と言い、広田は板垣に、あなた、おやりなさい、と言い、板垣と木村が万歳三唱をしたが、広田は加わらなかったというところである。城山はこれを広田の「皮肉」ととらえている。

 この話は、北一輝二・二六事件の後で処刑される際、他の者が「天皇陛下万歳」を唱えていたのに、北は「天皇、マンザイ」と言ったという伝説を想起させる。

 さて、1974年の刊行当時、平川祐弘先生がこれに異を唱えて、花山の『平和の発見』にこの記述はあり、最後に一同で万歳三唱を行ったとあるが、広田が加わらなかったとは書いてなく、「マンザイ」というのは方言に過ぎない、とした。城山はこれに反論して、自分は関係者に取材したのであり、信念は微動だにしない、と答えた。

 この二文は当時『波』に載ったもので、それが再録され、梯久美子の感想文がついている。平川先生は広田の息子の広田弘雄氏にも訊いてみたが、広田が皮肉を言うような人とは思えないが、何分その場にいたわけではないので、と言われた、と書いている。

 しかるに、最後の万歳三唱に加わったかどうか、これは歴然たる物理的事実であって、皮肉かどうかという解釈の問題ではない。さて城山は「花山信勝の観察と記述には、疑問がある」と書いている。(後略)

 

 小説の全篇でももっとも印象的なこの巻末のエピソードも、どうやら眉に唾をつけて読んだ方が良いようだ。こういうことがあるから、最初に書いたように「これは小説家の書いた小説だ」と割り切って読む態度が求められる。

 とはいえ広田の戦争責任が死刑に相当するかは大いに疑問で、有期刑が相当だっただろうことには争う余地がないように思われる。『落日燃ゆ』では広田が死刑を覚悟していたかのように書かれているが、実際には広田自身も有期刑を予期していたらしい。

 小説発表後のことだが、広田は死後30年経って靖国神社に合祀された。このことに対する遺族の反応を、2015年の産経新聞記事から拾っておく。

 

靖国神社を考える(1)「A級戦犯」遺族ら、苦悩と葛藤(3/7ページ) - 産経ニュース

 

 「祖父は、軍人でも戦死したわけでもない。菩提寺(ぼだいじ)で十分だと考えており、合祀してほしくないという気持ちはあります」

 A級戦犯の中で文官として唯一処刑された広田弘毅の孫、弘太郎(77)はこう語る。小学4年生だった23年11月、死刑判決を伝えるラジオ放送に両親は泣いていた。

 「これが最後だ。できるだけ顔や言葉を覚えておきなさい」

 両親に連れられ、刑執行前に祖父と面会した。ガラス越しにかけられた言葉は「体に気をつけて勉強しなさい」だった。

 外交官として生き、激動の時代に首相、外相を務めた祖父。指導者の一人として戦争責任はあると感じているが、それは東京裁判が根拠ではなく、国民への倫理的な責務としてだ。

 今、弘太郎は願う。

 「首相は靖国公式参拝すべきだし、陛下は、行かれずとも御霊(みたま)を追悼しておられると思いたい」

 靖国は、弘太郎にとっても重要な場所だ。

 「国のために尽くした方々に慰霊の誠をささげる場所は靖国しかない。戦没者靖国に祭られることを願って死んだ。この事実は消せない」

 

(産経ニュース 2015年8月16日)

 

 上記産経記事から受ける印象は、下記ブログ記事に引用されている、同じ広田弘太郎氏が2006年にテレビ朝日のインタビューに答えた記事から受ける印象とはずいぶん違うのだが、それがメディアの違いによるのか9年の歳月によるのかその両方なのかはわからない(両方のような気がするが)。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 今回の記事は、あるいは『落日燃ゆ』を読んで感激された方を興醒めさせてしまったかもしれないが、小説には創作の部分がありがちであることを念頭に置きつつ、著者の史観を無批判に受け入れない態度を持ってさえいれば*2、十分に読む価値のある名作だと思う。

*1:この言葉は、現在では肯定的な意味に用いられることが多いらしいが、私の青年時代までには否定的な意味にしか用いられなかった。

*2:たとえば「小沢信者」が小沢一郎の評伝を書いたらどんな中身になるかを想像すれば、私のいいたいことはおわかりいただけるのではないだろうか。