KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

松本清張『風の視線』、『軍師の境遇』、『死の発送』を読む

 3か月かけて全9巻の『昭和史発掘』(文春文庫, 新装版2005)を読んだあと、6月は月またぎで読んだ2作品をあわせて6タイトル9冊の清張の小説を読んだ。要するに清張の大半の作品を読もうという野望があるわけで、それももう中盤戦に差しかかってきたので、6作はいずれも有名作品ではない。5月末から6月初めにかけて読んだ『混声の森』については前の記事に書いたので、残り5タイトルについて書く(結局この記事には3タイトルについてしか書けなかった=追記)。

 

 まず最初に読んだのは、清張が1961年に『女性自身』に連載したメロドラマ『風の視線』だった。当時の清張は女性雑誌にメロドラマまで書いていたのだ。この作品の前にも『波の塔』(1959-60年『女性自身』連載)があり、後にも同じ雑誌に掲載された作品があるようだが、正直言って、この『風の視線』はあまり面白いとは思わなかった。

 

 

 

 この頃の清張作品には、しばしば「書き飛ばしているな」との印象を持つものが少なくないが、この小説もその一つ。「書き飛ばしている」とはわかっていても引き込まれたのがサスペンスものの『影の地帯』(1959-60, 地方紙連載)などで、そういう作品は一気に読めるのだが、この作品にはそれもなく、それでもセリフが多くて頁がスカスカなので読んだ総時間数は少ないけれども、読んだ頃に忙しかったこともあって少しずつ読み、結局読破に6日間をかけた(6月11日から16日まで)。

 

 デビューの遅かった清張の1960年前後といえば50歳前後の時期に当たるが、当時の清張は何でも書いた。前記『風の視線』は女性週刊誌の読者向けのメロドラマだったが、その次に読んだ「軍師の境遇」は黒田勘兵衛を主人公とした高校生向けの歴史小説で、『高校コース』という雑誌(おそらくかつて存在した学研の『高1コース』、『高2コース』、『高3コース』の総称と思われる)の1956年4月号から翌年3月号にかけて連載された。

 

軍師の境遇 新装版 (角川文庫)

軍師の境遇 新装版 (角川文庫)

 

 

 この作品は、実は去年河出文庫版で読んだことがあるが、上記角川文庫版には表題作以外に「逃亡者」、「板元画譜」の2作が収められており、それらが河出文庫版には収録されていなかったことを知って、角川文庫版を読んだ*1。その際、表題作「軍師の境遇」を再読したが、角川書店版と河出書房版の違いを何箇所か発見してしまった。

 まず、作品で中盤の舞台となった有岡城の所在地の現在の名称として、角川文庫版には「(大阪府伊丹市)」と書かれているが、伊丹はいうまでもなく大阪府ではなく兵庫県に属する。伊丹には「大阪国際空港」があるから清勘違いしたものだろうが、1987年の単行本初出以来、角川書店はその誤りを放置していたに違いない。そしてこの誤りは新装版発行の際にも改められなかった。

 それから、岡山の宇喜多直家(及び子の秀家)の姓を、清張は主に「浮田」と表記しているのだが、角川版には初めの方と後半で一部「宇喜多」と表記している部分があって、大半の「浮田」表記と一部の「宇喜多」表記が混在している。しかも、最初に「宇喜多」が登場した時には「字喜多」と誤植されている。一方、あとから文庫化した有利さもあるのだろうが、河出文庫版ではすべて「浮田」で統一されている。

 なお、角川文庫所収の3作中では、最初の「軍師の境遇」は高校生向けだけあって平易で短時間で読めるが、あとの作品ほど1頁あたりの読書時間がかかった。文庫本の解説には雑誌の初出が示されていないが、初出の情報は下記のブログ記事を参照して知った。角川文庫の旧版には初出が明記されていたようだ。

 

d.hatena.ne.jp

以下、上記ブログ記事から引用する。

 

 角川文庫6796は頁付があるのは285頁までで、その裏は次のようになっている。

本書収録作品の初出誌、発表年月日(号)は、以下の通りである。

軍師の境遇 「高校コース」昭和三一・四~三二・三(原題「黒田如水」)

逃亡者   「別冊文藝春秋」昭和三六・一二

板元画譜  「別冊文藝春秋」昭和四六・一二

 

 その次が奥付。改版(新装版)の角川文庫18107にはこのような初出データはなく、その代わりに287~294頁3行め、葉室鱗「解説」があるのだが、執筆・発表時期・発表媒体に触れるところがない。台詞を多用し細かく段落分けしている「高校コース」に対し、「別冊文藝春秋」の方は一段落が長くなっていることは一目瞭然で、1頁当りの字数は42字×16行の方が38字×17行よりも多いから、「別冊文藝春秋」発表の2点は前者の方が頁数が少なくなっているが、「高校コース」発表の「軍師の境遇」のみ、1頁の字数ではなく行数の多い後者の方が頁数が減っているのである。もちろん、今やネットですぐに調べられる時代になったのではあるけれども、やはりそれを裏付ける情報は書籍に明記して置くべきだと思う。(以下続稿)

 

  新装版と旧版の頁数と行数の変化が高校生向けの表題作と他の2作品で異なるというのは面白い指摘だし、作品の初出を書籍に明記すべきだというのは当たり前のことだと思うのだが、角川書店はそれをやらない。私が初めて文庫本に接するようになった子ども時代(1970年代中頃)には、角川文庫の存在感は今より高かったのだが、その直後に角川書店の創業者・角川源義(かどかわ・げんよし。通称かどかわ・げんぎ)が亡くなり、後を継いだ2世の角川春樹が、横溝正史作品と角川映画のタイアップなどを行って角川商法が一世を風靡したこともあった。しかし、『軍師の境遇』の文庫本新装版発行に当たって原作の誤りをそのままにしたり、作品の初出の情報が旧版には記載されていたのに新装版ではその記載を省いてしまったりしていることには、「いかにもという感じのの角川クォリティだな」と思わずにはいられない。

 なお、同じ『別冊文藝春秋』の2作を比較しても、1971年の「板元画譜」の方が1961年の「逃亡者」より読むのに時間がかかったのは、描写した対象の分野が異なるせいもあるだろうが、それよりも10年間で清張の文体が変化したためだろう。「版元画譜」の方がよく書き込まれていて、作品の質としても「逃亡者」より上だと私は思った。

 この角川文庫新装版『軍師の境遇』は6月17日から翌日にかけて読んだ。

 

 続いて読んだのが同じ角川文庫の『死の発送』。

 

死の発送  新装版 (角川文庫)

死の発送 新装版 (角川文庫)

 

 

 Wikipediaによると、この作品は

『渇いた配色』のタイトルで『週刊コウロン』に連載され(1961年4月10日号 - 8月21日号)、同誌休刊後、『小説中央公論』に掲載(1962年5月・10月・12月号)、加筆・訂正の上、1982年11月にカドカワノベルズより刊行された。

とのこと。多作期に作られたが、掲載誌の休刊があり、なおかつ作品の出来に清張が満足できなかったのかどうか、それとも作品中の誤りを指摘されたのかどうか、長く単行本化されずに放置されていた作品に角川が目をつけて、1982年にようやく単行本として陽の目を見た作品のようだ。

 とはいえ清張得意の鉄道を利用した凝ったトリックがあり、結構読み応えはある。結末が少々あっけないので、清張の代表作郡には数え入れられないかも知れないが、悪い作品ではない。2014年にフジテレビ開局55周年記念番組として向井理主演でドラマ化もされたようだ(前記Wikipediaより)。6月18日から21日にかけて読んだ。

 

 実は6月の清張作品のメインディッシュはこのあとに読んだ作品なのだが、ここまででもう随分長くなったので記事を分けることにする。続きは明日以降に公開の予定。

*1:河出文庫版の発行(2014年)も、角川文庫版の改装版発行(2013年)も、ともに2014年のNHK大河ドラマ『軍師勘兵衛』の放送に合わせたものと推測される。

東京にも「象潟」があった!〜松本清張『混声の森』より

 どういうわけか昨年11月の文化の日の直後からずっと多忙の状態が続いた。だから最近は読書も思うに任せず、しかし2013年秋に『Dの複合』を読んで以来はまってしまった松本清張作品だけは空き時間に読み続けている。

