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古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張『昭和史発掘』(5)〜(9)(文春文庫新装版)を読む

 松本清張『昭和史発掘』(3)(4)(文春文庫新装版)を読む(『KJ's Books and Music』) - kojitakenの日記(2017年5月6日)の続き。

 

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 6 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 6 (文春文庫)

 
昭和史発掘 (7) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (7) [新装版] (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 8 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 8 (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 9 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 9 (文春文庫)

 

 第5〜9巻の章立ては下記。

 

 

 やっと読み終えた。2月22日から5月24日まで、延べ3か月と3日で9冊。松本清張作品はこれで48タイトル64冊を読んだ。

 この記事は横着をしてネット検索で得た他ブログや資料の類を中心に記録しておく。

 

akabaneouji.blogspot.jp

 以下コメントをはさみながら引用する。

数年前から読もうと決意していた松本清張「昭和史発掘」をこの夏からほぼ半年かけてようやく読み終わった。

1冊450円で全巻買い揃えてから読み始めるというチャレンジだった。これを読んでいる時期がずっと体調が悪くつらかった。

 私は仕事が忙しい仕事の合間を見て読んでいたが、その間ブログの更新などもしていたので本当にきつかった。最後の第9巻は仕事が少し楽になったところで読んだが、仕事のピークを越すと同時に疲れが 一気に出て体調が良くなかった。

第5巻に入ったとたんに、読んでいて全然内容が頭に入ってこなくなったが6巻から再び読みやすくなる。ず~っと陸軍という組織の内部に留まる。

ず~っと一次資料からの引用が多く、ずっと古めかしいカタカナの文章を読むハメになる。人事の話とか「もういいよ!」って思ったけど、組織って結局それのみ。軍の経験がある世代には当然のことでも、軍の階級とか役職とかまったくイメージできなくて困惑した。
あまりに登場人物が多くて誰が誰だかわからなくなってくる。1回読み通しただけでは身に付いていないと思う。これからも折りを見て読み返さないといけないだろう。

「2.26事件」の項を読んでまず思ったのが、このイっちゃってる青年将校たち(みんな20代30代!)を国民はほとんど誰も支持してなかったってことが意外だった。戦前ってみんな熱狂的ファシストだったから戦争に突入したってイメージは間違ってた。

陸軍の「統制派」「皇道派」の熾烈な争いは、この事件によって「皇道派」が一掃され「粛軍」が進むのだが、それは新たな独裁の始まりで、政治、財界、国民を脅し戦争へ突入していくことになる……。
それにしても細かいことまでしつこく念入りに「2.26事件」の登場人物とエピソード、名場面を多方面から解析。行政上のこととか法理学的なこととかちんぷんかんぷんなままだった。この半年でずいぶんとこの時代の「軍人」たちの名前を知った。

「2.26事件」の裁判は特設軍法会議っていうやつで、国民にはまったく知らされていない。えぇぇ……。どんな裁判が行われたのか不明。裁判官と判士たちも陸軍の意向で動いていて、弁護士なしの一審制「暗黒裁判」。17名に死刑判決。予審調書や資料の多くは終戦時焼却処分された。それでも事件のあらましは各方面の資料をつき合わせて見えてくる。首魁・磯部浅一の獄中手記と看守の証言によって詳しいこともわかっている。

真崎甚三郎という人物はそうとう問題がある。どうしてこういう人物が偉い位置にいるのかよくわからない。責任を追及されると声を荒げるだけ。後のマレーの虎山下奉文も清張は徹底的にこき下ろしている。真崎は判決理由と主文がまったく合っていない強引な無罪判決。北、西田はその逆の強引な死刑判決。

(略)

巻末の解説を読んで、この巨人による仕事は藤井康栄という文芸春秋の女性編集者(当時30歳)の存在がなければなしえなかったという事を知った。この人は後の清張記念館館長だ。

軍隊に入らなくていい時代になってよかった。が、今も大学の体育会系やほとんどの会社に「軍」は残っている。はやくなくなってしまえ!

