KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

『魔笛』第1幕で善人役に見えた「夜の女王」が第2幕では一転して悪役になるが、モーツァルトはマリア・テレジアを「夜の女王」に見立てていたのではないか

 押し入れを整理していたら昔テレビ放送を録画したVHSのビデオテープが出てきた。その中の1本に、1991年12月8日にNHK教育テレビ(現Eテレ)の『芸術劇場』が収められていた。この日の番組では、最初の1時間が『モーツァルト・オン・ツアー ウィーン・プラハ もう一つの世界』と銘打ったアンドレ・プレヴィン(1929-2019)の解説と演奏が収められていて、その1時間番組の前半でプレヴィンが『フィガロの結婚』の西洋史における意味合いが解説し、後半でフィガロと並行して書かれたピアノ協奏曲第24番ハ短調K491の全曲を弾き振りする番組が吹き替えと字幕付きで流された。続いて、この日の放送のメインとして『フィガロの結婚』の1991年ザルツブルクイースター音楽祭公演が3時間20分流された。ミヒャエル・ハンぺの演出で、ハイティンク指揮ベルリン・フィル、トマス・アレン(アルマヴィーヴァ伯爵)、リューバ・カザルノフスカヤ(伯爵夫人)、フェルッチョ・フルラネット(フィガロ)、ドーン・アップショー(スザンナ)らが歌っている。この4時間20分の放送をずっと見ていた記憶がある。放送日はモーツァルト200周忌(1991年12月5日)の3日後で日曜日だった。

 しかしプレヴィンが語った解説の内容はすっかり忘れていた。プレヴィンはなんと『フィガロの結婚』が革命的な性格を持っていることを力説していたのだった。革命といっても18世紀末だからむろん共産革命ではなく市民革命であり、『フィガロの結婚』は、その初演の数年後に現実となったフランス革命と同期した音楽だというのがプレヴィンの論旨だ。その意味で、革命勃発後に創作活動のピークを迎え、一度はナポレオンに検定しようとしてそれを破棄したという第3交響曲エロイカ』を作曲したベートーヴェンの先駆者としてのモーツァルト像をプレヴィンは力説していたといえる。それが1991年のモーツァルト・イヤーに音楽の啓蒙番組で放送されていた。未だに洋菓子的なモーツァルトのイメージから脱却できない日本とは大違いだと改めて思った。日本では2022年の安倍晋三暗殺を機に、ようやく権威主義をめぐる与野党支持者の動揺が起き始めている状態だ。私は日本の現状を、フランスより200年以上遅れてやっとこさ市民革命的な機運が目に見えるようになってきた状態の社会だと認識している。誰だったかが指摘していたが、モーツァルトベートーヴェンもきわめて政治的な音楽を書いた。前記『モーツァルト・オン・ツアー』からプレヴィンの解説の字幕を以下に文字起こしする。

 

 モーツァルトは客席の貴族たちに力強く宣言しているのです。最後に頂点に立つのは貴族ではなく私たち庶民だと。

 モーツァルトを抜きにしてこの時期のウィーンは語れませんが、貴族はわき役に過ぎないのです。

 

(『モーツァルト・オン・ツアー;ウィーン・プラハ〜もう一つの世界』より、アンドレ・プレヴィンの解説)

 

 プレヴィンは、今でも軍楽隊がブラスバンドへの編曲をよく演奏するというアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」についても下記のように語った。

 

 現代でも軍隊の儀式でよく演奏されるなど、この曲は勇壮な行進曲のようです。しかしその歌詞の意味するところは、軍隊の華やかさや勇壮さは、戦争の恐怖を隠すものに過ぎないということです。

 「思想というのは語るよりも歌う方が理解されやすいこともある」と『フィガロ』を聴いたある人は批評しました。

 宮廷は『フィガロ』の上演禁止にさまざまな陰謀を張り巡らせました。『フィガロ』のもつ革命的な思想は葬り去られたかに見え、9回の上演のあと、公演は打ち切られました。

 しかし3年後の1789年、フランス革命が始まったころには、『フィガロ』は公演も28回を数え、不動のレパートリーになったのです。

 初演当初から『フィガロ』はプラハでの上演の招待を受けています。芸術を愛する町、プラハからの招待はこの上ない栄誉でした。プラハの音楽家は、モーツァルトへの尊敬と賞賛を惜しみませんでした。(同前)

 

 これらのプレヴィンの解説は、少し前に弊ブログで紹介した大のモーツァルティアンである高野麻衣氏による下記のモーツァルト評とみごとにシンクロする。

 

革命前夜の時代の空気をかぎとり《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》(=貴族が謝罪・破滅する物語)を描いた先進性だとか、そうした信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心だとか、それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズムだとか、そういう「モーツァルトの素顔」がもっと、広く知られるべきと思っている。

 

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 上記アンドレ・プレヴィンや高野麻衣氏らの意見こそ、モーツァルトを深く愛する人たちの認識なのだ。私はこれらを「密教の教義」と言っても過言ではないと思う。「洋菓子」的なモーツァルト観との落差は、あまりにも大きい。

 さて、モーツァルトのシリーズ最終回は、レクィエムではなく『魔笛』で締める。

 この読書・音楽ブログでは、かつてよく松本清張の作品を取り上げてきた。その清張の晩年の短篇集『草の径』に『魔笛』と劇場支配人兼台本作家のシカネーダーを取り上げた短篇がある。図書館で初めて借りてそれを知った時には驚いた。かつて弊ブログで一度だけ言及したことがある。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 埋め込みリンクに表示された文章に見る通り、かつて弊ブログは松本清張作品ばかり取り上げていた。記事のタイトルにした「捜査圏外の条件」は、私が清張の短篇中もっとも好む作品であって、兄が妹の仇をとったものの犯行が露呈して終わる倒叙形式のミステリだ。作品のモチーフは戦後1950年代初めの流行歌「上海帰りのリル」であり、この歌を2018年にずいぶん聴き込んだので、おそらくカラオケに行けば(カラオケにはもう15年ほども行ったことがないが)歌えるだろう。これは戦前はやったらしい「上海リル」という歌のアンサーソングで、この「上海リル」のほうも随分聴き込んだ。何人かの歌手が歌っていたが、そのうちの1人は江戸川蘭子という、おそらく江戸川乱歩をもじった(つまりエドガー・アラン・ポーを芸名上の祖父とする)人だった。

 その短篇と流行歌を取り上げた記事に下記のように書いた。

 

清張最晩年に「モーツァルトの伯楽」(1990)という短編があるが、これはモーツァルトの没後200年を翌年に控えて当時プチブームが起きつつあった頃、自らも死を2年後に控えた清張がモーツァルト最後の魔笛』の台本を書いたエマヌエル・シカネーダーに焦点を当てて彼とモーツァルトとの関係を描いた異色の短編だ。このブログには取り上げなかったが、最晩年の短篇集『草の径』に収録されている。

 

草の径 (文春文庫)

草の径 (文春文庫)

 

  80歳になってなお好奇心を失わなかった清張に感心したし、先日読んだ清張未完の絶筆『神々の乱心』を読んだ時にも思ったことだが、清張には82歳で死ぬまで頭脳の衰えは全くなかった(目が悪くなり、体調全般も悪化して死期の近いことを感じていたらしいが)。このことにも驚かされる。

 

URL: https://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2018/03/30/090512

 

 この「モーツァルトの伯楽」に関する言及をネット検索で調べたところ、下記がヒットした。まずモーツァルティアンの愛好者たちが作った同好会(確か会員をケッヘル番号に合わせた626人に限定していると聞く)の会報で言及されている。

 上記リンクのPDFファイルの3ページ目に掲載されている。次の会報にも続きが掲載されているがリンク及び内容の紹介は省略する。

 私が今回のネット検索で一番驚いたのは、清張が『魔笛』に興味を持ったのは、何も没後200年の時流に乗ろうとしたからではなく、もっと早い時期だったらしいことだ。下記ブログ記事に紹介されている。ブログ主の浜地道雄氏が2009年にインターネット新聞『JANJAN』に書いた記事をブログに再掲したもののようだ。

 

hamajimichio.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

      創作ノートに秘かに記されていた『魔笛』をめぐる構想

2009/05/28

 今年は、松本清張生誕100年である。北九州市小倉にある松本清張記念館をはじめ、各地でさまざまの行事が行われるようだ。

 筆者も清張への思いを元に、NYからムンバイ、イラン、そして日本の飛鳥・正倉院まで、グローバルに駆けめぐるロマンを記した。
 【ムンバイ同時テロ】タージ・マハール・ホテル炎上に思う 2008/11/28
 主題は「ゾロアスター(拝火)教」だ。

 ゾロアスター、すなわち、ニーチェによる「ツァラトゥストラはかく語りき」(Also sprach Zarathustra)だし、リヒャルト・シュトラウスの同名交響詩だし、スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」だし、マーラーの「交響曲第3番」(の第4楽章)だ。

 そして、忘れてならないのは『魔笛』(モーツァルトの最後のオペラ)だ。そこでは「昼(光)=善」と「夜(闇)=悪」の対立が主題だ。主人公、光の代表者である「ザラストロ」こそ、ゾロアスターに他ならない。しかし、この点、つまり『魔笛』とゾロアスター教の関係を説明した解説書は専門書にも多くはない。

 ところがなんと、松本清張が解説をしているのである。
『過ぎゆく日暦(カレンダー)』。何というノスタルジックで心をうつ表題だろう。
 参照:『過ぎゆく日暦』 新潮社

 紹介文はこうだ:
 「広大な“清張文学”を支えていたものは、倦(う)むことのない取材と、こまめに記けられた『日記』であった。〈流れ作業〉で解剖が進むニューヨークの死体収容所。文豪・鴎外を始終悩ませた家族の不和。ゾロアスター教の拝火殿を眺望しながら、モーツァルトの『魔笛』を考える旅日記……。何気ないメモと、ふとした雑感が小説の土台に据えられてゆく。創作の臨場感あふれる“清張ノート”。」

 「雑記帳」「備忘録」なのだ。ところが、その乱雑に置かれてる記録のひとつひとつが、実に奥の深い記述であり、読む者をとりこにする。

 その、(記載順に)昭和56年3月3日(火)、昭和48年4月15日(日)、16日(月)付け「民族学の衰退。イランの拝火神殿跡。モッツアルトの『魔笛』」という項に16ページに亘って記されている。

DVD『魔笛』 (上)1976:ゲルト・バーナー指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ライプツィヒ歌劇場オペラ合唱団、ザラストロ(ヘルマン・クリスティアン・ポルスター)。1976年収録、DVDは2998年*1ドリームライフから発売。

 「どのモーツァルト評伝をみても、『魔笛』論を読んでもそんなこと(=魔笛のテーマがゾロアスター教から採り入れたこと)にはほとんど触れてない。ぜんぶフリーメイソンが主題だと述べている」。さらにいくつかのモーツァルト専門解説書を挙げて、「正面から言及しないのは不思議である」としている。「音楽にはまったく不案内なわたしだが」としながら、いささか自慢気味である。

 たしかに、拙稿「題名のない音楽会」から中東問題を探る、で紹介した「ドヴォルザーク」 など、筆者が常々感心してる音楽解説サイトLiberaria Musicにも「フリーメイソンと『魔笛』」は解説されているがゾロアスター教との関係は言及されていない。

 以上、筆者も清張にあやかってちょっぴり自慢気味に、ご紹介した次第。

 

URL: https://hamajimichio.hatenablog.com/entry/2021/09/30/212005

 

 私は2013年秋に突如清張作品にはまった。折良くその頃、光文社があまたの清張作品の中でもあまり有名でない作品も含めて大量に字の大きな文庫本にしてくれたこともあって、清張の全ミステリの7割以上、おそらく約4分の3を読んだ。しかしその後他社が版権を手放さなくなったためか、最近は光文社による文庫化があまり進まなくなっている。そのため残り4分の1ほどの未読作品が残っている。

 ミステリ作品でさえそうだから、清張の日記類にはほとんど目を通していない。だから浜地氏が記事中で言及した『過ぎゆく日暦(カレンダー)』(新潮社)もそのタイトルさえ知らなかった。

 浜地氏によると、清張は1973年には既に『魔笛』に関心を持っていたようだ。清張が1992年まで生きたことは清張作品とモーツァルトの音楽をともに愛する読者の私たちには幸運だったというほかない。

 私はこの記事を書くために『魔笛』について考えている最中に、「そういえばザラストロというのはゾロアスターだったよな」と思ってネット検索をかけたら、少なくない興味深い記事がいくつもヒットしたのだが、どこで最初に「ザラストロ」がゾロアスターのイタリア語読みであることを知ったのかは思い出せない。しかし、読書記録を参照すると2017年に清張の『草の径』を読んでいるので、その時に知った可能性がある。

 そういえば最近やっと気づいたのだが、『魔笛』はドイツ語のジングシュピールでありながら登場人物の名前はイタリア語だ*2ベートーヴェンの『フィデリオ』に至ってはもろイタリアオペラである。これも最近知ったのだが、絶対音楽の王者みたいに思われているベートーヴェンだが、実はオペラや他の舞台音楽への関心が高かったそうだ。彼が大のモーツァルティアンだったことは誰でも知っているが、ロッシーニの才能も高く評価していたという*3ロッシーニをけなしてベートーヴェンを神格化したのはシューマンワーグナーも同じだった。ブラームスシューマンの直系だ。つまり互いに対立していたワーグナー派もブラームス派も政治的には保守派あるいは右派だったといえるわけで、このあたりがモーツァルトベートーヴェンとは大いに異なるところなのではないかと思う。つまり先駆者たちが持っていた強い反骨精神は、最初から偉大な先駆者たちを持っていた独墺系の後続の作曲家にはいささか欠けていたのではないか。なおベートーヴェンがオペラを1曲しか書かなかったのは、イタリア語が苦手だったことに加えて、オペラにはモーツァルトの名作が多いからではないかと思う。音楽は何もオペラだけではないのだから、勝てないものに張り合う必要などないのである。それなのに、ベートーヴェンに心酔するあまり、「絶対音楽>>オペラや標題音楽」みたいな誤った価値観を作り上げたこと、及びそれへの信奉を強要するところから、ドイツ音楽至上主義的「クラシック音楽」の悪しき権威主義が生じたのではないか。そう思うようになった。

 『魔笛』に話を戻すと、この2幕からなるオペラというかジングシュピールの前半(第1幕)と後半(第2幕)とで善役と悪役が交替することは、この歌劇を見たことがある人なら誰でも知っている。私は前述の1991年のモーツァルト没後200年の年にNHK教育テレビで2種類の『魔笛』を見て、そのうちショルティウィーン・フィルを指揮した1991年ザルツブルク音楽祭での上演はそれを録画したVHSのビデオテープを今も持っているが(その前に前述のプレヴィンの『モーツァルト・オン・ツアー』でピアノ協奏曲第27番を弾いた回が放送され、それも録画した)、その頃に知った。

 ここではまず『松岡正剛の千夜千冊』に収められた下記記事の前半を引用する。後半は何度読んでも頭が混乱してなかなか理解できないので引用しない。理解できない文章を引用しても仕方ないからである。

 

 森に迷いこんだ異国の王子タミーノは、夜の女王の娘パミーナの絵姿を見てたちまち激しい恋情を懐(いだ)く。夜の女王はパミーナが邪悪なザラストロの手に奪われていったことを嘆いて、なんとかタミーノに救出を頼む。タミーノは陽気な鳥刺しパパゲーノを連れて、魔法の笛と杖を与えられ、ザラストロの神殿めざして救出に向かう。

 