 2013年に光文社文庫から刊行が始まった「松本清張プレミアム・ミステリー」のシリーズは、第1期6タイトル、第2期(2014年)7タイトル、第3期(2015年)4タイトル、そして第4期(2017年)4タイトルと、計21タイトルのラインアップだが、比較的無名の作品を多く収録している。中でも今回読んだ『混声の森』(第3期)は清張の長編推理小説ももっとも読まれていない作品なのではないか。「混声の森」を検索語にしてネット検索をかけても、感想が記されたサイトが少ししかみつからない。

 

 

 

 実際、この作品は清張作品の標準的な水準に達しているとは言い難い。解説文を見ると、鹿児島の『南日本新聞』などの地方紙に1967〜68年に連載されたとある。ネット検索で、他に『信濃毎日新聞』(長野)や『夕刊フクニチ』(福岡、『西日本新聞』の系列紙だったが1992年に廃刊)にも連載されていたことがわかっているが、おそらく通信社の配信だったのだろう。

 以前読んだ清張作品の中でもっとも出来が悪いとの印象を持った『影の地帯』がやはり地方紙の連載(1959〜60年)だったことが思い出される。ネットで見つけた感想文を見ても、70年代の後期作品だから全盛期の50〜60年代の水準に達していない、などと書かれているのを散見するが、この作品の連載は60年代後半であって、『Dの複合』(光文社の月刊誌『宝石』に1965〜68年に連載)と並行して書かれていた時期がある。要するに清張の力の入り具合が今一つだったために、単行本化が遅れただけだ(1975年に角川書店から単行本初出)。これに関しては、光文社文庫が但し書きでミスリードしていることも良くない。あたかも1978年の作品であるかのような但し書きがついているが、事実はカッパ・ノベルス入りしたのが1978年であるに過ぎない。

 さて、この作品の主人公は悪人であって、悪事を企んで成功目前までたどり着きながら挫折するおなじみのパターンの小説だ。この系列には、清張の代表作の一つに数えられる『わるいやつら』(1961)を筆頭に多くの作品がある。

 この主人公には、不仲の妻と家庭内暴力で両親を悩ませる高校生の息子がいるのだが、息子は「大阪に行く」と書き残して家出をしてしまう。そんな時期に主人公の家に、「象潟(きさかた)署」から電話がかかってくる場面がある(上巻402頁)。電話をかけてきた警官は「東北弁」だったとも書かれているから、ああ、ドラ息子は大阪ではなく秋田に行ってたのかと最初思った。

www.city.nikaho.akita.jp

 ところが、そのすぐ後にドラ息子が浅草でつかまったとか、東京在住の主人公がタクシーで象潟署に行ったなどと書かれているから、一瞬頭が混乱した。もちろん、浅草に「象潟」というところがあって、それは東北出身者にちなんでつけられた地名だろうなとは想像したし、結果的にその想像は正しかったのだが、それにしても東京(浅草)に象潟なんて地名があるとは寡聞にして知らなかった。

 そこで例によってネット検索をかけて調べたところ、かつて「浅草象潟町」という地名があったことが簡単にわかった。

d.hatena.ne.jp

 「浅草象潟町」という地名は現在は存在しない。上記ブログ記事にある通り、1966年に消滅した。清張作品は地名消滅の翌年から翌々年にかけて連載されたが、清張は地名の消滅を知らなかったのであろう。「象潟町」の町名の由来は予想通りだった。以下上記ブログ記事より引用。

さて、今回の旧町名は「浅草象潟町」です。「きさかた」と読みます。この旧町名の由来は明歴の大火に関係しています。江戸時代に起こったこの大火の後、新吉原が日本橋から浅草移りました。その20年後にこの地に屋敷を構えたのが六郷氏でしたが、藩主であった羽後本荘藩の旧領羽後本庄に象潟の名勝があったことからその名を取ったとされています。

  「象潟の名勝があった」というのは、本家・秋田県においても「象潟の名勝」が江戸時代に起きた大地震によってその景観が一変してしまったことを言っている。

 象潟は多くの入江に島を浮かべ、秀麗な鳥海山を水面に映す絶景の地であった。松島と並び俳人松尾芭蕉がめざした景勝の地であった。
 「江の縦横一里ばかり、おもむき松島にかよひて又異なり。
 松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし。
 寂しさに悲しみをくはえて地勢魂をなやますに似たり

 象潟や雨に西施(せいし)がねむの花」と「奥の細道」に記している。

 文化元年(1804)、鳥海山麓を震源地とする直下型地震により突如隆起する。いわゆる象潟地震である。これによって芭蕉が称えた景観は一変、約1.8m~2.7mも隆起し、水面に浮かんでいた小島は、陸地と化してしまった。

秋田県庁ホームページより)

 

 「浅草象潟町」は、テレビ朝日の『タモリ倶楽部』2015年6月13日放送の「旧地名ハンター 浅草編」で取り上げられたこともあるようだ。

halohalo-online.blog.jp

 なお、清張作品に出てくる「象潟署」なる名称の警察署は確認できなかった。浅草警察署が1890〜1945年の間「浅草象潟警察署」という名称だったことだけは確認できたが。

http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/6/asakusa/gaiyo/gaiyo.htm

 

 もう一つ、この作品について記録しておきたいことは、以前別の清張作品にも出てきた京都名物の「いもぼう」なる料理が、本作において重要な役割を演じていることだ。

 「いもぼう」とは、京都・円山公園内にある平野屋本家の名物料理で、海老芋と里芋の一種と棒鱈を炊き合わせた料理だ。1月に読んだ清張作品『球形の荒野』にも出てきた。

zassha.seesaa.net

 以下、上記ブログ記事より引用。

東山・円山公園知恩院南門に抜ける手前辺りに、「いもぼう」発祥の老舗「いもぼう平野屋」の本家と本店が左右に並んで店を構えている。「本家」のほうの女将(北村明美さん)に伺うと「こちらが本家であちらは分家」とのこと。
「本家」のHPから紹介文を引用すると、<<いもぼう平野家本家では伝統のほんまもんの味を守る為に、京の名物料理「いもぼう」の技と味を一子相伝(いっしそうでん)で継承者にのみ伝承いたしております。手間ひまをかけた他では真似の出来ない本来の「いもぼう」を是非お召し上がり下さい。文豪・吉川英治先生に「百年を伝えし味には百年の味あり」とお褒め頂き、ノーベル賞作家・川端康成先生が「美味延年」と記され、また推理小説作家・松本清張先生には小説の舞台としてお書き頂いております。>>
そこで多作を誇る松本清張の長編小説群から「いもぼう」登場場面を抜き出してみる。作品は「球形の荒野」で、京都での主舞台は、下記に「鍵をフロントに預ける」と描写されているように、殺人事件が発生する「Mホテル」こと「都ホテル」であって、「本家」のHPにある「小説の舞台」というのは大袈裟で、ささいな事件も起こらず、この料理屋に謎解きのヒントが隠されているわけでもない。

<<京都では、特殊な料理として「いもぼう」というのを聞いていた。久美子ほ支度をした。鍵をフロントに預けるとき、その料理を食べさせる家を訊くと、円山公園の中にあると教えられた。
タクシーで五分とかからなかった。その料理屋は、公園の真ん中にあった。これも純日本風のこしらえである。幾つにも仕切られている小部屋に通った。「いもぼう」というのは、棒鱈(ぼうだら)とえび芋の料理で、久美子は他人(ひと)からは聞いていたが、食べるのははじめてだった。淡泊な味でかえって空いている胃に美味しかった。
女中もみんな京言葉だし、隣の部屋で話している男連中の訛(なまり)がそれだった。こうして特色のある料理を食べながら土地の言葉を聞いていると、しみじみと旅に出たと思う。>>以上。

 

 『球形の荒野』においては、

「本家」のHPにある「小説の舞台」というのは大袈裟で、ささいな事件も起こらず、この料理屋に謎解きのヒントが隠されているわけでもない。

 というのは確かにその通りだが、『混声の森』では平野屋の店名も明記されており(光文社文庫版上巻324頁)、間違いなく「作品の舞台」になっている。しかもきわめて重要な場面なのである。

 なお、『混声の森』、『球形の荒野』の2作品のほかにも、清張初期の短篇「顔」(1956)にも「いもぼう」が出てくるらしい(未読)。というか、検索語「いもぼう 清張」でググってもっとも多く言及されているのがこの「顔」だ。

 松本清張を「日本のバルザック」と評した人がいるが、多作で知られたバルザックのごとく、清張作品も山ほどあって、読んでも読んでも未読作品がなくならない。おかげでまだこの人生に「未読の清張作品を読む楽しみ」が残っているわけだが。

