KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

東京にも「象潟」があった!〜松本清張『混声の森』より

 どういうわけか昨年11月の文化の日の直後からずっと多忙の状態が続いた。だから最近は読書も思うに任せず、しかし2013年秋に『Dの複合』を読んで以来はまってしまった松本清張作品だけは空き時間に読み続けている。

 2013年に光文社文庫から刊行が始まった「松本清張プレミアム・ミステリー」のシリーズは、第1期6タイトル、第2期(2014年)7タイトル、第3期(2015年)4タイトル、そして第4期(2017年)4タイトルと、計21タイトルのラインアップだが、比較的無名の作品を多く収録している。中でも今回読んだ『混声の森』(第3期)は清張の長編推理小説ももっとも読まれていない作品なのではないか。「混声の森」を検索語にしてネット検索をかけても、感想が記されたサイトが少ししかみつからない。

 

 

 

 実際、この作品は清張作品の標準的な水準に達しているとは言い難い。解説文を見ると、鹿児島の『南日本新聞』などの地方紙に1967〜68年に連載されたとある。ネット検索で、他に『信濃毎日新聞』(長野)や『夕刊フクニチ』(福岡、『西日本新聞』の系列紙だったが1992年に廃刊)にも連載されていたことがわかっているが、おそらく通信社の配信だったのだろう。

 以前読んだ清張作品の中でもっとも出来が悪いとの印象を持った『影の地帯』がやはり地方紙の連載(1959〜60年)だったことが思い出される。ネットで見つけた感想文を見ても、70年代の後期作品だから全盛期の50〜60年代の水準に達していない、などと書かれているのを散見するが、この作品の連載は60年代後半であって、『Dの複合』(光文社の月刊誌『宝石』に1965〜68年に連載)と並行して書かれていた時期がある。要するに清張の力の入り具合が今一つだったために、単行本化が遅れただけだ(1975年に角川書店から単行本初出)。これに関しては、光文社文庫が但し書きでミスリードしていることも良くない。あたかも1978年の作品であるかのような但し書きがついているが、事実はカッパ・ノベルス入りしたのが1978年であるに過ぎない。

 さて、この作品の主人公は悪人であって、悪事を企んで成功目前までたどり着きながら挫折するおなじみのパターンの小説だ。この系列には、清張の代表作の一つに数えられる『わるいやつら』(1961)を筆頭に多くの作品がある。

 この主人公には、不仲の妻と家庭内暴力で両親を悩ませる高校生の息子がいるのだが、息子は「大阪に行く」と書き残して家出をしてしまう。そんな時期に主人公の家に、「象潟(きさかた)署」から電話がかかってくる場面がある(上巻402頁)。電話をかけてきた警官は「東北弁」だったとも書かれているから、ああ、ドラ息子は大阪ではなく秋田に行ってたのかと最初思った。

www.city.nikaho.akita.jp

 ところが、そのすぐ後にドラ息子が浅草でつかまったとか、東京在住の主人公がタクシーで象潟署に行ったなどと書かれているから、一瞬頭が混乱した。もちろん、浅草に「象潟」というところがあって、それは東北出身者にちなんでつけられた地名だろうなとは想像したし、結果的にその想像は正しかったのだが、それにしても東京(浅草)に象潟なんて地名があるとは寡聞にして知らなかった。

 そこで例によってネット検索をかけて調べたところ、かつて「浅草象潟町」という地名があったことが簡単にわかった。

d.hatena.ne.jp

 「浅草象潟町」という地名は現在は存在しない。上記ブログ記事にある通り、1966年に消滅した。清張作品は地名消滅の翌年から翌々年にかけて連載されたが、清張は地名の消滅を知らなかったのであろう。「象潟町」の町名の由来は予想通りだった。以下上記ブログ記事より引用。

さて、今回の旧町名は「浅草象潟町」です。「きさかた」と読みます。この旧町名の由来は明歴の大火に関係しています。江戸時代に起こったこの大火の後、新吉原が日本橋から浅草移りました。その20年後にこの地に屋敷を構えたのが六郷氏でしたが、藩主であった羽後本荘藩の旧領羽後本庄に象潟の名勝があったことからその名を取ったとされています。

  「象潟の名勝があった」というのは、本家・秋田県においても「象潟の名勝」が江戸時代に起きた大地震によってその景観が一変してしまったことを言っている。

 象潟は多くの入江に島を浮かべ、秀麗な鳥海山を水面に映す絶景の地であった。松島と並び俳人松尾芭蕉がめざした景勝の地であった。
 「江の縦横一里ばかり、おもむき松島にかよひて又異なり。
 松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし。
 寂しさに悲しみをくはえて地勢魂をなやますに似たり

