KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

「真贋の森」〜清張の「美術もの」「学問もの」「復讐もの」の最高傑作

 松本清張という人は、作品の完成度を高めるよりも、書きたいものを書きたいだけ書く営為を続けた人だったように思う。だからその作品は文字通り玉石混淆なのだが、たとえ「石」に該当する作品であっても強い訴求力を持つのが清張作品の魅力の一つだ。

 そして、「玉」に該当する清張作品を読む喜びは何物にも代え難い。光文社文庫版の松本清張短編全集*1を全11巻のうち第10巻まで読んだが、第9巻に収録された「真贋の森」は、読み終えた瞬間「これはいい」と感嘆させられた「玉」の作品だ。 

誤差―松本清張短編全集〈09〉 (光文社文庫)

誤差―松本清張短編全集〈09〉 (光文社文庫)

 

  この短編は、前記光文社文庫版短編全集のほかにも、清張生誕100年の2009年にこの短編を表題作とした中公文庫版が改版されて出ているし、新潮文庫の傑作短編集第2巻にも収録されている。いちばん入手しやすいのは新潮文庫版傑作短編集かもしれない。

 「真贋の森」は清張自身が得意とした美術を題材とした作品であり、アカデミズムの虚飾を告発する作品でもあり、清張が自らの小説世界で十八番とした復讐譚でもある。

 前記3つの系列に属する作品を清張は多く書いているが、「真贋の森」はそのいずれの系列においても最高傑作に位置づけられる作品なのではないか。私はそう思った。

 ネット検索をかけると、同様の感想を持った方がおられたようだ。以下その方が書かれたブログ記事から引用するが、ネタバレ全開なので、未読でかつ作品に興味がおありの方は、以下の引用文やそれに続く私自身のコメントを含め、この記事をこれ以上読まれないことをおすすめする。

(前略)僕が清張の仕事の中で一番評価するのは、実は、普通の小説である。報われない情熱、歪んだ情熱を描かせれば彼の右に出るものはいない。芥川賞受賞作の「或る小倉日記伝」がまさしくそういった小説だった。
 その系列の作品群の中で、最も優れたものが、「真贋の森」であり、同じ文庫に収録されている「装飾評伝」であると僕は思う。

9784041227053 多くの作品が資産家に私蔵され、学術的な研究が進まない日本画の世界で、真贋を良心的に鑑定する学者を師と仰いだ主人公は、所蔵家にとりいって権勢を伸ばした斯界のボスから睨まれ、陽の当たるポストから排除され続ける。彼が、才能を見込んだ田舎の美術教師を浦上玉堂の贋作者に育て上げるという計画に取りかかった時、なじみの古美術商がそれに協力するのはもちろん金目当てだ。
 しかし、彼は最後の最後で、贋作であることを暴露することをもくろんでいる。彼の目的は、鑑定眼を全く持たないにもかかわらずボスに対する阿諛追従と利益供与のみでその後継者となったかつての同窓生を表舞台に引っ張り出し、贋作を見抜けないその無能を暴いて権威を失墜させるところにあった。つまり、贋作者の田舎教師や骨董屋もろともに、自分自身も詐欺未遂で告発される自爆テロなのだった。
 一般に名作と信じられている作品が贋作であることを見抜く才能を持ちながら、誰の利益にもならない計画を周到に進めていくその情熱の歪み方が清張文学の真骨頂。

 一方、「装飾評伝」は洋画の世界を描く。天才画家ともてはやされながら晩年は身を持ち崩し、冬の日本海岸で自殺同様に断崖から転落死した名和薛治。その名和に興味を持った語り手は、「名和薛治伝」の筆者である芦野信弘の遺族を訪ねる。けんもほろろに取材を断った芦名の娘が、名和薛治の肖像とよく似ていることをヒントに、語り手は名和と芦野との関係を読み解いていく。それは、名和の才能に圧倒され、妻を奪われた芦野が、名和の面影の明らかな娘を抱いて足繁く名和のもとを訪れ、精神的に追い詰めていくという無言の復讐劇だった。

 こういったネガティブな情熱の描き方は、家が貧しいために尋常高等小学校卒業という学歴しか得ることができなかった清張自身の不遇感に根ざすものなのだろう。歴史を扱った作品にも、アカデミズムに対する反発が色濃く滲んでいる。自分は独学ながら歴史や美術を語らせても一流だ、そこらの学者風情に負けるものかという肩肘張ったところが行間に仄見える。
 その自負は、膨大な著作群として結実し、作家としての成功にも結びついた。しかし、その膨大な著作群のうち、この「真贋の森」や「装飾評伝」に匹敵する作品がどれほどあるだろうか。ほんとうは、そこまで手を拡げずに自分の世界を掘り下げ、「真贋の森」レベルの作品をもう少し残して欲しかったというのが、僕の叶わぬ思いである。

