KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

ユン・チアン『ワイルド・スワン』の下放体験と小松左京「やぶれかぶれ青春記」の学徒動員体験とがそっくりな件

 結局このブログを9か月も放置してしまった。ブログの更新を繰り返していくうちに、どんどん細部にこだわって超長文になるうえ、膨大な時間がかかるので、ついつい書き切れずに破綻してしまった恰好だ。

 今年1月28日(もう2週間後だ)に「はてなダイアリー」の更新が停止し、それに伴ってメインブログである『kojitakenの日記』も「はてなブログ」に移行する必要に迫られている。

 そこで、「はてなブログ」に記事を書くウォーミングアップの意味も兼ねて、この放置ブログを9か月ぶりに更新しようと思い立った次第。なので記事は簡単に書きたい。

 昨年(2018年)は5月から10月にかけて特に忙しく(昨年末から今年2月にかけても結構予定で埋まっていて新春早々ヒーヒー言っているのだが)、そのせいでブログの更新ばかりでなく、本を読む時間も減っていた。その分を取り返そうとばかり年末年初にも結構本を読んだが、その中でユン・チアンが1991年に書いた『ワイルド・スワン』に描かれた大躍進政策(1957〜61年)及び文化大革命(1966〜76年)当時の中国と、小松左京が1969年に書いた「やぶれかぶれ青春記」に描かれた戦争末期の日本とがみごとに二重写しになっていたのに驚いたことをメモしておく。

ワイルド・スワン 上 (講談社+α文庫)

ワイルド・スワン 上 (講談社+α文庫)

 
ワイルド・スワン 下 (講談社+α文庫)

ワイルド・スワン 下 (講談社+α文庫)

 
やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記 (新潮文庫)

やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記 (新潮文庫)

 

  『ワイルド・スワン』の著者、ユン・チアン(張戎。私なら「チャン・ユン」と表記したいところだが*1、本の表記に合わせる)は1952年生まれ、中国出身の作家で、中国共産党の幹部夫妻を両親に持つ。両親は文化大革命にいたぶられ、著者自身も下放されるなどした。文革が終わって間もない1978年にイギリスに留学し、そのまま現地でイギリス人と結婚するなどして中国には戻らず現在に至る。

 一方の小松左京は、2011年に亡くなったSF作家で、生前には「あれは小松左京ではなく小松右京だ」と評された保守人士だった。

 しかし、今小松左京の青春期をネトウヨ(「安倍信者」)に読ませたら、彼らは「何だよ、このパヨクは」と小松を罵倒するのではないか。戦争中に阪神間で少年時代を過ごした小松の「青春記」には、そう思わせる文章が綴られている。

 私は『ワイルド・スワン』を読み終えた直後に、引き続いて小松の「やぶれかぶれ青春記」を読んだのだが、学徒動員された小松の経験談を読みながら、一瞬『ワイルド・スワン』に描かれたユン・チアン下放経験談を読んでいるかのような錯覚にとらわれたのだった。それほど両者は酷似していた。そんなことを思っていたまさにその時、小松の青春記に書かれた下記の一説に遭遇したのだった。以下引用する。

(前略)当時としては、「国家危急存亡の秋(とき)」に、少年といえども、勉強やスポーツだけさせておくのは、けしからん、という風潮だったのであり、役に立とうが立つまいが、とにかくかっこうだけでも「労働」させるのが「国策に沿う」ことだったのである。とりわけ、インテリ学生などは「文弱」にながれやすいから「農村」で働かせて精神をきたえなおすのだ。農こそ「国の基(もとい)」であり(これを「農本主義」という)、「勤労」こそ精神をたたきなおすもっともいい方法である――と、当時の為政者軍人官僚どもは考えた。

 何の事はない、中国の「文化大革命」における「下放」みたいなものだ。――「文化大革命」の、政治的意義はともかく、それが起こったとき、何となくいやーな感じがしたのは、それが戦時中私たちの経験したことと、まるでよく似ていたからだ。日本の場合も、「国民精神総動員」とか「産業報国」、「国民精神作興」と精神主義的であり、「欧州排斥」が起こり、若い連中がまっ先にかり出され、「軍人」と「農本主義者」が音頭を取り情容赦ない「精神・言論統制」と「アジテーション」が行われ、「スローガン」がやたらと叫ばれた。

小松左京『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』(新潮文庫,2018)58頁)

 読みながら「文革そっくりだな」と思っていたら、1969年に小松左京自身もそう思いながら書いていたのだった。なお、この文章が書かれた1969年には、新左翼系の左派の間に毛沢東を熱狂的に信奉する風潮が強く(日本共産党はこの頃には既に中国共産党と反目し合っていた)、小松が「政治的意義はともかく」なる留保をつけているのは、そのあたりに配慮したものと思われる。現在ではそのような留保は不要で、文化大革命とは毛沢東が自らの地位を安泰にするために最高権力者である自らが引き起こした醜い権力闘争以外の何物でもなかったことは定説になっている。

  それにしても、軍国主義日本の戦時中と毛沢東の中国との類似は、何も学徒動員と下放との類似にとどまらない。小松左京は学徒動員に駆り出された工場で、何度となく米軍の空襲に遭遇して生命の危機に晒されたが、ユン・チアン下放体験の最中、文化大革命における「造反派」(毛沢東に煽られて「走資派」を追及していた紅衛兵の集団)同士の内ゲバによる銃弾に遭遇して生命の危機に晒された。また、日本軍の兵士は熱帯の戦場で次々と餓死したが、毛沢東の中国でも、大躍進政策の失敗によって中国の農村で農民たちが次々と餓死した(ユン・チアンの親族からも1960年に餓死者が出ている)。また、日本軍は戦争末期には「大本営発表」で誇張した戦果を宣伝するばかりか、間違った戦況分析を前提として作戦を立てて自滅していたが、これは末端が大本営に忖度して、出てもいない戦果を大本営に報告したためだった。毛沢東大躍進政策もこれと同様で、毛沢東が打ち出した達成不可能な目標を、あたかも達成したかのような報告がなされたために、農民たちが過度の取り立てをされた結果、自らの食料を奪われて餓死に追い込まれたのだった。

 これらは、独裁体制や「権力を批判する言説が絶え果てた」言論状況がいかに危険であるかを如実に表しているといえる。そんな社会や政治体制を「下から」支えるのが「同調圧力」だ。

 今回の年末年始に読んだ本で一番の収穫は、上記『ワイルド・スワン』でも「やぶれかぶれ青春記」でもなく、星野智幸が2010年に書いた小説『俺俺』だった。この小説のキーワードが「同調圧力」だ。ただ、このエントリではこの小説にはこれ以上触れないでおく。ここまでで十分長くなったから。

俺俺 (新潮文庫)

俺俺 (新潮文庫)

 

 

*1:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/15/145841によれば、「ロン・チャン」または「ロン・ザン」と表記するのが良いようだ。

「真贋の森」〜清張の「美術もの」「学問もの」「復讐もの」の最高傑作

 松本清張という人は、作品の完成度を高めるよりも、書きたいものを書きたいだけ書く営為を続けた人だったように思う。だからその作品は文字通り玉石混淆なのだが、たとえ「石」に該当する作品であっても強い訴求力を持つのが清張作品の魅力の一つだ。

 そして、「玉」に該当する清張作品を読む喜びは何物にも代え難い。光文社文庫版の松本清張短編全集*1を全11巻のうち第10巻まで読んだが、第9巻に収録された「真贋の森」は、読み終えた瞬間「これはいい」と感嘆させられた「玉」の作品だ。 

誤差―松本清張短編全集〈09〉 (光文社文庫)

誤差―松本清張短編全集〈09〉 (光文社文庫)

 

  この短編は、前記光文社文庫版短編全集のほかにも、清張生誕100年の2009年にこの短編を表題作とした中公文庫版が改版されて出ているし、新潮文庫の傑作短編集第2巻にも収録されている。いちばん入手しやすいのは新潮文庫版傑作短編集かもしれない。

 「真贋の森」は清張自身が得意とした美術を題材とした作品であり、アカデミズムの虚飾を告発する作品でもあり、清張が自らの小説世界で十八番とした復讐譚でもある。

 前記3つの系列に属する作品を清張は多く書いているが、「真贋の森」はそのいずれの系列においても最高傑作に位置づけられる作品なのではないか。私はそう思った。

 ネット検索をかけると、同様の感想を持った方がおられたようだ。以下その方が書かれたブログ記事から引用するが、ネタバレ全開なので、未読でかつ作品に興味がおありの方は、以下の引用文やそれに続く私自身のコメントを含め、この記事をこれ以上読まれないことをおすすめする。

(前略)僕が清張の仕事の中で一番評価するのは、実は、普通の小説である。報われない情熱、歪んだ情熱を描かせれば彼の右に出るものはいない。芥川賞受賞作の「或る小倉日記伝」がまさしくそういった小説だった。
 その系列の作品群の中で、最も優れたものが、「真贋の森」であり、同じ文庫に収録されている「装飾評伝」であると僕は思う。

9784041227053 多くの作品が資産家に私蔵され、学術的な研究が進まない日本画の世界で、真贋を良心的に鑑定する学者を師と仰いだ主人公は、所蔵家にとりいって権勢を伸ばした斯界のボスから睨まれ、陽の当たるポストから排除され続ける。彼が、才能を見込んだ田舎の美術教師を浦上玉堂の贋作者に育て上げるという計画に取りかかった時、なじみの古美術商がそれに協力するのはもちろん金目当てだ。
 しかし、彼は最後の最後で、贋作であることを暴露することをもくろんでいる。彼の目的は、鑑定眼を全く持たないにもかかわらずボスに対する阿諛追従と利益供与のみでその後継者となったかつての同窓生を表舞台に引っ張り出し、贋作を見抜けないその無能を暴いて権威を失墜させるところにあった。つまり、贋作者の田舎教師や骨董屋もろともに、自分自身も詐欺未遂で告発される自爆テロなのだった。
 一般に名作と信じられている作品が贋作であることを見抜く才能を持ちながら、誰の利益にもならない計画を周到に進めていくその情熱の歪み方が清張文学の真骨頂。

 一方、「装飾評伝」は洋画の世界を描く。天才画家ともてはやされながら晩年は身を持ち崩し、冬の日本海岸で自殺同様に断崖から転落死した名和薛治。その名和に興味を持った語り手は、「名和薛治伝」の筆者である芦野信弘の遺族を訪ねる。けんもほろろに取材を断った芦名の娘が、名和薛治の肖像とよく似ていることをヒントに、語り手は名和と芦野との関係を読み解いていく。それは、名和の才能に圧倒され、妻を奪われた芦野が、名和の面影の明らかな娘を抱いて足繁く名和のもとを訪れ、精神的に追い詰めていくという無言の復讐劇だった。

 こういったネガティブな情熱の描き方は、家が貧しいために尋常高等小学校卒業という学歴しか得ることができなかった清張自身の不遇感に根ざすものなのだろう。歴史を扱った作品にも、アカデミズムに対する反発が色濃く滲んでいる。自分は独学ながら歴史や美術を語らせても一流だ、そこらの学者風情に負けるものかという肩肘張ったところが行間に仄見える。
 その自負は、膨大な著作群として結実し、作家としての成功にも結びついた。しかし、その膨大な著作群のうち、この「真贋の森」や「装飾評伝」に匹敵する作品がどれほどあるだろうか。ほんとうは、そこまで手を拡げずに自分の世界を掘り下げ、「真贋の森」レベルの作品をもう少し残して欲しかったというのが、僕の叶わぬ思いである。

(『弁護士Kの極私的文学館』2011年12月4日付記事「真贋の森」より)

  引用文の後半に言及されている「装飾評伝」も、「真贋の森」と同じく光文社文庫版松本清張短編全集第9巻に収録されている。この第9巻とそれに続く第10巻には、清張が『点と線』の成功をきっかけに長編を量産し始めた頃の短編が主に収められており、美術ものが増えて歴史小説が激減するなど、第8巻までとは趣がやや異なっている。

 「装飾評伝」に出てくる名和薛治(なわ・せつじ)は架空の画家だが、清張はこの作品について、光文社文庫版短編全集第9巻のあとがきに、下記の文章を書いている。

 (前略)発表当時、モデルは岸田劉生ではないかと言われたが、劉生がモデルではないにしても、それらしい性格は取り入れてある。もっとも、劉生らしきもののみならずいろいろな人を入れ混ぜてあるから、モデルうんぬんはいささか当惑する。

 副次的なテーマとしては、強力な才能を持った芸術家の周囲に集まる弟子が、大成しないという点にある。たとえば、劉生の周りに多くの若手画家が集まったが、彼らは、ある程度までは行っても、決して劉生を乗り越えることはできなかった。劉生の幅の広い画業は、これらの知人または弟子たちによって細分化され、受けつがれたが、結局、劉生の亜流に終わっている。彼らは劉生の一部分をとって自己を完成させた。

 そのほか、劉生のために圧倒されて才能を涸らした人も少なくはない。いま、ジャガイモやカブなど野菜をしきりに描いている文人がいるが、あれなども劉生が日本画でさんざん手がけたものの影響にすぎない。これはひとり画壇だけでなく、他についても似たようなことがいえる。いわゆる大物の下に集まった芸術家で、御大以上になれた人が果たして何人あったろうか。

(光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)307-308頁)