松本清張『昭和史発掘』(5)〜(9)(文春文庫新装版)を読む

 松本清張『昭和史発掘』(3)(4)(文春文庫新装版)を読む(『KJ's Books and Music』) - kojitakenの日記(2017年5月6日)の続き。

 

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 6 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 6 (文春文庫)

 
昭和史発掘 (7) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (7) [新装版] (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 8 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 8 (文春文庫)

 
昭和史発掘 <新装版> 9 (文春文庫)

昭和史発掘 <新装版> 9 (文春文庫)

 

 第5〜9巻の章立ては下記。

 

 

 やっと読み終えた。2月22日から5月24日まで、延べ3か月と3日で9冊。松本清張作品はこれで48タイトル64冊を読んだ。

 この記事は横着をしてネット検索で得た他ブログや資料の類を中心に記録しておく。

 

akabaneouji.blogspot.jp

 以下コメントをはさみながら引用する。

数年前から読もうと決意していた松本清張「昭和史発掘」をこの夏からほぼ半年かけてようやく読み終わった。

1冊450円で全巻買い揃えてから読み始めるというチャレンジだった。これを読んでいる時期がずっと体調が悪くつらかった。

 私は仕事が忙しい仕事の合間を見て読んでいたが、その間ブログの更新などもしていたので本当にきつかった。最後の第9巻は仕事が少し楽になったところで読んだが、仕事のピークを越すと同時に疲れが 一気に出て体調が良くなかった。

第5巻に入ったとたんに、読んでいて全然内容が頭に入ってこなくなったが6巻から再び読みやすくなる。ず~っと陸軍という組織の内部に留まる。

ず~っと一次資料からの引用が多く、ずっと古めかしいカタカナの文章を読むハメになる。人事の話とか「もういいよ!」って思ったけど、組織って結局それのみ。軍の経験がある世代には当然のことでも、軍の階級とか役職とかまったくイメージできなくて困惑した。
あまりに登場人物が多くて誰が誰だかわからなくなってくる。1回読み通しただけでは身に付いていないと思う。これからも折りを見て読み返さないといけないだろう。

「2.26事件」の項を読んでまず思ったのが、このイっちゃってる青年将校たち(みんな20代30代!)を国民はほとんど誰も支持してなかったってことが意外だった。戦前ってみんな熱狂的ファシストだったから戦争に突入したってイメージは間違ってた。

陸軍の「統制派」「皇道派」の熾烈な争いは、この事件によって「皇道派」が一掃され「粛軍」が進むのだが、それは新たな独裁の始まりで、政治、財界、国民を脅し戦争へ突入していくことになる……。
それにしても細かいことまでしつこく念入りに「2.26事件」の登場人物とエピソード、名場面を多方面から解析。行政上のこととか法理学的なこととかちんぷんかんぷんなままだった。この半年でずいぶんとこの時代の「軍人」たちの名前を知った。

「2.26事件」の裁判は特設軍法会議っていうやつで、国民にはまったく知らされていない。えぇぇ……。どんな裁判が行われたのか不明。裁判官と判士たちも陸軍の意向で動いていて、弁護士なしの一審制「暗黒裁判」。17名に死刑判決。予審調書や資料の多くは終戦時焼却処分された。それでも事件のあらましは各方面の資料をつき合わせて見えてくる。首魁・磯部浅一の獄中手記と看守の証言によって詳しいこともわかっている。

真崎甚三郎という人物はそうとう問題がある。どうしてこういう人物が偉い位置にいるのかよくわからない。責任を追及されると声を荒げるだけ。後のマレーの虎山下奉文も清張は徹底的にこき下ろしている。真崎は判決理由と主文がまったく合っていない強引な無罪判決。北、西田はその逆の強引な死刑判決。

(略)

巻末の解説を読んで、この巨人による仕事は藤井康栄という文芸春秋の女性編集者(当時30歳)の存在がなければなしえなかったという事を知った。この人は後の清張記念館館長だ。

軍隊に入らなくていい時代になってよかった。が、今も大学の体育会系やほとんどの会社に「軍」は残っている。はやくなくなってしまえ!

 北一輝西田税の死刑判決について、別のブログから引用する。下記ブログ記事には清張本への言及はない。

d.hatena.ne.jp

 以下引用する。

 北一輝は2月28日に逮捕されました。西田は逃亡し、3月4日に逮捕されました。青年将校、北、西田らは軍法会議にかけられます。ここで北、西田は事件の「首魁」とされたのです。公判は12回開かれ、吉田悳(よしだ しん)裁判長(大佐、裁判中に少将昇進)は「幇助・従犯」以上のものではないと考えていましたが、他の判士は北と西田を「首魁」とみていました。そして北、西田に死刑が求刑されます。

 吉田裁判長手記

「論告は殆ど価値を認めがたし。本人または周囲の陳述を藉(か)り、悉く(ことごとく)之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。そもそも今次事変の最大の責任者は軍全体である。軍部特に上層部の責任である。之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きは、国民として断じて許し難きことであって・・・」

 北一輝が首魁であったとしたら、彼の国家主義思想は天皇も国家の一部という考えでしたから、宮城(皇居)を占領し、天皇を独占したでしょうが、それは行われていません。どうやら陸軍が軍の面子を保つため北らを首魁にしようと圧力をかけたようです。吉田裁判長は職を賭して奔走しましたが、8月14日、北と西田に死刑判決を言い渡すことになりました。

 吉田裁判長手記

「八月十四日、北、西田に対する判決を下す。好漢惜しみても余りあり。今や如何ともするなし」

 憲兵史編纂者として記録を残した大谷敬二郎東部憲兵隊司令

「西田、北一輝の二人は、一般には二・ニ六事件の黒幕として理解されているが、決してそうではない。たしかに西田は軍に青年将校運動をつくり上げた張本人であったが、この事件における因果関係は浅い。また北には革命の法典といわれた『日本改造法案大綱』があり、一部の青年将校を魅了したことは事実であるが、彼はこの事件には参画していない。これを以って軍法会議が、この二人を二・二六事件の首魁と判定して死刑にしたことは、なんとしても酷なことであった」

 北一輝辞世の句「若殿に兜とられて負け戦」

 昭和12年8月19日、北一輝西田税、磯辺浅一元陸軍一等主計、村中孝次元大尉とともに処刑されました。

  宮城(皇居)の占拠については、叛乱軍の青年将校たちにその構想があったものの、宮城占拠の任に当たった中橋基明中尉の行動が中途半端だったため、青年将校たちは宮城を占拠できなかったのではないか、と清張は『昭和史発掘』のシリーズにおいて再三指摘している。

 現在ではどうやら青年将校たちが宮城占拠の意図を持っていたことは定説になっているようだ(下記Wikipedia「中橋基明」参照)。

2・26事件での中橋の役割は高橋是清元蔵相殺害と宮城占拠だったが、高橋殺害に関しては成功したものの宮城占拠に関しては失敗、昭和天皇へ決起の趣旨を上奏するため単身宮城の奥まで乗り込むも、護衛にあたっていた大高政楽少尉(近衛第三連隊御守衛上番)に拳銃を突き付けられ成功しなかった(この際、もし天皇が趣旨を聞き入れなければ、天皇を弑逆して自決するつもりだったとされている*1)。

中橋基明 - Wikipedia より

  なお、松本清張北一輝その人に対する評価はいたって低いことを付言しておく(私も北を高く評価する松本健一渡辺京二の本を読んだが彼らに説得されることはなかった)。

  清張のこのシリーズは歴史の専門家たちからも高く評価された。故家永三郎加藤陽子の名前を挙げることができる。現在もっとも入手が容易で私も読んだ文春文庫新装版の最終巻には加藤陽子の解説(後述)がついているが、文春文庫の旧版(1978〜79)や『松本清張全集』第32巻(1973)には家永三郎の解説がついていたようだ。後者はネットから一部を拾い読みすることができる。

 

blogs.yahoo.co.jp

 しかし、よく考えてみれば、学問とは真実を明らかにする人間の(学者のではない)いとなみであって、専門などというのは、研究者が自分たちの都合で人工的に作り出した便宜的区分にすぎないのである。(中略)私は人間のしごとは、そのしごとをなしうる能力のあるものすべてに開放されるべきであって、「専門家」であるかないかなどという貸元の縄張りみたいなことを口にするのは、恥ずべきことと思っている。(中略)だから、私は、作家松本清張が作家であるが故にかえって専門家がなし得なかった近現代史の領域を開拓されたのを、平素の私の信念と一致するものとして、心から歓迎し祝福したいと思うのである。(中略)作家松本清張は、またすぐれた日本近現代史松本清張でもあるのだ。松本さんの日本文芸史上における位置づけについて私は何も言う力をもたないが、日本史学史の上で今後松本清張の名を逸してはなるまいとさえ思っている。

