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KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

宇野重規『保守主義とは何か』(中公新書)のメモ

d.hatena.ne.jp

 以下、上記ブログ記事から引用。

 宇野重規保守主義とは何か』の見解によれば、近代日本の「保守主義」の本流を巡っては、伊藤博文大久保利通、大久保の実子である牧野伸顕、戦後においては、牧野の娘婿である吉田茂、さらには宏池会という系譜を描く。それに対立する異端として、岸信介鳩山一郎といった旧民主党系があり、その系譜を現在において継承するのは(安倍晋三も属する)清和会であって、経世会というか田中角栄竹下登系譜はこの2つの中間に立っていた。ところで、孫崎享の謎も解けた感じがする。要するに、旧自由党系を叩いて旧民主党系をよいしょしていたわけだ

  引用されている宇野重規保守主義とは何か』(中公新書)は私も昨年(2016年)読んだ。

  以下、上掲書から関連箇所をメモ。

(前略)若き日の津田梅子に「アメリカを知る最良の書」としてアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を薦めたというエピソードからも推し量れるように、伊藤の欧米理解はけっして蔑(あなど)れないものであった)。

 また後年、伊藤は好んでバークの「代議士は国民全体の利益の奉仕者」という言葉に言及したという。議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない。元老の筆頭でありながら自ら政党の創設に乗り出し、立憲政友会の初代総裁になった伊藤は、間違いなくバークの思想のよき理解者であった。

宇野重規保守主義とは何か』(中公新書,2016) 172頁)

 「議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない」という伊藤博文の思想に真っ向から反しているのが、森友学園加計学園の例に見られるように、自らの「お友達」に利益供与すべく口利きに奔走する安倍晋三・昭恵夫妻といえるかもしれない。

 伊藤博文への積極的評価で私がすぐに思い出すのは、憲法学者樋口陽一立憲主義の観点から伊藤を高く評価していたことだ。伊藤に対する著者の総評は下記。

(前略)伊藤は近代日本における一つの正統的な政治体制を確立し、そこに明確な制度的基盤と、精神的機軸を与えようと努力したといえるだろう。伊藤がつくり出した明治憲法体制のその後の評価は措くとしても、明治憲法体制を前提に、その漸進的な発展を目指したという点では、伊藤は近代日本における「保守主義」を担ったといえる。(前掲書174-175頁)

  次に牧野伸顕に対する著者の総評。牧野は戦前の日本において、日本軍のテロリストたちによって暗殺のターゲットにされ続けたこともあって、昭和史を扱った本にはうんざりするほどその名前が出てくるが、牧野伸顕大久保利通次男だったことはすっかり失念していた。

(前略)大久保利通次男である牧野は、父大久保とともに伊藤を高く評価し、英国流の立憲政治を目指すと同時に、外交的にも親英米主義を志向した。このような牧野の政治的価値観は、ある意味で、女婿である吉田茂を通じて戦後保守主義につながることになる。彼らは民主化に対して慎重な態度をとり続けたものの、高まる民衆の声に対して、漸進的な体制の改革を目指したという点で、まさに保守主義の正統であった。(前掲書177-178頁)

  さらに吉田茂に対する著者の総評。

 (前略)吉田は一定の現実的判断に基づき、戦後日本の課題を軍事力の拡大にではなく、経済的発展に見出した。国家の役割を限定的に捉え、むしろ自由な経済活動を重視するという意味で、より自由主義的な路線であった。また、どこまで価値的なコミットメントがあったかはともかく、自らがつくり出した戦後体制というあり方を基本的前提としているという点で、より漸進主義的な改革主義の立場をとったといえるだろう。(前掲書183-184頁)

  やっと鳩山一郎岸信介にたどり着いた。下記は上記吉田茂に関する引用文のすぐ後に続く鳩山と岸、特に岸への著者の言及。なお引用に際して漢数字をアラビア数字に書き換えた。