  「ジャガイモやカブなど野菜をしきりに描いている文人」って誰のことなんだろう。そう思ったので少し長めに引用した。

 「真贋の森」では、小説中の下記の一節が特に印象に残った。以下引用する。

(前略)西洋美術史の材料はほとんど開放されて出つくしているといってもよい。欧米の広い全地域にわたる博物館や美術館の陳列品を観れば、西洋美術史の材料の大部分が収集されていて、研究家や鑑賞者は誰でも見ることができる。古美術が民主化されている。だが、日本ではそうはいかないのだ。所蔵家は奥深く匿しこんで、他見を許すことにきわめて吝嗇であるから、何がどこにあるのか判然としない。それに美術品が投機の対象になっているので、戦後の変動期に旧貴族や旧財閥から流れた物でも、新興財閥の間をつねに泳いでいるから、たとえ文部省あたりが古美術品の目録*2を作成しようと思っても困難であろう。そのうえ、誰も知らない所に、誰も知らない品が、現存の三分の二ぐらいは死蔵されて眠っていると推定できる。その盲点がおれの企みの出発点だったのだ。(後略)

松本清張「真贋の森」より 〜 光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)263頁)

  「真贋の森」は今から60年前の1958年の作品だが、ここに書かれているような事情は今ではどうなっているのだろうかとまず思った。

 さらに連想したのは、同じような問題を現在も抱えている学問の分野は、何も日本美術史に限らず他にもあるということだ。天皇家をめぐる研究がそれだ。

 清張とアカデミズムの関係といえば、清張の『昭和史発掘』を加藤陽子が文春文庫新装版最終巻(第9巻)巻末に解説文を書いていることからもわかる通り、専門の学者にも高い評価を与えてる人たちがいる。何もリベラルや左翼の学者ではなく、むしろ加藤陽子のような保守的な学者にそのような傾向が見られるように思われる。左翼の学者など、その教条主義によって清張作品の評価などとんでもない、という空気があるのではなかろうかと邪推したくもなる。

 ここで言及するのは原武史だが、原は日本政治思想史、近現代の天皇・皇室・神道の研究を専門とする政治学者とのことだ。研究内容からいっても左翼ではあり得ない。その原が専門とする天皇や皇室は、天皇や皇后をはじめとする皇族の発言が原則として公開されない閉鎖的な世界だ。天皇制はこうした非公開の原則によって守られている。しかし、皇族といえど人間なのだから、皇室内にはドロドロした人間関係が渦巻いている。家庭(皇室)内での権力構造も、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と憲法で定められた戦前であっても、実際には権力を持たないはずの皇后が強い影響力を行使していたのではないかと原は言うのだが、その原の研究は、清張的な手法をアカデミズムの世界に導入しようとしたものではないかと私には思われる。

 当然ながら、原武史は旧来のアカデミシャンたちから強い批判を浴びている。たとえば、原の著書『昭和天皇』についたアマゾンカスタマーレビューには、下記の批判的レビューが寄せられている。

2018年3月22日
 
日本中世史とは言え実証史学を学んできた(修士ですが)人間としてこれはあり得ない。
昭和天皇は国民より神(歴代天皇)が大切であるという結論ありきでそれにあわせて史料を切り貼りしている。その切り貼り自体がそもそもどうとでもとれる事を自分の都合にあわせて解釈しているだけだだ。独白録の史料批判はできているのに他の引用書物は都合よく無条件に使い、解釈がどうとでもできる史料も他のもので実証する気もない。証明する気も無いから、思われるを連発。
そもそも天皇が代々祭祀を行い国の安寧を祈っていることなんて当たり前のことである。新嘗祭がいつから行われているのかこの人は調べていないのかな?
国体の護持が日本を日本として護ることだと天皇が考えていらした、それがいけないことなの?国を護る為に、連綿と国を護ってきた自分の宗祖に祈りを捧げる事が責められるべき事なの?
日本は摂関政治から武家政権でさえも天皇にその職を任じられて政治を行ってきた。天皇が一番の権威として存在していた。それが日本の在り方なんだから、もし天皇が日本を護る事が天皇制を維持することであると考えていたとしても否定する気にはなれない。
明治天皇昭和天皇を考える時やはり明治以降ではなく連綿と続いてきた日本の国体ってものを考えなければならないと思う。
話が逸れてしまいましたが、半藤氏もだけど、できる限り思想的バイアスを取り除いて書いて下さい。小説やエッセイレベルだと感じました。
やはり専門書を読んできちんと勉強しようと思いました。そういう意味では良い本だった?

  こういうことを書く人が考える(信じている)「専門性」とはいったい何なのだろうかと思わずにはいられない。事実よりもまずイデオロギーありきの思い込みで、天皇に対して敬語を用いながら文章を書いている。これが「実証史学」の学徒だった人間が書く文章なのかとあっけにとられるほかない。

 「半藤氏もだけど、できる限り思想的バイアスを取り除いて書いて下さい」などと、保守の半藤一利に右から注文をつけるレビュー主は、国粋右翼的史観に凝り固まってしか物事を考えられない人間でしかない。それを露呈したのが「明治天皇昭和天皇を考える時やはり明治以降ではなく連綿と続いてきた日本の国体ってものを考えなければならないと思う」などというふざけた文章だ。レビューの書き始めで「実証史学」の立場から「あり得ない」として原武史の著書を批判しようとしていたはずのレビュー主が、自らの極右イデオロギーを叫ぶだけの文章を恥ずかしげもなく開陳している。

 たかが修士レベルの「実証史学」を学んだつもりでいるだけの人間と言ってしまえばそれまでだが、教授などのレベルも似たり寄ったりなのではないかと思えてならないのである。

 だいぶ脱線してしまったが、清張の「真贋の森」を出発点に、こんなところまで来てしまった。それくらいの深さと広がりを持った作品だと思う。

 また、復讐譚としても「真贋の森」はよくできている。前回取り上げた『霧の旗』とは雲泥の差だ。『霧の旗』は、正直言って読む前から後味の悪い結末が待ち構えているだろうと予想していたら、実際その通りの結末だった。『霧の旗』の主人公・桐子に思いっ切り感情移入して桐子を正当化した解説文を新潮文庫版に書いた尾崎秀樹*3が、桐子を連想させる「誤った復讐劇」を自らの実人生で演じ、ついに自ら犯した誤りを認めることなく死ぬという「事実は小説よりも奇なり」を地で行く人生を送った「歴史の皮肉」まで看て取ることができる。

 それに対し、最初から「自爆テロ」のつもりでアカデミズムの虚飾を暴こうとして、大学教授たちの追い落としには失敗したものの実力では自らが上であることを示せたことに満足し、企みの露見を招いた贋作家の田舎教師を許し、離れていった愛人を再び追い求める人生に戻る結末は実に良い。あまりに印象的だったので以下に引用する。

 おれは酒匂鳳岳を責めることはできない。おれだって自己の存在を認めてもらいたかった男である。

 おれの“事業”は不幸な、思わぬつまずきに、急激な傾斜のしかたで崩壊した。しかし、おれは何もしなかった、という気は決してしないのである。

 どこかに、あることを完成した小さな充実感があった。気づくとそれは、酒匂鳳岳という贋作家の培養を見事に遂げたことだった。

 まもなくおれは女との間に発酵した陰湿な温もりを恋い、白髪まじりの頭を立てて、民子を捜しに町を歩いた。

松本清張「真贋の森」より 〜 光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)279頁)

  なお、「真贋の森」にはヒントとなった実際の事件があったようだ。清張自身が書いたあとがきから再び引用する。

 「真贋の森」は、ヒントを取った実際の事件がないでもない。美術界に少し詳しい人なら、誰でもあの事件かと合点するだろう。しかし、この創作は全く私のものである。

(光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)309頁)

  「ヒントを取った実際の事件」とは、「永仁の壺」事件と呼ばれた事件だったとするブログ記事がある。下記ブログ記事だ。

sanjyoumaki.blog.fc2.com

 「永仁の壺」事件については、同じブログの別の記事もある。「永仁の壺」事件を取り上げた新書本のレビューとして書かれている。

sanjyoumaki.blog.fc2.com

 上記2件のブログ記事はとても興味深い。

 しかし、「永仁の壺」事件が「真贋の森」のヒントだったとする説には、辻褄の合わないことが一つある。それはこの記事を書きながら気づいたことだ。

 それは、「永仁の壺」事件が騒がれたのが1959年から61年にかけてであるらしいのに対し、「真贋の森」は『別冊文藝春秋』の1958年6月号に発表されていることだ。
 つまり、時系列的に言って「永仁の壺」事件は「真贋の森」のヒントになった事件ではあり得ない。むしろ、「真贋の森」が書かれたあと、小説との類似を感じさせる現実の事件が発覚したことになる。
 してみると、「真贋の森」のヒントとなった実際の事件は別に存在することになる。新たな謎解きが求められると思ってしまった。
 
 以上、ここまでで長くなったが短編全集の第10巻にも触れる。ここからも長い。
空白の意匠―松本清張短編全集〈10〉 (光文社文庫)

空白の意匠―松本清張短編全集〈10〉 (光文社文庫)

 

  表題作の「空白の意匠」は、上にリンクを張ったブログ『第二級活字中毒者の遊読記』に書かれている通り、「ラストの一行でガラリと風景が変わる逸品」だ。

 私は時々清張作品の最後の頁を読む時、最後の一行を先に見てしまうことがあるのだが、この短編に限っては、最後の最後に仕掛がありそうだと思って最後の一行に意識的に目がいかないように読んだ。そしてそれは大正解だった。

 この小説を読んだ直後に接した『広島瀬戸内新聞ニュース』の下記記事と、小説のエンディングがシンクロしたことを書いておく。もちろん事件の構図は全然違うのだが、組織にありがちな決着のつけ方が相通じるのだ。

hiroseto.exblog.jp

 「各省庁の高級官僚はこの場合、各部署の部長くらいだろうか」という一文がミソ。「空白の意匠」は地方新聞社の広告部長の物語なのだ。そして官邸や自民党の狙う結末とは……(以下略)

 

 また同じ第10巻収録の「駅路」は1977年に向田邦子が原作の設定を大胆に変えてテレビドラマ化したことがある。私は清張生誕100年の2009年に新潮社から刊行された下記の本を、短編集を読む前に読んだことがあった。

駅路 最後の自画像

駅路 最後の自画像

 

  だから気づいたのだが、「駅路」に出てくる「呼野刑事」は「よびの」ではなく「よぶの」と読ませるはずだ。向田邦子のドラマでも、「よびの」ではなく「よぶの」と読むことに関連する科白が出てくる。「呼野」と書いて「よぶの」と読む地名が福岡県にあるようだから、清張の知人にそういう姓の人がいたのかもしれない。

 しかし、光文社文庫版第10巻の150頁には「よびの」とのルビが振られている。これは新潮社版とは異なるはずで、おそらく(というかほぼ間違いなく)新潮社版の方が著者の意図に沿っている*4

 そういえば光文社文庫版には、前にも人名の読みで首を傾げるものがあった。それは「香春」姓であって、やはり福岡に「香春」と書いて「かわら」と読む姓がある。この姓の刑事が清張作品の『渡された場面』に出てくる。

渡された場面 (新潮文庫)

渡された場面 (新潮文庫)

 

  この新潮文庫版には「香春」は「かわら」とルビが振られている。香春刑事は四国の県警捜査一課長という役柄だが、以前私が四国(香川県)に7年間住んでいた時、香川さんという姓の人はたくさんいたけれども香春さんになど出会ったことは一度もなかったので、いったいどこの姓なんだよと思ってネット検索をかけたら、福岡に多い姓だと知ったのだった。

 しかし、光文社文庫版短編全集に収録された、もちろん長編『渡された場面』とは別の清張作品に出てきた「香春」には「かはる」とルビが振られていた。もしかしたらこれも、清張は「かわら」と読ませようとしていたのを光文社の編集部が勝手に「かはる」というルビを振ってしまったのではないかと思い当たった。なお実際には香春と書く姓には「かわら」と「かはる」の二通りがあるそうだ。蛇足ながら、不思議なのは「原」を「はる(ばる)」と読ませる九州人が、「春」を「はら」と読ませていることだ。文字通りの「かはる」(変わる)読みといえようか。それはともかく、光文社の編集部の注意力は新潮社には及ばないように思われるのが残念なところだ。

 

 やはり第10巻収録の「剥製」は没落した美術評論家の話。「二十年前」、つまり小説が書かれたのが1950年代であることを考えると戦前の1930年代に当たるが、その頃が前世紀だった美術評論家の「R氏」を、清張は下記のごとく描写している。

(前略)R氏のは美術評論が多かったが、それで純粋の美術評論家と呼ぶわけにもいかなかった。文学にも、社会的な時の現象にも、思想や政治にもその評論はわたっていた。評判をとった美術評論を基点として、左右に大きくその分野をひろげた風格であったが、そのためか、R氏の美術評論は専門化することなく、またほかの分野でも、それを専門とするまでにはいたらなかった。要するに、R氏の評論は芸術一般に及んでいたけれど、専門というものがなく、その広範なために、かえって名声だけはポピュラーにひろがっていた。

松本清張「剥製」より 〜 光文社文庫版『松本清張短編全集』第10巻(2009)134頁)

  私がこの文章を読んで直ちに連想したのは、美術評論家ならぬ音楽評論家の吉田秀和(1913-2012)だった。清張が描写したR氏の風貌も、吉田秀和を連想させるものだった。その吉田秀和は、なんと美術評論もお手のものだったのだ。

