KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

小松左京「眠りと旅と夢」(1978)に「携帯電話」が出てきた

 まず現在読んでいる本から引く。

村上さんのところ (新潮文庫)

村上さんのところ (新潮文庫)

 

 

 この本は473件の質問に村上春樹が答えるという趣向で、その後プロ野球セ・リーグヤクルトスワローズが優勝することになる2015年の1月から4月まで質問が受け付けられた。93番目の質問「カープは大盛り上がりですけど」に対して村上はヤクルトの順位予想を5位としているが、これを見て「勝った」と思った。なぜなら私は2015年には強気の順位予想をして優勝もあり得ると確かこの日記に書いたはずだからだ。その根拠は、2年連続最下位になった前年の2014年、ヤクルト打線の破壊力はすさまじかったからだ。それをぶち壊しにした投手陣の崩壊もまた半端でなかったわけだけれども、これは投手陣が整備されれば行ける!と思ったのだった。すると、秋吉、ロマン、オンドルセク、バーネットが1イニングずつ投げる「勝利の方程式」が見事にはまるという奇跡が起きて本当に優勝してしまったのだった。その前後の2年ずつが最下位、最下位、5位、最下位だったからいかに奇跡的な優勝だったかがわかる(昨年は2位だったけど今年はどうかな)。セ・リーグでは1960年の大洋ホエールズ以来だろう(ホエールズは6年連続最下位のあと突如優勝し、翌年また最下位に落ちた)。

 いや、プロ野球の話をするつもりなどなかったがついつい。本論はここからで、369番目の質問を以下引用する。

 村上さん、こんにちは。出版社で校正の仕事をしています。

 私の担当している文芸誌では、単純な誤字脱字や事実誤認を指摘する以外にも、「この人物は右利きのはずですが、左手でサインをしています」とか、「携帯電話が出てきますが、この地代にはまだ発売されていないはずです」とか、内容についての細かい「つっこみ」を入れることも校正の仕事のひとつとされています。(後略)

村上春樹村上さんのところ新潮文庫 2018, 467-468頁)

  なんと、この校正者自身が「時代」を「地代」と誤記してしまい、村上春樹

校正者の間違いを指摘するのは作家にとっての無情の……じゃなくて無上の喜びです。

村上春樹村上さんのところ新潮文庫 2018, 468頁)

と突っ込まれてしまったのだが、それはともかく、読んだばかりの昔のSF小説に携帯電話が出てきたことを思い出したのだった。その小説は、今日図書館に返しに行く予定だが、小松左京の「眠りと旅と夢」(1978)であって、文春文庫から2017年に新装版が出た短篇集『アメリカの壁』に収録されている。表題作のタイトルから連想される通り、アメリカ大統領・トランプの出現を40年前(1977年)に予言した小説だと小松左京ファンが言い出したのをきっかけに話題となって復刊された本だ。

 

アメリカの壁 (文春文庫)

アメリカの壁 (文春文庫)

 

  どのあたりに携帯電話が出てたっけ、と思って開いた頁にたまたま出ていた。120頁だった。なんたる偶然(まあ他の頁にも出てきたのかもしれないが)。以下引用する。

 僕のポケットで、携帯電話の呼び出し音がピーッと鳴ったのはその時だった。小松左京「眠りと旅と夢」=文春文庫新装版『アメリカの壁』2017, 120頁)

 そりゃSFだから携帯電話が出てきても不思議はないといえばそれまでだが、本当に昔のSFに携帯電話が頻出だったのか、「SF 携帯電話」を検索語にしてネット検索をかけてみた。すると、正反対のことが書かれたサイトが2つみつかった。

 

aesthetica.hatenablog.com

 

 以下上記「はてなブログ」の記事(もちろん元は「はてなダイアリー」の記事だったはずだ。2005年の記事だからね)から引用する。

 

以前、田崎英明さんと話していて興味を持った話題に「どうしてSFに携帯電話のイメージが欠落していたのか?」というものがある。80〜90年代のSFやアニメではテレビ電話に類するイメージは盛んに出てくるが、携帯電話はまったくと言って良いほど出てこない。それはどうしてか、という問題だ。
もちろんテクノロジー的には携帯電話はトランシーバーの延長であり、それはSFにつきものである(腕時計に向かって喋るとか)。だが、街や駅で多くの人が歩きながら携帯で話をしている、という現代日本の日常生活の情景は、どんなSFにもアニメにも出てこない。つまり、今日のような携帯電話文化は、SF的には予測不可能だったということになる。なぜか?(後略)

(『aesthetica's blog』2005年12月28日「どうしてSFは携帯電話を予想できなかったのか?」より)

  ところがどっこい、反証がみつかってしまったわけだ。校正者の間違いを指摘した村上春樹の気分になれたかも。いささか悪趣味かもしれないが(笑)。

 

 一方、こんなサイトもみつかった。

 

logmi.jp

 

 上記サイトによると、「携帯電話は『スタートレック』から生まれた」とのこと。以下引用する。

 

AT&T社といった電話会社が技術改善に取り組んでいましたが、遥かに自由に動かすことのできる新たな通信方法を編み出したのはMotorola社の技術者であり役員だったマーティン・クーパーでした。

1970年代のある日、クーパーは考えてばかりで煮詰まっていたため、休憩を取ることにしました。ソファーでくつろいで、ジーン・ロッデンベリー作のテレビドラマ『スタートレック』を見ることにしたのです。

そのエピソードではカーク船長がもちろん窮地に立たされており、携帯型のポケット通信機を取り出し、ブリッジ(指令センター)に連絡していました。

クーパーの頭の中でアイディアがひらめきました。カーク船長は交換台に電話の取次ぎをしてもらう必要もなければ、小さく粋な通信機は輸送シャトルにつながれてもいない。ただ手中にすっぽりと収まって、機能しているのです!

未来の電話通信は、巨大な通信網に支えられた、1対1のやり取りができる小型携帯機器によって行なわれる必要があるとクーパーは確信していました。他の人にとってはスタートレックに登場する技術など夢物語に過ぎませんでしたが、移動通信技術界の第一線に立つクーパーにとっては具体的な目標でした。そして、彼はそれを実現させたのです。

初めての携帯電話からの通話は、1973年にクーパー自身によって行なわれました。ニューヨークの歩道で、「Dynatech(ダイナテック)」と名付けられた巨大な長方形の通信機から電話した先は、競合相手であるベル研究所でした。ライバルに勝ち誇るように。

1980年代半ば、ダイナテックは市場で売り出されました。通話可能時間はわずか30分。80年代の映画にしばしば登場した、ウォール街の重役やパステルカラーの服を身にまとった麻薬密売人が使っていた巨大なモノ、覚えていますか? あれからずいぶんと進歩しましたよね。私の携帯は今やプロンプター(原稿表示装置)のリモコンとして機能していますから。スタートレックに感謝です。

(『ログミー』より)

 

 「初めての携帯電話からの通話は、1973年にクーパー自身によって行なわれ」たというのなら、1977年末か78年初めに小松左京が書いた小説に携帯電話が出てきても不思議はない。

 

 また、下記Togetterも挙げておく。

togetter.com

 

 上記サイトからSF作家・笹本祐一のツイートを拾う。

 

 

 そういや大阪万博には私も昔行ったが、そうか万博か。小松左京が万博に深く関わったことはよく知られている。それで携帯電話が小説の中に自然に出てきたわけか。

 

 一方、下記の人のツイート(元ツイートのURLはたぐれなかった)は的外れ。  

しめすへん@ネ人造人間 @shimesuhen 2015年10月11日

携帯電話の普及ってのは大規模なインフラ整備があって初めて成り立つもので、需要がないところに金をかけても普及しないというのが一般的な考え方。実際には供給によってはじめて需要が発生する場合もあるがそういうのは社会学の領域。SF作家は科学にはこだわっても社会学には拘らないので携帯電話の普及は予測できなかったということ

 

 なお、『アメリカの壁』には表題作と「眠りと旅と夢」の他に、「鳩啼時計」「幽霊屋敷」「おれの死体を返せ」「ハイネックの女」の計6本を収める。この中で、評判になったという表題作「アメリカの壁」は、そりゃトランプを予言したといえばそうかもしれないが、そんな大した作品とは思えず、むしろ「眠りと旅と夢」の方がずっと良いと思った。また「鳩啼時計」で特殊相対性理論に基づく時間の遅れをモチーフにするなど、小松左京は京大文学部卒業ながら同じ御三家の星新一(東大農学部卒)や筒井康隆同志社大学文学部卒)と比較してもっともSFらしい小説を書いた人だったのではないか。筒井康隆の後期作品などは、いかにも文学部的な実験作だよなあと思う。それはそれで面白いのだけれど。このあたりは、前出の『村上さんのところ』の380番の質問への答えで村上春樹が言っている、ハイドンモーツァルトの関係に似ているかもしれないとふと思った。以下、『村上さんのところ』から引用する。
 

(前略)ハイドンって、古典音楽の典型みたいに言われることが多いですが、よく聴くと意外にラディカルなところがあります。理系っぽいというか、モーツァルトの同種の音楽と聴き比べると、その「理系の魂」みたいなのが、わりにくっきりと見えてきます。モーツァルトのような神がかり的な深みはないんだけど、構築性への執拗なまでのこだわりが、しばしば僕らにポストモダン的な快感をぐいぐいと与えてくれます。もちろん演奏にもよるんですけどね。

 グレン・グールドが1958年に録音したハイドンのピアノ・ソナタ変ホ長調(Hob.XVI:49)をお聴きになったことはありますか? とても面白い、鮮やかなハイドンです。

村上春樹村上さんのところ新潮文庫 2018, 483頁)

 

  これを読んで、そういや30代の頃にハイドンの実験的な交響曲を収めたブリュッヘン指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の5枚組「ハイドン・疾風怒濤期の交響曲」を輸入盤で買って聴き、はまりまくったことを懐かしく思い出した。疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)期といっても、ハイドンの場合はどこまでも理知的で、上記CDに収録された19曲の交響曲のほとんどに、何かしら実験的なところがある。ハイドンはこの疾風怒濤期というか中期と、村上春樹が「構築性への執拗なまでのこだわり」があると指摘した晩年の作品(交響曲のロンドン・セットまたはザロモン・セット、作品76, 77の弦楽四重奏曲、Hob.XVI:48 以降のピアノソナタなど)が良く、その中間にやや中だるみ気味の期間があるというのが私の印象だ。村上春樹が挙げた変ホ長調ピアノソナタは、一般的には同じ調性の最後のソナタが最高傑作とされているようだけれども、大ピアニストたちに好む人が多いのはこの Hob.XVI:49 の方で、私も大好きな曲だ。グールドの58年盤、これにはモーツァルトハ長調ソナタ(K.330)と同じハ長調の「幻想曲とフーガ」(K.394)が収められていて、私も持っている。昔はモノラル録音のバージョンが発売されていたのが後年にステレオ録音のテイクが発売されたものだったか、それともモノラル録音のものだったかは長年聴いていないので覚えていない。一度物置きから引っ張り出して聴いてみよう。私がこの曲で主に聴いていたのはルドルフ・ゼルキンの演奏だった。