(『弁護士Kの極私的文学館』2011年12月4日付記事「真贋の森」より)

  引用文の後半に言及されている「装飾評伝」も、「真贋の森」と同じく光文社文庫版松本清張短編全集第9巻に収録されている。この第9巻とそれに続く第10巻には、清張が『点と線』の成功をきっかけに長編を量産し始めた頃の短編が主に収められており、美術ものが増えて歴史小説が激減するなど、第8巻までとは趣がやや異なっている。

 「装飾評伝」に出てくる名和薛治(なわ・せつじ)は架空の画家だが、清張はこの作品について、光文社文庫版短編全集第9巻のあとがきに、下記の文章を書いている。

 (前略)発表当時、モデルは岸田劉生ではないかと言われたが、劉生がモデルではないにしても、それらしい性格は取り入れてある。もっとも、劉生らしきもののみならずいろいろな人を入れ混ぜてあるから、モデルうんぬんはいささか当惑する。

 副次的なテーマとしては、強力な才能を持った芸術家の周囲に集まる弟子が、大成しないという点にある。たとえば、劉生の周りに多くの若手画家が集まったが、彼らは、ある程度までは行っても、決して劉生を乗り越えることはできなかった。劉生の幅の広い画業は、これらの知人または弟子たちによって細分化され、受けつがれたが、結局、劉生の亜流に終わっている。彼らは劉生の一部分をとって自己を完成させた。

 そのほか、劉生のために圧倒されて才能を涸らした人も少なくはない。いま、ジャガイモやカブなど野菜をしきりに描いている文人がいるが、あれなども劉生が日本画でさんざん手がけたものの影響にすぎない。これはひとり画壇だけでなく、他についても似たようなことがいえる。いわゆる大物の下に集まった芸術家で、御大以上になれた人が果たして何人あったろうか。

(光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)307-308頁)

  「ジャガイモやカブなど野菜をしきりに描いている文人」って誰のことなんだろう。そう思ったので少し長めに引用した。

 「真贋の森」では、小説中の下記の一節が特に印象に残った。以下引用する。

(前略)西洋美術史の材料はほとんど開放されて出つくしているといってもよい。欧米の広い全地域にわたる博物館や美術館の陳列品を観れば、西洋美術史の材料の大部分が収集されていて、研究家や鑑賞者は誰でも見ることができる。古美術が民主化されている。だが、日本ではそうはいかないのだ。所蔵家は奥深く匿しこんで、他見を許すことにきわめて吝嗇であるから、何がどこにあるのか判然としない。それに美術品が投機の対象になっているので、戦後の変動期に旧貴族や旧財閥から流れた物でも、新興財閥の間をつねに泳いでいるから、たとえ文部省あたりが古美術品の目録*2を作成しようと思っても困難であろう。そのうえ、誰も知らない所に、誰も知らない品が、現存の三分の二ぐらいは死蔵されて眠っていると推定できる。その盲点がおれの企みの出発点だったのだ。(後略)

松本清張「真贋の森」より 〜 光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)263頁)

  「真贋の森」は今から60年前の1958年の作品だが、ここに書かれているような事情は今ではどうなっているのだろうかとまず思った。

 さらに連想したのは、同じような問題を現在も抱えている学問の分野は、何も日本美術史に限らず他にもあるということだ。天皇家をめぐる研究がそれだ。

 清張とアカデミズムの関係といえば、清張の『昭和史発掘』を加藤陽子が文春文庫新装版最終巻(第9巻)巻末に解説文を書いていることからもわかる通り、専門の学者にも高い評価を与えてる人たちがいる。何もリベラルや左翼の学者ではなく、むしろ加藤陽子のような保守的な学者にそのような傾向が見られるように思われる。左翼の学者など、その教条主義によって清張作品の評価などとんでもない、という空気があるのではなかろうかと邪推したくもなる。