 北一輝西田税の死刑判決について、別のブログから引用する。下記ブログ記事には清張本への言及はない。

d.hatena.ne.jp

 以下引用する。

 北一輝は2月28日に逮捕されました。西田は逃亡し、3月4日に逮捕されました。青年将校、北、西田らは軍法会議にかけられます。ここで北、西田は事件の「首魁」とされたのです。公判は12回開かれ、吉田悳(よしだ しん)裁判長(大佐、裁判中に少将昇進)は「幇助・従犯」以上のものではないと考えていましたが、他の判士は北と西田を「首魁」とみていました。そして北、西田に死刑が求刑されます。

 吉田裁判長手記

「論告は殆ど価値を認めがたし。本人または周囲の陳述を藉(か)り、悉く(ことごとく)之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。そもそも今次事変の最大の責任者は軍全体である。軍部特に上層部の責任である。之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きは、国民として断じて許し難きことであって・・・」

 北一輝が首魁であったとしたら、彼の国家主義思想は天皇も国家の一部という考えでしたから、宮城(皇居)を占領し、天皇を独占したでしょうが、それは行われていません。どうやら陸軍が軍の面子を保つため北らを首魁にしようと圧力をかけたようです。吉田裁判長は職を賭して奔走しましたが、8月14日、北と西田に死刑判決を言い渡すことになりました。

 吉田裁判長手記

「八月十四日、北、西田に対する判決を下す。好漢惜しみても余りあり。今や如何ともするなし」

 憲兵史編纂者として記録を残した大谷敬二郎東部憲兵隊司令

「西田、北一輝の二人は、一般には二・ニ六事件の黒幕として理解されているが、決してそうではない。たしかに西田は軍に青年将校運動をつくり上げた張本人であったが、この事件における因果関係は浅い。また北には革命の法典といわれた『日本改造法案大綱』があり、一部の青年将校を魅了したことは事実であるが、彼はこの事件には参画していない。これを以って軍法会議が、この二人を二・二六事件の首魁と判定して死刑にしたことは、なんとしても酷なことであった」

 北一輝辞世の句「若殿に兜とられて負け戦」

 昭和12年8月19日、北一輝西田税、磯辺浅一元陸軍一等主計、村中孝次元大尉とともに処刑されました。

  宮城(皇居)の占拠については、叛乱軍の青年将校たちにその構想があったものの、宮城占拠の任に当たった中橋基明中尉の行動が中途半端だったため、青年将校たちは宮城を占拠できなかったのではないか、と清張は『昭和史発掘』のシリーズにおいて再三指摘している。

 現在ではどうやら青年将校たちが宮城占拠の意図を持っていたことは定説になっているようだ(下記Wikipedia「中橋基明」参照)。

2・26事件での中橋の役割は高橋是清元蔵相殺害と宮城占拠だったが、高橋殺害に関しては成功したものの宮城占拠に関しては失敗、昭和天皇へ決起の趣旨を上奏するため単身宮城の奥まで乗り込むも、護衛にあたっていた大高政楽少尉(近衛第三連隊御守衛上番)に拳銃を突き付けられ成功しなかった(この際、もし天皇が趣旨を聞き入れなければ、天皇を弑逆して自決するつもりだったとされている*1)。

中橋基明 - Wikipedia より

  なお、松本清張北一輝その人に対する評価はいたって低いことを付言しておく(私も北を高く評価する松本健一渡辺京二の本を読んだが彼らに説得されることはなかった)。

  清張のこのシリーズは歴史の専門家たちからも高く評価された。故家永三郎加藤陽子の名前を挙げることができる。現在もっとも入手が容易で私も読んだ文春文庫新装版の最終巻には加藤陽子の解説(後述)がついているが、文春文庫の旧版(1978〜79)や『松本清張全集』第32巻(1973)には家永三郎の解説がついていたようだ。後者はネットから一部を拾い読みすることができる。

 

blogs.yahoo.co.jp

 しかし、よく考えてみれば、学問とは真実を明らかにする人間の(学者のではない)いとなみであって、専門などというのは、研究者が自分たちの都合で人工的に作り出した便宜的区分にすぎないのである。(中略)私は人間のしごとは、そのしごとをなしうる能力のあるものすべてに開放されるべきであって、「専門家」であるかないかなどという貸元の縄張りみたいなことを口にするのは、恥ずべきことと思っている。(中略)だから、私は、作家松本清張が作家であるが故にかえって専門家がなし得なかった近現代史の領域を開拓されたのを、平素の私の信念と一致するものとして、心から歓迎し祝福したいと思うのである。(中略)作家松本清張は、またすぐれた日本近現代史松本清張でもあるのだ。松本さんの日本文芸史上における位置づけについて私は何も言う力をもたないが、日本史学史の上で今後松本清張の名を逸してはなるまいとさえ思っている。