  モーツァルトにもそれこそ革命的な音楽は結構あり、有名なト短調交響曲(K.550)のフィナーレなどその最たるものだと思うが、この楽章の展開部などまさしく「鬼気迫る」音楽であり、それはデーモンに突き動かされて書いた、という表現がぴったりくる。それと比較すると、ハイドンはあくまで理知的なのだ。その実験精神は、わかる者にはわかる。

 そして、昔筒井康隆にはまったことがある一方、小松左京は没後になってようやくいくつかの作品を読んだだけの私は、これから小松左京を再発見しても良いかもしれないと思った。

 ところで、『アメリカの壁』の巻末に小松左京の息子さんである小松実盛氏の解説文が載っている。そこで紹介された1978年頃の小松左京の心境がまことに興味深い。以下引用する。

 

 小松左京は、空想の世界だけでなく、漠然とではありますが、実際に宇宙に行けると思っていたようです。いずれ、人類は本格的に宇宙に本格的に進出するだろう、けれど、その乗船名簿に自分の名前はない。(中略)

 人として生まれたことによる制約、老いてやがて寿命が尽きるという制約が、長年いだいてきた夢を無にしようとしている。

 その焦り、虚しさは、これ以降の小松左京の物語の端々から感じられます。

 そのアプローチの一つの道が、「眠りと旅と夢」に込められています。

 人としての限界を悟りながら、それでも、どうしても宇宙とその真実に触れたい。

 眠り、虚空を旅し、壮大な夢のなかで生きるミイラは、小松左京自身の願望の投影であるともいえます。

小松左京アメリカの壁』文春文庫新装版 2017, 358頁=小松実盛氏の解説文)

 

 小説を書いた当時46歳だった小松左京はそんなことを思っていたのか。私は当時高校生だった。70年代後半といえば、高度成長期の負の側面だった公害もやや収まり、世界における日本の地位も、歴史上もっとも高かった頃だ。今の40代、50代以上の人間の多くは、後退を続ける一方の「崩壊の時代」のこの国を、自分たちの世代の責任を思いながらも呆然と見ているのではないか。焦りや虚しさよりも後ろめたさが感じられてならない今日この頃だ。

『エトロフ発緊急電』の著者・佐々木譲氏の一族は択捉島出身だった

 「北方領土の日」であったらしい一昨日(2/7)に公開した記事*1に「四国遍路」さんからコメントをいただいた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

四国遍路

 

 コメントありがとうございます。私は2002年末から7年間高松市に住んでいたことがあって、その終わり近い2008年から「週末遍路」をたまにやっていて、八十八箇所中の六十六箇所にお参りしましたが、高松市からもっとも遠い高知県西部と愛媛県南西部の二十二箇所を残して東京に移住してきました。

 さて、佐々木譲さんと北方四島とのかかわりについて、ネット検索したところ、佐々木さんご自身のブログ記事がみつかりました。以下、今からちょうど10年前に書かれた2009年2月19日のエントリから引用します。時の総理大臣は麻生太郎でした。

 

sasakijo.exblog.jp

(前略)天の邪鬼なので、いまさら麻生太郎総理を叩いてもな、と思う。むしろ昨日のサハリン訪問「二島でも四島でもない」「独創的なアプローチ」の北方領土問題解決に、わたしは期待する。

北方領土問題とはつまり、日本が無条件降伏した戦争のその後処理問題だ。戦後処理は、日露戦争の例を持ち出すまでもなく、世論は過激になりがち。国民の多数意志を尊重していたら、もう一回戦争をやるしかなくなる。国益を見据えて、政治家がたとえ大幅譲歩と見えようとも現実的に決着をつけないことには、解決しない。

佐藤優北海道新聞で「麻生は原則を売った」と批判している。しかし、鈴木宗男の二島先行返還論は、実質的に国後・択捉両島の放棄に等しい。その先に二島が返還される展望はゼロだ。

四年前、わたしの四回目の択捉渡航の際、北方領土返還国民会議の幹部が根室で発言した。
「五百年かかっても、四島を取り戻す」
この先五百年、主権回復なしを受け入れるという態度も、同様に実質的な放棄ということである。

ロシア側の立場でも、考えてみるといい。いま択捉島を日本に返還できるか。オホーツクから千島列島を抜けて原子力潜水艦が通過する場合、使えるのは択捉海峡である。国後水道は、原潜は通過できない。地政学的には択捉島は戦争直後よりもはるかに戦略的重要性が増した土地である。また、択捉島では、核開発に欠かせないレアメタルの採掘・精錬がおこなわれている(イスラエル資本が入っているはず)。つまり、択捉島が日本に返還される日は、地球上に国家がある限り、来ないと読んでいい。ならば、プラグマチックな解決しかない。

国後島は、北海道と地理的一体感があり、地域の住民感情としても、経済的にも、返還が切望される島だ。しかし、択捉島はべつである。わたしの一族は択捉島出身だけれど、わたしは島民二世としても、国後島までの主権回復、という線での戦後処理は受け入れてよいと考える。択捉島には自由に往来できて、墓参りが可能になればよい。

日本全体にとっても、日本人が事実上四島に渡航できない現状よりは、ロシアと平和条約を締結し、択捉島を含めた四島で経済活動ができる道を選択したほうがよいのではないか。

ただ、麻生総理の言う線での解決は、政権が国民に圧倒的に支持されていることが条件。もし麻生がやれば、日比谷で焼き討ち事件が起こる。

 

 佐々木譲さんの親族は択捉島出身だったんですね。

 現在の総理大臣である安倍晋三は、決して日本国民から「圧倒的に支持されている」わけではありませんが、3割ほどの「岩盤支持層」とNHK(宣伝役・岩田明子)や読売新聞といった国民の多数への影響力のあるメディアを押さえているのを背景に、かつ鈴木宗男佐藤優らの助言も取り入れて、強引に「二島返還」の可能性を追求しているといったところでしょう。佐藤優には一定の「リベラル・左派」からの支持もあるようですが、私は佐藤はとんでもない詐欺師であって、「現代の蓑田胸喜」と言っても過言ではないと考えています*2

 佐々木さんの言う「プラグマチックな解決」は、本来なら1990年代の、日本経済にまだ力が残っていて、かつロシアがソ連崩壊後の混乱期にあった時期までに行わなければいけなかったことなんじゃないかと思います。遅くとも、佐々木さんが上記ブログ記事を書かれた2000年代後半でしょうか。当時、北方四島の面積を半分で等分した、択捉島南端近くを国境とする案が言われていたと記憶しますが、今やそんなことは誰も言い出さなくなりました。現在は、日本経済が力を失った一方、世界的な独裁権力の一つと評するべきプーチン択捉島などに軍事施設を建設する暴挙に出ており、それを追認するかのような二島返還論は絶対に認めてはならないと思います。現在の日本はロシアと緊張関係があるわけでもなく、平和条約を結ぶ必要に迫られているわけでも何でもないので、千島列島全体を日露の緩衝地域にする*3ことを最終目標にして粘り強く交渉を続けるしかないというのが私の意見です。

 なお、全千島を領有していた頃の日本も、民間人の移住を認めるのは択捉島までで、それより北のウルップ島からシュムシュ島までへの民間人の移住を禁止していたことを今回『エトロフ島発緊急電』を読んで知りました。それは良いのですが、一方でシュムシュ島などに住んでロシア化が進んでいた千島アイヌの住民を色丹島強制移住させたのは暴挙以外の何物でもなく(その悲劇から小説に登場する宣造が造形されたんですよね)、それは厳しく批判されるべきですし、同様にプーチンによる北方四島への軍事施設建設やロシア人移住奨励などの政策も(これはもともとソ連時代からやっていたものの遅々として進まなかったようですが)、戦前の軍国主義日本やスターリンソ連にも匹敵する恐るべき強権主義的な妄動として厳しく批判されなければなりません。そういえば日本の「リベラル・左派」にはプーチンに対して甘過ぎる悪弊もあるように思います。

 やはりソ連時代の終わり頃から新生ロシアの初め頃にかけて、むしろソ連・ロシア側から提案があったという、知床の世界以前遺産を北方四島及びウルップ島にまで拡張する案がベストだったのではないか。歴史的にもウルップ島が北海道アイヌと千島アイヌの共同漁場として両者の緩衝地域だったらしいこと、さらにこれらの地域が世界自然遺産に登録されてロシアの軍事施設なども撤去されれば、択捉島への墓参にも障害がなくなるだろうに。そう思えてなりません。

 今はむしろチャンスが遠のいてしまった状態ですが、そんな時に日本側から変な動きをするのは愚の骨頂であって、前回の記事にも書きましたが、安倍晋三だの鈴木宗男だの佐藤優だのといった俗物が己の虚栄心を満たそうとしているだけの妄動に対しては徹底的な批判あるのみ。私はそのように確信します。

*1:記事の公開が「北方領土の日」当日だったのは、それを狙ったわけではなく偶然。

*2:古くは2008年に金光翔氏が<佐藤優現象>として佐藤批判を行っていますが、氏の視点とは別に、佐藤はマルクスを利用して「リベラル・左派」の牙を抜こうという詐術を行っていると私は考えています。佐藤が書いたマルクス本を何冊か読んでそのような結論に達しました。

*3:本来、千島列島はロシアでも日本でもなく、アイヌの人たちに変換すべき地域だと思います。

乱歩と清張:江戸川乱歩『D坂の殺人事件』(角川文庫)を読む

 最初に、このエントリにはネタバレが含まれていることをお断りしておきます。

 前エントリの佐々木譲『エトロフ発緊急電』の前、2月最初に読んだのが江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』(角川文庫)。どういうわけか、最近岩波を含めたあちこちの文庫本から乱歩の傑作選が出ているが、この角川のものが図書館で目についたので借りた。表題作のほか、「二銭銅貨」「何者」「心理試験」「地獄の道化師」を収録。

 

D坂の殺人事件 (角川文庫)

D坂の殺人事件 (角川文庫)

 

 

 私の興味は2点で、一つは、ここ5年あまりの間にさんざん読み尽くしてきた松本清張の先人としての乱歩、もう一つが日本における推理小説の草分けとしての乱歩。

 「D坂の殺人事件」(1924)は名探偵・明智小五郎が初めて登場した作品。「二銭銅貨」(1922)は日本における最初の本格推理小説とされる作品。「何者」(1929)は明智探偵ものの中篇で、探偵(明智ではない)と被害者と犯人の一人三役と二段落ちがミソ。二段落ちというのは、被害者兼犯人の「名推理」が「赤井さん」という登場人物によってひっくり返されること。その「赤井さん」が実は明智だった。この二段落ちは清張の常套手段で、清張は二段落ちどころか三段落ちなんかも平気でやっていた。読みながらいつも「またかよ」と思う。私は清張のこういう小細工はあまり好んでいない。清張の本領は何といっても登場人物の心理描写にあると思っている。だから、清張の悪しき先人は乱歩だったのかと思ってしまった(笑)。

