KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張『彩霧』は作者指折りの「駄作」か(笑)

 松本清張は多作の人だったし、1950年代末から60年代前半にかけては、同時期にどのくらい多く書けるかの限界に挑んだ人だから、この期間には清張の代表作とされる作品も多く含まれるが、一方で駄作も少なからず産出している。だが、この時期の清張作品は、たとえ駄作であっても一気に読ませる。それは文章中に会話が多く、飛ばし読みできるからではあるが、読者を引きつけて離さない力があるとも感じる。

 先週の3連休に1日半くらいで読んだ『彩霧』も、そんな清張の「駄作」の1つだ。

 

彩霧: 松本清張プレミアム・ミステリー (光文社文庫プレミアム)
 

 

  冒頭で銀行から金を持ち出した拐帯犯人とその愛人が描かれる。犯人は金と一緒に黒革の表紙が付いた大型の手帳を持ち出した。そこには、架空預金の名義と預金者である法人名の対照表と預金金額が記されていた。しかし犯人は警察に逮捕されてしまう。小説の主人公はこの犯人の友人であり、架空預金の証拠を握っているとして銀行に圧力をかけて友人である拐帯犯人を釈放させようと行動を起こす。

 この時点で、普通の読者なら主人公に感情移入することはできないだろう。それは私とて同じなのだが、清張作品においては強引な設定がなされていることは少なくないから、「これが清張のこの作品世界での約束事なんだ」と割り切って読めばそれなりに楽しく読める。

 以下、小説の核心部に関するネタバレの部分は文字を薄く読みにくくするのでご了承いただきたい。

 この小説の真の悪役は、拐帯犯人でも架空預金を預かっていた銀行でもなく、極悪な裏金融業者だ。

 本作の要点を衝いたレビューを『読書メーター』というサイトでみつけた。

 

bookmeter.com

 以下引用する。

竹園和明

魑魅魍魎たる金融界のウラの世界を抉った作品です。銀行の急所とも言うべきウラ資料を握り所属する銀行を脅した人間、彼との取引を反故にし裏切る銀行、それらを鳥瞰した位置から私欲のために駒を動かす金融界のフィクサー…と、二転三転する変化が白眉。細かいプロットにやや強引さはあるものの、ガラス張りとは到底言い難い金融業界の一端を覗いたようで面白かった。この業界にはこんな感じの怖い裏世界が実在するのだろう。結局は“実力者”が勝者となる世界。世の中の縮図を見るようでやるせない感じ。

 そう、この小説では謎は解明されるものの、巨悪は摘発されず、凱歌をあげて終わるるのだ。 勧善懲悪の結末が多い清張作品でも異例だ(短篇にはこの手の結末が比較的多いが、長篇には珍しい)。この小説は、矮小な悪人が犯罪を犯して始まり、次いでその小悪人の友人である主人公が登場し、こともあろうか罪を犯したその友人を助けようとするが、結局巨悪が勝利を収め、主人公が助けようとした小悪人は巨悪一味によって殺され、主人公が懸想していた女性も同じ一味の手に落ちて終わる。だから主人公に感情移入できないばかりか、巨悪が勝利の凱歌をあげるという最悪の結末を迎える。こんなに読後感の悪い小説はそうそうあるものではない。だから、これまで読んだどの清張作品と比較してもネット検索で読むことのできる感想文の評価が低いのだ。しかし私はむしろ、こんな人を食った小説を書いた清張の稚気愛すべしと思って結構面白く読んだ。ただ、清張作品を全然ご存知ない方には全くお薦めできない作品であることは言うまでもない。

 なお、今週から清張の『黒革の手帖』を原作とする同じタイトルのテレビドラマが、武井咲主演で始まったらしいが(2017年7月20日〜、テレビ朝日)、本書の解説(山前譲氏執筆)に『黒革の手帖』と本作の関係について言及があるので、以下引用する*1

  数多い松本作品のなかでもとくに人気の高い作品に、1978年から80年*2にかけて週刊誌*3で連載された『黒革の手帖』と題する長編がある。銀行の預金係だった地味な女性が、架空預金から七千五百万円余りを横領し、これを資金として銀座のクラブ経営に乗り出す。その時、手元の架空預金者リストを取引の材料にして、銀行の告訴から逃れていた。

『彩霧』はこの作品の男性バージョン、いや失敗バージョンといえるだろうか。ここで銀行は横領した行員を見逃しはしなかった。しかしそれは、新たな弱みを生み出すことになってしまうのだ。そうした金融業界の「黒い霧」はさらに、連続する不可解な死へと発展していく。社会派小説と謎解きミステリーが絶妙にマッチングしているのがこの『彩霧』だ。

松本清張『彩霧』(光文社文庫,2015)406頁=山前讓氏の解説文より)

  謎解きに関しては、トリックは清張作品の多くに見られるように凝り過ぎだし、探偵役を務める小悪人の友人(知念という名前の男)が大した手がかりもないのにズバズバと勘を当てて解き明かす過程はあまりにも不自然だ。私は正直言って、トリック作家としての松本清張は大して買っていない。有名な『砂の城』など、そのトリックについてだけ言えば、はっきり言って最低の作品だろう。

 しかし、粗削りで奇をてらった作品と評すべき『彩霧』(『オール讀物』1963年1〜12月号連載)で活かし切れなかった架空預金をめぐる悪事というアイデアを、15年後の『週刊新潮』の連載で再度用いて、今度は本作のような駄作とは一転して代表作の一つにしてしまった清張は、やはり並の作家ではない。

 なお私は、本作を清張最晩年の短篇集『草の径』(1991)冒頭に収録されている「老公」を読んだあと続けて読んだが、偶然にも「老公」の舞台である西園寺公望の別荘地「坐漁荘」の所在地である興津が舞台の一つになっている。本作中には、

戦前は元老の別荘の所在地で有名だった。(259頁)

駅近くの停留所に降りて、「かもめ荘」の所在を訊くと、そこは元老のいた坐漁荘の跡近くだった。(265頁)

 と、2箇所で(固有名詞は出していないものの)西園寺に言及していた。

 「老公」は清張最晩年の1990年に書かれたが、清張の全作品の中でも屈指の短篇だと思った。80歳を過ぎた最晩年になってなお新境地を切り開いたこの作品については、稿を改めて論じたいと思う。ここでは、この短篇を読んだ直後に、同じ興津が作中のほんの一部だけとはいえ舞台になる長篇を読んだ偶然が可笑しかったことだけを記録しておく。なお「坐漁荘」は『昭和史発掘』で2.26事件を扱った部分などにも出てくる。

 清張作品は量が膨大であることもあって、この手の偶然によく出くわす。これまたレビューを書きそびれている『状況曲線』(1976〜78年『週刊新潮』連載)についても、そのあと立て続けに読んだ作品に同じトリックが使われていたというとんでもない偶然に遭遇して笑ってしまった。そしてこれまた偶然だが、『状況曲線』も静岡県が主要な舞台になっている(その他に東京と京都を舞台としている)。前記山前讓氏の解説文によると静岡県を舞台にする清張作品は少ないとのことだが、それらを立て続けに読んだことになる。しかし、山前氏が静岡県を舞台とした作品中の代表作として挙げていた中篇「天城越え」(1959年作。短篇集『黒い画集』に収録)は未読だ。

 なお『状況曲線』は、前記『黒革の手帖』と同じ『週刊新潮』連載の「禁忌の連歌」シリーズ第2作(『黒革の手帖』は第4作)で、このシリーズには他に第1作『渡された場面』と第3作『天才画の女』がある。私は先日『状況曲線』を読んだことでシリーズの4作をすべて読了した。

 しかしこれだけ読んでも、読了した分はまだ清張作品の半分にも達していない。

*1:なお私自身はドラマの第1回を見ていないし、第2回以降を見るつもりもないが。

*2:引用に際して漢数字を算用数字に変えた=引用者註。

*3:週刊新潮』=引用者註。

松本清張『象徴の設計』を読む

 山縣有朋(1838-1922)という、私の嫌って止まない長州の軍人・政治家を主人とした松本清張歴史小説『象徴の設計』(文春文庫新装版,2003)を読んだ。

象徴の設計 (文春文庫)

象徴の設計 (文春文庫)

 

  昭和に入ってから軍部や右翼、それに軽佻浮薄な政党政治家の代表格ともいうべき鳩山一郎らに「統帥権干犯!」と叫ばせしめた元凶ともいうべきこの男を、私は小学校高学年の頃に初めて知って以来、一貫して嫌い続けてきたが、この男は1922年に数えで85歳(満83歳)の長寿をまっとうした。清張の小説はその山縣(清張は山縣の姓を一貫して新字の「山県」で表記しているが、小説の途中からは主に「有朋」という名で表記している)が「竹橋事件」(天皇を守るはずの近衛兵が1878年(明治11年)に起こした反乱)に直面して、これはいかん、軍隊を絶対服従の「天皇の軍隊」にせねば、と考えて西周(にし・あまね)に「軍人勅諭」の草案を作らせるところから始まり、大日本帝国憲法が公布されて帝国議会が開会される直前の1887年(明治20年)頃の同郷の伊藤博文との確執までが描かれている。

 少し脱線すると、私はここに出てくる西周の名前を、少年時代に蒐集していた郵便切手の「文化人シリーズ」で知ったが、特に西周の名前が強く記憶に残っていた。その理由はすっかり忘れており、「周」を「あまね」と読ませる読みが印象に残ったせいだろうと思っていたが(前島密=まえじま・ひそか=なども印象的だった)、それだけではなかった。それは、西の切手を取り上げたブログ記事を読んでおぼろげな記憶が少し甦ったのだった。

yosukenaito.blog40.fc2.com

 以下、上記ブログ記事から引用する。

(前略)1951年11月1日には、郵便料金が改正されて書状の基本料金が8円から10円に値上げされました。このため、西切手は、原版の額面部分を8円から10円に変更して、発行されることになりました。

