KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

星野智幸『ファンタジスタ』を読む

 星野智幸の中篇集『ファンタジスタ』(集英社文庫2006)を読んだ。集英社文庫版(2006)は、今時の新潮文庫講談社文庫や光文社文庫などと違って文字が小さかったが、大きな文字の版が出ていないのでそれは仕方がない。この中篇集には「砂の惑星」(雑誌初出『すばる』2002年2月号)、「ファンタジスタ」(同『文藝』2002年冬季号)、「ハイウェイ・スター」(同『すばる』2002年12月号)と、2001年から翌年にかけて書かれた3つの作品が雑誌初出順に配列されている。下記のアマゾンのリンクは単行本に張られている。

 

ファンタジスタ

ファンタジスタ

 

 

 星野智幸作品を読むのはこれが3冊目で、いずれも今年に入ってから読んだ。最初が『俺俺』(新潮文庫2013, 単行本初出:新潮社2010)で、次が『目覚めよと人魚は歌う』(新潮文庫2004, 単行本初出:新潮社2000)だった。このうち『俺俺』にはこのブログの下記記事にて少し触れた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 3冊のうち一番読みやすいのは『俺俺』だろう。星野智幸は基本的にエンターテインメント系の書き手ではないので「難解」と評されることもあるが(私が読んだ3冊のうちでは『目覚めよと人魚は歌う』が典型例)、政治的なモチーフが用いられる作品が多いのでなかなか興味深い。今回読んだ中篇集では、表題作の「ファンタジスタ」が特にそうだった。

2作目の題名になっている「ファンタジスタ」という言葉について、以下「はてなキーワード」から引用する。

 

d.hatena.ne.jp

イタリア語の名詞(fantasista)。語源はイタリア語で空想、霊感を意味するファンタジーア(fantasia)。

元々は、ウィットに富みアドリブの効いた即興芸が得意な舞台役者や大道芸人を指す言葉。あるいはファンタジーアを感じさせる者。

転じて、創造性豊かなインスピレーションと並外れたテクニックを持ち、世界のトップレベルにおいても、フィジカルに頼ることなく1つのプレーで局面を変えてしまう優れたサッカー選手を意味する。

戦術主義のアンチテーゼとしての側面も持っている。

世界共通の概念ではなく、国や人によって様々な解釈がある。

 

 そう、「ファンタジスタ」とはサッカー小説なのだ。前記の通り、雑誌初出は河出書房新社の文芸誌である『文藝』の2002年冬季号だが、この号は10月に発売される。つまり、2002年に大きな話題となった日韓共催サッカーワールドカップが終わった4か月後に発表された。

 集英社文庫版の巻末に「批評的な魔術」と題された、いとうせいこう氏の解説文がついているので、まずそこから引用する。

 

(前略)君が代を「棄民が世」と歌わせる『砂の惑星』、カリスマ政治家がアジアを “各民族の共存共栄みたいなAリーグの理念” で覆ってしまおうとする『ファンタジスタ』、“あのお方こそが自然” だと言われる人物が登場する『ハイウェイ・スター』。

 どの作品も「天皇」を見え隠れさせながら進むのだが、その度使われる虚構はひとすじ縄ではいかない。

星野智幸ファンタジスタ集英社文庫2006, p.236-237)

 

 いとう氏はこう書くのだが、「砂の惑星」や「ハイウェイ・スター」はともかく、「ファンタジスタ」を読んだ多くの読者が作中人物の「長田」から第一に連想するのは、天皇ではなく当時の宰相・小泉純一郎(以下「コイズミ」と表記する)だろう。「砂の惑星」の「棄民が世」は強烈だし、『目覚めよと人魚は歌う』にも作中作の人名として「アキヒト」と「ミチコ」が出てくるが、「ファンタジスタ」の長田は誰がどう読んでもコイズミだ。ましてや作品の成立時期(2002年)を念頭に置いて読めば、コイズミを連想しない方が難しいのではないか。その長田が大東亜共栄圏もどきの理想を唱えて「本土決戦」からやり直す、などと物騒なことを言い、それにもかかわらず熱狂的に国民から支持されているという設定になっている。このことは、出版元の集英社のサイトに掲載されている惹句を参照しても明らかだ。

 

books.shueisha.co.jp

 

 そう、この作品で描かれているのは「ファシズムの空気」なのだ。その空気は2002年以上に今の日本を濃厚に覆っている。

 