 これに対し、鳩山一郎 (1883-1959) 、岸信介 (1896-1987) らの日本民主党は、吉田の自由党とはかなり異質な要素をもっていた。とくに注目すべきは、やはり岸であろう。戦前、商工省の革新官僚として活躍し、また満州経営で辣腕をふるった岸は、国家主導の統制経済や計画経済を導入しようとしたという点で、明らかに異なる政治経済秩序のイメージを抱いていた。また、1960年の安保改定では、アメリカに対する日本の対等な関係を目指したことに示されるように、岸はより明確なナショナリズムへの志向をもっていた。そのような岸にとって、日本国憲法やそれに基づく戦後体制は「押しつけられた」ものであり、岸は戦後的価値に対する、より急進的な挑戦者の立場をとったといえるだろう。(前掲書184頁

 岸が「1960年の安保改定では、アメリカに対する日本の対等な関係を目指したこと」を天まで届けんばかりに持ち上げたのが、あの世紀の愚書『戦後史の正体』を書いた孫崎享であったことは言うまでもない。私は2012年に、確か「風太」と名乗った「小沢信者」の挑発に乗ってではなかったかと記憶するが、金を払ってこの愚書を買い、具体的に引用しながらこき下ろしたことがあった。その中でも繰り返し批判したことは、孫崎がこの愚書において日本国憲法をわずか4頁の「押しつけ憲法論」で軽く片付けていたことだった。あんな本を読んで「目から鱗が落ちた」と感激していた「小沢信者」たちはなんと愚かなことかと私は当時から馬鹿にしていたが、既にその後の5年間の歴史が彼らに審判を下している。だが、彼らが手を貸した安倍晋三独裁政権誕生(復活というべきか)によって今の日本が戦後最大に危機に瀕していることを決して忘れてはならない。

 その教祖を含む田中角栄竹下登らは、上記岸信介の論評の直後に書かれた保守合同に絡めて言及されている。但し、小沢一郎の名前は出てこない(笑)*1。以下引用する。

 保守合同は、このような異質な両者の間の緊張を封印するものであった。より自由主義的で漸進主義的な吉田の立場が池田勇人宏池会によって受け継がれたとすれば、より国家主義的で急進主義的な岸の路線は福田赳夫の清和会などによって継承された。その意味でいえば、田中角栄からさらに竹下登経世会へとつながる路線は、その両者の間に立つことによって、ある時期以降の自民党政治における主導権を確立したといえるかもしれない。

 いずれにせよ、自民党内における本質的な価値観の対立は、派閥対立へと「矮小化」されることによって、潜在的なマグマとして抑え込まれた。そしてこの「封印」こそが、すべてを曖昧に包括する政党としての自民党が長く一党優位を確立する一因となったのである。(前掲書184-185頁)

 言うまでもないが、引用文の最後の段落は1955年から1993年までのいわゆる「55年体制」には当てはまるが、「政治改革」以降、すなわち1993年の政権交代から2012年の第2次安倍内閣発足直前までの19年間と、第2次安倍内閣発足とともに始まって現在も続く「崩壊の時代」には当てはまらない。現在は岸・鳩山のかつての「保守傍流」がかつての「保守本流」を完全に征圧してしまった。1993年から2012年までの19年間に及んだ過渡期の最後において、「保守本流」が生み出した「鬼っ子」ともいうべき小沢一郎一派と、2012年夏までは自民党内で不遇を託っていた安倍晋三とをくっつけようとしたのが孫崎享だったと私は位置づけている。その意味で、未だに「リベラル」人士が孫崎のTwitterなんかを嬉しそうにリツイートしているのを見る度に、私は苦々しさが込み上げてくるのを禁じ得ない。孫崎なんかをリツイートしてるからダメなんだよ、と言いたくなる。

 

*1:実際には、小沢一郎は側近の官僚に代筆させた著書『日本改造計画』や自らの政策によって、「保守本流」の政治に対して、むしろ岸信介鳩山一郎に近い立場から挑戦していたのだったが、本書では小沢の存在は完全に無視されている(笑)。

松本清張『昭和史発掘』(3)(4)(文春文庫新装版)を読む

  先月、松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫新装版=2005)の第3,4巻を読んだ。

 

昭和史発掘〈3〉 (文春文庫)[新装版]

昭和史発掘〈3〉 (文春文庫)[新装版]

 
昭和史発掘 (4) [新装版] (文春文庫)

昭和史発掘 (4) [新装版] (文春文庫)

 

 