 「心理試験」(1925)も明智探偵ものだが、その清張を夢中にさせた作品として知られる。それもそのはず、題名からも明らかなように、この作品は犯人の心理描写に特徴がある。そういえば清張の短篇にもこの「心理試験」の影響を受けたような作品があったような気がするが、題名が思い出せない。

 一方、清張と引き比べて全く見劣りし、こんな作品は読むだけ時間のムダだと思ったのが最後の「地獄の道化師」(1934)だ。この作品は収録作中一番最後に書かれているが、明智探偵の助手・小林少年が出てくるなど、小学生の頃に読んだポプラ社の子ども向けシリーズを思い出した。しかし、犯人が殺人を犯した動機となった「自らの容貌に対するコンプレックス」は、自身が同じコンプレックスを持っていたとされる清張がいくつもの傑作を書いているのに対して、「地獄の道化師」ではそういった犯人側からの描写がほとんどなく、むしろ犯人に対する乱歩の差別的な眼差しさえ感じられて不愉快だった。二度と読みたくない愚作だ。もしかしたら、この作品が書かれた1934年には既に乱歩の作家としての才能は枯渇していたのではないかとさえ思った。そんなわけで、この「地獄の道化師」の代わりに他の作品が収録されていれば、なかなか良いセレクションだったのになあ、と惜しまれた。

 下記は乱歩と清張について、ネット検索をかけて拾ったもの。

 

 松本清張も乱歩の作品を読んだ頃をふり返って懐しんでいるが、「彼の初期の一連の作品群は、彼の後半期の諸作品がいかようにあれ、燦然として不滅の栄光を放っている。彼のような天才は、これからも当分は現われないであろう。少くとも、今後四半世紀は絶望のように私には思える」と讚辞を惜しまない。

出典:http://www.e-net.or.jp/user/stako/ED2/E10-01.html

 

松本清張は乱歩の『D坂の殺人事件』、『心理試験』といった初期作品は褒めているのですが、後年のけれん味の強い作品については「出版社の通俗趣味に迎合した作品」と、やや批判的でした。

社会派の清張からすれば、ひとつ間違えれば単なる猟奇趣味にしか思えない設定の奇抜さが通俗に見えたのでしょう。『一寸法師』だったか、等身大の石膏像から血がしたたり落ちる、というような導入の作品もありました。

出典:https://ncode.syosetu.com/n1202cx/

 

 やはり清張もそう思っていたのか、さもありなんと思った。

 あとの方の引用文に、「等身大の石膏像から血がしたたり落ちる、というような導入の作品」と書かれているが、それこそ「地獄の道化師」ではないかと思った。だが、「一寸法師」(1927)も被害者の体をバラバラにして小包で送る作品らしいし、他にも死体を石膏像に塗り込めるパターンを乱歩は何度か使っていたらしい。

 ところで、先ほどはしょった「二銭銅貨」だが、エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」及びそれを下敷きにしたコナン・ドイルの「踊る人形」をもとにした作品であることはよく知られている。ところがそれだけではなく、二銭銅貨のからくりにも下敷きがあって、それはヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』だった。詳しくは下記2件のリンクを参照されたい。

 

www2.hp-ez.com

 

www.squibbon.net

 

 ここまで書いたところで時間になったのでこの記事はこれでおしまい。

佐々木譲『エトロフ発緊急電』を読む

 佐々木譲が1989年に書いた小説『エトロフ発緊急電』(新潮文庫)を読んだ。太平洋戦争の直前、真珠湾攻撃を前にしたアメリカの対日諜報活動に、日系2世のスパイである主人公がかかわるエンターテインメント系冒険・歴史小説真珠湾攻撃をかけた日本海軍の機動部隊は択捉島の単冠(ヒトカップ)湾に集結したあと出撃したが、主人公は択捉島に潜入して機動部隊の出撃をアメリカ本国に知らせたものの、情報は信用されなかったために真珠湾攻撃を受けてしまったという設定になっている。

 

エトロフ発緊急電 (新潮文庫)

エトロフ発緊急電 (新潮文庫)

 

 

 現在、安倍晋三政権が北方四島の返還を諦めて、歯舞、色丹の二島返還でロシアと手を打ち、同国と平和条約を結ぶつもりだろう、などと言われている。それで「エトロフ」の固有名詞につられて図書館で借りたのだが、1994年に新潮文庫入りしたこの本がたまたま2017年発行の第23刷で改版されて文字が大きくなっていたことも、借りようと思った動機の一つだ。

 この新潮文庫版はもともと分厚かったが文字が大きくなってさらに分厚くなり、目次と長谷部史親氏の解説を合わせて741頁もある。エンタメ作品でもあり、文章は読みやすかったが、それでも読むのに4日かかった。

 30年前の発売日には評判をとった小説らしく、1993年にNHKで『エトロフ遥かなり』のタイトルで全4回のドラマ化がされた。また、この小説は同じ作者の3部作の第2作に当たり、第1作の作中人物が本作にも登場する趣向になっているとのことだ。さらに本作は、発表当時からケン・フォレットの『針の眼』との類似が指摘されてきたと長谷部氏の解説にある。

 あらすじは、たとえば下記ブログ記事に詳しい。

 

cedar.exblog.jp

 上記リンクのブログ主さんは『針の眼』もお読みになったことがあるらしく、本作との比較について下記のように書いておられる。

 

最後に解説に、長谷部史親氏(翻訳とかやっている作家らしい)が
この作品が”ケン・フォレット”の”針の眼(Eye Of The Needle)”との
類似点を指摘する点がしきりに聞かれ、それは正鵠を射ていると
指摘しているが、”針の眼”は”イギリス人の愛国心を臆面もなく謳歌する
ことにより成り立っている小説”である反面、本書は”既成に価値観による
正邪の概念に疑問を投げかけるものである”と斬っている。
確かに、そのとおりだと思う。
斉藤賢一郎と憲兵隊の磯田茂平軍曹の追いかけっこは
”針の眼”で、主人公のドイツのスパイ、フェイバーと
英国情報部のゴドリマンの追いかけっこを彷彿させるが、
東京から東北を通って、北海道、そして択捉島までの行程を逃げている
ハラハラ感は、日本人として、知っている地名が出てくる分、
米治郎は、こちらに軍配が上がると思う。

これは、NHKでドラマになった、主人公の”斉藤賢一郎”は”永沢俊矢”、
”岡谷ゆき”に”沢口靖子”、このドラマ、原作にほぼ忠実で、
非常に見ごたえがあった。最初に読んだときはドラマを見る前だったが、
今回読んで、このドラマの場面が重複した。
これも、「ベルリン飛行指令」同様、ぜひオススメの作品である。

 

 上記引用文に「既成の*1価値観による盛者の概念に疑問を投げかける」と書かれているが、こう指摘した長谷部史親氏の解説文からさらに引用すると、主人公の斉藤賢一郎は「日系二世」(括弧内は長谷部氏の解説文からの引用を表す。以下同様)で、「アメリカ国籍を持ちながら疎外された生活を余儀なくされ」、「スペイン内戦に義勇兵として活躍した」が、「ついに国家の一員たる意義を見出せないまま」、「金で請け負った殺人の現場を目撃されたがために、スパイに仕立てられて日本に行くことになった」人物だ。また択捉島生まれのヒロインの岡谷ゆきは「母親がゆきずりのロシア船員との間にもうけた私生児」、ゆきが管理人を亡くなった伯父から継いだ駅逓(「馬を替えたり宿や食事を提供する国営の施設」)で働く宣造は、「日露観の協約によって北千島の占守(シュムシュ)島から(色丹島に=引用者註)強制移住させられてきたクリル人の子孫で、いずれは脱出してカムチャツカ方面のクリル人に合流する望みを抱いている」。また、「聖職者でありながらスパイ行為に加担する」スレンセンには、「南京事件で最愛の女性を殺された経験があった」。さらに、日本に潜入した賢一郎を手引きした金森は朝鮮人で、これは小説からの直接引用するが、「祖国を滅ぼされ、家族を引き裂かれ、名前も言葉も奪われ」(新潮文庫23刷改版341頁)、「この国を滅ぼすためなら、どんなことだってやりますね」(同)と賢一郎に語る。

 長谷部氏は「本書の主要な登場人物には、帰属意識の喪失という共通項が見られるように思う」(同739頁)として、さらに「帰属意識は、支配と被支配の関係に置き換えて考えることも可能であろう。支配と被支配の関係は、差別と被差別の関係にも直結する」(同740頁)と書く。

 この解説文は1993年11月に書かれているが、これが1990年前後のエンターテインメントの小説とその解説文の水準であって、それと引き比べて百田尚樹がもてはやされる現在の「右傾エンタメ」を思うと、こういう分野でもこの国の「崩壊」はどうしようもない段階に進みつつあるのではないかと思わされる。実際、本作の感想文をアマゾンカスタマーレビューで眺めると、星4つをつけながら「南京事件についても読む人によっては『南京大虐殺』を事実と思う人もいるでしょう。それだけが残念」と書いていたり、極端なものになると「最低のパヨクの反日を煽る馬鹿本」などとして星1つにしているレビューなどがあった。アマゾンカスタマーレビュー以外でも南京事件のくだりに拒絶反応を示す読者は多く、しかもそれは比較的最近本書を読んだ読者に多いことから、歴史修正主義の浸透が近年急速に進んでいることが窺われる。たとえば下記のお馬鹿なツイートも見つけた。

 

 

 何が「あらすじの大半」なものか。ほんの数パーセントしか南京事件の記載はないではないかと思うのだが、いまどきのネトウヨ(「安倍信者」)には、そういう部分を探してはそればかりをあげつらう習性があるようだ。

 私の意見を言えば、日本軍は兵站を軽視し、それは南方の戦場では多くの日本軍兵士の餓死を引き起こしたが、中国においては食糧の「現地調達」を強いられた兵士たちが虐殺と略奪を繰り返したことは紛れもない事実であって、それらと1937年12月の南京事件の犠牲者の数を足し合わせれば、中国のいう数字に多少の誇張が含まれるにせよ、想像に絶する数、たとえばオーダーとしては6桁に達するかもしれない犠牲者が出た蓋然性が高いと思う。

 ところで、本作に出てくる宣造がクリル人(千島アイヌ)という設定になっているが、占守島に住んでいた千島アイヌ色丹島への強制移住については全然知らなかったのでネット検索で調べた。引っかかったのが下記「釧路ハリストス正教会」のサイトにある「釧路正教会百年の歩み」の「第一章 ロシアの東方進出と千島アイヌ」だ。

http://www.orthodox-jp.com/kushiro/bef/1_1.htm

 

 まず、上記リンクの「第1節 クリル列島とクリル人」の冒頭部分を引用する。

 

 露領時代の千島列島はクリル列島と呼ばれ、カムチャツカの南端から蝦夷(北海道)の北岬に延長約1200㎞、小島を除いて弓状に22の島からなっている。クリルの語源は露語のクーリイチ(燻る)からなまったもので、これは露人が初めてカムチャツカの南端から遙かに千島最北のアライト島を望んだとき、その山頂から火焔が上がるのを見て名付けたためと言われている。しかし、クリルの名称はアイヌ語のクル(人間)に由来する説が今日有力である。日本でも古くは千島のことを「くるみせ」と呼んでいたと言うが、名称については、その地に住んでいた先住民をクリル人、または千島アイヌと呼ぶことにする。