 御存知、モーツァルトの『魔笛』である。話は意外な展開を見せて、タミーノはザラストロがほんとうは叡知と徳目をもっていて、邪悪なのは夜の女王のほうであることを知る。ザラストロは夜の女王からパミーナを守るために神殿に匿っていた。こうしてタミーノとパミーナは初めて出会うのだが、そこには幾多の試練が待っていた。二人はこれを乗り越えて結ばれ、夜の女王の一党は滅びる。ザラストロの僧たちは光輝の合唱をする。

 

 『魔笛』にさまざまな物語要素が混在していることは、いろいろ指摘されてきた。しかしたとえば、夜の女王がヨーロッパ伝統の魔法使いの形象であること、パパゲーノが『ピーターパン』のティンカーベルなどにつながる妖精であって典型的なトリックスターの意義をあらわしていること、ザラストロがゾロアスターであって、かのニーチェのツァラトゥストラであることなどは、やかましい連中にとっては大事な議論のアイテムだろうが、ここではさておく。


 今夜はちょっと別の視点から『魔笛』の話をしながら、本書の意図と限界に入っていきたい。

 

 音楽業界では『魔笛』は同情されてきた。シカネーダーの原作台本は数々の平仄(ひょうそく)があわないものになっていて、モーツァルトがこんなちぐはぐな台本に曲をつけることになったのは大変だったろうというのだ。シカネーダーが途中で台本を変更したために、モーツァルトが半ばまで作曲したものを、一度は最初から、また途中で何度か作り直したこともわかっている。


 ところが、この音楽業界の同情とは裏腹に、シカネーダーの「作りそこね」の部分とモーツァルトが加えた物語解釈と変更にこそ、われわれの意識の表象にひそむ重要な深層を浮かび上がらせるヒントがあるのではないかという見方もあった。本書のエーリッヒ・ノイマンもこの立場にたっている。

 

 もともとこの物語の母型には二つのものがある。ひとつは善良な妖精と邪悪な魔法使いという童話的な対比で、もうひとつは主役を振られた男女が苦しみつつも愛を深めていくという母型だ。このばあい、ふつうならば、女王は善良な妖精の代表であり、魔法使いは悪の帝国を支配する。また童話的対比のなかの男女の愛の出来事の進行は、たいていは男の子(男性性)が不幸な女の子(姫)を救うというふうになる。

 

 ところが、おそらくモーツァルトの強い意図か何かの勘によるものだったとおもわれるのだが、『魔笛』においては男女の立場がひっくりかえされて、夜の女王が悪の体現者となり、魔法使いが光の司祭になった。女の子のパミーナは実は幸福にいて、男の子のタミーノが苦悩者だったのだ。因習や誤解にとらわれていたのは男性性だったということになった。男性的人物と女性的人物との対比が逆転したのである。

 

 モーツァルトがそのような意図をもったのは、モーツァルトがしだいに近づく死の意識につきまとわれ、フリーメーソンの秘儀に憧れていたため、こうした逆転によって秘儀の様相を入れこんだというふうに推測されている向きもあるのだが、フリーメーソンの影響がどれほどあったかという問題もここではさておきたい。

 

 むしろ、男性性と女性性が入れ替わることによって、物語の継ぎ目にあらわれたテキストの重層性が立ち上がり、そこに、われわれが注目すべき「父なるもの」(パトリズム)と「母なるもの」(マトリズム)の対立と超越という普遍的課題が、シカネーダーやモーツァルトの作業をこえて立ちあらわれたということを重視したい。(後略)

 

(『松岡正剛の千夜千冊』第1120夜 エーリッヒ・ノイマン『女性の深層』より)

 

URL: https://1000ya.isis.ne.jp/1120.html

 

 最後は、以前ピアノ協奏曲第25番の回でも紹介した東賢太郎氏の記事。私が見るに、筆者の東氏はどう考えても保守派の陣営にいるのに、保守派の人とは信じられない思考をされていることにしばしば驚かされる。

 

 以下引用する。

 

モーツァルトは父の強硬な反対をうけてコンスタンツェとなかなか結婚できなかった。父は手紙でこう諭しました。

 

愛する息子よ、やめときなさい、おまえの評判にかかわるぞ、私だって何を言われるかわからない、おまえはその女の計略にひっかかってだまされてるんだ、その女の母親はとんでもないワルで有名だぞ、おまえは目先のことにすぐ熱くなる性格なんだ、それを自覚しなさい、その女の家に下宿するなんてとんでもない、すぐにそこを出なさい

 

父の厳命で仕方なく下宿を出たモーツァルトが引っ越したのは、そこから歩いて3分もかからないアパートでした。こういう経緯があっても彼は父にないしょでコンスタンツェと逢引きをつづけ、ついに無断でシュテファン寺院で結婚式をあげてしまう。それは禁断の苦しみの末にやって来た人生最高の喜びの瞬間だったろう。

 

魔笛を考えるに重要なのが後宮からの誘拐というジングシュピール(ドイツ語歌劇)です。トルコの後宮(ハーレム)に囚われている女性を婚約者が救いだす話です。その女性の役名がコンスタンツェだった。これは偶然かもしれませんが、モーツァルトが母の囚われの身に見えていた本物のコンスタンツェを意識しなかったことはないでしょう。彼はこの曲を結婚式(1782年8月4日)直前の7月16日に初演したのです。ヨゼフ2世ご臨席のもとで。8年後にやってくる逆境に比べなんと順風満帆だったことだろう。思い出のこの曲が、そこで書くことになる魔笛の作曲に無縁でなかったと考えるには意味があります。

 

「女性の救出劇」というコンセプトといえば、魔笛の第1幕はまさにそれです後宮ではザラストロのかわりに太守セリムという王がいます。コンスタンツェに愛情を寄せているのですが決して暴力的にコンスタンツェを我が物にしようとはしない、ある意味でありえないほど非現実的な王様で、逃走に失敗してつかまった二人を成敗するどころか帰国まで許すのです。粗暴で好色なトルコ人という当時のウィーン市民の常識とかけはなれた人物として、いわば偶像化されている(歌はまったく歌わない)。

 

それは「啓蒙君主のアイコン」としての偶像でしょう。マリア・テレジアが亡くなって、息子のヨゼフ2世(左)という正に啓蒙主義的な思想の皇帝が現れた、そればかりか、彼はイタリア物一辺倒だったオペラにドイツ語歌劇という新風を国策として吹き込んだのです。絵にかいたような啓蒙君主の登場です。ウィーンでサラリーマンをやめフリーランスとなったモーツァルトにとって救いの神のようなトップであり、人生初めてつかんだ出世のチャンスで全身全霊のおべっかをもりこんだ作品が「後宮」だったとも考えられます。

 

ところが、ヨゼフ2世は90年2月に逝去します。ダ・ポンテとの「フィガロ・コンビ」で書いた「コシ・ファン・トゥッテ」初演の1か月後のことです。後任のレオポルト2世(左、右がヨゼフ2世)は兄の啓蒙思想の反動政治を行いますが、注目すべきはダ・ポンテを国外追放したことです。僕はこれまで何度も「フィガロ事件」がモーツァルトの人生に落とした暗い影を書いてきましたが、このコンビはいわばレノン・マッカートニーであって、もし片方が英国王室を侮辱したか何かで国外追放されたりしたら相棒もどんな境遇になったか、想像に難くないでしょう。

 

90年10月にフランクフルトで行われたレオポルト2世の戴冠式でピアノ協奏曲(第19番と26番)を演奏したり涙ぐましいおべっかと就職活動を駆使したが成果はありませんでした。時はおりしもフランス革命戦争前夜だったことを忘れてはなりません。前年89年にバスティーユ襲撃があり妹のマリー・アントワネットは逃亡の計画を兄に伝えていました。彼女が後ろ手に縛られ肥料運搬車で市中を引き回された末にギロチンで首をはねられたのはその3年後のことです。

 

フランスの同盟国オーストリアアンシャン・レジーム側にとって、このような日増しに緊迫、不穏の度を加える空気の中で即位したレオポルト2世がフィガロを書いた危険分子を国外に追放したのは当然であり、残った片割れの楽師の就職活動など目もくれるはずがなかった、いやむしろどうやって潰そうか思案中であってもおかしくなかった。出来なかったのは彼がまだ人気、知名度があったからでしょう。海外に就職はできない。モーツァルトが最後の年1791年にやおらエキサイトして名曲を連発したのはその危機感と無縁でなく、人気こそが彼の命綱だったからでしょう。

 

革命においてフランス国民議会は「人権宣言」を発表し新憲法を作りましたが、それを採択した400名の議員の内300名以上はフリーメーソンだったことは特筆してもし切れることではありません。モーツァルトはパリに知人がおりフランス革命の動向をよく知っており、自分を袋小路の鼠のように追い込んでいる神聖ローマ帝国アンシャン・レジームの倒壊を密かに願ったとしても不思議ではなく、フリーメーソンを暗示するオペラを大衆に浸透させてヒットさせてしまいたいと考えたのではないか。

 

このことは彼と同じぐらい反アンシャン・レジームの啓蒙派ながら、まだ旧体制に依存して食っていかねばならなかったベートーベンがフランス革命の寵児ナポレオンの出現に熱狂し、期待を込め、あの巨大にして斬新なエロイカ交響曲を書いてしまった、その衝動とエネルギーの巨大さの実例を見ればさほど見当違いな空想とも言い切れないように思うのです。フィガロより、ドン・ジョバンニより、コシ・ファン・トゥッテより、明らかに支離滅裂な台本にそのどれよりも偉大な音楽を書いたモーツァルト。その台本への共感こそが実はエネルギーの源泉であったと解釈する方が腑に落ちると思います。

 

魔笛がそういうオペラだったとするならフリーメーソン内部で使う典礼音楽を書くのとは意味が違い、大衆扇動、プロパガンダです。フランスの三色旗につながる自由・平等・博愛の思想を巧妙にポピュリズムにまぶして拡散させようと考えたのではないか。しかしその行為はフィガロに続く第2の「自爆テロ」になりかねない、まことに危険なリスクを内包していることをモーツァルトが知らなかったとは思えません。しかし、袋小路の鼠に残された選択肢は限られていた。だから彼はその真意をオブラートに包もうと考えたはずです。

 

タミーノは原作では日本の狩りの装束で現れ、夜の女王は天空から登場し、ザラストロはゾロアスター教の始祖名であり、彼が崇めるオシリス-イシス神は古代エジプトの神です。当時誰も日本など知っていたはずもないので遠い異国であればなんでもよかった。古代エジプトが舞台だから登場人物はキリスト教徒ではない。この設定が回教世界(トルコ)の舞台設定である後宮からの誘拐と同じです。異教徒世界の寓話だよという偽装なのです。

 

トルコとは戦争はしたが相手がへばった。それ以来トルコへの憎悪は薄れてコーヒー、行進曲など好ましい異国情緒の対象となり、世論を喚起・説得する手段として「トルコでは・・・」という手が流行したそうです。太守セリムを偶像化し、しかし我が国もそれに匹敵する名君(ヨゼフ2世)を持ったではないかというオペラを書くことがなぜ皇帝への「おべっか」になったか、その意味はそれなのです。魔笛がそのレトリックを使って「古代エジプトでは・・・」と訴えたかったもの、それがメーソンを暗示する啓蒙思想だったと考えます。

 

ルイ16世とレオポルド2世はモーツァルトには重なって見えており、夜の女王のモデルがマリア・テレジアであったかもしれない。とても危険ですが、その願望を覆い隠すベールとして同じドイツ語オペラで大ヒットした旧作「後宮からの誘拐」の「女性救出ドラマ」というフレームワークはいかにも自然で、大衆に分かりやすいものでした。シカネーダーが書き始めたそれをモーツァルトが乗っ取って、メーソンの最高位で事務総長のイグナーツ・フォン・ボルンらがメーソン教義と儀式の核心部分を構成した。それが第2幕の変転の真相なのではないでしょうか。

 

(中略)

 

モーツァルトフリーメーソン活動が「秘匿されるべき何ものか」を包含していたことは、妻のコンスタンツェと彼女の第2の夫ニッセンによって、そのほとんどの資料や手紙の文面が廃棄、削除されてしまっていることが証明しています。真相を政府に知られることを恐れたのです。夫の死後、コンスタンツェが政府から年金をもらうのに都合が悪かったとされていますが、それだけでなかった可能性は否定できません。

 

第2幕の大詰めにきてタミーノとパミーナ(メーソンの入信者)は表舞台から消え、自殺アリアからパパパ・・・まで、まったく非メーソン的であるパパゲーノが大変な存在感を持って舞台を独占する。これは第1幕の牧歌的世界と対を成して外郭を形成し、メーソン儀式をアンコとした入れ子構造でメーソンオペラの実体を隠ぺいするためではないでしょうか。筋書きがわけがわからないという我々の幻惑はひょっとして意図、計算された結果も知れません。

 

第1幕の冒頭で大蛇をやっつけたとウソをついて自慢するパパゲーノはこのオペラで終始一貫して舞台におり、入信儀式の試練の場にも立ち会って、 終始一貫してまぬけで人間くさく、火と水のシーンでいなくなったと思ったら自殺シーンですべて独占する。彼はメーソン臭さの中和剤であり、ほのぼの笑いを取る八つぁん熊さんであり、メーソンの殺気に光る刃を隠してしまう巧妙に配され、効果を計算され尽くした道化なのです。しかしその設計図の中で、モーツァルトの愛情がふんだんに盛り込まれた文字通りの主役になっている。オペラが終わるとハッピーにしてくれたのはパパゲーノだという印象になり、実はメーソンの教義が頭にこっそり刷りこまれたことは気づかないのです。

 

魔笛フリーメーソンの影響があると主張する人はたくさんいますが、そんな程度ではない、これがモーツァルトを含むウィーンのメーソン幹部による革命陽動オペラなのだというのが僕の見方です。

 

出典:モーツァルト「魔笛」断章(第2幕の秘密) | Sonar Members Club No.1

 

 「これがモーツァルトを含むウィーンのメーソン幹部による革命陽動オペラなのだ」とまで書かれてしまうと、さすがにそれは(陰謀)仮説であってエビデンスがないというしかない。東氏のこの説を無批判で受け入れてしまうと、それこそ「とおりすがり」なるコメンテーター氏が突然弊ブログに(すぐに撤回したとはいえ)一度は投げかけてきた「逆陰謀論」と言われても仕方ないかもしれない*4。しかし、前記プレヴィンの『フィガロの結婚』評や高野麻衣氏による「《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》(=貴族が謝罪・破滅する物語)を描いた先進性」とのモーツァルト評を思い起こせば、必ずしも「荒唐無稽の陰謀論」として片付けられないものがあるように思う。

 特に、上記引用文中で赤字ボールドにした「夜の女王のモデルがマリア・テレジアであったかもしれない」との指摘は、引用は省略するが(というよりリンクを記録しておかなかったのでたどれなくなっているのだが)他の方も唱えていた仮説だ。マリア・テレジア1780年に死んだから、この女帝の死後かなり経ってからようやくモーツァルトは宮廷楽師になることができた。マリア・テレジアは最初の謁見では神童モーツァルトを絶賛したものの、のちには「乞食」扱いしてモーツァルトを雇い入れようとしたミラノの宮廷に反対した。そのせいでモーツァルトはなかなか就職できなかったのだった。その経緯を思えば、最初は慈愛に満ちた人のように見えた女帝が、実は自らの就職を妨害し続けた「人生の障害物」だったことをモーツァルトが知っていたとは全く思えないけれども、音楽、というより彼の書いた歌劇がそれを暗示しているようにも解釈できるところがなかなか興味深い。なかなか言語化できない音楽という手段でモーツァルトは真実を把握していたといえるかもしれない。