―「解説」(家永三郎

 

www.c20.jp

 前半にも「石田検事の怪死」をはじめ、興味津々たる題目が並んでいるが、 なんといっても、第七巻以後七冊にわたって詳細に追及されている「二・二六事件」の叙述がすばらしい。 わけても、特設軍法会議の暗黒裁判をえぐり出した最後の三巻が圧巻である。 (「解説にかえて」家永三郎

「特設軍法会議の暗黒裁判をえぐり出した最後の三巻」は、新装版では第8,9巻の2巻にあたる。最初に引用したブログ記事に

真崎は判決理由と主文がまったく合っていない強引な無罪判決。北、西田はその逆の強引な死刑判決。

 と書かれたあたりだ。

 新装版に付された加藤陽子の解説は、例によってネット検索でパクろうと思ったのだが、良い資料がみつからなかったので、まだ図書館に返していない第9巻から直接抜粋して引用する。

  清張の『昭和史発掘』への入魂の思いは、もちろん「二・二六事件」の章に結実している。叛乱部隊側の首謀者の意図はこれまで不十分ながら知られてきたが、清張が明らかにしたかったのは、鎮圧部隊側の正確で詳しい動きと、叛乱将校に連れ出された下士官兵を軍法会議がいかなる法理論で裁いたのか、の二つであった。一時史料の博捜と多面的な考察によって、清張がこの目的を見事達成したことは多くの研究者が認めるところである。たしかに、鎮圧する側、叛乱部隊に抵抗した側の動きを追ってゆけば、首謀者の声高な弁明の真偽を弁別しながら、叛乱の計画性の虚実に迫るよりも、確実に二・二六事件像が手に入るはずなのだ。

 敗れゆく者の滅びの美学には、文学の世界だけでなく、実のところ学問の世界もはなはだ点が甘い。そういった日本の風土にあって、叛乱将校のヒロイズムの側ではなく、満足な説明も受けないままに連れ出された下士官の側、また、一歩間違えば皇居占拠にまでいったかもしれない叛乱を見事鎮圧した側、それこそが明らかにされなければならない、と勝負をかけた清張の手並みは、人間を知る人だけに実に鮮やかだった。対象に対する自らの立ち位置をどう設定するかで、その人物の歴史に対するセンスははっきりとわかる。清張のそれは、時間の経過によく耐える筋金入りのものであった。今でもまったく古びていない。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)393-394頁)

 その『昭和史発掘』の史料を発掘したのは、清張自身ではなく、藤井康栄という文春の女性編集者だった。再び加藤陽子の解説から引用する。

 政治家らの独立を強く夢見た領域で起こった胎動や変化こそが、昭和戦前期の、少なくとも二・二六事件までの時代の本質だと本能的に察知し、作家の手を引いて走り出した者こそ、先ほど名前を挙げた藤井康栄その人なのだと私は思う。藤井は現在、1998年*2に開館した北九州市立松本清張記念館館長を務めている。『週刊文春』1964年7月6日号からの連載が決まった直前、作家は初めての欧州旅行に旅立ってしまった。「現代史をやる」、「他人の使った材料では書きたくない」、「一級資料がほしい」とのたまう作家の、すべてのお膳立て、先行取材をしたのが、藤井であった。

 早稲田大学文学部史学科で日本近現代史を専攻した藤井は、とにかく、「自分の関心のあるテーマで現代史のラインナップを作ってみよう」と思い立ち、大胆にも作家の手を引いて走り始めた。すごいことだ。出版社に女性専用のトイレもなかった当時、30歳の女性編集者であればなおさらのことである。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)392頁)

 

 清張は第1巻のあと「編者あとがき」(第1刷のみにあり、第2刷以降の版では削除されている)で「本巻に収められた関係資料はすべて藤井氏の捜索蒐集に成る。(中略)その努力と学術的な良心には心から敬服する。本巻は、わたしの監修とはいえ、事実上、藤井康栄校訂・編著である」と書いている。清張の誠実さをしのばせる書き方であるが、いっぽうで、世紀に残る仕事を自分は成し遂げたのだという、深く静かな清張の自身を感じさせる言葉ともなっている。海のものとも山のものともわからない史料の山から、「これが歴史的に真に重要な部分だ」といって宝石の原石を摑み取り、磨き上げ、全体に秩序を持たせ、壮大な物語を書き上げたのは、まさに清張その人である。このように、真に力のある者同士のタッグは見ていて気持ちのよいものだ。先行取材者と作家の間には、生涯、敬愛と信頼の情が流れていたことだろう。晩年、照れ屋の作家は藤井に向かい「ありがとう、いやなことは一度もなかったね」と感謝の言葉を述べたという。

松本清張『昭和史発掘』第9巻(文春文庫新装版,2005)395頁)

 

 日本近現代史の専門家にここまで言わせる松本清張と藤井康栄の2人は、本当にどえらい人たちだと思うが、現在も健在の藤井康栄は詩人・大木惇夫の長女だ。「大木惇夫 藤井康栄」を検索語にして調べてみると、藤井康栄大木惇夫さんの長女で、次女がエッセイストの宮田毬絵、三女が俳人の大木あまりとのこと。

 さらに、大木惇夫の次女・宮田毬絵は、父の伝記を書いていた。毎日新聞のインタビュー記事によると、大木惇夫が作った戦争詩は、戦争中に兵士たちに愛唱されたが、それが災いして戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞したまま亡くなったという(下記URLの有料記事の無料部分より)

https://mainichi.jp/articles/20160621/ddn/013/040/021000c

 

 戦争詩か。辺見庸あたりが何か書いてるんじゃないかと思ったら案の定だった。それは、『kojitakenの日記』の下記記事の記録から確かめられた。下記は2012年6月7日に書いた記事。私がこれまでに大木惇夫に言及した唯一の記事だ。

d.hatena.ne.jp

 辺見庸の『死と滅亡のパンセ』は手元にある。『kojitakenの日記』の記事には大木惇夫の名前が出てくる頁を記さなかったので、現物で確認した。

死と滅亡のパンセ

死と滅亡のパンセ

 

 以下引用。

(前略)坪井(秀人=引用者註)氏はこうも言う。「佐藤春夫三好達治、大木惇夫、野口米次郎、蔵原伸二郎等々の代表的な戦争詩人について、〈彼は戦争詩を書いたがそれによって彼の詩業の価値は些かも損なわれるものではない〉式の評言がいまだに繰り返されている。このような見苦しい弁明が戦争詩と同様あるいはそれ以上に罪深いことをまずは認識すべきなのである」。この学者の視力、聴力のよさはここにもあらわれていると僕は思うんだ。聴力の鋭さは『声の祝祭』の全篇にわたって生かされている。「戦争詩と同様あるいはそれ以上に罪深いこと」はいま今現在も続けられているよ。

辺見庸『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社,2012) 74頁)

 

 松本清張推理小説では、少し前に読んだ『表象詩人』の登場人物として、昭和初期に野口米次郎に傾倒した青年が出てくる。また、今回取り上げている『昭和史発掘』でも、第2巻(文春文庫新装版。)収録の「潤一郎と春夫」に佐藤春夫が取り上げられている。しかし大木惇夫の名前がこれまで読んだ清張作品に出てきたかどうか。大木惇夫の名前になじみの薄い私は書いてあっても気づかずに読み飛ばした可能性もあるが、記憶にはない。

  その「戦争詩人」大木惇夫の長女である藤井康栄が、松本清張の担当編集者として、歴史の専門家にも高く評価される仕事を成し遂げた。この事実は、もっと広く知られて然るべきだと思った。

 全9巻を読み通すのは本当に大変だったが、読んで良かったと思える大作だ。

 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】

 

 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】
 大木惇夫(あつお)(1895〜1977)という詩人がいた。広島出身で戦前から戦後にかけて活躍したが、戦争中、兵士らに愛誦(あいしょう)された戦争詩が災いし、戦後は詩壇、文学界から無視され、逼塞(ひっそく)したまま亡くなった。大木の次女で文筆家の宮田毬栄さん(79)は、そんな父の人生と詩業を追った『忘れられた詩人の伝記』を書き上げた。下調べに4年、執筆に6年あまりをかけた480ページの労作だ。「父の全作品をこれだけ読んだひとはいないでしょう。娘が読んでくれてうれしかったと言ってほしいし、言ってくれると思う」と語る。【編集委員・鈴木敬吾59歳】