 

 「第3節 露人の千島進出」を参照すると、

古くから得撫島が千島・蝦夷アイヌの自然の境界地であり、共通の狩猟場であったようである。

とある。歴史的には、千島アイヌはロシアから、北海道(蝦夷アイヌは日本からそれぞれ侵略を受けたが、千島アイヌと北海道アイヌの境界が得撫(ウルップ)島にあったということらしい。

 以下は「第5節 千島アイヌ色丹島移住」より。

 

 1875年(明治8年)日本とロシア間に樺太・千島交換条約が締結された。この条約によって日本が樺太の領有権をロシアに譲る代わりに、ロシアは占守島から得撫島に至る18の島を日本に引き渡すことが明記され、日露の国境をカムチャツカのロバトカ岬と占守島間の海峡に画定された。この条約の附属公文には、この地域に住む先住民は、三カ年以内に日露何れかの“臣民”になることを選定しなければならぬと規定されている。そこで、条約の結ばれた年の8月、明治政府は五等出仕時任為基を北千島へ派遣し、この旨を先住民に伝えた。
 当時、北千島には100人を越す先住民が住んでいたが、彼らは既に一世紀以上にわたってロシアの支配下にあり、言語・衣服・宗教などの面でもかなりロシア化されており、その去就とともに数奇な運命に弄ばれることになる。
 ロシア人並びに得撫・新知島に居住していたアレウト人は、条約に定められた期間、即ち3年後の11月までには悉くロシアに引き揚げた。千島アイヌも風俗・宗教等から、ロシアにと願いながらも、丁度、明治9年に出猟した半数の者が帰島しないためその態度を決することが出来ず、やむなく我が国に属することになった。
 占守島にいた首長キプリアンは、条約成立の年、島司インノケンティ・カララウィッチと12人の同族と共に9月15日、当時、他島への出猟中であったアレキサンドル以下22人の同族を置き去りにしてカムチャツカに向かった。日本国籍に入ったのは、このアレキサンドル組と副首長ヤコフ組のラサワ島の千島アイヌである。

(中略)

 我が国では明治9年、更に官吏を派遣してその状態を調査し、救育費として三カ年に一回、5000円の政府別途交付金を給付、食料品等の生活必需品の購入に充て、汽船に搭載、彼らにこれを提供し、生活を保障するとともに捕獲した毛皮を集めた。
 しかし、毛皮は年とともに少なくなり、したがって著しい失費を伴い、その上、根室から1200㎞も離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれもあった。また、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、同化が困難であるばかりでなく、国境を正すことにならないばかりか、むしろ危険にさえ感じられ、日本政府としてもクリル人に対して早急な処置を講じる必要があった。
 彼らをより交通の便利な箇所に移そうとする計画は、既に明治9年以来の計画であり、その度ごとに移住を勧誘してきたが、彼らは永年住み慣れた地を離れ難く、口実を作っては日本政府の勧誘に応じようともしなかった。
 明治15年に開拓使が廃止され、函館・札幌・根室に三県が置かれる。千島は根室県に属し、湯地定基が根室県令に任ぜられた。明治17年、三年ごとの撫育船を派遣する年にあたり、湯地県令は千島アイヌ色丹島に移す計画のもとに、要路の大官と共に占守島に向かい島状を調査した。丁度、その年に出稼に行っていた仲間も悉く同島に集まっていたので一同を諭し、男女97人をその船に乗せ、ただちに色丹島に移住させた。(後略)

 

 さらに、「第6節 色丹島移住後のクリル人」より。

 

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。
 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

   強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。
 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす-云々」
故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。
 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。

 

 引用したような千島アイヌの悲劇を知ると、「全千島が日本の領土」という日本共産党のような主張は成り立たないのではないのかと思うし、その一方で国後島択捉島に軍事施設を造るロシアの暴挙もまた許せないと思う。かつてのソ連が日本に提案したという、世界自然遺産である知床を、生態系の共通する国後島択捉島、さらにロシア側のウルップ島に拡張する案(もちろん、国後・択捉のロシアの軍事施設は撤去し、そのような施設はウルップ島にも造らせない)を落としどころにして、長期的に交渉するのが一番なのではないか。安倍晋三だの鈴木宗男だの佐藤優だのといった俗物たちが「歴史に名を残す」ために進めているようにしか見えない「二島返還」を落としどころとする日露交渉など愚の骨頂だとしか思えない。

 最後は本からだいぶ脱線したが、択捉島にも関係する話だからまあいいか、ということで、これで終わりにする。

*1:「既成に」とあるのは誤記。

「下請けいじめ」を描いた松本清張『湖底の光芒』とカルロス・ゴーン

 2012年に刊行が始まった光文社文庫の「松本清張プレミアム・ミステリー」のシリーズは、2017年の第4期まではかつて同社の「カッパ・ブックス」から出ていた本を文庫化したものだったが、昨年から来月2月8日発売の『中央流沙』までの第5期8作品は、光文社からは一度も出されたことのない作品が集められている。8作品のうち6番目に発行された『湖底の光芒』は、講談社の月刊誌『小説現代』の1963年に創刊号から『石路』のタイトルで連載され、翌1964年に完結した作品だが、長らく単行本化されず、1983年になって「講談社ノベルス」の1冊として刊行された。その際、「貨幣価値が刊行時の経済状況に合わせて改められていた」(光文社文庫版の山前讓氏の解説=474頁)とのこと。その後1986年に講談社文庫入りした。それは私が歳をとって苦手とするようになった字の小さな本に違いないから、こうして大きな字の本としてリニューアルされるのは大変助かる。このシリーズの続刊を期待する次第。

 

 

  清張本に限らず、推理作家が書いた小説の文庫本を読む時には、カバーの裏面にある作品紹介の文章を絶対に読んではならない。これが作品を楽しむコツの一つであって、この光文社文庫本などはその例の一つであって、うっかりそんなものを読んでしまうとネタバレの犠牲になるところだった。しかも、「ミステリーの醍醐味を凝縮した長編推理小説」などと書かれているが、この作品はミステリーというより経済小説だろう。講談社文庫には佐高信の解説文がつけられているらしい。余談だが、最近読んだ本には佐高信の解説がついていることが多く、城山三郎高杉良のほか、宮部みゆきの『火車』(新潮文庫)もそうだった。『火車』は宮部みゆき作品の中でも特に清張(特に『砂の器』)からの影響の強い社会派的な作品だ。

 なお、本書『湖底の光芒』の講談社文庫本にも感心しない要約文がついていたことをネット検索で知った。良いと思うのは、前記光文社文庫版に山前讓氏が書いた解説文にも引用されている、清張自身が講談社ノベルス版に寄せた「著者のことば」だ。以下引用する。

 だいぶ前のことだが、諏訪に行ったことがある。私はカメラに興味をもっていたので、レンズ製造工場を訪れた。そして、日本のスイスと呼ばれた風光明媚なこの土地で、カメラレンズの下請業者が、親会社の横暴に泣かされているという事実を知った。この美しい土地で相も変わらず、そしてどこの業界にもある下請の悲哀が生み出されている——その対照を出してみたかった。

松本清張『湖底の光芒』(光文社文庫,2018)474頁)

  この「著者のことば」から推測される通り、「湖底」の湖とは諏訪湖のことだ。以下ややネタバレ気味になるのでそれを避けたい方はここで読むのを止めていただきたい。

 清張が諏訪を訪れたのは、山前氏の解説によれば1953年末から翌1954年の正月だったらしいが、カメラレンズの下請業者がカメラメーカーとの契約を突然解除されることもしばしばだったようだ。以下『湖底の光芒』の小説本文から引用する。

 契約がこわされると、造った品物は山にでも捨てるほかはない。カメラのレンズは特殊なので、溶解してガラスに還元することができない。

 そういう例が今までもたびたびあった。昔は廃品を諏訪湖に捨てたものだが、今は湖水保護のために厳しく止められている。親会社としても、あんまり体裁のいい話でもない。しかし、下請けの側は、どこに持っていきようもない憤りで、湖底に「廃品」になったレンズを投げ棄てたくなる。

 松本清張『湖底の光芒』(光文社文庫,2018)249-250頁)

  それで『湖の光芒』ではなく『湖底の光芒』なのだ。湖底まで光はほとんど届かないはずだが、と考えると、『石路』から『湖底の光芒』に変えられたタイトルが、そのまま小説のエンディングを暗示しているともいえる。引用箇所の頁数はあえてぼかすが、「何千、何百人という下請業者の泪と恨みとがその可愛いガラス玉の山にこもっている」ということばも出てくる。このくだりからはバルトークのオペラ『青ひげ公の城』に出てくる「涙の湖」を連想した。

 

www31.atwiki.jp

 青ひげ公の城には7つの扉がある。その第6の扉を開けると現れるのが「涙の湖」だ。以下上記「オペラ対訳プロジェクト」から引用する。

 

ユディット
波静かな白い湖が見えるわ。
とても大きな白い湖が。
なんの水なの、青ひげ!?

 

青ひげ
涙だ、ユディット、涙だ、涙なのだ。

 

ユディット
なんと静かで動かないんでしょう。

 

青ひげ
涙だ、ユディット、涙だ、涙なのだ。

 

ユディット
真っ平らで白い、清く白い。

 

青ひげ
涙だ、ユディット、涙だ、涙なのだ。
おいで ユディット、おいで ユディット、
口づけしておくれ。
さあ、まだか、ユディット、待っているのだ。
最後の扉は開けてはならぬ。
開けてはならぬ。
 それは、青ひげ公の犠牲になった女性たちの涙でできた湖だった。
 
 清張作品に戻ると、この作品と似たエンディングの長篇がある。そのタイトルは挙げないでおく。
 
 ところで私が連想したのはバルトークのオペラだけではない。「下請けいじめ」から直ちに連想されるのは、なんといっても昨年末以来話題になっているカルロス・ゴーンだ。
 どういうわけか、「リベラル・左派」界隈では、ゴーン逮捕をめぐる「人質司法」の問題ばかりが云々される傾向が非常に強い。もちろんそれはそれで大問題であって、日本の検察庁は厳しく批判されなければならないが、一方でゴーンの苛烈なリストラに何も触れないばかりか、ゴーンに同情する「リベラル・左派」があまりにも多いことには暗澹とした気分にさせられる。ひどいのになると、「自分の会社で儲けた金を使って何が悪い」と言い放つ「リベラル」人士まで現れた。
 そんなことを言う人たちには、橋本愛喜氏が書いた、下記リンク先の記事を読んでほしい。

hbol.jp

 以下記事の一部を引用する。

(前略)事件発覚以降、ゴーン氏に関する有識者の見解や分析が、連日各メディアから溢れ出る中、当時、日産や関連企業の下請け工場の2代目経営者として現場に立ち、結果的にその工場をこの手で閉じてしまった筆者にとっては、正直なところ、何を読んでも何を聞いても「虚無感」しか湧いてこない。