 ところで、西の切手は、現在、日本切手のカタログ評価額が文化人切手の他のものよりもはるかに高くなっていることでも知られています。

 当時、郵政省の切手係であった八田知雄によると、当時、東京中央郵便局切手普及課は記念・特殊切手の売れ残り在庫を大量に抱え、その処理に苦労していました。このため、郵政省としては、西切手から切手普及課への切手の配給数を変更し、従来の4分の1にあたる5万枚にまで減らしました。このため、切手普及課での西切手の在庫処理は順調に進みましたが、その一方で、こうした変更は一般には明らかにされなかったため、従来どおり、「切手普及課に行けばいつでも買える」と考えていた収集家や切手商の中には西切手を入手しそこなう者が続出。市場ではこの切手が品薄となったといいます。

 こうした供給側の事情にくわえ、西切手は、郵便料金改正後最初の文化人切手となったことから、新料金の10円切手の需要が急増し、普通切手の供給不足を補うかたちで大量に消費されました。このため、未使用の残存数は、さらに少なくなり、結果として西切手の市価が高騰したものと考えられます。西の切手は文化人シリーズの中でも高値で取引されていることで知られていたのだった。ブログ記事によると、西は切手が発行された1952年当時でさえ知名度は低かったという。

  山縣有朋の話に戻る。

 立憲主義を唱えた先駆者としての伊藤博文と、それに対抗して帝国議会開設が決まってから実際に開設されるまでの7年間に「統帥権の独立」を実質的に勝ち取った山縣有朋とはよく対比され、山縣こそ戦前の日本を狂気の戦争に向かわせた元凶であるとはしばしば指摘されることだし、私もその通りだと思う。山縣は特に自由民権運動を徹底的に嫌悪し、この運動を担った富裕な農民層を没落させるために松方正義のデフレ政策(いわゆる「松方デフレ」)を奨励し、景気を悪化させて農民たちを没落させ、自由民権運動をしぼませたという見方を清張はしている*1

 その山縣は謀略を好んだ。最近、加計学園問題で安倍政権に楯突いた文科省事務次官・前川喜平に対して長州を選挙区に持つ安倍晋三が御用メディアであるの読売新聞を使って前川氏のスキャンダル報道を流させるという卑劣な謀略を行ったことが発覚し、テレビのワイドショーで大騒ぎされて安倍内閣の支持率が急落し、2017年7月の都議選で自民党が惨敗した原因の一つとなった。安倍政権の能力が低かったために仕掛けた謀略が露呈して墓穴を掘った形となったが、山縣ならあの世で「安倍君、何やってるんだよ、もっとうまくやれよ」と思っているのではないかと想像した。

 小説中で、その山縣に密偵の効用を知らしめた例として1882年の福島・喜多方事件が挙げられている。この事件で警察は、というより福島県令・三島通庸は、自由民権運動の側に立つ農民らに安積戦(あさか・せん)という名のスパイを送り込み、安積に過激な言動をさせて農民たちを煽らせておいた上で、安積に煽られた農民たちを逮捕したという。

 この件に関する記述のあるサイトをネット検索でみつけたので下記に示しておく。

 以下上記サイトより引用。

農民はあくまで、話し合いによる解決を求めていました。しかし、これに対する警察側は強硬な態度を取り、武器を持たない彼らに対して 暴力を振るった。中には、剣で傷つけられた者もいました。当時の事ですから こういう事態はあり得たでしょうが、一方的に暴力を振るった事実・武器を持たないで話し合いに来た者達に剣で斬りつけるような行為は決して許されないと思うのです。
 なお、農民の動きは密偵安積戦によって逐一警察に通報されていました。喜多方市史6には11月26・27日に安積の書いた報告が掲載されています。こういった報告によって警察の方では指導者を一斉に逮捕する予定でした。その時に丁度 喜多方近在の農民の集合・及び警察署への押寄せが起きた。警察は、既に逮捕の準備を整えて待っていたのです。
 このような形で警察が大いに活動?し、裁判所もその動きに合わせたように訴訟を退け、逮捕者を有罪にしえたのは 県令による事前の手配があったからです。県令三島通庸は、赴任するに際し 人事の大幅な変更を行っていて、行政・警察の要所は三島色に塗りつぶされてしまっていました。

 この件で「密偵の効用」を知った山縣は大いに感心し、自らも密偵を用いることを好むようになったという。この、いかにも長州人らしい陰険な手口は安倍晋三にまで引き継がれていると思うのは、大の長州嫌いの私の偏見だろうか。もっとも、山縣のライバルだった伊藤博文は、密偵を好む山縣の手口を良く思わなかったとも書かれている。

 ところでこの安積戦の話で私が直ちに思い出したのは、松本清張が『昭和史発掘』で取り上げた非常時共産党の「スパイM」こと飯塚盈延(いいづか・みつのぶ)だった。

 そして、『象徴の設計』を図書館に返しに行った時に書架に置いてあった清張最晩年の短篇集『草の径』に、その飯塚盈延の「その後」を描いた「『隠(こも)り人』日記抄」が収録されていることに気づいて早速借りた。本当はこの短篇をこのエントリのメインに据える予定だったが、例によって前振りのつもりだった『象徴の設計』に関する文章が長くなってしまったので、これを独立したエントリにすることにした。

 なお、部分的には興味を引かれるところも多い『象徴の設計』だが、小説の末尾には退屈してしまった。それは清張のせいというよりは憎むべき長州人・山縣有朋のせいというほかない。

 なにしろ史実でも長寿をまっとうした山縣は、小説に描かれた時期のあとも35年も生きて、戦前の日本に害毒を流しまくったのだ。その山縣が、史実だから致し方ないとはいえ「悪事の報い」を何ら受けることなく、孤独ではあり、かつ伊藤博文への嫉妬心に苛まれつつとはいえ、表向き平穏な日々を送る場面で物語が閉じられるのだ。退屈しない方が不思議だ。

 そんなこともあってか、また若い読者の関心を引きにくい上に読みにくい明治期の文章の引用がてんこ盛りということもあってか、せっかく2003年に文春文庫の新装版が刊行されながら、その後絶版になってしまっているらしいことは惜しまれる。日本の近代史に関心のある人なら必読の歴史小説だと思う。

*1:このように、歴史的にはデフレ政策は山縣有朋のような右翼人士が好んだ。現在、安倍晋三が金融緩和政策をとり、それを括弧付きの「リベラル」が批判するという状況が生じているが、これは歴史的に見ても現在の世界的情勢を見ても、例外中の例外だと思う。私自身は安倍政権の経済政策を総体としては高く評価しないが、金融政策だけには一定の評価を与える立場の人間だ。

沢田真佐子「単独の北岳」を読む(今福龍太編『むかしの山旅』より)

 梅雨末期の豪雨はしばしば多数の死者が出る大災害をもたらす。今年も九州北部(福岡、大分)の豪雨で、この記事を書いている時点で18人の死者が出ているが、1953年の梅雨末期の豪雨はとりわけひどかったようだ。

typhoon.yahoo.co.jp

 以下引用する。

1953年(昭和28年)7月、活発な梅雨前線の影響で紀伊半島で10日間雨量700mm超の大雨となる南紀豪雨が発生した。

 有田川や日高川などが決壊した和歌山県を中心に、死者・行方不明者1124人、損壊・浸水家屋約100,000棟という甚大な被害が発生した。

 

 同じ頃、山梨県赤石山脈(通称南アルプス)の北岳・相ノ岳・農鳥岳の白根三山を単独で縦走した沢田真佐子も、連日の集中豪雨に見舞われた。その登山記録を昨日読んだ。今福龍太編『むかしの山旅』(河出文庫,2012)に収録されている。

むかしの山旅 (河出文庫)

むかしの山旅 (河出文庫)

 

  この本には、半世紀から一世紀前の登山記録が24本収録されており、それぞれ著者が異なる。 沢田真佐子の登山記録(実質的には遭難記録)は「単独の北岳」と題されている。

 ネット検索によって、この登山記録を批評した文章が載った本からの引用文が掲載されたブログ記事を見つけた。

noyama002.seesaa.net

 上記ブログ記事に、河野寿夫著『山登りって何だろう』(白山書房,2002)に書かれた沢田真佐子「単独の北岳」の批評文が掲載されている。以下ブログ記事から孫引きする。

 P190~
 ・山に魅入られるということ

 山に魅入られて遭難した、などと俗にいう。比喩的な表現ながら、そう思いたくなることも確かにある。山に憑かれる、といっても大差ない。
雑誌「山と渓谷」 一九五七年(昭和三十二年)七月号に、沢田真佐子さんの遭難手記「単独の北岳」が載っている。当初、東京上野山岳会会報に掲載されたもので、遭難が起こったのは一九五三年(昭和二十八年)七月に遡る。そのころの南ア、白峰北岳といえば、アプローチが今よりはるかに長く、山小屋はほとんど無人で、だれもが登れるというような山ではなかった。

沢田さんはその北岳に単独で入山した。前夜発五日の計画、七月十二日の夜行で新宿を出発し、十七日には帰京する予定となっていた。それが運悪く、途中暴風雨に見舞われて山中十一日間を要し、二十三日になってやっと下山するという、大変な危難に遭遇することになった。いったいどんなことが起こったのか、その大要を眺めてみよう。なお、文中括弧内は著者の注である。

 はじめの三日間は、文句ない晴天だった。初日の十三日は韮埼から牧ノ原を経て赤薙沢へ入り尾無の岩小屋でビバーク、二日目の十四日は尾無尾根を広河原峠へと登り、早川尾根を南へ越えて昼ごろ広河原小屋に着く。(当時広河原へ入るのは容易なことではなかった。)その日はここに泊まる。小屋番だけで、同宿者はいなかったようだ。

 翌十五日に待望の北岳に登る。頂上で三六〇度の展望を一人楽しみ、その日は北岳小屋に泊まる。ほかにはだれもいない。(当時の北岳小屋は、鞍部から東へ下ったところにあった。)