他に参考にした記事

本「2.26事件」松本清張(『昭和史発掘』から)(読書ノート-50)

*1:湯浅博『"悪鬼"が歴史を動かす』、産経新聞、2013年2月19日付=Wikipedia原註。

*2:原文では年数表示に漢数字が使用されている。以下同様=引用者註。

宇野重規『保守主義とは何か』(中公新書)のメモ

d.hatena.ne.jp

 以下、上記ブログ記事から引用。

 宇野重規保守主義とは何か』の見解によれば、近代日本の「保守主義」の本流を巡っては、伊藤博文大久保利通、大久保の実子である牧野伸顕、戦後においては、牧野の娘婿である吉田茂、さらには宏池会という系譜を描く。それに対立する異端として、岸信介鳩山一郎といった旧民主党系があり、その系譜を現在において継承するのは(安倍晋三も属する)清和会であって、経世会というか田中角栄竹下登系譜はこの2つの中間に立っていた。ところで、孫崎享の謎も解けた感じがする。要するに、旧自由党系を叩いて旧民主党系をよいしょしていたわけだ

  引用されている宇野重規保守主義とは何か』(中公新書)は私も昨年(2016年)読んだ。

  以下、上掲書から関連箇所をメモ。

(前略)若き日の津田梅子に「アメリカを知る最良の書」としてアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を薦めたというエピソードからも推し量れるように、伊藤の欧米理解はけっして蔑(あなど)れないものであった)。

 また後年、伊藤は好んでバークの「代議士は国民全体の利益の奉仕者」という言葉に言及したという。議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない。元老の筆頭でありながら自ら政党の創設に乗り出し、立憲政友会の初代総裁になった伊藤は、間違いなくバークの思想のよき理解者であった。

宇野重規保守主義とは何か』(中公新書,2016) 172頁)

 「議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない」という伊藤博文の思想に真っ向から反しているのが、森友学園加計学園の例に見られるように、自らの「お友達」に利益供与すべく口利きに奔走する安倍晋三・昭恵夫妻といえるかもしれない。

 伊藤博文への積極的評価で私がすぐに思い出すのは、憲法学者樋口陽一立憲主義の観点から伊藤を高く評価していたことだ。伊藤に対する著者の総評は下記。

(前略)伊藤は近代日本における一つの正統的な政治体制を確立し、そこに明確な制度的基盤と、精神的機軸を与えようと努力したといえるだろう。伊藤がつくり出した明治憲法体制のその後の評価は措くとしても、明治憲法体制を前提に、その漸進的な発展を目指したという点では、伊藤は近代日本における「保守主義」を担ったといえる。(前掲書174-175頁)

  次に牧野伸顕に対する著者の総評。牧野は戦前の日本において、日本軍のテロリストたちによって暗殺のターゲットにされ続けたこともあって、昭和史を扱った本にはうんざりするほどその名前が出てくるが、牧野伸顕大久保利通次男だったことはすっかり失念していた。

(前略)大久保利通次男である牧野は、父大久保とともに伊藤を高く評価し、英国流の立憲政治を目指すと同時に、外交的にも親英米主義を志向した。このような牧野の政治的価値観は、ある意味で、女婿である吉田茂を通じて戦後保守主義につながることになる。彼らは民主化に対して慎重な態度をとり続けたものの、高まる民衆の声に対して、漸進的な体制の改革を目指したという点で、まさに保守主義の正統であった。(前掲書177-178頁)

  さらに吉田茂に対する著者の総評。

 (前略)吉田は一定の現実的判断に基づき、戦後日本の課題を軍事力の拡大にではなく、経済的発展に見出した。国家の役割を限定的に捉え、むしろ自由な経済活動を重視するという意味で、より自由主義的な路線であった。また、どこまで価値的なコミットメントがあったかはともかく、自らがつくり出した戦後体制というあり方を基本的前提としているという点で、より漸進主義的な改革主義の立場をとったといえるだろう。(前掲書183-184頁)

  やっと鳩山一郎岸信介にたどり着いた。下記は上記吉田茂に関する引用文のすぐ後に続く鳩山と岸、特に岸への著者の言及。なお引用に際して漢数字をアラビア数字に書き換えた。

 これに対し、鳩山一郎 (1883-1959) 、岸信介 (1896-1987) らの日本民主党は、吉田の自由党とはかなり異質な要素をもっていた。とくに注目すべきは、やはり岸であろう。戦前、商工省の革新官僚として活躍し、また満州経営で辣腕をふるった岸は、国家主導の統制経済や計画経済を導入しようとしたという点で、明らかに異なる政治経済秩序のイメージを抱いていた。また、1960年の安保改定では、アメリカに対する日本の対等な関係を目指したことに示されるように、岸はより明確なナショナリズムへの志向をもっていた。そのような岸にとって、日本国憲法やそれに基づく戦後体制は「押しつけられた」ものであり、岸は戦後的価値に対する、より急進的な挑戦者の立場をとったといえるだろう。(前掲書184頁

 岸が「1960年の安保改定では、アメリカに対する日本の対等な関係を目指したこと」を天まで届けんばかりに持ち上げたのが、あの世紀の愚書『戦後史の正体』を書いた孫崎享であったことは言うまでもない。私は2012年に、確か「風太」と名乗った「小沢信者」の挑発に乗ってではなかったかと記憶するが、金を払ってこの愚書を買い、具体的に引用しながらこき下ろしたことがあった。その中でも繰り返し批判したことは、孫崎がこの愚書において日本国憲法をわずか4頁の「押しつけ憲法論」で軽く片付けていたことだった。あんな本を読んで「目から鱗が落ちた」と感激していた「小沢信者」たちはなんと愚かなことかと私は当時から馬鹿にしていたが、既にその後の5年間の歴史が彼らに審判を下している。だが、彼らが手を貸した安倍晋三独裁政権誕生(復活というべきか)によって今の日本が戦後最大に危機に瀕していることを決して忘れてはならない。

 その教祖を含む田中角栄竹下登らは、上記岸信介の論評の直後に書かれた保守合同に絡めて言及されている。但し、小沢一郎の名前は出てこない(笑)*1。以下引用する。

 保守合同は、このような異質な両者の間の緊張を封印するものであった。より自由主義的で漸進主義的な吉田の立場が池田勇人宏池会によって受け継がれたとすれば、より国家主義的で急進主義的な岸の路線は福田赳夫の清和会などによって継承された。その意味でいえば、田中角栄からさらに竹下登経世会へとつながる路線は、その両者の間に立つことによって、ある時期以降の自民党政治における主導権を確立したといえるかもしれない。

 いずれにせよ、自民党内における本質的な価値観の対立は、派閥対立へと「矮小化」されることによって、潜在的なマグマとして抑え込まれた。そしてこの「封印」こそが、すべてを曖昧に包括する政党としての自民党が長く一党優位を確立する一因となったのである。(前掲書184-185頁)

 言うまでもないが、引用文の最後の段落は1955年から1993年までのいわゆる「55年体制」には当てはまるが、「政治改革」以降、すなわち1993年の政権交代から2012年の第2次安倍内閣発足直前までの19年間と、第2次安倍内閣発足とともに始まって現在も続く「崩壊の時代」には当てはまらない。現在は岸・鳩山のかつての「保守傍流」がかつての「保守本流」を完全に征圧してしまった。1993年から2012年までの19年間に及んだ過渡期の最後において、「保守本流」が生み出した「鬼っ子」ともいうべき小沢一郎一派と、2012年夏までは自民党内で不遇を託っていた安倍晋三とをくっつけようとしたのが孫崎享だったと私は位置づけている。その意味で、未だに「リベラル」人士が孫崎のTwitterなんかを嬉しそうにリツイートしているのを見る度に、私は苦々しさが込み上げてくるのを禁じ得ない。孫崎なんかをリツイートしてるからダメなんだよ、と言いたくなる。

 

*1:実際には、小沢一郎は側近の官僚に代筆させた著書『日本改造計画』や自らの政策によって、「保守本流」の政治に対して、むしろ岸信介鳩山一郎に近い立場から挑戦していたのだったが、本書では小沢の存在は完全に無視されている(笑)。