 実は、連休に入って第5巻以降も読んでいるが(第6巻まで読了)、全9巻からなるこの『昭和史発掘』の第5〜9巻は5冊かけて(単行本や文庫本の初版では第7〜13巻の7冊をかけて)「2.26事件」を扱っている。この後半部になると、清張の筆も俄然乗ってきて、読者としても引き込まれてしまうのだが、全巻を読み終えてから書くことにする。

 

 第3巻は4月7日から18日まで12日間かけて、第4巻は4月19日から26日まで8日間かけて読んだ。第1,2巻を読むのにもそれぞれ10日間かけていて、さすがに昭和史ものともなると推理小説のようには引き込まれての一気読みはできないなあと思っていたが、「2.26事件」に入って、一転して清張の推理小説並みに引き込まれて読んでいる(第5巻は3日、500頁以上ある第6巻は2日で読んだ。もっとも黄金週間中にまとまった時間がとれたためではある)。

 

 第3巻と第4巻の内容は下記の通り。

 第3,4巻を読んでいて思い出したのは4年前に読んだ立花隆の『天皇と東大』だった。特に第4巻の「京都大学の墓碑銘」(「滝川事件」を扱っている)と「天皇機関説」にその感が強かったので、押し入れにあった『天皇と東大』を引っ張り出してみると、たとえば第II巻「激突する右翼と左翼」収録の第35章「日本中を右傾させた五・一五事件と神兵隊事件」に「五・一五事件」が、第III巻「特攻と玉砕」収録の第36〜38章に「滝川事件」が、同第40,41章に「天皇機関説」がそれぞれ取り上げられていた。しかし、第II巻第27章に「河上肇とスパイM」という一章が設けられ、「スパイM(松村)」こと飯塚盈延(いいづか・みつのぶ)について取り上げられていたことはすっかり失念していた。

 

天皇と東大〈3〉特攻と玉砕 (文春文庫)

天皇と東大〈3〉特攻と玉砕 (文春文庫)

 

 

 第3巻でもっとも印象に残ったのは、この「スパイM」こと飯塚盈延を扱った一章だったが、清張の飯塚に関する記述は下記Wikipediaのそれと、出生地に関する情報が異なっている。

飯塚盈延 - Wikipedia

 以下、Wikipediaより引用する。

 

飯塚盈延

 

飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1965年9月4日)は、日本共産党党員で特別高等警察スパイ。「スパイM」とも呼ばれる。変名は松村昇、峰原暁助。愛媛県出身。

略歴

1902年に愛媛県周桑郡小松町に生まれ、1909年尋常小学校に入学。成績が良く天才と呼ばれた。米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、渡辺政之輔が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、若手の労働運動活動家として日本共産党(第二次)の派遣により、モスクワ東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した(留学中の変名は「フョードロフ」)。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。そして松村(飯塚)はスパイとして党に潜入、非常時共産党時代の共産党で家屋資金局の責任者となり、「赤色ギャング」に代表されるさまざまな権力挑発的方針を指示した。その後熱海事件共産党の代表者達を一斉検挙に追いやった。

松村がスパイであることは、同じクートヴェ帰りであった風間丈吉委員長を始めとする党の幹部から全く感づかれることはなく、一般党員も彼の過激な活動方針にほとんど疑いを抱くことなく従っていた。しかし熱海事件前後の一斉検挙後、取り調べや公判などで松村の名が出てこないことに不審をもった党員たちは、彼が警察のスパイではないかと考えるようになった。

その後の足取りは、満州でしばらく兄と建築業を行っていたが、078回国会懲罰委員会第3号(昭和五十一年十月二十八日)会議録の記録にある紺野与次郎議員の発言によると、「特高首脳部は、スパイ飯塚盈延に大金を与えて姿をくらませ、その後、飯塚は終生、社会からの逃亡者としての生活を行い、待合に隠れ、北海道満州を往復し、終戦後偽名で帰国して以来本籍を隠し、偽名を使い続け、元特高らに消されることを恐れ、一室に閉じこもり、昭和四十年酒におぼれて逃亡者としての悲惨な生涯を終えています。しかし、生地の本籍上の飯塚盈延はいまでも生きていることになっています」となっている。

参考文献

 