 あの頃、関連企業から強要されていた異常なまでの値引きは、一体何だったのか。

 ゴーン氏にとって、我々下請けは、どんな存在だったのか。

 彼に対するやり場のない怒りと、当時、過酷な状況にしがみ付いてくれていた従業員への申し訳ない思いが、今回の事件を通して今、再び込み上げてくるのである。

(中略)

 ようやくもらえた小さな仕事も、やればやるだけ赤字を出すほど安工賃。今後の仕事に繋げるために断ることすらできない「蟻地獄」のような日々を送る工場もあった。

 筆者の父親が経営していた工場も、そんな下請けのうちの1社だった。

 日本の各大手自動車メーカーや系列企業から金型を預かり、研磨して納品していたその工場は、職人が最大でも35人。大手のくしゃみでどこまでも飛んでいくような極小零細企業だった。

 工場には、手持ち無沙汰な職人が「草むしり用」の軍手をして、新しい雑草が生えてくるのを待っている。忙しいのは営業だけだ。

 無論、当時はゴーン氏の不正など知る由もなく、閑古鳥の鳴く日産系列の取引先工場にも足しげく通っては、「仕事をください」と何度も頭を下げ、相手の言い値で作業をする日々。

 小さな工場内は、回転工具の機械音で会話もままならなかった最盛期からは想像もできないほど静かで、金型を砥石でこする「シャーシャー」という往復音だけが、やたらと大きく響いていた。

 業界全体の仕事量が薄くなっていることは重々承知していたが、抵抗せねばどんどん安くなる工賃をなんとかやっていけるギリギリで維持させるべく、毎度のように担当者のもとへと出向く。突如告げられた「1時間300円分の工賃カット」を考え直してもらおうと1か月願い倒しても、聞き入れられなかったこともあった。

 こうした中、企業体力のない下請けは、順に潰れていった。当時、筆者の工場の元請けや、古くから付き合いのあった工場の一部からも、月末になると不渡りの噂や「廃業のお知らせ」と書かれた手紙が届くようになる。その中には、潰れるにはもったいない独自の技術や設備を持った工場も多くあった。

 来月はどこだろうか。あの会社は大丈夫だろうか。ウチはいつだろう。当時の下請け工場には、異様な雰囲気が漂っていた。

 筆者の工場では、先述の通り、国内の各自動車メーカーの系列企業と取引していたのだが、メーカーの工場はもちろん、その系列企業にも、母体の社風がそのまま反映されており、仕事の厳しさや金額などにはそれぞれの特徴があった。

 当時の日産工場や同社系列工場の印象は、真面目で工場マンとしてのプライドをしっかり持った社員が多かったのと、仕事の指示内容が大変細かかったこと、そして、とにかく「安かった」ことだ。

 同じ仕事を、ゴーン氏が日産の社長に就任する前と後とで比べると、半値近くにまで落ちたものも多い。

 一方、下請けに冷たい態度を取る元請け社員も多い中、日産工場で働く社員たちは、皆紳士的だった。

 筆者の工場では、同時期に4人の日産工場の社員と付き合いがあったが、当時の業界の体質に対して、誰一人感情的な意見を言う人はいなかった。が、そんな彼らでも、雑談でゴーン氏の話になると苦笑いになり、「人の話を聞く人じゃないですからね」、「無茶なコストカットも多いですよ」と愚痴をこぼしていたのを覚えている。

 工場閉鎖1か月前、“先輩工場”と同じように「廃業のお知らせ」を得意先へ一斉に流した後、真っ先に連絡をくれたのは、工場最盛期から長年世話になっていた日産のある社員だった。

「長い間、お疲れ様でした」

 FAXで送られてきた最後の発注書。いつもの「よろしくお願いします」の代わりに、昔から変わらない太字でひと言、そう書かれていた。

 こうして工場閉鎖から数か月後、当時から物書きとして活動していた筆者は、皮肉にも東京モーターショーでゴーン氏本人を取材する機会に遭遇する。

 目の前で「コスト削減」「V字回復」「世界のNISSAN」を、人差し指突き上げ声高に唱える彼に、今と同じような、言葉にし難い深い虚無感に襲われたことを思い出す。

 自動車という乗り物は一般的に、約4,000種類、3万点もの部品からできている。その1つひとつは、製造ラインという運命共同「帯」に乗った、エンジニアや現場職人らの技術と努力が造り上げた結晶だ。

 ゴーン氏が50億円以上もの不正を働いている最中、廃業や倒産に追い込まれた多くの関連企業や、大勢の解雇者の存在がある。あの頃、「帯」から消え落ちていった日本の技術力に、ゴーンは今何を思うのか。いや、せめて何か思ってくれるだろうか。

 トップにいた自らの不祥事が今、3,658社の将来に暗い影を落としていることを、少しでも考えてくれているのだろうか。

 

橋本愛喜】 フリーライター。大学卒業間際に父親の経営する零細町工場へ入社。大型自動車免許を取得し、トラックで200社以上のモノづくりの現場へ足を運ぶ。日本語教育セミナーを通じて得た60か国4,000人以上の外国人駐在員や留学生と交流をもつ。滞在していたニューヨークや韓国との文化的差異を元に執筆中。

(ハーバービジネスオンラインより)

  松本清張が半世紀前に書いた小説で抉り出された問題は、今もそのままなのだ。しかし、いまどきの「リベラル」たちは55年前の松本清張にさえ追いつけていない。それを示すのが、上記橋本氏の記事についたネガティブな「はてなブックマーク」コメントの多さだ。それを批判した「はてブコメント」を最後に引用しておく。

ゴーン逮捕に元下請け工場経営者が激白 。「異常な値切りで皆潰れていった」 | ハーバービジネスオンライン

端からみてなんでここまではてなのひとが下請けに冷たいのかよくわからないな / 追記。おいプロパー、てめーの会社で全部賄ってから文句言え、自社生産する能力がないくせに偉そうにするなよ

2018/11/23 19:46

b.hatena.ne.jp

 やはり、松本清張の精神を現代に甦らせる必要がある。

高橋敏夫『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』に欠落している視点

 光文社文庫から出ている「松本清張プレミアム・ミステリー」第5期全8タイトルのうち、今日から読み始めようと思っている『湖底の光芒』を読んだら、あとは2月8日発売予定の『中央流沙』を残すのみになる。これまでの4期21タイトルは全部読んだから、しばらくは清張を読む機会もないかもしれない。新潮文庫や文春文庫の清張本も選集や古い本、それに一部の時代小説などを除いてあらかた読み尽くしたから、そろそろ清張論を読んでもネタバレの被害に遭うことは少なかろうと思って、昨年1月に刊行された高橋敏夫著『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』(集英社新書)を読んだ。

松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 (集英社新書)

松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 (集英社新書)

 

  これまで5年あまりかけて111タイトル134冊の清張本を読んできた私にとっては、良いリマインダーだなと思ったが、一点だけ非常に気になるところがあった。

 それは、著書の高橋敏夫(早稲田大学文学部・大学院教授、文芸評論家)が戦後日本を「対米従属史観」で捉える立場に立ち、その観点から矢部宏治だの孫崎享だの鳩山由紀夫だのに肯定的に言及していることだ。以下、孫崎と木村朗が編集した『終わらない〈占領〉- 対米自立と日米安保見直しを提言する!』(法律文化社,2013)に言及したくだりを以下に引用する(なお、漢数字をアラビア数字に書き換えて引用した)。

 『終わらない〈占領〉- 対米自立と日米安保見直しを提言する!』(2013年)では編集の孫崎享、木村朗をはじめ、従属から一歩進めた独自の「属国」論を展開するガバン・マコーマック、戦後ずっと米軍占領がつづき新基地建設まではじまった沖縄の現状を告発し、日本政府の責任を追及する新崎盛暉、米軍占領政策の延長のために締結させられた日米地位協定の、国家主権上の不当性を難じる前泊博盛らが、対米従属の現在をあきらかにし、批判する。

 「序言」を元首相の鳩山由紀夫が書いているのも興味深い。松本清張が『深層海流』でえがいた、米国一辺倒の久我前総理(モデルは吉田茂に対抗し日ソ交渉に力をいれ、警察の尾行がついて怪文書がまかれた花山総理のモデルは、由紀夫の祖父、鳩山一郎である。由紀夫もまた首相時代、アメリカの意に沿わない沖縄の普天間基地の「国外移転、最低でも海外移転」、および東アジア共同体構想をかかげるや、たちまち失脚したことは周知のとおりである。

(高橋敏夫『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』(集英社新書,2018)187-188頁)

  正直言ってこんな文章を読まされるといっぺんに興醒めしてしまう。孫崎が稀代のトンデモ本『戦後史の正体』(創元社,2012)で岸信介を「敢然とアメリカに対峙した『自主独立派』の政治家」と持ち上げ、それを読んだ「対米従属史観」の読者たち(多くは小沢一郎を崇め奉る「小沢信者」と呼ばれる人たちだった)が「目から鱗が落ちた」と感激していたことなどが苦々しく思い出されるからだ。

 なお、本書に出てくる清張作品のうち9割以上は読んだことがあったが、『深層海流』は数少ない未読作品だったので、著者に「ネタバレ」された恰好だった。しかしこの内容ならミステリー作品ではなさそうだし、この程度のネタバレなら痛くもかゆくもない。

 清張が鳩山一郎にシンパシーを持っていたらしいことは、私も『日本の黒い霧』を読んで知っていたが、それは清張がちょうど今の安倍政権のような長くて重苦しい吉田茂独裁政権の時代に生きていた影響が強いだろう。私もあの時代に生きていたなら強烈な「反吉田」になり、あるいは鳩山一郎に期待したかもしれない。私の物心ついた時には、いつ果てるともしれない佐藤栄作政権が続いていて、子ども心に鬱陶しくてたまらなかった記憶もある。しかし、その佐藤をも孫崎は「敢然とアメリカに対峙した『自主独立派』の政治家」と称揚したのだ。ふざけるな、と言いたい。

 いったい、清張のノンフィクションで二大傑作とされるのが『日本の黒い霧』(1960)と『昭和史発掘』(1964-71)だが、私は『昭和史発掘』は不朽の名作だが、『日本の黒い霧』はそれには遠く及ばないと考えている。『昭和史発掘』には膨大な資料の裏付けがあり、それには北九州市立松本清張記念館名誉会長で、1995年まで文藝春秋社で編集者を務めていた藤井康栄による資料収集の多大な貢献があった*1。『日本の黒い霧』は藤井がまだ清張の担当になる前の作品で、粗さが認められる上、高橋敏夫が本書でも触れているように、「革命を売る男・伊藤律」と「謀略朝鮮戦争」の2章には重大な誤りがあったことが現在ではわかっている。しかも、60年安保闘争の年に書かれたこの作品には、時代の空気の影響を多分に受けている。私の見るところ、60年安保闘争にを支えたのは、民主主義の擁護、反米、ナショナリズムという3つの精神だった。このうち「民主主義の擁護」だけは戦争中にはなかったものだけれども、反米とナショナリズムは戦争中と連続していたものではなかったか。そう思うのだ。

