KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

「世界三大悪妻」って? - 小宮正安『コンスタンツェ・モーツァルト』を読む

 大作曲家・モーツァルト(1756-1791)の妻・コンスタンツェがいわゆる「悪妻」で、ハイドンともう一人の誰か*1と合わせて「大作曲家三大悪妻」などと言われていることは昔から知っていた。しかし、そのコンスタンツェがどうやら日本でだけ「世界三大悪妻」に数え入れられているらしいことは、下記の本を読んで初めて知った。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 本書によると、コンスタンツェ以外の「悪妻」の2人は、ソクラテスの妻・クサンティッペトルストイの妻・ソフィアとされるが、場合によってはソフィアの代わりにナポレオン・ボナパルトの最初の妻・ジョゼフィーヌでも良いとのことだ。ほんまかいなと思って検索語「世界三大悪妻」でネット検索をかけたら、もののみごとにソクラテスモーツァルトトルストイの名前が挙がっていたのでびっくり仰天した。私は70年代に武川寛海(1914-1992, 音楽評論家にしてゴダイゴタケカワユキヒデの父)が書いた音楽史のエピソードを集めた類の本をよく読んだが、コンスタンツェの良い評判は確かに記憶にないけれども、そこまで極端にこき下ろされていた記憶もない。また、映画『アマデウス』でもコンスタンツェはそんな滅茶苦茶な人物造形はされてなかったように思うのだ。

 ところが、モーツァルトの研究家の間では昔から結構コンスタンツェは滅茶苦茶に叩かれていたらしい。それは何故か、というのが本書の主題なのだが、「モーツァルト信者」がモーツァルトを崇拝する勢い余って、というと、私が普段ヲチしている政治家の例がすぐに連想される。

 たとえば小沢一郎という政治家がいる。ここで小沢の名前を挙げると、あんな奴を引き合いに出すなんてモーツァルトに失礼だとのお叱りを受けそうだし、崇拝される対象(モーツァルトと小沢)が月とスッポンだとは私も強く思う*2。しかし、崇拝する側の「信者」の心理は実によく似ているのだ。小沢一郎には熱狂的な「信者」が多数いて、贔屓の引き倒しは日常茶飯事だ。その小沢は数年前に離婚したらしく、それを週刊誌に書かれたことがあるのだが、それを指摘した人間が現れるや「信者」たちはいきり立ち、デマを流す人でなしとして、激しい罵詈雑言が浴びせられたものだ。しかし、小沢の離婚が事実だったことがわかると、今度は小沢の元妻が「信者」に非難された。つまり、小沢一郎はその「信者」にとっては神聖不可侵なのだ。

 モーツァルト研究家たちのコンスタンツェに対する憎悪は、「小沢信者」の狂信性とそっくりだ。少なくとも私は本書を読みながらしばしば「小沢信者」たちの狂態を思い出していた。

 では、コンスタンツェはどのように罵られていたのか。一昨年に本書が刊行された直後に首藤淳哉氏が書いた書評から、以下に引用する。

 

honz.jp

 

(前略)『コンスタンツェ・モーツァルト 「悪妻伝説の虚実」』は、世界三大悪妻とまで称されるモーツァルトの妻の実像に迫った一冊。伝説というものがいかに形成されていくか、そのプロセスが明らかにされていてきわめて面白い。

コンスタンツェがいかにボロクソに言われているか、ちょっと見てみよう。たとえば、モーツァルトを崇拝する音楽学者アルフレート・アインシュタインは、コンスタンツェをなんと「蠅」呼ばわりしている。ハエですよ、ハエ!

このアインシュタインなる音楽学者はこう言いたかったらしい。コンスタンツェのような凡庸な女性の名前がいまでも歴史に残るのは、モーツァルトが彼女を愛したからだ。モーツァルトが人類史に永遠に名を残すような天才だったからこそ、彼女もモーツァルトとともにその名が残ることになったのだ……。それを評して「琥珀の中に蠅が閉じ込められたようすと同じ」と述べたのである。

淑女をつかまえて蠅呼ばわりとは。立派な名誉毀損だろう。だがこのコンスタンツェについては、専門家たちは治外法権かよというくらいに言いたい放題なのだ。気の毒に彼女はそんな連中から悪罵のかぎりを投げつけられてきた。それも200年もの長きにわたって、である。(後略)

 

出典:https://honz.jp/articles/-/43950

 

 そういえば「ツェツェバエ」という蠅がいたな、という駄洒落はともかく、アルフレート・アインシュタインが書いたモーツァルトの評伝の邦訳(ハードカバーの分厚い本だった)は、高校の図書館に置いてあったので、全部読んだわけではないが、かなりの部分を読んだ。だが、この音楽学者がコンスタンツェを「蠅」呼ばわりしたくだりは全然覚えていない。

 本書によると、アインシュタインはコンスタンツェの母・チェチーリアについても、

「嘘をつくしか能がないヒステリー女」であるとか「十字蜘蛛」(その蜘蛛の糸モーツァルトが引っかかったというわけである)と表現している(本書212頁)

と酷評しているという。有名なモーツァルトの評伝を書いた学者、つまり斯界の権威がここまでウェーバー母娘をこき下ろしていることに「お墨付き」を得てというわけなのかどうか、モーツァルト伝の世界では、コンスタンツェ(やその母)をこき下ろすことが「デフォ」(デフォルト)になっているようなのだ。なお、本書によれば、コンスタンツェをこき下ろすのは何もアインシュタインが始めたわけではなく、それ以前から連綿と続いていたのだが、私でさえ高校生の頃から名前を知っていた学者が与えた影響は小さくないだろう。

 このようなコンスタンツェ批判について、本書発刊当時に著者は下記のように論評している。

 

gendai.ismedia.jp

 

叩くほどに満たされる優越感

それにしても、この問いに迫るべく数あるさまざまなモーツァルトに関する、とくに評伝を読み進めてゆくと、出てくるわ出てくるわ。罵詈雑言といってよい評価が、しかもふだんは上品かつ知的なふるまいを旨としているかのような学者や評論家といったインテリも巻きこんで……といおうかインテリを中心として多数発せられているのである。

ちなみにモーツァルトの評伝が次々と出版されてゆくようになるのは19世紀後半から20世紀にかけてのこと。いわゆる進歩・進化の思想がヨーロッパ中に定着してゆくなかでのできごとであって、そうなると前人の描いたモーツァルト像を後に続く人間が乗り越えようとするなか、ことコンスタンツェに関しては先行する著作の上をゆくような悪妻ぶりが喧伝され、現在に至るまでますます収拾のつかない状況が生まれることとなった。

さらに明治時代以降、西洋音楽を熱心に取り入れていった日本においても、「本家本元」のヨーロッパにおけるコンスタンツェ像が無批判に流入し、ついに世界三大悪妻――この表現もどうやら日本独特のものらしいが――のひとりと言われるまでになった。

だが、モーツァルトの評伝を書いた著者のほとんどは、当然のことながらコンスタンツェを直接には知らない。では、なぜ彼女にたいする否定的評価が生まれたのかという理由については本書を読んでからのお楽しみとさせていただきたいが、ひとつだけネタばらしをさせていただくならば、どのような人間のなかにも必ず潜んでいるにちがいない、他者を貶めることによって得られる優越感を挙げられる。

モーツァルトの音楽はすばらしい、だから彼のことをもっとよく知りたい……、これは純粋な愛情や好奇心の為せる業だ。だがそれが一歩まちがうと、モーツァルトの音楽を愛でることのできる、あるいは彼について知識を持っている自分こそが優れている=自分以外はモーツァルトの音楽も人となりもわかっていない劣った人間である、という図式ができあがる。

昨今の偏狭なナショナリズムにも通じるナルシスティックな思いこみであって、本来であればそのような感情を理性によってコントロールする術を心得ているはずのインテリですら、この誘惑から逃れられない。

そんな人間の隠された本性を映し出す鏡こそ、コンスタンツェなのではないか? ひとが彼女を評価するとき、その評価のなかに当の本人の人格のすべてが浮き彫りになってしまうという恐るべき鏡。

本書では、そんな存在としてのコンスタンツェのありかた、あるいは彼女を評してきた人びとの姿を能うかぎり描いたつもりである。コンスタンツェを語るとき、人はふだん見せることのない陰の部分をも含めた己をきっと語っている。

 

出典:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51281

 

 著者は、コンスタンツェ批判に走る人たちの動機を「他者を貶めることによって得られる優越感」だと書いているが、私にはそれには異論がある。

 優越感というより、コンスタンツェに対する嫉妬ではなかったかと思うのだ。「モーツァルトを独り占めしやがって」という嫉妬。優越感より嫉妬の方が人間を動かすパワーとしてはずっと強力だと私は思う。

 著者は「昨今の偏狭なナショナリズムにも通じるナルシスティックな思いこみ」とも書いている。昨今はやりの「日本スゴイ」的な言説を指すのだろうが、あれだって本当に日本の経済力が強かった頃には声高には語られなかった。それが最近になって盛んになったのは、日本が斜陽国になって、代わって中国などが台頭してきたからだろう。つまり中国に対する優越心というよりは嫉妬。もっとも最近では中国には敵いそうもなくなってきたから韓国叩きに専念する傾向が、安倍晋三を筆頭に多くの右翼人士の間に見られるようになったが、あれなら「優越感」の歪んだ表れといえるかもしれない。でもそれだって中国には勝てないからせめて韓国を苛めようというスネ夫的な根性の表れだろう。

 そのほかに、本書で面白いと思ったのはナチス時代の話だ。この時代にはコンスタンツェに代わってフリーメーソンが悪玉として槍玉に挙げられていたという。それを流布したのはマティルデ・ルーデンドルフ(1877-1966)という「ドイツ参謀本部次長を務め、総力戦理論を構築した軍人・政治家のエーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルムルーデンドルフ(1865-1937)の妻」*3で、