 清張が「スパイ"M"の謀略」を『週刊文春』に連載していたのは1966年で、当時飯塚の消息は知られていなかったが、上記Wikipediaによると1965年に死んでいた。また、飯塚の出生地を清張は知らず、新潟県出身ではないかと推測していたが、事実は愛媛県出身だったようだ。

 清張の本は図書館に返してしまって手元にないが、ネット検索にて下記ブログ記事かをみつけた。

blogs.yahoo.co.jp

 以下、上記ブログ記事から引用する。

(前略) 連作『昭和史発掘』中の一篇である「スパイ〝M〟の謀略」が週刊文春に発表されたのは、1966年の4月~8月号であった。
 スパイ〝M〟とは、昭和七年当時の共産党内で活動費の管理や党員間の連絡網を一手に掌握していた松村を名乗る幹部、実は特高警察と通じ合ったスパイのことである。当時、すでに共産党は、昭和三年と四年の治安維持法による党中枢メンバーの一斉検挙により低迷の時期にあったが、それでも残されたシンパ党員によって徐々に再生の様相を見せていた。ところが昭和七年十月六日に起きた党員による銀行ギャング事件は、世間の共産党に対する同情・共感を一挙に反感・離反へと傾けさせ、同時に事件に関わった党員三名の検挙へと繋がり、次いで十月三十日、党全国代表者会議に出席するために熱海の旅館に集合していた地方代表者および都内に潜伏していた幹部連中が一斉に逮捕され、共産主義運動はほぼ壊滅状態となる。 
 これら昭和七年の重大事件のすべてに、松村の巧妙な「謀略」が関わっており、しかもこの事件以降、彼の存在は煙のように消えてしまうのである。

 清張の「スパイ〝M〟の謀略」は、この「松村」なるスパイについて詳細に調査したドキュメントであって、世評高い『昭和史発掘』の中でも異色の生彩を放つ力篇である。その末尾に清張はこう記す。
 【松村の本名が飯塚盈延というのはほとんど疑いないようである。また彼が新潟県中蒲原郡の出身だということも間違いなさそうである。松村の本名と、その履歴を確実に知っているのは毛利特高課長と戸沢検事だろうが、毛利警視はすでに死亡し、その口からは永遠に真相を聞くことはできない。戸沢検事もまた黙して語らぬ。
 私は、この稿を書くに当り、松村の現在の追跡に相当努力してみたが、やはり分らなかった。ある線までゆくと肝心な部分が消えてしまうのである。】[『昭和史発掘・3』(文春文庫新装版・455頁)]

 清張がこの「あとがき」めいた文章を発表したのが1966(昭和四十一)年の八月(執筆は六月頃か)だから、それから実に二十四年後に、いわば「スパイ〝M〟のその後」を小説として──つまり純然たるフィクションとしてということだが──書かれたのが、本篇「『隠り人』日記抄」だということになる。
 この作品は全編「松村」こと「矢部治郎」の日記体で書かれているが、その日記が昭和三十三年から始められていることには、作者の意図がありそうである。何故なら、この年の第七回全国大会で日本共産党は、それまでの党内分派闘争に終止符を打ち、党の団結と統一を宣言して新たな一歩を踏み出したからである。先に引用した【今や彼らは覇者となっている。】とは、そうした状況を踏まえた「隠り人・M」の述懐とされているのに違いない。
 
 清張が平成二年になってこの作品を発表したのは、その後の調査によって「スパイ〝M〟」に関する新しい情報を得たからであろうか、それとも以前に取材した事件に対する作家としての関心が再び沸き起こってきたからであるのか、おそらく後者ではあろうが、筆者にとって一つだけ気になることがある。
 それは、「スパイ〝M〟」の身元調査に関することである。前記の「あとがき」風の文章で清張は、〝M〟の出身が新潟県中蒲原郡だということは間違いなさそうだと述べているが、この「『隠り人』日記抄」では「おれ」の郷里は四国の小さな城下町だとある。旧藩主の邸址には「丸に中陰菱」の家紋が見られたこと、また町を流れる川の水が瀬戸内海に注ぐとある。これは伊予の小松のことではないかと思われるが、「おれ」はその町の小学校高等科を卒業し、家が小さな旧藩の貧乏士族であったためにに中学(旧制)にも進めなかったとあり、「おれ」の履歴についてかなり詳しく述べている。
 