―「解説」(家永三郎

 

www.c20.jp

 前半にも「石田検事の怪死」をはじめ、興味津々たる題目が並んでいるが、 なんといっても、第七巻以後七冊にわたって詳細に追及されている「二・二六事件」の叙述がすばらしい。 わけても、特設軍法会議の暗黒裁判をえぐり出した最後の三巻が圧巻である。 (「解説にかえて」家永三郎

「特設軍法会議の暗黒裁判をえぐり出した最後の三巻」は、新装版では第8,9巻の2巻にあたる。最初に引用したブログ記事に

真崎は判決理由と主文がまったく合っていない強引な無罪判決。北、西田はその逆の強引な死刑判決。

 と書かれたあたりだ。

 新装版に付された加藤陽子の解説は、例によってネット検索でパクろうと思ったのだが、良い資料がみつからなかったので、まだ図書館に返していない第9巻から直接抜粋して引用する。

  清張の『昭和史発掘』への入魂の思いは、もちろん「二・二六事件」の章に結実している。叛乱部隊側の首謀者の意図はこれまで不十分ながら知られてきたが、清張が明らかにしたかったのは、鎮圧部隊側の正確で詳しい動きと、叛乱将校に連れ出された下士官兵を軍法会議がいかなる法理論で裁いたのか、の二つであった。一時史料の博捜と多面的な考察によって、清張がこの目的を見事達成したことは多くの研究者が認めるところである。たしかに、鎮圧する側、叛乱部隊に抵抗した側の動きを追ってゆけば、首謀者の声高な弁明の真偽を弁別しながら、叛乱の計画性の虚実に迫るよりも、確実に二・二六事件像が手に入るはずなのだ。

 敗れゆく者の滅びの美学には、文学の世界だけでなく、実のところ学問の世界もはなはだ点が甘い。そういった日本の風土にあって、叛乱将校のヒロイズムの側ではなく、満足な説明も受けないままに連れ出された下士官の側、また、一歩間違えば皇居占拠にまでいったかもしれない叛乱を見事鎮圧した側、それこそが明らかにされなければならない、と勝負をかけた清張の手並みは、人間を知る人だけに実に鮮やかだった。対象に対する自らの立ち位置をどう設定するかで、その人物の歴史に対するセンスははっきりとわかる。清張のそれは、時間の経過によく耐える筋金入りのものであった。今でもまったく古びていない。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)393-394頁)

 その『昭和史発掘』の史料を発掘したのは、清張自身ではなく、藤井康栄という文春の女性編集者だった。再び加藤陽子の解説から引用する。

 政治家らの独立を強く夢見た領域で起こった胎動や変化こそが、昭和戦前期の、少なくとも二・二六事件までの時代の本質だと本能的に察知し、作家の手を引いて走り出した者こそ、先ほど名前を挙げた藤井康栄その人なのだと私は思う。藤井は現在、1998年*2に開館した北九州市立松本清張記念館館長を務めている。『週刊文春』1964年7月6日号からの連載が決まった直前、作家は初めての欧州旅行に旅立ってしまった。「現代史をやる」、「他人の使った材料では書きたくない」、「一級資料がほしい」とのたまう作家の、すべてのお膳立て、先行取材をしたのが、藤井であった。

 早稲田大学文学部史学科で日本近現代史を専攻した藤井は、とにかく、「自分の関心のあるテーマで現代史のラインナップを作ってみよう」と思い立ち、大胆にも作家の手を引いて走り始めた。すごいことだ。出版社に女性専用のトイレもなかった当時、30歳の女性編集者であればなおさらのことである。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)392頁)

 