 十六日になって天候が激変する。朝から雨雲がどんどん下がり、間ノ岳と豊島岳の最低鞍部に近づいたころには風雨ともに激しく、半壊の農鳥石室に飛び込んでビバークを決める。夜半からは暴風雨となる。十七日、十八日の両日とも、暴風雨は休みなしに荒れ狂い、外に出ることは瞬時もままならない。翌十九日には風がややおさまるが、明け方から雨は一段と強くなってシユラフまでぬらしてしまう。夜明になって、やっとのことで農鳥小屋の方に移る。(当時の農鳥小屋は、稜線から束へ少し下ったところにあった。)かなりしっかりした小屋で、三日ぶりに伸び伸びしか気分になってご馳走を作る。明日は大丈夫晴れ、待ちに待った奈良田の吊橋を渡れるだろうと楽しみにして眠りにつく……とある。(当時、奈良田の橋は長い吊橋だった。)しかし、願い空しく、翌二十日もまた雨、停滞を余儀なくされる。

 二十一日になってもまだ雨は止まない。でも、これ以上、だれもいない小屋にいて食料を食べ尽くすことは耐えられないので、何とか下山しようと決意する。稜線に出ると風雨がものすごく、雨具の隙間から入り込む雨で、農鳥岳に着くまで全身ぐしょぬれになる。視界がきかず、大門沢の降り口がなかなか見つからない。やっとわかって降り始めるが、大門沢が増水し、雨と沢水の両方でずぶぬれになり、くたくたになったころ、新しい大門沢小屋の前にとび出す。その日はここに泊まる。だが、二十二日になってもまだ雨は止まない。高巻きとへつりの連続で、沢を下る。やがて、道が右岸から左岸へと移る地点で、橋が流されているのに気づいて愕然とする。それからは筆舌に尽くしがたい悪戦苦闘が続く。結局どうにもならなくなって、大ゴモリ沢近くの岩小屋にビバークを決める。全身はもちろん、マッチもシュラフもびしょぬれという、惨めさだった。万一の場合を考えてお母さん宛に書き置きをする。全身にガタガタふるえがきて、いくら気張っても止まらない。こんなに寒い辛い思いをするくらいなら……凍死する時は眠くなるそうだけれど、私も早く眠くなりたいと、何度も思った…… と書き記している。二十三日もまだ雨。残っていた夏ミカンを半分食べ、昨日から何回往復したかしれない道を、ふたたび橋跡まで行く。ここはどうしても左岸に移るしか方法がないので、やっとの思いで大石を投げ込んでみたが、それさえ流されてしまう始末で、徒渉は絶対不可能とあきらめる。さらに上流を調べると、丸本が一本岸の石にまたがって倒れているのが見つかる。これだ! と直感し、荷物の大半を岩小屋に残して空身となり、丸太に馬乗りになって、やっと対岸に渡ることができる。立派な道を見出しだのは、それからまもなくのことだった。

 遭難記の最後は、次のように締めくくられている。

……それから左岸通しに山の鼻をめぐり、奈良田の手前で嵐にすっかり荒らされた焼き畑を直しているお爺さんに、九日ぶりで人間に会う。

 「岳から来たのか。この荒れに……おまえさんはまあ……ようく生きて来たものじゃ」…と言われて、今までの張りつめていた気も一時にゆるんで、思わず大きな涙がボツリと落ちた。それからまもなく、待ちに待った奈良田の吊橋に着き、今こそ本当に無事にこの橋を渡れる自分をしみじみ幸せに思いながら、ゆっくり歩いて行った…… と。沢田さんの心情は察するにあまりある。右はあくまで要約にすぎない。原文の迫力はこんなものではない。涙なしにはとても読んではいられない。すさましいばかりの山での台風の猛威に、たった一人で耐え抜いた沢田さんの判断力と精神力には、今さらながら感服せざるをえない。

(河野寿夫著『山登りって何だろう』(白山書房,2002)より;ブログ『旅する凡人 山歩記』2007年11月6日付記事より孫引き)

 沢田真佐子がたどった白根三山縦走路のうち広河原以降の行程は、私も昨年の「山の日」を含む飛び石4連休を利用して歩いた。今では甲府からバスで登山口の広河原まで簡単に行けてしまうが、広河原からあとの行程は沢田とほぼ同じだったのかもしれない。沢田は、行程2日目に広河原小屋に泊まり(現在では沢田がたどった1,2日目の行程を公共交通機関で省略できてしまうわけだ)、3日目に広河原小屋を出て大樺小屋跡を経由して草スベリの急坂を登った。私は昨年の山の日に白根御池小屋(沢田の文章やネット検索の結果から、この白根御池小屋が大樺小屋の後身ではないかと推測された)に泊まって翌朝早くから草スベリにとりついたので、「急登とは聞いていたが恐れるほどのものでもなかったな」と思ったのだったが、既に歩いてきて日が高くなってからの急登は応えたのだろう。沢田は下記のように書いている。

 七月十五日(晴)

 昨日楽をしたせいか大分快適でどんどん登る。大樺沢に注ぐ支流で最後の水を補給し、間もなく大樺小屋跡に来る。樹が少なくて暑いけれど一寸感じのよい処だ。これからすぐ草辷りにかかったが背中から照りつけられ、足許は尺余(30センチ余り=引用者註)の草の密生にそよとの風もなく非常に苦しい登りだった。最後の三十分位、ほとんど四ツ這いの態でフラフラになって小太郎尾根に飛び出し残雪にありついた時は全く地獄で仏に会った思いであった。これから駒、仙丈、鳳凰と曽遊の山に送られ偃松を縫って歩一歩、北岳へ近づいてゆく。

 誰もいない北岳頂に立った時はまだ陽ざしも高く、ガスも捲かず、三六〇度遮ぎるもののない眺めを楽しんだ。まるで静寂というものが滾々と湧いてくるような静けさで山と私だけの喜びに浸りきった。

 これからしばらく凄く急なガレを降り、間もなくのびやかな尾根筋を辿る。北岳小屋分岐から小屋まで荒川源流さして三十分近く降った。今日はたった一人の小屋泊りであった。

(沢田真佐子「単独の北岳」より;今福龍太編『むかしの山旅』(河出文庫,2012)142-143頁より孫引き)

 現在ではあり得ないような夏の北岳山頂の独占。1953年といえば、1956年の日本隊マナスル初登頂をきっかけに生まれた登山ブームに先立つこと3年。広河原までバスが入るようになったのは1963年とのことだから、それよりも10年も前だ。

 草スベリでは苦しんだものの間もなく報われた。しかしそのあとが本当の地獄だった。前記の河野寿男『山登りって何だろう』からの引用文に見る通りだが、中でも大門沢の下りで橋が流されていたのを気づいた時に沢田真佐子が受けたであろうショックの大きさは察するに余りある。

 なぜなら、昨年の晴天時に大門沢小屋を経由して奈良田に下った私には、晴天時でも猛烈な流量のある大門沢の印象が強烈に残っているからだ。しかもあの道は現在でも非常に厳しい。出会った健脚の登山者が「とんでもない道ですねえ」と言っていた(もっとも彼の足取りは軽快そのものだったが。もちろん脚力の弱い私はバテバテだった)。作家の南木佳士が書いた『山行記』に収録されている「連れられて白峰三山」にも大門沢の下降に悪戦苦闘するくだりが出てくる*1

山行記 (文春文庫)

山行記 (文春文庫)

 

  ただでさえ厳しい道であり、晴れ続きの日でも水量の多い大門沢なのに、連日の大雨とあってはどれほど増水していたことか。しかも橋まで流されてしまったとあっては、沢田が死を覚悟したのも当然だった。かてて加えて単独行であり、行き会う者など誰もいない。想像を絶している。

 沢田は7月22日には大門沢左岸への渡渉を試みたが失敗して引き返した。「夏とは云え、三拍子揃って条件が悪いので万一の場合を考えて(実際、この時は朝まで持たないと思った)母宛に書き置きし」たという沢田真佐子の同日の記録から、特に印象的だった箇所を以下に引用する。前記の河野寿男『山登りって何だろう』からの引用文中、「凍死する時は眠くなるそうだけれど私も早く眠りたいと何度も思った。」というくだりの直後の部分だ。

 風雨をついてここまできりぬけて来たのにどうしてこんなことが想像できたろう。今晩こそは暖かいフトンの中で寝ていなければならなかったのに、あの橋がないばっかりに、こんな処でもうお母さんに会えなくなると思うと声をあげて泣きたい。気の弱いお母さんがどんなに悲しむ事だろう。

 死なんてことは信じられない自分だったが何もかもここであきらめなければいけないと思った。その夜、不思議なことがあった。大勢の人が何か楽しそうにガヤガヤ話し合っている声がしたのである。そして終いには唄をうたったり笑いさざめいたりする。三度ばかりそんな気がして首だけ出してみたが真の闇でそんなことがあり得る筈がないと分って何かゾッとした気持だった。それは私の錯覚だろうと思っている。

(沢田真佐子「単独の北岳」より;今福龍太編『むかしの山旅』(河出文庫,2012)149-150頁より孫引き)

 結局死なずに23日朝を迎えた沢田真佐子は、その日、「大ゴモリ沢*2出合の処で本流に丸木が一本両岸の石に亘って倒れているのを見つけ」*3て「空身になって丸太を馬のりで対岸に渡」り、なんとか生還を果たした。

 この登山記録(遭難記)は、『むかしの山旅』に掲載されている24本の登山記録の中でも特に印象に残るものだ。この本には、芥川龍之介の「槍ケ嶽紀行」(1920年)も掲載されているが、300頁の「著者プロフィール・出典一覧」には「本文は、一九二〇年に槍ヶ岳に登った時の記録だが、登頂したかどうかは定かではない。」と書かれている。龍之介の文章を紹介した下記ブログ記事のコメント欄に、ブログ主自身が沢田真佐子の遭難記に言及しているのを見つけた。

ameblo.jp

 下記は、上記ブログのブログ主自身のコメント。

『むかしの山旅』に、沢田真佐子という女性の「単独の北岳」という手記が載ってますが、よく読むと遭難記でした。
生きて帰れたのが奇跡なのに、さらりと述べています。やっぱり女性は強いですね、昔から。