 ただ、「剥製」のR氏のモデルが吉田秀和では絶対にあり得ない。それは前記「真贋の森」のヒントとなった事件と同じく、時系列的な理由からだ。

 吉田秀和が、R氏のような評論を、「音楽展望」という題で朝日新聞に載せるようになったのは1971年、58歳の頃だ。「剥製」は『中央公論』が1959年1月に出した「文芸特集号」に掲載されたから、それよりも12年後に清張の古巣・朝日新聞で月評を始めた。吉田秀和が権威として仰がれるようになったのはこの頃以降だろう。清張が「剥製」を書いた頃の吉田は、先鋭的な現代音楽の推進者だった。当時の吉田は、R氏よりもむしろ『砂の器』に出てくる現代音楽作曲家・和賀英良(そのモデルは黛敏郎とも武満徹ともいわれる)の仲間だった評論家・関川重雄のような位置づけの人だった。

 「剥製」に清張は書く。前記引用文のすぐあとに続く文章だ。

 だが、R氏の評論は、ここ七八年は、まったく雑誌などで見られなくなった。戦後、ことに進歩した美術批評は、近代方法化し、学術化して、R氏のように、文人的な印象批判の仕方では古臭くなった。続々と先鋭な新人が出てくると、古いR氏の評論も後退せざるをえなくなったのである。本命のような美術評論が色あせてくると、それゆえに、ほかにひろがっていた氏のさまざまな分野も衰退した。R氏は高名だが、すでに第一線の活動面からは去っていた。時折り、短い、随筆ふうな文章があまりぱっとしない雑誌に出るくらいなものだった。

松本清張「剥製」より 〜 光文社文庫版『松本清張短編全集』第10巻(2009)134-135頁)

  吉田秀和の音楽評論は、その大半が「文人的な印象批判の仕方」によるものだったが、理論武装した先鋭的な若手の音楽評論に駆逐されることは、2012年に98歳で亡くなるまでなかった。それどころか、音楽評論の世界では、故宇野功芳(1930-2016)のような、野蛮な印象批評家が毒舌を振り回して大向こうをうならせるありさまだった。宇野の父は漫談家牧野周一だった。また宇野は政治思想的には極右であり、そのことによっても私は宇野が大嫌いだった。宇野功芳こそ音楽評論会の癌だったと今でも思っている。そういえば宇野は、現代音楽作曲家の諸井誠(1931-2013)とは犬猿の仲で、諸井はよくレコードの月評で宇野を揶揄する文章を書いていた。なお私が音楽論で一番好きだったのは、現代音楽作曲家の柴田南雄(1916-1996)だったが、この人は理論より直観力に優れた人だった。芸術には、ゴリゴリの理論一点張りでは突破できない何かがあるのだと思う。柴田南雄は理系の学者一家に生まれ、父の柴田雄二(1882-1980)は吉田秀和と同じ98歳まで生きた。当然柴田南雄も長生きすると思っていたから、79歳の「早い死」に衝撃を受けたのを覚えている。1996年には武満徹遠藤周作藤子・F・不二雄など、その作品世界に接した人が多く亡くなった(司馬遼太郎も死んだが、その時点で私は司馬作品を一作も読んだことがなかった。その後も『竜馬がゆく』を読んだだけだ)。

 ところで吉田秀和の話に戻ると、吉田は画家の東郷青児(1897-1978)が亡くなった翌年に、東郷をこき下ろした文章を書いたことがある。随筆集『響きと鏡』に収録されている。

響きと鏡 (中公文庫)

響きと鏡 (中公文庫)

 

  これについて以前『kojitakenの日記』に書いた文章を以下に再掲する。

d.hatena.ne.jp

(前略)四半世紀ぶりに吉田秀和の『響きの鏡』のページをめくっていて、当時はわからなかったことが一つネット検索でわかった。それは「有名な人」というエッセイで、日本では「有名」という言葉は良い意味で用いられるが、ドイツ人に向かってある学者のことを「あの人は有名な人です」と言ったところ、うさんくさい人間なのではないかと疑われたという書き出しで始まる。そのあとに、「去年、ある画家が死んだ」*5という話になり、吉田氏がエッセイを書いた前年に死んだ画家の悪口が始まるのだが、若い頃にフランスに留学し、晩年に「桃色と白と青を主調とする甘美な美人画のポスター」によって「無数の人たちになじまれていた」という画家の実名を吉田氏が書かないものだから、初めて読んだ時には誰のことかわからなかったのだ。

 読み返して、これは藤田なんとかという人のことではないか思ってネット検索をかけたが違った。藤田嗣治は戦前からパリで活躍し、「独自の『乳白色の肌』とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた」とのことだが、1968年に亡くなっていた。エッセイが1977~79年に書かれていることから、1976~78年に死んだ有名人の画家をネット検索して、ようやくその名前がわかった。東郷青児(1897-1978)であった。Wikipediaには

夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。

独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。

と書かれている。吉田氏が「画壇の一方の首領としても有名な人だった」と揶揄していることとぴったり符合する。要するに、東郷青児は有名な画家だったけれども芸術的価値の高い絵は描き残さなかったと吉田氏は言いたかったわけだ(笑)。

 ネット時代には、著者が匿名で書いた人物の実名を暴くという、昔はできなかったことができるメリットもあることを改めて感じた。

  吉田秀和の書いた、東郷青児を皮肉る文章の筆致は痛快そのものだった。インテリの代名詞みたいな吉田秀和と、叩き上げの作家・松本清張が、こと美術に関しては「反権威」の視点が共通しているところが面白い。

 そんな視点があったからこそ、吉田秀和は死ぬまで「最後の印象批評家」でいられたのかもしれない。

 長い長い記事は、これでやっと終わり。拙文に最後までお付き合いしていただけた読者の方が果たしておられるかわかりませんが、もしおられたら厚くお礼申し上げます。

*1:毎回断り書きを書く通り、「全集」と銘打たれているが、実際には1962年までの清張の短編から清張自身が選んだ85編を全11巻に収めた選集だ。

*2:「目録」には「リスト」とのルビが振られている=引用者註。

*3:尾崎秀樹(おざき・ほつき、1928-1999)は文芸評論家で、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実(ほつみ)の異母弟。

*4:ただ、ネット検索をかけたところ、実在の「呼野」さんは、「よびの」または「うんの」と読む人が多いようだ。「よぶの」さんの実在は確認できなかった。

*5:中公文庫版124頁

「上海リル」と「上海帰りのリル」/松本清張と尾崎秀樹と「復讐」と

 1930〜40年代には戦争にのめり込んで崩壊していった日本社会だが、今では年々没落の一途をたどる国勢に、政府や役所といった統治機構の腐敗を最高権力者とその妻が主導するというわけのわからない崩壊の過程をたどっているように見える。

 アメリカ映画の挿入歌からとられた1930年代半ばの流行歌「上海リル」は、前の「崩壊の時代」の始まりを予感させる頽廃的な歌だ。3人の女性歌手が3通りの訳詞で、1934年、35年、36年と一年おきにレコードを出していた。下記のツイートが指摘する情報が正しそうだ。

  1930年代の「上海リル」に対するアンサーソングとして書かれ、戦後6年経った1951年に流行したのが前回取り上げた「上海帰りのリル」だが、この2つの歌については、それを追跡したブログ記事がある。

ameblo.jp

 上記リンク先に飛んでいただければ、もととなったアメリカ映画をはじめ、1935年に日系三世の歌手・川畑文子が三根徳一の作詞を歌った「上海リル」のバージョン、1936年に江戸川蘭子が名古屋宏の作詞を歌った同じ歌のバージョン、さらには1951年に津村謙が歌った「上海帰りのリル」の動画をご覧いただくことができる。ここでは、上記ブログ記事にはリンクされていない、1934年に唄川幸子が服部龍太郎(1900-1977)の作詞を歌った「上海リル」のYouTubeファイルにリンクを張っておく。

www.youtube.com

 ところで、リンクしたブログ記事に興味深い文章があるので以下に引用する。

さて、国破れて山河あり。昭和26年(1951年)に津村謙の歌で発売されて大ヒットしたのが「上海帰りのリル」。作詞は東条寿三郎、作曲は渡久地政信(後の「お富さん」でお馴染み)ですね。

どうやらこの歌、『フットライト・パレード』で歌われヒットした「上海リル」のアンサー・ソングらしいのです。

もちろんメロディも歌詞も違いますが、唯一ボクが着目(耳?)したのがイントロ。「上海帰りのリル」のイントロ部分が、「上海リル」のメロディをなぞっているように思えてなりません。

 ブログ主は「思えてなりません。」と控えめに書いておられるが、「上海帰りのリル」のイントロは、あからさまに「上海リル」のメロディーをなぞっている。たとえば唄川幸子の歌を2,3回繰り返して聞いたあと、下記の「上海帰りのリル」のイントロを聴けば、一聴して明らかだ。

www.youtube.com 「上海リル」のメロディーの冒頭を「移動ド」記法で記すと「ラシドシラシドミ」で、これが二度繰り返されるが、「上海帰りのリル」のイントロではこれが「ラシドシラ♯ソラシドミ」(「♯ソ」はソの半音上げ)に変えられ、一度しか出てこない。そのあと「ミ♯レミソーファミーファミ♯レー」と続くのだが、これは「上海リル」の唄川幸子(服部龍太郎)バージョンで言えば、「あちらもまたこちらも」の部分のメロディー「ミミミソーファミミミ♯レー」の変形だ。「上海帰りのリル」のイントロでは、最初の「ミミミ」が「ミ♯レミ」に、二度目の「ミミミ」が「ミーファミ」に変えられている。しかし「上海リル」のメロディーでもっとも特徴的な「♯レー」、つまり短音階の第4音の半音上げを伸ばして強調する部分はそのままだ*1。以上から明らかなように、「上海帰りのリル」のイントロは、「上海リル」のメロディーが直接借用されている。編曲者が、この歌は「上海リル」のアンサーソングですよ、とはっきり示しているわけだ。

 ところで作詞の服部龍太郎はクラシック畑の人だったらしい。服部とは別に、三根徳一と名古屋宏による作詞があると前述したが、趣が全然違う。たとえば江戸川蘭子が歌った名古屋宏の作詞は、「陽は海に落ちて 街に夜が来れば 赤い唇 仇な姿 唄うは上海リル」と始まるが、「輝ける 芥子の花の 粋なリル」という部分からは、魔都・上海に蔓延していたアヘンを連想させずにはおかない。江戸川蘭子バージョンが発売された1936年は、日本が傀儡の偽国家「満洲国」が建国されてから既に4年が経過しており、翌年には蘆溝橋事件が起きた。そんな時代に流行した頽廃的な歌だった。

 その江戸川蘭子も戦時中にはご多分に漏れず戦時歌謡を歌い、戦争に協力していたようだ。この人は本名を大宮まつという。芸名は、想像だが作家の江戸川乱歩からとられたものではないか。もしその通りだとすると乱歩の筆名はエドガー・アラン・ポーをもじったものだから、もじりのもじりということになる。江戸川蘭子は1990年に亡くなっているが、1999年3月3日にTBSテレビで放送されたという「ミステリー作家 江戸川蘭子の事件簿」はおそらく歌手の江戸川蘭子とは何の関係もなく、江戸川乱歩をもじったネーミングが偶然かつて存在した歌手と同じ名前になっただけと思われる。

 

 この記事の後半はいつものように清張作品の話題。前回の記事を書いたあと、光文社文庫版の松本清張短編全集第7巻と新潮文庫版の松本清張『霧の旗』を読んだ。

鬼畜―松本清張短編全集〈07〉 (光文社文庫)

鬼畜―松本清張短編全集〈07〉 (光文社文庫)

 
霧の旗 (新潮文庫)

霧の旗 (新潮文庫)

 

  光文社文庫版第7巻の巻末に「私と清張」を書いているのは、先日亡くなった推理作家の内田康夫だ。表題作の「鬼畜」は怖い話だが、その怖さはこの短編が現実に起きた事件に基づいていることによるところが大きい。清張自身、あとがきで下記のように書いている。但し、これは「鬼畜」ではなく、同じ巻の収録作「点」について書かれた文章だ。

 現実のことをモチーフにして作品を書く場合、いつも思うのは、われわれの想像力には限界があるということだ。そのため、材料の面白さに惹かれて虚構の部分がうすくなりがちである。これは事実が想像以上に強いということであり、虚構の弱さでは支えられないということだろう。(光文社文庫版280頁)

 また、長編の『霧の旗』は過去に2度の映画化と9度のドラマ化をされた人気作らしいが、私はそれらの映像を見たことが一切ない。これは「上海帰りのリル」をモチーフにした短編「捜査圏外の条件」の発想をさらにふくらませた復讐譚だ。個々では詳述しないが、ちょっと分析しただけで「捜査圏外の条件」と『霧の旗』の類似は明らかだ。清張はフランス映画「眼には眼を」(1957, アンドレ・カイヤット監督)にヒントを得て『霧の旗』を書いたとも言われるが、本当の発想の芽は清張の短編に既にあった。前回も書いた通り、復讐譚は清張の十八番の一つだ。恵まれない出自や環境の者が、恵まれた人間を追い落とす構成が基本であって、その際しばしば復讐には理が伴わない。しかし、それにもかかわらず読者は復讐を遂げる者に感情移入してしまう。何より清張自身が復讐者に感情移入しまくっていることをひしひしと感じる。その一つの表れは、清張作品においては多くの場合復讐が成就することだ。清張自身が「復讐を成就させてやりたい」との強い情念を持っているからそういう結末になる。私自身も、『霧の旗』の復讐者・桐子にはさすがに感情移入できなかったものの、「捜査圏外の条件」の復讐者には、それが明らかに過剰でありかつ許されない殺人であるにもかかわらず感情移入しまくっていたことを告白しなければならない。つまり私自身の「心の闇」を清張作品が抉り出したともいえる。もちろんそれは清張自身が「心の闇」を抱えていたからにほかならない。