 ヨーゼフ2世モーツァルト観も当初「彼はクラヴィーア奏者で、オペラは1曲しか書いていないではないか」程度のものだったらしいが、演劇としては上演を禁じていた『フィガロの結婚』の楽譜を見て、毒を薄めたから大丈夫とのダ・ポンテのアピールもあったとはいえ『フィガロ』の上演を認めたというのだから音楽に関するセンスは相当のものだった。

 しかし、ザルツブルク大司教・コロレドも同様だったに違いないが、宮廷や教会といった権力が音楽を含む芸術に浪費できる時代は去りつつあった。だからザルツブルク大司教のコロレドはミサ曲も簡略化させたしモーツァルトが本当にやりたかったオペラの作曲もさせなかった。またレオポルト2世は(毒を薄めたとはいえ)不穏なオペラの台本を書いたダ・ポンテの首を切り*5モーツァルトも、サリエリさえも干した。このあたりは、2010年代に大阪市文楽を迫害した橋下徹大阪維新の会を思い出させる(私は橋下も維新も大嫌いである)。この陰険な人物が在位わずか2年で死んだことはサリエリにとっては不幸中の幸いだったに違いないが、とはいえサリエリの晩年が安らかだったとは全くいえなかったことは周知の通り。

 モーツァルトはおそらく1791年に何らかの病気にかかって死んだのだろうが、その死はあまりにも早すぎた。彼がもう少し生きていたならフランス革命をどう思ったかはわからないが、おそらくは2019年に亡くなったアンドレ・プレヴィンが想像したであろう通りの態度を示したのではないか。ただ、それが音楽に影響したかというとそうはならなかったのではないかと私は想像している。

 今回の記事も思いっきり長くなったが、モーツァルトのシリーズはこれでひとまず終わりにします。

*1:原文ママ

*2:後宮からの誘拐』も同様。

*3:むしろ同国人のサリエリの方がロッシーニを嫌っていた。サリエリモーツァルトの死の翌年に生まれたロッシーニに面と向かって「あなたがモーツァルトを毒殺したという話は本当ですか」と聞かれたことがあるらしいから、サリエリロッシーニを激しく嫌った気持ちはよくわかるけれども。

*4:こちらが氏の撤回にもかかわらず「因襲」との言葉を用いて反撃したことが氏には心外だったようだが、せめてブロガーには一般に歓迎されない「とおりすがり」というHNではなく、identificationが容易なHNを用いて、どのような点を「逆陰謀論」と思ったのかを明記すべきだろう(想像はつくけれども)。コメント主がそれを怠っていたから、こちらは意識的に過剰反応したのである(笑)。最初と2回目のあのコメントでは、ブログ主と対話する気など最初からなかったというほかない。

*5:但し、ダ・ポンテの馘首をサリエリの讒言のせいにしてダ・ポンテにサリエリを恨ませた卑劣さにはどうにも感心しないし、それを信じたらしいダ・ポンテも愚かとしか言いようがないと思うが。

【ネタバレ満載】カズオ・イシグロ『クララとお日さま』詳論 〜 本作で一番戦慄した箇所は第四部中ほど(全体の3分の2くらい)のある場面だった

 前回取り上げたカズオ・イシグロの『クララとお日さま』について、sumita-mさんのブログが弊ブログへの言及を含む記事を下記記事を公開された。それに触発されて、この小説についてもう少し書くことにした。

 ところで、今回の記事のタイトルに【ネタバレ満載】と銘打った。これは、弊ブログの読者の方にはできるだけ本作を予備知識なしでお読みいただきたいと思うからだ。本作はミステリではないし、作者のカズオ・イシグロ自身はネタバレ大いに結構というスタンスらしいのだが、私は本作のあらすじをあらかじめ知ってしまうと大いに興趣が削がれると思った。だから前回の記事では「これくらいは書いておいても大丈夫だろう」と思った箇所に限定して短い文章を書いたのだった。

 しかし、sumita-sさんが本作の内容にもっと踏み込んだ記事を公開されたので、私ももう少し踏み込んで書いてみたいと思った。そうすると、どうしてもこの本を読んだ時に「意表を突かれた」点に触れないわけにはいかない。その知識は未読の方にはあらかじめ知っていただきたくないと思うので、【ネタバレ満載】と銘打った次第。以上の理由により、本作をお読みでない方にはこの記事を読むことはおすすめしない。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 以下引用する。

 

(前略)古寺多見氏が『クララとお日さま』で注目した点と、私が印象的だと思った部分は違う。氏は語り手である「クララ」の「太陽神信仰」に注目している。

(中略)

さて、『クララとお日さま』で最も戦慄的なのは最後の最後。短い第六部だと思う。「お日さま」のご加護によって「ジョジー」の生命が恢復するというクライマックスが終わった後の後日談。ここで、メタ・ナラティヴ的な仕掛けが開示されるとともに、また新たな謎が喚起されて、物語はフェイド・アウトしていく。

 

URL: https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/03/25/085151

 

 第六部というと、クララが廃品置き場に置かれていることが明らかにされる箇所だろうか。

 そうだとしたら、それに関しては私は本作を読み始めた段階で想定したいくつかのエンディングの一つだったので、「やはりそうきたか」と思ったのだった。前回、2021年7月に読んだイシグロ作品『わたしを離さないで』からの類推で想定したものだ。

 この暗転については石田純一氏の下記記事が詳しく論じている。

 

www.vogue.co.jp

 

 上記記事は前回も取り上げたが、前回は埋め込みリンクにはしなかった。その理由は、埋め込みリンクにすると「人ならざる存在が人間の少女を救う」と書かれた文章が目に入るからだ。その救済の部分は第六部に次いで短い第五部にあり、ここで物語は大きく転回する。しかし、まるでアガサ・クリスティのミステリのように、物語は再度大きく転回する。それが第六部だ。クリスティ作品でのそれを、私は「多段どんでん返し」と勝手に名付けている。それは、松本清張なども愛用したミステリの王道パターンの一つだ。私は本作を読む前位に各部の長さを確認し、第五部と第六部が非常に短いことを知って、ここに何らかの仕掛けがあるんだろうなと思っていた。

 池田純一氏は書く。

 

だが、これはイシグロ作品にはよくあることなのだが、意地の悪いことに彼は、読後に、物語としてそれまで読んできた内容を、はたして額面通りに受け止めてよいのかどうか、はたと疑問を抱かせるような仕掛けを施してくる。

今回の場合は、物語で最後にクララが廃棄された場面が描かれたこと。クララは、ジョジーの「ズッ友」というわけではなかった。期間限定の未成年者向けのオモチャにすぎなかった。クララ=AFもまた、卒業すべき対象だったのだ。それまでジョジーに対するクララの献身的な行動を見守ってきた読者からすれば、この最後の場面は少なからず衝撃を受けてもおかしくはない。

 

URL: https://www.vogue.co.jp/change/article/vogue-book-club-klara-and-the-sun

 

 氏が書く通り、「イシグロ作品にはよくあること」なので、私には覚悟ができていたのだった。

 しかし、本作には私が想定できなかった大きな転換点が一つあって、私はそれに大きな衝撃を受けたのだった。それは本作で最も長い第四部(文庫本で130ページある)の途中、全体の3分の2ほどの箇所にある、ジョージー*1の母親・クリシーがジョージーのためを偽装してAFのクララを購入した真意を作者に知らされた時だった。

 作品の舞台である未来のアメリカ(とおぼしき地)においては、子どもは「向上処置」を受けるかどうかで選別される。これについて池田氏の記事から引用する。

 

階層社会への批判。

 

この小説世界の子どもたちは、ある年齢になると、「向上処置(リフト)」するかどうかの選択を迫られる。向上処置は、いまでいうゲノム編集技術によってなされるもので、イシグロが執筆の際にイメージしていたのはCRISPRだった。

 

ちなみにCRISPRの開発者であるジェニファー・ダウドナ教授(米カリフォルニア大学バークレー校)とエマニュエル・シャルパンティエ教授(独マックスプランク研究所)の2人の女性研究者は2020年のノーベル化学賞受賞者である。イシグロは、このCRISPRのような安価ゆえに普及が早いと見込まれる技術を今回の作品で採用し、近未来としての現実感を醸し出すことに成功している。

 

ところで、今、向上処置を選択するといったが、この選択は、事実上、その子どもの家庭の裕福さによって決まる。つまり、金持ちの家の子どもは、向上処置をした上で大学に進学し、上層社会での人生に歩みだす進路が与えられる。それが当然の社会となっている。イシグロのいるイギリスで伝統的に繰り返されてきた、「オックスブリッジ」──開校以来800 年以上の伝統をもつオックスフォード⼤学とケンブリッジ⼤学の総称──の卒業生から統治階級が再生産される社会の未来版である。

 

ただし、ゲノム編集に基づく向上処置には副作用による病が生じることがある。つまり、向上処置の判断にはリスクが伴う。だが、向上処置なしでは大学進学の道はほぼ閉ざされてしまう。そうなると、子どもの将来のこともさることながら、上層階級の親の見栄から向上処置がなされることも実際には多いことだろう。ここには、メリトクラシー(能力・業績主義)による階層社会の正当化という方便に対するイシグロの批判が込められていると⾒てよいだろう。

 

その点で気にかけるべきは、『クララとお日さま』の舞台がイギリスではなくアメリカであることだ。イシグロの見立てでは、自由で平等な社会として始まったはずのアメリカも、AIやゲノム編集技術を経て、イギリスのような階級社会へ転じていくのだ。

 

URL: https://www.vogue.co.jp/change/article/vogue-book-club-klara-and-the-sun

 

 ジョージーは富裕層に属するので、母親のクリシーは彼女に向上処置を受けさせたが、彼女にはサリーという姉がいて、サリーは向上処置の副作用で死んでしまったのだった。

 それでもサリーを忘れられないクリシーはサリーの人形を作らせたが、それは捨てられてしまったらしい。しかしクリシーによると、ジョージーはそのサリーの人形を覚えているという。

 姉に次いで妹のジョージーも向上処置の副作用で生命の危機に晒された。このことは物語の最初の方で提示される。第一部から第四部に至るまで、ジョージーの状態は悪化の一途をたどるが、第四部でクララを購入したクリシーの真の狙いが明かされる。それは本物そっくりのジョージーの人形に、ジョージーの思考やしぐさなどを学習したクララのAI(人工知能)を埋め込み、ジョージーの代わりにすることだった。

 これにはさすがに戦慄させられた。なんてことを考えるのか。結局こいつ(クリシー)が考えていることは娘のためではなく自分のためなのかと腹も立った。この展開は全く予想していなかったので意表を突かれた。

 それと同時に、何かが起きてジョージーが助かるのなら、それはクリシーにとってはクララが用済みになることを意味するから、そうなればクララは(クリシーに)廃棄されるであろうことは当然予想できた。だから第五部でクララの信仰が通じて奇跡が起きたあと、第六部での廃品置き場行きに「やはりそうきたか」と思ったのだった。

 リアリズム的にいえばジョージーがクララの廃棄に反対しなかったことは仕方ないだろう。それは私が13年使ったiMacを昨年更新した時の感慨のようなものだ。それよりもクララの廃棄を決めたのが明らかにクリシーであることに私は注目した。ほんと、このクリシーってどうしようもないやつだなと。

 本作でやりきれないのは、幼い頃から相思相愛だったジョージーとリックとが別々の階級に属するために疎遠になってしまうことだ。リックにとってはジョージーとは死別か別々の階級に属することによる別れかのどちらかしかなかった。クララとリックの願いがかなってジョージーは回復したが、その後のクララとリックに待ち受けていたのは幸せではなかった。それが階級社会というものだ。

 イシグロの作品にはいつもこうした「階級」に対する批判が強烈に込められている。それは『わたしを離さないで』もそうだし、多くの読者、というよりも日本では大部分の読者が誤読している(と私は断言する)『日の名残り』では特にそれが顕著だと思う。そして『日の名残り』にはそれに適応しようとする個人に対する強烈な批判も込められている。それが「信頼できない語り手」という手法を通じて表現されているわけだ。

 ジョージーとリックの選択において選択をしたのは常に親だった。ジョージーの母・クリシーはサリーの死にもかかわらずジョージーの時にもサイコロを振ったが、リックの母ヘレンはサイコロを振らなかった(富裕層から外れてしまってサイコロを振れなかったとの解釈も可能だ)。しかしヘレンはリックと一緒にバンスという知人に「向上処置」を受けていない生徒も受け入れる名門大学への縁故入学を頼みに行く。そしてリックを問い詰めるバンスに「そう、わたしたちは依怙贔屓をお願いしてる」と言い放ち、リックに対しては「バンスに頼んでいるのはおまえではなくわたし。で、求めているのは依怙贔屓。もちろん、そうなのよ」と言う*2

 ジョージーが今まさに死のうとしている時にクリシーがリックに言い放つ「あなたはいま自分が勝ったように感じているかしら」*3という言葉ほど腹立たしいものはない。ヘレンもそうだけれど、クリシーはもっとあからさまに「親のエゴ」をむき出しにする。

 だから、ジョージーが助かったことは良かったけれども、クリシーって本当に腹立つよなあ、と思わずにはいられない。

 そういえば似たような類型の人間が思い浮かぶ。私が思い出したのは、息子の音楽の才能を利用してハプスブルク家の宮廷に一家で入り込んで安楽な晩年を過ごそうとたくらみ、それを女帝マリア・テレジアにもののみごとに見抜かれたレオポルト・モーツァルトだった。そしてベートーヴェンの父親もカール・マリア・フォン・ウェーバーの、息子同様貴族を僭称した父親(モーツァルトの妻コンスタンツェの叔父)も息子にスパルタ教育を課した。ウェーバーなど上の二人の兄はうまくいかなかったのが三男で成功すると、父親はこの息子に寄生した。とんでもない悪党である。

 科学技術と人間の尊厳(というより優生思想の問題か)や、階層社会あるいは階級などの大問題に加えて、いつの世にもこの手の親のエゴには手がつけられないのかもしれない。

 そうそう、あやうく書き忘れるところだったが、『クララとお日さま』で一番大きな謎だと思ったのは、ジョージーが「お日さま」の恵みを受けて回復する場面で、家政婦のメラニアさんがそれを阻止しようとすることだった。なぜジョージーの側に立っているはずの彼女はそれを阻止しようとした(つまりジョージーを死なせようとしたのか)がよくわからなかったのだ。

 それは、ジョージーが社会階層の中で自分の手の届かないところに行ってしまうのを阻止したかったのかなあという仮説を立てているが、この仮説には全然自信がない。

 おまけ。宮部みゆきの『誰か Somebody』(文春文庫,2007;単行本初出実業之日本社2003)を一昨日(24日日曜日)に一気読みした。ネット検索で文春のサイトが引っかからないので読書メーターにリンクを張る。

 

bookmeter.com

 

 宮部みゆきを「基本的に善人」と評する人もいるが、彼女には本作のようなやりきれない作品が少なくないんだよね、との感想を持った。この作品にも姉妹が出てくる。

*1:訳者の土屋政雄氏はJosieを「ジョジー」と表記しているが、おそらく作品の舞台として想定されているアメリカでは、いやイギリスでもそうだろうと思うが、発音は「ジョウジー」の方が原語に近いだろう。しかし日本語の文章における見栄えの問題から私は「ジョージー」と表記したい。この表記にこだわるのは、私が1993年にカリフォルニアに2か月滞在した時の出張先にこの名前の印象的なヒスパニックのtechnicianがいたからである。Josieが彼女のもともとの名前ではなかった可能性がかなりあると思うが。

