KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張の快作ミステリー「顔」- 鉄道の旅と「いもぼう」と「唇の厚い男」と

 相変わらず松本清張にはまり続けている。2015年末頃からは「清張作品を読めるだけ読んでやろう」と思っており、上下巻を2冊に数える数え方で言えば、読んだ清張作品は既に100冊を超えた。少し前に清張処女作の「西郷札」を読んだが、今は清張絶筆となった未完の長編『神々の乱心』(文春文庫)を読んでいる。まだ4分の1くらいまでしか読み進んでいないが。

 先週の日曜日、馬鹿陽気だった3月4日には、青春18きっぷで乗ったJRの普通列車の車内で、光文社文庫版の『松本清張短編全集』第5巻を読んでいた。

声―松本清張短編全集〈05〉 (光文社文庫)

声―松本清張短編全集〈05〉 (光文社文庫)

 

  前回の記事にも書いたが、全集とは銘打たれているものの実際には1962年までに発表された短編の著者自身による「選集」だ。第5巻には1954〜56年の作品*1が収められている。この第5巻は、冒頭に置かれた「声」と次の「顔」がミステリー作品であり、巻中面白いのもこの2作だ。「声」が聴覚の記憶、「顔」が視覚の記憶が犯罪を暴くという対比が面白い。また、両作とも鉄道が大きな役割を担う。「声」に出てくるのは東京都内の路線だが、「顔」は山陰本線山陽本線を使った長旅が出てくる。清張は自選の短編選集にこの2作を並べた。2作を比較すると、「声」も良いが「顔」は明らかにその上を行く。ことに幕切れが痛快だ。清張のミステリー短編の中でも屈指の快作といえるのではないか。

 「顔」は、『松本清張傑作選 時刻表を殺意が走る 原武史オリジナルセレクション』(新潮文庫, 2013)にも収められている。

  私は原武史*2に限らず著名人が選んだ清張作品の「選集」は1冊も読んだことがないが、光文社文庫版の短編全集第5巻を読んだあと、図書館で上記原氏による選集を手にとって、「顔」に関する氏の解説を読んでみた。なかなか面白い指摘があったので、それを引用したサイトをネット検索で探したら、2013年5月13日付の朝日新聞に載った尾関章氏の書評がみつかった。以下の引用文にはネタバレが含まれるので、未読で「顔」を読みたいと思われる方は読まれない方が賢明かもしれない。

 

book.asahi.com

(前略)「顔」は、主人公の若手新劇俳優、井野良吉の日記をたどるかたちで始まる。ある日、劇団に大物映画監督から「達者」な役者を数人出してほしいと打診があったという話を耳にする。意外なことに、自分に劇団のマネージャーから声がかかる。舞台を観ていた監督が指名してきたという。「数カットしか出ない傍役(わきやく)だがね。ぜひ君にもという話なのだ」

 井野にとっては、うれしい話だった。だが「同時にある冷たい不安が胸を翳(かげ)った」。怖気づいたわけではない。「ぼくの不安は、もっと別なものなのだ。もっと破滅的なことなのである」。映画は舞台と違って「全国の無限の観客層が相手」で「誰が観るかわからない」(「誰が……」に傍点)。ここで読者は、この小説の鍵は「顔」をだれかに見られることにあるらしい、と気づく。

 封切りから2カ月近くたって、日記に「彼は観なかったのかもしれない。今だに何事もない」と書く。「ないのが当然であろう」。何かが起こるとしたら、それは「一万分の一か、十万分の一かの偶然」だからだ。

 この映画出演は、新聞でも「井野良吉が印象的。どこかニヒルな感じのする風貌(ふうぼう)がよい」と好評だった。気をよくした監督が、今度はもっと大きな役をもってくる。出番がふえて有名になる。有名になればもっと映画に出るようになる。「あの男にぼくの顔が見られる可能性は、うんと強くなって、十分の一くらいな確率になろう。そうなれば、もはや、偶然性ではなく、必然性である」

 「あの男」――石岡貞三郎を知ったのは9年前。「昭和二十二年の六月十八日の午前十一時二十分ごろから二十分間、山陰線京都行上りの汽車の中であった。島根県の海岸沿い、周布(すふ)という小駅から浜田駅に到着するまでの間であったと思う」。