 このことを思えば、通常清張に張られている「社会派」とのレッテルは実は誤りで、正しく「反社会派」と呼ばれるべきではないかとさえ思う。

 もっとも皮肉だと思ったのは、『霧の旗』の解説をあの尾崎秀樹(ほつき)が書いていることだ。今も尾崎が解説を書いた新潮文庫版が増刷されているのだが、尾崎こそ「筋の通らない復讐者」だった。

 尾崎秀樹ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実(ほつみ)の異母弟であり、尾崎こそ兄の復讐を遂げるべく、共産党を除名された伊藤律を「生きているユダ」と決めつけて「伊藤律スパイ説」を流布した張本人だ。しかし「伊藤律スパイ説」は特高のでっち上げであって、それに尾崎秀樹松本清張日本共産党もみんなまんまと引っかかってしまったことが今では明らかになっている。

 その尾崎は、『霧の旗』の解説文の末尾で、下記のようにゾルゲ事件に触れている。以下の文章はネタバレを含む上、小説のストーリーをご存知ない方には意味不明だろうとは思うが、面倒なのでそのまま引用する。

(前略)常識的に考えれば、柳田正夫を冤罪におとしいれたのは、検察側のミスであり、日本の裁判制度の矛盾ということになるかもしれない。しかし桐子はそう考えなかった。そう考えることで法のありかたの限界を批判し、一般論に解消していくやりかたに、最後まで抵抗している。松本清張はこの桐子のありかたをとおして、実は法の限界、裁判制度の矛盾等をえぐっているのであり、一般論に解消してはならない問題を、しつこく追いつづけることによって、桐子の眼とかさなる意識をそこにしめしている。ややかたくなに感じられるほど、桐子に大塚弁護士にたいする復讐をくわだてさせるのも、社会一般の事なかれ主義、なれあい主義にたいする容赦ない批判があったからではないか。

 もちろんそれだけでは、K市の老婆殺しの真犯人も、杉浦健次を殺した下手人も、指弾されないままに残る。作者はそのための伏線として、左きき、サウスポーの元野球選手といった影の人物を暗示してみせるが、その真相究明にふみ入るのを自制しているのは、問題を一般の常識、事なかれ主義のほうにむけ、桐子の訴えを正しくうけとめる必要性を強調したかったからに違いない。『霧の旗』というのはきわめて象徴的なタイトルだが、私たち現代人は影の部分をもち、孤絶化した状況に生きている。人間関係のこのような断絶は、さらにふかまると思われるが、そのような問題を、ミステリアスな手法でえぐり出すとき、現代社会の無気味さがあらためて実感される。

 私の戦後の体験に照らしてみても、こういった恐怖が実在することが、はっきりと証言できる。それは戦後におけるゾルゲ事件の展開のなかで、しみじみと実感されたものだが、その種の意識の潜在化にはやくから注目した松本清張の現代感覚に、私はふかく共感するものをおぼえるのだ。

松本清張『霧の旗』(新潮文庫改版2003, 351-353頁)

  尾崎秀樹がこの解説文を書いたのは1971年11月だが、その9年後に尾崎が冤罪をなすりつけら伊藤律が帰国し、さらに伊藤の没後4年経った1993年、渡部富哉が著書『偽りの烙印』を世に問い、「伊藤律スパイ説」の誤りを指摘した。

偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊

偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊

 

  上記リンク先では「発売日:1998/11」とあるが、これは改定版の発売日で、初版の発行は1993年だ。その前年の1992年には渡部富哉と尾崎秀樹公開討論会が開かれたが、尾崎は渡部に有効な反論ができなかったにもかかわらず、自説の誤りを1999年に死ぬまで認めなかった。

 この事実を踏まえて上記に引用した尾崎の解説文を読めば、尾崎こそ桐子に感情移入しまくった復讐者そのものであり、「尾崎=桐子」であることがはっきりわかる。つまり、真犯人と思しき「元職業野球のサウスポー投手」そっちのけで弁護を引き受けてくれなかった弁護士への「復讐」にかまける桐子と、真犯人と思しき特高への追及そっちのけで伊藤律への「復讐」にかまけた尾崎の姿がもののみごとに重なるのだ。

 要するに、尾崎は自らが抱える「心の闇」をこの解説文で臆面もなく開陳しているに等しい。尾崎が書いた解説文から半世紀近く経った現在、こういう審判を下さないわけにはいかない。

 もちろん、伊藤律の帰国後12年生きていながら、『日本の黒い霧』のゾルゲ事件に関する記述をそのまま放置した松本清張も、批判を免れるものではない。清張の愛読者であるからこそきっちり指摘しておかなければならないと強く思う次第だ。

 最近の読書に関しては、清張作品をきっかけに原武史の本を3冊読んだが、これらについては次回以降の記事で書くかもしれないし、何も書かないかもしれない。天皇家の闇に関する興味津々の読書だったので書きたい気は山々だが、あいにく今日はもう時間もないし、もうここまでで記事も異常に長くなったので、下記にリンクのみ張って記事を締めくくる。 

昭和天皇 (岩波新書)

昭和天皇 (岩波新書)

 
「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

 

 

*1:蛇足だが、「上海リル」は音域は狭いが半音の使用やコード進行に特徴があるのに対し、「上海帰りのリル」は音域はやたら広いが短音階から外れた半音やコードは使われておらず、こちらの方が新しいにもかかわらず古くさい歌謡曲臭が強い。「上海リル」は日本人の作曲ではない一方、「上海帰りのリル」は日本人の作曲だから当然かもしれないが。

松本清張「捜査圏外の条件」と流行歌「上海帰りのリル」

 このブログは「古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ」と銘打っていながら、音楽は一度も取り上げたことがなく、本も松本清張作品ばかりだ。だが、その清張作品をきっかけに、ようやく音楽絡みの話題を取り上げるチャンスが訪れた。

 今年1月から読み始めている、光文社文庫の「松本清張短編全集」(全11巻)*1はこれまでに第1巻から第6巻と第8巻を読んだが、一番最近読んだ第6巻には「市長死す」「捜査圏外の条件」「地方紙を買う女」の3つのミステリー作品が収録されている。

青春の彷徨―松本清張短編全集〈06〉 (光文社文庫)

青春の彷徨―松本清張短編全集〈06〉 (光文社文庫)

 

  これらは前々回の記事で取り上げた第5巻収録の「声」や「顔」などとともに清張初期ミステリーの傑作といえるが、第6巻収録の3つのミステリー作品には、いずれも「戦争」が影を落としているのが特徴だ。

 「市長死す」で死んだ市長は、65歳の元陸軍中将だったが、敗戦を迎えた韓国から安全に帰国する便宜を図ってやった愛人の芳子に帰国後駆け落ちされ、芳子と駆け落ちの相手・山下を執念で探していた。また「地方紙を買う女」の主人公・潮田芳子(「市長死す」に出てくる市長の愛人と同名だ)は、夫が兵隊に取られて満洲に送られ音信不通だったが無事を信じてずっと帰りを待っていた。しかし、待ちに待った夫からの頼りを受け取ったまでは良かったが(以下ネタバレになるので省略)という話だ。この「地方紙を買う女」は1957年(昭和32年)の作品であることに注目したい。戦後12年経ってもそんな設定の小説が書かれるくらい、先の戦争の爪痕は深かった。一方で、A級戦犯容疑者だった岸信介が総理大臣になったのも小説が書かれた1957年だ。

 そして今回取り上げる「捜査圏外の条件」は、「地方紙を買う女」と同じ1957年の作品だが、モチーフとして用いられているのはその6年前の1951年(昭和26年)の流行歌「上海帰りのリル」だ。小説では「昭和二十五年四月」となっているが、これは清張の勘違いで、「上海帰りのリル」はその翌年に発売されている。

 この「捜査圏外の条件」は第5巻収録の「顔」と同様の倒叙ミステリーで、犯人の一人称(「自分」)で叙述される。私が第6巻でもっとも面白いと思ったのがこの短編だが(次いで面白かったのが「地方紙を読む女」)、「新本格派」のミステリー作家として「社会派」の清張を「永遠の仮想敵」としているという有栖川有栖が巻末の「私と清張」で下記のように書いている。

 秘密を抱えることはスリリングで、その秘密が深刻なものであれば恐ろしい。それを守ろうとしたら、嘘をつかなくてはならない。嘘がばれないようにするには、嘘を重ねなくてはならない。秘密を守っているうちにスリルと恐怖は、いよいよ増していく。清張作品の魅力は、秘密が崩れていく有様を冷徹な目でトレースしていることにあったのだ。面白くないはずがない。その効果が最もよく発揮されるのが「顔」のような倒叙ものだ。本書の収録作品の中では、「捜査圏外の条件」が好個の例。

(『松本清張短編全集06 青春の彷徨』(光文社文庫,2009)337頁)

 「顔」と「捜査圏外の条件」は同じ「倒叙ミステリー」のカテゴリに括られるのだろうが、「顔」は身勝手な殺人犯人を清張の分身である「唇の厚い」目撃者が、最後に視覚の記憶を呼び覚まされる話だ。第5巻ではこの「顔」が聴覚の記憶が鍵となる「声」のすぐあとに配置されて一対になっている。

 一方、「捜査圏外の条件」は清張作品には実は結構多い「復讐譚」だ。「十九の時に結婚し、終戦間ぎわに夫を失った不運な戦争未亡人」(光文社文庫版第6巻192頁)だった黒井忠男の妹・光子(27歳)が、持病である心臓病の発作によって旅先で急死した現場から逃げ出し、光子を身元不明の白骨死体にしてしまった男を殺そうと決意した忠男が、完全犯罪を実現させるために7年もの歳月をかけて復讐を計画する*2。男は忠男と同じ銀行に勤める先輩社員で、「これまで女出入りがたびたびあって細君が苦労したという噂」(同193頁)があり、忠男の近所に住んでいたためにいつの間にか光子と恋仲になっていたのだった。光子は亡父の実家のある山形に墓参りに行くと言って家を出たが、山形とは方向違いの「北陸の有名な温泉地」(同197頁)であるI県Y町*3で、身元不明のまま死後3週間仮埋葬されていた。だから忠男が光子と対面した時には、「棺の中の遺体は腐爛していたが原形はまだ残っていた。自分(忠男=引用者註)は確認して泣いた」(同198頁)。

 その光子が死ぬ前に好きでよく口ずさんでいたのが流行歌「上海帰りのリル」だった。やっと音楽の話題にたどり着いた。

 清張作品に音楽にちなんだ小説は少ない。現代音楽の作曲家・和賀英良が犯人である有名な『砂の器』があるが、あれは前衛芸術家の話であって音楽の話ではない。小説よりずっと有名であるらしい映画では、昔の加山雄三弾厚作)ばりのムード音楽的な作曲家兼ピアニストに変えられているが、いうまでもなく原作通りだと映画にならないからだ。「現代音楽で人を殺す」という荒唐無稽さ(この理由によって私は『砂の器』を訴求力は強いものの欠陥作品であると決めつけている)は、現代音楽の作曲家・西村朗

音波でひとを殺したりする(笑)。テレビなんかでやっている『砂の器』とは全然ちがう世界。松本清張さんは現代音楽で人を殺せるというか、そういう感性を持っていたんだろうね。これはすごいよね。

(『西松朗と吉松隆のクラシック大作曲家診断』(学習研究社アルク出版企画,2007)53頁)

などと馬鹿にされているほどだ。

 ただ、清張を弁護しておくと、清張最晩年に「モーツァルトの伯楽」(1990)という短編があるが、これはモーツァルトの没後200年を翌年に控えて当時プチブームが起きつつあった頃、自らも死を2年後に控えた清張がモーツァルト最後の魔笛』の台本を書いたエマヌエル・シカネーダーに焦点を当てて彼とモーツァルトとの関係を描いた異色の短編だ。このブログには取り上げなかったが、最晩年の短篇集『草の径』に収録されている。

草の径 (文春文庫)

草の径 (文春文庫)

 

  80歳になってなお好奇心を失わなかった清張に感心したし、先日読んだ清張未完の絶筆『神々の乱心』を読んだ時にも思ったことだが、清張には82歳で死ぬまで頭脳の衰えは全くなかった(目が悪くなり、体調全般も悪化して死期の近いことを感じていたらしいが)。このことにも驚かされる。

 悪い癖で、現代音楽やらモーツァルトやらに脱線してしまったが、ここから「上海帰りのリル」の話に移る。

 私は「上海帰りのリル」という歌を全く知らなかった。「捜査圏外の条件」(この小説の最大の欠点はタイトルが悪いことだ。なかなか覚えられない)を読んだのは自宅ではなかったので、読みながら歌をYouTubeで確認することはできず、どんな歌なのだろうかと想像していた。おそらく短調でアップテンポの典型的な「戦後歌謡」だろうと想像したが、帰宅して調べてみたら想像通りだった。

www.youtube.com

 正直言って、最初は「なんだ、こんな歌か」と思ったが、調べていくうちにいろんなことを知り、すっかり「上海帰りのリル」(1951)と、それに十数年先立つ戦前の流行歌「上海リル」(1934)*4にはまってしまったのだった。