 清張は第1巻のあと「編者あとがき」(第1刷のみにあり、第2刷以降の版では削除されている)で「本巻に収められた関係資料はすべて藤井氏の捜索蒐集に成る。(中略)その努力と学術的な良心には心から敬服する。本巻は、わたしの監修とはいえ、事実上、藤井康栄校訂・編著である」と書いている。清張の誠実さをしのばせる書き方であるが、いっぽうで、世紀に残る仕事を自分は成し遂げたのだという、深く静かな清張の自身を感じさせる言葉ともなっている。海のものとも山のものともわからない史料の山から、「これが歴史的に真に重要な部分だ」といって宝石の原石を摑み取り、磨き上げ、全体に秩序を持たせ、壮大な物語を書き上げたのは、まさに清張その人である。このように、真に力のある者同士のタッグは見ていて気持ちのよいものだ。先行取材者と作家の間には、生涯、敬愛と信頼の情が流れていたことだろう。晩年、照れ屋の作家は藤井に向かい「ありがとう、いやなことは一度もなかったね」と感謝の言葉を述べたという。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)395頁)

 

 日本近現代史の専門家にここまで言わせる松本清張と藤井康栄の2人は、本当にどえらい人たちだと思うが、現在も健在の藤井康栄は詩人・大木惇夫の長女だ。「大木惇夫 藤井康栄」を検索語にして調べてみると、藤井康栄大木惇夫さんの長女で、次女がエッセイストの宮田毬絵、三女が俳人の大木あまりとのこと。

 さらに、大木惇夫の次女・宮田毬絵は、父の伝記を書いていた。毎日新聞のインタビュー記事によると、大木惇夫が作った戦争詩は、戦争中に兵士たちに愛唱されたが、それが災いして戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞したまま亡くなったという(下記URLの有料記事の無料部分より)

https://mainichi.jp/articles/20160621/ddn/013/040/021000c

 

 戦争詩か。辺見庸あたりが何か書いてるんじゃないかと思ったら案の定だった。それは、『kojitakenの日記』の下記記事の記録から確かめられた。下記は2012年6月7日に書いた記事。私がこれまでに大木惇夫に言及した唯一の記事だ。

d.hatena.ne.jp

 辺見庸の『死と滅亡のパンセ』は手元にある。『kojitakenの日記』の記事には大木惇夫の名前が出てくる頁を記さなかったので、現物で確認した。

死と滅亡のパンセ

死と滅亡のパンセ

 

 以下引用。

(前略)坪井(秀人=引用者註)氏はこうも言う。「佐藤春夫三好達治、大木惇夫、野口米次郎、蔵原伸二郎等々の代表的な戦争詩人について、〈彼は戦争詩を書いたがそれによって彼の詩業の価値は些かも損なわれるものではない〉式の評言がいまだに繰り返されている。このような見苦しい弁明が戦争詩と同様あるいはそれ以上に罪深いことをまずは認識すべきなのである」。この学者の視力、聴力のよさはここにもあらわれていると僕は思うんだ。聴力の鋭さは『声の祝祭』の全篇にわたって生かされている。「戦争詩と同様あるいはそれ以上に罪深いこと」はいま今現在も続けられているよ。

辺見庸『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社,2012) 74頁)

 

 松本清張推理小説では、少し前に読んだ『表象詩人』の登場人物として、昭和初期に野口米次郎に傾倒した青年が出てくる。また、今回取り上げている『昭和史発掘』でも、第2巻(文春文庫新装版。)収録の「潤一郎と春夫」に佐藤春夫が取り上げられている。しかし大木惇夫の名前がこれまで読んだ清張作品に出てきたかどうか。大木惇夫の名前になじみの薄い私は書いてあっても気づかずに読み飛ばした可能性もあるが、記憶にはない。

  その「戦争詩人」大木惇夫の長女である藤井康栄が、松本清張の担当編集者として、歴史の専門家にも高く評価される仕事を成し遂げた。この事実は、もっと広く知られて然るべきだと思った。

 全9巻を読み通すのは本当に大変だったが、読んで良かったと思える大作だ。

 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】

 

 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】
 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】

他に参考にした記事

本「2.26事件」松本清張(『昭和史発掘』から)(読書ノート-50)

*1:湯浅博『"悪鬼"が歴史を動かす』、産経新聞、2013年2月19日付=Wikipedia原註。

*2:原文では年数表示に漢数字が使用されている。以下同様=引用者註。