フリーメーソンユダヤ人、イエズス会マルクス主義などの陰謀を排除し、ドイツ民族の自立を謳う「タンネンベルク団」を夫が結成するにあたり、その理念に大きな影響を与えた

という。なんともすさまじいトンデモ夫婦がいたものだが、このくだりを読んだ時にも私はリチャード・コシミズだの今は亡きヘンリー・オーツ(大津久郎)だのを思い出したのだった。ネット検索をかけて、「独立党」が今も存在することを確かめたくらいだったが、いわゆる「小沢信者」集団にはこの流れもあることを忘れてはならない。もっとも、ここらへんの話はごく一部の人にしかわからないかもしれない。それこそこちらの私怨も残っているので、読み飛ばしていただければ幸いである。

 話は逸れたが、マティルデ・ルーデンドルフが展開したのはフリーメーソンモーツァルトを謀殺したという陰謀論であり、この陰謀論を採った場合にはコンスタンツェを悪玉にする必要がなくなるので、コンスタンツェは一転して被害者として描かれているという。しかしこれを著者は下記のように評している。

 ただし、一見するとコンスタンツェ擁護論のように思えるこの著作には、従来多くのモーツァルト伝でおこなわれてきた手法、つまり書き手が裁き手となり、スケープゴートを作ることでモーツァルトの謎めいた人生を説明するという手法があいもかわらず取り入れられている。あくまでその対象が、コンスタンツェからフリーメーソンに変わったというだけの話に過ぎない。(本書198頁)

 

 これは説得力のある説明だが、裏を返せばアインシュタインを筆頭とする音楽学者たちの「コンスタンツェ悪玉論」で描かれるコンスタンツェとは、ナチスの理論を構築する陰謀論者が悪玉に仕立てるフリーメーソンユダヤ人やイエズス会マルクス主義者たちと同じ位置づけの「冤罪」の被害者といえると思う。現在も「小沢信者」たちは「野党共闘」への忠実さで味方の人間的価値を測り、悪玉を仕立て上げようと内輪の活動にばかり熱中して肝心の選挙で惨敗を重ねる愚を犯しているが、同じ誤りをナチスのイデオローグのみならず平和な時代の「真面目」なはずの研究者や音楽評論家、いやそれにとどまらず演奏家たちも犯してきた*4

 結局結論は、本書284頁の見出しになっている「人びとは敵役を欲する」ということに尽きようか。この一言で、モーツァルト・ファンや音楽学者やナチスのイデオローグや「小沢信者」どもの生態などなど、すべてが説明できる。

 最後に、モーツァルトが妻・コンスタンツェにソプラノ独唱のパートを歌わせる意図で書かれた「ミサ曲 ハ短調(K.427)」の「精霊によりて(Et incarnatus est)」の動画を貼っておく。この音楽こそ、コンスタンツェ論の結論ではないかと私は思う。

 


Wolfgang Amadeus Mozart - Mass in C minor (1783) - "Et incarnatus est" (Sylvia McNair)

*1:ネットで調べたらチャイコフスキーであることがわかった。

*2:私は中学生の頃からのモーツァルティアンである一方、小沢一郎は『日本改造計画』の頃から大嫌いだ。

*3:本書196頁

*4:本書ではそのような演奏家の具体的人名として、数年前に亡くなったニコラウス・アーノンクール(1929-2016)が挙げられている(本書239-241頁)。

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(最終回)松本清張「遭難」の創作に協力した登山家は加藤薫だったか

 前回に続く連載4回目。馳星周選の『闇冥』(ヤマケイ文庫)に関する連載は、今回が最終回になる。

 

www.yamakei.co.jp

 

 今回は、第1回で触れた松本清張と加藤薫、つまり同じ「遭難」というタイトルで同じ主人公名の山岳短篇を書いた2人の小説家のかかわりについて、これまでにわかったことをまとめる。

 この件については、一昨年の暮れに書いた下記エントリの内容を一部修正せざるを得ない。本エントリ公開後、同エントリに追記を行う。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 勿体ぶって書いたが、実は加藤薫に関する情報が相変わらずほとんど得られないのだ。1974年に筆を折ってからの加藤、本名江間俊一氏の消息は不明で、第1回にも書いた通り、『闇冥』の巻末に

●加藤薫氏の著作権継承者のご消息をご存知の方は、編集部までご連絡いただきたくお願いいたします。

と書かれていることから、山と渓谷社の「ヤマケイ文庫」編集部でも消息を把握できていないようだ。

 遭難 (松本清張) - Wikipedia には相変わらず、下記の記載がある。 

  • プロットを考えた松本が、登山家(のちに作家)の加藤薫に相談したところ、そのプロットには鹿島槍の頂上がちょうどいいとの説明を受け、加えて加藤は松本(と『週刊朝日』で『黒い画集』シリーズ担当の永井萌二)を鹿島槍ヶ岳に連れて登山し、「現地講義」を行ったが、山の中腹まで現地を踏み、実景を見た点で、書くのに自信がついた、と松本は回想している[3]

 

 上記引用文からリンクされた [3] をたどると、脚注として

「灰色の皺」に加えて、扇谷正造「『黒い画集』の思い出」(『松本清張全集 第4巻』(1971年8月、文藝春秋)付属の月報に掲載)参照。

と書かれている。 しかし、私が『松本清張全集 第4巻』の月報を確認した限り、扇谷正造の「『黒い画集』の思い出」には加藤薫の名前は出てこない。一方、清張のエッセイ「灰色の皺」(初出『オール讀物』1971年5月号)は中公文庫の『実感的人生論』(2004)で読める。

 

www.chuko.co.jp

 

 第1回でも少しだけ書いたが、清張自身が加藤薫に触れた部分は1箇所だけだ。以下引用する。 

  山といえば、十年ばかり前に『遭難』というのを書いたことがある。当時は登山ブームの興隆期で、ジャーナリズムも山の遭難を男性美扱いにしていた。ある山登りの人が雑誌の座談会かで「山に登る人間には悪人が居ない」などと云っていた。あるいはそうかもしれないが、そういう決定的な言い方に少しばかり反撥を感じた。そこで、一応のプロットは考えたが、わたしは登山など一度もしたことがない。ある登山家に相談すると、そのプロットにちょうどいいのは鹿島槍の頂上だという。克明に地図で説明してくれたが、登山靴を初めて買って出かけたような男だから、山の中腹で落伍した。わたしは心臓があまり丈夫でないし、足弱の点は女なみである。けれど、たとえ中腹だけでも現地を踏み、実景を見たという点では書くのに自信がついた。

 加藤薫氏は登山の経験家だから、その点は危なげがないばかりか、エキスパートだけが知る感覚と発見がある。前にスイス側からのアルプスを背景とした氏の短編を読んだことがあるが、惹かれた。氏も「登山家の悪人」を書いているから、わたしも意を強くしている。

 

松本清張「灰色の皺」より - 『実感的人生論』中公文庫 2004, 143-144頁)

 

 さらに清張には「『黒い画集』を終わって」と題した小文を書いていて、前記清張全集の第4巻に収録されているが、こちらは1961年に刊行された『黒い画集』のカッパ・ノベルス版第3巻の巻末が初出で、加藤薫の名前は出てこない。この文章には、清張が冷池小屋(現冷池山荘、「冷池」は「つべたいけ」と読む)まで登ったことが記されている。

 おそらく、Wikipediaに「加藤薫が清張に協力した」と書いた人は、「灰色の皺」の上記引用文から、「ある登山家=加藤薫」と推定したと思われるが、それは確かではない。というのは、加藤薫が小説家としてデビューしたのは1969年の「アルプスに死す」によってであって(上記引用文中で清張が褒めたのはこの小説と思われる)、清張の「遭難」は加藤のデビューよりも11年も前の作品だからだ。しかも、清張のエッセイでは「ある登山家=加藤薫氏」だとは一言も書いていない。そればかりか、加藤薫に対しては「登山の経験家」として「登山家」とは書き分けているから、上記の文章から「ある登山家=加藤薫」と断定するには無理がある。

 加藤薫の「遭難」は、清張作品と同じ鹿島槍を舞台として(加藤作品では「海抜三千メートルの北アルプスK峰」と書かれているが、これが鹿島槍を指すことは雑誌初出時=『オール讀物』1970年1月号=に雑誌の目次でバラされている*1)同じ主人公名で書かれているが、これは加藤薫が実際に冬の鹿島槍で死亡事故を起こしたパーティーのメンバーだったことと、自作を評価してくれた清張へのオマージュへの意味合いがあったのではないかとも推測される*2。同様に清張の「遭難」へのオマージュをこめた作品として私が思い出すのは、折原一の長篇『遭難者』だ。

 

www.kadokawa.co.jp

 

  折原の『遭難者』は、単行本初出自及び角川文庫版では遭難事故の追悼文集と解決編の2冊組という凝った作りになっているが、最初に追悼文が置かれる構成はまんま清張の「遭難」であり、舞台も同じ北アルプスの、しかし鹿島槍ではなく不帰ノ嶮(かえらずのけん)になっている。不帰ノ嶮近くにある不帰キレット鹿島槍の近くにあって小説中でパーティーが目指した八峰キレットは、槍ヶ岳穂高岳を結ぶ縦走路にある大キレットと並んで「三大キレット(切戸)」と呼ばれる難所だから、折原が舞台設定でも清張作品を意識していたことはあまりにも明らかだ。

 作家の阿刀田高も、普段登山をしない清張が「遭難」を書いたことに舌を巻いた一人だ。以下、阿刀田の『松本清張を推理する』(朝日新書 2009)から引用する。

 

publications.asahi.com

 