松本清張『昭和史発掘』(3)(4)(文春文庫新装版)を読む

  先月、松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫新装版=2005)の第3,4巻を読んだ。

 

昭和史発掘〈3〉 (文春文庫)[新装版]

昭和史発掘〈3〉 (文春文庫)[新装版]

 
昭和史発掘 (4) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (4) [新装版] (文春文庫)

 

 

 実は、連休に入って第5巻以降も読んでいるが(第6巻まで読了)、全9巻からなるこの『昭和史発掘』の第5〜9巻は5冊かけて(単行本や文庫本の初版では第7〜13巻の7冊をかけて)「2.26事件」を扱っている。この後半部になると、清張の筆も俄然乗ってきて、読者としても引き込まれてしまうのだが、全巻を読み終えてから書くことにする。

 

 第3巻は4月7日から18日まで12日間かけて、第4巻は4月19日から26日まで8日間かけて読んだ。第1,2巻を読むのにもそれぞれ10日間かけていて、さすがに昭和史ものともなると推理小説のようには引き込まれての一気読みはできないなあと思っていたが、「2.26事件」に入って、一転して清張の推理小説並みに引き込まれて読んでいる(第5巻は3日、500頁以上ある第6巻は2日で読んだ。もっとも黄金週間中にまとまった時間がとれたためではある)。

 

 第3巻と第4巻の内容は下記の通り。

 第3,4巻を読んでいて思い出したのは4年前に読んだ立花隆の『天皇と東大』だった。特に第4巻の「京都大学の墓碑銘」(「滝川事件」を扱っている)と「天皇機関説」にその感が強かったので、押し入れにあった『天皇と東大』を引っ張り出してみると、たとえば第II巻「激突する右翼と左翼」収録の第35章「日本中を右傾させた五・一五事件と神兵隊事件」に「五・一五事件」が、第III巻「特攻と玉砕」収録の第36〜38章に「滝川事件」が、同第40,41章に「天皇機関説」がそれぞれ取り上げられていた。しかし、第II巻第27章に「河上肇とスパイM」という一章が設けられ、「スパイM(松村)」こと飯塚盈延(いいづか・みつのぶ)について取り上げられていたことはすっかり失念していた。

 

天皇と東大〈3〉特攻と玉砕 (文春文庫)

天皇と東大〈3〉特攻と玉砕 (文春文庫)

 

 

 第3巻でもっとも印象に残ったのは、この「スパイM」こと飯塚盈延を扱った一章だったが、清張の飯塚に関する記述は下記Wikipediaのそれと、出生地に関する情報が異なっている。

飯塚盈延 - Wikipedia

 以下、Wikipediaより引用する。

 

飯塚盈延

 

飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1965年9月4日)は、日本共産党党員で特別高等警察スパイ。「スパイM」とも呼ばれる。変名は松村昇、峰原暁助。愛媛県出身。

略歴

1902年に愛媛県周桑郡小松町に生まれ、1909年尋常小学校に入学。成績が良く天才と呼ばれた。米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、渡辺政之輔が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、若手の労働運動活動家として日本共産党(第二次)の派遣により、モスクワ東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した(留学中の変名は「フョードロフ」)。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。そして松村(飯塚)はスパイとして党に潜入、非常時共産党時代の共産党で家屋資金局の責任者となり、「赤色ギャング」に代表されるさまざまな権力挑発的方針を指示した。その後熱海事件共産党の代表者達を一斉検挙に追いやった。

松村がスパイであることは、同じクートヴェ帰りであった風間丈吉委員長を始めとする党の幹部から全く感づかれることはなく、一般党員も彼の過激な活動方針にほとんど疑いを抱くことなく従っていた。しかし熱海事件前後の一斉検挙後、取り調べや公判などで松村の名が出てこないことに不審をもった党員たちは、彼が警察のスパイではないかと考えるようになった。

その後の足取りは、満州でしばらく兄と建築業を行っていたが、078回国会懲罰委員会第3号(昭和五十一年十月二十八日)会議録の記録にある紺野与次郎議員の発言によると、「特高首脳部は、スパイ飯塚盈延に大金を与えて姿をくらませ、その後、飯塚は終生、社会からの逃亡者としての生活を行い、待合に隠れ、北海道満州を往復し、終戦後偽名で帰国して以来本籍を隠し、偽名を使い続け、元特高らに消されることを恐れ、一室に閉じこもり、昭和四十年酒におぼれて逃亡者としての悲惨な生涯を終えています。しかし、生地の本籍上の飯塚盈延はいまでも生きていることになっています」となっている。

参考文献

 

 清張が「スパイ"M"の謀略」を『週刊文春』に連載していたのは1966年で、当時飯塚の消息は知られていなかったが、上記Wikipediaによると1965年に死んでいた。また、飯塚の出生地を清張は知らず、新潟県出身ではないかと推測していたが、事実は愛媛県出身だったようだ。

 清張の本は図書館に返してしまって手元にないが、ネット検索にて下記ブログ記事かをみつけた。

blogs.yahoo.co.jp

 以下、上記ブログ記事から引用する。

(前略) 連作『昭和史発掘』中の一篇である「スパイ〝M〟の謀略」が週刊文春に発表されたのは、1966年の4月~8月号であった。
 スパイ〝M〟とは、昭和七年当時の共産党内で活動費の管理や党員間の連絡網を一手に掌握していた松村を名乗る幹部、実は特高警察と通じ合ったスパイのことである。当時、すでに共産党は、昭和三年と四年の治安維持法による党中枢メンバーの一斉検挙により低迷の時期にあったが、それでも残されたシンパ党員によって徐々に再生の様相を見せていた。ところが昭和七年十月六日に起きた党員による銀行ギャング事件は、世間の共産党に対する同情・共感を一挙に反感・離反へと傾けさせ、同時に事件に関わった党員三名の検挙へと繋がり、次いで十月三十日、党全国代表者会議に出席するために熱海の旅館に集合していた地方代表者および都内に潜伏していた幹部連中が一斉に逮捕され、共産主義運動はほぼ壊滅状態となる。 
 これら昭和七年の重大事件のすべてに、松村の巧妙な「謀略」が関わっており、しかもこの事件以降、彼の存在は煙のように消えてしまうのである。

 清張の「スパイ〝M〟の謀略」は、この「松村」なるスパイについて詳細に調査したドキュメントであって、世評高い『昭和史発掘』の中でも異色の生彩を放つ力篇である。その末尾に清張はこう記す。
 【松村の本名が飯塚盈延というのはほとんど疑いないようである。また彼が新潟県中蒲原郡の出身だということも間違いなさそうである。松村の本名と、その履歴を確実に知っているのは毛利特高課長と戸沢検事だろうが、毛利警視はすでに死亡し、その口からは永遠に真相を聞くことはできない。戸沢検事もまた黙して語らぬ。
 私は、この稿を書くに当り、松村の現在の追跡に相当努力してみたが、やはり分らなかった。ある線までゆくと肝心な部分が消えてしまうのである。】[『昭和史発掘・3』(文春文庫新装版・455頁)]

 清張がこの「あとがき」めいた文章を発表したのが1966(昭和四十一)年の八月(執筆は六月頃か)だから、それから実に二十四年後に、いわば「スパイ〝M〟のその後」を小説として──つまり純然たるフィクションとしてということだが──書かれたのが、本篇「『隠り人』日記抄」だということになる。
 この作品は全編「松村」こと「矢部治郎」の日記体で書かれているが、その日記が昭和三十三年から始められていることには、作者の意図がありそうである。何故なら、この年の第七回全国大会で日本共産党は、それまでの党内分派闘争に終止符を打ち、党の団結と統一を宣言して新たな一歩を踏み出したからである。先に引用した【今や彼らは覇者となっている。】とは、そうした状況を踏まえた「隠り人・M」の述懐とされているのに違いない。
 
 清張が平成二年になってこの作品を発表したのは、その後の調査によって「スパイ〝M〟」に関する新しい情報を得たからであろうか、それとも以前に取材した事件に対する作家としての関心が再び沸き起こってきたからであるのか、おそらく後者ではあろうが、筆者にとって一つだけ気になることがある。
 それは、「スパイ〝M〟」の身元調査に関することである。前記の「あとがき」風の文章で清張は、〝M〟の出身が新潟県中蒲原郡だということは間違いなさそうだと述べているが、この「『隠り人』日記抄」では「おれ」の郷里は四国の小さな城下町だとある。旧藩主の邸址には「丸に中陰菱」の家紋が見られたこと、また町を流れる川の水が瀬戸内海に注ぐとある。これは伊予の小松のことではないかと思われるが、「おれ」はその町の小学校高等科を卒業し、家が小さな旧藩の貧乏士族であったためにに中学(旧制)にも進めなかったとあり、「おれ」の履歴についてかなり詳しく述べている。
 