 ここで言及するのは原武史だが、原は日本政治思想史、近現代の天皇・皇室・神道の研究を専門とする政治学者とのことだ。研究内容からいっても左翼ではあり得ない。その原が専門とする天皇や皇室は、天皇や皇后をはじめとする皇族の発言が原則として公開されない閉鎖的な世界だ。天皇制はこうした非公開の原則によって守られている。しかし、皇族といえど人間なのだから、皇室内にはドロドロした人間関係が渦巻いている。家庭(皇室)内での権力構造も、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と憲法で定められた戦前であっても、実際には権力を持たないはずの皇后が強い影響力を行使していたのではないかと原は言うのだが、その原の研究は、清張的な手法をアカデミズムの世界に導入しようとしたものではないかと私には思われる。

 当然ながら、原武史は旧来のアカデミシャンたちから強い批判を浴びている。たとえば、原の著書『昭和天皇』についたアマゾンカスタマーレビューには、下記の批判的レビューが寄せられている。

2018年3月22日
 
日本中世史とは言え実証史学を学んできた(修士ですが)人間としてこれはあり得ない。
昭和天皇は国民より神(歴代天皇)が大切であるという結論ありきでそれにあわせて史料を切り貼りしている。その切り貼り自体がそもそもどうとでもとれる事を自分の都合にあわせて解釈しているだけだだ。独白録の史料批判はできているのに他の引用書物は都合よく無条件に使い、解釈がどうとでもできる史料も他のもので実証する気もない。証明する気も無いから、思われるを連発。
そもそも天皇が代々祭祀を行い国の安寧を祈っていることなんて当たり前のことである。新嘗祭がいつから行われているのかこの人は調べていないのかな?
国体の護持が日本を日本として護ることだと天皇が考えていらした、それがいけないことなの?国を護る為に、連綿と国を護ってきた自分の宗祖に祈りを捧げる事が責められるべき事なの?
日本は摂関政治から武家政権でさえも天皇にその職を任じられて政治を行ってきた。天皇が一番の権威として存在していた。それが日本の在り方なんだから、もし天皇が日本を護る事が天皇制を維持することであると考えていたとしても否定する気にはなれない。
明治天皇昭和天皇を考える時やはり明治以降ではなく連綿と続いてきた日本の国体ってものを考えなければならないと思う。
話が逸れてしまいましたが、半藤氏もだけど、できる限り思想的バイアスを取り除いて書いて下さい。小説やエッセイレベルだと感じました。
やはり専門書を読んできちんと勉強しようと思いました。そういう意味では良い本だった?

  こういうことを書く人が考える(信じている)「専門性」とはいったい何なのだろうかと思わずにはいられない。事実よりもまずイデオロギーありきの思い込みで、天皇に対して敬語を用いながら文章を書いている。これが「実証史学」の学徒だった人間が書く文章なのかとあっけにとられるほかない。

 「半藤氏もだけど、できる限り思想的バイアスを取り除いて書いて下さい」などと、保守の半藤一利に右から注文をつけるレビュー主は、国粋右翼的史観に凝り固まってしか物事を考えられない人間でしかない。それを露呈したのが「明治天皇昭和天皇を考える時やはり明治以降ではなく連綿と続いてきた日本の国体ってものを考えなければならないと思う」などというふざけた文章だ。レビューの書き始めで「実証史学」の立場から「あり得ない」として原武史の著書を批判しようとしていたはずのレビュー主が、自らの極右イデオロギーを叫ぶだけの文章を恥ずかしげもなく開陳している。

 たかが修士レベルの「実証史学」を学んだつもりでいるだけの人間と言ってしまえばそれまでだが、教授などのレベルも似たり寄ったりなのではないかと思えてならないのである。

 だいぶ脱線してしまったが、清張の「真贋の森」を出発点に、こんなところまで来てしまった。それくらいの深さと広がりを持った作品だと思う。

 また、復讐譚としても「真贋の森」はよくできている。前回取り上げた『霧の旗』とは雲泥の差だ。『霧の旗』は、正直言って読む前から後味の悪い結末が待ち構えているだろうと予想していたら、実際その通りの結末だった。『霧の旗』の主人公・桐子に思いっ切り感情移入して桐子を正当化した解説文を新潮文庫版に書いた尾崎秀樹*3が、桐子を連想させる「誤った復讐劇」を自らの実人生で演じ、ついに自ら犯した誤りを認めることなく死ぬという「事実は小説よりも奇なり」を地で行く人生を送った「歴史の皮肉」まで看て取ることができる。

 それに対し、最初から「自爆テロ」のつもりでアカデミズムの虚飾を暴こうとして、大学教授たちの追い落としには失敗したものの実力では自らが上であることを示せたことに満足し、企みの露見を招いた贋作家の田舎教師を許し、離れていった愛人を再び追い求める人生に戻る結末は実に良い。あまりに印象的だったので以下に引用する。