  私は強さも弱さも合わせて心境を真率に吐露した沢田真佐子の文章に強く引きつけられた。

 ところで、『むかしの山旅』には沢田真佐子の生没年が記載されていない。そこでネット検索をかけてみたが、みつかった関連サイトはごく少なかった。しかし、沢田真佐子のその後は簡単にわかった。それは、前記の河野寿夫著『山登りって何だろう』に掲載された沢田の登山記録の批評文のうち、前記引用部分の直後に書かれた部分から知ることができる。以下再び引用する。

 ところが、彼女はその年の9月、三伏峠から荒川岳へと縦走し、再度の台風の来襲で増水した小渋川を下る途中、濁流にのまれ帰らぬ人となってしまった。北岳の遭難以来、山岳会からも家庭からも、単独行を固く禁じられていたにもかかわらず、である。沢田さんのご冥福を心からお祈りしたい。

(河野寿夫著『山登りって何だろう』(白山書房,2002)より;ブログ『旅する凡人 山歩記』2007年11月6日付記事より孫引き)

  え、なんてこった……。

 さらに調べて、下記ブログ記事を見いだした。

amanojakus.exblog.jp

 以下、上記ブログ記事から引用する。

川崎隆章さんは登山家で、日本登山学校を開いた方で、山と渓谷社が発行した雑誌「雪と岩」の初代編集長である。

(中略)

その川崎隆章氏が涙ながら話していたのは、そのころはまだめずらしかった女性の単独行者・沢田真佐子さんのことだった。

彼女は「単独の北岳」という文を残している。北岳の登山基地・広河原までは今のような夜叉神トンネルを抜ける林道などなく、早川尾根の広河原峠を越えて入った時代の登山記録である。後半は大雨のために橋が流され、4日の予定が11日かけて奈良田に下山している。

彼女はその後、赤石岳から下った小渋川で消息を絶ってしまった。

彼女の思い出を話すとき、川崎氏はいつも涙していたのを覚えている。

  さらに調べると、沢田真佐子が赤石岳で遭難したのは、白根三山で遭難したものの奇跡的な生還を果たした1953年ではなく、どうやらその4年後の1957年のことであるらしいことがわかった。

 この情報は、下記ブログ記事のコメント欄にて知った。

www.yamareco.com

 以下、上記ブログのコメント欄より引用。

ところで、小渋川の最後の堰堤前の林道脇だと思いますが「沢田真佐子」のレリーフをご存知でしょうか?分かれば教えて頂ければと思います。

沢田真佐子さんは大先輩で1957年7月に女流登山家で単独南アルプスに入山し台風の影響で増水した小渋川で遭難しました。現在の小渋ノ湯付近の状況は把握しておりませんが、砂防ダム建設でレリーフが埋まってしまうので1978年に本流から少し上部に付替えを行いました。現在どうなっているのか気になりました。m(--)m

 沢田真佐子のその後は、知らなかった方が良かった。

 結局沢田真佐子は「気の弱いお母さん」を悲しませてしまったのだった。沢田の「単独の北岳」の初出は、前記河野寿夫著『山登りって何だろう』によると東京上野山岳会会報(掲載年月は不明)で、『山と渓谷』の1957年7月号に掲載されたそうだが、もしかしたら赤石岳で遭難した沢田の追悼の意味で掲載されたものでもあろうか。今では雑誌の7月号は5月に編集を終えて6月に発売されると思うが、昔は違ったのだろうか。あるいは偶然にも雑誌に「単独の北岳」が掲載された直後に沢田真佐子は遭難してしまったのだろうか、などなど想像は尽きない。また、『山登りって何だろう』によると赤石岳での沢田の遭難は9月と書かれているが、ブログ記事のコメント欄情報では1957年7月だという。このあたりの記述も食い違っている。この詳細を詰めることは今回はできなかった。なにしろ『むかしの山旅』には沢田真佐子の生没年も記載されておらず、「著者プロフィール・出典一覧」の欄には「(連絡先をご存知の方、ご一報戴けると幸いです)」(302頁)と書かれている(同様の記載のある、生没年または没年のみが不明の著者は、他にも5人いる)。角川文庫の編集部とは比較にならないほどまともな仕事をしていると私が評価する河出文庫の編集部でもそうなのだから致し方ないところか。

 実は『むかしの山旅』に掲載された24本の登山記録のうち、寺田寅彦の「浅間超え」(1933年)を含む9本はまだ読んでいないが、他にもあやうく遭難を免れた記述のある俳人河東碧梧桐の「白馬山登攀記」(1916年)も印象に残った。これも昭文社の「山と高原地図・35『白馬岳』2001年版」を参照しながら読んだが、現在では一般登山道にはされていない黒部側(富山県側)の猫又谷から白馬岳に登頂した記録だ。この記録によると、一行は未踏のルートを拓いて白馬岳頂上に到達したのは良かったが、案内者の長太郎は信濃側(長野県側)の北城村(現在の白馬村)への下山ルートは「全く知らぬ」(本書124頁)と言っていたという。一行が正しい下山路を知ったのは、たまたま信州側から登ってきた学生の一行と行き会った僥倖によってだった。そして学生たちに教えてもらったその下山路は、「最初長太郎の予想していた信州に下る方向とは、全く別な渓谷を行くのであった」(同前)とのこと。一行の下山した翌日、白馬岳は暴風雨に見舞われた。碧梧桐は、下山が一日、それもその15〜16時間内外遅れていれば、「一行はその露営地さえ得るのに苦しむのみならず、行き帰るべき道をも失して、あるいは無事下山さえ出来得なかったかも知れぬ一大惨禍を含む真に寒心に堪え(ぬ*4)暴挙に参加した」(同104-105頁)、「九死に一生を得たといっても、さまで誇張の言ではないのである」(同105頁)と振り返っている。碧梧桐は山では死なず、1937年に64歳の誕生日を迎える少し前に病死した。

 沢田真佐子は、なぜ再び南アルプスで大雨に遭遇して遭難してしまったのか。60年前のこととはいえ、悔やまれてならない。

 

[他に参照したブログ記事]

 上記は1955年の北岳登山記録。やはり広河原に出るのに2日を要している。「大樺小屋は八分通り完成していた。」とあるから、沢田真佐子が登った1953年には「小屋跡」だったところに新しい小屋が建とうとしていたようだ。現在の白根御池小屋はこれとは違い、2005年に建てられた。最初に大樺小屋が建ったのは1928年だったという。

 また、「草滑りの直登は物凄く、太陽の直射を背に受けて、四つん這いになりながら必死に登る。」とも書かれている。大門沢の下りについては、「柔らかいガレ、いやな下りだ。そして長い。」、「大門沢のガレセード。」と言及している(沢田真佐子はこれを「大石渓」(「大雪渓」のもじり)と表現した)。

 

[私自身が書いた過去の記事](2016年9月18日)

d.hatena.ne.jp

*1:南木の一行は、北岳への「草すべり」の登りでも苦戦して、「もし快晴だったら、真夏の陽光に焼かれ、体力の消耗はこんな程度では済まなかっただろう」(131頁)と書いている。沢田真佐子はまさにそれを経験したわけだ。健脚の者は別だが、始終山に行くほどではない私のような人間は、草スベリを登る前日に白根御池小屋に泊まっておいて大正解だったと改めて思った。

*2:本に掲載されている、おそらく沢田真佐子自身の手になる地図(前記河出文庫版149頁に掲載)と、昭文社発行の「山と高原地図41『北岳・甲斐駒』2013年版」とを対比すると、沢田真佐子が書いた「大ゴモリ沢」が現在の小古森沢、沢田の書いた「小ゴモリ沢」が現在の「大古森沢にそれぞれ該当するようだ。前者は後者より大門沢の下流に位置する。

*3:前掲書151頁。

*4:河出文庫版には「寒心に堪え暴挙」と書かれているが、「ぬ」が欠落していると思ってこれを補った=引用者註。

松本清張『風の視線』、『軍師の境遇』、『死の発送』を読む

 3か月かけて全9巻の『昭和史発掘』(文春文庫, 新装版2005)を読んだあと、6月は月またぎで読んだ2作品をあわせて6タイトル9冊の清張の小説を読んだ。要するに清張の大半の作品を読もうという野望があるわけで、それももう中盤戦に差しかかってきたので、6作はいずれも有名作品ではない。5月末から6月初めにかけて読んだ『混声の森』については前の記事に書いたので、残り5タイトルについて書く(結局この記事には3タイトルについてしか書けなかった=追記)。

 

 まず最初に読んだのは、清張が1961年に『女性自身』に連載したメロドラマ『風の視線』だった。当時の清張は女性雑誌にメロドラマまで書いていたのだ。この作品の前にも『波の塔』(1959-60年『女性自身』連載)があり、後にも同じ雑誌に掲載された作品があるようだが、正直言って、この『風の視線』はあまり面白いとは思わなかった。

 

 

 

 この頃の清張作品には、しばしば「書き飛ばしているな」との印象を持つものが少なくないが、この小説もその一つ。「書き飛ばしている」とはわかっていても引き込まれたのがサスペンスものの『影の地帯』(1959-60, 地方紙連載)などで、そういう作品は一気に読めるのだが、この作品にはそれもなく、それでもセリフが多くて頁がスカスカなので読んだ総時間数は少ないけれども、読んだ頃に忙しかったこともあって少しずつ読み、結局読破に6日間をかけた(6月11日から16日まで)。

 