 〝M〟の活動家としての偽名「峰原」 「松村」、また本名である「飯塚」等の名がこの小説でもそのまま使われているのに、その出身地に関してのみこのように変えられているのは、その後清張の独自の調査で、〝M〟の出身地が四国の小さな城下町であったことを突き止めたのであろうか。それについて思い起こされるのは、前記の「あとがき」風の文章の中で清張が、「飯塚盈延」という戸籍名が実在するかどうかを新潟県内の全市町村について調査したが確証が得られなかった、と記していることである。
 そのために、「『隠り人』日記抄」を書くに当たり、フィクションとして「おれ」の出身地を四国にしたのか? この件に関しては、清張がどこかに記しているのを筆者が知らないだけかもしれぬが、興味ある問題ではある。

 

 上記ブログ記事によると、清張最晩年の1990年に発表された「『隠り人』日記抄」には、スパイ"M"の出身地が愛媛県伊予小松であることを示す記述があったようだ。つまり、1990年には飯塚の出身地に関する正確な情報は判明していたようだ。

 この一編から私が感じたのは、松本清張とはとことん「人間」に対して尽きせぬ興味(好奇心)を持っていた人だったんだなあ、ということだ。なぜ「スパイ"M"」はあんなことをやったんだろうか、という好奇心が全編を貫いているように思われる。清張は左翼につきものの「連帯」やなんかにはあまり惹かれるところはなかったのかもしれない。生前から共産党シンパとして知られた清張だが、その点で「普通の左翼」、私の偏見によれば「同調圧力」に屈しやすい人たちとは一線を画して異色を放っているように思われる。そして、人間に対する尽きせぬ興味(好奇心)が迸り出たのが、文庫新装版第5巻以降の「2.26事件」のシリーズであり、だからこそこの連作は、第5巻以降に清張らしさが全開している。この連作を第1巻から読むとへこたれる恐れがあるから、第5巻から読み始めた方から良いかもしれない。

 この続き(第5〜9巻の読書メモ)は全巻を読み終えてから書くつもり。

松本清張『表象詩人』(光文社文庫)を読む

この記事は、下記記事とほぼ同内容です。新ブログのテストを兼ねた記事です。

松本清張『表象詩人』(光文社文庫)を読む - kojitakenの日記(2017年4月16日)

 

 サンデーモーニング(4/16)の冒頭は北朝鮮、次がアメリカのシリア攻撃をめぐって米露は対立してるのか馴れ合っているのかという話で、最後が森友学園事件を追及するはずが身内の右翼議員からの離党届(受理されず除名へ)やら代表代行辞任やらで揺れる民進党の3本。ゴルフ中継の延長で3本ではなく2本だった先週に続いて、森友学園事件の本筋はトピックから漏れた。昨日久々に立ち読みした小学館の極右雑誌『SAPIO』に載っていた右翼人士・小林よしのりの漫画で、安倍昭恵と迫田英典の証人喚問を要求していたのを確認したが、右翼の小林ですら要求する昭恵の証人喚問を未だに自らの言葉として要求しなかったり、前原誠司民進党から出て行けと書きながら代表代行の辞意を表明した細野豪志はスルーしたり、あげくのはてには森友学園事件に関する橋下徹の文章(それは明らかに大阪府の責任を逃れようと全責任を国に押しつけようとする意図で書かれたものだ)を紹介したりする「リベラル」のブログを見るにつけ、劣化してるのは何も政府や右翼たちばかりではなく「リベラル」(その実態は都会保守を含む保守人士たちであることが多い)も同じではないかと思う今日この頃。サンモニの長い長いスポーツコーナー以降は、読みかけの松本清張推理小説に集中してしまい、読み終えたら番組も終わるところだった。だから「風を読む」のコーナーも誰が何を言ったか全然覚えていない。ただ、日頃好まない寺島実郎が、日本は国連が機能しなくなっているからと言ってただアメリカについていくのではなくあくまで国連を通じた解決をアメリカに求めるべきだとの正論を言って、暗に毎日新聞の幹部である科学記者の元村有希子(この記者が番組の方で国連が機能しなくなっていると言って、暗にトランプに盲従する安倍晋三を正当化したのだった)を批判したことが頭に入った。