 おれは酒匂鳳岳を責めることはできない。おれだって自己の存在を認めてもらいたかった男である。

 おれの“事業”は不幸な、思わぬつまずきに、急激な傾斜のしかたで崩壊した。しかし、おれは何もしなかった、という気は決してしないのである。

 どこかに、あることを完成した小さな充実感があった。気づくとそれは、酒匂鳳岳という贋作家の培養を見事に遂げたことだった。

 まもなくおれは女との間に発酵した陰湿な温もりを恋い、白髪まじりの頭を立てて、民子を捜しに町を歩いた。

松本清張「真贋の森」より 〜 光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)279頁)

  なお、「真贋の森」にはヒントとなった実際の事件があったようだ。清張自身が書いたあとがきから再び引用する。

 「真贋の森」は、ヒントを取った実際の事件がないでもない。美術界に少し詳しい人なら、誰でもあの事件かと合点するだろう。しかし、この創作は全く私のものである。

(光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)309頁)

  「ヒントを取った実際の事件」とは、「永仁の壺」事件と呼ばれた事件だったとするブログ記事がある。下記ブログ記事だ。

sanjyoumaki.blog.fc2.com

 「永仁の壺」事件については、同じブログの別の記事もある。「永仁の壺」事件を取り上げた新書本のレビューとして書かれている。

sanjyoumaki.blog.fc2.com

 上記2件のブログ記事はとても興味深い。

 しかし、「永仁の壺」事件が「真贋の森」のヒントだったとする説には、辻褄の合わないことが一つある。それはこの記事を書きながら気づいたことだ。

 それは、「永仁の壺」事件が騒がれたのが1959年から61年にかけてであるらしいのに対し、「真贋の森」は『別冊文藝春秋』の1958年6月号に発表されていることだ。
 つまり、時系列的に言って「永仁の壺」事件は「真贋の森」のヒントになった事件ではあり得ない。むしろ、「真贋の森」が書かれたあと、小説との類似を感じさせる現実の事件が発覚したことになる。
 してみると、「真贋の森」のヒントとなった実際の事件は別に存在することになる。新たな謎解きが求められると思ってしまった。
 
 以上、ここまでで長くなったが短編全集の第10巻にも触れる。ここからも長い。
空白の意匠―松本清張短編全集〈10〉 (光文社文庫)

空白の意匠―松本清張短編全集〈10〉 (光文社文庫)

 

  表題作の「空白の意匠」は、上にリンクを張ったブログ『第二級活字中毒者の遊読記』に書かれている通り、「ラストの一行でガラリと風景が変わる逸品」だ。

 私は時々清張作品の最後の頁を読む時、最後の一行を先に見てしまうことがあるのだが、この短編に限っては、最後の最後に仕掛がありそうだと思って最後の一行に意識的に目がいかないように読んだ。そしてそれは大正解だった。

 この小説を読んだ直後に接した『広島瀬戸内新聞ニュース』の下記記事と、小説のエンディングがシンクロしたことを書いておく。もちろん事件の構図は全然違うのだが、組織にありがちな決着のつけ方が相通じるのだ。

hiroseto.exblog.jp

 「各省庁の高級官僚はこの場合、各部署の部長くらいだろうか」という一文がミソ。「空白の意匠」は地方新聞社の広告部長の物語なのだ。そして官邸や自民党の狙う結末とは……(以下略)

 

 また同じ第10巻収録の「駅路」は1977年に向田邦子が原作の設定を大胆に変えてテレビドラマ化したことがある。私は清張生誕100年の2009年に新潮社から刊行された下記の本を、短編集を読む前に読んだことがあった。

駅路 最後の自画像

駅路 最後の自画像

 

  だから気づいたのだが、「駅路」に出てくる「呼野刑事」は「よびの」ではなく「よぶの」と読ませるはずだ。向田邦子のドラマでも、「よびの」ではなく「よぶの」と読むことに関連する科白が出てくる。「呼野」と書いて「よぶの」と読む地名が福岡県にあるようだから、清張の知人にそういう姓の人がいたのかもしれない。

 しかし、光文社文庫版第10巻の150頁には「よびの」とのルビが振られている。これは新潮社版とは異なるはずで、おそらく(というかほぼ間違いなく)新潮社版の方が著者の意図に沿っている*4

 そういえば光文社文庫版には、前にも人名の読みで首を傾げるものがあった。それは「香春」姓であって、やはり福岡に「香春」と書いて「かわら」と読む姓がある。この姓の刑事が清張作品の『渡された場面』に出てくる。