 〝M〟の活動家としての偽名「峰原」 「松村」、また本名である「飯塚」等の名がこの小説でもそのまま使われているのに、その出身地に関してのみこのように変えられているのは、その後清張の独自の調査で、〝M〟の出身地が四国の小さな城下町であったことを突き止めたのであろうか。それについて思い起こされるのは、前記の「あとがき」風の文章の中で清張が、「飯塚盈延」という戸籍名が実在するかどうかを新潟県内の全市町村について調査したが確証が得られなかった、と記していることである。
 そのために、「『隠り人』日記抄」を書くに当たり、フィクションとして「おれ」の出身地を四国にしたのか? この件に関しては、清張がどこかに記しているのを筆者が知らないだけかもしれぬが、興味ある問題ではある。

 

 上記ブログ記事によると、清張最晩年の1990年に発表された「『隠り人』日記抄」には、スパイ"M"の出身地が愛媛県伊予小松であることを示す記述があったようだ。つまり、1990年には飯塚の出身地に関する正確な情報は判明していたようだ。

 この一編から私が感じたのは、松本清張とはとことん「人間」に対して尽きせぬ興味(好奇心)を持っていた人だったんだなあ、ということだ。なぜ「スパイ"M"」はあんなことをやったんだろうか、という好奇心が全編を貫いているように思われる。清張は左翼につきものの「連帯」やなんかにはあまり惹かれるところはなかったのかもしれない。生前から共産党シンパとして知られた清張だが、その点で「普通の左翼」、私の偏見によれば「同調圧力」に屈しやすい人たちとは一線を画して異色を放っているように思われる。そして、人間に対する尽きせぬ興味(好奇心)が迸り出たのが、文庫新装版第5巻以降の「2.26事件」のシリーズであり、だからこそこの連作は、第5巻以降に清張らしさが全開している。この連作を第1巻から読むとへこたれる恐れがあるから、第5巻から読み始めた方から良いかもしれない。

 この続き(第5〜9巻の読書メモ)は全巻を読み終えてから書くつもり。

松本清張『表象詩人』(光文社文庫)を読む

この記事は、下記記事とほぼ同内容です。新ブログのテストを兼ねた記事です。

松本清張『表象詩人』(光文社文庫)を読む - kojitakenの日記(2017年4月16日)

 

 サンデーモーニング(4/16)の冒頭は北朝鮮、次がアメリカのシリア攻撃をめぐって米露は対立してるのか馴れ合っているのかという話で、最後が森友学園事件を追及するはずが身内の右翼議員からの離党届(受理されず除名へ)やら代表代行辞任やらで揺れる民進党の3本。ゴルフ中継の延長で3本ではなく2本だった先週に続いて、森友学園事件の本筋はトピックから漏れた。昨日久々に立ち読みした小学館の極右雑誌『SAPIO』に載っていた右翼人士・小林よしのりの漫画で、安倍昭恵と迫田英典の証人喚問を要求していたのを確認したが、右翼の小林ですら要求する昭恵の証人喚問を未だに自らの言葉として要求しなかったり、前原誠司民進党から出て行けと書きながら代表代行の辞意を表明した細野豪志はスルーしたり、あげくのはてには森友学園事件に関する橋下徹の文章(それは明らかに大阪府の責任を逃れようと全責任を国に押しつけようとする意図で書かれたものだ)を紹介したりする「リベラル」のブログを見るにつけ、劣化してるのは何も政府や右翼たちばかりではなく「リベラル」(その実態は都会保守を含む保守人士たちであることが多い)も同じではないかと思う今日この頃。サンモニの長い長いスポーツコーナー以降は、読みかけの松本清張推理小説に集中してしまい、読み終えたら番組も終わるところだった。だから「風を読む」のコーナーも誰が何を言ったか全然覚えていない。ただ、日頃好まない寺島実郎が、日本は国連が機能しなくなっているからと言ってただアメリカについていくのではなくあくまで国連を通じた解決をアメリカに求めるべきだとの正論を言って、暗に毎日新聞の幹部である科学記者の元村有希子(この記者が番組の方で国連が機能しなくなっていると言って、暗にトランプに盲従する安倍晋三を正当化したのだった)を批判したことが頭に入った。

 小林よしのりですら正面から要求する安倍昭恵の証人喚問を(よく引用する日刊ゲンダイの記事には書かれているのに)自分の言葉としては決して書こうとしない市井の「リベラル」もたいがいだが、保守の寺島実郎安倍晋三への無気力な追随をとがめられる元村有希子もひどいよなあ、と思った。

 ところでサンデーモーニングそっちのけで読み終えた清張の中篇「表彰私人」じゃなかった「表象詩人」は面白かった。有名な作品ではないが、2014年に光文社文庫入りした「松本清張プレミアム・ミステリー」のシリーズ第2期7タイトルの最終巻に当たる。他に「山の骨」が収録されている。

 

 

 「表象詩人」の舞台は昭和初期の小倉。山前讓の解説文によると、清張が18,9歳の頃の経験がもとになっているとのことだから、昭和3~4年(1928~29年。清張は1909年12月生まれ。なお昭和時代の小説の通例で、清張はこの作品で年数を元号表記しているので、この記事でも私としては例外的だが元号表記を用いる)の小倉市(現北九州市小倉)が舞台だ。

 当時清張が務めていた会社(川北電気)の取引先である東洋陶器(現TOTO)の用度課員と親しくなったとのこと。その人が登場人物の久間英太郎のモデルになっている。

 数多い(読んでも読んでも未読の本が山ほどある)清張作品としてはあまり知られていないせいか、ネット検索で参照できるサイトもそれほど多くないが、下記Facebookの寸評が印象に残った(ネタバレ注意ですが)。

www.facebook.com

 以下引用。

 この作品はほとんど知られていません。また、松本氏の代表作に挙げる人も皆無でしょう。常識的に考えるとやはりこの作品が代表作とはいえないでしょう。しかし、私はこの作品に非常に惹かれます。それはこの作品が松本氏唯一の青春小説といえるからです。
 
 松本氏は朝日新聞社に入社する前、印刷所の下働きをしていました。夢のない徒弟制度時代の救いは文学への傾斜です。この時期かなりの書物を読み、左翼系の同人雑誌にかかわったこともあります。このとき松本氏はある女性に心を惹かれますが、自分の将来の境遇の不安さから、大きな発展はありませんでした。
 この小説は松本氏がそんな苦しく切ない時代を過ごした、昭和初期の九州・小倉が舞台となっています。
 
 主人公の三輪は詩作を趣味とする地方鉄道の職員で、松本氏の分身です。仲間の久間や秋島とともに東京から転勤してきた、陶器会社のエリート職員、深田氏の家に集まり文学論を闘わせます。
 しかし、その高邁な文学理論も実は東京からきた深田の妻、明子へいいところを見せたいがための虚勢でした。都会的な雰囲気をまとった標準語を使う明子は、田舎の青年にとっては憧れの的であったのです。久間と秋島は明子の前で激しく議論し、自分を売り込みます。三輪はただ、二人の議論を見守るだけです。
 そしてある夏祭りの夜、明子は死体となって発見されます。事件は未解決に終わり、何十年後、今は東京で暮らす三輪はある思いを持って故郷、小倉を訪ねます。
 
 青春時代の甘酸っぱい香り、そして希望のないやるせなさがこの作品から感じられ、私はこの作品が忘れられません。
もちろんしっかりしたサスペンスになっており、面白さも抜群です。この小説は長い間、全集でしか読めませんでしたが、近年カッパノベルスから復刊されました。ぜひご一読をお薦めします。


 文末に「近年カッパノベルスから復刊されました。」とあるが、上記引用文は2012年に書かれている。その後2014年に同じ光文社から文庫としても刊行されたことは前述の通り。