 すると、そこにはおのずと限界が見えてくる。清張が『日本の黒い霧』で描いたのは、主に「オキュパイドジャパン」の時代にGHQが押した横車だが、現在を米軍による占領時代と同じ構図で日米関係を捉えていて良いのかという問題がある。実際、2015年に琉球新報が報じたところによれば、1973~74年には既に下記同紙記事が報じたようなことがあった。以下引用する。

ryukyushimpo.jp

 米国家安全保障会議(NSC)が1973~76年に、72年の沖縄復帰を契機とした政治的圧力で在沖米海兵隊を撤退する事態を想定し、海兵遠征軍をテニアンに移転する案を検討していたことが、機密指定を解除された米公文書などで分かった。遠征軍は米本国以外で唯一沖縄に拠点を置く海兵隊の最大編成単位。米海兵隊普天間飛行場などを運用しているが、当時米側はその「本体」である海兵遠征軍ごと沖縄から撤退し、テニアンに移転することを想定していた。文書はテニアンに滑走路や港湾などを備えた複合基地を整備する必要性に触れ、同基地は「返還に向けて沖縄の戦略部隊や活動を移転できる」とした上で、対応可能な部隊として「最大で遠征軍規模の海兵隊」と挙げている。日米両政府が沖縄を海兵隊の駐留拠点にする理由として説明する「地理的優位性」の根拠が一層乏しくなった形だ。

 米軍統合参謀本部史によると、73年に在韓米陸軍と在沖米海兵隊を撤退させる案が米政府で検討され、国務省が支持していた。同文書もテニアンの基地建設に言及しているが、計画は74年に大幅縮小された。理由の一つに「日本政府が沖縄の兵力を維持することを望んだ」と記し、日本側が海兵隊を引き留めたこともあらためて明らかになった。
 文書は野添文彬・沖国大講師が米ミシガン州のフォード大統領図書館で入手した。野添氏は統合参謀本部史でも詳細を確認した。
 フォード図書館所蔵の文書はNSCが73~76年に作成した「ミクロネシア研究」つづりに含まれている。海外の基地は「受け入れ国からの政治的圧力に対して脆弱(ぜいじゃく)だ」と分析し、米領内での基地運用を増やす利点に触れている。
 一方、米軍統合参謀本部史(73~76年)は、ニクソン政権が73年2月の通達に基づき太平洋の兵力を再検討、在沖海兵隊と在韓米陸軍の撤退を含む4案を議論したと記している。国務省は77~78年度にかけ最大の削減案を支持、軍部は最少の削減を主張した。73年8月、大統領は「現状維持」を選んだ。統合参謀本部史は「沖縄返還で当初予想された部隊移転を強いられることにはならなかった」と振り返っている。(島袋良太)

(琉球新報 2015年11月6日 05:05)

  1973~74年といえば、やはり孫崎享が「敢然とアメリカに対峙した『自主独立派』の政治家」と位置づける田中角栄の政権の時代だ。その田中政権の時代に「日本政府が沖縄の兵力を維持することを望んだ」のだった。

 つまり、日本の戦後史においても、米軍占領期には「アメリカの横暴」で単純に解釈できたものが、その後の沖縄返還前後には、アメリカよりもむしろ日本政府の側に「米軍の沖縄駐留を固定化したい」意図が強くなるとともに、時の総理大臣だった佐藤栄作は、それを日本国民に隠そうとした。「沖縄密約」、「糸と縄との交換」などに関わる問題だ。後者(日米繊維交渉)を決着させたのは田中角栄だった。それらを撃たずして「今も連綿として続く対米従属の構造」などと視点を固定化してしまっては何の意味もない。そのような態度では「松本清張を現在に活かす」ことになどならないと私は考える。

 さらに、清張ノンフィクションの最高峰である『昭和史発掘』の終わりの4割ほどを占める「2.26事件」論で詳細に紹介されている青年将校のような思想が、現在再び、こともあろうに「リベラル・左派」の人たちの間で再興しているという恐るべき事態が起きている。それを「ネオ皇道派」と名づけた人がいたが、他ならぬ鳩山由紀夫がこの「ネオ皇道派」の典型のようなツイートを今年初めに発した。

 ここで鳩山由紀夫は「リベラルな天皇陛下」が「君側の奸」安倍晋三の暴走に歯止めをかけられる、などと恐ろしいことを公言している。そんな鳩山の思考は「2.26事件」の青年将校と瓜二つではないか。

 鳩山由紀夫の祖父・一郎についても、所属する政友会が野党だった1930年に国会で「軍縮問題を内閣が云々することは統帥権干犯に当たるのではないか」として時の濱口雄幸内閣を攻撃して濱口狙撃、さらには政党政治崩壊の元凶となり、1933年の滝川事件では文部大臣として京大教授・滝川幸辰(ゆきとき)の罷免を要求し、これが拒絶されると滝川を休職処分にするなどして学問の自由を侵害した。さらに戦後にも日本国憲法「改正」を強く主張して改憲派のはしりとなるなど、総理大臣時代の「リベラル」なイメージからは一転して、右翼政治家としての否定的側面が広く知られるようになった。しかし、それらを本書から読み取ることはできない。

 現在は「松本清張が再び求められている」時代だという高橋敏夫の主張自体には私も賛成だが、現代の読者に求められているのは、『日本の黒い霧』や『深層海流』ではなく、『昭和史発掘』や『神々の乱心』を読み込むことではないか。そのためのガイド役としては、高橋敏夫よりも原武史の方が適役ではないかと思った次第だ。

  高橋敏夫の本書『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』でも『昭和史発掘』や『神々の乱心』はもちろん取り上げられているけれども、高橋本はあくまでも清張作品の総論なので、『神々の乱心』とそれに絡めて『昭和史発掘』を取り上げて独自の視点から大胆に論考を進めていく原武史の本の方が断然おすすめだ。

*1:もちろん、その膨大な史料から問題の核心部を的確に見つけ出す清張の目の確かさは、これまでにもたびたび指摘・称賛されてきた。

大作曲家アントン・ブルックナーは「計数マニア」だったか - 松本清張『数の風景』より

 食わず嫌いを貫いてきた松本清張に突然はまったのは、2013年の晩秋に『Dの複合』を読んだ時だった。これが初めて読んだ清張作品だったが、頁をめくる指が止まらなかった。以後病みつきになり、昨年末までで110タイトルを読んだ。上下本や、文春文庫新装版で全9巻の『昭和史発掘』をそれぞれ1タイトルとする数え方なので、冊数でいえば133冊読んだ。重複を避けるためにある時期からエクセルファイルに記録しているが、それを見て数えた。昨年(2018年)には41タイトル、51冊を読んだが、昨年までは年々清張本を読む冊数が増えていた。

 あちこちの図書館に置いてある文庫本は、古くて活字の小さいものを除いてほぼ読み尽くしたので、今年は清張本を読む機会が激減すると思うが、それでもまだ光文社文庫の「松本清張プレミアム・ミステリー」の未読本が2冊あるなど、少し残っている。また、絶版になっている作品や前述の古くて活字の小さい文庫本もまだ残っているし、中には全集未収録の作品もあったりするが、それらについても光文社さんあたりに期待して、わざわざ全集を漁ったり活字の小さい古い本まで読むのは止めておこうと思っている。小さい文字を読むと目がしょぼしょぼするようになったし、人生にはまだ楽しみを残しておきたいから、大きな字の文庫本でリバイバルされるのを気長に待ちたい。

 以上の前振りで、何冊読んだだのと数の話をしたが、今年読んだ最初の清張本は、そのタイトルも『数の風景』で、数をモチーフにした長篇ミステリーだ。

数の風景: 松本清張プレミアム・ミステリー (光文社文庫)

数の風景: 松本清張プレミアム・ミステリー (光文社文庫)

 

  長篇とはいっても、1986年に『週刊朝日』に連載を始めた時、清張は短篇・中篇の連作にするつもりだと書いたらしい。しかし、老いた清張は手際よく短篇にまとめることができず、話題があっちへ飛びこっちへ飛びしていっこうに終わらせることができず、結果的にいささか散漫な長篇になってしまった。

 その意味では明らかな失敗作なのだが、そのあっちこっちに寄り道して繰り出される話題が結構面白いので、結局読者を飽きさせずに読み進めさせてしまう。老境の巨匠ならではのわがままかつ贅沢な小説作法だよなあ、と感心してしまった。

 この作品は、終わり近くに犯罪を暴く場面だけは鮮やかに決まっている。清張はラストを最初に思いついたに違いない。タイトルになった「数の風景」とはまさにその場面を表す言葉だからだ。

 タイトルに相応しく、作中に「計算狂」(ニュメロマニア, numeromania)の女性が出てくる。現在では差別用語に当たるから、この記事では「計数マニア」と表記する。「計算」とせず「計数」としたのは、面倒な数学の計算どころか掛け算や割り算や引き算をするわけでもなく、単に数を数える強迫神経症を指しているからだ。

 実は、最初に触れた『Dの複合』(1965〜68)にも、坂口まみ子という「計算狂」が登場する。だから、5年ぶりにおもいがけず再会したかのような懐かしさにとらわれたのだった。『Dの複合』では、話の途中にいきなり現れて強烈な印象を残した坂口まみ子はあっけなく殺されてしまう。読んでいてもったいないなあと思ったのだが、あるいは清張自身にも同じ思いがあったのかもしれない。

 だが、『数の複合』でも最初に現れて読者に強い印象を与える梅井きく女は、やはり姿を消してしまう。と思いきや・・。まあこれ以上は書かないでおく。

 その「計数マニア」の梅井きく女の代わりに、出し抜けに「ニュメロマニア」として言及されるのが、オーストリアの作曲家、アントン・ブルックナーとドイツの「音楽の父」バッハなのだ。フーガやカノンなどのパズル的な手法で書かれた音楽が結構有名なバッハはともかく、クラシック音楽のファンでなければ名前を知らないであろうブルックナーの名前が突然現れたことには度肝を抜かれた。