*2:ハヤカワ文庫版394頁

*3:ハヤカワ文庫版439頁

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(2021) を読む

 今回は前回に予告したモーツァルトシリーズの最終回(『魔笛』篇)は先送りして、久しぶりに音楽と関係ない本の話題。

 カズオ・イシグロの『クララとお日さま』(ハヤカワepi文庫, 2023)、これは昨年8月に文庫化され、本を買ったのは10月頃だったと思うが、ようやく読む時間がとれたので、日曜日(17日)に読み始めて今朝読み終えた。イシグロのノーベル賞受賞後第一作で、単行本初出は2021年だった(イギリス、アメリカ、日本の3国で同時発売)。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 イシグロの小説を読んだのは4作目(すべて長篇)。ロボットのクララの一人称で語られる物語というだけで、2021年5月に読んだ『わたしを離さないで』(2005)が直ちに思い出された。ディストピア小説であり、その点ではジョージ・オーウェルの伝統を汲むイギリスの作家らしいといえるかもしれない。

 主人公(語り手)がロボットであること以外は予備知識なしで読んだのが良かった。『日の名残り』(1989)を超えるとはいえないが、これまで読んだイシグロ作品の中では同作に次いで良かった。つまり一般の評価の高い『わたしを離さないで』よりも良いと思った。余談だが、私はイシグロの作品を読む度に、以前弊ブログに取り上げての『日の名残り』の誤読の状況は少しは改善されているだろうかと見にいくのだが、今回見たらここの「誤読の殿堂」ぶりは今までにも増してひどくなっていた印象を受け、大いに落胆した。やはりこの国の読書家たちも「飼い慣らされる」ことが好きなんだなあと。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

bookmeter.com

 

 『クララとお日さま』や『日の名残り』などのイシグロ作品はもちろん、19世紀のチャールズ・ディケンズについても、イギリスの小説を読む時には階級や格差等の視点を欠かすことはできない。また『日の名残り』のように第二次世界大戦に対する読者の歴史認識が問われる場合もある*1。しかしそれらに思いが至らない本邦の読書家たちが多すぎるのではないだろうか。

 『クララとお日さま』については、これ以上余分な情報を書きたくないので一点だけ特に注目したことを書くと、登場する人間たちの誰一人からも宗教心など欠片も感じられないのに対し、ロボットのクララが強い太陽神信仰(のようなもの)を持っている設定になっていることが興味深かった。自らが太陽光エネルギーによって駆動されるからという作者の理屈なのだろうが、とても皮肉が効いている。

 あとは、ネット検索で感心した書評を以下にリンクしておく。できれば本作を読む前にご覧いただきたくはないけれど。なお、埋め込みリンクにするとネタバレの文章が表示されるようなので、下記の形式のリンクにした。

 

 

 イシグロ自身は自作のネタバレなど全然問題ないと言ってはいるが、やはり本を読む場合にはできるだけネタバレはない方が良いだろう。

 アガサ・クリスティなどミステリを主に書く作家の作品は特にそうで、今年に入ってから読んだ『終りなき夜に生れつく』などは、ミステリなのか普通小説なのかもわからない予備知識ゼロの状態で読んだのが大成功だった。何しろ、図書館の書架に並んでいるタイトルを見て、勝手にメアリ・ウェストマコット名義の作品かと思い込んでいたくらいだった(さすがにそうではないことは読む前に知った)。

 イシグロ作品はそれらクリスティ作品と同じハヤカワ文庫に収められているので文庫本としてはサイズも文字の大きさも大きく、かつ土屋政雄氏の翻訳文も読み易い。

 

 今回は記事の本編が比較的短かったので、弊ブログにいただいたコメントをいくつかご紹介する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 片割月  

kojitaken様、コメントありがとうございます。

>「説教を読まされたら嫌だなあ」と思って長年敬遠していたのを昨年になってやっと読んだら、あまりの面白さに驚いた次第です。

私も若い頃には敬遠していました。しかし、「クロイツエル」もそうですが、他にも御存知かもしれませんが、「イワン・イリッチの死」という、ある凡庸な官吏が病気であっけなく死んでしまうというお話しですが、生きるとは?という根本的な問いに満ちた傑作と思います。

トルストイドストエフスキーも長編ばかりが読まれ、絶賛されますが、中・短編にも名品がありますね。ドストエフスキーの「永遠の夫」や「賭博者」なんて、テーマが明快なだけにインパクトがあります。

先日、映画化もされ有名になった村上春樹の「ドライヴ・マイ・カー」を読んだとき、「あ、これはドストエフスキーの『永遠の夫』をかなり参考にしたな」と分かりました。

ちなみに、私は村上春樹はあまり好きではありません。何冊かは読んでいますけど。この人、女性を「都合の良い女」みたいに仕立てているのが随所に見られ、如何にも通俗的で非文学的だし、不快なんですよね。

 

 トルストイの「イワン・イリッチの死」とドストエフスキーの「永遠の夫」は未読です。ドスト氏の「賭博者」は1992年頃に読んで大いにウケました。ドスト氏もそうですが、モーツァルトも賭博狂で、彼の晩年の借金は多くは賭博のせいだと聞いたことがあります。

 ドストエフスキーでは、短篇や中篇ではなく長篇ですが、2010年に読んだ『虐げられた人々』が印象に残りました。5大長篇を書く前の作品で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番が効果的に使われています。2010年5月にメインブログに取り上げました(下記リンク)。短い記事ですが。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 村上春樹は当たり外れが大きいと思います。私は長年食わず嫌いで、2012年に『ねじまき鳥クロニクル』を読んで「当たり」と思いましたが(この作品はロッシーニシューマンと、モーツァルトの『魔笛』を上中下巻のモチーフにそれぞれ取り入れています)、次に読んだ『ノルウェイの森』が大外れで、そのせいでまた村上の長篇を数年間読まなくなりました。その後『ハードボイルド・ワンダーランド』系の作品は読めて、しかもかなり面白いとようやく思えるようになった次第です。『騎士団長殺し』はモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』がモチーフで、かつ作者がドンナ・アンナが父の仇であるはずのドン・ジョヴァンニに当たる人物を助ける設定にしたのは何故だろうか、もう一度読んだらわかるだろうかと思うようになった次第です。

 一方イシグロの長篇はこれまで4冊読んで外れなしなので、やはりイシグロの方が村上よりも上なのではないかと勝手に思っています。しかし村上は音楽に関する感性が独特なんですよね。シューベルトピアノソナタ第17番を小説のモチーフにした上、この曲についての評論を書くなど。しかもその評論集はジャズ、ロック、クラシックの3本立てで計10件(ジャズ4、ロック、クラシック各3)。そして関西の他の土地の出身にして育ちが阪神間、それなのにスワローズファンになったという点に親近感もあるので、どうしても受けつけない『ノルウェイの森』などがあるにもかかわらず無視できない作家です。あの人は被部落差別が近くにあることを17歳になるまで全く知らなかったと言っていましたが、ずっと阪神間に住んでいる人は他所から来た人間にはなかなかそういうことを教えないことは私も知っています。でも17歳とはあまりにも遅いなあと思うのですが、それはおそらく年齢差によるもので、村上の小中高時代と私のそれは時期が全く重なりませんので、おそらく村上の頃には同和教育が全く行われていなかったからなのでしょう。そういう世代的な弱点が村上にはあるかもしれません(だから村上は阪神間での部落差別の認識のなさについて中上健次に怒られたそうです)。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 とおりすがり

このところ、拝読していて…
ある意味、逆・陰謀論的かと思わされてしまいます
ウィーンで新参者が受け入れられなくて、被害妄想に陥るのは無理もありません。
オポルトも、現代の「慶応虐待」とでもいえるかもしれませんが…
ショスタコーヴィチは、自身も消される恐れがあり、他に多大な迷惑をかけてしまうような危ない時期を、2回も、なんとか乗り切った。
「反形式主義的ラヨーク」で勘弁してあげてください。
娘と息子は、父が泣いている姿を見たのは、最初の妻が死んだときと、共産党に入党させられた時だ、といっています(『わが父ショスタコーヴィチ 初めて語られる大作曲家の素顔』 ガリーナ・ショスタコーヴィチ、マキシム・ショスタコーヴィチ(語り)、ミハイル・アールドフ著 田仲泰子監修 音楽之友社)。
一面、ショスタコは色男でならしてたそうですね。
カルメン交響曲は特にその成果でしょう(笑)

 

 とおりすがり

すみません
訂正です
「逆・陰謀論」は言い過ぎでした。
以下、文末に付け足しです
彼らに、そう、難きを強いなくてもいいのでは…

 

 取り消されたとのことですが「逆・陰謀論」には苦笑しました。

 まあモーツァルトといえば世間一般ではまだケーキ&カフェの喫茶店だとか(私の近所だと錦糸町にもありますが)広島の洋菓子店だとかで、甘いとか優しいとか明るいとかきれいなとかいうイメージなんでしょうし、大作曲家たちの間でさえ、独墺系の人たちはともかくロシアのチャイコフスキーあたりだと、当人はモーツァルティアンのつもりだったらしいけれどもどうやら「軽く明るく美しい」程度のイメージしか持っていなかったらしいとして後世から批判されているわけで、それらがいってみれば「顕教」なんだと思います。専門家筋や熱心なファンの間では(つまり「密教」では)、そんなチャイコフスキーへの批判だとか、百以上の台本から『フィガロの結婚』を選んで、しかもダ・ポンテが消した毒を復活させたモーツァルトに貴族に対する批判を認めるあたりまではもはや常識の範疇に入ると思います。それをさらに『ドン・ジョヴァンニ』や『魔笛』に当てはめて、特に後者についてはモーツァルトが市民革命をアジっていたのではないか、みたいな考え方をする人もいるわけで、そこまでいくと仮説の域を出ないと私は思いますが。つまり、弊ブログの一連の記事に違和感を持つ感性のほうが因襲によりとらわれがちだといえるのではないでしょうか。

 これについては、この記事の最初に取り上げたカズオ・イシグロの最高傑作といわれる『日の名残り』を「『品格ある執事』を目指して『執事道』を追求した初老男性が語る静謐な物語」ととらえるのが「顕教」で、大学の文学部英文学科などでは普通に教えられているであろう「信頼できない語り手」の技法を用いた小説だとする認識が未だに「密教」にとどまっていることと対応しているように思います。しかも『読書メーター』などでは前者が圧倒的多数で、その傾向は何年経っても全然変わらないんですよね。これには本当にがっくりきます。

 ショスタコーヴィチについては、作曲者への批判を弊ブログは亀山郁夫氏の指摘を引用した程度しか行っていません。亀山氏は筋金入りのショスタコーヴィチ愛好者ですから、その人による作曲家批判が厳しすぎることは全くないと私は思いますが。むしろ、かつて西側から御用作曲家とされてきた(東側からは社会主義リアリズムを実践する偉人とされてきたようですが)作曲家が、時代が変われば少し批判しただけで厳しすぎると言われるようになる両極端になってしまっているのは、決して健全な状態とはいえないと思います。

 なお私はショスタコーヴィチの愛好家だというさる野党幹部(現在は「議長」に収まっている)を批判する時に、「ショスタコーヴィチの音楽の一部に見られるような暴力性を感じる」としばしば書きますが、この人物の場合はショスタコ氏とは違って政治的主張による生命の危機に直面したことなどあっただろうかと思わせる人物で、それにもかかわらず昨今は党内で恣意的かつ正当性をあまり認め難い権力行使を繰り返しているわけで、この場合はショスタコしではなく「恣意」氏を主なターゲットにしています。

 一方で、私より二回りくらい下の世代の女性である、かげはら史帆さんや高野麻衣さんらのように、私と同世代または上の世代のクラシック音楽関係者やファンの間に根強くあった旧弊の権威主義に全くとらわれない人たちが出てきていたこと、それはほんの少し前に知ったばかりなのですが、大いに心強いことだと思います。個人もその個人が属する世代も、乗り越えられるべき存在だということです。

 コメント欄への返事の方が長くなってしまったかもしれません。今日はここまで。

*1:読者の歴史認識がしっかりしていれば「『執事の品格』を貫くスティーブンス万歳」的な能天気というか間抜けな感想など出てくるはずがなかろうと私などは思うのだが。

モーツァルトには革命前夜の時代の空気をかぎとり、オペラで貴族が謝罪・破滅する物語を描いた先進性や、信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心があった(高野麻衣氏)

 昨年10月末に突然かつてのモーツァルト熱を再燃させて現在に至るが、年度末でもあり、弊ブログのモーツァルト関連記事に一区切りをつけることにした。

 私は10〜20代の頃にモーツァルトの音楽にずいぶん嵌ったが、痛恨なことに当時の私は人間に対する関心が薄かったため、モーツァルトの音楽には興味があっても「人間モーツァルト」への関心があまりにも低かった。しかし、昨年来いろいろ調べてわかったことは、モーツァルトほど興味深い人生を送った作曲家はほとんどいないことだった。唯一比較できるのは14歳年下のベートーヴェンくらいではなかったか。そのベートーヴェンに関しては青木やよひ氏の本を読んだことがあったが、モーツァルトについては1984年に出た下記新潮文庫を読んだ程度で、この本もおそらく処分してしまって手元にはないと思う。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 しかし、当然ながら世のモーツァルティアンは私のような迂闊者ばかりではなかった。たとえば高野麻衣さんという方が書かれた下記記事を読んで私はたいへん感心した。2017年に公開された英国/チェコ合作映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』を評した記事だ。私はこの映画の存在さえ知らなかった。

 

mai-takano.com

 

 以下一部を引用する。

 

アマデウス』やあまたの「音楽家を身近に」キャンペーンによって、女好きでちょっと下品な変わり者のイメージが打ち立てられてしまったモーツァルト

だが、私はそれよりも、革命前夜の時代の空気をかぎとり《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》(=貴族が謝罪・破滅する物語)を描いた先進性だとか、そうした信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心だとか、それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズムだとか、そういう「モーツァルトの素顔」がもっと、広く知られるべきと思っている。

そして、そういうモーツァルトと変わり者のモーツァルトのあいだにあるギャップにこそ、この音楽家の魅力は詰まっていると思う。バーナードのモーツァルトは、それを体現していた。

この、迷子のような表情を浮かべた彼を見たとき、「ああ、これがモーツァルト」という天啓が聞こえたほどだった。

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 まさにモーツァルティアンの鑑! これほど心から共感できるモーツァルト評には出会ったことがない。それほど強く印象に残る文章だった。先進性や反骨心だけならベートーヴェンにはあるいは勝てないかもしれない。しかし「それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズム」、そうだ、それがモーツァルトなのだ。だが後者だけ見て前者が見えない人たちが多すぎる。この記事を書こうとして、そういえばチャイコフスキーに『モーツァルティアーナ』という題の管弦楽組曲があったよなあと思い出して調べたら、Wikipediaチャイコフスキーモーツァルトをわかっていなかったと批判した文章があったのを見つけて、チャイコさんには悪いけれども溜飲を下げてしまったのだった。以下に引用する。

 

『モーツァルティアーナ』には「過去を現在の世界に」再創造したいという願いを込めたのだと、チャイコフスキーは出版社のユルゲンソンに書き送っている。しかしながら、イーゴリ・ストラヴィンスキーが行ったように自らの様式で音楽を作り変えることはせず[注 2]モーツァルトの楽曲を補強することもなかった。とりわけ、後の時代から見た際にチャイコフスキーが目的を果たし損ねたと感じられるのは、第3曲の「祈り」(Preghiera)である。彼はモーツァルトの楽曲を直接使わず、フランツ・リストモーツァルトの音楽を独特な方法で扱った『システィナ礼拝堂にて』S.461という作品を素材として用いた。その結果、今日ではモーツァルトが書いた清澄かつ繊細な原曲の扱いとしては、あまりに感傷的で華美であるという評価が一般的となってしまったのである[8]