 象潟や雨に西施(せいし)がねむの花」と「奥の細道」に記している。

 文化元年(1804)、鳥海山麓を震源地とする直下型地震により突如隆起する。いわゆる象潟地震である。これによって芭蕉が称えた景観は一変、約1.8m~2.7mも隆起し、水面に浮かんでいた小島は、陸地と化してしまった。

秋田県庁ホームページより)

 

 「浅草象潟町」は、テレビ朝日の『タモリ倶楽部』2015年6月13日放送の「旧地名ハンター 浅草編」で取り上げられたこともあるようだ。

halohalo-online.blog.jp

 なお、清張作品に出てくる「象潟署」なる名称の警察署は確認できなかった。浅草警察署が1890〜1945年の間「浅草象潟警察署」という名称だったことだけは確認できたが。

http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/6/asakusa/gaiyo/gaiyo.htm

 

 もう一つ、この作品について記録しておきたいことは、以前別の清張作品にも出てきた京都名物の「いもぼう」なる料理が、本作において重要な役割を演じていることだ。

 「いもぼう」とは、京都・円山公園内にある平野屋本家の名物料理で、海老芋と里芋の一種と棒鱈を炊き合わせた料理だ。1月に読んだ清張作品『球形の荒野』にも出てきた。

zassha.seesaa.net

 以下、上記ブログ記事より引用。

東山・円山公園知恩院南門に抜ける手前辺りに、「いもぼう」発祥の老舗「いもぼう平野屋」の本家と本店が左右に並んで店を構えている。「本家」のほうの女将(北村明美さん)に伺うと「こちらが本家であちらは分家」とのこと。
「本家」のHPから紹介文を引用すると、<<いもぼう平野家本家では伝統のほんまもんの味を守る為に、京の名物料理「いもぼう」の技と味を一子相伝(いっしそうでん)で継承者にのみ伝承いたしております。手間ひまをかけた他では真似の出来ない本来の「いもぼう」を是非お召し上がり下さい。文豪・吉川英治先生に「百年を伝えし味には百年の味あり」とお褒め頂き、ノーベル賞作家・川端康成先生が「美味延年」と記され、また推理小説作家・松本清張先生には小説の舞台としてお書き頂いております。>>
そこで多作を誇る松本清張の長編小説群から「いもぼう」登場場面を抜き出してみる。作品は「球形の荒野」で、京都での主舞台は、下記に「鍵をフロントに預ける」と描写されているように、殺人事件が発生する「Mホテル」こと「都ホテル」であって、「本家」のHPにある「小説の舞台」というのは大袈裟で、ささいな事件も起こらず、この料理屋に謎解きのヒントが隠されているわけでもない。

<<京都では、特殊な料理として「いもぼう」というのを聞いていた。久美子ほ支度をした。鍵をフロントに預けるとき、その料理を食べさせる家を訊くと、円山公園の中にあると教えられた。
タクシーで五分とかからなかった。その料理屋は、公園の真ん中にあった。これも純日本風のこしらえである。幾つにも仕切られている小部屋に通った。「いもぼう」というのは、棒鱈(ぼうだら)とえび芋の料理で、久美子は他人(ひと)からは聞いていたが、食べるのははじめてだった。淡泊な味でかえって空いている胃に美味しかった。
女中もみんな京言葉だし、隣の部屋で話している男連中の訛(なまり)がそれだった。こうして特色のある料理を食べながら土地の言葉を聞いていると、しみじみと旅に出たと思う。>>以上。

 

 『球形の荒野』においては、

「本家」のHPにある「小説の舞台」というのは大袈裟で、ささいな事件も起こらず、この料理屋に謎解きのヒントが隠されているわけでもない。

 というのは確かにその通りだが、『混声の森』では平野屋の店名も明記されており(光文社文庫版上巻324頁)、間違いなく「作品の舞台」になっている。しかもきわめて重要な場面なのである。

 なお、『混声の森』、『球形の荒野』の2作品のほかにも、清張初期の短篇「顔」(1956)にも「いもぼう」が出てくるらしい(未読)。というか、検索語「いもぼう 清張」でググってもっとも多く言及されているのがこの「顔」だ。

 松本清張を「日本のバルザック」と評した人がいるが、多作で知られたバルザックのごとく、清張作品も山ほどあって、読んでも読んでも未読作品がなくならない。おかげでまだこの人生に「未読の清張作品を読む楽しみ」が残っているわけだが。