 もちろん長田はコイズミばりの新自由主義者であり、下記のような強烈な「自己責任論」をぶちかます。以下小説から引用する。

 

 (首相公選での当選を=引用者註)祝福してくださるのはこのうえない幸福ではありますが、本当に満足していただくのは、これから先、厳しい政策を実行し、そこを生き抜いてもらってから、ということになります。(前掲書p.167)

 

 リアルの小泉純一郎は「そこを生き抜いてもらってから」とは決して言わなかったが、コイズミの政策の本音がそこにあったことはいうまでもない。

 もちろん虚構だから、長田とコイズミとの違いは少なくない。何といっても小説では長田は元サッカー選手という設定だ。さらに、驚くべきことに作者は長田(=コイズミ)に対置する人物として、2002年当時にはサッカーファン以外にはその名前が知られていなかったであろう澤穂稀を対置していた。そのことを知ったのは、読後にネット検索をかけた時で、作者・星野智幸自身が女子サッカーW杯に日本が優勝した2011年に書いたブログ記事が検索にヒットしたのだった。以下引用する。

 

http://hoshinot.asablo.jp/blog/2011/07/19/5963157

 女子サッカーを見始めた10年前、強豪国であったのは、王者アメリカ、ドイツ、スウェーデン、カナダ、中国、北朝鮮などであった。この名前を見ていて気づくのは、北方の欧米諸国か、東アジアの社会主義国だということだ。両者に共通するのは、女性の社会進出が相対的に進んでいるという点である。
 女子サッカーの隆盛は、フェミニズムとともにある。女子サッカー文化の発展を牽引しているアメリカは、性差別を超えるプログラムの一環として、女子サッカー教育に力を入れた。その結果、女子サッカーアメリカでは、「女こども」がするスポーツとなった。同様に、フェミニズム先進国であるドイツやスウェーデン、カナダといった北方の欧米諸国で、女性たちが積極的に関わってきた。男女同権が党是である「共産主義国」の中国や北朝鮮では、その国家主義的強化もあって、いち早く強豪化した。そこで隆盛化したのは、力と体格を前面に押し出すパワーサッカーだった。男子サッカーと違って、ヨーロッパにせよアメリカ大陸にせよ、マチスモの色濃いラテン諸国(ブラジルを除く)がいまいち強くないのは、そのような成り立ちも関係している。日本の女子サッカーはまず、身近にいる中国や北朝鮮の打倒を目指して成長し、さらにアメリカやドイツのリーグでプレーすることで成長した。パワーの先進諸国に育てられて、パワーではない新しいあり方を開花させた、妹分なのだ。
 9年前に日本女子の代表をスタジアムに見に行ったとき(ワールドカップ予選のプレーオフ、対メキシコ戦)、そのチームは技術はなかなかだけど、球のスピードも遅いし、走力もないし、ミスも多かった。にもかかわらず、とても胸を打たれて、魅了されてしまったのは、男子サッカーが持たない「熱さ」を持っていたからだ。サッカーをすることの喜びに満ち、その喜びを貪り尽くそうと、ものすごく必死だった。
 今度の優勝を見ればわかるように、今のチームもその延長上にある。熱さと喜びへのかぎりない貪欲さこそが、人々を魅了したのだ。
 そして、ここが重要なのだが、これは男社会に最も欠落しているものだ。女子サッカーは、たんに、男子のしていたサッカーを女性がしているのではない。その文化の根っこに、男社会の持つ無意味さや空虚を否定する要素を持っていて、それが大きな原動力のひとつとなっている。この場合の男社会とは、もう機能しなくなっているのにその権限の保持だけに必死になっている既得権益層(例えば一部の行政機関、政府、行政と結びついた私企業等々)と言い換えてもよい。そしてそれを消極的に無為に受け入れ維持させてしまう、この社会。そういった、日本社会の「現実至上主義」のメンタリティを指す。男子のサッカーはそれに寄り添っているところがある。女子のサッカーはそのアンチテーゼだ。
 私はそのようなものとして、女子サッカーを、ありうべきひとつの未来のイメージとして、楽しみ、考え、見てきた。その象徴にして実像が、澤穂希だ。そうやって、2002年に「ファンタジスタ」という小説も書いた。9.11 後の小泉(首相)的社会に対置させるべき像として、澤を想像した。
 私は現実の日本女子サッカーに、過剰な意味づけをしているとは思う。選手はそんなことまで意識していないし、もっとシンプルに行動している。でも、私が幻想を抱いているわけでもない。女子サッカーという存在は、本当にそのような要素を持っているのだ。
 だから、私はごく少数の人を除いて、今の喜びを共有はしない。少なくとも、女子サッカー文化を知ろうともせずに、数ある「日本代表」のひとつとしてのみ消費して「感動」しようとするような空気に対しては、関係ないねと言いたい。女子サッカーの文化を蹂躙するようなメディアの盛り上がり方には、「おまえら終わってるよ」と言いたい。(だから私自身は「ナデシコ」という名称も使わない。その名称が普及に大きな役割を果たしていると思うし、だから選手も好んで使っていることも承知しているけれど)。
 この優勝の盛り上がりに、女子サッカーがメジャー化するという希望と、何だか水を差したくなる嫌悪と、両方を感じてしまう。被災で弱った社会が、ここから力を受け取るのは素晴らしいと思う。選手たちがその祈りを胸に戦ったことにも間違いなく心を打たれる。一方で、被災や復興を口実に盛り上がるな、と腐したくもなる。作り物のニセの感動物語を真に受けるな、と言いたくもなる。