 

ジグ」と「メヌエット」の書法は効果的である。しかし、これらを開始の2曲に選択したという事実からは、チャイコフスキーも当時の人々の多くと同じように、モーツァルトの軽妙な面と深遠な面の区別が十分につかなかったのだと考えることができる。最終の変奏曲ではモーツァルトがこの主題を用いて探究した点のいくつかについて、チャイコフスキーは特徴的な色鮮やかな管弦楽法によって描き出すことに成功している。それでもなお、モーツァルトが深みを持つというよりむしろバロックの可憐さを象徴するものとして立ち現れるのである。一見するとモーツァルト音楽の真の力量や多様性にチャイコフスキーの目が向いていない様に見えることの原因は、彼の心理状態が沈みがちに過去を振り返り、それを失われた純粋さや至福と結び付けずにおれなかったという点に求められるのかもしれない。このため、彼は単純に感傷的な視点へと避けがたく傾いていったのである[9]

 

URL: 組曲第4番 (チャイコフスキー) - Wikipedia

 

 弊ブログによくコメントを下さる片割月さんとのやりとりにも書いたことだが、私も昔からモーツァルトベートーヴェンとの断絶よりも連続性に関心があった。しかし『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』を「貴族が謝罪・破滅する物語』ととらえてそれを評価する視座など持ったこともなかった。最近になって水谷彰良氏が2004年に出したサリエリ(サリエーリ)の伝記を読んで、王侯貴族に引き立てられて不満を持たなかったサリエリには持ち合わせがなかった毒が『フィガロの結婚』には込められていて(それも台本作家のダ・ポンテがいったん消した毒をモーツァルトが復活させた)、それがオペラが後世から評価される理由だろうという意味のことが書かれているのを読んで、自らの不明を恥じたのだった。もっとも吉田秀和NHK-FMの番組でもモーツァルトはなぜ明るい『フィガロの結婚(K492) を書きながらそれと並行してハ短調のピアノ協奏曲第24番 (K491) を書いたのだろうかなどと言っていた。

 

モーツァルトの「かなしさの疾走」は、映画後半にかけて急激に高まっていく。 

 

本作のおもしろさは、モーツァルトが探偵役を務めるミステリーでもあることだ。ある父親と娘を襲った悲劇—―そしてもうひとつの悲劇を線で結び、証人たちから話を聞き、真実を解き明かしていくモーツァルト

 

そして、元凶であるサロカ男爵(=貴族)を断罪するため、この名探偵(=平民)にできるのはペンを執ることのみ。墓地にそびえる石像を見つめるモーツァルトのなかに、《ドン・ジョヴァンニ》の主題が降りてくる一連のシークエンスは必見だ。

 

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 へえ、そんな映画なのか。それは是非一度視聴してみたい。

 

ドン・ジョヴァンニ》に新しい解釈が加わったことも、大いなる収穫だった。

ここ数十年はやはり『アマデウス』の影響か、「騎士団長殺し(=父殺し)」をした大罪人が地獄に堕ちるという《ドン・ジョヴァンニ》の筋書きに、ステージパパ・レオポルトに逆らったモーツァルト自身の後悔を読み解くのが定説のようになっていた。前述の村上春樹の小説も、この父殺しとのリンクが指摘されることが多い。

しかし、真相はわからない。サロカ男爵の事件はもちろんフィクションだが、同じように貴族の横暴への怒りがあったかもしれない。もっと新しい、隠された事件があったかもしれない。歴史に定説なんかないのだ、とあらためて思わされる。

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 「ステージパパ・レオポルトに逆らったモーツァルト自身の後悔を読み解くのが定説のようになっていた」とは聞き捨てならない話だ。モーツァルトドン・ジョヴァンニを自らに重ね合わせていた可能性ならあると思うが、モーツァルトはオペラの主役であるドン・ジョヴァンニと同様、レオポルトに逆らったことを後悔など絶対にしなかったはずだと私は確信している。そもそもレオポルトこそ、コロレド大司教マリア・テレジアと並ぶモーツァルトの生涯における三大障害物の一つだったではないか。モーツァルトはあのように生きるしかなかったのだ、と私は思う。

 ところで先日その『ドン・ジョヴァンニ』のDVDを視聴しながら、モーツァルトは書きながらドンナ・アンナに姉のナンネルを重ね合わせていたのではないかと思った。レオポルトはヴォルフガングに背かれたあと愛情の対象をマリア・アンナ(ナンネル)に移し替え、それがナンネルの結婚を遅らせた上、彼女を生涯ザルツブルクに縛りつける原因になったのではないか。モーツァルトとコンスタンツェの結婚をレオポルトもナンネルも喜ばず、1778年の母アンナ・マリアの死をヴォルフガングのせいにしたレオポルトの悪影響も受けたか、あれほど仲の良かった姉弟モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』を書いた頃にはすっかり疎遠になっていた。ヴォルフガングは姉の結婚式には出席せず、父の死に目にも会わなかったが、後者はナンネルがヴォルフガングに知らせなかったからだとも言われる。そしてヴォルフガングの葬式にもナンネルは出なかった(コンスタンツェも体調不良だかで出なかったとされる)。このようにモーツァルトの死に方は悲惨だったが、真に地獄に落ちるべきは彼よりもレオポルトではなかったかと私などは思うのである。

 そういえば先日CDを整理していたら、一枚も持っていなかったと思われるレオポルト・モーツァルトの作品が収められたCDが出てきた。それはウィントン・マルサリスがレイモンド・レッパード指揮イギリス室内管弦楽団との協演で1983年に録音したハイドンやフンメルらのトランペット協奏曲集で、ハイドンの名曲の直後にレオポルトの作品が収められていたのだった。出谷啓氏の解説には下記のように書かれている。

 

彼は有名なヴァイオリンの教則本を残しているが、現実的で計算高かった性格からか、その作風はむしろ保守的で、さまざまな種類の作品を書いたが、フランス・スタイルのロココ趣味の香りをうかがわせている。

 

 抜群のインテリにして音楽理論にも精通したレオポルトだが、作曲の才能は大したことがなかったらしく(とはいえヴォルフガングの少年時代の交響曲では、父子のどちらが作ったかで意見が分かれるレベルの作品を書くことはできた。だがおそらくは保守的な性格ゆえにその先には進めなかったのだろう)、彼のトランペット協奏曲も全く印象に残らなかったのだった。

 

 もっともコンスタンツェやアロイジアを生んだウェーバー家もレオポルトがナンネルが嫌った理由も全くはわからなくはない怪しげな面は確かにあった。

 たとえば大作曲家のカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)はコンスタンツェらの父方の従弟だが、私がふと気づいたのは「なぜ写譜屋の家のいとこの名前に貴族を表す『フォン』がついているんだろう」ということだった。これは彼が貴族を僭称していたからに違いないと思ってネット検索をかけたら案の定だった。下記はサンノゼピアノ教室講師の井出亜里氏が書いた記事へのリンク。

 

jweeklyusa.com

 

 以下引用する。

 

 子供を大音楽家にしたいあまり教育に力を入れすぎ、害にもなる親がいます。古くはベートーヴェンの父ヨハン。記憶に新しいのはマイケル・ジャクソンの父ジョゼフ。今月は、彼らに劣らぬ迷惑親父に翻弄された作曲家、カール・ウェーバーをご紹介します。

 

 “魔弾の射手”や“舞踏への勧誘”で有名なウェーバー。1786年11月18日、ドイツでウェーバー家の三男として生まれます。病弱で、小児麻痺を患い片足が不自由でした。フルネームはカール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ウェーバー“フォン”は貴族を表す称号ですが、ウェーバーの家系は貴族ではありません。父フランツは1600年代に先祖が男爵に叙せられたと言うのですが、どうも怪しい。フランツの兄はフリドリン・ウェーバーですし、父も同名のフリドリン・ウェーバー。“フォン”はどこにもありません。フランツのでっちあげだろうと研究者は見ています。男爵は男爵でもホラ吹き男爵の父を持つとどうなるか。見ていきましょう。

 

 ウェーバーの父フランツの夢はベートヴェンの父と同じものでした。それは「第二のモーツァルトを生み出し一攫千金」。自身も音楽家だった父親です。名声と富は勿論、もう一つ、強力な動機がありました。姪の結婚相手がモーツァルトその人だったのです。つまり、兄の娘がアマデウスモーツァルトの結婚相手。あの悪妻として名を馳せたコンスタンツェです。兄には負けられぬ。モーツァルトに続けとばかりに長男次男をハイドンに弟子入りさせますが、双方神童には程遠い。そこへ生まれた三男カール。是が非でも大音楽家にしなければならぬと一層の音楽教育を施しました。学校へは行かせず、著名な音楽家に次々と弟子入りさせたのです。それが実ってカールは貴族の家に招かれる演奏家になりました。

 

美しいバリトンヴォイスは戻らない

 

 17歳のカールは社交界でも大人気。ピアノもギターも達者な上、美しいバリトンの歌声で上流社会に馴染んでいきます。一方、オペラを作って発表していたものの、こちらは鳴かず飛ばず。しかし貴族の後ろ盾も強力になり、劇場の楽長に任命されました。    
 悲劇が起こったのは20歳の時。訪ねた友人が瀕死のカールを見つけたのです。銅板印刷の研究をしていた父が、残った硝酸(医薬用劇物)をワインの空き瓶に入れ、棚に置きっぱなしにしていたのでした。知らずにラッパ飲みしたカールは喉から胃までを焼かれ、虫の息。病院で命は取り留めたものの、美しいバリトンは失われてしまったのです。

 

父により投獄、追放、夜逃げ旅

 

 健康を著しく害し、楽長の座を追われたカール。次の仕事は公爵家の記録係でした。音楽を仕事にできない不満はあっても2年間、実直に勤務。公金も任されるようになり、それを家に置いていたある日、嗅ぎ付けたのが父親です。借金取りに追われ、金の無心に訪れた息子宅で大金を発見。これは良い好都合と、持ち逃げしました。結果、カールは投獄され、その後父子そろって国外追放。罪人として公国を追われてしまったのです。

 

死してなお迷惑かけるダメ親父


 1810年、遂に好機が訪れました。オペラ“シルヴァーナ”がフランクフルトで大成功。名声を得たカールは各地への演奏旅行で1812年までにかなりの財を得ました。懐も暖かくなり、ほっと一息ついたところへ父死亡の通知。しかしタダで死なないダメ親父。莫大な借金を遺しました。借金取り達は一番余裕がありそうな三男の作曲家に群がります。カールは借金返済でスッカラカン。おまけに演奏旅行中。
 あわや異土の乞食か、と思われたその時、救いの手が差し出されました。プラハに指揮者として招かれたのです。ここで3年間、指揮者、芸術監督、ピアニストとして必死に働きました。

 

父親を反面教師に財のこす

 

 30歳で結婚、二児をもうけると、創作意欲はますます高まります。1819年にピアノ曲“舞踏への勧誘”、翌年にオペラ“魔弾の射手”を作曲。1821年にオペラが初演されるや、空前絶後の大成功。この演奏を聴いて、ワーグナーベルリオーズが作曲家を志したと言われています。しかし名声の代償は健康でした。この頃、体の異変を覚えたカールは結核に侵されたことを知ります。それでも1826年2月、単身イギリスへの演奏旅行を決意。オペラ「オベロン」の作曲依頼があったからですが、実は、病身を妻子から隔離し、彼らにまとまったお金を遺すためでもあったのです。
 4月12日の“オベロン”初演は成功し、病躯に鞭打って自らタクトを振り続けること11回。約2か月の契約は6月4日に完了しました。明日は帰国という6月5日の夜、精魂尽き果てたカールは、一人ロンドンで客死したのです。享年39歳。
 自分の父とは異なり、家族のために生きた彼の遺骨は18年後、ワーグナーの尽力により遺児マックスと共にドレスデンに戻り、今もそこで眠っています。

 

URL: https://jweeklyusa.com/8273/columns/sanjosepiano/

 

 ウェーバーの代表作『魔弾の射手』は1975年夏休みに放送されたNHK-FMのクラシック入門番組で序曲を初めて聴き、1982年頃に同じくNHK-FMでハイライトが放送された(おそらくカルロス・クライバー指揮)のをエアチェックしてよく聴いていた。なかなか良い曲が多いと思って結構気に入ったが、ここ40年ほどは聴いていない。CDも「舞踏への招待」が収められているのを1枚持っているかどうかというのと、ホルンの小協奏曲だったかリヒャルト・シュトラウスの1番と2番の協奏曲の余白に入れたのを持っている程度。しかも後者は名曲とは決していえない。あと、昔ジャズのベニー・グッドマンクラリネット協奏曲の1番2番を吹いたのを聴いたことがあるが、こちらはそこそこ良い曲だった。しかしこのジャンルにはモーツァルトの作品があるので、もちろんそれとは比較の対象にならない。そうそう、リヒテルが彼のピアノソナタの3番だったかを弾いたCDも持っているが、あまり印象に残っていない。組み合わされていたハイドンベートーヴェンソナタが目当てで買ったCDだった。

 彼の人生について、硝酸を誤飲して声が出なくなったことと、ドイツ・オペラの草分けとしてワーグナーに硝酸もとい称賛されたことは知っていた。ナチスの時代にはドイツで『魔弾の射手』が頻繁に上演されたものの、それが災いしてかどうか、戦後はあまり上演されなくなったとも聞く。しかし引用文に書かれているような苦難の人生だったとは全く知らなかった。

 それにしてもベートーヴェンの父親もそうだが、ウェーバーの父親は本当にどうしようもなかったらしい。こんな人がアロイジアやコンスタンツェの叔父だったのだ。これではレオポルトやナンネルの気持ちもわからなくもない。しかもコンスタンツェには、次回(とりあえずのモーツァルトシリーズ最終回)の『魔笛』編でも取り上げることになると思うが、『魔笛』に関する資料(史料)を湮滅した疑惑もある。この点ではベートーヴェンの不肖の弟子、シンドラーと張り合えるのではないか。最近モーツァルトについていろいろ調べている過程で、残念ながらコンスタンツェの株はかなり下がってしまったのだった。ハ短調ミサのクリステ・エレイソンや、なんといってもエト・インカルナートゥス・エストを歌ったらしいというのがコンスタンツェの好印象のポイントだったのだが、歌唱の技巧にやや難点があったとされる彼女はこれらを歌ったのではなく第2ソプラノだったのではないかとの説を高橋英郎氏が唱えていたらしいことを知って(まあ氏の説が正しいかどうかは知らないが)幻滅したという要因もある。

 でもまあウェーバーモーツァルトベートーヴェンとはまた全然違う苦悩の人生を送ったのだった。こうしていろいろ知っていくと、作曲家に短命の人が多いのもむべなるかなと思う。今回はウェーバーに同情したところで記事を終える。

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) を読む

 明日には図書館に返さなければならないので、水谷彰良著『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004)についてメモを残しておく。下記は2019年の復刊版へのリンク。

 

www.fukkan.com

 

 本文を始める前に、弊ブログにいただいた下記コメントを紹介する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

まやや&充実 (id:mayaya_jujitsu)

 

水谷彰良氏『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』は、数年前に自分がサリエリに関心を持った時に読んだ本の一冊です。水谷氏は日本におけるサリエリ研究の第一人者ではと思います。