渡された場面 (新潮文庫)

渡された場面 (新潮文庫)

 

  この新潮文庫版には「香春」は「かわら」とルビが振られている。香春刑事は四国の県警捜査一課長という役柄だが、以前私が四国(香川県)に7年間住んでいた時、香川さんという姓の人はたくさんいたけれども香春さんになど出会ったことは一度もなかったので、いったいどこの姓なんだよと思ってネット検索をかけたら、福岡に多い姓だと知ったのだった。

 しかし、光文社文庫版短編全集に収録された、もちろん長編『渡された場面』とは別の清張作品に出てきた「香春」には「かはる」とルビが振られていた。もしかしたらこれも、清張は「かわら」と読ませようとしていたのを光文社の編集部が勝手に「かはる」というルビを振ってしまったのではないかと思い当たった。なお実際には香春と書く姓には「かわら」と「かはる」の二通りがあるそうだ。蛇足ながら、不思議なのは「原」を「はる(ばる)」と読ませる九州人が、「春」を「はら」と読ませていることだ。文字通りの「かはる」(変わる)読みといえようか。それはともかく、光文社の編集部の注意力は新潮社には及ばないように思われるのが残念なところだ。

 

 やはり第10巻収録の「剥製」は没落した美術評論家の話。「二十年前」、つまり小説が書かれたのが1950年代であることを考えると戦前の1930年代に当たるが、その頃が前世紀だった美術評論家の「R氏」を、清張は下記のごとく描写している。

(前略)R氏のは美術評論が多かったが、それで純粋の美術評論家と呼ぶわけにもいかなかった。文学にも、社会的な時の現象にも、思想や政治にもその評論はわたっていた。評判をとった美術評論を基点として、左右に大きくその分野をひろげた風格であったが、そのためか、R氏の美術評論は専門化することなく、またほかの分野でも、それを専門とするまでにはいたらなかった。要するに、R氏の評論は芸術一般に及んでいたけれど、専門というものがなく、その広範なために、かえって名声だけはポピュラーにひろがっていた。

松本清張「剥製」より 〜 光文社文庫版『松本清張短編全集』第10巻(2009)134頁)

  私がこの文章を読んで直ちに連想したのは、美術評論家ならぬ音楽評論家の吉田秀和(1913-2012)だった。清張が描写したR氏の風貌も、吉田秀和を連想させるものだった。その吉田秀和は、なんと美術評論もお手のものだったのだ。

 ただ、「剥製」のR氏のモデルが吉田秀和では絶対にあり得ない。それは前記「真贋の森」のヒントとなった事件と同じく、時系列的な理由からだ。

 吉田秀和が、R氏のような評論を、「音楽展望」という題で朝日新聞に載せるようになったのは1971年、58歳の頃だ。「剥製」は『中央公論』が1959年1月に出した「文芸特集号」に掲載されたから、それよりも12年後に清張の古巣・朝日新聞で月評を始めた。吉田秀和が権威として仰がれるようになったのはこの頃以降だろう。清張が「剥製」を書いた頃の吉田は、先鋭的な現代音楽の推進者だった。当時の吉田は、R氏よりもむしろ『砂の器』に出てくる現代音楽作曲家・和賀英良(そのモデルは黛敏郎とも武満徹ともいわれる)の仲間だった評論家・関川重雄のような位置づけの人だった。

 「剥製」に清張は書く。前記引用文のすぐあとに続く文章だ。

 だが、R氏の評論は、ここ七八年は、まったく雑誌などで見られなくなった。戦後、ことに進歩した美術批評は、近代方法化し、学術化して、R氏のように、文人的な印象批判の仕方では古臭くなった。続々と先鋭な新人が出てくると、古いR氏の評論も後退せざるをえなくなったのである。本命のような美術評論が色あせてくると、それゆえに、ほかにひろがっていた氏のさまざまな分野も衰退した。R氏は高名だが、すでに第一線の活動面からは去っていた。時折り、短い、随筆ふうな文章があまりぱっとしない雑誌に出るくらいなものだった。

松本清張「剥製」より 〜 光文社文庫版『松本清張短編全集』第10巻(2009)134-135頁)