 阿刀田はまず清張の「『黒い画集』を終わって」を引用し、そのあとに次のように書いている。

(前略)旅行好きの人ではあったが、本格的な登山の経験は乏しい。しかし〈遭難〉は、その知識なしでは創れるしろものではない。

 ――ずいぶんと勉強したんだろうなあ――

 と舌を巻いてしまう。

 まったくの話、ミステリーが求めるにふさわしい状況を現実の中に見つけだすのは、ほとんどの場合すこぶるむつかしい。とりわけ〈遭難〉の場合、それなりのキャリアを持つ登山家が、そこで、どう道をまちがえるか……まちがいやすいものか、さらにまちがえた結果がミステリーのプロットが求めるような状況になるかどうか。熟慮を経なければ書きにくい。熟慮しても見つからないかもしれない。

 逆ならば、ありうる。多くの登山を経験し、そのあとで、

 ――あそこならミステリーの舞台になるかなあ――

 と筆を執るのが通例だ。わかりやすい。

 が、それではなく、未経験者が登山関係の資料をあさり、登山家の話を数多く聞き、鹿島槍の一コースを見つけたのは、まさに松本清張という作家の情報収集の凄さであり、嗅覚の鋭さであり、一つの好運でもあったろう。よい舞台がみつからなければ、この作品は最初(はな)から生まれなかったろう。よい協力者も実在したにちがいない。

 そして執筆を決めたあとで、四十八歳の年齢にもかかわらずそのコースを瞥見しようとしたようだ。これは、まあ、小説家ならたいてい実行する。実行しないと書きにくい。清張さんなら当然試みただろう。

 さらに発表するまでに登山家の入念なチェックも受けたにちがいない。結果として登山家から見て作品内容は、登山の常識からほとんど逸脱することのない記述となった。

 みごとである。名作である。努力賞は文句なしだ。

 が、推理小説としては、どうなのだろうか。まったく瑕瑾がないだろうか。

(中略)

 古典的な……江戸川乱歩のころの探偵小説を思い出してしまう。(後略)

 

阿刀田高松本清張を推理する』朝日新書 2009, 122-125頁)

 

 引用文の最後の方で「(中略)」とした部分で阿刀田高がつけたいちゃもんは、動機を重視する社会派のはずの清張作品にしては動機が月並みで、まるで江戸川乱歩の頃の探偵小説みたいじゃないかということだが、清張は「遭難」を掲載した『週刊朝日』向けの小説では、肩の力を抜いた作品を書くことが多かった。清張が力んで書くのはたいてい文春か新潮の媒体に載せる作品だったと私は認識している。だから阿刀田の批判は当たってはいるけれども仕方がないというのが私の意見だ。清張の晩年には『週刊朝日』に短篇を書くつもりがあっちこっちに寄り道したとりとめのない長篇になったりもしたが、40代後半の1950年代後半がもっとも脂の乗り切った時期で、その頃に書かれた『黒い画集』は清張の代表的な短篇集に仕上がっている。

 それはともかく「遭難」を入念にチェックした登山家の協力者がいたことは事実だろう。清張を鹿島槍に案内したのもその登山家だ。

 しかし、その登山家が加藤薫だったという確証はつかめなかった。というより、清張の「遭難」に協力したのは、加藤薫以外の登山家だった蓋然性が高いというのが、私の到達した結論だ。

 

 以上でこの連載を終わります。まとまりのない長文を4回もお読みいただいた読者の方々には厚くお礼申し上げます。

*1:http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/63_975b.html

*2:清張のエッセイ「灰色の皺」は加藤の「遭難」よりあとに書かれているが、加藤の「アルプスに死す」の発表後すぐに、この作品が清張から評価されたのではないかと想像される。

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(第3回)新田次郎「錆びたピッケル」、森村誠一「垂直の陥穽」など

 前回からだいぶ間が空いてしまった。馳星周選の『闇冥 - 山岳ミステリ・アンソロジー』に収められた新田次郎の「錆びたピッケル」のヒントになった遭難事故に関する情報がなかなか発見できなかったためだが、ようやくわかった。

 

 

  「錆びたピッケル」(1962)が現在上記ヤマケイ文庫以外の文庫本で読めるかどうかは知らない。またこの小説が『闇冥』の冒頭に置かれた松本清張の「遭難」(1958)に影響されたかどうかもわからない。だが、山で事故を起こさせて登山者を死なせようとした動機や、死亡事故が必ず起きるかどうかわからない「可能性の殺人」である点は清張作品を思わせる。但し、江戸川乱歩が清張作品に先立つ1954年に、

日本では谷崎潤一郎氏が、私の所謂「プロバビリティーの犯罪」に先鞭をつけている。同氏の「途上」という初期の短編がそれだ。

と書いている*1。乱歩は谷崎の「途上」(1920)に触発されて短篇「赤い部屋」(1925)を書いたとのことだから、清張や新田はそれを山岳ミステリーに適用したという位置づけになる。「途上」も「赤い部屋」も「青空文庫」でアクセスできる(下記リンク)。

 

www.aozora.gr.jp

www.aozora.gr.jp

 

 『闇冥』収録作品に戻ると、新田次郎の「錆びたピッケル」は犯人の意外性に特徴があり、私はいわゆる本格推理小説をほとんど読まないから(清張小説はこの範疇には属さない)真犯人に気づかなかったが、本格者の愛読者なら気づいたんだろうなと思う。「錆びたピッケル」の「可能性の殺人」で被害者を死に至らしめるのはピッケルの破損だが、モデルとなった事故があることは作者・新田次郎のエッセイ「“世界一”のピッケル」で作者自身が書いている。このエッセイはやはりヤマケイ文庫から出ている『新田次郎 山の歳時記』(2012)で読める。初出は朝日新聞科学面に1963年から翌年まで連載された「白い野帳」で、1965年に朝日新聞社から単行本化されたが現在はもちろん絶版だ。

 

新田次郎 山の歳時記 (ヤマケイ文庫)
 

 

 以下新田のエッセイから引用する。

 

(前略)二、三年前に溶接ピッケルを持っていたがために、命を落した事件があってかなり騒がれたことがあった。溶接ピッケルなら激しい打撃を受けると、折れる可能性は十分ある。

新田次郎「“世界一”のピッケル」より - 『新田次郎 山の歳時記』ヤマケイ文庫 2012, 37頁)

 

 新田の書く「事件」などネット検索で簡単にみつかるだろうと思ったのだが予想に反してなかなかみつからなかった。ようやく下記の文章を発見した。

 

http://www.nirayama.com/~suwabe/Pickel/Sendai/S6.htm

 

 1960(昭和35)年11月末、東北大学山岳部パーティの一人が北穂高岳の稜線から滝谷側に滑落した。この遭難者が持っていたピッケルは、いわゆる溶接ピッケル(ヘッド上半分とフィンガを含む下半分とを別々に作って溶接した物)であった。遭難者は数度滑落停止を試みたようだが滑落を止めることはできず帰らぬ人となってしまった。後日出動した捜索隊によって、ヘッドの上半分がなくなってしまったシャフト部分が発見され、ピッケルの破損が遭難死の2次原因と推定された。

 この遺品のピッケル東北大学金属材料研究所(以下金研)に持ち込まれ、金研教授の今井勇之進、広根徳太郎らによって分析が行われた。その結果このピッケルは溶接個所が少なく、溶接の仕方も不良であったことが判明した。さらに当時市販されていた他のピッケルも調べた結果、一流品と評価されているものでも金属学的には全く不満足な処理しかされていないという悲観的な調査結果が出された。

 東北大学の地元仙台市には山内東一郎という優れたピッケル鍛冶がいたが山内はこの時既に70才を迎え、ピッケル作りは年に10数本程度になってしまっていた。山内を輩出した金研では、登山者に安心して託すことができ、山内と同等以上の性能でなおかつ近代的なピッケルを作り出すことが急務であると考えた。そしてその話を引き取ったのは同じ仙台市にある東洋刃物株式会社であった。(後略)

 

 新田作品のヒントになったのは穂高で起きた滑落事故だった。新田は舞台をマッターホルンに置き換え、「山内(やまのうち)のピッケル」は「門内(もんない)のピッケル」に名を変えた。山内のピッケルは「ヘッド上半分とフィンガを含む下半分とを」一体に作った「鍛造ピッケル」と呼ばれる製品で、これなら折れるはずはなかったのだが、殺人者によって「溶接ピッケル」にすり替えられたために登山者が死に至ったという筋立てだ。但し、作品の面白さはそこにではなく犯人の意外性とそれがもたらした人間関係の皮肉な結末にある。

 

 『闇冥』の最後に置かれた森村誠一の「垂直の陥穽」(1971)の後半部で描かれた壮絶な遺体収容作業の下敷きとなった事件は、

作者自身が短篇の最後に「作者付記」として、この小説は、群馬県警本部編「この山にねがいをこめて - 谷川岳警備隊員の手記」を参照しましたが、物語や登場人物はすべてフィクションです。

と明記しているおかげもあって、特定は容易だ。事故は下記のWikipediaにまとめられている。

 

ja.wikipedia.org

 

 以下上記Wikipediaより引用する。

 

谷川岳宙吊り遺体収容(たにがわだけちゅうづりいたいしゅうよう)は、群馬県利根郡水上町(現:みなかみ町)にある谷川岳の一ノ倉沢で発生した遭難死亡事故における遺体収容である。遺体がクライミングロープ(ザイル、以下ロープと記述する)で宙吊りになって回収困難となったため、ロープを銃撃切断し、遺体を落下させて収容した。

遭難

1960年昭和35年)9月19日群馬県警察谷川岳警備隊に一ノ倉沢の通称「衝立岩(ついたていわ)」と呼ばれる部分で、救助を求める声が聞こえたとの通報があり、警備隊が現場に急行したところ、衝立岩正面岩壁上部からおよそ200m付近でロープで宙吊りになっている2名の登山者を発見した。