サリエリモーツァルト毒殺は虚偽」ぐらいは知っていたのですが、いざサリエリを調べてみると、フランス革命を挟んで社会も音楽の世界も激変したこの時代に、革命前でも後でも第一線で活躍し続けた、音楽史においても相当な重要人物なのでは?と驚きました。
(自分にとってモーツァルトフランツ・リストは「全く別時代の人」というイメージだったのですが、サリエリがその両者と交流があったというだけでも驚き。)

サリエリで一番印象的だったのが、フランス革命を経て「貴族や王侯の音楽」から「市民の音楽」へと移行していく時代の中、音楽振興と音楽家たちの支援のためにウィーン学友協会の設立や発展にかかわっていたという点でした。
帝国宮廷楽長という「旧時代のドン」「権威の頂点」みたいな地位にいたサリエリが、新しい時代の流れに適応しようとし、後世の音楽家たちや音楽界のために活動していたのかという驚き。知るほどに興味深い人物だと思いました。

 

 本の内容については、2018年に発信された下記「はてなブログ」のエントリを参照されたい。これだけの内容のブログ記事を書くのにいったいどれほどの時間がかかっただろうか。大変な力作の記事だと感服するしかない。

 

tonikaku-read.hatenablog.com

 

 記事の末尾で、メゾソプラノチェチーリア・バルトリ(1966-)が2003年に録音した「サリエリ・アルバム」に言及されているが、私はSpotifyでそれを聴きながらこの記事を書いている。

 

open.spotify.com

 

 サリエリの音楽は、舞台を見ずに音楽だけ聴いても現代の耳にも十分聴くに耐えるものだ。それは断言できる。

 私はサリエリの生涯について何も知らなかった。それも「ほとんど知らなかった」というより「全く知らなかった」に近いレベルだ。なにしろ孤児だったイタリア人の彼がスカウトされて16歳からウィーンで働き始めたことさえ知らなかった。スマホのゲームにサリエリをモチーフにしたキャラクターが出てくるらしいことももちろん知らなかった。それがあったために2004年に刊行されたものの絶版になっていた本書が「再版ドットコム」から再販されたものらしい。

 前記はてなブログ記事に「君主ヨーゼフ二世の行なった劇場改革により、ヴィーンの劇場事情はドイツ語文化に傾斜。イタリア人であるサリエーリはしばし不遇をかこつ」と書かれているが、いくら啓蒙的だとは言っても専制君主にドイツ語の台本に音楽をつけろと注文されてはたまらなかっただろう。しかしその一方で、ヨーゼフ2世の母の女帝マリア・テレジアには書簡に「私は私たちの作曲家であるガスマン、サリエーリ、グルックたちよりも、イタリア人の作品を好みます。彼らもときには一つや二つ良い曲を書きますが、私は全体としては常にイタリア人のものが好きなのです」(本書37-38頁)と書かれる始末だ。これは本書を読んでいて一番腹が立ったくだりである。なにしろマリア・テレジアといえばモーツァルト(父子)をやはり書簡で乞食呼ばわりしてモーツァルトのミラノでの就職を妨害した人物だ。マリア・テレジアとは権力悪の化身のような人間だったに違いないと確信した。サリエリも、女帝にそんな風にみられていると知ったら憮然としたに違いない。自分はイタリア人なのに、なんで独墺系の専制君主にドイツ人呼ばわりされて差別されなければならないのか、と。人の世とはあまりにも不条理なものだ。

 そんなわけで、私はサリエリモーツァルトの確執よりも、権力だの階級だのに振り回される人間の悲哀が強く印象に残ったのだった。モーツァルトは父親の悪影響を受けて陰謀論に凝り固まってサリエリを敵視したが、そのように使用人同士が争ってエネルギーを無駄に使ってくれることこそ、権力や上位の階級の人間の思う壺なんだな、と思うばかりである。

 18世紀の西洋音楽というのはいうまでもなく王侯貴族を喜ばせるための音楽であり、19世紀のドイツを中心とした音楽では、王侯貴族に代わって作曲家が専制君主に地位についたといえるかもしれない。私はアンリ・ゲオンを読んだことはないけれども、大のモーツァルティアンだった彼がワーグナーを蛇蝎の如く忌み嫌ったのには、権力主義に対するゲオン流の反発があったからかもしれないと思った。1883年に死んだワーグナーはもちろん20世紀のナチス・ドイツとは(直接には)何のかかわりもないけれども、しかしながら彼の反ユダヤ人思想がヒトラーに強い影響を与えたことも事実だ。

 クラシック音楽にはそういう背景があるから、私と同世代くらいまでのクラシック音楽ファンにはやたらと権威主義的な傾向が強かった。だから私はクラシックは好きでもクラシック音楽のファンだのマニアだのには嫌いなタイプの人間の方が多かったくらいだが、私より若い世代の人たちがそんな呪縛から解放されつつあることにはつい最近気づいたばかりだ。

 そうはいっても、本書が読ませるのはやはりモーツァルトが出てくるあたりからだ。それに至るまでの記述は、何しろサリエリの音楽を知らないものだからいささか隔靴掻痒気味になるのもやむを得ない。

 そうそう、記事を書くBGMとして聴いていたバルトリサリエリ・アルバムが終わったので、今度は2021年にリリースされたオペラ『アルミーダ』(1771)の(おそらく)全曲盤をかけながら書いている。

 

open.spotify.com

 

 上記は初演当時サリエリ20歳の若書きの作品で(当時モーツァルトは15歳)、そう思って聴くせいか、いかにも古典派の時代にイタリア人の若者が書いたらしいみずみずしい音楽に聴こえる。誰だったかがモーツァルトの音楽はサリエリと比べると重厚に聴こえると書いていたが、確かにそんな気がする。

 本書で興味深いのは、同じボーマルシェ原作、ダ・ポンテ台本に音楽をつけたモーツァルトサリエリを対比して評したくだりだ。以下に本書から引用する。

 

(前略)つまり、(ダ・ポンテは=引用者註)兵士ではなく専制君主を主役に据えたのである。(中略)これによりボーマルシェの《タラール》の核心である危険思想は姿を消し、毒気を抜かれたごとく一般的なイタリア・オペラの筋書きになってしまった。その点でダ・ポンテは《フィガロの結婚》と同じ手法を用いたわけだが、唯一の違いはモーツァルトがダ・ポンテの抜き去った毒を音楽で回復しようと狙ったのに対し(後世が評価するのはまさにそこだろう)サリエーリはその意図を持たなかったことだ。しかし、これをもってサリエーリを責めるのは酷だろう。そもそも彼は皇帝の寵愛を受けながら宮廷作曲家としてキャリアを重ね、君主制と貴族社会になんの疑問も抱いていなかったからだ。ヨーゼフ二世は彼にとって理想的君主であり、その権威を貶めたり、疑念を喚起する作品を書こうと考えたことは一度もなかった。《タラール》も王立音楽アカデミーから与えられた台本に作曲しただけで、自発的に選んだわけではない。

 

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) 151頁)

 

 モーツァルトが100本以上の台本を検討した結果選んだのが『フィガロの結婚』だったことはよく知られている。まさにサリエリとは対照的だ。

 しかしヨーゼフ2世が1790年に死ぬと、次の皇帝レオポルト2世は一転してサリエリモーツァルトも冷遇した。このあたりが王侯貴族に振り回される作曲家が属する階級の悲哀だろう。サリエリモーツァルトが「和解」した最大の原因はこの専制君主の交代であったに違いない。疑う余地がない。

 この1790年というのはフランス革命が前年に始まった、西洋の歴史の転回点ともいえる年だ。作曲家の地位も、この頃を契機に飛躍的に上昇することになる。その典型例がハイドンだ。たとえば、下記サイトにはハンガリーハイドンが貴族のような生活をしていたかのように書かれている。

 

note.com

 

 以下引用する。

 

ハイドンに学ぶ!庶民の音楽家がすべきこと

 

実は音楽家という枠組みが特殊枠なのは
今にはじまったことではありません。

 

例えば大工の父と、料理人の母の間に生まれたハイドンは、典型例。

 

ハイドンは生涯のほとんどをエステルハージ家に仕え
その暮らしぶりもお付きの人がいたほど
エステルハージ家の人たちにかなり近い貴族の暮らしをしていたと言われています。

 

(中略)

 

ハイドンだってたまたまエステルハージ家の中で
特に音楽が好きな当主が多い時期に入り込めたけど
晩年音楽に興味のない当主に変わると、追い出されたりしています。

 

サリエリだって
モーツァルトに貴族お抱えポジションを奪われないように
必死でした。

 

モーツァルトは借金に追われ続けた晩年を過ごしています。

 

URL: https://note.com/kotaro_studio/n/n1f0d5b60c3ba

 

 だがそれは本当だろうか。

 たとえば、何度も引用する本だが、石井宏『反音楽史』(新潮文庫,2010)には下記のように書かれている。

 

 ハイドンエステルハージ家との雇傭契約書は現在まで保存されているが、それは十四条にわたり、どこの楽長職でも要求されたことのない厳しい条文が列記されている。

(中略)

第十二条 ハイドンは従僕たちと同じ食事をとることができる。その食事を取らない場合、一日当り半グルデンの食事手当が支給される。

 

(中略)また第十二条では、宮廷楽士たちが従僕たちと同程度の賄つきであったことがわかる。ザルツブルク時代のモーツァルトはこれが大嫌いだった。というのは彼はプライドが高かったらで、無教養でゴロツキのような従僕や楽士たちと一緒に食事を取るなどまっぴら御免なのであった。

 それからのハイドンは良く耐えた。

(中略)こうしてハイドンは波風立てずに58歳までの約30年間を二代にわたる主君にひたすら篤実に仕えた。1790年エステルハージ家の楽団は一旦解散され、ハイドンは1400グルデンの年金を終身支給される身分になった。少なからぬ額である。

 

(石井宏『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫, 2010) 260-264頁)

 

 上記引用文を読むと、果たしてハイドンエステルハージ家で「貴族の暮らしをしていた」かどうかははなはだ疑問だ。

 ハイドンの代表作の数々は、むしろ1790年にエステルハージ家の雇われ楽長の職から解放されたあとに、フリーランスの作曲家として活躍した時期以降の晩年に集中している。ハイドンはその後1794年に改めてエステルハージ家に迎え入れられたが、彼が「貴族の生活をしていた」とすれば、それはイギリスのロンドンで大成功を収めた実績のある彼に対して、エステルハージ家もそれなりの処遇をしないわけにはいかなくなったからではないのだろうか。つまり1794年以降の話ではないかと私などは思うのである。

 しかしモーツァルトは生きてその時代を迎えることはできなかった。

 そしてサリエリサリエリで、死後一気に評価が高まったモーツァルトと比較されて「時代遅れの作曲家」とみなされるようになったようだ。サリエリがその生涯で最後に書いた歌劇は1802年作の彼としては2作目のドイツ語のジングシュピール『黒人』だが、この作品は2年間お蔵入りしたあとに1804年に初演されたものの「モーツァルトとケルビーニの作品を通じて私たちが真価を理解した力強さや性格描写が、この作品には欠けていた」*1と評されるなどして失敗に終わった。以下水谷氏の本から引用する。

 

前記批評の「モーツァルトとケルビーニの作品を通じて私たちが真価を理解した力強さや性格描写」という言葉が、サリエーリの時代がすでに過ぎ去ったことを端的に表していた。モーツァルト作品の再評価が始まり、力強い作風の《メデ》(1797) や救出オペラの先駆的作品《二日間》(1800) でケルビーニがロマン派歌劇の到来を告げたとき、サリエーリは時代に取り残されてしまったのである。

 

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) 213頁)

 

 1804年といえばベートーヴェンが中期に入った頃だ。このベートーヴェンも一時サリエリに師事したことがあるが、わがままさにおいてはモーツァルトと双璧ともいうべきこの作曲家もサリエリと衝突したことがある。しかしそれも(モーツァルトの場合と同様)非はベートーヴェンの側にあったと著者は断じている。興味深いのは、サリエリと喧嘩していた頃のベートーヴェンサリエリの「奸計」云々という言葉を手紙に書き残しているらしいことだ。以下本書からベートーヴェンが書いた文章を引用する。

 

「(前略)未亡人のための音楽会に当たっては、小生に対する憎しみから唾棄すべき奸計が行われ、なかでもサリエーリ氏が先頭になって、彼の仲間で小生のために演奏した音楽家はみな絶交すると威かしたのです」(前掲書198頁)

 

 あまりにもモーツァルト父子と酷似したベートーヴェンの思考回路に、思わず笑ってしまった。昔も今も、陰謀論というのが人間が陥りやすい罠であることをよく表しているように思われる。なおベートーヴェンものちにサリエリとの関係を修復したとのこと。

 その他に、前述の石井宏が2020年に出した本で、サリエリが謀略好きな性格だった状況証拠の一つとして挙げた、レオポルト2世によるダ・ポンテの宮廷からの解雇(1791年1月)にサリエリが関与したのではないかとの疑惑にも著者は言及し、それを否定している(といっても本書の方が石井宏の本より16年も早く出ているのだが)。以下に引用する。

 

ダ・ポンテは自分の解雇をサリエーリの差し金と考え、書簡や回想録で彼を糾弾しているが、サリエーリ自身が劇場指揮者のポストを追われたのだから逆恨み以外のなにものでもない。(前掲書169頁)

 

 これには私も「そりゃそうだろう」との心証を持った。先に述べたモーツァルトがいっこうに宮廷に就職できなかった件の真犯人はマリア・テレジアだったのに、モーツァルト父子がサリエーリもその一人である「イタ公」のせいにしていたのと同じように、明らかに真犯人はレオポルト2世であるにもかかわらず、ダ・ポンテは自分と同じ階級の人間のせいにしようとしたのだ。これこそ権力や上位階級の人間の思う壺である。なにしろダ・ポンテ自身がレオポルト2世が彼に語ったという下記の言葉を間に受けて、サリエリをに憎むに至ったようなのである。

 

 ああ、サリエーリについては余に話すまでもない。彼のことはよく知っておるのだ。彼の陰謀も、カヴァリエーリのそれも。彼は我慢ならぬエゴイストで、余の劇場で自分のオペラと自分の女の成功だけを望んでおるのだ。単にそなたの敵というだけではない。すべての宮廷音楽家、すべての歌手、すべてのイタリア人の敵であり、そしてなにより余が彼を知るにゆえに、余の敵でもある。世は自分の劇場に、彼も、彼のドイツ女 [カヴァリエーリ] も、もはや欲しない。(ダ・ポンテ『回想録』)(前掲書169頁)

 

 レオポルト2世がダ・ポンテの怒りをサリエリに向けるように仕向けたことは間違いないだろう。レオポルト2世は自分がイタリア人でもないくせにサリエリを「すべてのイタリア人の敵」などと罵っているが、それをおかしいとも思わないダ・ポンテもダ・ポンテだ。おそらく王族を批判してはならないという心理機制が働いているのだろうが、それにしてもレオポルト2世という人も母親のマリア・テレジアを連想させる「権力悪の権化」であったように私には思われる。上記引用文など、これこそ自分が切ろうとしている配下の者同士を反目させようとする分断の奸計以外の何物でもなかろう。こういうことばかり始終やっているのが権力者というものだ。

 また著者は「現代の音楽書」にも批判の矢を放つ。以下引用する。

 