 ここまででずいぶん長くなってしまったし、実は清張のこの短編集は今日が図書館に返却する期限の日なので、「上海(帰りの)リル」をめぐるネット検索の成果は次のエントリに回す。

 清張が「上海帰りのリル」を選んだのは実に適切だった。いなくなったリルを探す歌は、山形に行くと言って失踪した忠男の妹・光子を探す忠男と重なるし、光子自身も戦争未亡人だった。

 戦争からだいぶ経った1950年代(昭和25〜34年)になっても、まだ戦争による生き別れや死に別れがたくさんあった。だから戦後6年経った1951年に「上海帰りのリル」が流行したのだろう。清張が「捜査圏外の条件」を書いた1957年にもまだその爪痕は生々しかった。

 そういえば、遠藤周作の『海と毒薬』も1957年の作品だった。

海と毒薬 (新潮文庫)

海と毒薬 (新潮文庫)

 

  確か『海と毒薬』にも、近所に住んでいる人が戦場で人を平気で殺した経験があったという記述がなかったか。

 1950年代後半(昭和30年代前半)とはそういう時代だった。

 某国の某大嘘つきの最高権力者が大好きらしい西岸良平の漫画『三丁目の夕日』に出てくる気のいいおじさんも、その十数年前には中国人の捕虜を無慈悲に虐殺していたかもしれない。しかし、生まれも育ちも東京であるボンボンのバカ宰相には、そんなことなど思いもよらない。

 誰かさんが郷愁を抱く「昭和30年代」とやらは、「古き良き時代」でもなんでもないのである。

*1:これは1960年代にカッパ・ノベルスとして出版された全11冊が、清張生誕100年を翌年に控えた2008年に文庫版で復刊されたものだが、60年代初頭以前の短編しか収められていないし、それも全部ではなく清張の自選というから、「短編全集」と銘打つのは看板に偽りありだろう。

*2:「捜査圏外の条件」と共通点のある長編作品が『遠い接近』(1972)で、軍隊でいじめを受けた男に終戦後復讐する殺人が、長編の終わりの方で起きる。ただ、『遠い接近』では軍隊生活が延々と描かれるなど、中盤過ぎまではミステリーらしさの全然ない異色の作品になっている。

*3:「三方を山で囲まれ、清冽な川を一筋流している民謡で名高いこの温泉町」(光文社文庫版第6巻198頁)とある。時刻表及びネット検索で石川県加賀市(2005年の合併以前は山中町)の山中温泉であると推定した。

*4:次回の記事で詳しく述べるつもりだが、「上海帰りのリル」は「上海リル」のアンサーソングとして書かれたらしい。

松本清張『小説東京帝国大学』(ちくま文庫)を読む

 今月は松本清張の長編を2作続けて読んだ。『神々の乱心』(文春文庫,2000)と『小説東京帝国大学』(ちくま文庫,2008)だ。前者は1990年から没年の1992年まで『週刊文春』に連載された未完の作品(単行本初出は文藝春秋,1997)で、後者は1965年から翌66年にかけて『サンデー毎日』に連載された(単行本初出は新潮社,1969)。

 

神々の乱心〈上〉 (文春文庫)

神々の乱心〈上〉 (文春文庫)

 
神々の乱心〈下〉 (文春文庫)

神々の乱心〈下〉 (文春文庫)

 
小説東京帝国大学〈上〉 (ちくま文庫)

小説東京帝国大学〈上〉 (ちくま文庫)

 
小説東京帝国大学〈下〉 (ちくま文庫)
 

  2作のうち、より強く引きつけられたのは『神々の乱心』の方だが、『神々の乱心』を読み終えた直後に、この作品について書かれた原武史氏の論考を読んで、その解釈に大いに感心したので、この記事では原氏の本にリンクを張るに留めておく。『神々の乱心』を読んだあと続けて原氏の本を読むのがおすすめだ。逆順だと要らぬ先入観を持ってしまって『神々の乱心』を読む楽しさが大きく毀損されてしまうと思う。

  この記事では、『小説東京帝国大学』から気づいた点をメモしておく。備忘録的な記事だ。

 まずこの「小説」について書かれたブログ記事にリンクを2件張る。

blog.goo.ne.jp

 以下上記リンクを張った記事から引用する。

(前略)この作品の叙述スタイルは、明治後半あたりに日本に起きたいくつかの事件―「南北朝正閏論争」や「大逆事件」など―を通して、それに対して東京帝国大学はどういった態度をとってきたのか、というところから東京大学像を描き出すものである。そこには特定の「主人公」は実は存在しない。この書を読みにくくしている一因ともなっているのだが、ある意味では「東京大学」という法人が主人公であるとも取れるのである。なお、この著作はあくまでも松本氏の「小説」であるからして、これに記述された事項が全て真であるというような盲信的な態度は危うさを孕む。とはいえ、かなりの資料集めと実証をされているようであり、なかなか歴史的読み物としても歯ごたえのあるものであった。

物語は冒頭、私立哲学館(現在の東洋大学の前身)講師中島徳蔵の視点から、「哲学館事件」の経過を通して東京帝国大学を見る構図になっている。ムイアヘッドの「動機善にして悪なる行為ありや」という倫理学の教科書の内容を巡って、文部省VS哲学館などの私学の論争が起こる。文部省側の言い分としては、動機が善であるならばその行為も善として許されるとすれば、例えばクロムウェルのような帝王を弑逆した者も許されるということで、これは国体上危険な考えであるということらしい。この事件が元で、哲学館は中等教員無試験検定資格という特典を取り上げられている。
物語では、実はその背後に、山県有朋の影を見る。帝国大学令第一条には「帝国大学ハ国家の須要【注:しゅよう。ぜひ必要なこと。】ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥【注:うんのう。学問・技芸の最も深いところ。】ヲ攷究【注:考究】スルヲ以テ目的トス」とある。当時の帝国大学の教授は貴族院議員など官職を兼ねる者が多く、また官からも多くの講師が兼任で来ていて、政府と密接につながっていた。さらに帝国大学教授が高等文官の試験委員を独占していたため、行政官でも司法官でも、否、弁護でも、東京帝国大学卒業生にあらずんば合格しないとも言われていたようである。明治26年までは大学卒業者は無条件で官吏に採用されてすらもいたのである。要するに帝国大学はその設立目的からして官僚と技術者の養育を目指しており、山県らからすればそれ以外の私学の学問などはいらないというのである。
また、そのムイアヘッドの説はともすれば皇室の問題と大きく絡んでくるために、帝国大学の教授たちは沈黙を保つ。時の東京帝国大学総長山川健次郎教科書検定委員長も兼ねていた。その教授らの態度を東京帝大文科の学生有志は非難し、また新聞には、文部省による学問への圧迫であると書きたてられる。が、久米邦武が「神道は祭天の古俗」によって大学を追われた先例があるため、その本質には立ち入らないで、教育行政上の問題として片付けようとするのである。(後略)

(ブログ『ながいきんのひそやかな呟き』2004年7月25日付記事「『小説東京帝国大学』 松本清張著」より)

 ここまでが小説の最初の3分の1だ。清張は東京帝国大学と銘打ちながら、現在の東洋大学で起きた「哲学館事件」から稿を起こしている。この後に続く、日露戦争を煽った「七博士の開戦論」は立花隆の『東大と天皇』でも詳しく取り上げられたのを読んだことがあるので知っていたが、「哲学館事件」は知らなかったし、立花の『東大と天皇』第4巻(文春新書,2013)巻末の索引で哲学館事件や中島徳蔵を調べてみたが、載っていなかった。

 哲学菅事件については、東洋大学編『井上円了の教育理念 - 歴史はそのつど現在がつくる』(2014年改訂17版、初版は1987年)のpdfファイル(下記URL)で事件の概要を知ることができる。

https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/14179.pdf

 

 上記ファイルから、答案を書いた学生の名前が加藤三雄であることがわかるが、清張の小説では「工藤雄三」という仮名に変えられている。この小説においては登場人物は基本的に実名で登場するのだが、工藤雄三だけは仮名だ。しかもネット検索をかけても加藤三雄の人物像は出身地を含めてよくわからない。

 小説では工藤雄三が下記のように描写されている。

  工藤は福岡県朝倉郡の生れだった。小学校は土地だったが、中学校は福岡の中学を出ている。一年生からずっと首席をつづけていた。それで言葉に九州訛がある。言葉だけではなく、その顔つきも、いかにも九州系らしい、色の黒い、唇の厚い若者だった。

松本清張『小説東京帝国大学』(ちくま文庫2008, 上巻44頁)

 前回の記事でも触れた、清張作品に頻出する「唇の厚い男」の登場だ。清張はこの学生の造形を創作し、そのために加藤三雄という実名ではなく 工藤雄三という仮名を使ったものだろう。もちろん清張の分身というべきキャラクターだ。

 この工藤雄三は、小説の上巻には舞台回しの役柄でずいぶん登場するが、下巻に入ったとたんに登場しなくなり、最終章「田舎教員の手紙」に唐突に再登場して小説を締めくくる。これはずいぶん強引な物語の幕引きだと思った。つまりこの小説は上巻と下巻でスタイルがだいぶ違うのだ。上巻は史実をベースとしながらかなりの度合いで創作を織り交ぜているのに対し、下巻はその作業の困難さに清張が面倒臭くなったのか、「明治史発掘」と言いたくなるほどのセミ・ノンフィクション的な作りになっている。それだけ下巻は取っつきが悪くなっているが、それでも下巻の後半、南北朝正閏問題で藤沢元造という大阪府郡部選出の衆議院議員の妄動が描かれるあたりでは、藤沢の俗物性が面白くて再び読書に興が乗ってくる。この藤沢元造もWikipediaにも出てこないマイナーな男だ(元造の父・藤沢南岳は載っている)。

 南北朝正閏問題はさすがに立花隆天皇と東大』文春文庫版第1巻(2012)に載っているし、藤沢の名前も出てくる。

天皇と東大〈1〉大日本帝国の誕生 (文春文庫)

天皇と東大〈1〉大日本帝国の誕生 (文春文庫)

 

  しかし、なんと立花は藤沢元造の名前を(恐らく)間違えて「藤沢幾造」と記載している(文春文庫版第1巻305-306頁)。そのことに立花も文春の編集部も気づかなかったくらいマイナーな男、それが藤沢元造だった。だから、元造が桂太郎に丸め込まれて南北朝正閏問題に関する極右的な質問を取り下げたばかりか議員辞職するに至った経緯に関する清張の記述はかなり「盛った」ものではないかと想像したが、『天皇と東大』を参照すると、元造が極右仲間を裏切って金を握らされたことを糊塗するために発狂を装ったという清張の記述には、当時の東京朝日新聞記事というソースがあったことが確認できる。なお『天皇と東大』には『小説東京帝国大学』からの引用はなく、清張作品からは『昭和史発掘』に収められた2.26事件に関する記述の引用があるのみだ。その引用において立花は、

 実際問題として、二・二六事件ではそのようなこと(反乱軍が秩父宮を擁して昭和天皇廃位に追い込むこと=引用者註)は何も起らなかったが、秩父宮が革命派にかつがれて、昭和天皇皇位を争うことになるということは、考えられないことではなかった。実は元老の西園寺も、その可能性を心配していた。

立花隆天皇と東大』文春文庫版第3巻347頁)

として、続く文章で『西園寺公と政局』から引用文を書いている。

 ところで立花隆松本清張とでもっとも違うのは、「戸水事件」に対する評価だろう。『小説東京帝国大学』では哲学館事件のあとに、戸水寛人を最過激派とする「七博士の開戦論」、次いで戸水の帝国大学教授職を解こうとした政府と東京帝大とが争った「戸水事件」が取り上げられるが、この時の東大教授たちへの評価が立花と清張とでは大きく違うのだ。その点に触れたブログ記事がある。

blog.goo.ne.jp

 以下、上記リンクを張ったブログ記事から引用する。

  私が東大の歴史に興味を持ち、有名な事件をひととおり知ったのは、2005年に刊行された立花隆氏の大著『天皇と東大』を読んでからである。本書は、明治35年(1902)の哲学館事件から始まるが、続いて、翌年の戸水事件に筆が及ぶと、ああ、あの一件か、とすぐに合点がいった。日露戦争の講和条件をめぐって、法科大学教授の戸水寛人らが、政府の弱腰を批判し、対ロシア強硬策を訴えた事件である。戸水は休職、山川健次郎総長は免官を命じられた。東大・京大の教授たちは、これを大学の自治と学問の自由への侵害と捉え、総辞職を宣言した。その結果、戸水は復職。山川は東大には戻らなかったが、のち京大・九州大の総長になっている。

 戸水事件の評価は難しいが、その後の滝川事件などに比べれば、なんとか「学問の自由」が守られたように見える。立花隆氏も、当時の『時事新報』の社説を引いて、日本では政府と大学が一体化しているところに根本的な問題があると指摘しながらも、「大学の団結力の前に政府が敗北したのはこのときだけで、あとは大学側が敗北に次ぐ敗北を重ねていく」と書いているので、この一件だけは「大学の勝利」と認めているようだ(立花氏の『天皇と東大』には、本書への言及はなし)。

 ところが、松本清張の評価は、もっと辛い。明治39年に発表された鳥谷部春汀の意見を引いて言う。教授たちの唱える大学の独立、学問の自由は単なる口実であると。当時の文部大臣・久保田譲は学制改革の急先鋒だった。学制改革とは、近代日本の教育制度の「ねじれ」を背景にしている。最高学府である帝国大学は、文部省とは無関係の起源を持ち、教育程度が高すぎて、小中学校の普通教育と上手くつながらない。この弊害を是正することが茗渓派(師範学校閥)の官僚たちの念願で、帝国大学の権威を守ろうとする大学派(帝大閥)は猛反対だった。この戸水事件は、要するに大学人たちによる「久保田文相追い落とし」が真相だったというのである。