 しかも、光文社文庫本の309頁には、「未完の変ニ長調交響曲のスケッチから(1869年)」と題して楽譜まで掲載されているのだ。

 私は以前には結構クラシックや20世紀の芸術音楽を聴く習慣があった。現在はほとんど聴かないが、昨年、20世紀ハンガリーの作曲家、バルトーク・ベーラの音楽論集をちくま学芸文庫で読み、その本に出てくる読譜しにくい譜例と格闘したことがあった。この本については、『kojitakenの日記』に書いた政治関係の記事で少し触れたことがある。

d.hatena.ne.jp

 バルトークが書いた本ならともかく、まさか松本清張のミステリーでブルックナーの楽譜と出くわすとは思わなかった。ブルックナーは私の苦手な部類の作曲家で、それでも交響曲第4番「ロマンティック」(亡父がよくこの曲のレコードをかけていた)や第3番は知っているし、ブルックナーが苦手な私でも名曲と認める交響曲第7〜9番はCDも持っている。でも、「未完の変ニ長調交響曲」って何だ? 聴いたことはないが知識としては知っているブルックナーの1番とか2番とか、あるいは0番とか00番ともまた違うらしい。「1869年」という作曲年をヒントにネット検索をかけてみると、Wikipediaに言及されていた。

ja.wikipedia.org

 このWikipediaには、

1869年に着手したものの完成されなかった交響曲変ロ長調の存在が確認されている。スケッチの断片のみ残されており、

と書かれており、楽譜と音源が紹介されたサイトへのリンクが張られている。

www.abruckner.com

 確かに、『数の風景』に載っているのと同じ楽譜が上記サイトにも載っているし、実際にオーケストラが演奏した音楽を聴くこともできる。だが、のちの番号つきのブルックナー交響曲とは全然違う作風だ。こんなのを聴いたことがある人など、よほどのブルックナーマニアくらいのものだろう。なお、光文社文庫版の『数の風景』に「変ニ長調交響曲」とあるのは「変ロ長調交響曲」の誤記と思われる。載っている楽譜もフラット2個だから間違いなく変ロ長調だ。

 なぜこんなスケッチの譜例が『数の風景』に載っているかというと、それは楽譜の1小節ごとにブルックナーが「1, 2, 3, …」の数字を書き込んでいるからだ。数字は「8」の次が「9」ではなく「1」に戻っており、8小節単位の楽節であることが示されている。

 この「数字つきの譜例」を示しつつ、清張はブルックナーの研究書から結構長い引用をしている。長いので引用文の途中から以下に孫引きする。

《(前略)一八六七年の初めの方の数ケ月、ブルックナーは神経質な不安と重いうつの状態にあった。(略)

 この時期の彼のヴァインヴルムその他の人々に宛てた手紙が彼の精神状態を明らかにする。彼は今にも気が狂うのではないかと語り、自殺をほのめかし、自分を完全に友人に見捨てられた人間とみなしている。

 この時期、彼は数きちがい(ニュメロマニア)の兆候も見せている。木の葉でも星でも砂粒でも、何でも、そして何もかも、数えなければ気がおさまらなかった。そういう気持ちは後には、彼の楽譜の中の、小節と楽節に執拗に番号をうつ傾向に現れている》(H・シェンツェラー『ブルックナー』山田祥一訳)

松本清張『数の風景』(光文社文庫,2018)308-309頁より孫引き)

 おそらく清張は、シェンツェラー(この人の名前も私は知らなかった)の『ブルックナー』に載っていた譜例を孫引きしたものだろうが、なんとも驚くべき凝りっぷりだ。調べ始めたらとことん調べるという清張の性癖は、おそらく『昭和史発掘』あたりから本格化したと思われるが、それをエンタメ作品であるミステリーでまで展開するのだから恐れ入る。そして私を含む清張マニアは、清張のそんなところまで堪能するのだ。

ブルックナー―生涯/作品/伝説 (1983年)

ブルックナー―生涯/作品/伝説 (1983年)

 

  ところで、清張作品にブルックナーの楽譜が登場したのに驚いた私は、それに言及した人がいないかとネット検索をかけたら、やはりおられた。アマチュアオーケストラに所属するベテランのフルーティストの方が書かれた下記の文章は非常に興味深かった。

www.shinkyo.com

 以下引用する。

 

ブルックナーと数にまつわる話

松下 俊行(フルート)

◆清張のブルックナー観=数える話=
 予想もしない処で知人にばったり出遭う・・・・かつて松本清張推理小説『数の風景』を読み進むうち、突然ブルックナーに関する記述に出くわした時に、これと同じ感慨を抱いた事があった。既に四半世紀も前の事ながら、その時の驚きと唐突感は今もよく覚えている。この小説自体はあまり出来の良い中身ではないが作中、目に入る事物の数・・・・例えば行く道端の電柱の数や階段の段数、駐車場の車の数など)を数えないでいられない「ニュメロマニア(計算狂)」と思しき女が出て来る。これは神経症の一種らしいが、この女の性向が後の展開の軸になって関わってゆくとあって、まぁそれはそれで興味も湧く。ただそのニュメロマニアの同類としてブルックナーの名が突如現れるのには驚いた。作家はここでH.シェンツェラー(Hans Hubert Schonzeler)著の『ブルックナー・生涯/作品/伝説(山田祥一訳)』にある記述の概要と、未完に終わった交響曲のスケッチを転載する。8小節単位で作曲家自身が書き込んだ数字(1~8までの繰返し)があり、それがこの作曲家の数に対する強迫神経症の証拠であるという。単にフレーズを示しているとしか思えぬが。
 音楽作品と数字という点では大バッハが有名で、各作品の数値的な美学はもとより、A=1、B=2という具合にアルファベットをそれぞれ数に当てはめ、作品から読み取れる数を具体的な文字に変換して、そこに現れる言葉によって作品に隠されたメッセージを見出すというこじつけまがいの「研究」さえ古くから行われている。清張は当然にこの例にも触れているが、大バッハの例に比較するとブルックナーはこの内容に於いて見劣りも甚だしい。僕は厖大な『昭和史発掘』を含め清張の主だった作品は大抵読んでいるが、作中に譜面を伴ったものはこれしか知らない。しかも別にストーリーの展開とは殆ど無関係なのに、これほどにこだわる理由もよく解らない。


 新響が初めて飯守泰次郎氏を招き、ブルックナー交響曲第4番『ロマンティック』を演奏したのが1993年4月(第139回演奏会)。それまでブルックナー交響曲は1975年に同じ第4番を、1981年に第7番を演奏しただけだった(指揮は共に山岡重信氏)ので、ブルックナーの人となりと作品をテーマとして、この作曲家に関する著作があり、東京藝術大学で教鞭をとられていた土田英三郎氏を招き、練習の初期段階でレクチャーをお願いした事があった。『ロマンティック』に関する詳細な分析に基づく講義の余談として、ブルックナーが果たして計算狂であったか否か?に触れられた。氏は「松本清張の小説にそんな話もありますが・・・・」と今考えれば『数の風景』を例示しておいでだった訳だが、しかしご自身の考えとしては明確に否定されていた。ただ小説を執筆途上だったと思われるある時、作家本人から電話があって、この説に関して相当に食い下がられたという事実を苦笑交じりに語られていた。これが妙に記憶に残っている。作家松本清張の執着心と取材力を思うべきだろう。
 だが自分の乏しい読書体験から照らしても、博覧強記にしてあらゆるテーマを網羅して作品を世に送り出した作家も、こと音楽の分野に関してはあまり見るべきものが無いように感じる。有名な『砂の器』も現代音楽の作曲家を主人公としながら、内容は難解・冗漫になって効果は上がらない。むしろ先日亡くなった橋本忍の脚本による映画(1974年・監督は野村芳太郎)で改めてテーマが絞られ、扱われる音楽を含めて解りやすくなって、ようやく日の目をみた感がある。音楽を題材にした作品で個人的な好みは、『魔笛』の台本作者にして興行師のシカネーダーをテーマとした『モーツァルトの伯楽』(『草の径』所収)くらい。計算狂のテーマなら黒川博行の『カウント・プラン』の方がよほど面白い(完全な脱線)。


 シェンツェラーが、ブルックナーの自筆譜の各小節に悉く数字が書き入れてある事を根拠に、作曲家がニュメロマニアであったと断定し、松本清張がその説を無批判に受容れ、『数の風景』中に譜例まで引用しているのは、ちょっとお粗末に過ぎるように感じる。小節ごとに数字を書き込む事などは普通に行われているからだ。例えばショスタコーヴィチの作品のように同じ音型が数十小節も続くような場合、作曲者自身でさえ回数を数える便宜として繰返しの小節数を書き込む事はある。そうした譜面は珍しくないし、そうした回数が無ければ奏者が適宜書き込んでいる。
 そもそも音楽作品の創造やそれを演奏する事は、数字や「数える」行為と決して無縁ではあり得ない。例えば我々は作品を演奏するに当たって、速度(テンポ)の決定要因である拍を数え(その拍を更にいくつにも細分化して数えさえする)、その集積の単位となる小節数を数える。これは音を出していない休みの間も継続するし、むしろその間の方が数える事の重要度は高まる。またこれとは別に、音の高さを振動数という数値で認識し、異なる複数の音の振動数比が単純であるほど、そこに純粋なハーモニーが現出する事を意識している(この関係を最初に見出したのは数学者のピタゴラス)。もしオーケストラで活動していながら、数値や数える行為に全く無関心の人がいるとしたら極めて不可思議な存在だし、現実問題として自力で演奏する事は不可能だろう。むしろこちらの方が立派な「病気」に思える。


 因みに今回この稿を起こすに当たり、ネット上で『数の風景』とブルックナー関連の記述を検索してみたが、僕のような屈折した(笑)見解は全く見当たらなかった。それどころか殆ど反応らしい反応が無い。驚くほどである。これは詰まる処『数の風景』の読者にはブルックナーという作曲家は遠い存在であり、またブルックナー(に限らず音楽全般の)愛好者は、あまり松本清張を読まない・・・・という状況を意味するのかもしれない。この作品を通じた両者の接点は感じられず。


 芸術家という人種はどこか世間の常識良識とはかけ離れた側面を持っているし、また社会もそうした性格を密かに期待していたりする。そして当人もそうした社会の空気を逆手にとって、徒に奇矯であろうと目論んだりするから始末に悪い場合がある。そうした中にあって、ブルックナーという作曲家の人となりはやや特殊と言えるかもしれない。伝記作家にとっても、あの長大で晦渋な作品に比して、創作者の平穏に過ぎた生涯を見渡して、何かしらの接点を見出さずには済まされない。シェンツェラーの説は、ブルックナーの起伏に乏しい生涯(他の作曲家らとの比較の問題だが)に対し、「ニュメロマニア」という特異な兆候を微かに見出し、それとばかりに小躍りして針小棒大に喧伝しているとの印象を拭えない。
 だが清張作品を信奉する一方で作曲家と無縁の衆生は、読み進んでも一向に屍体が登場しないこの推理小説によって「ブルックナーなる作曲家はニュメロマニアである」と刷込まれ、信じ続けるのであろう。何かぞっとせぬ光景ではある。(後略)

(新交響楽団のサイトより)

 

 この新交響楽団というのは、アマチュアオーケストラとはいえ、プロはだしの演奏を聴かせるところらしい。そのオーケストラに所属するベテラン奏者のこの方は、清張最晩年の短編集『草の径』に収録された「モーツァルトの伯楽」までお読みなのだから、私などの及びもつかない読書家かと思われる。

 だが、「ブルックナー=ニュメロマニア」説は(シェンツェラーの伝記を広めた)松本清張に刷り込まれた俗説だ、と言ってしまって良いかはかなり疑問だ。

 確かに、ブルックナーが未完の交響曲のスケッチに書き込んだ1から8までの数字は、単に楽節を示しているだけではないか、とは私も思った。だからあの誰も知らない未完の交響曲の譜例だけではブルックナーがニュメロマニアである証拠とするには弱い。それにも同意する。