 井野の隣には、そのころつきあっていた北九州八幡の大衆酒場の「女給」ミヤ子がいた。身ごもっていて産む気でいる。「ぼくはミヤ子から一日でも早く逃がれたかった」。そこで、ある企みをもって温泉に誘ったのだ。ところがミヤ子は、込みあう車内で店の常連客を見つけ、声をかけてしまう。「あら、石岡さんじゃない?」。男は井野に目をやる。「ぼくは窓の方を向いて知らぬ顔をして煙草をくわえていた」(この箇所、傍点)

 詳しくは書かないが、井野は計画を実行した。気がかりは、あの20分間だ。「あの男はぼくの顔をじろじろと見ていた」「必ず見忘れはしないであろう」「自分も、あの男の、眼のぎょろりとした唇の厚い顔を覚えてしまった」。東京に来ても興信所に頼んで石岡の身辺情報を集め続ける。そして二つめの映画出演の声がかかって、不安の根を絶つことを思い立ち、別人の名を騙って彼を京都に呼びだすのである――。

 この小説には石岡の独白部分もあり、話を別の視点からたどり直している。石岡が八幡に戻って酒場をのぞくと、ミヤ子は行方不明だ。山陰線で男と一緒にいるところを見たと言うと、女たちから「どんな顔をしてた? ハンサム?」と質問攻めに遭う。「おれは困った。おれはその男の顔を見たつもりだが、よく憶えていないのだ」(「よく」以降に傍点)。丸顔か色白か眼鏡をしていたか。何を聞かれてもさっぱりだ。

 ここにも、幼少の僕と子役タレントのような非対称がある。石岡は井野にとって忘れてはならない人物だ。一方、井野はたとえ「ニヒルな感じのする風貌」でも、石岡にとってどうということのない存在だった。だから印象に残らない。だが、油断は禁物だ。記憶の奥底のことまではわからない。

 石岡は警察に相談して、刑事とともに京都に向かう。夜汽車だった。朝になり、「洗面具をもって顔を洗いに行き、座席に帰ってくると、窓はいよいよ明るい」。夜行に洗面具は必携だったなあ、と思わせる場面だ。窓の外を松林が流れ、海の向こうに淡路島がある。その景色を刑事が眺めている。「おれは、それを見て、ふと、こんな場面をどこかで見たなという気がした」

 これは、一つの伏線だった。巻末の「窓外をあかずに眺めていた人物」という一文で、原武史山陽本線の明石から須磨にかけての海岸沿いの風景と、山陰本線の周布から浜田にかけての海岸沿いの風景は、列車の窓から見たときにとてもよく似ている」と書いている。どちらも内陸から海辺に出たところだという。こんな読み解きこそ、原コレクションの醍醐味だろう。

(「尾関章の本棚 文理悠々『清張×原武史=鉄道の妙という話』」(BOOK asahi.com 2013年5月13日)より)

  「山陽本線の明石から須磨にかけての海岸沿いの風景」は、2000年代の大半を中四国(最初の3年が岡山県、あとの7年が香川県)で過ごした私の「青春18きっぷ」の定番コースだった、姫路や相生、播州赤穂などから大阪・神戸方面行きの新快速の車内で数え切れないくらい見た*3

 「山陰本線の周布から浜田にかけての海岸沿いの風景」がそれに似ているという。私は10年間の中国・四国地方在住時代に、中四国9県のうち、なぜか島根県にだけは足を踏み入れていないので*4、周布や浜田を山陰本線で通過したのは、1986年3月に山陰旅行をした時のただ一度だけだ。島根県は清張作品によく出てくるし、『砂の器』の亀嵩(かめだけ)など訪れてみたい地もあるが、残念ながら中四国在住時代には清張作品を知らなかった。