2名は、前日に入山した神奈川県横浜にある蝸牛山岳会の会員で、20歳と23歳の男性だった。発見時、遠方からの双眼鏡による観測で2名がすでに死亡していることが確認された。両名死亡のため遭難原因は不明だが、行動中だった方がなんらかの理由でスリップし、確保側も支えきれず転落したものと推測されている。

遺体収容

現場となった衝立岩正面岩壁は、当時登頂に成功したのは前年8月の1例が初という超級の難所で、そこに接近して遺体を収容するのは二次遭難危険が高く、不可能と思われた。

当初は所属山岳会の会員らから、に浸したボロを巻いた長いでロープを焼き切る案が出されたが、岩壁からロープまでの距離も長く、検討の末に不可能と判断された。当初は所属山岳会で収容を予定していたが、9月21日、新聞記者の早のみこみで「自衛隊出動か」との新聞記事が出てしまった。

実際9月21日所属山岳会は収容作業を行ったが、収容作業を行うには二重遭難承知でやらざるを得ないということが判明し、所属山岳会で同日夜の対策会合で紛糾の上、自衛隊の銃撃による収容を決定し、9月22日9時、山岳会代表者と遺族代表の連名による群馬県沼田警察署長への「自衛隊出動要請書」による要請で遺体を宙吊りにしているロープを銃撃により切断し、遺体を収容することになった。

要請書に基づき、9月22日、群馬県警本部は県知事の了承を得た上で、外勤課長より10時30分自衛隊に出動要請を行い、自衛隊側は上局の承認を得た上で、同日19時、条件付きで出動を受ける旨の回答を群馬県警本部へ連絡した。

9月23日陸上自衛隊相馬原駐屯地から第1偵察中隊狙撃部隊が召致され軽機関銃2,ライフル銃5、カービン銃5の計12丁、弾丸2000発を持ち込み、17時頃より土合駅前広場で待機、9月24日3時頃より警察署員により想定危険区域への一般人立入を禁止した上で、銃撃を試みた。銃撃場所(中央稜第二草付付近)からロープまでの距離は約140メートルもあり、射撃特級の資格所持者が揃っていてもロープの切断は難航を極め、朝9時15分からの2時間で射撃要員15名により1,000発以上の小銃軽機関銃弾丸を消費したものの成功しなかった。その後、午後12時51分から狙撃銃でロープと岩石の接地部分を銃撃することで13時30分までに切断に成功し、蝸牛山岳会の会員により遺体を衝立スラブにフィックスの上、25日に土合の慰霊塔前に収容した。最終的に消費した弾丸は1,300発に上る。この場面は自衛隊関係者、山岳会関係者のほか、100名を超える報道関係者が見守った。

収容には47名の自衛隊員、40名の警察官(警備隊員7名、機動隊員16名、沼田署員17名)、約30名の地元山岳会員が動員されている。

遺体が滑落する様子はフィルムに記録されており、当時のニュース映画では「あまりに痛ましい遺体収容作業」だったことが語られている。この映像は日本産モンド映画『日本の夜 女・女・女物語』[1]の劇中に使われ、予告編でも見ることができる。

群馬県警谷川岳警備隊で当時対応にあたった警察官の手記が昭和38年に二見書房から発売された「この山にねがいをこめて ~谷川岳警備隊員の手記」に「赤いザイル」として納められており、警察側の動きを今でも知る事ができる。

 

 これも前記穂高岳で溶接ピッケルが折れたために登山者が滑落死した事故と同じ1960年の出来事だった。森村誠一は、この事故を復讐を動機とした殺人に置き換えて短編小説を書いた。清張の「遭難」では、意外にも復讐者は犯人に返り討ちに遭ってしまったが、森村誠一は返り討ちにされた槇田二郎の無念を晴らそうとしたかのようだ。

 

 ところで、新田作品にも森村作品にも、エントリのタイトルにした鹿島槍ヶ岳は出てこない。これではエントリの収まりが悪いのだが、偶然にも『闇冥』と同じ日に購入した同じヤマケイ文庫に収録された伊藤正一『定本 黒部の山賊 - アルプスの怪』に鹿島槍で起きたかもしれない不気味な殺人事件の話が載っていた。

 

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

 

 

 著者の伊藤正一氏は、2016年に93歳で亡くなった三俣山荘の経営者で、森村誠一との親交も深かった。森村のサイトには伊藤氏へのお悔やみの文章が掲載されている*2

 

 その伊藤氏の『黒部の山賊』を最初に実業之日本社から刊行されたのは1964年。絶版となった後は長らく、三俣山荘グループの山小屋だけで入手できる稀覯書だったとのことだが、半世紀後の2014年に『定本 黒部の山賊』として山と渓谷社から出版され、評判をとった。さらにその5年後の今年、『闇冥』とほぼ同じ時期に文庫化された。その本に、昭和28年(1953年)の話として、著者が松本市観光課で知り合ったF航空駐在員の「F君」に、「鹿島槍のあたりで殺人事件のようなことがなかったか」と聞かれた話が出てくる。以下前掲書から引用する。

 

 影のある山男の仲間 Y君の同僚としてMという男が新任してきて、同居するようになった。Mは最近まであるプロの山岳団体の一員だったというが、とつぜんそこをやめてF航空に就職した。

 ところがMの挙動は変だった。派手に遊んだり、二、三日帰ってこないことがしばしばだった。そしてついに二週間も帰ってこず、行方も知れなかった。仕事の都合上Y君は困惑し、また不思議にも思ったので、悪いとは思ったが彼の机の引き出しをのぞいてみると、Mの細君から来たらしい手紙の一文が目にとまった。それには「悪いことはしないよう、心を改めてくれ」という意味のことが切々と訴えてあり、「昨年の鹿島槍のような、恐ろしいことはもう決してしてくれるな」とあったという。

 

 鹿島槍の殺人事件 そのほかにもY君は、私にも話せないなにかをつかんでいたらしく、「これはぜったいにMがだれかを鹿島槍へ案内して行って、その相手を物盗りかなにかの目的で殺したのにちがいない」と言って、彼自身も気持ち悪がっていた。

 その後、まもなく私は三俣へ入ってしまったが、地元の知人に「鹿島槍の遭難についてなにか知っているか」とたずねると、「あれはポンコツ(殺人)だそうじゃないか」と言ったので、私はますます疑惑を深め、山を下ったらY君にさらにくわしく聞いて調べようと思っていた。

 ところがそのあいだに、F航空は経営難のためにつぶれ(長いあいだ給料をもらわなかったせいもあったのだろう)、Y君は甲府で無銭飲食して留置されたという噂を聞いた。

 Y君は元来、真面目な男だったので、なんとか心配してやりたい気持ちもあったが、その後、彼の行方はわからなくなってしまった。

 そこで私は鹿島槍方面の遭難記録をくわしく調べてみたが、記録上ではあやしげなものは見当たらなかった。結局この問題は、Y君とMの行方とともに私の前から消えていったのだった。

 

(伊藤正一『定本 黒部の山賊 - アルプスの怪』ヤマケイ文庫 2019, 201-202頁)

 

 そんなわけで、果たして半世紀以上前の鹿島槍ヶ岳で殺人事件があったかどうかも不明なのだが、もし本当に殺人事件があったのなら、露見せずにまんまと成功した「完全殺人」だったのかもしれない。(この項続く

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(第2回)加藤薫「遭難」〜 山で仲間を失った山岳部員の痛恨

 前回(鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(第1回)松本清張「遭難」と加藤薫・序説 - KJ's Books and Music)の続き。

 

 

 馳星周選『闇冥 - 山岳ミステリ・アンソロジー』(ヤマケイ文庫,2019)の目玉は、何と言っても忘れられた山岳小説家・加藤薫の「遭難」だろう。以下ヤマケイのサイトより、山岳エンタメ専門サイト「ヴァーチャル・クライマー」を主宰するGAMO氏の紹介文を引用する。

 

www.yamakei.co.jp

 

加藤薫という作家の名前を聞いたことのある人は、あまり多くはいないだろう。加藤は1969年に「アルプスに死す」でオール讀物推理小説新人賞を受賞して文壇デビュー。その後、大学山岳部を舞台にした短編ミステリーを立て続けに発表し、「雪煙」や「ひとつの山」といった単行本を出版したものの、1974年を境に、突然名前を見かけなくなった。なぜ、わずか5、6年で筆を折ったのか、理由は分からない。その加藤が、新人賞受賞後最初に執筆した作品が、本作「遭難」である。

舞台は海抜3000mの北アルプスK峰、とある年の12月下旬のこと。江田たち大学山岳部員6人は、北尾根隊と東尾根隊に分かれて、2ルートからK峰登頂を目指した。しかし、折悪しく急襲した低気圧による吹雪に見舞われ、風邪でアタックを諦めた北尾根隊の江田と、経験不足でテントキーパーとして残った東尾根隊のタゴサクこと小浜道子以外の4人が、帰らぬ人となった。風邪薬を飲んだ江田が寝過ごしたために朝の気象通報を聞きそびれ、低気圧の到来に気付くのが遅れたことが、遭難の一因だった。それ以来、江田は自らの失態を悔み、タゴサクの心ない言葉に苦しみ続けた・・・・・・。

大学時代山岳部に所属していた加藤の作品には、往年の山好きにはたまらないであろう登山や山岳部にまつわる数々のエピソードが登場する。本作も、そうしたおもしろさに加えて、確かな知識に裏打ちされた登山描写、仲間を遭難死させてしまった男の繊細な心理描写など読み応え十分。直木賞の候補に挙がったのもうなずける。当時、まだ登山ブームが続いていたことを考えると、加藤作品の人気も高かったことだろう。