 小林よしのりですら正面から要求する安倍昭恵の証人喚問を(よく引用する日刊ゲンダイの記事には書かれているのに)自分の言葉としては決して書こうとしない市井の「リベラル」もたいがいだが、保守の寺島実郎安倍晋三への無気力な追随をとがめられる元村有希子もひどいよなあ、と思った。

 ところでサンデーモーニングそっちのけで読み終えた清張の中篇「表彰私人」じゃなかった「表象詩人」は面白かった。有名な作品ではないが、2014年に光文社文庫入りした「松本清張プレミアム・ミステリー」のシリーズ第2期7タイトルの最終巻に当たる。他に「山の骨」が収録されている。

 

 

 「表象詩人」の舞台は昭和初期の小倉。山前讓の解説文によると、清張が18,9歳の頃の経験がもとになっているとのことだから、昭和3~4年(1928~29年。清張は1909年12月生まれ。なお昭和時代の小説の通例で、清張はこの作品で年数を元号表記しているので、この記事でも私としては例外的だが元号表記を用いる)の小倉市(現北九州市小倉)が舞台だ。

 当時清張が務めていた会社(川北電気)の取引先である東洋陶器(現TOTO)の用度課員と親しくなったとのこと。その人が登場人物の久間英太郎のモデルになっている。

 数多い(読んでも読んでも未読の本が山ほどある)清張作品としてはあまり知られていないせいか、ネット検索で参照できるサイトもそれほど多くないが、下記Facebookの寸評が印象に残った(ネタバレ注意ですが)。

www.facebook.com

 以下引用。

 この作品はほとんど知られていません。また、松本氏の代表作に挙げる人も皆無でしょう。常識的に考えるとやはりこの作品が代表作とはいえないでしょう。しかし、私はこの作品に非常に惹かれます。それはこの作品が松本氏唯一の青春小説といえるからです。
 
 松本氏は朝日新聞社に入社する前、印刷所の下働きをしていました。夢のない徒弟制度時代の救いは文学への傾斜です。この時期かなりの書物を読み、左翼系の同人雑誌にかかわったこともあります。このとき松本氏はある女性に心を惹かれますが、自分の将来の境遇の不安さから、大きな発展はありませんでした。
 この小説は松本氏がそんな苦しく切ない時代を過ごした、昭和初期の九州・小倉が舞台となっています。
 
 主人公の三輪は詩作を趣味とする地方鉄道の職員で、松本氏の分身です。仲間の久間や秋島とともに東京から転勤してきた、陶器会社のエリート職員、深田氏の家に集まり文学論を闘わせます。
 しかし、その高邁な文学理論も実は東京からきた深田の妻、明子へいいところを見せたいがための虚勢でした。都会的な雰囲気をまとった標準語を使う明子は、田舎の青年にとっては憧れの的であったのです。久間と秋島は明子の前で激しく議論し、自分を売り込みます。三輪はただ、二人の議論を見守るだけです。
 そしてある夏祭りの夜、明子は死体となって発見されます。事件は未解決に終わり、何十年後、今は東京で暮らす三輪はある思いを持って故郷、小倉を訪ねます。
 
 青春時代の甘酸っぱい香り、そして希望のないやるせなさがこの作品から感じられ、私はこの作品が忘れられません。
もちろんしっかりしたサスペンスになっており、面白さも抜群です。この小説は長い間、全集でしか読めませんでしたが、近年カッパノベルスから復刊されました。ぜひご一読をお薦めします。


 文末に「近年カッパノベルスから復刊されました。」とあるが、上記引用文は2012年に書かれている。その後2014年に同じ光文社から文庫としても刊行されたことは前述の通り。