 デビューの遅かった清張の1960年前後といえば50歳前後の時期に当たるが、当時の清張は何でも書いた。前記『風の視線』は女性週刊誌の読者向けのメロドラマだったが、その次に読んだ「軍師の境遇」は黒田勘兵衛を主人公とした高校生向けの歴史小説で、『高校コース』という雑誌(おそらくかつて存在した学研の『高1コース』、『高2コース』、『高3コース』の総称と思われる)の1956年4月号から翌年3月号にかけて連載された。

 

軍師の境遇 新装版 (角川文庫)

軍師の境遇 新装版 (角川文庫)

 

 

 この作品は、実は去年河出文庫版で読んだことがあるが、上記角川文庫版には表題作以外に「逃亡者」、「板元画譜」の2作が収められており、それらが河出文庫版には収録されていなかったことを知って、角川文庫版を読んだ*1。その際、表題作「軍師の境遇」を再読したが、角川書店版と河出書房版の違いを何箇所か発見してしまった。

 まず、作品で中盤の舞台となった有岡城の所在地の現在の名称として、角川文庫版には「(大阪府伊丹市)」と書かれているが、伊丹はいうまでもなく大阪府ではなく兵庫県に属する。伊丹には「大阪国際空港」があるから清勘違いしたものだろうが、1987年の単行本初出以来、角川書店はその誤りを放置していたに違いない。そしてこの誤りは新装版発行の際にも改められなかった。

 それから、岡山の宇喜多直家(及び子の秀家)の姓を、清張は主に「浮田」と表記しているのだが、角川版には初めの方と後半で一部「宇喜多」と表記している部分があって、大半の「浮田」表記と一部の「宇喜多」表記が混在している。しかも、最初に「宇喜多」が登場した時には「字喜多」と誤植されている。一方、あとから文庫化した有利さもあるのだろうが、河出文庫版ではすべて「浮田」で統一されている。

 なお、角川文庫所収の3作中では、最初の「軍師の境遇」は高校生向けだけあって平易で短時間で読めるが、あとの作品ほど1頁あたりの読書時間がかかった。文庫本の解説には雑誌の初出が示されていないが、初出の情報は下記のブログ記事を参照して知った。角川文庫の旧版には初出が明記されていたようだ。

 

d.hatena.ne.jp

以下、上記ブログ記事から引用する。

 

 角川文庫6796は頁付があるのは285頁までで、その裏は次のようになっている。

本書収録作品の初出誌、発表年月日(号)は、以下の通りである。

軍師の境遇 「高校コース」昭和三一・四~三二・三(原題「黒田如水」)

逃亡者   「別冊文藝春秋」昭和三六・一二

板元画譜  「別冊文藝春秋」昭和四六・一二

 

 その次が奥付。改版(新装版)の角川文庫18107にはこのような初出データはなく、その代わりに287~294頁3行め、葉室鱗「解説」があるのだが、執筆・発表時期・発表媒体に触れるところがない。台詞を多用し細かく段落分けしている「高校コース」に対し、「別冊文藝春秋」の方は一段落が長くなっていることは一目瞭然で、1頁当りの字数は42字×16行の方が38字×17行よりも多いから、「別冊文藝春秋」発表の2点は前者の方が頁数が少なくなっているが、「高校コース」発表の「軍師の境遇」のみ、1頁の字数ではなく行数の多い後者の方が頁数が減っているのである。もちろん、今やネットですぐに調べられる時代になったのではあるけれども、やはりそれを裏付ける情報は書籍に明記して置くべきだと思う。(以下続稿)

 

  新装版と旧版の頁数と行数の変化が高校生向けの表題作と他の2作品で異なるというのは面白い指摘だし、作品の初出を書籍に明記すべきだというのは当たり前のことだと思うのだが、角川書店はそれをやらない。私が初めて文庫本に接するようになった子ども時代(1970年代中頃)には、角川文庫の存在感は今より高かったのだが、その直後に角川書店の創業者・角川源義(かどかわ・げんよし。通称かどかわ・げんぎ)が亡くなり、後を継いだ2世の角川春樹が、横溝正史作品と角川映画のタイアップなどを行って角川商法が一世を風靡したこともあった。しかし、『軍師の境遇』の文庫本新装版発行に当たって原作の誤りをそのままにしたり、作品の初出の情報が旧版には記載されていたのに新装版ではその記載を省いてしまったりしていることには、「いかにもという感じのの角川クォリティだな」と思わずにはいられない。

 なお、同じ『別冊文藝春秋』の2作を比較しても、1971年の「板元画譜」の方が1961年の「逃亡者」より読むのに時間がかかったのは、描写した対象の分野が異なるせいもあるだろうが、それよりも10年間で清張の文体が変化したためだろう。「版元画譜」の方がよく書き込まれていて、作品の質としても「逃亡者」より上だと私は思った。

 この角川文庫新装版『軍師の境遇』は6月17日から翌日にかけて読んだ。

 

 続いて読んだのが同じ角川文庫の『死の発送』。

 

死の発送  新装版 (角川文庫)

死の発送 新装版 (角川文庫)

 

 

 Wikipediaによると、この作品は

『渇いた配色』のタイトルで『週刊コウロン』に連載され(1961年4月10日号 - 8月21日号)、同誌休刊後、『小説中央公論』に掲載(1962年5月・10月・12月号)、加筆・訂正の上、1982年11月にカドカワノベルズより刊行された。

とのこと。多作期に作られたが、掲載誌の休刊があり、なおかつ作品の出来に清張が満足できなかったのかどうか、それとも作品中の誤りを指摘されたのかどうか、長く単行本化されずに放置されていた作品に角川が目をつけて、1982年にようやく単行本として陽の目を見た作品のようだ。

 とはいえ清張得意の鉄道を利用した凝ったトリックがあり、結構読み応えはある。結末が少々あっけないので、清張の代表作郡には数え入れられないかも知れないが、悪い作品ではない。2014年にフジテレビ開局55周年記念番組として向井理主演でドラマ化もされたようだ(前記Wikipediaより)。6月18日から21日にかけて読んだ。

 

 実は6月の清張作品のメインディッシュはこのあとに読んだ作品なのだが、ここまででもう随分長くなったので記事を分けることにする。続きは明日以降に公開の予定。

*1:河出文庫版の発行(2014年)も、角川文庫版の改装版発行(2013年)も、ともに2014年のNHK大河ドラマ『軍師勘兵衛』の放送に合わせたものと推測される。

東京にも「象潟」があった!〜松本清張『混声の森』より

 どういうわけか昨年11月の文化の日の直後からずっと多忙の状態が続いた。だから最近は読書も思うに任せず、しかし2013年秋に『Dの複合』を読んで以来はまってしまった松本清張作品だけは空き時間に読み続けている。

 2013年に光文社文庫から刊行が始まった「松本清張プレミアム・ミステリー」のシリーズは、第1期6タイトル、第2期(2014年)7タイトル、第3期(2015年)4タイトル、そして第4期(2017年)4タイトルと、計21タイトルのラインアップだが、比較的無名の作品を多く収録している。中でも今回読んだ『混声の森』(第3期)は清張の長編推理小説ももっとも読まれていない作品なのではないか。「混声の森」を検索語にしてネット検索をかけても、感想が記されたサイトが少ししかみつからない。

 

 

 

 実際、この作品は清張作品の標準的な水準に達しているとは言い難い。解説文を見ると、鹿児島の『南日本新聞』などの地方紙に1967〜68年に連載されたとある。ネット検索で、他に『信濃毎日新聞』(長野)や『夕刊フクニチ』(福岡、『西日本新聞』の系列紙だったが1992年に廃刊)にも連載されていたことがわかっているが、おそらく通信社の配信だったのだろう。

 以前読んだ清張作品の中でもっとも出来が悪いとの印象を持った『影の地帯』がやはり地方紙の連載(1959〜60年)だったことが思い出される。ネットで見つけた感想文を見ても、70年代の後期作品だから全盛期の50〜60年代の水準に達していない、などと書かれているのを散見するが、この作品の連載は60年代後半であって、『Dの複合』(光文社の月刊誌『宝石』に1965〜68年に連載)と並行して書かれていた時期がある。要するに清張の力の入り具合が今一つだったために、単行本化が遅れただけだ(1975年に角川書店から単行本初出)。これに関しては、光文社文庫が但し書きでミスリードしていることも良くない。あたかも1978年の作品であるかのような但し書きがついているが、事実はカッパ・ノベルス入りしたのが1978年であるに過ぎない。

 さて、この作品の主人公は悪人であって、悪事を企んで成功目前までたどり着きながら挫折するおなじみのパターンの小説だ。この系列には、清張の代表作の一つに数えられる『わるいやつら』(1961)を筆頭に多くの作品がある。

 この主人公には、不仲の妻と家庭内暴力で両親を悩ませる高校生の息子がいるのだが、息子は「大阪に行く」と書き残して家出をしてしまう。そんな時期に主人公の家に、「象潟(きさかた)署」から電話がかかってくる場面がある(上巻402頁)。電話をかけてきた警官は「東北弁」だったとも書かれているから、ああ、ドラ息子は大阪ではなく秋田に行ってたのかと最初思った。

www.city.nikaho.akita.jp

 ところが、そのすぐ後にドラ息子が浅草でつかまったとか、東京在住の主人公がタクシーで象潟署に行ったなどと書かれているから、一瞬頭が混乱した。もちろん、浅草に「象潟」というところがあって、それは東北出身者にちなんでつけられた地名だろうなとは想像したし、結果的にその想像は正しかったのだが、それにしても東京(浅草)に象潟なんて地名があるとは寡聞にして知らなかった。

 そこで例によってネット検索をかけて調べたところ、かつて「浅草象潟町」という地名があったことが簡単にわかった。

d.hatena.ne.jp

 「浅草象潟町」という地名は現在は存在しない。上記ブログ記事にある通り、1966年に消滅した。清張作品は地名消滅の翌年から翌々年にかけて連載されたが、清張は地名の消滅を知らなかったのであろう。「象潟町」の町名の由来は予想通りだった。以下上記ブログ記事より引用。