しかしながら本作は、加藤自身の過去を抜きに語ることはできない。「遭難」発表から遡ること約14年。まだ大学生だった加藤は、1955年の暮れから翌年正月にかけて、大学山岳部員8人とともに、鹿島槍ヶ岳に出かけている。東尾根ルートを登った加藤ら3人は無事登頂し下山したものの、天狗尾根伝いに山頂を目指した5人は、テントキーパー以外4人が行方不明となった。この事件の詳細、真相は分からない。しかし、この事実から言えることは、「遭難」の主人公江田は加藤(本名:江間俊一)自身であり、「遭難」という作品は加藤が最も書きたかった作品、いや書かずにはいられなかった作品だということだ。

作品の中で加藤は、生き残った江田の心情をこう書いている。「ひとり生き残って幸運を受けては済まぬという気持ちがさきにたった」と。取りも直さず、この思いは加藤自身がそれまで生きてきて感じ続けてきた悔恨の思いに他ならない。そして、筆者の勝手な憶測だが、江田に心ない言葉を投げつけるタゴサクという登場人物もまた、加藤の分身ではなかろうか。「殺したのはあなただ」「なぜ助けに行かなかった」。その自責の念が、ずっと加藤を苦しめ続けていた。

ところが、江田を責め、苦しめ続けたはずのタゴサクが、15年経ってそのことを忘れている。すっかり肥えて、二児の母になっていた。事件を悔み続けている加藤と、幸運になろうとする加藤。その葛藤もまた加藤を苦しめていた。本作を読む限り、15年という歳月を経て、文学作品として己の苦しみをさらけ出しても、加藤の悔恨の思いは昇華されていない。

加藤は、雑誌『山と溪谷』で半年間連載した代表作「ひとつの山」の出版を最後に、作品を発表していない。幸運になろうとする自分を戒めるために筆を折ったというのは、筆者の考え過ぎであろうか。苦悩の中で生き続ける男の混沌とした思いを、本作から感じ取って欲しい。

(文=GAMO/ヴァーチャル・クライマー)

 

 

 『闇冥』に収録された小説を書いた4人の小説家のうち、実生活でもっとも「生命を賭けた」山登りをしたのは加藤薫だ。

 4人のうちいちばん山とのかかわりが薄かったのはいうまでもなく松本清張で、次いで、山にはのめり込んだものの「登山はほとんどが夏山で、天気予報に忠実に従う」*1と語った森村誠一、中央気象台(のちの気象庁)に勤務して厳冬の富士山頂での越冬も経験した新田次郎が続くとみられる*2。加藤薫(本名・江間俊一)は学習院大学山岳部の学生として4人が死亡した、冬の鹿島槍ヶ岳登山の当事者となった。彼らが挑んだのは一般登山道ではなくバリエーションルートだった。事故の詳細は、以前にも紹介した下記サイトを参照されたい(今回はリンクを張るにとどめる)。

 

naokiaward.cocolog-nifty.com

 

 加藤薫の「遭難」は、小説のタイトルと主人公の姓「江田」が清張作品と共通しているにもかかわらず、アンソロジーに収められた清張の「遭難」を含む他の3作とは大きな違いがある。それは、他の3作には明確な殺意を持った登場人物が描かれているのに対し、加藤作品にはその要素がないことだ。これは、他の3人の小説家と加藤薫とで、山とのかかわり方が異なっていたためではなかろうか。

 松本清張は、エッセイ「灰色の皺」(『オール讀物』1971年5月号掲載)で加藤薫に言及して、

氏も「登山家の悪人」を書いているから、わたしも意を強くしている。

と書いているが*3、にもかかわらず、清張の「遭難」の江田と、加藤薫の「遭難」の江田とは全く違う。アンソロジーに収められた他の2作、すなわち新田次郎作品と森村誠一作品は明らかに清張作品と同じ向きのベクトルを持っているから、それだけに加藤作品の痛切さが際立つ。加藤作品での「登山家の心の闇」は、大家たちが書いた他の3作品に描かれた「明確な殺意」とは全く異なるが、それにもかかわらず同じ「心の闇」という言葉で括ることができる。それが人の心というものなのだろう。

 この作品をアンソロジーで4作中の3番目に持ってきたのは馳星周とヤマケイ文庫編集部の大ヒットだった。

 なお、加藤薫の「遭難」と、1955〜56年の年末年始に起きた学習院大学山岳部の遭難事件とは全く違い、加藤作品が「実際の事件にヒントを得てはいるけれども完全なフィクション」であることははっきりしている。そのことは、加藤作品と前記リンク先のブログ『直木賞のすべて 余聞と余分』の記事を読み比べていただければよくおわかりいただけよう。

 なお、『闇冥』の巻末に、

●加藤薫氏の著作権継承者のご消息をご存じの方は、編集部までご連絡いただきたくお願いいたします。

と書かれている。同書297頁には、作者の生年(1933年)は書かれているが没年は書かれていない。加藤薫氏はどうやら物故されているようだが、没年を含み、氏が筆を折った後の消息は不明ということなのだろうか。

(この項続く

*1:http://mainichi.jp/sp/shikou/26/02.html。2013年に行われたインタビューと思われる。

*2:ちなみに私は松本清張森村誠一の中間だが、どちらかといえば清張寄り(笑)の人間だ。春から秋にかけて年2,3回山に行くに過ぎない。

*3:松本清張『実感的人生論』(中公文庫,2004)143-144頁

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(第1回)松本清張「遭難」と加藤薫・序説

 1年前、去年(2018年)3月に、このブログの下記記事にコメントをいただいた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 いただいたコメントは下記。ブログ管理画面で確認すると、「2018-03-12 22:32:28」のタイムスタンプがある。つまり今から1年1か月前。

 

通りすがりの山岳小説ファン

 

今さらですが、気になるブログだったのでコメントさせて頂きます。

松本清張の「遭難」は私も好きな作品の一つで、色々調べたことがあります。
その際に、ウィキペディアに出てくる「灰色の皺」のエッセイや、松本清張全集の月報も読みましたが、私が読んだ限りでは加藤薫が松本清張の相談を受けたとか、現地まで案内したとは書いてありませんでした。
確かに紛らわしい書き方にはなっているのですが、ウィキを書いた方が誤認したのではないかと思います。
もし、ウィキペディアに掲載されている資料以外で、加藤薫が松本清張の相談に乗ったというようなことが出ている資料などをご存じでしたらお教え頂けませんでしょうか?
よろしくお願いします。

 

 このご指摘を受けて、当時、文藝春秋社刊『松本清張全集4』(1971)の月報を図書館で確認したが*1、確かにご指摘の通りで、全集の月報に載っていた扇谷正造の「『黒い画集』の思い出」には該当する記述はなかった。

 これは調べて返事をしないといけないと思いつつ、時間が取れなかったのでそのままにしていたが、先月21日に突然この件を調べるモチベーションが喚起された。

 それは何かというと、加藤薫の「遭難」が文庫化されていたのを東京・神保町の東京党書店の店頭で見て知ったのだ。早速買い求めて読んだ。それが山と渓谷社のヤマケイ文庫から2月に刊行された、「山岳ミステリ・アンソロジー」と銘打たれた馳星周選の『闇冥』(あんめい)だ。

 

 

 この文庫本には、松本清張の「遭難」、新田次郎の「錆びたピッケル」、加藤薫の「遭難」、森村誠一の「垂直の陥穽」の4篇の短篇が収録されている。それらにはいずれも共通のテーマがあり、それは選者の馳星周氏の表現を借りれば「荒れ狂う大自然の中、卑小な人間が心の奥に抱える深い闇を描いた作品」だ。

 この4篇のセレクションはまことに素晴らしい。以下、露骨なネタバレになるので未読の方はここで読むのを止めていただければ幸いだ。

 松本清張の有名な「遭難」(1958)に続いて、それをなぞるかのように見えて大きくひねった新田次郎の「錆びたピッケル」(1962)を置き、3番目に清張作品と同じタイトルで、同じ鹿島槍ヶ岳を指すとしか考えられない「海抜三千メートルの北アルプスK峰」が舞台で、主人公も清張作品と同姓である加藤薫の「遭難」(1970)を持ってくる。そして最後に、清張の「遭難」で返り討ちにあった槇田二郎の無念を晴らすかのような森村誠一の「垂直の陥穽」(1971)で締める。その見事な配列にはうならされた。

 さらにヤマケイ文庫からは『闇冥』と同時期に伊藤正一の『定本 黒部の山賊 - アルプスの怪』も刊行されていたので、これも東京堂書店で買って読んだ。

 

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

 

 

 驚いたことに、この本の201-202頁に「鹿島槍の殺人事件」が載っている。つまり、「山に行く人間に悪人はいない」という俗説が大嘘であることは事実によって証明されているようなのだ。

 なお、先月21日に東京堂書店に入ったのは、その直前に入った三省堂書店百田尚樹のサイン会が3月26日に行われるという宣伝が掲示されていたので、それに腹を立てて三省堂で本を買うのを止めて、東京堂書店で買うことにしたためだ。この日は他に原武史の『平成の終焉』(岩波新書)ほか2冊も東京堂書店で買った。『平成の終焉』は百田のサイン会がなければ三省堂でも買えただろうが、三省堂ではヤマケイ文庫の2冊は目に入らず買うことはなかっただろう。その意味で、ヤマケイ文庫の2冊に出会えたのは百田のおかげだったことになる。百田様々だ(笑)