 現代の音楽書には、モーツァルトの死を知ったサリエーリが「あんな天才に生きていられたら、われわれは飯の食い上げだ」と言った、と記したものもある。けれどもそれは、ニーメチェクがモーツァルト伝の第二版に挿入したエピソードを故意に捻じ曲げたものであろう。そこにはこう書かれていた――「ヴィーン在住の今なお健在な、さして有名でないある作曲家は、モーツァルトが死んだ時、ありのまま正直に友人にこう語った。〈確かにあの偉大な天才が逝ってしまったのは残念です。しかし、彼が死んだのは私たちには幸せですよ。なぜなら、彼がひょっとしてもっと長生きしていたとしたら、実際どうなったでしょうか。世間は私たちの作品に対して一斤のパンもくれないでしょう〉」(ニーメチェク『モーツァルトの生涯』第二版)。この「さほど有名でもないある作曲家」がサリエーリである可能性はゼロであろう。(前掲書176-177頁)

 

 これまた説得力十分の指摘である。しかし著者はこんなことが書かれた音楽書の出典を挙げていない。しかし私はその現物をたまたま図書館で目撃したばかりだった。だからネタバレと思われる書名をここで挙げておく。

 その本のタイトルは『モーツァルト頌』であり、編集者は吉田秀和(1913-2012)と高橋英郎(1931-2014)であり、1966年に白水社から刊行され、1995年に新装版が出版された。私が図書館で参照したのは後者である。この本にはおよそ500人ほどの人たち(日本人は一人もいなかったはずだ)によるモーツァルトへの賛辞が収められているが、問題のサリエリの言葉には引用元がニーメチェクであることと「吉田秀和訳」との訳者名が明記されている。従って犯人は吉田秀和である。もちろん「さほど有名でもないある作曲家」をサリエリと認定した最初の人が吉田だったかどうかは知らない。しかし少なくともこの風説の拡散に吉田が関与したことは否定できないだろう。私は吉田には半世紀近くお世話になっている者ではあるが、誤りは誤りである。彼の誤りを知ったからには指摘しないわけにはいかない。

 以上で、図書館に返す前に書きたいことはほぼ書き尽くしたように思う。覚悟はしていたがたいへんな時間がかかってしまった。サリエリの『アルミーダ』の全曲盤はとっくに終わり、その後サリエリモーツァルトを含むこの時代の、つまり古典派の時代の音楽がランダムにかかっている。その中にはサリエリの作品もあれば、モーツァルトの劇場的セレナータ『アルバのアスカニオ』K111中のアリアもあった。今はボッケリーニの交響曲ニ短調作品12-4の第2楽章がかかっている。何やらおどろおどろしい副題がついた曲だったと思うが思い出せない。音楽の聴き方(聴かれ方)も昔とはずいぶん違ったものになったんだなあと思わずにはいられない。あ、今度はクープランの「神秘なバリケード」がかかった。

*1:水谷彰良著前掲書212頁

NHKオンデマンドで、宮城聰演出のベルリン国立歌劇場2022年公演 モーツァルトの歌劇「ポントの王ミトリダーテ」(K 87) を視聴した

 吉田秀和の昔のNHK-FMの解説で最近聴いたモーツァルト14歳の時のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K87が、音楽だけではなく劇としても面白そうだったので、これは是非動画見たいと思ってネット検索をかけたところ、一昨年(2022年)のベルリン国立歌劇場公演でこのオペラが宮城聰の演出で上演され、それをNHKが放送していたことを知った。

 このオペラは3時間近くかかる長いものなので、どこかの三連休で見たいと思っていたが、やっとそのチャンスがめぐってきたので、NHKオンデマンドで220円で購入して(視聴有効期間は3日間)視聴した。

 私は演劇には全く疎くて、宮城聰という人も全く知らなかったが、結構注目されたようだ。下記に一例を示す。

 

ameblo.jp

 

宮城聡の演出が話題に。番組冒頭の宮城聡の発言が実に良い。「オペラセリアの登場人物は一般人ではなく、歴史の教訓や知恵を体現してる神話的人物なので、過剰な演技は良くない。歌舞伎的な様式的な演技を歌手に求めた」。

 

これは、神話や歴史上の設定を現代政治や企業社会に置き換えて、「現代で言えば要するにこういうことです」と観客に読み替えさせる流行の演出とは逆の考え方である。例えば、シモン・ボッカネグラが田舎の土建業者から成りあがった市長だったりするw

とはいえ常々、エリザベス女王が、企業の女社長みたいに描かれるのには辟易としている。だから欧州のゴミ演出見たくないんですよw

 

歌手たちも、正面を向いて淡々と歌うことに面食らって、苦労したようである。そもそも日本ですら、「オペラ歌手が舞台に出て来て棒立ちで歌うのは良くない」と昔のオペラの本には書いてあった。

 

URL: https://ameblo.jp/mazepparrigo/entry-12803175687.html

 

 宮城聰という人はいろいろ面白いらしい。以下mixiより。

 

mixi.jp

 

ある日友人から、こんなメールが届いたのだ。

「さて、ご存知かも知れませんが、東京駅でマハーバーラタの野外公演があるそうです。」

ええええ~~~っ、ご存じないですーー!
礼もそこそこに、大慌てでその場で公式サイトにアクセスすると、幸運にも席に空きがあったので、その場でチケットを購入した。
細かいことを調べたのは、その後だ。

宮城聡は、かつて、ク・ナウカという劇団を率いており、それを解散した後は、フランスのアヴィニョン演劇祭で招待上演したり、静岡の舞台芸術センターで芸術監督を務めたりと、今や日本を代表する舞台演出家の一人であるはずだ。
アヴィニョンでも上演した代表作『ナラ王の冒険』は、国内外で頻繁に上演を続けている。
最近は、オペラ『ポントの王ミトリダーテ』(モーツァルトの作品だって!)を手掛け、実はTV放送分を録画してあるのだけれど、まだ観ていない。

私が彼の舞台を初めて生で観たのは、なんと歌舞伎である。
インドの叙事詩マハーバーラタ』を愛好する私は、これが尾上菊之助の手で歌舞伎化されると聞いて恐る恐る観に行ったのだが、敵役の中村七之助に圧倒され、音楽に打ちのめされ、筋の運びの妙に感心し、マイッタマイッタと思いながらプログラムに目を通してみると、それが宮城聡の演出と知って倒れそうになったのだ。
そんなこと、何も知らずに観に行ってたよ。

 

URL: https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986216020&owner_id=24016198

 

 私など目を白黒させるばかり。

 でも「歌舞伎」で思い出されたのは、つい最近聴いたばかりの43年前の吉田秀和NHK-FM放送で6回連続でこのオペラが取り上げられたうちの第5回の放送だった。下記にリンクを示す。

 

www.youtube.com

 

 上記YouTubeの25分50秒あたりで、このオペラの第3幕のある場面を吉田は「日本の歌舞伎みたいな感じですね」と評しているのだった。その41年後に宮城聰が本当に歌舞伎の様式を取り入れてこのオペラを演出した。偶然といえばそれまでだが、実に面白いと思った。

 一昨日の記事でその光文社新書の著書を私が酷評した森本恭正は、吉田秀和モーツァルトの戴冠ミサ曲K317のキリエを日本語の「お母さん」という言葉に当てはめた解説に対して、

何か気味の悪い、濁ったインクで書かれたメモを呑み込んでしまったかのような不快感を覚えた。そして唐突に、数十年前、ウィーンで開かれた立食パーティーで、寿司の屋台に並んだヨーロッパ人たちが、一流の寿司職人が握った寿司に醤油をどぼどぼとかけて、満足げに食べていた光景を思い出した。

(森本恭正『日本のクラシックは歪んでいる - 12の批判的考察』(光文社新書)152頁)

と吉田をこき下ろしているが、森本は宮城の『ポントの王ミトリダーテ』の演出にも同じ感想を持つのだろうかと思った。

 私が連想したのは、読み終えたばかりの水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004)に書かれた、サリエリが弟子のシューベルト

「音楽をつけるに値しない野蛮な言葉 [ドイツ語] 」ではなく、イタリア語の詩に作曲するよう忠告した。(同書236頁)

というエピソードだった。結局シューベルトは師のサリエリの教えを守らずに成功したためか、著者の水谷氏が

サリエーリが不充分な教育を施し、それがシューベルトの形成に何の寄与もしなかったとする不当な非難が、後年彼らの回想録で繰り返されることになる。(同237頁)

と憤っているが、これはドイツ語を馬鹿にして、半世紀以上もウィーンに住みながら、結局最後までドイツ語がうまくしゃべれなかったというサリエリにも「不当な非難」を受ける隙があったといえるのではないかと思った。私がまた連想したのは昔日本プロ野球にやってきたメジャーリーガーたちのことだ。一方、大谷翔平は英語が結構達者になったと聞く。

 森本恭正についていうと、森本とはまるで「名誉オーストリア人」みたいな人だなと思った。彼は著書でさんざん「反権威主義」を言っているが、私には森本自身が大の権威主義者であるようにしか見えない。

 もっとも、歌舞伎の様式を取り入れた『ポントの王ミトリダーテ』の宮城演出の良し悪しについては私はわからなかった。なんと言っても、私自身が演劇には無知にすぎるからだ。

 私が言えることはただ一つ、14歳のモーツァルトの書いた音楽は素晴らしいということだけだ。同じ頃に書いた他の作品と比較しても群を抜いている。モーツァルトは8歳くらいの子どもの頃からオペラへの関心が強かったそうだが、やはりやりたいことをやる時には人間は力を出す。オペラを書いた時の少年モーツァルトの音楽は、勉強の課題をこなすような感覚で書かれたと思われる子ども時代の交響曲群とは出来が全く違うのである。

 とりわけ私の印象に強く残ったのは、第13曲のホルンのオブリガート付きのアリアだった。

 このアリアに触れたブログ記事を以下に紹介する。

 

zauberfloete.seesaa.net

 

私自身このオペラ自体あまり馴染みがないのだが、ポントの王ミトリダーテ」と聞いて真っ先に思い出すのは、モーツァルトが最初に(そして最後になったしまったが)作曲したホルンのオブリガート付きのアリア。
第2幕 シーファレによって歌われるアリア「あなたから遠く離れて」(第13曲)。
テ・カナワが歌うモーツァルト・アリア集(PHILIPS/1987)に収録されていた(ホルン:フランク・ロイド)。

(中略)

ただ上記アリアでは、ソロ・ホルン奏者も舞台に上がり一緒に演奏するという演出。

 

URL: https://zauberfloete.seesaa.net/article/499519543.html

 

 ここは音楽(ソプラノとホルンとの絡み)と演出の両方が非常に良かった。今回視聴したこのオペラの中でもっとも強く印象に残った。

 ソプラノと管楽器の掛け合いというと、すぐに思い出されるのはコンスタンツェが歌ったというハ短調ミサK427の「エト・インカルナートゥス・エスト」であり、これはモーツァルトの全作品中でも超絶名曲の一つだが、その曲を思い出したくらいだ(もちろんあの曲には及ばないが)。余談だが、ネット検索で調べたらコンスタンツェがハ短調ミサ曲で歌ったのは第一ソプラノではなく第二ソプラノだったのではないかとの説もあるようだ。

 

ハ短調ミサの「クリステ・エレイソン」や「エト・インカルナートゥス・エスト」に見られる美しいソプラノソロ、「ラウダムス・テ」に見られるコロラトゥーラの華やかなソロ、これらは、モーツァルトにより新妻コンスタンツェのために作曲され、初演の折りにコンスタンツェによって歌われたと考えられています。今から3年前、私が高橋英郎先生のお宅をお伺いした際に、「ハ短調ミサのソプラノのソロをコンスタンツェが歌ったことは事実だけれど、第一ソプラノではなく第二だったのではないか」との先生のご指摘は、これまでコンスタンツェが第一ソプラノを歌ったと信じて疑わなかった私にとって、ショッキングな話でした。確かに先生のご指摘のように、コンスタンツェがハ短調ミサのソロが歌える位のヴィルトゥオーゾであれば、モーツァルトはソプラノ歌手として名高かった姉のアロイジアに対してそうであったように、妹のコンスタンツェに対しても多くの歌曲を残したであろうし、コンスタンツェの第二の夫となったニッセンが著したモーツァルトの伝記にもコンスタンツェの声楽や音楽の才能についての記述があってもおかしくない。にもかかわらず、モーツァルトがコンスタンツェに捧げた曲は未完成のアリア一曲と、3つの練習曲を数えるのみなのです。そして、残された資料などをじっくり考えていくと、「歌ったのはキリエのソロだけだったのでは?」とまで思うようになりました。そこで、このことについて、この紙面をお借りして少し述べさせていただこうかと思います。

 

URL: http://www.venus.dti.ne.jp/~kotani/OME/Missa-c-moll.html

 

 そうなのか。それは残念。

 でも「オブリガートを伴うアリア集」だというキリ・テ・カナワのアルバムは面白いかもしれない。この人が歌うカントルーブの『オーベルニュの歌』は私の愛聴盤だ。

 全曲で168分(2時間48分)の長丁場だったが、モーツァルトのオペラを通して視聴すできて本当に良かった。最近は土日でもまとまった時間がなかなかとれないことが多かったので、良いリフレッシュになった。

 なお出演者その他は下記の通り。前記ブログから引用する。もともとは2020年公演予定だったのがコロナ禍で2年延期になり、出演者はかなり入れ替わったようだ。

 

歌劇「ポントの王ミトリダーテ

  • 作曲:ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト
  • 台本:ヴィットーリオ・アマデオ・チーニャ=サンティ (ジャン・ラシーヌの悲劇による)
  • 演出:宮城聰
  • 空間構成:木津潤平
  • 美術:深沢襟
  • 衣裳:高橋佳代
  • 照明:Irene Selka
  • 振付:太田垣悠
  • ドラマトゥルク:Detlef Giese
  • ミトリダーテ(テノール):ペネ・パティ
  • アスパージア(ソプラノ):アナ・マリア・ラービン
  • シーファレ(メゾ・ソプラノ):アンジェラ・ブラウアー
  • ファルナーチェ(カウンターテナー):ポール・アントワーヌ・ベノ・ジャン
  • イズメーネ(ソプラノ):サラ・アリスティドゥ
  • マルツィオ(テノール):サイ・ラティア
  • アルバーテ(メゾ・ソプラノ):アドリアーナ・ビニャーニ・レスカ
  • 管弦楽:レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル
  • ホルン・ソロ:カルレス・チョルダ・サンス
  • 指揮:マルク・ミンコフスキ
  • 収録:2022年12月9、11日/ベルリン国立歌劇場

URL: https://zauberfloete.seesaa.net/article/499519543.html

 

森本恭正『日本のクラシック音楽は歪んでいる』(光文社新書,2024) の「調性音楽は階級を体現している」という主張には無理がある。また、専門家とは思えない教会旋法の説明のいい加減さに呆れた。

 最初に読み終えたミステリについて少しだけ書いておく。

 アガサ・クリスティのポワロものの31番目の長篇『ハロウィーン・パーティ』を、昨年新訳版が出たハヤカワ・クリスティー文庫で読んだ。旧版は中村能三(1903-1981)訳だったが、山本やよい氏(1947-)の訳に差し替えられた。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 埋め込みリンクの画像でご覧いただける通り、ケネス・ブラナー監督・主演の映画が日本で公開されたタイミングに合わせて新訳版が出たもののようだ。図書館に置かれるまでは数か月かかるかなと思っていたが、先日区内の図書館に置いてあったので借りて読んだ。