さて、今回の旧町名は「浅草象潟町」です。「きさかた」と読みます。この旧町名の由来は明歴の大火に関係しています。江戸時代に起こったこの大火の後、新吉原が日本橋から浅草移りました。その20年後にこの地に屋敷を構えたのが六郷氏でしたが、藩主であった羽後本荘藩の旧領羽後本庄に象潟の名勝があったことからその名を取ったとされています。

  「象潟の名勝があった」というのは、本家・秋田県においても「象潟の名勝」が江戸時代に起きた大地震によってその景観が一変してしまったことを言っている。

 象潟は多くの入江に島を浮かべ、秀麗な鳥海山を水面に映す絶景の地であった。松島と並び俳人松尾芭蕉がめざした景勝の地であった。
 「江の縦横一里ばかり、おもむき松島にかよひて又異なり。
 松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし。
 寂しさに悲しみをくはえて地勢魂をなやますに似たり

 象潟や雨に西施(せいし)がねむの花」と「奥の細道」に記している。

 文化元年(1804)、鳥海山麓を震源地とする直下型地震により突如隆起する。いわゆる象潟地震である。これによって芭蕉が称えた景観は一変、約1.8m~2.7mも隆起し、水面に浮かんでいた小島は、陸地と化してしまった。

秋田県庁ホームページより)

 

 「浅草象潟町」は、テレビ朝日の『タモリ倶楽部』2015年6月13日放送の「旧地名ハンター 浅草編」で取り上げられたこともあるようだ。

halohalo-online.blog.jp

 なお、清張作品に出てくる「象潟署」なる名称の警察署は確認できなかった。浅草警察署が1890〜1945年の間「浅草象潟警察署」という名称だったことだけは確認できたが。

http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/6/asakusa/gaiyo/gaiyo.htm

 

 もう一つ、この作品について記録しておきたいことは、以前別の清張作品にも出てきた京都名物の「いもぼう」なる料理が、本作において重要な役割を演じていることだ。

 「いもぼう」とは、京都・円山公園内にある平野屋本家の名物料理で、海老芋と里芋の一種と棒鱈を炊き合わせた料理だ。1月に読んだ清張作品『球形の荒野』にも出てきた。

zassha.seesaa.net

 以下、上記ブログ記事より引用。

東山・円山公園知恩院南門に抜ける手前辺りに、「いもぼう」発祥の老舗「いもぼう平野屋」の本家と本店が左右に並んで店を構えている。「本家」のほうの女将(北村明美さん)に伺うと「こちらが本家であちらは分家」とのこと。
「本家」のHPから紹介文を引用すると、<<いもぼう平野家本家では伝統のほんまもんの味を守る為に、京の名物料理「いもぼう」の技と味を一子相伝(いっしそうでん)で継承者にのみ伝承いたしております。手間ひまをかけた他では真似の出来ない本来の「いもぼう」を是非お召し上がり下さい。文豪・吉川英治先生に「百年を伝えし味には百年の味あり」とお褒め頂き、ノーベル賞作家・川端康成先生が「美味延年」と記され、また推理小説作家・松本清張先生には小説の舞台としてお書き頂いております。>>
そこで多作を誇る松本清張の長編小説群から「いもぼう」登場場面を抜き出してみる。作品は「球形の荒野」で、京都での主舞台は、下記に「鍵をフロントに預ける」と描写されているように、殺人事件が発生する「Mホテル」こと「都ホテル」であって、「本家」のHPにある「小説の舞台」というのは大袈裟で、ささいな事件も起こらず、この料理屋に謎解きのヒントが隠されているわけでもない。

<<京都では、特殊な料理として「いもぼう」というのを聞いていた。久美子ほ支度をした。鍵をフロントに預けるとき、その料理を食べさせる家を訊くと、円山公園の中にあると教えられた。
タクシーで五分とかからなかった。その料理屋は、公園の真ん中にあった。これも純日本風のこしらえである。幾つにも仕切られている小部屋に通った。「いもぼう」というのは、棒鱈(ぼうだら)とえび芋の料理で、久美子は他人(ひと)からは聞いていたが、食べるのははじめてだった。淡泊な味でかえって空いている胃に美味しかった。
女中もみんな京言葉だし、隣の部屋で話している男連中の訛(なまり)がそれだった。こうして特色のある料理を食べながら土地の言葉を聞いていると、しみじみと旅に出たと思う。>>以上。

 

 『球形の荒野』においては、

「本家」のHPにある「小説の舞台」というのは大袈裟で、ささいな事件も起こらず、この料理屋に謎解きのヒントが隠されているわけでもない。

 というのは確かにその通りだが、『混声の森』では平野屋の店名も明記されており(光文社文庫版上巻324頁)、間違いなく「作品の舞台」になっている。しかもきわめて重要な場面なのである。

 なお、『混声の森』、『球形の荒野』の2作品のほかにも、清張初期の短篇「顔」(1956)にも「いもぼう」が出てくるらしい(未読)。というか、検索語「いもぼう 清張」でググってもっとも多く言及されているのがこの「顔」だ。

 松本清張を「日本のバルザック」と評した人がいるが、多作で知られたバルザックのごとく、清張作品も山ほどあって、読んでも読んでも未読作品がなくならない。おかげでまだこの人生に「未読の清張作品を読む楽しみ」が残っているわけだが。

松本清張『昭和史発掘』(5)〜(9)(文春文庫新装版)を読む

 松本清張『昭和史発掘』(3)(4)(文春文庫新装版)を読む(『KJ's Books and Music』) - kojitakenの日記(2017年5月6日)の続き。

 

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 6 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 6 (文春文庫)

 
昭和史発掘 (7) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (7) [新装版] (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 8 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 8 (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 9 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 9 (文春文庫)

 

 第5〜9巻の章立ては下記。

 

 

 やっと読み終えた。2月22日から5月24日まで、延べ3か月と3日で9冊。松本清張作品はこれで48タイトル64冊を読んだ。

 この記事は横着をしてネット検索で得た他ブログや資料の類を中心に記録しておく。

 

akabaneouji.blogspot.jp

 以下コメントをはさみながら引用する。

数年前から読もうと決意していた松本清張「昭和史発掘」をこの夏からほぼ半年かけてようやく読み終わった。

1冊450円で全巻買い揃えてから読み始めるというチャレンジだった。これを読んでいる時期がずっと体調が悪くつらかった。

 私は仕事が忙しい仕事の合間を見て読んでいたが、その間ブログの更新などもしていたので本当にきつかった。最後の第9巻は仕事が少し楽になったところで読んだが、仕事のピークを越すと同時に疲れが 一気に出て体調が良くなかった。

第5巻に入ったとたんに、読んでいて全然内容が頭に入ってこなくなったが6巻から再び読みやすくなる。ず~っと陸軍という組織の内部に留まる。

ず~っと一次資料からの引用が多く、ずっと古めかしいカタカナの文章を読むハメになる。人事の話とか「もういいよ!」って思ったけど、組織って結局それのみ。軍の経験がある世代には当然のことでも、軍の階級とか役職とかまったくイメージできなくて困惑した。
あまりに登場人物が多くて誰が誰だかわからなくなってくる。1回読み通しただけでは身に付いていないと思う。これからも折りを見て読み返さないといけないだろう。

「2.26事件」の項を読んでまず思ったのが、このイっちゃってる青年将校たち(みんな20代30代!)を国民はほとんど誰も支持してなかったってことが意外だった。戦前ってみんな熱狂的ファシストだったから戦争に突入したってイメージは間違ってた。

陸軍の「統制派」「皇道派」の熾烈な争いは、この事件によって「皇道派」が一掃され「粛軍」が進むのだが、それは新たな独裁の始まりで、政治、財界、国民を脅し戦争へ突入していくことになる……。
それにしても細かいことまでしつこく念入りに「2.26事件」の登場人物とエピソード、名場面を多方面から解析。行政上のこととか法理学的なこととかちんぷんかんぷんなままだった。この半年でずいぶんとこの時代の「軍人」たちの名前を知った。

「2.26事件」の裁判は特設軍法会議っていうやつで、国民にはまったく知らされていない。えぇぇ……。どんな裁判が行われたのか不明。裁判官と判士たちも陸軍の意向で動いていて、弁護士なしの一審制「暗黒裁判」。17名に死刑判決。予審調書や資料の多くは終戦時焼却処分された。それでも事件のあらましは各方面の資料をつき合わせて見えてくる。首魁・磯部浅一の獄中手記と看守の証言によって詳しいこともわかっている。

真崎甚三郎という人物はそうとう問題がある。どうしてこういう人物が偉い位置にいるのかよくわからない。責任を追及されると声を荒げるだけ。後のマレーの虎山下奉文も清張は徹底的にこき下ろしている。真崎は判決理由と主文がまったく合っていない強引な無罪判決。北、西田はその逆の強引な死刑判決。

(略)

巻末の解説を読んで、この巨人による仕事は藤井康栄という文芸春秋の女性編集者(当時30歳)の存在がなければなしえなかったという事を知った。この人は後の清張記念館館長だ。

軍隊に入らなくていい時代になってよかった。が、今も大学の体育会系やほとんどの会社に「軍」は残っている。はやくなくなってしまえ!