(『星野智幸 言ってしまえば良かったのに日記』2011年7月19日)

 

 なんと星野智幸は2002年に澤穂稀を小泉純一郎に対置する小説を書いていた。これには驚嘆させられた。澤に当たる作中人物は「ワカノ」という名前だ。もちろん2011年の女子サッカーW杯の結果とそれに伴う「フィーバー」を覚えている私は、澤穂稀らいわゆる「なてしこジャパン」を思い出しはしたが、意図的に「澤をコイズミに対置」していたとまでは思わなかった。

 興味深いのは、長田はリアルの小泉純一郎とは違って結構リベラルだし、サッカーの地位もリアルの日本より高いし、国際政治における日本のあり方もリアルの従米一辺倒とは全然違うことだ。

 例えば、長田は昭和天皇の戦争責任を追及すべきだとの立場をとる。以下再び小説から長田の言葉を引用する。

 

(前略)今後も民主主義で行くことを表明するのなら、昭和天皇の戦争責任について、世界、特に日本の周辺諸国に向け、ぼくたちの考えをきちんと発表すべきでしょう。(前掲書p.170)

 

 また、作中でのサッカーの地位や日米間の距離を表した箇所も引用する。

 

(1970年代前半に)野球が急激に衰退し、サッカーに人気の王座を奪われた。(同p.112)

 

(80年代に入ると)いまこそアメリカ標準から世界標準へ、という国内の気分に合わせるように、日本サッカー協会が日本フットボール協会と名称を変更したのを機に「サッカー」という呼び名は廃れ「フットボール」が一般化。(同p.113)

 

 いかがだろうか。靖国参拝に執着し、政権最後の年となった2006年に「終戦記念日靖国神社参拝」を実行し、訪米してはブッシュの前で恥ずかしい猿踊りをして見せた、従米右翼系新自由主義者だったリアルの小泉純一郎とは違って、長田は「リベラルな新自由主義者」だし、作中に描かれた日本なら孫崎享も「自主独立的」だと絶賛するのではなかろうか。

 リアルのこの国では、コイズミが従米右翼の態度を改めたわけでもないのに、「脱原発」を言い出しただけで、2014年の東京都知事選などでコイズミになびく「リベラル」が続出した。それどころではなく、明らかな極右にして強烈な新自由主義者である小池百合子に対して、2016年の東京都知事選で「宇都宮健児さんが出馬しないのならいっそ小池さんを」などと応援する「共産党信者系」の「左派」が続出し、翌2017年の東京都議選では共産党までもが小池百合子に対する批判を手控えて事実上「都民ファーストの会」を助けたりするなどの惨状を呈した。このように、コイズミや小池百合子にさえ併記で迎合するこの国の「リベラル・左派」の姿を思えば、リアルで「ファンタジスタ」の長田のような人物が現れたら、この国の人たちが「右」も「左」もなく熱狂することはほぼ間違いないと思われる。

 それを批判的に描いたのが「ファンタジスタ」であり、この小説が書かれたのは2002年だった。

 やはり星野智幸とは只者ではない。そう思わせるに十分な中篇集だ。