 これらの本について書くのは次回(連載2回目)からにして、この記事では去年戴いたコメントへの回答の要旨を書いておく。

 今回調べたのは、遭難 (松本清張) - Wikipedia で言及されている清張のエッセイ「灰色の皺」(初出『オール讀物』1971年5月号)が掲載されている中公文庫の『実感的人生論』(2004)と、前掲の『松本清張全集4』に載っている清張自身の「『黒い画集』を終わって」(480-492頁)、及びそれを引用した阿刀田高の『松本清張を推理する』(朝日新書2009, 121-122頁)だ。

 

実感的人生論 (中公文庫)

実感的人生論 (中公文庫)

 

  

松本清張を推理する (朝日新書)

松本清張を推理する (朝日新書)

 

 

 今回私が確認できた限りでは、清張が加藤薫に言及したのは私が確認した限り「灰色の皺」で一度、一箇所にあるだけで、そこでの清張の文章は「確かに紛らわしい書き方にはなっている」とのご指摘の通りだった。つまり、清張の「遭難」に加藤薫が協力した可能性はあるが、そうでない可能性もあり、事実ははっきりしなかった。「ウィキを書いた方が誤認した」ことは間違いなく、筆者氏はおそらく『松本清張全集4』に載っている清張自身の「『黒い画集』を終わって」と、全集の月報に掲載された扇谷正造の「『黒い画集』の思い出」とを取り違えたものと推測される。なぜそのような取り違えが起きたかはわからないが、私自身が最初リンクを張った記事でやったのと同じように、原文に当たらずにネット情報をもとに推理を組み立てて誤認してしまったのではないかと思われる。

 詳細は後日に改めて書きますが、このテーマでは諸作品の魅力を含めて書きたいことがあまりにも多いので、おそらく連載の後半で触れることになろうかと思います。ご了承のほどお願いします。

(この項続く

*1:ありがたいことに、東京都K区K図書館に置いてある『松本清張全集』には月報が添付されていた。一方、E区C図書館に置いてある同全集には月報は添付されていない。図書館によりさまざまなのだろうが、添付されているとありがたい。

城山三郎『役員室午後三時』を読む

 前の土日(4/6,7)に城山三郎の『役員室午後三時』(新潮文庫1975, 単行本初出新潮社1971)を読んだ。

 

役員室午後三時 (新潮文庫)

役員室午後三時 (新潮文庫)

 

 

 上記リンクの文庫本の装丁は改版前のもので、2009年に改版されて文字が大きくなったとともに、表紙のデザインが一新された。

 内容は1960年代の鐘紡をモデルにとった「華王紡」を舞台にした「フィクション」。ここで括弧付きにしたのは、事実を反映した箇所に著者の創作を織り交ぜるという、城山三郎自身が創設したとされる「経済小説」の典型的なスタイルをとっているからだ。こういう本を読むと、どこまでが史実でどこからが作者の創作なのかがわからず、ネット検索に頼ることになるが、なにぶん半世紀前の話なのではっきりしないところもある。間違いないのは、2人いる主人公のうち、社長の座を二度にわたって追い落とされる「藤堂」もモデルが武藤絲治(むとう・いとじ, 1903-1970)であり、武藤の腹心と言われながら追い落としたのが伊藤淳二(1922-)だということだ。2人の権力闘争は熾烈を極めるが、こういうのを描き出す時に城山三郎の筆鋒は冴え渡る。やはり経済小説といえば城山三郎だなと思わせるのである。ただ、華王紡が売れなかった化粧品を海に不法投棄したエピソードなどについては、それに対応する史実は確認できなかったりするから、繰り返すがどこまでが史実かはわからない。著者や編集者に流された情報にはガセも少なからずあると思われるが、「フィクション」にしてしまえば書ける。なかなか巧妙なやり方だが、情報化社会の現在では名誉毀損で訴えられるリスクが半世紀前とは比較にならないほど高くなっている。

 この本は武藤絲治が1970年12月に亡くなった1年後の1971年12月に出版されているが、武藤に対する痛烈な批判が込められている。鐘紡労組をバックにした伊藤淳二が武藤を追い落とすクーデタをやったのは1968年だから、それからも3年しか経っていない。発刊当時には相当に生々しい暴露小説だったに違いない。

 追い落とした側の伊藤淳二は、一昨年秋に読んだ山崎豊子の『沈まぬ太陽』に出てくる日航の「国見会長」のモデルでもある。

 

沈まぬ太陽〈4〉会長室篇(上) (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈4〉会長室篇(上) (新潮文庫)

 

  

沈まぬ太陽〈5〉会長室篇(下) (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈5〉会長室篇(下) (新潮文庫)

 

 

 この作品について、このブログか『kojitakenの日記』に取り上げていたかと思ってブログ内検索をかけたがみつからなかった。某所で下書きをしようとしたことがあったがどうやら書く機を逸していたらしい。日航労組*1の小倉寛太郎(1930-2002)を主人公・恩地元のモデルとしたこの小説の第三部に当たる「会長室篇」で、1985年にジャンボ機墜落事件を引き起こした日航の再建に送り込まれたのが伊藤淳二をモデルにした「国見会長」だった。この小説では国見は徹底的に善玉として描かれていたが、読んだ頃からそれには強い違和感を持っていた。今回城山作品を読んで、こちらの方が伊藤淳二の実像に近いんだろうなと思った。ただ、どうして伊藤淳二が小倉寛太郎を会長室に抜擢したかはよく納得できた。伊藤淳二は、昔から権力維持の手段として労組を利用してきた人だったのだ。それでワンマンの実像を巧みにカモフラージュしていたのかもしれない。

 以上、あらすじの紹介さえはしょって書いたが、以下ネット検索で得られたサイトからいくつか引用する。

  まず、かつて鐘紡に勤務されていたという方のブログ記事より。

 

ameblo.jp

日本最大の紡績会社を舞台に、絶対の権力を誇るワンマン社長と新しいタイプの若手管理職との間の葛藤、やがて訪れる社長交代劇を通じて、時代とともに変わりゆく企業経営のあり方に鋭く迫ったビジネス小説の傑作です。

『役員室午後三時』というタイトルは、舞台となる“華王紡”の役員会が午後三時に始まることと、当時言われていた「紡績事業は(斜陽になりつつある)午後三時の事業」という意味をダブらせていたのだそうです。
あくまで自分の権力に固執し続ける藤堂社長と、苦悩しつつも藤堂社長を引き摺り下ろさざると得なかった腹心の矢吹との人間ドラマは、企業経営の非情さとともに、旧から新へと脱皮する過程における“産みの苦しみ”を、リアリティを以て読者に訴えかけてきます。

城山三郎氏の経済小説は、傑作と呼べるものばかりが揃っているのですが、私自身が以前“華王紡”のモデルとされている“鐘紡”に勤めていたこともあって、『役員室午後三時』は特別に印象深い小説です。

武藤絲治氏から伊藤淳二氏への社長交代劇から経ること20数年、私が入社した頃の鐘紡は化粧品事業の成功もあって、本作の“矢吹”のモデルになった伊藤淳二氏はちょうど“藤堂社長”のような立場にいらっしゃいました。
ご承知の通り、伊藤氏は後進に経営を譲るも鐘紡は凋落の一途を辿り、やがて会社更生法を適用することとなります。

あれだけ経営者として高く評価されていた伊藤氏でしたが、最終的に本作の“藤堂社長”と似たような境遇に陥ってしまわれたことは、企業経営の難しさと繰り返す歴史の皮肉さを、私たちに語りかけてくるかのようでした。

『真実の瞬間』においてスカンジナビア航空の成功物語に触れているうちに、なぜかしら本作のことを思い出してしまいました。

 

(『晴読雨読:本好きの読書ブログ (^_^)』2012年9月14日)

 

 続いて、かつて朝日新聞経済部で 鐘紡を担当した高成田享記者が、2004年に "asahi.com" に書いた文章を挙げる。

 

http://www.asahi.com/column/aic/Mon/d_drag/20041101.html

日本的経営の午後3時
高成田の顔写真 高成田 享
タカナリタ・トオル

経済部記者、ワシントン特派員、アメリカ総局長などを経て、論説委員
バックナンバー 穴吹史士のキャスターClick



産業再生機構の支援で再建中のカネボウが旧経営陣の会計処理に不正があったとして、証券取引法違反容疑で、刑事告発や損害賠償請求をするという。この大手化粧品メーカーの粉飾決算という厚化粧の下には、裏金の捻出と支出という膿を貯めたできものがあったということだろう。

1970年代の後半、私が経済記者として繊維・化学産業を担当したころ、この会社の名前は「鐘紡」で、大手繊維メーカーのひとつだった。当時の印象は、「暗く、重苦しい」という感じだった。東レ帝人などの合繊(ポリエステルなど)主体の企業には、明るさや軽さがあったが、天然繊維(綿、絹)が主体だった企業は、暗い影がつきまとっていた。

天然繊維から合繊への変化と、途上国の追い上げで、構造不況の荒波をまともに受けていたこともあるが、日本の近代資本主義を支えた企業の伝統が重くのしかかっていたことが大きい。企業の決算発表の時期になると、各社の社長が会見するのが恒例になっていたが、カネボウの発表に出かけて驚いた。社長の後ろに十数人の役員、それも若い記者から見ると、おじいさんにしか見えない高齢の人たちが並んでいたからだ。ほかの企業は、社長に同席するのは経理担当役員くらいだったので、その違いに唖然としたのだ。

鐘紡の経営は、「会社は家族」であり、「運命共同体」という意識が強かった。それが、若手への新陳代謝を遅らせ、経営陣をみると、お年寄りばかりという印象になっていた。鐘紡にとくに強かった家族意識を育てたのは、同社の中興の祖といわれる武藤山治(1867~1934年)だ。武藤の経営哲学は「温情主義」で、女子工員の労働環境の改善に努めた。いわば会社を家族になぞらえる日本的経営の元祖のような企業だった。紡績会社の女工は、「女工哀史」の象徴であったが、武藤は女工のための寮を整備するなど、福利厚生に力を入れた。