  吉田秀和の音楽評論は、その大半が「文人的な印象批判の仕方」によるものだったが、理論武装した先鋭的な若手の音楽評論に駆逐されることは、2012年に98歳で亡くなるまでなかった。それどころか、音楽評論の世界では、故宇野功芳(1930-2016)のような、野蛮な印象批評家が毒舌を振り回して大向こうをうならせるありさまだった。宇野の父は漫談家牧野周一だった。また宇野は政治思想的には極右であり、そのことによっても私は宇野が大嫌いだった。宇野功芳こそ音楽評論会の癌だったと今でも思っている。そういえば宇野は、現代音楽作曲家の諸井誠(1931-2013)とは犬猿の仲で、諸井はよくレコードの月評で宇野を揶揄する文章を書いていた。なお私が音楽論で一番好きだったのは、現代音楽作曲家の柴田南雄(1916-1996)だったが、この人は理論より直観力に優れた人だった。芸術には、ゴリゴリの理論一点張りでは突破できない何かがあるのだと思う。柴田南雄は理系の学者一家に生まれ、父の柴田雄二(1882-1980)は吉田秀和と同じ98歳まで生きた。当然柴田南雄も長生きすると思っていたから、79歳の「早い死」に衝撃を受けたのを覚えている。1996年には武満徹遠藤周作藤子・F・不二雄など、その作品世界に接した人が多く亡くなった(司馬遼太郎も死んだが、その時点で私は司馬作品を一作も読んだことがなかった。その後も『竜馬がゆく』を読んだだけだ)。

 ところで吉田秀和の話に戻ると、吉田は画家の東郷青児(1897-1978)が亡くなった翌年に、東郷をこき下ろした文章を書いたことがある。随筆集『響きと鏡』に収録されている。

響きと鏡 (中公文庫)

響きと鏡 (中公文庫)

 

  これについて以前『kojitakenの日記』に書いた文章を以下に再掲する。

d.hatena.ne.jp

(前略)四半世紀ぶりに吉田秀和の『響きの鏡』のページをめくっていて、当時はわからなかったことが一つネット検索でわかった。それは「有名な人」というエッセイで、日本では「有名」という言葉は良い意味で用いられるが、ドイツ人に向かってある学者のことを「あの人は有名な人です」と言ったところ、うさんくさい人間なのではないかと疑われたという書き出しで始まる。そのあとに、「去年、ある画家が死んだ」*5という話になり、吉田氏がエッセイを書いた前年に死んだ画家の悪口が始まるのだが、若い頃にフランスに留学し、晩年に「桃色と白と青を主調とする甘美な美人画のポスター」によって「無数の人たちになじまれていた」という画家の実名を吉田氏が書かないものだから、初めて読んだ時には誰のことかわからなかったのだ。

 読み返して、これは藤田なんとかという人のことではないか思ってネット検索をかけたが違った。藤田嗣治は戦前からパリで活躍し、「独自の『乳白色の肌』とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた」とのことだが、1968年に亡くなっていた。エッセイが1977~79年に書かれていることから、1976~78年に死んだ有名人の画家をネット検索して、ようやくその名前がわかった。東郷青児(1897-1978)であった。Wikipediaには

夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。

独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。

と書かれている。吉田氏が「画壇の一方の首領としても有名な人だった」と揶揄していることとぴったり符合する。要するに、東郷青児は有名な画家だったけれども芸術的価値の高い絵は描き残さなかったと吉田氏は言いたかったわけだ(笑)。

 ネット時代には、著者が匿名で書いた人物の実名を暴くという、昔はできなかったことができるメリットもあることを改めて感じた。

  吉田秀和の書いた、東郷青児を皮肉る文章の筆致は痛快そのものだった。インテリの代名詞みたいな吉田秀和と、叩き上げの作家・松本清張が、こと美術に関しては「反権威」の視点が共通しているところが面白い。

 そんな視点があったからこそ、吉田秀和は死ぬまで「最後の印象批評家」でいられたのかもしれない。

 長い長い記事は、これでやっと終わり。拙文に最後までお付き合いしていただけた読者の方が果たしておられるかわかりませんが、もしおられたら厚くお礼申し上げます。

*1:毎回断り書きを書く通り、「全集」と銘打たれているが、実際には1962年までの清張の短編から清張自身が選んだ85編を全11巻に収めた選集だ。

*2:「目録」には「リスト」とのルビが振られている=引用者註。

*3:尾崎秀樹(おざき・ほつき、1928-1999)は文芸評論家で、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実(ほつみ)の異母弟。

*4:ただ、ネット検索をかけたところ、実在の「呼野」さんは、「よびの」または「うんの」と読む人が多いようだ。「よぶの」さんの実在は確認できなかった。

*5:中公文庫版124頁