 さらに著者は、教授たちが戸水を擁護できたのは、この問題が「皇室の尊厳と衝突することではなかった」からだ、と鋭く本質をつく。明治25年、文科大学教授の久米邦武が「神道は祭天の古俗」という論文によって辞職に追い込まれたときは、誰ひとり「学問の自由」を主張しなかった。「帝国大学教授の本質がここに露骨なまでに現れている」と手厳しい。

 本書は、続いて明治41年9月から本格的に着手された国定教科書の改訂と、南北朝正閏問題に触れる。そもそも教科用図書調査委員総会で、南北朝併立を書き入れるよう主張したのが、山川健次郎加藤弘之だったとは! このシーン、あまりにも小説的だと思ったけれど、当然、何かの典拠があるのだろう。

 渦中の人となる喜田貞吉の人物像もよく書けている。史実に対する学者らしい誠実さと、いくぶん倣岸不遜で無愛想なところも。明治44年、喜田は休職を命じられるが、このとき、文部省や政府に楯ついた帝国大学教授は誰もいなかった。なお、この南北朝正閏問題も、実は国定教科書から締め出された私立大学(早稲田)教授連の、文部省と帝国大学に対する反感から発しているという説もある。どこまでも生臭い話だ。その後の喜田は不遇に見られているが、広い分野で数々の著作を残したという。著者が「こういう幅の広い学者は現在ではいない」と評価しているのが、なんとなく嬉しい結末だった。(後略)

(ブログ『見もの・読みもの日記』2008年3月31日付記事「1960年代の『天皇と東大』/小説東京帝国大学松本清張)」より

  私は5年前に『天皇と東大』を読んだ時、戸水事件における東大教授たちに対する立花隆の評価に釈然としない思いを持ったので、清張の指摘に5年越しの溜飲を下げた思いだ。皇室のタブーに抵触しないばかりか、政府よりさらに「右」というか好戦的な立場から日露戦争開戦論を煽り、一貫して極端な拡張主義を声高に唱えた戸水寛人に対してだけ「学問の自由」を守ったという東大とその教授たちを肯定的に評価して良いものだろうかと思ったのだった。たとえば清張が名前を挙げた久米邦彦や喜田貞吉らを守ったのであればともかく、極右教授のみ「学問の自由」を守った東大とその教授とは、明治時代からどうしようもなかったといえるのではないか。

 また、その東大と文部省に対して、南北朝正閏問題についてさらなる「右」の立場から攻撃を加えた早稲田大学の教授たちも全く評価できない。当時の早大教授たちは、今で言えば安倍自民党に対する「希望の党」だの日本維新の会だのと同様の「体制補完勢力」以外の何物でもなかった。そこには反骨精神の欠片も認められない。早稲田大学も昔からそういう体質の大学だったんだなと改めて思った。

 ここで安倍政権に言及したので、この記事の最後に、『小説東京帝国大学』に出てくるある「軍人のち政治家」と安倍晋三との類似についても言及しておく。

 まず安倍晋三に関するブログ記事より。

hiroseto.exblog.jp 以下、上記にリンクを張ったブログ記事から引用する。

安倍晋三というのは、ヒトラーというより、戦前の首相で言えば立憲政友会に近い。
田中義一が政友会にお友達のごろつきを大量に入党させたり幹部に取り立てたりし、劣化させたたのは、安倍政治を思い出させる。
田中が外務次官(田中が外相兼務のため実質は森外相)に取り立てた森恪という男は特にひどく、慶応幼稚舎でありながら慶大に進めず、しかし、野心は人一倍強かった。
中国侵略は実はほとんど森恪が構想したもので、森は515事件でも会心の笑みを浮かべた。直後に急死しているが、もし急死しなければ間違いなくA級戦犯で死刑だったろう。
立憲政友会の支持基盤も当時の地方の地主と旧財閥の三井。JCや重厚長大を基盤とする安倍に似ている。

田中は満州某重大事件で天皇にお叱りを受け、退陣しているが、今上天皇が安倍に不快感を持たれているとされているのに似ている。天皇のお叱りを受けての田中の退陣は、正直、政党政治に暗雲を投げ掛けたが。(後略)

(『広島瀬戸内新聞ニュース』2018年3月23日付記事「安倍=田中義一=政友会の次は小泉進次郎=立憲民政党に注意」より)

  上記記事は安倍晋三田中義一になぞらえているが、現在安倍政権は森友学園問題に絡んだ財務省文書改竄事件で批判を浴びている。

 一方、安倍晋三になぞらえられた田中義一も、軍人時代にとんでもない悪事をやらかしていた。田中義一日露戦争開戦を実現させるために、なんと参謀本部の文書を改竄したのだ。そのことが『小説東京帝国大学』に書かれているので以下に引用する。

 参謀本部の機密作戦日記によると、軍首脳を開戦に導いた資料を謀略的に作成したのはロシヤ班長田中義一少佐などということになっている。当時、軍首脳は数字的に日本の劣勢を知って開戦反対であった。田中はロシヤ駐在武官をしたことがあり、その当時、ロシヤ帝政政治の腐敗、国民の困窮、革命派の擡頭などを見てきているので、いま戦えば必ず勝てると主張していた。しかし、首脳部は容易にその意見を容れない。

 そこで田中は、部下の小柳大尉と謀って参謀本部の資料を改竄した。

 その頃、満洲におけるロシヤ軍の糧秣準備は六、五三九万ポンドに達し、シベリア鉄道を通じての動員可能兵力は約四十万であった。これに対し日本軍の輸送力はロシヤ軍の八割、動員兵力は二十万がぎりぎりといわれた。田中らは、この数字を逆にして日本優勢の資料を偽造したのだ。

 この資料改竄も手伝って、遂に軍首脳は日露開戦に踏切ったのだが、戦ってみると、やはり資料の数字は正確で、日本軍は悪戦苦闘する羽目になる。――

松本清張『小説東京帝国大学』(ちくま文庫2008, 上巻276-277頁)

  さすがは安倍晋三がなぞらえられるだけのことはあって、田中義一とは公文書の偽造など悪いとも何とも思わない人間だったようだ。田中のデータ捏造によって死ななくても良い兵士がずいぶん死んだことだろう。要するに田中義一とは実質的な大量虐殺犯であって、死刑に処されるべき人間だったと思うのだが、そんな人間が責任を問われることもなく内閣総理大臣になったあげくに昭和天皇の逆鱗に触れ、それがさらに政党政治の危機を招いて軍部独裁政治への道を開いた。

 日本は昔からそういう国だった。だから敗戦からわずか12年後、かつてのA級戦犯容疑者だった安倍晋三の母方の祖父・岸信介が総理大臣になれたのだ。

 その岸の野望を引き継ぐ安倍晋三の政権は、一刻も早くぶっ潰さなければならない。

 清張の本からだいぶ逸れてしまったが、小説としては失敗作ではないかと思われるものの、読書から得た収穫は少なくなかった。

松本清張の快作ミステリー「顔」- 鉄道の旅と「いもぼう」と「唇の厚い男」と

 相変わらず松本清張にはまり続けている。2015年末頃からは「清張作品を読めるだけ読んでやろう」と思っており、上下巻を2冊に数える数え方で言えば、読んだ清張作品は既に100冊を超えた。少し前に清張処女作の「西郷札」を読んだが、今は清張絶筆となった未完の長編『神々の乱心』(文春文庫)を読んでいる。まだ4分の1くらいまでしか読み進んでいないが。

 先週の日曜日、馬鹿陽気だった3月4日には、青春18きっぷで乗ったJRの普通列車の車内で、光文社文庫版の『松本清張短編全集』第5巻を読んでいた。

声―松本清張短編全集〈05〉 (光文社文庫)

声―松本清張短編全集〈05〉 (光文社文庫)

 

  前回の記事にも書いたが、全集とは銘打たれているものの実際には1962年までに発表された短編の著者自身による「選集」だ。第5巻には1954〜56年の作品*1が収められている。この第5巻は、冒頭に置かれた「声」と次の「顔」がミステリー作品であり、巻中面白いのもこの2作だ。「声」が聴覚の記憶、「顔」が視覚の記憶が犯罪を暴くという対比が面白い。また、両作とも鉄道が大きな役割を担う。「声」に出てくるのは東京都内の路線だが、「顔」は山陰本線山陽本線を使った長旅が出てくる。清張は自選の短編選集にこの2作を並べた。2作を比較すると、「声」も良いが「顔」は明らかにその上を行く。ことに幕切れが痛快だ。清張のミステリー短編の中でも屈指の快作といえるのではないか。

 「顔」は、『松本清張傑作選 時刻表を殺意が走る 原武史オリジナルセレクション』(新潮文庫, 2013)にも収められている。

  私は原武史*2に限らず著名人が選んだ清張作品の「選集」は1冊も読んだことがないが、光文社文庫版の短編全集第5巻を読んだあと、図書館で上記原氏による選集を手にとって、「顔」に関する氏の解説を読んでみた。なかなか面白い指摘があったので、それを引用したサイトをネット検索で探したら、2013年5月13日付の朝日新聞に載った尾関章氏の書評がみつかった。以下の引用文にはネタバレが含まれるので、未読で「顔」を読みたいと思われる方は読まれない方が賢明かもしれない。

https://book.asahi.com/reviews/column/2013050700005.html(註:リンク切れ)

 

(前略)「顔」は、主人公の若手新劇俳優、井野良吉の日記をたどるかたちで始まる。ある日、劇団に大物映画監督から「達者」な役者を数人出してほしいと打診があったという話を耳にする。意外なことに、自分に劇団のマネージャーから声がかかる。舞台を観ていた監督が指名してきたという。「数カットしか出ない傍役(わきやく)だがね。ぜひ君にもという話なのだ」

 井野にとっては、うれしい話だった。だが「同時にある冷たい不安が胸を翳(かげ)った」。怖気づいたわけではない。「ぼくの不安は、もっと別なものなのだ。もっと破滅的なことなのである」。映画は舞台と違って「全国の無限の観客層が相手」で「誰が観るかわからない」(「誰が……」に傍点)。ここで読者は、この小説の鍵は「顔」をだれかに見られることにあるらしい、と気づく。

 封切りから2カ月近くたって、日記に「彼は観なかったのかもしれない。今だに何事もない」と書く。「ないのが当然であろう」。何かが起こるとしたら、それは「一万分の一か、十万分の一かの偶然」だからだ。

 この映画出演は、新聞でも「井野良吉が印象的。どこかニヒルな感じのする風貌(ふうぼう)がよい」と好評だった。気をよくした監督が、今度はもっと大きな役をもってくる。出番がふえて有名になる。有名になればもっと映画に出るようになる。「あの男にぼくの顔が見られる可能性は、うんと強くなって、十分の一くらいな確率になろう。そうなれば、もはや、偶然性ではなく、必然性である」

 「あの男」――石岡貞三郎を知ったのは9年前。「昭和二十二年の六月十八日の午前十一時二十分ごろから二十分間、山陰線京都行上りの汽車の中であった。島根県の海岸沿い、周布(すふ)という小駅から浜田駅に到着するまでの間であったと思う」。

 井野の隣には、そのころつきあっていた北九州八幡の大衆酒場の「女給」ミヤ子がいた。身ごもっていて産む気でいる。「ぼくはミヤ子から一日でも早く逃がれたかった」。そこで、ある企みをもって温泉に誘ったのだ。ところがミヤ子は、込みあう車内で店の常連客を見つけ、声をかけてしまう。「あら、石岡さんじゃない?」。男は井野に目をやる。「ぼくは窓の方を向いて知らぬ顔をして煙草をくわえていた」(この箇所、傍点)

 詳しくは書かないが、井野は計画を実行した。気がかりは、あの20分間だ。「あの男はぼくの顔をじろじろと見ていた」「必ず見忘れはしないであろう」「自分も、あの男の、眼のぎょろりとした唇の厚い顔を覚えてしまった」。東京に来ても興信所に頼んで石岡の身辺情報を集め続ける。そして二つめの映画出演の声がかかって、不安の根を絶つことを思い立ち、別人の名を騙って彼を京都に呼びだすのである――。

 この小説には石岡の独白部分もあり、話を別の視点からたどり直している。石岡が八幡に戻って酒場をのぞくと、ミヤ子は行方不明だ。山陰線で男と一緒にいるところを見たと言うと、女たちから「どんな顔をしてた? ハンサム?」と質問攻めに遭う。「おれは困った。おれはその男の顔を見たつもりだが、よく憶えていないのだ」(「よく」以降に傍点)。丸顔か色白か眼鏡をしていたか。何を聞かれてもさっぱりだ。

 ここにも、幼少の僕と子役タレントのような非対称がある。石岡は井野にとって忘れてはならない人物だ。一方、井野はたとえ「ニヒルな感じのする風貌」でも、石岡にとってどうということのない存在だった。だから印象に残らない。だが、油断は禁物だ。記憶の奥底のことまではわからない。

 石岡は警察に相談して、刑事とともに京都に向かう。夜汽車だった。朝になり、「洗面具をもって顔を洗いに行き、座席に帰ってくると、窓はいよいよ明るい」。夜行に洗面具は必携だったなあ、と思わせる場面だ。窓の外を松林が流れ、海の向こうに淡路島がある。その景色を刑事が眺めている。「おれは、それを見て、ふと、こんな場面をどこかで見たなという気がした」