その信念は、「温情主義」だったかもしれないが、背後には、欧米諸国から日本の紡績工場などでの奴隷的な労働が日本製品の安さの根源だとして批判されていたことがあるし、「資本家の搾取」を糾弾する労働運動が盛んになっていたこともあるだろう。

その後、武藤山治の子どもが経営を担い、武藤ファミリーの会社になっていたが、取締役会で解任を迫るという一種の「クーデター」によって、1968年から伊藤淳二氏が経営を引き継いだ。伊藤時代は長く続き、最終的に伊藤氏が会長を辞したのは24年後の1992年だった。

この事件を元にしたといわれるのが城山三郎氏の『役員室午後三時』で、繊維産業が衰えるなかで、ワンマン社長の権力が揺らいでいくたそがれを「午後3時」という言葉が見事に表している。

私が業界担当記者として鐘紡に接したときは、すでに伊藤体制だったことになるが、産業再生機構に身を委ねた今日の姿を見ると、伊藤氏は、あの「暗さ」を払拭できないままに、産業の変化に対応できなかったのだろうか。企業文化としての「温情主義」がリストラを遅らせたのかもしれない。

産業再生機構の専務を務める富山和彦氏が朝日新聞の「時流自論」というコラム(今年5月9日)に、「カイシャの呪縛、社会に有害」と題して、家族的経営という伝統的な日本企業の経営思想が呪縛になって、企業の再生を遅らせているとして、その典型としてカネボウを例示した。すると、伊藤淳二氏が「企業経営『日本型』は呪縛ではない」と題した「私の視点」を朝日新聞(同5月27火)に寄稿した。トヨタ自動車キヤノンも日本経営の典型であり、「何でも米国式がよいという昨今の誤りは、文化の違いを捨象した単純化にある」と反論した。

結果論としては、日本型にどっぷりつかったカネボウが再生機構の助けを借りずに生き残ることはできなかったことは確かだ。また、再生機構が暴いた不正経理なども、私から見れば、「暗く重苦しい」なかで醸造されてきた負の文化のように思えてならない。その意味では、「敗軍の将」である伊藤氏に反論する資格はないと思う。

とはいえ、いまの日本企業の多くで常態化している「サービス残業」などは、社員が会社との一体感を持つ「うちのカイシャ」意識のなかに成り立っているもので、それを全否定した「合理的な経営」で、ちゃんともうけていると胸を張れる企業がどれだけあるのかという疑問もある。

企業をリストラするときは、会社は家族ではないと、合理主義の経営者になり、サービス残業のようなただ働き問題が出てくると、社員の「温情主義」にすがるのが、いまの経営者ではないのか。

企業は運命共同体という日本型経営が午後3時であることは明らかだが、あるときは冷徹な合理主義、あるときは社員のただ働きにすがる温情主義というエセ欧米型経営も同じようにたそがれていくはずである。

 

(Asahi Internet Casterより『ニュースDrag』2004年11月1日)

 

 最後に、上記記事が書かれた翌2005年に書かれた『月刊ロジスティクス・ビジネス』の記事。これが一番衝撃的だ。

 

magazine.logi-biz.com

カネボウの事件で明らかになったのは監査法人と企業の癒着という問題だけではない。
クライアント企業の担当者より専門的知識のない公認会計士の、専門家としての資質そのものが問われているのだ。

 

第二のアーサー・アンダーセン

 

カネボウ粉飾決算中央青山監査法人の四人の公認会 計士が証券取引法違反容疑で逮捕、三人が起訴された事件が大きな衝撃を与えている。
中央青山監査法人は破綻した足利銀行の監査をめぐって 現経営陣から損害賠償を請求されているが、カネボウの事件ではそれを担当した会計士だけでなく、中央青山監査法 人自体が処分されるのではないか、といわれる。
もしそうなると“第二のアーサー・アンダーセン事件”として日本の監査法人全体に大きなショックを与えることにな る。
山一証券が倒産したのは子会社に損失を「飛ばし」ていたことが表面化したためだが、山一証券だけでなく、他の証券会社も同じようなことをしていた。
カネボウの場合も売れない製品を子会社に売ったことにし、そしてその子会社を連結決算からはずす(連結はずし)という操作を行っていたことがばれたのだが、このような「連結はずし」は他の会社でもよくやられている。
カネボウの場合は帆足隆元社長ら三人がすでに粉飾決算容疑で逮捕、起訴されており、それがさらに中央青山監査法人公認会計士にまで及んだのだが、ここまで粉飾決算事件が発展したのは珍しい。
日本では会社が倒産すると必ずといってよいほど粉飾決算が表面化する。
このことは逆にいえば倒産しない限り粉飾決算は表面化しないということである。
カネボウの場合も産業再生機構に持ち込まれて、事実上倒産したと同じことになったところから粉飾決算が表面化したのである。
「倒産しない限り粉飾決算は表面化しない」ということは、日本の会社の多くは粉飾決算をしているということであり、日本の企業会計がいかにいい加減なものか、そして公認会計士がいかに信用できないものか、ということを表している。

 

『役員室午後三時』のカネボウ

 

カネボウの裏金、六〇年代から政界・総会屋に提供」という見出しの記事が二〇〇五年八月一日付けの「朝日新聞」に大きく出ていたが、カネボウでは政治家や総会屋にカネを渡すための裏金作りをしており、そのために粉飾決算が行われていたというのである。
この記事はカネボウ元社長の伊藤淳二氏とのインタビューに基づくもので、伊藤氏が社長に就任した一九六八年以降、裏金作りをしていたという。
筆者は一九五〇年代、新聞記者として繊維業界を担当していたが、当時カネボウの決算は「幻の決算」といわれ、会計操作が行われていた。
そしてカネボウの秘書室には総会屋や政治家がカネをもらいにたくさん来ていたことを思い出す。
それというのもこの会社には内紛が絶えず、「山田副社長追い出し事件」から「武藤社長の追い出し、復帰、そしてさらに追い出し」と、お家騒動が続いた。
山田副社長追い出し事件では児玉誉士夫を会社側が使ったといわれるが、以後この会社には総会屋がくらいついて離れない。
そして政治家もそれに便乗してカネをあさりに来る。
こうしてカネボウ粉飾決算は連綿として続いたのだが、だれもこれを問題にしなかった。
そして会社が産業再生機構送りとなってはじめて表面化したというわけだ。
もっとも、このカネボウのお家騒動と粉飾決算等は繊維担当記者には常識になっていた。
そこでこれをもとにして書かれたのが城山三郎氏の『役員室午後三時』である。
この小説は武藤絲治社長とその秘書であった伊藤淳二をモデルにしてお家騒動をくわしく書くと同時に、化粧品部門の粉飾決算についてもリアルに画いている。
この本が出たのは一九七一年だが、三〇年以上前から常識とされていたことが、いまやっと表面化したというわけで、筆者としては感慨無量の思いがする。(後略)

 

(『月刊ロジスティクス・ビジネス』2005年11号「奥村宏の判断学」より)

 

 日本の企業の闇は、あまりにも深くて暗い。

*1:この日航も滅茶苦茶な会社だったが、そのありようはある意味で鐘紡の対極にあったといえる。だが両極端ともいうべき両社とも経営破綻してしまったのだった。

原武史『皇后考』と『平成の終焉』を読む

 新元号が明日(4/1)に発表されるらしいので、その前に公開した方が良いと思って急いで記事を書くことにした。

 

 今月下旬に岩波新書から原武史の『平成の終焉』が出ると知って、長い間積ん読にしてあった同じ原武史の『皇后考』(講談社学術文庫)を読むことにした。読み始めたのが3月15日で、11日間かけて読んだ。

 

皇后考 (講談社学術文庫)

皇后考 (講談社学術文庫)

 

 

 そのあと、3月29日から今日(3月31日)まで、出たばかりの『平成の終焉』(岩波新書)を読んだ。

 

 

 ありがたいことに、2冊とも巻末に全巻のエッセンスというべき文章が置かれている。

 まず、『皇后考』から引用する。

 

 行幸啓が繰り返されるたびに、包摂と排除の政治力学が見えないところで作用する。たとえ皇后自身の本意ではなくても、皇后は天皇制の権力強化に加担している。いや、加担しているどころではない。象徴天皇制の正統性は、天皇ではなく、光明皇后をモデルとする皇后によって担われていると言っても過言ではあるまい。(中略)皇后美智子こそは最高のカリスマ的権威をもった〈政治家〉であることを忘れてはなるまい。

 だが同時にそれは、もし皇后が皇后として十分な役割を果たせなければ、皇后に匹敵する有力な皇族妃が出てこない限り、象徴天皇制の正統性そのものが揺らぐことを意味するのである。この仮定が決して荒唐無稽でないことは、近い将来に照明されるであろう。

 生まれながらの皇后はいない。天皇とは異なり、血脈によって正統性が保たれていない皇后は、人生の途中で皇室に嫁ぎ、さまざまな葛藤を克服して皇后になることが求められる。しかし、誰もが皇太后節子(さだこ=引用者註。大正天皇妃だった貞明皇后のこと)や皇后美智子のように、その過酷な条件をクリアしてナカツスメラミコトになれるわけではないのである。

 

原武史『皇后考』講談社学術文庫2017, 623-624頁。引用文中の太字は原文では傍点。)

 

 「ナカツスメラミコト」とは、「神と人間である天皇の中間」、つまり天皇の上位に位置づけられる存在として著者は論じている。それになろうとしたのが貞明皇后であって、昭和天皇は実母でもあるそんな貞明皇后に頭が上がらなかったのだというのが著者の説だ。本書に美智子妃(や雅子妃)への言及はほとんどない上、先代の天皇妃である昭憲皇太后への言及部分も少なく(全23章のうちの第4章と第5章)、実質的に貞明皇后を論じた本であるといえる。ただ、現時点ではそれよりも次期皇后になる雅子妃が関心の焦点になる。