 これはクリスティ79歳の1969年の作。ポワロ(クリスティ文庫での表記は「ポアロ」)ものの最終作『カーテン』は発表こそクリスティの死の前年の1975年だが書かれたのは1943年なので(ミス・マープルもの最終作の『スリーピング・マーダー』も同様)、クリスティのミステリをほぼ成立順に読むことにしている私は既に2021年の暮れに、クリスティのミステリとしては42番目に読んだ。その後は読むペースが落ちてきたがミステリに関しては終わりが見えた。ただ、順序としてはミステリ及び冒険ものの事実上の最終作『運命の裏木戸』(1973)を読む前にクリスティがメアリ・ウェストマコット名義で書いた恋愛小説6冊を先に読もうかと思っている。とりあえず、ミステリ及び冒険ものは『運命の裏木戸』を含めて、かつ戯曲を除いてあと5冊になった。

 今回読んだ『ハロウィーン・パーティ』はヒントがわかり易いというよりもかなり露骨なので、「…ということはこの人が犯人なのかな」とピンとくるが、クリスティは例によってその後でミスリーディングの技を繰り出してくる。でもあまり深く考えずに読んだらやっぱり、という読後感。でも終盤に緊張感を高める技術は相変わらず巧みで、その点だけをとってみれば、やたらと多重どんでん返しに凝りまくっていた初期の作品よりむしろ良いかもしれない。しかしやはり衰えは隠せないとも思わせた。

 次に取り上げるのは先月読んだクラシック音楽批判本だが、立ち読みしてあまりにも感心できない箇所があったのであえて買って読んだ。森本恭正(1953-)というクラシック音楽の本場オーストリアで活躍する作曲家・指揮者の人が書いた『日本のクラシック音楽は歪んでいる』という本だ。初版は2024年1月30日発行となっているが、これは通例により実際の発売日よりかなり遅い日付であり、読書記録を見ると1月16日から17日にかけて読んでいた。

 

www.kobunsha.com

 

 埋め込みリンクに光文社の紹介文が表示されないので、以下に引用する。

 

本書における批判の眼目は、日本における西洋音楽の導入において、いかに我々は間違ってそれらを受け入れ、その上その間違いに誰も気がつかず、あるいは気がついた者がいたとしても訂正せず、しかも現在まで間違い続けてきたか、という点である。
(「批評1 日本のクラシック音楽受容の躓き」より)
明治期に導入された西洋音楽。だが、その釦は最初から掛け違っていた。そして日本のクラシック音楽は、掛け違った釦のまま「権威」という衣を纏い、今日へと至る。作曲家・指揮者として活躍する著者が、二十年を超える思考の上に辿り着いて示す、西洋音楽の本質。

 

目次

批判1 日本のクラシック音楽受容の躓き
批判2 西洋音楽と日本音楽の隔たり
批判3 邦楽のルーツ
批判4 なぜ行進は左足から始まるのか
批判5 西洋音楽と暴力
批判6 バロック音楽が変えたもの
批判7 誰もが吉田秀和を讃えている
批判8 楽譜から見落とされる音
批判9 歌の翼
批判10 音楽を運ぶ
批判11 現代日本の音楽状況
批判12 創(キズ)を造る行為

 

URL: https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334101961

 

 著者は政治思想的には左寄りの人のようだが、主張は権威主義批判のトーンが強く、旧ソ連などには非常に批判的だ。上記引用文中に

日本のクラシック音楽は、掛け違った釦のまま「権威」という衣を纏い、今日へと至る。

と書かれていることに示されている通りだ。

 だが、それにもかかわらず批判しないわけにはいかない理由の一つとして、54頁で言及され、75〜80頁に長大な注釈がつけられている「教会旋法」の説明が実にいい加減であることを挙げたい。

 註の冒頭には「この注2では、段落を追うごとに解説が詳細かつ専門的になるので、随時中断して本文に戻っていただいて結構です」などと書かれているが、その専門的なはずの内容がいい加減なのである。読者が素人だと思って高を括って適当なことを書き飛ばしたものに違いない。

 カバーの裏表紙を見ると、著者は「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール審査官」を務める一方、「指揮者としてはオペラを含むバロックから現代までの作品を指揮。」と書かれているから、現代音楽の作曲家としてはそれなりに名が通っていると同時に、バロック音楽以降の西洋クラシック音楽の専門家であることは疑いないと思われる。だからこそこの光文社新書のいい加減極まりない執筆態度に腹が立つのだ。

 著者は「調性音楽は階級を体現している」と書く。一例を以下に引用する。ここで著者は旧ソ連を批判している。

 

 平等を謳ったはずの国家がなぜ、音を平等に扱おうとした(=12音技法を使おうとした=引用者註)作曲家を支援しないどころか、粛清までしたのか、それは言うまでもなく、ソヴィエト連邦が、スターリンを筆頭とする独裁国家でしかなかった、という証である。皮肉にも、階級闘争の果てに生まれた似非社会主義国家では、階級性を体現する調性音楽こそが、為政者にとって、その地位を保守するために必要な音楽だったというわけだ。(本書137頁)

 

 こんなことを書く以上、著者が作る現代音楽は調性を用いない音楽なのだろう。もちろん現代においては調性を用いない音楽などごく当たり前である。

 だが、それならなぜ著者は「オペラを含むバロックから現代までの作品」、それらは現代のごく一部の音楽を除いて調性音楽が大部分だと思うが、それらを指揮するのだろうか。

 もちろん調性音楽はクラシックに限らない。現在は世界中の音楽が調性音楽に席巻されているので、著者が書く通り、「今日でも世界の音楽界を支配しているのは、まるで、現代の階級社会そのままを体現しているかのような、調性音楽なのだ」(本書138頁)。著者は「もしかしたら、資本主義を押し広め、市場を開拓するには、戦争をするより、モーツァルトからロックに至るまでの〈階級性〉に満ちた調性音楽が、最も有用な手段だったのではないだろうか。これなら人を殺さなくて済む」(同146頁) とも書くが、ここで引用した著者の考え自体は、私も仮説として考えた時期が長かったので、こんな文章を書きたくなる気持ちはよくわかる。

 第7章には吉田秀和批判が書かれているが、吉田が戦争中に何をやっていたかについてを黒歴史にしてしまっているという著者の批判については、私も吉田が亡くなった2012年に同様のことをブログに書いた記憶がある。そして著者と同様に、吉田が書いたの楽曲分析にしばしば「これはこじつけではないか」と思ったことは、正直に書くと私にも何度もある。吉田を「印象批評が許された最後の人」ともしばしば評した。

 しかし、それにもかかわらず最近の私は、やはり吉田秀和は認めるほかないと思うようになった。以前にモーツァルトの音楽に陶酔する犬がいた(もう故人ならぬ故犬だが)という話を弊ブログに書いた。あるいは、ベートーヴェンのクロイツェルソナタを介して彼の心境が直接トルストイに伝わったとトルストイは感じたという話も書いた。音楽には言語化できない要素が多く、そこから言葉を引き出してくる点において、どうしても敵わないと思う人が私には何人かいる。その一人が吉田秀和で、他には村上春樹やこの間亡くなった小澤征爾、それに1996年に相次いで亡くなった武満徹柴田南雄らがその範疇に入る。村上、小澤、武満の3人については、武満と小澤、小澤と村上の対談本を読んでそう思った。柴田については、昔彼が書いた単行本に書かれていたシェーンベルクショスタコーヴィチに関する文章を読んで思った。なお柴田の一族には理系の学者が多い。音楽には理系の要素もかなり強い。

 しかし、階級云々の文系的な話について少し書いておくと、この間、吉田秀和が1950年に書いた『音楽家の世界 - クラシックへの招待』(河出文庫版, 2023)に下記の文章を見つけて笑ってしまった。以下引用する。

 

www.kawade.co.jp

 

バッハのところでもいったように、トニカ(主音)とかドミナント(属音)とかいうのは、その音の階級(価値の体系)を指す言葉で、とくにこの二つの関係が音楽を作る骨子なのである(河出文庫版187頁)。

 

 何のことはない、調性音楽の階級性については森本が嫌う吉田秀和も指摘していたのだった。しかも1950年に。しかし、手元にある柴田南雄音楽史と音楽論』(岩波現代文庫, 2014;初出は放送大学教育振興会1988)には以下のように書かれている*1

 

www.iwanami.co.jp

 

 また、1430年代が和声法の上でT(トニック、中心音)、D(ドミナント、中心音の完全5度上。完全5度は振動比2対3)、S(サブドミナント、中心音の5度下=4度上。完全4度は3対4)の3種の機能が確立した年代であることは、デュファイのミサ曲の和音構成、TDSの頻度を一時代前のアルス・ノヴァのギヨーム・ド・マショーのそれと比較すれば明瞭である。(岩波現代文庫版128頁)

 

 それなら、機能和声が発明される前の「階級がない」(?) 音楽が階級などなかった平和な時代を反映していたかというと、そんなことは絶対にない。古代から奴隷制があった。

 そう考えると、調性音楽のトニカ、ドミナントの構造と人間社会の階級構造とをリンクさせる論法にはさすがに無理があるのではないかと思わずにはいられない。前者には自然科学のファクターも大きいと思われる。

 もちろん、機能和声の束縛から自らを解放したいという欲求は私にもあり、昨年亡くなった坂本龍一も同じようなことを言っていたが、それと階級社会とはまた別の話だろう。

 

 ところで、森本恭正が書いた教会旋法の説明について、具体的にどこがどういい加減なのかについてはここまで一言も書いてこなかった。これはきっちり論証しようと思ったら結構骨が折れる作業なのだ。だが、ブログに記事を書くためにかけたネット検索で、下記サイトを知った。

 

 上記リンクのサイトに、教会旋法の説明や6世紀に書かれたボエティウスの『音楽教程』の解説が載っている。後者は、昨年秋に講談社現代文庫から「本邦初訳」が発売されたので、酔狂にも買ってしまった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 しかし、結構読みづらそうなので、買う前から予想はしていたものの「積ん読」状態になっている。そこに前記「まうかめ堂」のサイト中の下記の文章が目を引いた。

 

ここからのページでは中世音楽を語る上で避けては通れない書物,ボエティウス Boethius (480-524年)の『音楽教程 De institutione musica』(510年前後)を取り上げたいと思います. この書物は中世を通じて音楽を学ぶ全ての者にとって最も権威ある教科書として,いわば音楽家 musicus になるための必読書として読まれた書物で,音楽に関わるすべての者が持つべき音楽上の基礎知識を与え,中世の音楽的思考の基盤となる書物と言ってよいものです. ただこの書は難解な書物としても知られ,原文は6世紀のローマ人の手によるラテン語ということで,なかなか門外漢には手の出しにくいものでした.

 

ところが,大変ありがたいことに最近この書物の伊藤友計さんによる邦訳が出版され,日本人にとってのこの書物へのアクセスのハードルは一気に下がりました.

 

とはいうものの,日本語で読めるようになったからと言って,この本の内容的なある種の「難解さ」が減るわけではありません. 何しろ1500年前の書物ですから,物事の捉え方や表現の仕方が現代とは大きくかけ離れています.

 

そこでここからのページでは,この本の解説というよりは(それは私の手にあまります),内容をきちんと理解するための覚書といったものを提示したいと考えています. 特に第二,三巻でなされる数比に関するやや踏み込んだ数学的な議論について, それらは内容的には高校レベルまで(たかだか数学I程度)ではあるのですが,記述・論述の仕方が現代とは大きく異なるため理解が困難になりそうなところが多く見られます. そういった部分を現代人により理解しやすい形に,「その箇所には要するに何が書いてあるのか」がわかるようなものを目指したいと思います. 一応これだけを読んでも原著の大まかな内容はフォローできるようにしたいと思いますが,原著を読みつつ適宜こちらを参照してもらった方が意味があるんじゃないかと思います.

 

URL: https://maucamedus.net/boethius/index.html

 

 これはありがたい。もっと暇になったらチャレンジしてみたいと思った。

 ここまで、森本の教会旋法に関する注釈がいい加減であることの根拠は示してこなかった。実はこれを論証するのは結構骨が折れるのだ。しかし、前記「まうかめ堂」の教会旋法の項にある下記の批判に当てはまっていることを発見したので、今回はそれだけを指摘しておく。

 まず森本の本の注釈を引用する。

 

実際に、キーボードの白鍵をたどって音を確認された方はお気づきかもしれないが、長音階はヒポリディアと、短音階はヒポドリアと全く同じになる。だから、1600年の少し前あたりから、ヨーロッパの音楽が、このヒポリディア(長調)とヒポドリア(短調)に収斂されていったのだ。(77頁)

 

 これに対し、「まうかめ堂」は下記のように書いている。

 

「全ての旋法が長調短調の二つの種類の音階に解消してしまうまで」なんてことは何重にも正しくないので不用意に言わないほうが良いでしょうね…。

URL: https://maucamedus.net/solmization/modus01.html

 

 森本の本では、絶対音感相対音感について書いた文章も疑問だ。いや、以下の疑問を持つのはもしかした私だけで、森本が書いていることの方が正しいのかもしれないが。以下引用する。

 

 ある調査によると、日本の音楽大学ピアノ科の学生のほとんどが絶対音感の持ち主だという。それはよい。では同じピアノ科で相対音感の持ち主はというと、約一割しかいなかったという。(213頁)

 

 私は相対音感は小学校1年性の頃には既にあった。ヤマハ音楽教室で聴音をやったら、わかったのは私だけで、クラスの他の児童は誰もわからなかったという経験がある。しかし小学生の頃には当時は絶対音感はなかった。絶対音感が身についたのは、クラシック音楽を聴くようになったあとの中学生時代で、それも聴き始めてから1年経つか経たないかの頃だった。家にピアノがあって妹が習っていたので、そのピアノを我流で弾いて音にしていた(だから間違っても「ピアノが弾ける」域には達していない)ために絶対音感が身についたのかもしれない*2。訓練などは何もしてない。私の絶対音感は、最初、あれっ、この曲って何調なんじゃないかとふと気づいたところから始まった。最初の頃は半音の違いはわからず、たとえば当時よく聴いていたモーツァルト交響曲第40番の第4楽章展開部のクライマックスが主調のト短調から一番遠い嬰ハ短調だということまではわからず、ニ短調に聞こえた。あの展開部は、5度上へ5度上への転調があまりにも矢継ぎ早なので相対音感も追いつかなかったのだった。そのさらに1年後くらいには絶対音感の精度が上がって、やっと絶対音感が身についたと自覚することができた。それが中学校3年生の頃だ。だから、よく言われる何歳までに絶対音感を身につけなければ一生ダメだというのは俗説の嘘だと信じて疑わなかったのだが、もしかしたら相対音感がない人でも絶対音感を身につけることも可能で、それができるのが7歳くらいまでなのかもしれない。それは本書を読んで初めて思ったことだ。それまでは、つまり今年初め頃までは相対音感のない絶対音感などあり得ないと思っていた。

 それで思うのだが、相対音感なしの絶対音感の持ち主がピアノ科の大多数を占めるという話が本当なら、それは決して望ましいあり方ではないのではなかろうか。そうであれば『日本のクラシック音楽は歪んでいる』という森本の本のタイトルにも多少の理はあるのかもしれない。

*1:引用に際し、漢数字を算用数字に改めた。

*2:最近、吉田秀和の番組を40年以上ぶりに再び聴いて、ああ、吉田氏にも絶対音感があったんだろうなと思った。それはモーツァルト交響曲第32番をクリストファー・ホグウッド古楽アンサンブルを指揮したレコードをかけた時、ピッチが低いけれどもとても面白いですよと言っていたことで気づいた。吉田氏もピアノを弾けるレベルには達していないけれどもK333のソナタなどをよく音にしていたというから私と同じようなプロセスで絶対音感を持つに至ったのではないかと想像している。