 しかし、検索語を日本語でなく英語で "numeromania Bruckner" で検索をかけてみると、ブルックナーがニュメロマニアである、と書かれた英語のサイトが多数存在する。それどころか、"numeromania music" で検索しても、ブルックナーの名前が頻出する。これには少々驚いた。中には、ニュメロマニアどころかもっと深刻な神経症ブルックナーが苦しんでいたことを指し示すような文章もかなりみつかる。ここでは引用はしないけれども。一方、日本語のサイトにはきわめて少なく、あっても大抵は清張の『数の風景』が引用されている。だから、シェンツェラーを引用して清張の示した証拠では確かに不十分だけれども、ブルックナーがニュメロマニアであった可能性はやはり高いのではないか。そう私には思われる。むしろ、日本では芸術家の神経症といった議論が必要以上に敬遠される傾向があるのではないかとさえ思えるのだ。

 それから、清張が音楽を題材とした作品には、現代音楽を題材とした『砂の器』を含めて見るべきものはないとする主張に対しては、それは芸術音楽については確かにその通りだと私も思うけれども(『砂の器』のトリックは、推理小説としては反則ものだと思っている)、以前にもこのブログで取り上げた1950年代の流行歌「上海帰りのリル」をモチーフにした「捜査圏外の条件」は文句なしの名作だと思う。

kj-books-and-music.hatenablog.com

 ただ、そういった反論とは別にしてもっとも興味深かったのは、『数の風景』を書いている時に、シェンツェラーの「ブルックナー=ニュメロマニア説」にのめり込んだ清張が、指揮者の飯守泰次郎氏に電話でこの件について質問し、「ブルックナー=ニュメロマニア説」を採りたがらない飯守氏に執拗に食い下がったというエピソードだ。

 いかにも清張らしいと思えたが、この飯守泰次郎氏の父が右派的な裁判官として知られた飯守重任(いいもり・しげとう、1906-1980)で、その兄、つまり康次郎氏の伯父が、あの砂川事件の跳躍上告審で「統治行為論」を打ち出した最高裁長官の田中耕太郎(1890-1974)なのだ。

 しかも、この田中耕太郎は間接的に松本清張ともつながりがある。清張には、1959年に東京で起きたスチュワーデス殺人事件を題材にした『黒い福音』という小説があるが、現実のスチュワーデス殺人事件で容疑が濃厚とされた神父が日本国外に逃亡した件に田中耕太郎が関わった可能性があるというのだ。それを取り上げたのが、橘かがりの『扼殺 - 善福寺川スチュワーデス殺人事件』(祥伝社文庫,2018)だ。

 

扼殺~善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇 (祥伝社文庫)

扼殺~善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇 (祥伝社文庫)

 
黒い福音 (新潮文庫)

黒い福音 (新潮文庫)

 

  ちなみに、橘さんとは一時期ネットで交流があった(最近はご無沙汰している)。今でも『きまぐれな日々』には橘さんのブログ『青でもなく 緑でもなく』にリンクが張ってある。

kagari-tachibana.seesaa.net

 私の読書記録を見ると『黒い福音』は昨年2月に、『扼殺』は昨年8月に読んでいる。『扼殺』を読んだあと、下記の書評に接したことを思い出した。

rekishijidaisakkaclub.hatenablog.com

 以下引用する。

書評『扼殺 善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇』

書名『扼殺 善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇』
著者 橘かがり
発売 祥伝社
発行年月日  2018年1月20日
定価  ¥680E

 

 昭和34年(1959)3月10日、東京杉並区の善福寺川宮下橋の近くで、BOAC 勤務スチュワーデス武川知子さん(27歳)が水死体で発見された。当初は自殺とみられていたが、司法解剖の結果、扼殺の跡があり、他殺と断定。被害者の交友関係から、ベルギー人のベルメルシュ・ルイズ神父(38歳)が捜査線上に浮かんだ。
 6月11日、重要参考人と云うよりも、ほぼ容疑者として事情聴取を受けていた神父は正規の出国手続を経て羽田発エールフランス機で本国に平然と帰国してしまう。結局、迷宮入りとなったこの事件は戦後日本の国際的地位の低さを明示する何とも後味の悪い事件として記憶に残ることとなる。
 皇太子(現天皇)の御成婚のちょうど一カ月前に起きたこの事件は、被害者が女性の憧れの職業、国際線スチュワーデスでしかも美人、重要参考人が禁欲的な生活を強いる戒律の厳しいカトリックの外国人神父、ということで世間の耳目を集めた。

 松本清張は事件から7ヶ月後、この事件をモデルにした小説『黒い福音』を『週刊コウロン』の昭和34年11月3日の創刊号より連載を開始している。『黒い福音』は犯罪編と推理編の二部構成、「倒叙推理小説」と呼ばれる形式によるものであった。
 聖職者たる外国人神父が、不犯の戒律を破って、一人の日本人女性と恋に落ち情を通じる。彼をとりまく教会関係者と裏で暗躍する巨大犯罪組織の下で、この神父はスチュワーデスの女性を東京羽田・香港間の麻薬の運び屋として使おうとし、知りすぎた女が抹殺されるというストーリーで、ドロドロとした情痴のもつれからの殺人ではないとした。
 教会は絶好の隠れ蓑であり、神父に捜査の手が及ばぬよう、早く出国できるようにと、働きかけた人がいると、目されたが、清張はその人物を小説の中で、「日本の行政的な上層部の地位にある有力者」「日本の高官夫人」とのみ表記している。事件の顛末に強い疑問と怒りをいだき真相究明に意欲をもった清張にとっては、裏に潜む闇の人物の存在、宗教団体を取り巻く巨大な闇組織と教会とのつながり等、どれも確信に近いものだった。「社会派推理小説創始者」を冠せられる松本清張の憤怒が傑作『黒い福音』を生み出したといえるが、外国人神父が日本警察の刑事たちの必死の努力をあざ笑うかのように逃げた事実のみが厳然として残り、小説を読み終わっても釈然としないという読後感が残ったこともまた否めない。「事実は小説よりも奇なり」であった。

 橘かがりによる本書は、副題に「善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇」とあるように、「ドキュメント・タッチの小説」の体裁をとっていることに最大の趣向があろう。水死体は昭和34年(1959)3月10日の午前7時40分頃、東京杉並区の善福寺川宮下橋の近くで発見されたが、あくまでも「小説的想像」の体裁をとった清張の小説『黒い福音』は事件現場を「善福寺川」とは表記せず、「玄伯寺川」とぼかしている。
 本書では、主人公たる被害者本人の松山苑子〔武川知子〕以外に、未解決事件のスチュワーデス殺しについてのノンフィクションを書こうとするフリーのライターの「松尾慶介」、S会〔サレジオ会〕の教会に集う信者の一人で、殺された苑子という女にそっくりな「古賀悦子」など数人の登場人物の視点から、「事件」に関わるそれぞれのエピソードが語られる。しかも、事件発生当時であるばかりでなく、登場人物によっては、事件後相当歳月を経た時点での当時の世相や社会現象を巧に配し、その中に、スチュワーデス殺人事件の重要な鍵が浮かび上がってくるという周到な構図をとっている。ことに、未解決のあの事件の記憶を持っている団塊以上の世代は、その仕掛けに言うに言えない“懐郷”を味わうことであろう。
 登場人物の中で、キー・ポインターというべきは、熱心なカトリック信者の「百合子」である。百合子の「夫の畠中博太郎は裁判官、有名な法学者で元文部大臣、最高裁長官」であり、「意図的ではないにしろ、夫妻は神父が本国へ帰国するために一役買った」とある。清張が「日本の行政的な上層部の地位にある有力者」「日本の高官夫人」に止めたに対して、本書の作家は闇を突き抜けるべく迷わず踏み込んでいるのである。練達の読者は「畠中博太郎」こそは実在の人物・田中耕太郎(1890~1974)に相当するものと知るだろう。
 晩年の「百合子」に、また、作家は「人知れず罪の意識をもって、あれで本当に良かったの」と回想させている。

 事件から半世紀以上が経つ。この間、日本社会も大きく変わった。昭和30年代まではすでに歴史小説の叙述の対象に入っているとみて、可笑しくはないであろうが、最高裁判事を祖父に持つ作家にしてはじめて踏み込みが可能であったと言えるだろう。
「事件がこのまま人々の記憶から消えてしまうのはやりきれない。事件のことをもう一度書いてみよう。畠中裁判官のことを絡めて書けば、奥行きのあるルポルタージュになるのではないか。何よりも被害者の無念を少しでも晴らしたい」という「慶介」の想いは作家の想いでもある。かくして「畠中夫妻」を核としたこの緻密にして壮大な“歴史時代小説”が生まれることになった。

 作家はなお、こうも描く。
苑子の遺族が事件の真相を知りたいと、真相究明に執念を燃やしたなら、事態はまた少し変わり何らかの展開があったのかも」と。
 被害者像はまた、作家独特のものである。「苑子は嵐のような恋に身をまかし、性愛に溺れた。苑子は情の深い女、大胆で一途で時には無謀で。自らの恋心に殉じるように死んでいった」と。女流作家ならではの人物造形であるともいえる。
「ペータース神父」〔ベルメルシュ・ルイズ神父〕の「その後」が記されている。
 2009年時点でカナダのとある田舎町で地元の名士として存命中であり、神父を続けているという。が、ついに死者への哀悼のことばはなかったと聞くと、読者として怒りがふつふつと滾ってくるのを抑えがたい。
 かくして、本作を通じ、激動の昭和を精一杯駆け抜けた人々がよみがえってくるのだが、闇が晴れないという一点から清張作品に感じたと同様の釈然としないものを感じるのも現実である。

 橘(たちばな)かがりは東京都杉並区生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学科卒業。 2003年「月のない晩に」で小説現代新人賞受賞。「昭和史ノンフィクション・ノベル」を得意とし、自伝的小説『判事の家』や『焦土の恋 “GHQの女”と呼ばれた子爵夫人』の作品があったが、これに加えるに今回発表された本書があり、昭和という時代も歴史小説たりうることを如実に示している。作家には戦後史の闇を歴史小説の手法で書き尽くすべく、幅広い活動をこい願う次第である。
          (平成30年6月20日  雨宮由希夫  記)

 

 なんと橘かがりさんの祖父は、清張が『日本の黒い霧』でも取り上げた「松川事件」の最高裁での裁判で被告を有罪とする意見を出したが退けられた最高裁判事・下飯坂潤夫(1894-1971)だった。清張とは対立する立場の意見だ。戦後史の霧はまだまだ晴れない。そうこうしているうちに、上記の引用文には「存命中」とあるが、2016年だか17年だかまでカナダで生きていたらしいベルメルシュ・ルイズ神父は事件の真相をついに語らないまま、秘密を墓場まで持って行ってしまった。昨年夏にネット検索をかけた時には、神父の死亡を伝えたサイトがみつかったが、今回は発見できなかった。

 いつの間にか『数の風景』からずいぶん離れてしまった。清張の小説もあちこちに寄り道して長くなったが、最後は本論に戻った。だが私のこのブログ記事は、本論には戻らずここで終わりにする。