 また、小説の時代からおよそ四半世紀後の「昭和30年代貴船橋下流右岸の東洋陶器(現TOTO)の風景」を、TOTOのOBたちによると思われるサイトから知ることができる。

http://www.toto-wifi.info/toukou/toukoupg/nandemo.php?search=1456030269


 東洋陶器といえば、小説が書かれた頃の70年代の小学校にあった便器には、"TOTO" と "Toyotoki" の2種類の表記があり、それを見ながら、たぶん前者が新しい便器で後者が古い便器であって、「トト」とは「トヨトキ」の略称なんだろうなと想像していたことが思い出される。下記「TOTOミュージアム」のサイトによると、"Toyotoki" は「1962年から1969年(昭和37年から昭和44年)」の商標で、"TOTO" は「1969年以降(昭和44年以降)」の商標らしい。"Toyotoki" の商標を知っているというと「年がバレる」ことになるのかもしれない。

http://www.toto.co.jp/social/museum/trademark/


 その後、同名のアメリカのロックバンドが現れるなどして(日本の便器メーカー名から命名したというのは俗説らしいが)"TOTO" がすっかり定着したため、ついに社名まで「TOTO」になってしまったことは周知だが、社名変更はもっと昔かと思っていたら10年前の2007年だった。それから、TOTOは今年5月15日に創立100周年を迎えるらしい。同社が今も小倉に本社を持つことも今年で創立100周年を迎えることも今の今まで全く知らなかった。
 
 もう一つ、この小説で懐かしさを覚えたのは、登場人物の秋島明治がマザー・グースの「誰が殺したコック・ロビン(駒鳥の雄) Who killed Cock Robin」のパロディの詩を披露するくだりだ。ああ、それはマザー・グースだな、ヴァン・ダインだっけと思い出しながらも、なにぶん読んだのがもう40年ほど前のことだから、作品名がすぐには出てこなかった。エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の先駆けだったためにより強い印象のある『グリーン家殺人事件』には出てこなかったことは間違いないので、『僧正殺人事件』だったんだろうなと思ってネット検索をかけたらその通りだった、という次第。清張自身が小説のあとの方でヴァン・ダインと(アガサ・)クリスティに言及していたが、『僧正殺人事件』は1929年発表である。クリスティはほとんど読んでいないので『誰が殺したコック・ロビン』をモチーフにした作品が何であるかはわからなかった。マザー・グースに幅を広げると、有名な『そして誰もいなくなった』がある。しかし、「マザー・グース 松本清張」でググっても「表象詩人」への言及のあるサイトは、少なくとも検索結果の上位にはみつからない。清張としては無名の作品である所以だろう。

 ところで、少し前にも「コック・ロビン」でググったら「クック・ロビン」の検索結果が出てきたので、「あれっ、クック・ロビンの方が正しいのか」と思ったことがあったが、そうではなかったことがわかった。
 

クックロビン - Wikipedia

「Cock Robin」が「クックロビン」として一般化したのは、萩尾望都が「Cock Robin」を「Cook Robin」と見誤って「クック・ロビン」とカナ表記し(『別冊少女コミック』1973年6月号掲載の「小鳥の巣」第3話で、主人公のエドガーが「だれが殺した? クック・ロビン……」と歌っているページの欄外に「クック・ロビン(Cook Robin)…駒鳥のオス」と記されている)、それがのちに『パタリロ!』(魔夜峰央著)の「クックロビン音頭」に引用されて広まったためであると、『ふしぎの国の『ポーの一族』』(いとうまさひろ著 新風舎文庫 2007年 ISBN 9784289503544)に指摘されている。

 
 そうだったのか。昔私が読んだ『僧正殺人事件』は、井上勇の翻訳で、創元推理文庫から1959年に出版された版だったはずだ。

 

僧正殺人事件 (創元推理文庫)

僧正殺人事件 (創元推理文庫)

 


 上記アマゾンのサイトには、下記の作品紹介がある。

コック・ロビンを殺したのはたあれ。「わたしだわ」と、雀がいった!マザーグースの童謡につれて、その歌詞のとおりに怪奇残虐をきわめた連続殺人劇が発生する。無邪気な童謡と無気味な殺人という鬼気せまるとり合せ! 名探偵ヴァンスの頭脳は冴えて、一歩ずつ犯人を追いつめる。『グリーン家殺人事件』と比肩される本格派の巨編である。