 北一輝西田税の死刑判決について、別のブログから引用する。下記ブログ記事には清張本への言及はない。

d.hatena.ne.jp

 以下引用する。

 北一輝は2月28日に逮捕されました。西田は逃亡し、3月4日に逮捕されました。青年将校、北、西田らは軍法会議にかけられます。ここで北、西田は事件の「首魁」とされたのです。公判は12回開かれ、吉田悳(よしだ しん)裁判長(大佐、裁判中に少将昇進)は「幇助・従犯」以上のものではないと考えていましたが、他の判士は北と西田を「首魁」とみていました。そして北、西田に死刑が求刑されます。

 吉田裁判長手記

「論告は殆ど価値を認めがたし。本人または周囲の陳述を藉(か)り、悉く(ことごとく)之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。そもそも今次事変の最大の責任者は軍全体である。軍部特に上層部の責任である。之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きは、国民として断じて許し難きことであって・・・」

 北一輝が首魁であったとしたら、彼の国家主義思想は天皇も国家の一部という考えでしたから、宮城(皇居)を占領し、天皇を独占したでしょうが、それは行われていません。どうやら陸軍が軍の面子を保つため北らを首魁にしようと圧力をかけたようです。吉田裁判長は職を賭して奔走しましたが、8月14日、北と西田に死刑判決を言い渡すことになりました。

 吉田裁判長手記

「八月十四日、北、西田に対する判決を下す。好漢惜しみても余りあり。今や如何ともするなし」

 憲兵史編纂者として記録を残した大谷敬二郎東部憲兵隊司令

「西田、北一輝の二人は、一般には二・ニ六事件の黒幕として理解されているが、決してそうではない。たしかに西田は軍に青年将校運動をつくり上げた張本人であったが、この事件における因果関係は浅い。また北には革命の法典といわれた『日本改造法案大綱』があり、一部の青年将校を魅了したことは事実であるが、彼はこの事件には参画していない。これを以って軍法会議が、この二人を二・二六事件の首魁と判定して死刑にしたことは、なんとしても酷なことであった」

 北一輝辞世の句「若殿に兜とられて負け戦」

 昭和12年8月19日、北一輝西田税、磯辺浅一元陸軍一等主計、村中孝次元大尉とともに処刑されました。

  宮城(皇居)の占拠については、叛乱軍の青年将校たちにその構想があったものの、宮城占拠の任に当たった中橋基明中尉の行動が中途半端だったため、青年将校たちは宮城を占拠できなかったのではないか、と清張は『昭和史発掘』のシリーズにおいて再三指摘している。

 現在ではどうやら青年将校たちが宮城占拠の意図を持っていたことは定説になっているようだ(下記Wikipedia「中橋基明」参照)。

2・26事件での中橋の役割は高橋是清元蔵相殺害と宮城占拠だったが、高橋殺害に関しては成功したものの宮城占拠に関しては失敗、昭和天皇へ決起の趣旨を上奏するため単身宮城の奥まで乗り込むも、護衛にあたっていた大高政楽少尉(近衛第三連隊御守衛上番)に拳銃を突き付けられ成功しなかった(この際、もし天皇が趣旨を聞き入れなければ、天皇を弑逆して自決するつもりだったとされている*1)。

中橋基明 - Wikipedia より

  なお、松本清張北一輝その人に対する評価はいたって低いことを付言しておく(私も北を高く評価する松本健一渡辺京二の本を読んだが彼らに説得されることはなかった)。

  清張のこのシリーズは歴史の専門家たちからも高く評価された。故家永三郎加藤陽子の名前を挙げることができる。現在もっとも入手が容易で私も読んだ文春文庫新装版の最終巻には加藤陽子の解説(後述)がついているが、文春文庫の旧版(1978〜79)や『松本清張全集』第32巻(1973)には家永三郎の解説がついていたようだ。後者はネットから一部を拾い読みすることができる。

 

blogs.yahoo.co.jp

 しかし、よく考えてみれば、学問とは真実を明らかにする人間の(学者のではない)いとなみであって、専門などというのは、研究者が自分たちの都合で人工的に作り出した便宜的区分にすぎないのである。(中略)私は人間のしごとは、そのしごとをなしうる能力のあるものすべてに開放されるべきであって、「専門家」であるかないかなどという貸元の縄張りみたいなことを口にするのは、恥ずべきことと思っている。(中略)だから、私は、作家松本清張が作家であるが故にかえって専門家がなし得なかった近現代史の領域を開拓されたのを、平素の私の信念と一致するものとして、心から歓迎し祝福したいと思うのである。(中略)作家松本清張は、またすぐれた日本近現代史松本清張でもあるのだ。松本さんの日本文芸史上における位置づけについて私は何も言う力をもたないが、日本史学史の上で今後松本清張の名を逸してはなるまいとさえ思っている。

―「解説」(家永三郎

 

www.c20.jp

 前半にも「石田検事の怪死」をはじめ、興味津々たる題目が並んでいるが、 なんといっても、第七巻以後七冊にわたって詳細に追及されている「二・二六事件」の叙述がすばらしい。 わけても、特設軍法会議の暗黒裁判をえぐり出した最後の三巻が圧巻である。 (「解説にかえて」家永三郎

「特設軍法会議の暗黒裁判をえぐり出した最後の三巻」は、新装版では第8,9巻の2巻にあたる。最初に引用したブログ記事に

真崎は判決理由と主文がまったく合っていない強引な無罪判決。北、西田はその逆の強引な死刑判決。

 と書かれたあたりだ。

 新装版に付された加藤陽子の解説は、例によってネット検索でパクろうと思ったのだが、良い資料がみつからなかったので、まだ図書館に返していない第9巻から直接抜粋して引用する。

  清張の『昭和史発掘』への入魂の思いは、もちろん「二・二六事件」の章に結実している。叛乱部隊側の首謀者の意図はこれまで不十分ながら知られてきたが、清張が明らかにしたかったのは、鎮圧部隊側の正確で詳しい動きと、叛乱将校に連れ出された下士官兵を軍法会議がいかなる法理論で裁いたのか、の二つであった。一時史料の博捜と多面的な考察によって、清張がこの目的を見事達成したことは多くの研究者が認めるところである。たしかに、鎮圧する側、叛乱部隊に抵抗した側の動きを追ってゆけば、首謀者の声高な弁明の真偽を弁別しながら、叛乱の計画性の虚実に迫るよりも、確実に二・二六事件像が手に入るはずなのだ。

 敗れゆく者の滅びの美学には、文学の世界だけでなく、実のところ学問の世界もはなはだ点が甘い。そういった日本の風土にあって、叛乱将校のヒロイズムの側ではなく、満足な説明も受けないままに連れ出された下士官の側、また、一歩間違えば皇居占拠にまでいったかもしれない叛乱を見事鎮圧した側、それこそが明らかにされなければならない、と勝負をかけた清張の手並みは、人間を知る人だけに実に鮮やかだった。対象に対する自らの立ち位置をどう設定するかで、その人物の歴史に対するセンスははっきりとわかる。清張のそれは、時間の経過によく耐える筋金入りのものであった。今でもまったく古びていない。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)393-394頁)

 その『昭和史発掘』の史料を発掘したのは、清張自身ではなく、藤井康栄という文春の女性編集者だった。再び加藤陽子の解説から引用する。

 政治家らの独立を強く夢見た領域で起こった胎動や変化こそが、昭和戦前期の、少なくとも二・二六事件までの時代の本質だと本能的に察知し、作家の手を引いて走り出した者こそ、先ほど名前を挙げた藤井康栄その人なのだと私は思う。藤井は現在、1998年*2に開館した北九州市立松本清張記念館館長を務めている。『週刊文春』1964年7月6日号からの連載が決まった直前、作家は初めての欧州旅行に旅立ってしまった。「現代史をやる」、「他人の使った材料では書きたくない」、「一級資料がほしい」とのたまう作家の、すべてのお膳立て、先行取材をしたのが、藤井であった。

 早稲田大学文学部史学科で日本近現代史を専攻した藤井は、とにかく、「自分の関心のあるテーマで現代史のラインナップを作ってみよう」と思い立ち、大胆にも作家の手を引いて走り始めた。すごいことだ。出版社に女性専用のトイレもなかった当時、30歳の女性編集者であればなおさらのことである。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)392頁)

 

 清張は第1巻のあと「編者あとがき」(第1刷のみにあり、第2刷以降の版では削除されている)で「本巻に収められた関係資料はすべて藤井氏の捜索蒐集に成る。(中略)その努力と学術的な良心には心から敬服する。本巻は、わたしの監修とはいえ、事実上、藤井康栄校訂・編著である」と書いている。清張の誠実さをしのばせる書き方であるが、いっぽうで、世紀に残る仕事を自分は成し遂げたのだという、深く静かな清張の自身を感じさせる言葉ともなっている。海のものとも山のものともわからない史料の山から、「これが歴史的に真に重要な部分だ」といって宝石の原石を摑み取り、磨き上げ、全体に秩序を持たせ、壮大な物語を書き上げたのは、まさに清張その人である。このように、真に力のある者同士のタッグは見ていて気持ちのよいものだ。先行取材者と作家の間には、生涯、敬愛と信頼の情が流れていたことだろう。晩年、照れ屋の作家は藤井に向かい「ありがとう、いやなことは一度もなかったね」と感謝の言葉を述べたという。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)395頁)

 

 日本近現代史の専門家にここまで言わせる松本清張と藤井康栄の2人は、本当にどえらい人たちだと思うが、現在も健在の藤井康栄は詩人・大木惇夫の長女だ。「大木惇夫 藤井康栄」を検索語にして調べてみると、藤井康栄大木惇夫さんの長女で、次女がエッセイストの宮田毬絵、三女が俳人の大木あまりとのこと。

 さらに、大木惇夫の次女・宮田毬絵は、父の伝記を書いていた。毎日新聞のインタビュー記事によると、大木惇夫が作った戦争詩は、戦争中に兵士たちに愛唱されたが、それが災いして戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞したまま亡くなったという(下記URLの有料記事の無料部分より)

https://mainichi.jp/articles/20160621/ddn/013/040/021000c

 

 戦争詩か。辺見庸あたりが何か書いてるんじゃないかと思ったら案の定だった。それは、『kojitakenの日記』の下記記事の記録から確かめられた。下記は2012年6月7日に書いた記事。私がこれまでに大木惇夫に言及した唯一の記事だ。

d.hatena.ne.jp

 辺見庸の『死と滅亡のパンセ』は手元にある。『kojitakenの日記』の記事には大木惇夫の名前が出てくる頁を記さなかったので、現物で確認した。

死と滅亡のパンセ

死と滅亡のパンセ

 

