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古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張『象徴の設計』を読む

 山縣有朋(1838-1922)という、私の嫌って止まない長州の軍人・政治家を主人とした松本清張歴史小説『象徴の設計』(文春文庫新装版,2003)を読んだ。

象徴の設計 (文春文庫)

象徴の設計 (文春文庫)

 

  昭和に入ってから軍部や右翼、それに軽佻浮薄な政党政治家の代表格ともいうべき鳩山一郎らに「統帥権干犯!」と叫ばせしめた元凶ともいうべきこの男を、私は小学校高学年の頃に初めて知って以来、一貫して嫌い続けてきたが、この男は1922年に数えで85歳(満83歳)の長寿をまっとうした。清張の小説はその山縣(清張は山縣の姓を一貫して新字の「山県」で表記しているが、小説の途中からは主に「有朋」という名で表記している)が「竹橋事件」(天皇を守るはずの近衛兵が1878年(明治11年)に起こした反乱)に直面して、これはいかん、軍隊を絶対服従の「天皇の軍隊」にせねば、と考えて西周(にし・あまね)に「軍人勅諭」の草案を作らせるところから始まり、大日本帝国憲法が公布されて帝国議会が開会される直前の1887年(明治20年)頃の同郷の伊藤博文との確執までが描かれている。

 少し脱線すると、私はここに出てくる西周の名前を、少年時代に蒐集していた郵便切手の「文化人シリーズ」で知ったが、特に西周の名前が強く記憶に残っていた。その理由はすっかり忘れており、「周」を「あまね」と読ませる読みが印象に残ったせいだろうと思っていたが(前島密=まえじま・ひそか=なども印象的だった)、それだけではなかった。それは、西の切手を取り上げたブログ記事を読んでおぼろげな記憶が少し甦ったのだった。

yosukenaito.blog40.fc2.com

 以下、上記ブログ記事から引用する。

(前略)1951年11月1日には、郵便料金が改正されて書状の基本料金が8円から10円に値上げされました。このため、西切手は、原版の額面部分を8円から10円に変更して、発行されることになりました。

 ところで、西の切手は、現在、日本切手のカタログ評価額が文化人切手の他のものよりもはるかに高くなっていることでも知られています。

 当時、郵政省の切手係であった八田知雄によると、当時、東京中央郵便局切手普及課は記念・特殊切手の売れ残り在庫を大量に抱え、その処理に苦労していました。このため、郵政省としては、西切手から切手普及課への切手の配給数を変更し、従来の4分の1にあたる5万枚にまで減らしました。このため、切手普及課での西切手の在庫処理は順調に進みましたが、その一方で、こうした変更は一般には明らかにされなかったため、従来どおり、「切手普及課に行けばいつでも買える」と考えていた収集家や切手商の中には西切手を入手しそこなう者が続出。市場ではこの切手が品薄となったといいます。

 こうした供給側の事情にくわえ、西切手は、郵便料金改正後最初の文化人切手となったことから、新料金の10円切手の需要が急増し、普通切手の供給不足を補うかたちで大量に消費されました。このため、未使用の残存数は、さらに少なくなり、結果として西切手の市価が高騰したものと考えられます。西の切手は文化人シリーズの中でも高値で取引されていることで知られていたのだった。ブログ記事によると、西は切手が発行された1952年当時でさえ知名度は低かったという。

  山縣有朋の話に戻る。

 立憲主義を唱えた先駆者としての伊藤博文と、それに対抗して帝国議会開設が決まってから実際に開設されるまでの7年間に「統帥権の独立」を実質的に勝ち取った山縣有朋とはよく対比され、山縣こそ戦前の日本を狂気の戦争に向かわせた元凶であるとはしばしば指摘されることだし、私もその通りだと思う。山縣は特に自由民権運動を徹底的に嫌悪し、この運動を担った富裕な農民層を没落させるために松方正義のデフレ政策(いわゆる「松方デフレ」)を奨励し、景気を悪化させて農民たちを没落させ、自由民権運動をしぼませたという見方を清張はしている*1

 その山縣は謀略を好んだ。最近、加計学園問題で安倍政権に楯突いた文科省事務次官・前川喜平に対して長州を選挙区に持つ安倍晋三が御用メディアであるの読売新聞を使って前川氏のスキャンダル報道を流させるという卑劣な謀略を行ったことが発覚し、テレビのワイドショーで大騒ぎされて安倍内閣の支持率が急落し、2017年7月の都議選で自民党が惨敗した原因の一つとなった。安倍政権の能力が低かったために仕掛けた謀略が露呈して墓穴を掘った形となったが、山縣ならあの世で「安倍君、何やってるんだよ、もっとうまくやれよ」と思っているのではないかと想像した。