 続いて、『平成の終焉』の巻末より引用する。

 

 (前略)(天皇明仁の=引用者註)「おことば」に反して、ポスト平成の皇室が平成と全く同じということはあり得ません。それがどうなるかは、天皇徳仁と皇后雅子が、「おことば」で示されたような平成における天皇と国民の関係を改め、明治以来天皇とともに強まってきた国民国家という枠組みを超えた天皇と皇后になるのか、それとも昭和以前のように皇后の存在感が相対的に小さくなり、右派が目指すような天皇の権威化が進むのか、そのどちらかに向かうかによって大きく変わってくるでしょう。

 ただどちらに向かうにせよ、「おことば」で定義された象徴としての務めが完全に消えるわけではありません。その務めは天皇と皇后以上に皇位を意識する皇嗣皇嗣妃に受け継がれ、大正を経たあとに明治が理想としてよみがえったように、ポスト平成を経たあとに平成が理想としてよみがえることはあり得ると思います。(後略)

 

原武史『平成の終焉』岩波新書2019, 217頁)

 

 上記の引用文にある「明治以来天皇とともに強まってきた国民国家という枠組みを超えた天皇と皇后」というのは『皇后考』からの引用文にある「包摂と排除の政治力学」とつながる。つまり、平成の天皇・皇后のあり方からは「国民国家という枠組み」の中にいる者は包摂されるが、枠組み外にある者(たとえば外国籍の人たち)は排除されているが、登山を好む次期天皇にはそれを超え得るポテンシャルがあると著者は考えている。また皇后美智子の「天皇の後ろを歩き、天皇の傍らで祈る」(『平成の終焉』190頁)あり方は、「若い女性の専業主婦願望が高まっている理由の一つ」(同)になっているという負の側面があるとも指摘している。外務省のキャリア・ウーマンだった雅子妃にはそれを打破するポテンシャルを持っているが、懸念もある。以下、『平成の終焉』から引用する。

 

 けれども新皇后が、キャリア・ウーマンとしての体験を生かすためには、体調を回復させるだけでは十分でありません。皇后美智子に匹敵する言語能力を駆使して、自らの皇后像を積極的に語ることが求められるからです。一〇年以上にわたる「沈黙」を保ってきた新皇后にとって、そのハードルは決して低くないはずです。

 

原武史『平成の終焉』岩波新書2019, 211頁)

 

 雅子が皇后になっても「引きこもり」を続けるようであれば、「昭和以前のように皇后の存在感が相対的に小さくなり、右派が目指すような天皇の権威化が進む」恐れもあるというわけだ。

 なお私は、著者が指摘する2つの方向を向いたベクトルがせめぎ合い、事態は複雑な様相を呈するに違いないと予想している。ある局面では新天皇夫妻が進歩的で上皇夫妻(及び秋篠宮夫妻)が反動的な役割を担うが、別の局面では両者がそれとは正反対の役割を担うこともあり得る、というかそうなる可能性の方が高いと思っている。

 それとともに、彼ら(新旧天皇夫妻や皇嗣夫妻)の個人的資質や言動に大きく左右されるあり方は、どう考えても民主主義にとって好ましくない、つまり天皇制は廃止すべきだと私は考える。著者が天皇制の存廃についてどちらを望ましいと考えているかは明らかではないが、『平成の終焉』のあとがきにある下記の文章には共感した。

 

(前略)望ましい天皇制のあり方について、制度そのものを存続すべきか否かを含めて真剣に議論することが求められるでしょう。

 

原武史『平成の終焉』岩波新書2019, 222頁)

 

 以上で本論は終わり。以下は長い蛇足。

 

 『皇后考』は講談社「学術」文庫に収録されてやたら分厚いし、最近の新潮文庫光文社文庫みたいに活字も大きくない(というか小さい)ので取っつきは悪いが、読み始めたら最初はスイスイと読める。だが、貞明皇后が存在感を増してくるあたりから重苦しくなり、頁を繰るのがどんどん遅くなっていった。

 本の後半は小倉から東京まで青春18きっぷで乗った鈍行列車(途中大阪で一泊した)の車内で読んだが、並行して林芙美子の『放浪記』も読んだ。それは大部分が東京を舞台とするこの小説に一部で舞台となる尾道を列車が通過するからであり、昔2002年に倉敷から宮島まで鈍行列車で紅葉狩りに行った時に尾道駅の手前で車掌が突如読み上げた小説中の下記の文章をちょうど尾道駅を通過した時に読めるように時間調整をしたのだった。

 

 海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。記者が尾道の海にさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。

 

林芙美子『放浪記』岩波文庫2014, 256頁)

 

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

 

  

 だがこの目論見は失敗した。尾道駅に着いた頃、読んでいたのはそれより少し前の第二部の初めの方だった。少し『皇后考』にのめり込みすぎて読むのを中断するタイミングが遅れたのだった。ただ、その箇所も尾道からかつての恋人の実家があった因島を訪ねる場面だったからまあよしとするかと思った。なお因島尾道もかつて2004年に二度今治からサイクリングで訪ねたことがあるし、尾道には1991年に泊まりで行ったこともある。

 ところが『放浪記』もあとになるほど読むペースが落ちた。特に第三部は戦後に書かれているのだが、『放浪記』が当たって金回りが良くなり、それまでアナーキズムを信奉していたはずの林芙美子が一転して戦争に協力しまくったあとの戦後に、貧しかった頃を回想して書かれた文章なので、説明調だし作者の押しの強さが文体にどんどん反映されてくるので、第一部の半分くらいのペースまで落ちてしまったのだった。

 ただ、偶然だが貞明皇后林芙美子は同じ1951年に1か月あまりの時を隔てて相次いで心臓病で急死した。二人とも容姿より体力が自慢の人だったが、貞明皇后は66歳、林芙美子は47歳で死んだ。二人とも比類のないパワーの持ち主で、常人にはとても太刀打ちできないと思わされたが、二人ともに戦争にのめり込んだ。貞明皇后の方は定説にはなっていないかもしれないが、原武史の説によれば筧克彦の神ながらの道にのめり込んで「勝ちいくさ」を祈り続け、その逆鱗に触れることを恐れた昭和天皇が戦争を終わらせる決断をするのを遅らせたという。林芙美子内閣情報局の「ペン部隊」として南京(!)や漢口に送り込まれ、朝日新聞毎日新聞に従軍記を書いた。『放浪記』では大杉栄への共感を表明するなどしていたのに、あっという間に「転向」したのだった。

 そして戦後6年、サンフランシスコ条約調印を前にして、2人は相次いで心臓病で世を去った。特に貞明皇后は便所で倒れた(林芙美子は就寝中に発作が起きた)。その貞明皇后の死に言及した原武史の『皇后考』の文章は猛烈に辛辣だ。以下引用する。

 

  皇太后が御東所(便所=引用者註)で倒れたことは公表されなかった。(中略)それは宮中で、御東所が不浄を意味する「次」のなかでも「大次」と呼ばれる最も不浄な場所とされているからであり、皇太后が本来御東所を出てするべき二度の手水もせずに死去したしたことを公表したくなかったからではないか。

 皇太后にとって、大次のまま死去するというのは決してあってはならないことだったに違いない。

 

原武史『皇太后講談社学術文庫2017, 586頁)

  

 これにはさすがの私も「ここまで書くか」一瞬と思ったが、「皇后になる」とはこういう書かれ方をされることも受け入れることなのだろう。かつてサッチャーが死んだ時、イギリスのサッチャー批判派が「さあ地獄が民営化*1されるぞ」と皮肉ったことがあったが、公人の論評はそれでいいんだ、と思い直した。あと、貞明皇后が養蚕業に力を入れた記述を、でも生糸はナイロンなどの合成繊維に駆逐されたんだけどなあ、と思いながら読んでいたら、案の定というべきか原はそれをきっちり指摘していた(前掲書570頁)。ただ著者は、1949年にGHQが押しつけた緊縮財政政策であるドッジ・ラインによる不況を蚕糸業が乗り越えられるとの貞明皇后の予想は「短期的に見れば正し」かった(1950年に「生糸の輸出数量はピークに達した」)とも評価している(同580頁)。このあたりの貞明皇后の能力は、昭和天皇をはるかに凌駕していたように私には思われたが、2人の能力差は、既に引用した文章に書かれた「天皇とは異なり、血脈によって正統性が保たれていない皇后は、人生の途中で皇室に嫁ぎ、さまざまな葛藤を克服して皇后になることが求められる」ことによるのかもしれない。

 それだけに、昭和天皇に戦争継続への強い(無言の)圧力をかけたと原武史が認定する貞明皇后の戦争責任は決して無視できないのではないか。そう思った。

 

 最後に蛇足の蛇足。昨日、城山三郎の下記短篇集を読了した。

 

硫黄島に死す (新潮文庫)

硫黄島に死す (新潮文庫)

 

 

 表題作は硫黄島で戦死した1932年のロサンジェルス五輪馬術大障碍の優勝者・西竹一を描いた短篇で、発表当時たいへんな評判をとったらしいが、私などはこの作品には作者のマッチョ性を感じてあまり共感できなかった。むしろ解説文を書いた元読売新聞記者の高野昭が「少年の目で戦争を見ている」と評した、表題作に続く4篇の方が良く、特に「基地はるかなり」がちょっと松本清張を思わせるシニックな味わいがあって一番印象に残った。今回の旅行では、小倉にある松本清張記念館を訪れたのだった。

*1:民営化は英語ではprivatization(動詞形はprivatize)なのだから、本来は「私営化」と訳すべきであろう。