 あと、「顔」で特記しておきたいことが2つある。1つは、以前に下記記事で取り上げた「いもぼう」という京都・円山公園内にある平野屋本家の名物料理(海老芋と里芋の一種と棒鱈を炊き合わせた料理)が出てくることだ。

kj-books-and-music.hatenablog.com

 「いもぼう」が登場する清張作品は3作ある*5。長編『球形の荒野』と『混声の森』、それに今回取り上げた「顔」だ。この3作の中でもっとも印象的な場面に「いもぼう」が出てくるのが「顔」なのだ。物語の「起承転結」の「転」に当たる場面で効果的に用いられている。

 もう1点は、「顔」で殺人犯・井野良吉が被害者と山陰本線の列車内での同行を目撃した石岡貞三郎の容貌が「唇が厚くて眼のぎょろりとした男」(光文社文庫版97頁)と描写されていることだ。「唇の厚い男」とは松本清張自身ではないか。そういえば清張は自作がテレビドラマ化された時にチョイ役で出演するのが好きだったそうだが、それを文章でやるのも好きだった。というのは、清張作品には「唇の厚い男」が実によく出てくるのだ。

 「顔」という、映画俳優が犯人である上、車内の乗客や風景などが大きな役割を担うきわめて視覚的な小説において、チョイ役ではなく犯人と被害者の同行の目撃者という重要な役柄の人物に「唇の厚い男」を当てた清張の稚気愛すべし、と大いにウケた次第。

 光文社文庫版松本清張短編全集は、第5巻に続いて第8巻を読んだ(これまでに第1〜5巻と第8巻を読了した)。 

遠くからの声―松本清張短編全集〈08〉 (光文社文庫)

遠くからの声―松本清張短編全集〈08〉 (光文社文庫)

 

  この第8巻には、2作続けて「唇の厚い」男が出てくる*6。ミステリーの傑作「一年半待て」の岡島久男と、時代小説集『小説日本藝譚』(新潮文庫)収録作として以前一度読んだことのある「写楽」の蔦屋重三郎だ。前者は小説の最後に出てきて裁判を微罪で切り抜けた殺人犯の犯意を暴く役柄だが、「太い眉と高い鼻と厚い唇は精力的な感じ」(光文社文庫版173頁)とあるので、失礼ながらあまり清張の印象とは合わない。しかし、「写楽」には「写楽の浮かない顔を見ると、重三郎はまた厚い唇を動かした。」(同216頁)とあり、この文章を読んだ時に、蔦屋重三郎役を演じる清張の姿を思い浮かべてニヤリとしてしまった。

 思い出せば、ルサンチマンの塊みたいな登場人物に「唇の厚い」男がいたような気もする。「清張作品における『唇の厚い男』」を調べてみるのも一興かと思った。

 もっとも、清張作品は文庫本で100冊読んでもまだ半分以上ありそうなくらい多いので、全作品から「唇の厚い男」を抽出する作業は並大抵ではなさそうだが(笑)。

*1:第5巻で一番古い「恋情」は『小説公園』1955年1月号発表だが、1月号の常で1954年末に発売されている。

*2:私が現在『神々の乱心』を読んでいるのは、この小説を論じた原武史氏の本(2009年に文春新書から出ていた)が文春文庫入りしたのを買ったことがきっかけだ。作品の原典を読まずに作品論を読む意味はないので、原作を読み始めた次第。

*3:東京に移住してからは春(3〜4月)にしか「青春18きっぷ」を使っていないが、中四国在住時代には夏(7〜9月)にも冬(12〜1月)にも使っていた。なお、「顔」を読んだ時に私が乗っていたのは、海岸沿いではなく、小山(栃木県)から友部(茨城県)まで走り、右手に筑波山が見える水戸線の列車だった。

*4:山口県も九州に行く時に通過しただけで降り立ってはいないが、島根県には通過もしていない。鳥取県の米子には何度か行ったが。

*5:この記事を書き上げたあと、清張の絶筆の長編『神々の乱心』を読んでいたら、文春文庫版上巻232頁に、「おや、奥さまは京のお方、生憎、芋ぼうやおかゆさんがなくて申し訳ありません。」という科白が出てきた。固有名詞が出てくるだけのこの作品を入れれば4作あるといえるかもしれない。

*6:第8巻には他にももう一つ「唇の厚い男」が出てきたような曖昧な記憶があるが思い出せない。あるいは記憶違いかもしれない。