 小説中で、その山縣に密偵の効用を知らしめた例として1882年の福島・喜多方事件が挙げられている。この事件で警察は、というより福島県令・三島通庸は、自由民権運動の側に立つ農民らに安積戦(あさか・せん)という名のスパイを送り込み、安積に過激な言動をさせて農民たちを煽らせておいた上で、安積に煽られた農民たちを逮捕したという。

 この件に関する記述のあるサイトをネット検索でみつけたので下記に示しておく。

 以下上記サイトより引用。

農民はあくまで、話し合いによる解決を求めていました。しかし、これに対する警察側は強硬な態度を取り、武器を持たない彼らに対して 暴力を振るった。中には、剣で傷つけられた者もいました。当時の事ですから こういう事態はあり得たでしょうが、一方的に暴力を振るった事実・武器を持たないで話し合いに来た者達に剣で斬りつけるような行為は決して許されないと思うのです。
 なお、農民の動きは密偵安積戦によって逐一警察に通報されていました。喜多方市史6には11月26・27日に安積の書いた報告が掲載されています。こういった報告によって警察の方では指導者を一斉に逮捕する予定でした。その時に丁度 喜多方近在の農民の集合・及び警察署への押寄せが起きた。警察は、既に逮捕の準備を整えて待っていたのです。
 このような形で警察が大いに活動?し、裁判所もその動きに合わせたように訴訟を退け、逮捕者を有罪にしえたのは 県令による事前の手配があったからです。県令三島通庸は、赴任するに際し 人事の大幅な変更を行っていて、行政・警察の要所は三島色に塗りつぶされてしまっていました。

 この件で「密偵の効用」を知った山縣は大いに感心し、自らも密偵を用いることを好むようになったという。この、いかにも長州人らしい陰険な手口は安倍晋三にまで引き継がれていると思うのは、大の長州嫌いの私の偏見だろうか。もっとも、山縣のライバルだった伊藤博文は、密偵を好む山縣の手口を良く思わなかったとも書かれている。

 ところでこの安積戦の話で私が直ちに思い出したのは、松本清張が『昭和史発掘』で取り上げた非常時共産党の「スパイM」こと飯塚盈延(いいづか・みつのぶ)だった。

 そして、『象徴の設計』を図書館に返しに行った時に書架に置いてあった清張最晩年の短篇集『草の径』に、その飯塚盈延の「その後」を描いた「『隠(こも)り人』日記抄」が収録されていることに気づいて早速借りた。本当はこの短篇をこのエントリのメインに据える予定だったが、例によって前振りのつもりだった『象徴の設計』に関する文章が長くなってしまったので、これを独立したエントリにすることにした。

 なお、部分的には興味を引かれるところも多い『象徴の設計』だが、小説の末尾には退屈してしまった。それは清張のせいというよりは憎むべき長州人・山縣有朋のせいというほかない。

 なにしろ史実でも長寿をまっとうした山縣は、小説に描かれた時期のあとも35年も生きて、戦前の日本に害毒を流しまくったのだ。その山縣が、史実だから致し方ないとはいえ「悪事の報い」を何ら受けることなく、孤独ではあり、かつ伊藤博文への嫉妬心に苛まれつつとはいえ、表向き平穏な日々を送る場面で物語が閉じられるのだ。退屈しない方が不思議だ。

 そんなこともあってか、また若い読者の関心を引きにくい上に読みにくい明治期の文章の引用がてんこ盛りということもあってか、せっかく2003年に文春文庫の新装版が刊行されながら、その後絶版になってしまっているらしいことは惜しまれる。日本の近代史に関心のある人なら必読の歴史小説だと思う。

*1:このように、歴史的にはデフレ政策は山縣有朋のような右翼人士が好んだ。現在、安倍晋三が金融緩和政策をとり、それを括弧付きの「リベラル」が批判するという状況が生じているが、これは歴史的に見ても現在の世界的情勢を見ても、例外中の例外だと思う。私自身は安倍政権の経済政策を総体としては高く評価しないが、金融政策だけには一定の評価を与える立場の人間だ。