 これは、一つの伏線だった。巻末の「窓外をあかずに眺めていた人物」という一文で、原武史山陽本線の明石から須磨にかけての海岸沿いの風景と、山陰本線の周布から浜田にかけての海岸沿いの風景は、列車の窓から見たときにとてもよく似ている」と書いている。どちらも内陸から海辺に出たところだという。こんな読み解きこそ、原コレクションの醍醐味だろう。

 

(「尾関章の本棚 文理悠々『清張×原武史=鉄道の妙という話』」(BOOK asahi.com 2013年5月13日)より)

 

 「山陽本線の明石から須磨にかけての海岸沿いの風景」は、2000年代の大半を中四国(最初の3年が岡山県、あとの7年が香川県)で過ごした私の「青春18きっぷ」の定番コースだった、姫路や相生、播州赤穂などから大阪・神戸方面行きの新快速の車内で数え切れないくらい見た*3

 「山陰本線の周布から浜田にかけての海岸沿いの風景」がそれに似ているという。私は10年間の中国・四国地方在住時代に、中四国9県のうち、なぜか島根県にだけは足を踏み入れていないので*4、周布や浜田を山陰本線で通過したのは、1986年3月に山陰旅行をした時のただ一度だけだ。島根県は清張作品によく出てくるし、『砂の器』の亀嵩(かめだけ)など訪れてみたい地もあるが、残念ながら中四国在住時代には清張作品を知らなかった。

 あと、「顔」で特記しておきたいことが2つある。1つは、以前に下記記事で取り上げた「いもぼう」という京都・円山公園内にある平野屋本家の名物料理(海老芋と里芋の一種と棒鱈を炊き合わせた料理)が出てくることだ。

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 「いもぼう」が登場する清張作品は3作ある*5。長編『球形の荒野』と『混声の森』、それに今回取り上げた「顔」だ。この3作の中でもっとも印象的な場面に「いもぼう」が出てくるのが「顔」なのだ。物語の「起承転結」の「転」に当たる場面で効果的に用いられている。

 もう1点は、「顔」で殺人犯・井野良吉が被害者と山陰本線の列車内での同行を目撃した石岡貞三郎の容貌が「唇が厚くて眼のぎょろりとした男」(光文社文庫版97頁)と描写されていることだ。「唇の厚い男」とは松本清張自身ではないか。そういえば清張は自作がテレビドラマ化された時にチョイ役で出演するのが好きだったそうだが、それを文章でやるのも好きだった。というのは、清張作品には「唇の厚い男」が実によく出てくるのだ。

 「顔」という、映画俳優が犯人である上、車内の乗客や風景などが大きな役割を担うきわめて視覚的な小説において、チョイ役ではなく犯人と被害者の同行の目撃者という重要な役柄の人物に「唇の厚い男」を当てた清張の稚気愛すべし、と大いにウケた次第。

 光文社文庫松本清張短編全集は、第5巻に続いて第8巻を読んだ(これまでに第1〜5巻と第8巻を読了した)。 

遠くからの声―松本清張短編全集〈08〉 (光文社文庫)

遠くからの声―松本清張短編全集〈08〉 (光文社文庫)

 

  この第8巻には、2作続けて「唇の厚い」男が出てくる*6。ミステリーの傑作「一年半待て」の岡島久男と、時代小説集『小説日本藝譚』(新潮文庫)収録作として以前一度読んだことのある「写楽」の蔦屋重三郎だ。前者は小説の最後に出てきて裁判を微罪で切り抜けた殺人犯の犯意を暴く役柄だが、「太い眉と高い鼻と厚い唇は精力的な感じ」(光文社文庫版173頁)とあるので、失礼ながらあまり清張の印象とは合わない。しかし、「写楽」には「写楽の浮かない顔を見ると、重三郎はまた厚い唇を動かした。」(同216頁)とあり、この文章を読んだ時に、蔦屋重三郎役を演じる清張の姿を思い浮かべてニヤリとしてしまった。

 思い出せば、ルサンチマンの塊みたいな登場人物に「唇の厚い」男がいたような気もする。「清張作品における『唇の厚い男』」を調べてみるのも一興かと思った。

 もっとも、清張作品は文庫本で100冊読んでもまだ半分以上ありそうなくらい多いので、全作品から「唇の厚い男」を抽出する作業は並大抵ではなさそうだが(笑)。

*1:第5巻で一番古い「恋情」は『小説公園』1955年1月号発表だが、1月号の常で1954年末に発売されている。

*2:私が現在『神々の乱心』を読んでいるのは、この小説を論じた原武史氏の本(2009年に文春新書から出ていた)が文春文庫入りしたのを買ったことがきっかけだ。作品の原典を読まずに作品論を読む意味はないので、原作を読み始めた次第。

*3:東京に移住してからは春(3〜4月)にしか「青春18きっぷ」を使っていないが、中四国在住時代には夏(7〜9月)にも冬(12〜1月)にも使っていた。なお、「顔」を読んだ時に私が乗っていたのは、海岸沿いではなく、小山(栃木県)から友部(茨城県)まで走り、右手に筑波山が見える水戸線の列車だった。

*4:山口県も九州に行く時に通過しただけで降り立ってはいないが、島根県には通過もしていない。鳥取県の米子には何度か行ったが。

*5:この記事を書き上げたあと、清張の絶筆の長編『神々の乱心』を読んでいたら、文春文庫版上巻232頁に、「おや、奥さまは京のお方、生憎、芋ぼうやおかゆさんがなくて申し訳ありません。」という科白が出てきた。固有名詞が出てくるだけのこの作品を入れれば4作あるといえるかもしれない。

*6:第8巻には他にももう一つ「唇の厚い男」が出てきたような曖昧な記憶があるが思い出せない。あるいは記憶違いかもしれない。

松本清張と杉田久女、森本六爾、直良信夫、それに父・峯太郎 - 『松本清張短編全集03 張込み』(光文社文庫)を読む

 今年最初の更新でも、またまた松本清張作品を取り上げる。清張以外の小説も読んでるし、小説以外の本も読んでいるのだが、清張作品の場合、作品の背景を調べてみるといろいろ興味深いことを知ることができる機会が多いので、どうしても取り上げる頻度が増える。

 5年前の2013年11月に『Dの複合』を読み、それまで食わず嫌いならぬ読まず嫌いだった清張ワールドに一転してはまって以来、清張作品を読むのももう5年目に入り、3年目に入った2015年末以降は、清張作品をどれだけ読めるかにチャレンジしている。すべて図書館で借りた文庫本で読み、読んだ本の冊数は上下本を2冊と数えると既に96冊に達したが、それでも推理小説を含む現代小説の長編でようやく半分を少し超えたところで、短編小説は未読の方が多いし、時代小説に至っては読んだ方が未読よりもずっと少ない。図書館に置いてある文庫本は、人気のある推理小説の長編が多いせいもある。

 清張が芥川賞をとった短編「或る「小倉日記」伝」は以前からの懸案だったが、この作品を含む新潮文庫の傑作短編集第1巻が図書館になかなか置いてないので読むのが遅れた。そうこうしているうちに、昨年光文社文庫からリニューアル出版された「鴎外の婢(ひ)」を先に読む羽目になった。

鴎外の婢: 松本清張プレミアム・ミステリー (光文社文庫)

鴎外の婢: 松本清張プレミアム・ミステリー (光文社文庫)

 

  「鴎外の婢」は1969年の作品で、光文社文庫の「松本清張プレミアム・ミステリー」では「書道教授」(1970)が併録されている。この2作は、『週刊朝日』に連載された連作「黒の図説」の第3話と第4話に当たる中篇小説だ。単行本初出は光文社のカッパ・ノベルスで1970年刊だが、1974年に新潮文庫入りしており(絶版)、以下の作品紹介は新潮社のサイトによる(2012年に電子書籍化されている)。

www.shinchosha.co.jp

 また、ネット検索で知った大津忠彦氏の論文「松本清張著『鴎外の婢』にみられる考古学的虚実構成」によると、カッパ・ノベルス版『鴎外の婢』(第29版、1973年10月5日発行)のカバー折り込み部に、

「鴎外の婢」は出世作『或る「小倉日記」伝』を書き、最近「魏志倭人伝」の謎を学問的に究明した『古代史疑』を書いたこの著者でなければ、到底着眼できぬ独創的な状況設定である。

と書かれていたそうだ。

 「鴎外の婢」に盛り込まれた、小倉時代の森鷗外、それに清張得意の考古学に関する蘊蓄がなかなか面白かったので、モデルと実在の人物の対比、つまりどこまでが史実でどこからが清張の創作した虚構なのかをネットで調べながら読んだ。

 と同時に、懸案だった「或る「小倉日記」伝」を含む短篇集もそろそろ読まなきゃなあと思ったのだった。図書館に新潮文庫版の傑作短編集が置いてなかったことと、区内10箇所の図書館にバラバラではあるけれども全巻を読むことができる(たとえば第2巻は某館にしか置いていないけれども、その図書館には第1巻が置かれていないなど)光文社文庫版の「松本清張短編全集」全11巻を読むことにした。これは1962年にカッパ・ノベルスから刊行されていたものを2009年の清張生誕100周年に合わせてリニューアル出版されたもので、「全集」とは銘打たれているが1962年までの作品しか収録されておらず、かつ前回のエントリで紹介した『黒い画集』からは収録されていない。

 これまでに読んだのは第1巻と第3巻。

西郷札―松本清張短編全集〈01〉 (光文社文庫)

西郷札―松本清張短編全集〈01〉 (光文社文庫)

 
張込み―松本清張短編全集〈03〉 (光文社文庫)

張込み―松本清張短編全集〈03〉 (光文社文庫)

 

  「或る『小倉日記』伝」は第1巻に収録されている。この作品は芥川賞受賞作にして坂口安吾に絶賛されただけのことはあって、これまで読んだ清張作品中でも屈指の名作だと思うが、この作品については既に語られ尽くしていると思われるので、ここでは取り上げない。

 今回は、第3巻に収められたいくつかの作品について書く。短篇集全体としてとらえた場合、この第3巻の方が第1巻よりも面白いと思った。

 第3巻で最初に強い印象を受けたのは、清張の最初の推理小説として知られる「張込み」ではなく、第3巻の3番目に置かれ、かつこの短篇集の中ではもっとも早い1953年に書かれた「菊枕」だ。

 これは、俳人・杉田久女(1890-1946)をモデルにした小説だ。杉田久女は松本清張と同郷の小倉の人だ。久女の略歴については、たとえば下記読売新聞記事を参照されたい。

www.yomiuri.co.jp

 カッパ・ノベルス版及びそれを復刻した光文社文庫版の「あとがき」で、清張は下記のように久女を評している。

 久女の俳句については今日すでに声価が定まっているので、ここに言うことはない。この天才的な俳人は、実は小倉中学の絵画教師の妻だった。彼女は、虚子や、その周辺の巨大グループに接してからは、ひどくその境遇に劣等感をもち、家庭は必ずしもあたたかではなかった。その性格の強さは虚子を偶像化し、その周辺に向っては限りない敵意を燃やした。小説の題は「ちなみぬふ陶淵明の菊枕」からとったが、久女が縫っていた菊枕は、中国に伝わる長寿の徴にと虚子に献じたのであった。この取材のため私は奈良まで行き、久女のかつての弟子だった橋本多佳子氏や、『天狼』の平畑静塔氏などに会った。もとより、地元の俳人からも話しを聞いた。その一人の女流俳人が「どんな題をつけるの?」としきりにきいたが、てれくさくて最後まで明かさなかったのを覚えている。(光文社文庫版325頁)

 同じ光文社版短編全集第3巻に続けて収録された、後述の「断碑」及び「石の骨」を読むと、久女と同じく恵まれない環境にいた清張が久女に深い共感を寄せていたことがわかるが、しかしながら清張による「ぬい女」(杉田久女をモデルにした主人公)の描写はあまりにエキセントリックで、それが久女の遺族を怒らせ、清張は久女の遺族から名誉毀損で告訴されてしまったのだ。たとえば久女の長女・石昌子(1911-2007)は、1992年に福岡シティ銀行常務取締役だった本田正寛氏との対談で、次のように述べている。

吉屋信子さんの評伝「底のぬけた柄杓」にとりあげられてから、俳壇や、地元や、ラジオ・テレビや、小説・演劇まで、久女のことが滅茶苦茶で悲しかったですね。松本清張さんの「菊枕」も、久女にはあまりにもきびしい作品でした。

本田

それらが次々と孫引きされて誤った久女像が世間を歩きだすのですね。
でも宇内先生に絵を習われた増田連さんが「杉田久女ノート」でその誤りを実に明確に指摘されている。石さんは内側から、最近は田辺聖子さんや澤地久枝さん、上野さち子さんといった方たちが、外側から久女像を描いておられる。次第に、ありのままの久女がよみがえってくるのですね。

そう。ありがたいですよ。死後、久女は小倉に受け容れられなかった。父も母も、それぞれ小倉の文化面につくしています。だのに逝くなってから、悪く扱われるばかりだったでしょう。

本田

そういう事もあったのでしょうね。
でも、いまは市が音頭をとって、久女を北九州の立派な俳人と、誇りにしています。時の流れが、久女をおおっていた濁りを洗いながしているのでしょうね。