 また、小説の時代からおよそ四半世紀後の「昭和30年代貴船橋下流右岸の東洋陶器(現TOTO)の風景」を、TOTOのOBたちによると思われるサイトから知ることができる。

http://www.toto-wifi.info/toukou/toukoupg/nandemo.php?search=1456030269


 東洋陶器といえば、小説が書かれた頃の70年代の小学校にあった便器には、"TOTO" と "Toyotoki" の2種類の表記があり、それを見ながら、たぶん前者が新しい便器で後者が古い便器であって、「トト」とは「トヨトキ」の略称なんだろうなと想像していたことが思い出される。下記「TOTOミュージアム」のサイトによると、"Toyotoki" は「1962年から1969年(昭和37年から昭和44年)」の商標で、"TOTO" は「1969年以降(昭和44年以降)」の商標らしい。"Toyotoki" の商標を知っているというと「年がバレる」ことになるのかもしれない。

http://www.toto.co.jp/social/museum/trademark/


 その後、同名のアメリカのロックバンドが現れるなどして(日本の便器メーカー名から命名したというのは俗説らしいが)"TOTO" がすっかり定着したため、ついに社名まで「TOTO」になってしまったことは周知だが、社名変更はもっと昔かと思っていたら10年前の2007年だった。それから、TOTOは今年5月15日に創立100周年を迎えるらしい。同社が今も小倉に本社を持つことも今年で創立100周年を迎えることも今の今まで全く知らなかった。
 
 もう一つ、この小説で懐かしさを覚えたのは、登場人物の秋島明治がマザー・グースの「誰が殺したコック・ロビン(駒鳥の雄) Who killed Cock Robin」のパロディの詩を披露するくだりだ。ああ、それはマザー・グースだな、ヴァン・ダインだっけと思い出しながらも、なにぶん読んだのがもう40年ほど前のことだから、作品名がすぐには出てこなかった。エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の先駆けだったためにより強い印象のある『グリーン家殺人事件』には出てこなかったことは間違いないので、『僧正殺人事件』だったんだろうなと思ってネット検索をかけたらその通りだった、という次第。清張自身が小説のあとの方でヴァン・ダインと(アガサ・)クリスティに言及していたが、『僧正殺人事件』は1929年発表である。クリスティはほとんど読んでいないので『誰が殺したコック・ロビン』をモチーフにした作品が何であるかはわからなかった。マザー・グースに幅を広げると、有名な『そして誰もいなくなった』がある。しかし、「マザー・グース 松本清張」でググっても「表象詩人」への言及のあるサイトは、少なくとも検索結果の上位にはみつからない。清張としては無名の作品である所以だろう。

 ところで、少し前にも「コック・ロビン」でググったら「クック・ロビン」の検索結果が出てきたので、「あれっ、クック・ロビンの方が正しいのか」と思ったことがあったが、そうではなかったことがわかった。
 

クックロビン - Wikipedia

「Cock Robin」が「クックロビン」として一般化したのは、萩尾望都が「Cock Robin」を「Cook Robin」と見誤って「クック・ロビン」とカナ表記し(『別冊少女コミック』1973年6月号掲載の「小鳥の巣」第3話で、主人公のエドガーが「だれが殺した? クック・ロビン……」と歌っているページの欄外に「クック・ロビン(Cook Robin)…駒鳥のオス」と記されている)、それがのちに『パタリロ!』(魔夜峰央著)の「クックロビン音頭」に引用されて広まったためであると、『ふしぎの国の『ポーの一族』』(いとうまさひろ著 新風舎文庫 2007年 ISBN 9784289503544)に指摘されている。

 
 そうだったのか。昔私が読んだ『僧正殺人事件』は、井上勇の翻訳で、創元推理文庫から1959年に出版された版だったはずだ。

 

僧正殺人事件 (創元推理文庫)

僧正殺人事件 (創元推理文庫)

 


 上記アマゾンのサイトには、下記の作品紹介がある。

コック・ロビンを殺したのはたあれ。「わたしだわ」と、雀がいった!マザーグースの童謡につれて、その歌詞のとおりに怪奇残虐をきわめた連続殺人劇が発生する。無邪気な童謡と無気味な殺人という鬼気せまるとり合せ! 名探偵ヴァンスの頭脳は冴えて、一歩ずつ犯人を追いつめる。『グリーン家殺人事件』と比肩される本格派の巨編である。

 
 ちなみに現在では創元推理文庫から同じ作品の日暮雅通による新訳が2010年に出ているが、こちらでも「コック・ロビン」とされているようだ。

 なお、『グリーン家殺人事件』は1959年の延原謙新潮文庫版で読んだが、探偵の「ファイロ・ヴァンス」が「フィロ・ヴァンス」と表記されていた。同じ訳者の固有名詞では、コナン・ドイルのホームズものの短篇第1作「ボヘミアの醜聞」で "Irene Adler" を「アイリーネ・アドラー」と表記しているのが変なのではないかとずっと思っていたが、イギリス英語を日本人の耳で聞くと、意外にも「アイリーネ」と聞こえるらしいとの情報を数年前に知って、この日記に書いたことがある*1。現在も新潮文庫から出ている延原謙訳は、「アイリーン・アドラー」と表記されている。ある時期に表記が変更されたものだろうが、意外と古い表記の方が良かったのかもしれない。こういう例もあるので、意外と「フィロ・ヴァンス」との表記もあり得るのかな、などと勝手に思っている。

 「表象詩人」に戻ると、登場人物の久間英太郎は野口米次郎、秋島明治は北原白秋に傾倒していた。野口米次郎は知らなかったが、イサム・ノグチ父親で、自らも「ヨネ・ノグチ」という筆名を使っていた。作中では「ヨネ・野口」との表記がしばしば現れる。イサム・ノグチの方は香川県の庵治石を使った彫刻で、香川県在住時代におなじみだった。

 また作中で久間のライバルとして火花を散らしていた秋島明治は北原白秋に傾倒していた。北原白秋については少し前に読んだ同じ松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫)第2巻収録の「潤一郎と春夫」に取り上げられていた。

 

昭和史発掘<新装版> 2 (文春文庫)

昭和史発掘<新装版> 2 (文春文庫)

 

 
 「潤一郎と春夫」にも、白秋が1912年に隣家に住む人妻・松下俊子との不倫により姦通罪で告訴されて未決監に拘留されたものの、そこまでして結ばれた松下俊子と1年半後には離婚したことが書かれていたように思うが、「表象詩人」にも、俊子を歌ったと思われる「野晒」が引用されている。「野晒」は下記サイトで参照できる。

http://hakusyu.net/Entry/68/


 前記「誰が殺したコック・ロビン」も1922年に白秋が訳詞を発表していたのだった。「こまどりのお葬式(とむらい)」は下記「青空文庫」で読める。

北原白秋訳 まざあ・ぐうす


 「青空文庫」では、

「だァれがころした、こまどりのおすを」
「そォれはわたしよ」すずめがこういった。

 と始まるが、これは新字新仮名遣いに改められている。「表象詩人」では、

「誰(たアれ)が殺した、駒鳥の雄(をす)を。」
「そオれは私よ。雀がかう云った。」

 となっているといった具合に、句点の有無なども含めて微妙な違いがある。

 こんな具合に興味は尽きないので、ここまで書くのに膨大な時間を要したが、やっと締めくくりに入れる。
 
 私は子どもの頃、自分の生まれる前の知らない時代について想像をめぐらせることが好きだった。「表象詩人」が書かれた1972年頃にポプラ社から発売された(調べてみると1971年発行だった)江戸川乱歩の「少年探偵シリーズ」第37巻「暗黒星」に収録された「二銭銅貨」のリライト版を読んだ時に感じたわくわく感も、今回「表象詩人」を読んで甦ったのだった。

 「二銭銅貨」は1923年に江戸川乱歩が初めて発表した短編小説で、ポプラ社版は探偵役を「若き日の明智小五郎」に書き換えるなどの変更を加えた上で子ども向けにリライトしたものだった。私は当時から既に、このシリーズの「怪人二十面相」もののバカバカしさを馬鹿にしていたものだったが(小林少年がなぜか車を運転するなど、めちゃくちゃな内容だった)、「二銭銅貨」には大いに惹かれたのだった。ホームズものの「踊る人形」を連想させる暗号ものだが、解読に成功したと思った暗号を「ゴジヤウダン(ご冗談)」でひっくり返す鮮やかな手法もさることながら、生まれる前の知らない時代の情景を想像するのが楽しかった。最近は江戸川乱歩が再評価されているようで、「二銭銅貨」を含む文庫本なども本屋で見掛けるので、そのうち未読のオリジナルを読んでみたいものだと時々思うのだったが、この記事を書きながらネット検索をしていて、何も文庫本を買ったり借りたりしなくても、「青空文庫」で読めることに今頃思い当たったのだった。

江戸川乱歩 二銭銅貨