 
 ちなみに現在では創元推理文庫から同じ作品の日暮雅通による新訳が2010年に出ているが、こちらでも「コック・ロビン」とされているようだ。

 なお、『グリーン家殺人事件』は1959年の延原謙新潮文庫版で読んだが、探偵の「ファイロ・ヴァンス」が「フィロ・ヴァンス」と表記されていた。同じ訳者の固有名詞では、コナン・ドイルのホームズものの短篇第1作「ボヘミアの醜聞」で "Irene Adler" を「アイリーネ・アドラー」と表記しているのが変なのではないかとずっと思っていたが、イギリス英語を日本人の耳で聞くと、意外にも「アイリーネ」と聞こえるらしいとの情報を数年前に知って、この日記に書いたことがある*1。現在も新潮文庫から出ている延原謙訳は、「アイリーン・アドラー」と表記されている。ある時期に表記が変更されたものだろうが、意外と古い表記の方が良かったのかもしれない。こういう例もあるので、意外と「フィロ・ヴァンス」との表記もあり得るのかな、などと勝手に思っている。

 「表象詩人」に戻ると、登場人物の久間英太郎は野口米次郎、秋島明治は北原白秋に傾倒していた。野口米次郎は知らなかったが、イサム・ノグチ父親で、自らも「ヨネ・ノグチ」という筆名を使っていた。作中では「ヨネ・野口」との表記がしばしば現れる。イサム・ノグチの方は香川県の庵治石を使った彫刻で、香川県在住時代におなじみだった。

 また作中で久間のライバルとして火花を散らしていた秋島明治は北原白秋に傾倒していた。北原白秋については少し前に読んだ同じ松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫)第2巻収録の「潤一郎と春夫」に取り上げられていた。

 

昭和史発掘<新装版> 2 (文春文庫)

昭和史発掘<新装版> 2 (文春文庫)

 

 
 「潤一郎と春夫」にも、白秋が1912年に隣家に住む人妻・松下俊子との不倫により姦通罪で告訴されて未決監に拘留されたものの、そこまでして結ばれた松下俊子と1年半後には離婚したことが書かれていたように思うが、「表象詩人」にも、俊子を歌ったと思われる「野晒」が引用されている。「野晒」は下記サイトで参照できる。

http://hakusyu.net/Entry/68/


 前記「誰が殺したコック・ロビン」も1922年に白秋が訳詞を発表していたのだった。「こまどりのお葬式(とむらい)」は下記「青空文庫」で読める。

北原白秋訳 まざあ・ぐうす


 「青空文庫」では、

「だァれがころした、こまどりのおすを」
「そォれはわたしよ」すずめがこういった。

 と始まるが、これは新字新仮名遣いに改められている。「表象詩人」では、

「誰(たアれ)が殺した、駒鳥の雄(をす)を。」
「そオれは私よ。雀がかう云った。」

 となっているといった具合に、句点の有無なども含めて微妙な違いがある。

 こんな具合に興味は尽きないので、ここまで書くのに膨大な時間を要したが、やっと締めくくりに入れる。
 
 私は子どもの頃、自分の生まれる前の知らない時代について想像をめぐらせることが好きだった。「表象詩人」が書かれた1972年頃にポプラ社から発売された(調べてみると1971年発行だった)江戸川乱歩の「少年探偵シリーズ」第37巻「暗黒星」に収録された「二銭銅貨」のリライト版を読んだ時に感じたわくわく感も、今回「表象詩人」を読んで甦ったのだった。

 「二銭銅貨」は1923年に江戸川乱歩が初めて発表した短編小説で、ポプラ社版は探偵役を「若き日の明智小五郎」に書き換えるなどの変更を加えた上で子ども向けにリライトしたものだった。私は当時から既に、このシリーズの「怪人二十面相」もののバカバカしさを馬鹿にしていたものだったが(小林少年がなぜか車を運転するなど、めちゃくちゃな内容だった)、「二銭銅貨」には大いに惹かれたのだった。ホームズものの「踊る人形」を連想させる暗号ものだが、解読に成功したと思った暗号を「ゴジヤウダン(ご冗談)」でひっくり返す鮮やかな手法もさることながら、生まれる前の知らない時代の情景を想像するのが楽しかった。最近は江戸川乱歩が再評価されているようで、「二銭銅貨」を含む文庫本なども本屋で見掛けるので、そのうち未読のオリジナルを読んでみたいものだと時々思うのだったが、この記事を書きながらネット検索をしていて、何も文庫本を買ったり借りたりしなくても、「青空文庫」で読めることに今頃思い当たったのだった。

江戸川乱歩 二銭銅貨