  清張が書いた「歪められた」久女像には、吉屋信子という先人がいた。私は類似の事例に昨年接したばかりだったことを思い出した。それは伊藤律である。律は特高のでっち上げによって「仲間の共産党員を売ったスパイ」に仕立て上げられた。その特高が捏造した虚像に飛びついたのが、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実(1901-1944)の異母弟・尾崎秀樹(1928-1999)だったが、その尾崎秀樹による伊藤律像を拡散したのが清張だった。伊藤律像を歪めたのは特高だったが、杉田久女像を歪めたのはどうやら師の高浜虚子であったらしく、久女ファンの間では虚子の評判は散々だ。久女ファンが虚子を糾弾する文章もいくつか読んだが、長くなるので引用等は割愛する。

 ただ、今回のネット検索で一番興味深かったのは、久女の夫であった杉田宇内(うない)の教え子が今も健在でブログを書いているのを知ったことだった。ブログの記述を信頼すればブログ主は今年で満89歳くらいと思われるが、今でも元気にブログを更新している。残念ながら、右寄り、かつ少なくとも一頃は小沢一郎を熱烈に応援していたとおぼしきブログ主の政治的立場や書かれている時事評論にはほとんど同意できないが、杉田宇内にまつわる記事は興味深い。その中から、下記のブログ記事を引用しておく。

『春雨や畳のうえのかくれんぼ』  久女

“我ときて遊べや親のないすずめ” “そこのけ、そこのけお馬が通る”の一休和尚を彷彿させ、自然に童謡を口ずさみたくなる秀句である。

 

 悪戦苦闘しながら三週間かけてやっと、湯本明子の力作『俳人杉田久女の世界』を読み終えた。
文才のない私が書評なんて大それたことは出来ないが、寸評を書いてみる。

 久女を語るとき、夫の宇内は避けて通れないが、田辺聖子の名作『花衣ぬぐやまつわる・・・』でさえも、宇内が的確に描かれていない。まして、松本清張『菊枕』、特に吉屋伸子『私の見なかった人』に至っては、風聞だけを基に、悪意に充ちている。そもそも天下の名門・お茶の水高女卒業の才媛の久女が、上野の美術学校(現東京芸大)研究科中退の宇内に嫁いだのは、未来の画家夫人を夢みたからだというのが、人口に膾炙し、三人の小説にも書かれている。ところが、夫は画筆を執るどころか、小倉中学の教師に埋没し、休みの日には魚釣りに明け暮れ、久女はストレス発散の意味から、兄の手ほどきで作句に走ったといわれている。

 三人の小説のネタの基は、増田連の『杉田久女ノート』だが、彼は、私の一級後輩で、実に丹念によく調べているし、よく久女の俳句を研究し頭が下がるが、宇内については、調べていないというより知らなかったと思われる。

 私は、宇内先生(あだ名は、バネさん)の教え子として、名誉回復と誤解を解くため一筆書いてみる。その点、湯本明子の作品は、宇内の正確な評価が書かれて嬉しかった。歴史にifはありえないが、宇内がもし画筆を執っていたなら、天才閨秀俳人が生まれたかどうか。反面教師の感がする。

 教師の第一の勤めは、生徒の氏名を覚えることだが、彼は、一期生から私たちの三十五期生まで、全員フルネームで覚えておられた。図画(美術)の教師だから、たった一年だけしか教えていないのに・・・。

 同窓会総会には、先生は愛知の山奥から、老体に鞭打って出席されたが、二次会・三次会と引っ張りだこで、各期をハシゴするほどだった。

 先生のお墓のある地図を見たら交通の不便な山のなかだが、先輩たちは何人もお参りしたそうである。生徒にはそれほど人望があったのに・・・。小説では、極悪非道かのように書かれているが、旧小倉市から表彰されたし、久女も“足袋つぐやノラともならず教師妻”と作句しているが、妻である親でありながら、作句のため彼方此方と、自由奔放に出かけ、驚くことは、句友の男性を泊め、宇内は深夜に酒を買いに行ってまでもてなしたのである。明治男の心中察するに余りあり。久女の最期は哀れで薄命だったが、天才芸術家の常ではないだろうか。 謹んで 宇内・久女のご冥福を祈る。 (文中敬称略)

  杉田宇内の仇名が「バネさん」であったことには、前述の久女の長女・石昌子氏も触れている。その部分を引用する。

本田

宇内先生は教育熱心だったのですね。

熱心でしたよ。生徒にとても絵の素質のある人がいて父もすすめたのでしょう。芸大へいって在学中に帝展に通り、卒業してフランスへ。ボナールに認められ弟子になったけど夭逝しました。
両親の嘆きを見て、もう口がくさっても生徒に、画家になれとはすすめないと。

本田

まじめな、生徒思いの先生だったのですね。

その父が、生徒からバネというニックネームをつけられました。本人は何とも思わないようだったけど、私は嫌でした。

本田

昔の中学の先生には、みんなついていましたよ。親愛をこめてでもあったのでしょうが。

私がお使いにいったとき生徒等にかこまれ、バネ、バネとからかわれて帰ったことがある。まあ、どこにでもいる悪ガキだけど、そんな事もあって母が野蛮さにいや気がさして…。

本田

まじめすぎる家庭の悲劇なんかな(笑)。では、家の中の空気は…。

おもたかったですね(笑)。

  このことからも、ブログ『生前告別式』の杉田宇内に関する記述には信頼がおける。同じブログから記事をもう1件、こちらにはリンクのみ張っておく。

 ようやく清張短編全集第3巻に話を戻す。「菊枕」に続いては*1、考古学者・森本六爾(1903-1936)をモデルとした「断碑」、同じく考古学者・直良信夫(1902-1985)をモデルにした「石の骨」が収録されている。光文社文庫版第3巻の巻末に「私と清張」を書いた作家・恩田陸に言わせれば、

「菊枕」「断碑」「石の骨」は、息苦しいまでに同じ話である。恵まれない出自の者が、自分の才能を恃みにのし上がろうとするが、学歴や家柄、組織の壁に阻まれて挫折したり不遇の生涯を送る、という話だ。

 清張がおのれの生い立ちを重ね、恐ろしいまでに感情移入していることがひしひしと伝わってくるし、これを三本並べるところに強い思い入れを感じ、正直いって「ここまで並べるかあ」と聊(いささ)か引いてしまった。(光文社文庫版341頁)

 とのことだ。私は「引いてしまう」ところまでは行かなかったが、「同じ話を三本並べた」という指摘には同意する。ちなみに3作の中で一番良いのは、3人のモデルの中でもっとも無名の森本六爾をモデルとした「断碑」だと思う。直良信夫は、日本にも旧石器時代はあったことが後に他の学者によって証明されたけれども、彼が発見した「明石原人」はホモ・サピエンスであったとされている。現在では「原人」ではないとする考えから、かつての「明石原人」との呼称は廃され、「明石人」と呼ばれているらしい。ここでは、清張作品に絡めて森本六爾直良信夫について取り上げたブログ記事にリンクを張っておく。

enokidoblog.net

 なお、史実で直良信夫の「明石原人」発見の手柄を横取りしようとしたとされている長谷部言人(はせべ・ことんど、1882-1969)の名前は、今年に入ってから読んだ下記のちくま新書で知ったばかりだった。

日本の人類学 (ちくま新書)

日本の人類学 (ちくま新書)

 

  また、話が前後するが、杉田久女の師匠として名前を挙げた高浜虚子が1927年に別府温泉を訪れた時の紀行文も今年に入ってから読んだばかりだった。

日本八景―八大家執筆 (平凡社ライブラリー)

日本八景―八大家執筆 (平凡社ライブラリー)

 

  清張短編全集に戻って、第3巻の6番目に置かれたのは、半自伝的作品の「父系の指」だった。この小説は、清張自身によると、

「父系の指」は、これまでの作品の中で自伝的なものの、もっとも濃い小説である。私は自分のことをナマには語りたくなかった。いわゆる私小説というものには私は不適当であり、また小説は自分のことをナマのかたちで出すべきではないという考えを持っていた。この小説でも半分くらいは事実だが、半分は虚構になっている。(光文社文庫版327頁)

とのことだ。

 この小説で興味深いのはやはり主人公の生い立ちであって、清張が小倉出身とはされるものの広島県生まれであることは知っていた。小説には父の名はもちろん出てこないが峯太郎といい、今の鳥取県日南町矢戸の生まれだった。

www.yamaimo.net

 しかし、峯太郎は矢戸の豪農の家に生まれながら里子に出されて窮乏生活を送り、実弟とは同じ兄弟とは思えない境遇の人生を送った。このあたりは清張の自伝『半生の記』に詳しいらしいが、新潮文庫から出ているこの本は区の図書館には置かれていないので未読だ。

 興味深かったのは、小説に出てくる主人公の父が若い頃米相場で大儲けし、一時はずいぶん羽振りが良かったもののその後没落したことだ。このことから、清張の『告訴せず』に出てくる、岡山県選出衆院議員の政治資金を持ち逃げした主人公が小豆市場で一時大儲けしながら最後にお決まりの破局を迎える話を思い出した。あれは清張の父親がモデルだったんだなと思い当たった。

 また、成長した主人公が矢戸を訪ねた時、広島県北部の備後落合駅で出雲の人と思われる夫婦の「東北弁のような訛」を聞くくだりを読んで、『砂の器』を思い出さない清張作品の読者はいないだろう。『砂の器』の犯人・和賀英良(わがえいりょう)の父の造形にも清張の父親の像が投影されていたことになる。とすると、和賀英良は清張自身に相当することになる。和賀英良は自分の過去を隠そうとする成り上がり者だ。

 ちなみに私は、兵庫県在住の子ども時代に、小学校の担任だった女性教師その他に身近な島根県出身者がいたので、出雲の言葉が東北弁のズーズー弁と共通していることは知っていた。だから『砂の器』を読みながら、犯人は東北出身ではなく山陰出身の可能性もあるなと思いながら、登場人物の出身地に注意しながら読んでいた。和賀英良は大阪にいたことがあると書かれていたので、大阪なら山陰から出て行く人は多いし怪しいなとマークしていたのだった。だが、和賀が山陰出身であることが明かされたのは小説が犯人を明かす直前だったので、断定はできなかったのだった。なお、和賀英良の読みにはわざわざ「わがえいりょう」というルビが振ってあるのだが、ルビがなければ普通の人は「わがひでよし」と読むだろう。「わがひでよし」つまり「我が秀吉」。つまり和賀英良が作者・松本清張が造形した「成り上がり者」であることを作者自身が暗示し、それに読者が気づくかどうか読者を試しているのではないかと、これは初めて『砂の器』を読んだ時に思っていたことなのだが、その確信をますます強めた。この『砂の器』は、超音波を使った殺人のトリックが推理小説としてはルール違反に近い、いってみれば一種の欠陥作品だと私は考えているのだが、そうは言いながらこの作品の訴求力が清張作品の中でも際立って強いとも思う。こう考えると、犯人父子に焦点を当てた物語に作り変えた映画版の野村芳太郎監督は、みごとに清張の隠れた意図を読み取ったとしかいいようがない。実は私はこの映画を見たことがないのだが、一度は見なければいけないなと思った。

 小説「父系の指」に話を戻すと、前記恩田陸は「私と清張」で下記のようにこの作品を高く評価している。

  この三本(「菊枕」「断碑」「石の骨」=引用者註)の次に、自伝的小説「父系の指」が並ぶのであるが、本来ここに最もルサンチマン的情念が込められるべきであるのに、ここで彼の恨みが、実に完成度の高いエンターテインメントに転化されるのである。前の三編とはほぼ同じ時期に書かれているのだが、自分のことだから客観的になれたのかもしれない。(光文社文庫版341-342頁)

  なるほどと思った。確かに「父系の指」は「菊枕」から始まる三部作よりも面白かった。やや長すぎるなと思わなくもなかったが。

  さて、光文社文庫版短編全集第3巻で一番面白いと思ったのは、掉尾を飾る時代小説「佐渡流人行」だった。第3巻収録作の中で一番最後に書かれ、『オール讀物』の1957年1月号に掲載された。ということは書かれたのは1956年の秋だろう。清張の人気がブレイクしたきっかけとなった『点と線』は『旅』の1957年2月号から翌年1月号にかけて連載されたから、「佐渡流人行」はブレイク前夜に当たる頃の作品だ。これは時代小説ではあるが、主役が刑事というだけで特に意外な展開にもならない「張込み」よりずっと推理小説的な味わいも強いし(私は伏線には気づいていたもののあれほどのどんでん返しは予想できなかった)、また現代の企業小説にも使えそうな人間心理の描写もみごとだ。この作品についても、前記恩田陸による「私と清張」に書かれた寸評から引用する。

 更に、恵まれた者への嫉妬や僻み、上昇志向といったすっかりお馴染みとなったネタを使いながら、この短篇集の中でもっともあとに書かれた「佐渡流人行」は、いよいよエンターテインメントとして洗練され、切れ味の鋭い皮肉な幕切れまで、小説としての完成度を高めているのである。

 ここで、ようやく彼はおのれの負の感情を、商品としての小説に活かす術を身につけたように思える。そういう意味で、確かにこの集に作者が愛着を持つのもわかるような気がする。(光文社文庫版342頁)

  ショッキングな「菊枕」もブログ記事を書く動機になったが、最後に「佐渡流人行」を読んだから、これは久々にブログにエントリを上げなければいけないなと思った次第だ。

*1:余談だが、「続いては」とタイプしたところで、杉田宇内ならぬTBSのNews23スポーツキャスター・宇内梨沙氏の「続いては」という甲高い声を空耳してしまった(笑)。