 以下引用。

(前略)坪井(秀人=引用者註)氏はこうも言う。「佐藤春夫三好達治、大木惇夫、野口米次郎、蔵原伸二郎等々の代表的な戦争詩人について、〈彼は戦争詩を書いたがそれによって彼の詩業の価値は些かも損なわれるものではない〉式の評言がいまだに繰り返されている。このような見苦しい弁明が戦争詩と同様あるいはそれ以上に罪深いことをまずは認識すべきなのである」。この学者の視力、聴力のよさはここにもあらわれていると僕は思うんだ。聴力の鋭さは『声の祝祭』の全篇にわたって生かされている。「戦争詩と同様あるいはそれ以上に罪深いこと」はいま今現在も続けられているよ。

辺見庸『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社,2012) 74頁)

 

 松本清張推理小説では、少し前に読んだ『表象詩人』の登場人物として、昭和初期に野口米次郎に傾倒した青年が出てくる。また、今回取り上げている『昭和史発掘』でも、第2巻(文春文庫新装版。)収録の「潤一郎と春夫」に佐藤春夫が取り上げられている。しかし大木惇夫の名前がこれまで読んだ清張作品に出てきたかどうか。大木惇夫の名前になじみの薄い私は書いてあっても気づかずに読み飛ばした可能性もあるが、記憶にはない。

  その「戦争詩人」大木惇夫の長女である藤井康栄が、松本清張の担当編集者として、歴史の専門家にも高く評価される仕事を成し遂げた。この事実は、もっと広く知られて然るべきだと思った。

 全9巻を読み通すのは本当に大変だったが、読んで良かったと思える大作だ。

 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】

 

 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】
 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】

他に参考にした記事

本「2.26事件」松本清張(『昭和史発掘』から)(読書ノート-50)

*1:湯浅博『"悪鬼"が歴史を動かす』、産経新聞、2013年2月19日付=Wikipedia原註。

*2:原文では年数表示に漢数字が使用されている。以下同様=引用者註。

宇野重規『保守主義とは何か』(中公新書)のメモ

d.hatena.ne.jp

 以下、上記ブログ記事から引用。

 宇野重規保守主義とは何か』の見解によれば、近代日本の「保守主義」の本流を巡っては、伊藤博文大久保利通、大久保の実子である牧野伸顕、戦後においては、牧野の娘婿である吉田茂、さらには宏池会という系譜を描く。それに対立する異端として、岸信介鳩山一郎といった旧民主党系があり、その系譜を現在において継承するのは(安倍晋三も属する)清和会であって、経世会というか田中角栄竹下登系譜はこの2つの中間に立っていた。ところで、孫崎享の謎も解けた感じがする。要するに、旧自由党系を叩いて旧民主党系をよいしょしていたわけだ

  引用されている宇野重規保守主義とは何か』(中公新書)は私も昨年(2016年)読んだ。

  以下、上掲書から関連箇所をメモ。

(前略)若き日の津田梅子に「アメリカを知る最良の書」としてアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を薦めたというエピソードからも推し量れるように、伊藤の欧米理解はけっして蔑(あなど)れないものであった)。

 また後年、伊藤は好んでバークの「代議士は国民全体の利益の奉仕者」という言葉に言及したという。議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない。元老の筆頭でありながら自ら政党の創設に乗り出し、立憲政友会の初代総裁になった伊藤は、間違いなくバークの思想のよき理解者であった。

宇野重規保守主義とは何か』(中公新書,2016) 172頁)

 「議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない」という伊藤博文の思想に真っ向から反しているのが、森友学園加計学園の例に見られるように、自らの「お友達」に利益供与すべく口利きに奔走する安倍晋三・昭恵夫妻といえるかもしれない。

 伊藤博文への積極的評価で私がすぐに思い出すのは、憲法学者樋口陽一立憲主義の観点から伊藤を高く評価していたことだ。伊藤に対する著者の総評は下記。

(前略)伊藤は近代日本における一つの正統的な政治体制を確立し、そこに明確な制度的基盤と、精神的機軸を与えようと努力したといえるだろう。伊藤がつくり出した明治憲法体制のその後の評価は措くとしても、明治憲法体制を前提に、その漸進的な発展を目指したという点では、伊藤は近代日本における「保守主義」を担ったといえる。(前掲書174-175頁)

  次に牧野伸顕に対する著者の総評。牧野は戦前の日本において、日本軍のテロリストたちによって暗殺のターゲットにされ続けたこともあって、昭和史を扱った本にはうんざりするほどその名前が出てくるが、牧野伸顕大久保利通次男だったことはすっかり失念していた。

(前略)大久保利通次男である牧野は、父大久保とともに伊藤を高く評価し、英国流の立憲政治を目指すと同時に、外交的にも親英米主義を志向した。このような牧野の政治的価値観は、ある意味で、女婿である吉田茂を通じて戦後保守主義につながることになる。彼らは民主化に対して慎重な態度をとり続けたものの、高まる民衆の声に対して、漸進的な体制の改革を目指したという点で、まさに保守主義の正統であった。(前掲書177-178頁)

  さらに吉田茂に対する著者の総評。

 (前略)吉田は一定の現実的判断に基づき、戦後日本の課題を軍事力の拡大にではなく、経済的発展に見出した。国家の役割を限定的に捉え、むしろ自由な経済活動を重視するという意味で、より自由主義的な路線であった。また、どこまで価値的なコミットメントがあったかはともかく、自らがつくり出した戦後体制というあり方を基本的前提としているという点で、より漸進主義的な改革主義の立場をとったといえるだろう。(前掲書183-184頁)

  やっと鳩山一郎岸信介にたどり着いた。下記は上記吉田茂に関する引用文のすぐ後に続く鳩山と岸、特に岸への著者の言及。なお引用に際して漢数字をアラビア数字に書き換えた。

 これに対し、鳩山一郎 (1883-1959) 、岸信介 (1896-1987) らの日本民主党は、吉田の自由党とはかなり異質な要素をもっていた。とくに注目すべきは、やはり岸であろう。戦前、商工省の革新官僚として活躍し、また満州経営で辣腕をふるった岸は、国家主導の統制経済や計画経済を導入しようとしたという点で、明らかに異なる政治経済秩序のイメージを抱いていた。また、1960年の安保改定では、アメリカに対する日本の対等な関係を目指したことに示されるように、岸はより明確なナショナリズムへの志向をもっていた。そのような岸にとって、日本国憲法やそれに基づく戦後体制は「押しつけられた」ものであり、岸は戦後的価値に対する、より急進的な挑戦者の立場をとったといえるだろう。(前掲書184頁

 岸が「1960年の安保改定では、アメリカに対する日本の対等な関係を目指したこと」を天まで届けんばかりに持ち上げたのが、あの世紀の愚書『戦後史の正体』を書いた孫崎享であったことは言うまでもない。私は2012年に、確か「風太」と名乗った「小沢信者」の挑発に乗ってではなかったかと記憶するが、金を払ってこの愚書を買い、具体的に引用しながらこき下ろしたことがあった。その中でも繰り返し批判したことは、孫崎がこの愚書において日本国憲法をわずか4頁の「押しつけ憲法論」で軽く片付けていたことだった。あんな本を読んで「目から鱗が落ちた」と感激していた「小沢信者」たちはなんと愚かなことかと私は当時から馬鹿にしていたが、既にその後の5年間の歴史が彼らに審判を下している。だが、彼らが手を貸した安倍晋三独裁政権誕生(復活というべきか)によって今の日本が戦後最大に危機に瀕していることを決して忘れてはならない。

 その教祖を含む田中角栄竹下登らは、上記岸信介の論評の直後に書かれた保守合同に絡めて言及されている。但し、小沢一郎の名前は出てこない(笑)*1。以下引用する。

 保守合同は、このような異質な両者の間の緊張を封印するものであった。より自由主義的で漸進主義的な吉田の立場が池田勇人宏池会によって受け継がれたとすれば、より国家主義的で急進主義的な岸の路線は福田赳夫の清和会などによって継承された。その意味でいえば、田中角栄からさらに竹下登経世会へとつながる路線は、その両者の間に立つことによって、ある時期以降の自民党政治における主導権を確立したといえるかもしれない。

 いずれにせよ、自民党内における本質的な価値観の対立は、派閥対立へと「矮小化」されることによって、潜在的なマグマとして抑え込まれた。そしてこの「封印」こそが、すべてを曖昧に包括する政党としての自民党が長く一党優位を確立する一因となったのである。(前掲書184-185頁)

 言うまでもないが、引用文の最後の段落は1955年から1993年までのいわゆる「55年体制」には当てはまるが、「政治改革」以降、すなわち1993年の政権交代から2012年の第2次安倍内閣発足直前までの19年間と、第2次安倍内閣発足とともに始まって現在も続く「崩壊の時代」には当てはまらない。現在は岸・鳩山のかつての「保守傍流」がかつての「保守本流」を完全に征圧してしまった。1993年から2012年までの19年間に及んだ過渡期の最後において、「保守本流」が生み出した「鬼っ子」ともいうべき小沢一郎一派と、2012年夏までは自民党内で不遇を託っていた安倍晋三とをくっつけようとしたのが孫崎享だったと私は位置づけている。その意味で、未だに「リベラル」人士が孫崎のTwitterなんかを嬉しそうにリツイートしているのを見る度に、私は苦々しさが込み上げてくるのを禁じ得ない。孫崎なんかをリツイートしてるからダメなんだよ、と言いたくなる。

 

*1:実際には、小沢一郎は側近の官僚に代筆させた著書『日本改造計画』や自らの政策によって、「保守本流」の政治に対して、むしろ岸信介鳩山一郎に近い立場から挑戦していたのだったが、本書では小沢の存在は完全に無視されている(笑)。